伏見康治の発言 (予算委員会公聴会)
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○伏見公述人 伏見でございます。原子力の平和利用の問題につきまして、私が考えておりますことを、昨日の藤岡由夫教授のお話とも関連させまして申し上げてみたいと思います。藤岡先生と私との根本的な意見におきましては別に少しも違わないのでございますが、多少観点の違った点からの意見を申し上げてみたいと思います。原子力の平和利用に関連いたしまして、よく近ごろ日本の方々が言われることの中に、日本は広島、長崎で原子爆弾を受け、原子力について大へんひどい目にあったのである。従って今度は平和利用の面で大いに恩恵を施してもらわなければならない、そういうような御発言がときどき見受けられるわけでありますが、そうしてその通りでもあると思いますが、しかし平和利用の面というものと、それから日本国民が受けました広島、長崎のときの惨害の面というものは、切り離すことのできない一体のものでございまして、それを常に私たちは念頭に置いて、原子力の平和利用の問題を考えていかなければならないという点を申し上げたいわけでございます。広島、長崎の直後におきまして、まだいわゆる冷たい戦争が始まっておりません間は、世界中の方々が大へん理想主義的な御気分におありになったと見えまして、原子力の国際管理という問題がはなはだ熱心に論議されたわけでございます。そうして私たちが実際そういうことがやがて可能になり、原子戦争の恐怖といったようなものから近いうちにはのがれられるであろうということを信じておったのでありますが、残念ながらそういう問題というものは、その後すっかりたな上げになってしまいまして、いわゆる米ソ間の冷たい戦争の陰に隠れてしまいました。原子力の国際管理という問題は見えなくなってしまったわけでございます。そうして十年ばかりたちました今日になりまして、原子力の平和利用という面がにわかに勢い強く燃え上って来たわけでございます。そこに私は何か非常に不自然なものを感ずるわけでございまして、この原子力の兵器的な面というものに対する十分な防護措置というものを施しておきませんで、ただ平和利用という面だけを私たちはやれやれというような意味で考えていくわけにはいかないわけでございます。この国際管理問題がなぜ暗礁に乗り上げているかというようなことは私の専門外のことでございましてこれは国際外交の非常な機微に属することでございますので、これは皆様方の方が御専門でございますので申し上げようとはさらさら思いませんですが要するにその暗礁に乗り上げた根本的な原因は片方のアメリカ側の原子爆弾をすでに持っているという立場からとそれからソビエトの方が持たなかった、もしくは持っていても劣勢であるという立場から来る意見の違いのように見受けられるわけであります。そこをそのまま、それぞれの立場というものを乗り越えた国際的な原子力管理という問題が実際できるということを、私たちはその当時希望しておったのですが、それがついにそのかきねが乗り越えられなかったということであろうと思います。今日におきましても、原子力の国際管理の問題というものは、決して無視してはならない問題でございまして、何とかしてこの原子兵器というものが使われずに済みますように、私たちは皆様の、ことに日本の政治家の皆様が御努力下さいますようにお願いいたしたいと思うわけであります。
それで原子力の平和利用という面がにわかに強くなって参りましたのは、一昨年の暮れにアイゼンハワー大統領が国連総会において、アトム・フォー・ピースという提案をいたしましてから急に盛んになって来たわけでございますが、そのアイゼンハワー大統領の演説なるものを幾ら読みましても、その兵器の方の国際管理問題というものと、その平和利用というものがどういう関係にあるのかということが、とんと私には了解し得ないわけでございます。いわば平和利用それ自身が盛んになるということは、これは兵器問題から切り離してしまえば大へんけっこうなことでございまして、平和利用が盛んになり、それから国々の間の協調の面が、原子力というようなひもによってさらに強くなって行くということもそれ自身けっこうでございますが、しかし原子力に関しまして私たちが一番強い関心を持っておりますのは、その大量殺戮の威力というところにあるのだと思います。この方を何とか防ぐということを考えずに、平和利用という面だけを取り出して考えるということは、私には不可解なように思えるわけです。