本会議
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会
会議録情報#0
昭和四十年七月二十二日(木曜日)
—————————————
議事日程第一号
昭和四十年七月二十二日
午前十時開議
第一 議席の指定
第二 会期の件
—————————————
○本日の会議に付した案件
日程第一 議席の指定
日程第二 会期の件
議員請暇の件
首都圏整備委員会委員任命につき事後承認を求
めるの件
河野密君の故議員河野一郎君に対する追悼演説
午後二時七分開議
————◇—————
この発言だけを見る →—————————————
議事日程第一号
昭和四十年七月二十二日
午前十時開議
第一 議席の指定
第二 会期の件
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○本日の会議に付した案件
日程第一 議席の指定
日程第二 会期の件
議員請暇の件
首都圏整備委員会委員任命につき事後承認を求
めるの件
河野密君の故議員河野一郎君に対する追悼演説
午後二時七分開議
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船
船
船
船田中#3
○議長(船田中君) 日程第二、会期の件につきおはかりいたします。
今回の臨時会の会期は、召集日から八月十一日まで二十一日間といたしたいと思います。これに御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
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〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
船
船
船田中#5
○議長(船田中君) おはかりいたします。
議員稻葉修君及び同佐藤觀次郎君から、海外旅一行のため、七月二十五日から八月十日まで十七日間、議員千葉三郎君から、海外旅行のため、七月二十九日から八月六日まで九日間、右いずれも請暇の申し出があります。これを許可するに御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
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〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
船
船
船田中#7
○議長(船田中君) おはかりいたします。
内閣から、首都圏整備委員会委員に大來佐武郎君、大沢雄一君、友末洋治君、西畑正倫君を任命したので、その事後の承認を得たいとの申し出があります。右申し出のとおり決するに賛成の諸君の起立を求めます。
〔賛成者起立〕
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〔賛成者起立〕
船
船
船田中#9
○議長(船田中君) 御報告いたすことがあります。
議員河野一郎君は、去る八日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
同君に対する弔詞は、議長において去る十二日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
〔総員起立〕
河野一郎君に対する弔詞
多年憲政のために尽力し特に院議をもつてその功労を表彰された議員従二位勲一等河野一郎君はしばしば国務大臣の重任にあたり内治外交に多大の貢献をいたされまた終始政党政治の確立につとめられましたその功績はまことに偉大であります
衆議院は君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
————◇—————
河野密君の故議員河野一郎君に対する追悼演説
この発言だけを見る →議員河野一郎君は、去る八日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
同君に対する弔詞は、議長において去る十二日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
〔総員起立〕
河野一郎君に対する弔詞
