神川彦松の発言 (内閣委員会公聴会)
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○神川公述人 石橋先生の御質問まことに私が申し述べたいと思うておるところにちょうどよく触れておりますから、私といたしましては、そういう質問があったことは非常に欣快なんです。まず第一に占領中にできた憲法だからもう何が何でもこれはいけないのかどうか、どうもそういう御質問であったと思いますが、程度は先ほどはイントロダタクションだけ申したのでありまして、わずか二十分では内容まで深く入るひまはなかった。今度内容に入るのでありますが、占領中にできたからいけないというのは、つまりその悪法というものがいかに民主主義的にカムフラージュされておっても、また内容から民主主義憲法だといわれておっても、そのほんとうの性格は反対なものであって、これは全く専制憲法であり、植民地憲法だということなのです。これはどうも日本人によく了解されていない。これはつまり無条件降伏だということを了解せず、また軍下占領及び軍事統治というものの本質を了解されていないからであります。もし平穏無事の際にああいう憲法ができたものならば、そうしてほんとうに日本人の手で作ったものならばわれわれといえども大賛成なんです。問題は先ほど私が申しましたように、戦勝国の軍事占領、軍事統治、それは前代未聞の無条件降伏による武力的絶対独政なんです。武力的絶対独政のもとにおいてできた憲法でありまするから、それがデモクラシーのアンチテーゼだということは、先ほど申しましたようにマッカーサーがそのレポートにちゃんと言うておるのです。本国政府に出しました。ポリティカル・オリエンテーション・オブ・ジャパンというテキストをよくお読み下さいますればそのことをうたっている。実際デモクラシーのアンチテーゼなのだからやむを得ないというふうに弁解はいたしております。なぜそれがアンチテーゼかと申しますと、これは釈迦に説法でございますが、およそデモクラシーの第一に大切なことは国民主権ということが存在していなくちゃいけない。これはどなたも御承知の通りでありまして、国民主権が事実存在していないのにデモクラティック憲法はできるはずがない。つまり主権内国民が憲法制定権を持っておるということが根本の条件です。ところが遺憾ながら日本は軍事占領並びに軍事統治の間におきましては主権を失うておったのであります。これは一方的命令によって主権を剥奪されておったのであります。でありますから主権のない国民が主権的国民であろうはずはない、主権的国民でないものがどうして憲法制定権を行使することができますか。でありますから軍事占領並びに軍事統治のもとにおきましては、国民は絶対に主権的国民でなく、また憲法制定権を持たない、持ち得ないのであります。先ほど申しましたように、ローマ法のデベラチオの原則からいっても当然のことであります。そういうわけでありますから、まず第一にかのリンカーンのデモクラシーの定義にありますように、人民のという条件が欠けておる、主体性が欠けておるんです。一体主体性が欠けておる憲法がどうして民主憲法なんということが言えますか。とにかく日本人が堂々たる主権国民であり、事実その憲法制定権というものを行使できなければ民主憲法なんかできるはずはない。ところがそれは先ほど申しましたように、武力的絶対独政のもとにおいては不可能なことなのです。でありますから、要するにこれは占領策が政治権力をもって作った憲法だということを先ほど申しましたが、つまり主体性が占領軍の権力にあったわけでしょう。そんなものがどうして日本人の憲法と言えますか。民主憲法、いわんや自由な民主憲法と言えますか。
第二は、民主的法律とか民主的憲法というものは自律的、自主的、自治的なものでなくちゃいかぬ。自分の手で書いたもので自分で法律にしたものでなければいけない。ところが先ほど申しましたように、これは連合国のスキャップが書いたものなのです。どこから持ってきたものか知りませんが、とにかくスキャップが書いたもので、日本の力でいろいろ修正したといわれますが、それはほんの枝葉末節の点なのです。最初から根本的原則と基本的形態には手を触れるなという絶対命令があるのですから、従って日本の方で手を触れたというのは単なる枝葉末節の点なのです。いくらいじくったところで枝葉末節の点だけで、実際根本というものは、論より証拠です。