そして現実にいろいろな国々がやっております行動というものは、この二つの問題を決して切り離してはいない、そういうふうにしか考えられないわけでございます。たとえばイギリスが昨年の初めから原子力発電所の建設にとりかかりまして、それが来年か再来年あたりにでき上って発電を開始するそうでございますが、このコールダホールという所にできます原子力発電所といったようなものは、これは現在イギリスが兵器のためにプルトニウムの生産を行なっておりますが、そのプルトニウム生産用の原子炉と少しも性質において変らないものでございます。ただ今までプルトニウムの生産をいたします場合に出て参りますおびただしい熱をただむだに捨てておりましたのを、それを有効に発電にも使おうということでありまして、その本来の目的であるプルトニウム生産というものは捨てられておるわけではございません。つまり兵器の生産ということと平和利用というのが抱き合せになっているとしか私には考えられないわけでございます。もちろん純粋に平和利用をする場合にプルトニウムというものは生産されますので、これはどこまでも平和利用の原子力発電所であるということを言い切られましても、その通りでありますが、しかし現実問題といたしましては、イギリスはそのプルトニウム生産という大きな経済的な負担を、平和利用の面に肩がわりさせるためにやっているというのが、私には最も現実的な解釈ではないかと思われるわけであります。
そのほか幾らでも私の考えを申し上げることができますが、要するに現実に行われております平和産業は、原子力兵器産業とからみ合ったものである。従ってもし私たち日本人が、特に広島、長崎というものの思い出というものをいつまでもかたく持っておりまして、原子兵器が使われないための努力というものを絶えず続けて行かなければならないといたしますれば、この原子力平和利用の面におきましても、絶えずこの兵器というものの関連において進んで行かなければならないと思っております。
ただしこう申し上げたからと申しましても、私は、この兵器の恐怖というものが常にある限りにおいては、平和産業の方に手をつけてはならないなどと申し上げているわけではございません。私は相当久しい以前から、学術会議の内部で原子力の研究を開始すべきだということを申し上げまして、いろいろ皆さんの御討論をいただいておるわけでございますが、問題は、この原子力の平和利用というような非常に大きな問題の中に、日本国民として特に関心を持っている、兵器の方へ行かないためにどうすればいいかというその境界点を絶えず慎重に考慮しながら、平和利用の面を盛り立てて行くというその努力のところにかかっていると私は思っているわけでございます。それで私が思いますのには、現在日本で原子力の平和利用というようなものを始めるに際して一番大事なことは、日本が日本独自の立場でまず仕事を始めて行くという問題であろうと考えているわけです。それが特に原子兵器との関係においてそう申し上げたいわけであります。と申しますのは、原子力の先進国と称せられる国々の原子力の事業というものは、アメリカにいたしましてもイギリスにいたしましても、あるいはソビエトにいたしましても、全部兵器産業という形でまず発達したものであります。そういう形で発達したものでありますから、私たち日本人だけが平和利用の面だけを育てるつもりでも、そういう大きな流れに接触すればするほど、兵器への結びつきというものが大きくなって来るわけでございます。で、私たちは、そういう意味において日本人だけが何も平和を愛好する国民であるなどと申し上げるつもりではございませんけれども、しかし原子爆弾によって実際に大きな被害を受けて、三十万人の同胞を殺しているのは日本人でありますので、少くとも原子力に関する限りは、日本人が世界の中で、原子力を平和利用に限定することに対して一番強い関心を示している国民であろうと思いますので、その国民自身が原子力の平和利用をやる場合には一番危険性が少い、よその兵器産業に密着すればするほどそういう危険が増して来るというふうに私には考えられるわけであります。そういう観点から申しまして、日本で原子力の平和利用が始まります場合には、できるだけ日本人自身の自主性のもとにおいてこれをやっていきたい、こう私は考えているわけであります。