多年憲政のために尽力し特に院議をもつてその功労を表彰された議員従二位勲一等河野一郎君はしばしば国務大臣の重任にあたり内治外交に多大の貢献をいたされまた終始政党政治の確立につとめられましたその功績はまことに偉大であります
衆議院は君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
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河野密君の故議員河野一郎君に対する追悼演説
船
河
河野密#11
○河野密君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員河野一郎君は、去る七月八日午後七時五十五分、思いがけぬ病気のため、目黒の自宅において急逝されました。まことに痛惜の念にたえません。
ここに、私は、諸君の御同意を得まして、議員一同を代表し、つつしんで哀悼のことばを申し述べたいと存じます。拍手
河野君は、明治三十一年六月、神奈川県小田原市に生まれました。父君は、県下の徳望家として聞こえ、長い間県会議員をつとめ、県会議長にもなられた方でありました。
君は、そのすぐれた資質を受け、小田原中学を経て、早稲田大学政治経済学部に進み、大正十二年に卒業し、東京朝日新聞社に入社されました。農林省担当の政治部記者となった君は、持ち前の鋭い勘と、旺盛な闘志とをもって数々の特だねをものにするなど、気鋭の記者として省内に名をはせるに至りました。この間において、一方では、農業問題についてじみちな研さんを積み、将来に備えることを忘れなかったのであります。
昭和七年一月、犬養内閣の山本農林大臣秘書官となり、次いで、二月の第十八回衆議院議員総選挙に際し、神奈川県第三区から出馬し、みごと本院に議席を得られたのであります。時に三十三歳でありました。砂田重政氏の知遇を得、また鳩山一郎氏に私淑していた君は、立憲政友会に入り、たちまち先輩同僚の注目を集めるところとなりました。時あたかも、農村は、米価の低落、繭価の暴落による負債の増大にあえぎ、また満州事変、上海事変を経て、満州国の建国宣言、次いで、五・一五事件、それを契機とする政党内閣の終えん、国際連盟からの脱退など、重大事件が相次いで起こり、まさにわが国の運命を左右するに至った激動の時期でありました。そのとき以来、わが国運は多難な経過をたどるに至ったのでありますが、この事態に対処し、君は、敢然として軍閥に抗し、官僚と戦い、議会政治の擁護と民衆のための政治の実現に、あらゆる障害を乗り越え、懸命な活動を続けられたのであります。拍手
このため、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙においては、非推薦として立候補されました。しかし、君は、さまざまの干渉を排して、よく当選の栄冠をかちえられたのであります。これは国の前途を憂うる君の真情が広く深く民衆の胸に訴えたからにほかなりません。
わが国に平和がよみがえるや、君は、いち早く鳩山氏らと相はかり、政党政治の再建に乗り出し、昭和二十年十一月には、日本自由党の結成をなし遂げ、初代幹事長に抜てきされました。
翌二十一年四月の総選挙において、日本自由党は第一党となり、まさに政権を担当しようとしていたやさきに、君は、不運にも公職追放の指令を受け、自来五年にわたる雌伏のやむなきに至りました。
昭和二十六年、政界に復帰し、次いで、翌二十七年の総選挙に当選するや、清新な政党内閣を実現させるべく心血を注がれ、文字どおり苦難の道をたどったのであります。二十九年秋には、故三木武吉氏らの同志とともに日本民主党の結成に成功し、同年十二月には、第五次吉田内閣のあとを受けて、ついに宿願の鳩山内閣を成立させることができたのであります。
この内閣の実現を契機として、政界の再編成への動きが活発となり、翌三十年十月の日本社会党の統一、十一月における保守合同による自由民主党の結成へと導かれたのでありまして、この間における河野君の保守合同達成へのいちずな奮闘は、諸君の御承知のとおりであります。拍手
自来、今日に至るまで、自由民主党の重鎮として、君の業績の大きさは、はかり知れないものがあると存じます。
第一次鳩山内閣の成立とともに農林大臣に就任して以来、去る六月三日惜しまれながら閣外に去るまでの十年有半の間に、国務大臣の重任に当たること前後七年有余に及びました。すなわち、第二次、第三次鳩山内閣において引き続いて農林大臣となり、時に行政管理庁長官を兼ね、第一次岸内閣の経済企画庁長官、第二次池田内閣の農林大臣、次いで建設大臣、第三次池田内閣の建設大臣、国務大臣、佐藤内閣の国務大臣を歴任し、常に斬新適切な施策を果断に行ない、よく国民大衆の要望にこたえられたのであります。拍手
