和歌森太郎の発言 (内閣委員会公聴会)
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○和歌森公述人 私は日本歴史と日本の民俗学、この両方の学問の境界線において研究をしておるものでありますが、特にお祭とか年中行事について専攻しております。その立場からこの問題についての学問的な私の考えを申し上げたいと思うのでありますが、現在行われております国民の祝日というものが、非常にずさんにでき上っているということは、私どもの目から見て十分に感ずるのであります。それが慎重な学問的な根拠に基いて、あるいは日本の民衆の伝統に基いて制定されていないということを感じますので、全面的に再検討の要があるということは認めるのであります。そういう再検討の場合に、一般の世界の国々の国祭日がどんなふうに設けられておるかということを、まず確かめて参考にすべきかと思いますが、おもな国につきまして国が定めておる祝祭日を見てみますと、アメリカではリンカーンの誕生日、ワシントンの誕生日、陸軍記念日、母の記念日、南北戦争戦死者の記念日、フラッグ・デー、父の記念日、独立記念日、平和祈願の日、全国航空記念日、労働祭、アメリカ大陸発見記念日、セオドア・ルーズベルトの誕生日、第一次大戦の記念日、感謝祭、こんなふうになっております。それからイギリスでは全面的にキリスト教関係の記念日が多くありまして、ほとんどそれといってよろしいのでありますが、フランスではそうした宗教上の記念日以外に、四月一日に労働祭、五月の第二日曜にジャンヌ・ダルクの記念祭、七月十四日にフランス共和国の革命記念日、十一月一日にキリスト教の諸聖人祭、それから十一月十一日に第一次大戦の休戦記念日、十一月二十五日にカトリーヌの祭、これは婦人服やあるいは裁縫する、そういう仕事の人たちの守り神のお祭でありますが、そういった祝祭日がございます。ソ連ではレーニンの死んだ日、あるいは労働祭、十一月七日の革命記念日、それから憲法記念日、それからレニングラードのストライキの勃発した日、そういうふうに国柄で当然のことながらこういう記念日が祝祭日になっております。中国では孫文の誕生日、あるいは孔子節、それからまた双十節といったようなものがあった。これは現在とちょっと違っておりますが、そういうふうな例を一応見渡して、なおこまかに検討してみますと、総括して一つには歴史的な記念日ということであります。それからもう一つにはそれぞれの国民なり民族の生活に密着した宗教上の記念日、そういう性格を持っております。どの国の祝祭日もそういうふうな二つの面をもって構成されておるということがいえると思うのであります。宗教上の記念日ということが、今日問題になっております紀元節に関連する、建国記念日の問題に意味がつながるのでありますが、ここで注意しておきたいのは、どこまでも日常生活に相当に深くからみついてきた宗教的なほんとうの民衆の信仰的なものにからんでいる、そういう行事の日であるということであります。そういうふうな観点を立てまして、日本の今日行われております国民の祝日につきましても、やはり検討をし直すことが必要であるかと思うのであります。今見渡したように、実は建国記念日というものを持っておる国は、新しく独立なり、つまり植民地から独立した国、それから革命によって新興国を成就した国、そういう国だけでございまして、イギリスのような古い国におきましては、建国記念日がないのであります。そうであるのは、もちろんその建国の時点が、時のポイントがはっきりしないからだけのことであります。歴史的な記念日が国の祝祭日になるというのは、歴史的に明確な時点を持っておるということからくるのでありますが、あいまいであればそれを持ちようがないので、持っていないということになるのかと思います。しかしながらそれがないからといって、たとえばイギリスの国民が愛国の情において非常に弱い国民であるということはいえないかと思うのであります。愛国心を養うためにという理由によって、二月十一日に国の建国の記念日を制定したいという根拠が私には少しふに落ちないのであります。そういう理由でこの問題を考えるのは少し過ぎているんではないかということであります。
