田中熙巳の発言 (予算委員会公聴会)
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○田中公述人 御紹介いただきました、日本原水爆被害者団体協議会の代表委員をしておる田中熙巳でございます。
日本被団協の代表委員は、実は三人おります。一人は最初に原爆が投下された広島、それから二発目が投下された長崎、この会から一人ずつ代表委員が出ておりまして、そのほかに、中央で議員さんとか政府とかと折衝をしなくてはいけないことがたくさんありますので、中央に一人の代表委員を置くということになっておりまして、私がその役を負っております。
日本被団協は、どういう組織かというのは御存じだと思いますけれども、一九四五年の八月六日と九日に広島と長崎で原爆の被災者、それから、その後も、救援に入った人たちも放射線の被害を受けておりますので、そういう人たちも含めまして、各県に所在する被爆者がそれぞれ各県に会をつくっているんですね。その被爆者団体の協議体として今まで仕事をしてきたのが日本被団協でございます。
この度、二〇二四年度のノーベル平和賞を私どもの会が受賞させていただきまして、たくさんのお祝いをいただきまして、どうもありがとうございました。
昨年の受賞は、私どもはもうほとんど期待しておりませんでした。それは、もう何回も実は候補になったことがありまして、よく言いますけれども、一九八五年から始まるんですけれども、八五年とか九五年とか二〇〇五年とかという、五がついた年に有力候補に挙がっていたんですね。その三回とも駄目でありました。次はいつになるかというふうに思っておりましたら、一五年が全く関係のない組織だったので、ああ、いよいよもう核兵器関係の団体は何か難しくなったのかなというふうに思っておりました。
ところが、二〇一七年のノーベル平和賞はICANという組織が受賞しました。ICANというのは、日本語に直すと、核兵器廃絶を目指す国際キャンペーン、国際運動ですかね、という団体でありますけれども、日本被団協よりはるかに遅くできました、二〇〇七年に結成された団体なんですね。しかも、その組織は、各国の、非常にロビー活動の達者なと言ったら悪いかもしれませんけれども、達者な人たちがメンバーになっております。そのICANが、非常に大きな活動をやりまして、二〇一七年に、私たちが長い間運動して望んできた核兵器禁止条約を国連で採択させるわけですね。その功績をノーベル平和委員会は認めて、二〇一七年のノーベル平和賞を受賞させたというふうに私どもは思いました。
それはいいことだと思ったんですけれども、ICANが受賞する、だとすれば、日本被団協はもっと前からもっと国際的な大きな運動をしてきたのですから、日本被団協も中に入っておかしくはないと思ったところが、入らなかったんですね。
なぜ入らなかったかと詮索をいたしました。私が到達したのは、ノルウェーは実は、御承知だと思いますけれども、NATOに加盟している、アメリカとの同盟国なわけですね。だから、アメリカの核の抑止力に頼って自国の防衛を支えているということになっている国であります。それでも、ノーベル平和賞を選定することを委ねられている国なんですけれども。二〇一七年に気がつきましたのは、日本被団協というのは、アメリカが投下した原爆の被害を受けた者たちが集まって、核兵器は絶対に使ってはいけない、持ってもいけない、造ってもいけないということをずっと要求してきた運動体なものですから、アメリカに対する気兼ね、忖度が働いてきたんじゃないかというふうに思いました。
ですから、それ以降も、日本被団協がノーベル平和賞を受賞することはあり得ないというふうに私どもは考えてしまったんですね。それが、昨年の十月十一日の日にいきなり日本原水爆被害者団体協議会が受賞すると発表されたものですから、本当にびっくりいたしました。
選考したノーベル委員会の選考内容を見ますと、本当に感動いたしました。というのは、これからお話ししますけれども、私どもの会が、八十年間ではないんですね、七十年近くになります、六十八年ぐらいになるんですけれども、その長い間どういう活動をやってきたか、核兵器を使わせないためにどういう活動をやってきたかということをよく調べておりました。それから、よく調べておりますということの中身に、一つは、私どもの会が、被爆後八十年たっているけれども、まだ六十八年、十年の運動がない、十年間運動できなかったということをきちんと押さえておられたんですね。
それで、私どもが本当につらい思いをしながら、全国あるいは世界中に回って核兵器の非人道性を具体的に訴えるという運動をやってきたんだ、その被爆者たちの本当に血のにじむような運動が核のタブーを築き上げてきたんだというふうに委員長が言ってくれるんですね。核のタブーというのは、申し訳ないんだけれども、核兵器は使ってはならないという規範だ、それを長い間、原爆の被爆者たちはつくり上げてきた、その成果として、戦後八十年間、三回目の核兵器が使われてこなかった、広島、長崎で終わっていたということを高く評価したいと。