このマッカーサー憲法の原案をお読み下さればわかりましょうが、基本原則は全部同じことなのです。内容においてとにかく全部向うが言い、また向う裁可したものなのです。問題はだれが決定したかという点にあるわけなのです。まただれが書いたかという点にあるわけなのです。ところがわれわれが書いたのじゃない、事実憲法原案を比較研究すればおわかりになりますように、ほとんど全部向うが書きまた翻訳も、それがきわめて拙訳、誤訳なのですが、それを一々向うが裁可したものなのです。最後の決定権はみな向うにあり、それでよろしいというので現行憲法になった。問題は最後にだれが決定したかということなのですから、だれが言い出したというのは問題じゃない。先ほど中村先生の御意見では、こっちも言うたじゃないかと言われますが、最後の決定権が向うにあったということだけは確かなのです。最後の決定権はどこにあったかということが、要するに主権がどこにあったかということなのですね。最後の決定権が連合国にあったことはだれも疑いないでしょう。最後の決定権が向うにあり、向うが書いたようなものがデモクラシーなんということば絶対にあり得ないでしょう。
さらに第三に民主憲法というものはその国民自身の利益のためでなくちゃならない、国民自身の福祉のためでなくちゃならない、国民自身の目的のためでなくちゃならぬでしょう。ところがこれは連合国の占領政策のためにやったものなのです。占領目的のために、個人政策を実現するためにやったものです。もしマッカーサー司令官が連合国の利益を代表せずして、日本国民の利益のためにやったということならば、これは反逆者ですよ、それこそマッカーサーは連合国から死刑に処せられたでしょう。ところがマッカーサーが実際りっぱに日本でもって統治成績を上げたとすれば、それはマッカーサーは連合国のためにおそらく忠実に尽したからなのでしょう。だれが見て毛そうじゃありませんか。それはそれがために日本が反射的利益を受けることもありますが、しかしそれは単なる反射的利益でありまして、決して向うが意図したものではない、要するにこれは法律上にいう反射的利益であります。権利でもない義務でもないわけなのです。でありますから結局これは連合国の利益のためにやられたものであるということは、また連合国の政策目的のためにやったということは、十分だれにもおわかりだと思う。またどの点からいっても民主主義の要件を備えていないでしょう。それはただ形なり内容だけが民主主義というだけです。ところが民主憲法かどうかということは内容の問題ではない。たとい内容が神様が作ったような神法であっても、その手続がとにかく主権的国民が作ったものでなく、主権的国民が自分の手で書いたものでなく、主権的国民の利益のためにやったものでなければ、それは民主的憲法ではない。専制憲法です。なぜならこれは独裁君主、独裁権力者が作ったものなのですから、従ってこれは独裁憲法なのです。正真正銘独裁憲法なのです。植民地憲法なのであります。でありますから、ただ内容が民主的だということは、これはたまたまカムフラージュされただけのことであります。もしも先ほど申しましたように、三つの要件がそろいますならば、内容は必然民主的になることはきまったことなんですね。内容が民主的に押しつけられたからといって、それが民主的に変るということはないはずなのです。ほんとうに民主的かどうかということは、内容よりは三つの要件がそろっているかどうかということなのです。また三つの要件がそろえば、おのずからにしてそうなるべきはずなのです。ところが三つの要件がそろい——全然骨抜きであるにしても、もらったものでありますから、そのような格好になっておるわけでありますが、ただ形だけのことで民主主義の実はごうもないわけなんです。これがすなわち私がどうしたってこの憲法は内容を改めなくちゃならぬというわけのものであります。これはおわかりだろうと思いますが、内容がいいから従ってこの憲法はいいじゃないかというほど非民主的な考えはない。遺憾ながら私はこれは中学生くらいの質問だと思うのです。中学生でもわかるだろうと思うのです。その点は実際の内容だけの問題でなく、三つの要件が問題ですから、内容がよければいいというなら、これは専制君主だって内容のいいものを出すかもしれないです。ですから内容というのはおのずから来ますが、決してそうではないと私は断言するわけであります。