それから第二に、それにもかかわらず、とにかく今までわれわれの国において戦争が終るまで明治以来二月十一日という日を建国の記念日にしてきたのであるから、世界の諸国の情勢がどうであろうと、日本は日本としてその歴史の線に沿って建国の記念日を設けるべきであるという説が世に行われておるのでありますが、こうしたことの論拠といたしまして、個人の誕生日がそれぞれあって、これはみんなそれぞれお互いは客観的に、ほんとは知らないわけなんでありますが、そういうふうにいわれてきて知っておるわけなんです。そういう誕生日をお祝いするということが自然の感情としてあるではないか、だからして国家というものはやはりその誕生日を記念して祝うのがほんとうではないかというお考えがあるのでありますが、私はこれは少くとも自分のやっております日本の民俗学の研究の立場からいたしますと、非常に非日本的なお祝い行事であるということを感ずるのであります。初誕生と申しまして、満一年たちましたときに、家庭あるいはその近隣の者が集まりましてお祝いをしてやるということは、相当に根深い、伝統的な習俗になっておりますけれども、年々その誕生日を祝うということは、実は日本の民俗的な伝統の中からは出てこないのであります。そうして大正時代になりまして、モダン・ボーイ、モダン・ガールの風靡した時代がございましたが、そのころにヨーロッパのハイカラぶりを移し入れまして、そうしてこの誕生日を祝い会うということが都会あたりから始まったのであります。それが何となしに今一般化しておりまして、個人の誕生日のお祝いということが当然なもののように思われ、またそれを類推の根拠にいたしまして、国もまたしかるべきであるというふうに述べられるのでありますが、どうも私どもそれがほんの流行的な現象であるというふうにしか解釈されないので、それをもって、この国の誕生日云々というふうに類推を及ぼすことはまだ早いんではないかということを感ずるものであります。
それからもちろんこの二月十一日の日本の建国、これは神武天皇の御即位ということでいわれておるわけでありますが、そういうものに、日本書紀というものの史籍として、歴史の書物としてのいろんな弱点からして、確たる客観的な史実がくみとることができないということは、われわれ古代史の研究をしておる者として、いわば常識として持っておる判断でありますが、その日本書紀の性質や二月十一日となっておりますその神武天皇即位の文章につきましては、おそらく後ほど井上さんの方からこまかにお話があると思いますので、それに譲りたいと思いますが、とにかくこのあいまいな、史実とされておる、あいまいな表現となっておるこの二月十一日神武天皇即位ということにつきまして、これは私の解釈では、奈良時代に日本書紀の編さんをした人たちが、辛酉と書きましたかのととりの年の春正月の初め、一日です。春正月の初めに神武天皇が橿原宮において即位されたということを書いたその思想の方をわれわれ尊重すべきである、大事であるというふうに思うのであります。春正月の初めに神武天皇が即位したということを書いた。日本書紀の編さんをした人たちがそういうふうに考えて書いた、このことは何を意味しているかというと、日本の当時の奈良時代の、日本書紀を作り上げた人たちの頭の中で、われわれの国の前途洋々たるところがちょうど春の初め、旧暦で申しますならば正月の一日というのは春の初め、ちょうど立春の前後ごろになりますが、そういう境目にあって即位された、そうして意気揚々と国のいしずえを固めてここまで発展させてきたのだというふうに述べたかった、その観念というものをこの記事は明らかに示しておる。頭の中にあったそのことと、頭の外にあったそれからずっとさかのぼってのかのととりの年の正月元日即位ということとは全然別であって、客観的史実とはならないのであるということであります。従って率直に申しますと、奈良時代の支配者、時の貴族たちの一種の思想的な所産である、産物であるということになるのであって、これが長い間そういうふうに神武天皇即位が正月元日であって、そうだった、そうだった、そうだったといって言い伝え言い伝えしてきたものの痕跡がここに取り込まれたというものではなくて、あるいはそういうふうに考えた人は奈良時代より早くあったと思いますが、しかしそれは数百年とはさかのぼらないと思います。とにかく国家というものの確立が大化の改新、あるいはせいぜいさかのぼって聖徳太子というようなころに明確になってきた、そういう時期にわれわれの皇室の第一代の方が、春の初めにその地位につかれたのだ、こういうふうに言い伝えはしてきたでしょうが、言い伝えたことと史実とは別なのであります。そういう思想の方にもしわれわれが意を向けますならば、むしろ正月の初めとか、あるいは立春とか、そういうときに建国の記念の日を設ける方がよろしいのである。その方が民族の伝統なりあるいは昔ながらの考え方というものに即した持ち方ではないかというふうに思う。