ところが、今日の情勢、特にロシアがウクライナを侵攻したときに、核兵器の使用もあり得るということをプーチン大統領は公言されているわけですね。ということは、それまで核のタブーとして、核兵器はもう使ってはいけないんだ、人道に反する兵器だということが国際的な規範になっていたのに、それが、超核大国の大統領が自ら使うこともあるということを言われる。そういう状況というのは非常に危険な状況だというのをノルウェーの委員会は気がついた、気がついたというのは変ですけれども、深く考えられたんですね。この状況をまた立て直していくには、長い間苦労して運動してきた日本被団協にノーベル平和賞を与えるときではないかというふうに考えたんだというふうに思います。それはそう言っているわけではないので、私がそういうふうに。
それが二〇二四年なわけですね。二〇二五年でないわけです。先ほど申しましたように、五、五、五とつく年で、二〇二五年というのは今年ですね。
実は、最後のときに委員の一人から言われたのは、二〇〇五年に授賞しようかというふうに考えた。それは、日本被団協が今まで候補になってきたのは五がつく年だった、ほとんど。来年は二〇二五年だから、来年授賞しようというふうに考えたけれども、今の核の情勢から考えると、来年じゃ遅いかもしれない。だから、今年授賞して、そして、日本はもちろんそうですけれども、世界中の核兵器の廃絶の運動を強めないといけない。そのためには、やはり、高齢化しているけれども、日本の被爆者の証言をもっともっと世界中に広げていく必要があるというふうに考えたんだというふうにおっしゃいました。そこまでノーベル賞の委員会は深い考慮をされて私たちを選んでくれたということを、大変うれしく思いました。
授賞式に出ることになって、ノーベル賞をもらうわけですけれども、受賞講演を代表がしなくちゃいけないものですから、私が受賞講演をすることになりました。受賞講演は二十分だけしか時間がないものですから、ちょうどこの委員会と同じ、二十分しかないものですから、二十分で世界の人たちに本当に感銘を受けていただいて、そして、やらなくちゃいけないなということで、核兵器を使わないようにする、なくすために考える、運動するということは訴えることができるかという不安があったわけですけれども、頑張って二十分で話すことにいたしました。
最初に、まず日本被団協というのは何をしたかということを簡単に説明しておかないと、あとの十数分の話がぼやけてしまってはいけないというふうに思いまして、私は、日本被団協というのは、先ほど申しましたように、各県の被爆者の団体の集まりでありますけれども、しかも、被爆後十年間、被爆者たちが声を出すことができなかったというつらい思いを経た後に、一九五六年に結成している団体なわけですね。
その一九五六年というのは、戦後十一年目なんです。なぜかというのは、その前の七年間は占領下になるわけですね、日本は。その占領下は、原爆の被爆者たちは被害の状況を口外してはいけなかった、それから文書にしてもいけなかったんですね。ですから、大変な被害を受けて経済的にも身体的にも苦しんでいたんですけれども、じっとその七年間は耐えなくてはいけなかった。
解放されて今度三年は、政府は、被爆者だけの問題じゃない、大変な被害者がいっぱいいるんだということで、被爆者をほとんど放置してしまったということを含めて、十年間、政府からは何もしてもらえなかったという歴史を持っております。
それがなぜ十年後というのは、もう説明いたしましたように、ビキニの水爆被害があって、そして、日本全国が放射線の恐ろしさ、核兵器の恐ろしさを知って、広島と長崎にかつて十年前に投下された、そしてその被害者がいるということが分かったということであります。
そこから運動が始まるんですけれども、それから始めてきた運動の基本は何かというのを最初に言っているわけです。それは基本的に二つありますと。
一つは、戦争は国が起こすものだから、その戦争によって国民、市民に被害が生じた場合には、それは国が責任を負わないといけないんですということを、結成して以来、今日までずっと要求し続けて、叫び続けてきたわけですね。それはまた、もうちょっと後で詳しく。
それからもう一つは、自分たちの苦しみは、具体的には放射線による被害だとか経済的な苦しみだとかそういうのがありますので、それは日本の政府に要請をして、そして立法してもらって、財政的にもその負担をしてもらって、救援してもらうというような運動であります。その二つの要求を基本要求というふうにして取り組んできましたと。