ただ最近になって出て参りましたいろいろな話というものが、原子力に関するいろいろな新聞のニュースといったようなものが急にふえて参りましたその理由が、もっぱら外部から参るいろいろなニュースが根本になっている。たとえばどこそこの国がアメリカと濃縮ウラニウム受け入れの契約を結んだといったような記事、つまり外部の動きによって日本の原子力平和利用というものの関心が高まって来ているということは、これは私としては非常に残念なことでございます。数年前私が学術会議におきまして原子力の平和利用の研究をすべきだというような際に申し上げた学術的な意味でのそういう討論の中では、いつも原子力に対してきわめて消極的でおありになった方方が、現在の段階りになますと急に大へん勢いがよくなって、原子力、原子力と言われる方が多くなって来ているように私には考えられるわけであります。そういたしますと、そういう方々はいわば原子力というものの外側だけを考えておられる方々であって、原子力の内部の学問的な進展ということから原子力をやらなければならないというふうにお考えになっているのではないと考えざるを得ないわけであります。私は原子力というものの学問的な力から、原子力は当然日本でもやらなければならないと考えて来たわけでございますので、そういう方々の御意見を近ごろ拝聴する機会の多いのははなはだ残念でございます。そういう意味で私は、日本の原子力というものがそういう外部的な条件によって左右されるのではなくして、日本人自身の内部に自然に育って行くようなものでありたい、こう考えております。
ところが原子力というものは大へん金がかかるものでございます。ちょっとやそっとのお金でもって、この原子力問題が地についた私たち国民の生活に利益になるようなものになりません。お金がたくさんかかるというという意味からも、まず皆様がごく慎重に考えてこの予算の問題を取り扱っていただきたいと希望いたします。
その第一に申し上げておきたいことは、ごく限られた私たちの貧乏世帯の中で、限られた予算を使います上に、その予算をできるだけ正しい使い方をしていただきたいということでございますが、その第一は日本で原子力の研究を自主的にやっていくために、一体何が大切なのであるか。その重心的なところにお金を入れていただきたいということであります。外国からいろいろ技術的な援助を受けることもある段階では必要であろうと私は考えますけれども、その受け入れるということは、あくまでも自分自身がすでに何事かを持っていて、その補助になるという意味で受け入れるべきであろうと私は考えます。外国から受け入れるということがむしろ中心であって、日本でやるということは単にその補助にしかすぎないというような形であるならば、日本の原子力の問題は、日本国民のものにならずに終ってしまうと私は考えます。それで原子力のことについて、一体どういうことが行われるべきかということを申し上げますと、原子力の実際上の課題というものは、今日ではもはや原子核物理学者の手から離れまして、むしろ科学工学者の手に移っているわけであります。と申しますのは、この原子核の分裂連鎖反応ということを行わせる、ウラニウムの原子核にそういうことを行わせるということができるという理屈を発見いたしましたものは、物理学者の永年の研究のたまものでありましょうけれども、一たびそういう科学的な事実というものが発見されてしまいますれば、それから先はその科学者の命じた通りにすればできるのでありまして、これが科学とほかのおまじないというものとの根本的な違いであります。科学的な発見はそれが一たび発見された以上は、万人共有のものになりまして、だれでもそのまねをすることができるものであります。今日におきましては、原子炉というものは、それを作るということ自身はそう本質的にむずかしい問題ではないのでありまして、要するに石炭に火をつけるならば燃えるということと同じであります。ただそれを燃ますためには、適当な物質が必要である。その物質を調達することが原子力問題の主要な眼目になってきているわけであります。そういたしますと、この物質を作るという役目は結局は全部科学工学者の役目でありまして、物理学者の領域の問題でなくなっているということが特に大切であろうと私は考えます。この科学工学者の働きます上での資源の問題、それからそれを育て上げていくという上での技術という二つの面がございますが、その二つの面を日本人自身の中で特にやっていくということが一番大切なことではなかろうかと思います。