これを太陽暦に換算いたしまして、そうして明治の五年から六年にかけまして皇紀というものを定め、換算いたしまして、初めは一月二十九日という計算も出ましたが、二月十一日を明治六年に確立いたしまして、そうして宮中で紀元節祭を行われるから、そのときに国民も一緒にお祝いしようということで政府のおふれが出たわけであります。それまで宮中におきましては、いわゆる五節句、これがいわば年中行事であり国の公けの祝祭日というふうにして伝わってきておりました。私はこの五節句というものの味わい、これも相当中国の影響のあるもので、ほんとうの日本的なものというわけにはいかないかもしれませんけれども、相当長い間の歴史的な経験を積んできているものであって、この方にまだ意義深いものを感ずるのですが、それがあえて廃止されて、そうして天長節、紀元節、この二つがさしあたりまず取り上げられて、国の祝祭日になったということにやはり明治政府のイデオロギーと申しますか、国家についての自覚、考え方というものが十分によくくみとれると思います。つまり神武創業のいにしえに返るということが、この明治政府成立のスローガンでございました。当然そこから神武天皇というものへの懐古の念が強められて、そうして宮中でその第一代の天皇の御即位を記念する祭を行うということが、宮中即国家という考え方、天皇即国家という考え方で確立いたしました、この明治の政府による明治国家というものが押し出されてくるわけなんで、この二月十一日をもって紀元節として国の初めを祝わせるということになったところには、日本近代史上の特殊性というものが認められるように思われるのであります。だから、その当時、古来の神社神道というものが国家神道化する方向をぐんぐん高めて参りましたが、その国家神道となることと、宮中祭祈が国の祭祈であり、みんながそれぞれの地元々々において紀元節を祝うべき祭であるというふうに広げられてきたのだ、そういうことになる。こういうふうに考えますと、やはりその時代々々に相応した祝祭日というものの考え方があるのだ、歴史とともにこれは考えるべきものである。われわれが明治政府の行き方というものをそのまま今日とるならば、まだそういう説もあっていいわけなんですが、われわれどうしても今の日本の国というものをそのままの構造で、明治政府が支配体制をしいたそういう格好の国として自覚することは、とうていできないのであります。現代には現代相応の祝祭日の考え方というものがある。しかし、それはいつでも、先ほどから申しておりますように、一つは民族の伝統ということ、それから一つは現代の社会的な意義というものからからみついた、そこで交差するところに祝祭日というものを設けなければならない。そういう点で、二月十一日というものは一つの時代の一つの特殊な産物であって、伝統というふうなものではない。よく人は二月十一日は伝統というか、あるいは伝説なんだから、はやはりそのまま尊重して記念するのはかまわないじゃないかということを言われますが、私はこれを伝説とは見ません。このことは民族学の本をお読みになっていただけばすぐわかりますが、こうしたものは伝説とはいわないで、先ほど申しましたように、これは思想的な産物だというふうに扱うのであります。伝説というものはもう少しみんなの生活の中に密着してきて、それなしでは日常生活というものが規律されてこなかった、そういうもっと意味深いのものについていうのでありまして、特定の層の人たちが特に考えたものをもって伝説とはいわないのであります。そういう点で、江戸時代以前の歴史を見てもわかりますように、こうしたものが非常に上っつらのものであって、根深いものを持っていなかったということも考えていただきたいと思うのであります。
私の今申しましたことは、明治国家というものと現代日本国家というものの根本構造の違いから、やはりそういうものをそのまま引き継ぐわけにはいかない。たとい名前は紀元節という名前をとらなくても、それが同じ日であり、同じような意識をまだ低迷させておるような人々が、国民の中に多数おるのでありますから、そういうものになずんでしまうようないき方は、かえってわれわれの国家のあり方というものを変に向けていくものではないかというふうに解釈するものであります。初め、明治のときに、こういうふうな紀元節祭を宮中で行うから、国の祝祭日にする、みんな国旗を掲げてお祝いするようにというおふれを出しても、なかなか国民が踊らなかったということは、ベルツの日記にも出てくるのでありまして、非常にみんな冷やかであったのであります。それが一段と強調されましたのは、帝国憲法の制定されたときであります。