谷合正明の発言 (環境委員会)
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○谷合正明君 よろしくお願いします。是非、早期にお会いしていただきたいというふうに思っております。
さて、私自身にとっての水俣病の関わりですけれども、私が小学二年生ぐらいでしょうかね、七歳か八歳か、一九八〇年か八一年の頃なんですけれども、水俣病を取材していた母が水俣に、水俣も行くんですけれども、行ったんですけれども、そのときに一緒に付いて春休みに一週間ほど現地に行った記憶が、記憶というか思い出があります。何に行ったかというと、水俣実践学校、水俣生活学校というところがあるんですけれども、そういったところに寝泊まりをいたしました。
この水俣実践学校というのは、公害運動支援者の方々ですとか、学者でいうと宇井純先生とか原田正純先生といった方々が医学や法学、歴史学、社会学あるいは世界の公害問題について講義、レクチャーを行っていくと。水俣という地方で起きた問題と矮小化されることなく、国や県あるいは社会全体で考えていくべき公害として水俣病を伝える活動を行っていった、そういう舞台であります。一九七〇年代後半から一九八〇年代にかけて行われた、実践的に取り組まれたものであります。責任追及の運動というよりは、伝えていくということをもう少しやっていたという活動でございます。
春休みには多くの学生も来ておりました。もちろん、何か勉強する場だけじゃなくて、実際、水俣病の患者の方の聞き取りもありましたし、農作業といった共同作業も行っているんです。なぜ農作業やるかというと、頭だけで水俣病を知ろうとしても駄目だと。農民がなぜ農薬を選んだかというと、やはり草取りはきついと、害虫取りはきついということを体で知っていたからだと。それが工業化、産業化へ向かわせ、チッソを支えてきているのだから、農作業の体験なしに水俣病を知ろうとしたらいけないんだというような、そういうことも言われていたんですね。
そういう中で、私の幼心の中に、水俣湾のコンクリート壁には貝殻がしがみついていて、ただ、既に猛毒水銀というのは除去されているんだというお話があったということは何となく記憶があります。私自身の公害問題を考える上で、また水俣病を考える上で、当時の経験というのは貴重な、大切な原点となっております。
そこで、大臣にとって水俣病との最初の関わり、また公害問題への関わりという原点は何なのかということをお知らせ、お伝えいただけないでしょうか。