そういう物質を調達するという面をなくしてしまった、最後の純粋のウラニウムであるとか純粋のグラファイトといったようなものをどこかよそから持って参りまして、ただそれを組み立てて原子炉を作るというのでありますならば、実は私どものような勉強していないものでもすぐできることであります。一番根幹のところはそういう基礎的な物質を自分自身で調達していくその苦労の多い道をとるところにあるのではなかろうかと思います。実際またそういう苦労をして初めて原子力に関する利益は、十全に私たちが味わうことができるようになると思います。原子力からどういう利益が得られるのかという問題はたびたび議論されておりますが、しかしもっぱらその最終産物である原子力発電によるエネルギーだけがいつも問題になっておりまして、もっと別の意味の原子力の副産物をあまりお考えになっていないようでございますので、その点を申し上げてみたいと思います。
原子力の究極のエネルギーというものが発電の形で、私たちの水力や火力に並んで現われるということ自身はけっこうでありますが、そのほかにこの原子力というものを開拓していく上に、技術者は全く今まで経験しなかった新しい課題と取り組まなければならなくなってきています。この新しい課題と取り組みましたために、いろいろの新しい技術の開発が行われているのでありまして、日本がもし原子力の問題をやらなかった場合に、そういう強い問題というものに出会わずに済んでしまいますれば、日本の技術者というものはそういう得がたい問題というものに取り組む機会を失ってしまうことになります。そういうたくさんの技術的な課題を自分自身が克服していくという、そういうことをやってこそ初めて日本の原子力というものが日本自身のものになる、こう考えるわけでございます。ひどく末端的な例を申し上げますが、実際そういう原子力自身を仕上げていくために必要な技術の中から、実は思いがけないような別の面への技術というものが開けていっておるわけであります。たとえば純粋なグラファイトを作るという努力が積み重ねられました結果、ひどく純粋なグラファイトが割合廉価に手に入るようになります。原子炉用グラファイトというものが一つの商品の品目の中に入ってきたわけであります。その結果その純粋なグラファイトを使いまして、るつぼのようなものをつくりまして、あらためて純粋な金属をやる冶金というものをやってみますと、今まで工業的には達成し得なかった純粋な金属の製造ができるようになってきた。そしていろいろな金属工学の方の新しい問題が解けるようになってきたというお話がございますが、原子力とは直接関係のないような面にも、原子力技術というものを開拓していく上での副産物というものが現われてくるわけであります。そういう副産物というものは、みずからがそういう基礎的な仕事をやらずにいましたならば、全然会わずに済んでしまうというわけであります。ただ私たちは最終の形が、電気エネルギーという形で、私たちの家庭の電気の中の何割かが原子力エネルギーでまかなわれておるのだということだけを知るにとどまります。そういう形でなくて、原子力技術というものをみずから経験していく、それを一つ一つかみ砕いていくということによって、原子力に関する利益というものを満喫しなければ、私たち日本国民としては承知できない、そういう立場にあるのではないかと思います。
そういう意味合いから申しまして、私は現在日本の手をつけるべき最大の肝心な点というものは、外国からウラニウムを入れるとか入れないというような問題ではございませんで、ある場合にはそういうものを入れてもよろしいと思いますけれども、肝心な点というものはそこにあるのではなくして、日本におけるそういう意味での自主的な原子力研究の将来を築き上げていくという、まさにそこに問題があるのだと思います。つまりそういう肝心な面から比べますれば、濃縮ウラニウムの受け入れ問題といったようなものは、二の次三の次の問題にしかすぎない。それが現在では、特に新聞紙上におきましては話が転倒しておりまして、その方が最大重要な課題になっており、日本国内における原子力技術の確立といったようなものが二の次、三の次であるかのように取り扱われておる。これが私にとって非常に大きな心配なのであります。どうか皆様の御努力によりまして、日本に原子力技術というものが確立されますように、特に最も根本的な、たとえばウラニウム資源といったようなものからも、ウラニウム資源の国内における探査といったようなことからも、根本的な努力というものを注いでいただいて、ほんとうに日本のためになる日本の原子力という形に持っていっていただきたいと思っておるわけでございます。