もう一つは、核兵器もそうですね。核兵器は非人道的な兵器なので、これは絶対に使ってはいけないし、造ってもいけないし、持ってもいけないというのが体験した被爆者たちの強い願いなわけですね。それを、国内はもちろんのこと、国際的に訴えていかなくちゃいけないという、自分たちの健康上、生活上の被害に対する償いと、それから世界に対する核兵器を使わせない、造らせないという核兵器廃絶の運動の二つが私たちの基本的な運動だということであります。
その次に、私の体験をやはりしゃべらなくちゃいけないということで、体験を入れました。軍国少年の十三歳だったんですけれども、比較的遠距離だったのでほとんどけがをしないで済んだんですけれども、母子家庭であった私の家庭を支えてくれた伯母たちの所帯が二所帯、爆心地に近いところに住んでいましたので、この五人が亡くなってしまったんですね、一遍に。それで経済的に支える人たちがいなくなったという体験をしておりますけれども、これは話せないほど長くなるので。
そういう体験の中で、核兵器がいかに残忍かということを本当に十三歳の少年ながら目撃して、たとえ戦争といえども、軍国少年ですから戦争は容認していたわけですけれども、戦争といえども、こういう殺し方をしてはいけない、こういう傷つけ方をしてはいけないとそのときに深く私の心に刻んだ、それが今日までの私の行動になってきているわけであります。
そういう運動をずっとやってきたわけですけれども、最初に申しました、原爆の被害は国が負わなくてはいけないんだということを要求していく中で、国側の考え方が出されるわけですね。それは、国を挙げての戦争で国民の被害が出ても、それはひとしく受忍しなければいけないんだ、生命、身体、財産のいずれにわたっても、その被害を受忍しないといけないんだということが、公然といいますか、公的な文書として書かれるわけです。そこで私どもが気づいたのは、原爆の被害は我慢しないといけない被害だったのか、これは絶対認めるわけにはいかないということで、それを受忍論と私どもは言うんですけれども、受忍論は間違っているということをずっと唱えて今日まで来ているわけであります。
そういうことを含めまして、先ほど申しました二つの基本要求というのはどういうものであるかというのを、一九八四年に文書を作るんですが、八五年に確立をいたします。その文書を皆さんのお手元に配っておりますので、お読みいただければありがたいと思っております。
しかしながら、私たちの健康の問題、生活の問題についてはずっと政府に要求し、議会にも要求をして、法律を作って、特に大きな二つの、原爆被害者の医療に関する法律、それから特別措置法という手当等を含んだ生活に関する法律を作って援護してきたんですけれども、残念ながら、原爆の市民の死没者というのは数十万いるんですね。その数十万人の死没者に対する償いといいますか、国家補償と私どもは言っておりますけれども、国の手だては全く今まで来ていないんですね。だから、そのことをやるべきだということは今日も要求しておりまして、そのことが今もできていないというのを、あらかじめ提出した原稿になかったことを私が半ばで差し込んだというのが、もう一度繰り返しますということで、死者は全く今も償われておりませんということを言いました。
恨みつらみを言うわけではないんです。これからの戦争は多くの市民の犠牲が必ず出る、もうそういう戦争だ、兵隊さんだけがどこかに行ってやる戦争ではないと思うんです。そういう場合に、市民はそれでもやはり我慢しないといけないというふうに置かれるようでは、本当に国を守ることにはならないと私どもは信じております。
ですから、核抑止論というのは核兵器を使うということを前提にしておりますから、私どもは、核抑止論は間違っておりますよ、核兵器は使っちゃいけないという考え方でやらなければ、核兵器を使われたときの被害というのは何十万人という死傷者を出すわけですから、そういう被害に対して国が財政的に本当に責任を持てるのかどうかということが大事だと思います。
ですから、ここ数年、国防予算が増えてきておりますけれども、軍備費の増強は一生懸命考えていらっしゃるようでございますけれども、戦争で出てきた被害、特に市民の被害はどうするのかということはほとんど語られていないんですね、今までの国会の中でも。だから、是非今日は、参考人としてお話しする機会をいただきましたので、戦争は軍備だけで行われるのではなくて、市民も加わってやるんだ、特にこれからの戦争は市民の被害が一番大きいんだ、それに対して我慢をさせるというままの国防というのは、絶対、制度上も法制上も誤っているということを強調させていただきたくて、この機会を与えていただきました。
時間が参りましたので、これで終わりにいたします。是非、御検討いただきたいと思います。
どうもありがとうございました。(拍手)