君の不滅の業績としてまずあげるべきは、日ソ交渉でありましょう。すなわち、昭和三十一年、日ソ漁業交渉の政府代表として訪ソし、堂々と日本の立場を主張して漁業条約を締結し、わが国各界の期待にこたえるとともに、日ソ平和交渉の糸口を切り開かれたのであります。同年十月には、鳩山首相とともに、全権委員として訪ソし、首相のつえとも柱ともなって、根強く折衝を重ねた末、国交正常化に関する日ソ共同宣言の調印という大事業をなし遂げられました。拍手このことは、平和外交の向こうべきところを身をもって示されたものでありまして、わが国民の永久に忘れ得ないところと信ずるのであります。拍手
国内にあっては、産業開発の根幹をなす道路網の整備拡充等各種建設工事の促進に献身的な努力を傾け、君ならではなし得なかった業績をあげられ、また、一昨年一月には、時をおかず豪雪被害地帯に飛んで強力なる救援体制を展開し、さらに、昨年夏の東京における水飢饉に対して、直ちに適切な緊急措置を施して都民の危機を救われたことは、君の果断な面目を遺憾なく発揮したものであります。拍手また、昨秋の東京オリンピック大会の担当国務相として世界民族の祭典を大成功に導き、わが国の国際的評価を高められたことも、いまなお記憶に新たなるところであります。
かくして、君は、本院議員に当選すること前後十一回、在職二十七年一カ月の長きにわたり、昭和三十八年六月には、永年在職の議員として院議をもって表彰を受けられたのであります。この間、君がわが国政の進展に、また、政党政治の確立に残された顕著な功績は、まことに偉大なものがあります。
君は、また、花をめで、囲碁に親しみ、馬を愛し、相撲を楽しむという、趣味豊かな方でありました。
ことに、スポーツでは、中学、大学時代を通じて駅伝やマラソンで活躍された君は、日本学生陸上競技連盟会長、また、日本陸上競技連盟会長として国民体育の振興に大いに貢献されたのであります。
思うに、君はまことに純粋な政党政治家でありました。君の本領は、いかなる権力にも屈することなく、自己の信ずるところを大胆に直言し、かつ、鋭い洞察力とすばやい決断力に基づいてたくましく実行していくことにありました。拍手しかも、広い視野の上に立って、国民大衆のための政治を行なうことをみずからの使命として生涯奮闘されたのであります。君が重体との報に、親しく接したことのない市民たちまでも、邸前に詰めかけて、御本復を祈ったのでありました。君に寄せる国民大衆の共感と信頼がいかに広く、かつ、深かったかをまざまざと物語るものであります。拍手剛直のゆえに、ときには誤解を招くこともありましたが、国民大衆がはだ身に感じとった河野君に対する敬愛の情は、そのような誤解を一掃して余りあるものがあると存じます。拍手
君は、また、涙もろい人情家でもありました。鳩山氏の逝去に際し、その枕頭に手放しで号泣された話は有名でありますが、同僚、後輩に注ぐ愛情もまた限りないものがありました。自分を信じてくれる者に対しては、毀誉褒貶を顧みず、どこまでもめんどうを見るという方でありました。また、どのような激務の中にあっても、なくなった知己の命日、お盆の墓参りを欠かしたことがなく、御両親をはじめ、祖先に対する崇敬の念も、周囲の人たちが驚くほどに厚いものがあったと伺っております。最近は、ますます敬慶の念を深め、祖先を祭る菩提寺のため奔走しておられたとのことであります。
河野君の看護に当たった医師団の発表によりますと、君の病はすでに数年来の宿痾であったとのことであります。友人知己が君の健康を心配しても、これを顧みず、かえって、みずからの健康を誇り、たゆみない活動に挺身されたのでありました。おそらくは、激務に次ぐ激務のゆえに、一身を顧みるいとまがなかったのでありましょう。それは政治家の常とはいえ、まことに悲痛のきわみであります。拍手
巨星落つ。波乱万丈の政治家河野一郎君は、ここに六十七年の生涯を閉じ、永遠に去っていかれました。国民の多大な期待を一身に集めながら、中道に倒れられた君の胸中を思うとき、痛恨やる方ないものがあったと存じます。拍手
いまや、わが国は、国内的にも対外的にも、きわめて重大な時期に直面しております。このときにあたり、君のような偉大な政治家を失ったことは、国家のため、国民のため、はかり知れない損失でありまして、まことに惜しみてもあまりあるものがあります。拍手