二月十一日に、御承知の通り、帝国憲法は公布されました。それでお祝いをみんなやったのでありますが、そのときに雲にそびゆる高千穂のという、われわれにとってはなつかしいかもしれません、そういう歌が公けにも歌われるようになりました。それで紀元節のささえられてきた第二段階に達しましたが、さらに第三段階、これは満州事変前後からでございまして、このときになってやや熱狂的なある団体の盛り上りがありまして、建国祭という名目のもとに一種の民間行事風なものとして、相当にやかましい盛んなお祭が行われ、これに同調しない者に対して何か非愛国的な者であるかのような冷罵を浴びせるという傾向さえあったことは、われわれの記憶にまだなまなましいところであります。そういうふうなことで、これはまた戦争とともにあおられてきたということを感ずるのであります。私ども歴史学というものをやっておりますと、一つの事柄とほかの事柄とがどういうふうに関係するものかということについての研究をするのが歴史学だと思っておりますので、同じ時代における趣きの違った現象の関連ということを考えるのであります。従ってこの建国の記念日というものを直ちに二月十一日というふうに定めると、その昔に紀元節というものに関連していろいろなものがあった、そのことがやはり可能性としては出やすくなる危険を感ずるのであります。こっちの方はふさいでいけばいいのだ、建国記念日だけは二月十一日というふうにしていけばよろしいというふうにして、それだけをぎゅうぎゅう守り育てていき、あとは排除するということは実際問題としてなかなかできないものだということを思うのであります。一種の雰囲気ができやすい、そういう面については、一つは歴史学の方面から井上さんからお話があるかと思いますが、そういうふうな見方で、これはよほど慎重に考慮されなければいけないのじゃないかというふうに考えております。もう少し民衆の年中行事というようなものに即して、なお二十世紀の後半に入りました段階で、どういうふうなものを祝祭日にとったらいいのかということをもう少しゆっくり考えながら、慎重に検討した上でこの問題を再整理するということをやっていただきたいと私は思うのであります。
速急に思いつきあるいは何かの因縁で、あるいは郷愁でこれを戻す、変更してしまうということは危険である。どうもやはり上から押しつけるというふうなものよりは、一般の民衆の生活感情というものをよく吟味していただきたい。今日世論の中で、非常にパーセンテージが多くこの二月十一日の建国の日を迎えたい、記念日を設けたいという声があることはよく承知しておりますが、それぞれの内情といいますか、内心はずいぶんといろいろな動機があるかと思うのであります。単なる休みがほしいというくだらない議論もありますし、また単に昔やっていたというようなことでもってそういうことを連想して、それを願いたいというふうな声もあるのでありまして、もう少し国民の座興的な教養というものがつちかわれてきました段階、十年、二十年先になったらおそらく今そういうふうなことを実現した場合に、笑いものにするのではないかということを思うのであります。今のところまだ過渡期でありまして、もう少し見きわめて落ちついてこの問題を取り上げるようにした方がよいのではないか。さしあたりのところは、クリスマスと類推することはいけないことでありましょうけれども、かりに例をあげれば、そういうふうな民衆自体でもってお祝いしたいということで、ある部局々々で、あるいは村なり町なりでこの二月十一日を信じて、建国の日だというふうに信仰する者によってお祭をすることは、ごく自由ではないか。国家としてこれを分けにきめて、全面的に祝祭日にきめるということは非常に行き過ぎではないか。もっと伸びやかに神社に集まってこの二月十一日にお祝いをしたい人はするというふうにしていった方がいいのではないか。いろいろな政治的なあるいは教育的なものとこれを結びつけたり何かすることのないようにしていただきたい、そう思うのであります。
なお、憲法まで持ち出すなら、今日行われております憲法は、そういう神社神道を国家神道化することをはばんだものでありまして、その抵抗、そういう制約から見ましても、これは簡単に二月十一日の、それぞれの神社ごとにお祭すべきものを国としての祝祭日というふうにきめて、また神社のあり方に対して、国家というものが政治的にかかわりを持ってくるというふうなことにもなる一つのきざしが現われるのではないか、そんなふうに考えられて、どうもこういう御提案はふに落ちないものがあるということを申し上げたのであります。(拍手)