2025-04-22
衆議院
小寺裕雄
東日本大震災復興・防災・災害対策に関する特別委員会
小寺裕雄の発言 (東日本大震災復興・防災・災害対策に関する特別委員会)
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○小寺委員 おはようございます。自由民主党の小寺裕雄でございます。
本日は、質問の機会をいただき、委員長始め理事の先生方には感謝を申し上げるところでございます。
今年は、昭和百年でありますとか戦後八十年、あるいは、私の地域でいいますと市町村合併二十周年とか、いろいろ御挨拶をさせていただくときに枕言葉のように言うこうしたフレーズがあるわけですが、近畿地方に暮らしている我々にとっては、忘れてはならないのが阪神・淡路大震災三十周年ということであります。
一九九五年の一月十七日、発災した日のことはとてもよく覚えています。滋賀県はたしか震度五弱だったと記憶をしておりますが、当時は、親子が四人で川の字になって寝ておりましたので、揺れと同時に飛び起きて、たんすが倒れてこないように一生懸命押さえていたことを覚えています。午前七時のNHKのニュースの段階ではまだ被害の状況はそれほど報道されておりませんでしたが、お昼のニュースのときには神戸の町からは幾つもの白い煙が立ち上っておりまして、大きな被害が出ていることにただただ驚くばかりでありました。
それまで余り大きな地震災害に直面してこなかった私たちにとっては、阪神・淡路の震災をきっかけに、地震対策や、災害への支援であったり、そして民間ボランティアの仕組みなどが整備されてきたわけであります。思い出しますと、時の政権は自社さで、村山政権でありました。
それから、十四年前の東日本大震災が続きました。発災したとき、実は私はちょうど行きつけの散髪屋におりまして、テレビでは「ミヤネ屋」が流れておったのですが、巨大地震が三連動で起きて津波が押し寄せる様子を、生放送で、茫然としながら、えらいことになったと衝撃を受けたことを昨日のことのように覚えております。
阪神・淡路のときには西宮へ、東日本のときには気仙沼へボランティアで参加をさせていただきましたが、被災地の様子を肌で感じて、事前防災であったり復興支援の重要性というのを感じたところであります。
そして、今まさに話題になっている南海トラフ巨大地震であります。南海トラフ地震というのは、駿河湾から日向灘沖にかけてのプレート境界を震源とするものでありまして、過去に何度も大きな被害をもたらしてきた大規模地震であります。過去の事例を見てみますと、これまで百年から百五十年という周期で大規模な地震が発生しており、マグニチュード八クラスの地震が今後三十年以内に発生する確率が何と八〇%あるというふうに言われています。
そこで、政府では、平成二十六年に南海トラフ地震防災対策推進基本計画を策定して、関東から九州にわたる広い範囲で強い揺れが発生し巨大な津波が到達するという前提の下に、死者数や建物の全壊棟数などを公表し、国民に対して巨大地震が発災したときの危険性を啓発するとともに、防災意識の向上などに努めてこられたものというふうに承知をしております。
この度、前回の策定から十年というタイミングに合わせて令和五年から進めてこられた基本計画の見直し作業の中で、三月三十一日に公表された南海トラフ地震の被害想定における死者数が前回との比較で減少したという結果が出ておりますが、この要因についてはどのような分析があるのでしょうか、お尋ねしたいと思います。