ここに、つつしんで河野君の生前の功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。拍手
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この発言だけを見る →ここに、私は、諸君の御同意を得まして、議員一同を代表し、つつしんで哀悼のことばを申し述べたいと存じます。拍手
河野君は、明治三十一年六月、神奈川県小田原市に生まれました。父君は、県下の徳望家として聞こえ、長い間県会議員をつとめ、県会議長にもなられた方でありました。
君は、そのすぐれた資質を受け、小田原中学を経て、早稲田大学政治経済学部に進み、大正十二年に卒業し、東京朝日新聞社に入社されました。農林省担当の政治部記者となった君は、持ち前の鋭い勘と、旺盛な闘志とをもって数々の特だねをものにするなど、気鋭の記者として省内に名をはせるに至りました。この間において、一方では、農業問題についてじみちな研さんを積み、将来に備えることを忘れなかったのであります。
昭和七年一月、犬養内閣の山本農林大臣秘書官となり、次いで、二月の第十八回衆議院議員総選挙に際し、神奈川県第三区から出馬し、みごと本院に議席を得られたのであります。時に三十三歳でありました。砂田重政氏の知遇を得、また鳩山一郎氏に私淑していた君は、立憲政友会に入り、たちまち先輩同僚の注目を集めるところとなりました。時あたかも、農村は、米価の低落、繭価の暴落による負債の増大にあえぎ、また満州事変、上海事変を経て、満州国の建国宣言、次いで、五・一五事件、それを契機とする政党内閣の終えん、国際連盟からの脱退など、重大事件が相次いで起こり、まさにわが国の運命を左右するに至った激動の時期でありました。そのとき以来、わが国運は多難な経過をたどるに至ったのでありますが、この事態に対処し、君は、敢然として軍閥に抗し、官僚と戦い、議会政治の擁護と民衆のための政治の実現に、あらゆる障害を乗り越え、懸命な活動を続けられたのであります。拍手
このため、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙においては、非推薦として立候補されました。しかし、君は、さまざまの干渉を排して、よく当選の栄冠をかちえられたのであります。これは国の前途を憂うる君の真情が広く深く民衆の胸に訴えたからにほかなりません。
わが国に平和がよみがえるや、君は、いち早く鳩山氏らと相はかり、政党政治の再建に乗り出し、昭和二十年十一月には、日本自由党の結成をなし遂げ、初代幹事長に抜てきされました。
翌二十一年四月の総選挙において、日本自由党は第一党となり、まさに政権を担当しようとしていたやさきに、君は、不運にも公職追放の指令を受け、自来五年にわたる雌伏のやむなきに至りました。
昭和二十六年、政界に復帰し、次いで、翌二十七年の総選挙に当選するや、清新な政党内閣を実現させるべく心血を注がれ、文字どおり苦難の道をたどったのであります。二十九年秋には、故三木武吉氏らの同志とともに日本民主党の結成に成功し、同年十二月には、第五次吉田内閣のあとを受けて、ついに宿願の鳩山内閣を成立させることができたのであります。
この内閣の実現を契機として、政界の再編成への動きが活発となり、翌三十年十月の日本社会党の統一、十一月における保守合同による自由民主党の結成へと導かれたのでありまして、この間における河野君の保守合同達成へのいちずな奮闘は、諸君の御承知のとおりであります。拍手
自来、今日に至るまで、自由民主党の重鎮として、君の業績の大きさは、はかり知れないものがあると存じます。
第一次鳩山内閣の成立とともに農林大臣に就任して以来、去る六月三日惜しまれながら閣外に去るまでの十年有半の間に、国務大臣の重任に当たること前後七年有余に及びました。すなわち、第二次、第三次鳩山内閣において引き続いて農林大臣となり、時に行政管理庁長官を兼ね、第一次岸内閣の経済企画庁長官、第二次池田内閣の農林大臣、次いで建設大臣、第三次池田内閣の建設大臣、国務大臣、佐藤内閣の国務大臣を歴任し、常に斬新適切な施策を果断に行ない、よく国民大衆の要望にこたえられたのであります。拍手
