植田和男の発言 (財務金融委員会)

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○植田参考人 お答えいたします。
 ちょっと長い期間になりますが、まず、一九八五年九月のいわゆるプラザ合意以降、委員おっしゃいましたように、急速な円高の進行が我が国経済に与える影響が懸念されたわけですが、政府が内需拡大に向けた景気対策を一方で講じたこと、それから、日本銀行は、当時、政策金利でありました公定歩合を二・五%と当時としては異例の低水準まで引き下げ、この水準を一九八九年五月まで据え置いたわけでございます。こうした政策運営の下で、日本経済はバブルの生成とその崩壊という大きな振れを経験することになりました。
 その後、一九九〇年代ですが、バブル崩壊に伴い、資産価格が大幅に下落し、成長期待が下方屈折したわけでございます。これに伴いまして、企業は、過剰債務、過剰設備、過剰雇用の調整を余儀なくされ、行動を慎重化させました。九〇年代後半には、企業の慎重な行動が金融システム不安等を受けて更に強まったほか、グローバル化の進展による新興国からの輸入品との競争の激化などもありまして、我が国経済はデフレに陥ることになったと考えています。
 この中で、私ども日本銀行は、九〇年代後半にかけて利下げを行いました。九九年にはいわゆるゼロ金利政策、そして、二〇〇一年には量的金融緩和政策を導入しました。当時、こうした政策で金融機関に大量の流動性を供給したことは、金融システム不安を軽減させ、景気の更なる悪化を回避するという意味で大きな効果があったと考えております。
 ただ、その後も、二〇〇〇年代後半のグローバル金融危機や東日本大震災など厳しい環境に直面する下で、十分に経済、物価を刺激することができなかったわけでございます。
 こうした下、二〇一三年以降は、大規模な金融緩和や財政刺激策に加え、為替円高の反転といった環境の変化などから需要不足が徐々に解消に向かい、デフレではない状況が実現していったわけです。
 ただし、賃金、物価が上がりにくいことを前提とした慣行や考え方の転換に時間を要したことなどから、二〇一〇年代の物価上昇率は、私どもの目標二%を下回る状況が続きました。
 二〇二〇年代に入ってからは、人手不足感の強まりや輸入物価の大幅上昇、政府による施策もありまして、企業の賃金、価格設定行動にも積極的な動きが見られるようになり、賃金、物価が上がりにくいことを前提とした慣行や考え方も変化してきております。
 こうした中で、私ども、昨年三月に大規模な金融緩和の枠組みを見直し、その後、経済、物価動向を点検しながら、昨年七月、今年の一月と、政策金利を引き上げたところでございます。

発言情報

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発言者: 植田和男

speaker_id: 4023

日付: 2025-03-26

院: 衆議院

会議名: 財務金融委員会