君の不滅の業績としてまずあげるべきは、日ソ交渉でありましょう。すなわち、昭和三十一年、日ソ漁業交渉の政府代表として訪ソし、堂々と日本の立場を主張して漁業条約を締結し、わが国各界の期待にこたえるとともに、日ソ平和交渉の糸口を切り開かれたのであります。同年十月には、鳩山首相とともに、全権委員として訪ソし、首相のつえとも柱ともなって、根強く折衝を重ねた末、国交正常化に関する日ソ共同宣言の調印という大事業をなし遂げられました。拍手このことは、平和外交の向こうべきところを身をもって示されたものでありまして、わが国民の永久に忘れ得ないところと信ずるのであります。拍手
国内にあっては、産業開発の根幹をなす道路網の整備拡充等各種建設工事の促進に献身的な努力を傾け、君ならではなし得なかった業績をあげられ、また、一昨年一月には、時をおかず豪雪被害地帯に飛んで強力なる救援体制を展開し、さらに、昨年夏の東京における水飢饉に対して、直ちに適切な緊急措置を施して都民の危機を救われたことは、君の果断な面目を遺憾なく発揮したものであります。拍手また、昨秋の東京オリンピック大会の担当国務相として世界民族の祭典を大成功に導き、わが国の国際的評価を高められたことも、いまなお記憶に新たなるところであります。
かくして、君は、本院議員に当選すること前後十一回、在職二十七年一カ月の長きにわたり、昭和三十八年六月には、永年在職の議員として院議をもって表彰を受けられたのであります。この間、君がわが国政の進展に、また、政党政治の確立に残された顕著な功績は、まことに偉大なものがあります。
君は、また、花をめで、囲碁に親しみ、馬を愛し、相撲を楽しむという、趣味豊かな方でありました。
ことに、スポーツでは、中学、大学時代を通じて駅伝やマラソンで活躍された君は、日本学生陸上競技連盟会長、また、日本陸上競技連盟会長として国民体育の振興に大いに貢献されたのであります。
思うに、君はまことに純粋な政党政治家でありました。君の本領は、いかなる権力にも屈することなく、自己の信ずるところを大胆に直言し、かつ、鋭い洞察力とすばやい決断力に基づいてたくましく実行していくことにありました。拍手しかも、広い視野の上に立って、国民大衆のための政治を行なうことをみずからの使命として生涯奮闘されたのであります。君が重体との報に、親しく接したことのない市民たちまでも、邸前に詰めかけて、御本復を祈ったのでありました。君に寄せる国民大衆の共感と信頼がいかに広く、かつ、深かったかをまざまざと物語るものであります。拍手剛直のゆえに、ときには誤解を招くこともありましたが、国民大衆がはだ身に感じとった河野君に対する敬愛の情は、そのような誤解を一掃して余りあるものがあると存じます。拍手
君は、また、涙もろい人情家でもありました。鳩山氏の逝去に際し、その枕頭に手放しで号泣された話は有名でありますが、同僚、後輩に注ぐ愛情もまた限りないものがありました。自分を信じてくれる者に対しては、毀誉褒貶を顧みず、どこまでもめんどうを見るという方でありました。また、どのような激務の中にあっても、なくなった知己の命日、お盆の墓参りを欠かしたことがなく、御両親をはじめ、祖先に対する崇敬の念も、周囲の人たちが驚くほどに厚いものがあったと伺っております。最近は、ますます敬慶の念を深め、祖先を祭る菩提寺のため奔走しておられたとのことであります。
河野君の看護に当たった医師団の発表によりますと、君の病はすでに数年来の宿痾であったとのことであります。友人知己が君の健康を心配しても、これを顧みず、かえって、みずからの健康を誇り、たゆみない活動に挺身されたのでありました。おそらくは、激務に次ぐ激務のゆえに、一身を顧みるいとまがなかったのでありましょう。それは政治家の常とはいえ、まことに悲痛のきわみであります。拍手
巨星落つ。波乱万丈の政治家河野一郎君は、ここに六十七年の生涯を閉じ、永遠に去っていかれました。国民の多大な期待を一身に集めながら、中道に倒れられた君の胸中を思うとき、痛恨やる方ないものがあったと存じます。拍手
いまや、わが国は、国内的にも対外的にも、きわめて重大な時期に直面しております。このときにあたり、君のような偉大な政治家を失ったことは、国家のため、国民のため、はかり知れない損失でありまして、まことに惜しみてもあまりあるものがあります。拍手
ここに、つつしんで河野君の生前の功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。拍手
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