内閣委員会公聴会
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会
会議録情報#0
昭和三十二年五月八日(水曜日)
午前十時三十二分開議
出席委員
委員長 相川 勝六君
理事 福井 順一君 理事 床次 徳二君
理事 保科善四郎君 理事 石橋 政嗣君
理事 受田 新吉君
小川 半次君 大坪 保雄君
大村 清一君 北 れい吉君
纐纈 彌三君 船田 中君
眞崎 勝次君 粟山 博君
茜ケ久保重光君 淡谷 悠藏君
稻村 隆一君 下川儀太郎君
中村 高一君
出席公述人
東京教育大学教
授 和歌森太郎君
歴史研究家 森 清人君
東京大学助教授 井上 光貞君
国学院大学教授 小野 祖教君
委員外の出席者
専 門 員 安倍 三郎君
―――――――――――――
本日の公聴会で意見を聞いた案件
国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律
案(纐纈彌三君外三十七名提出、衆法第一号)
―――――――――――――
この発言だけを見る →午前十時三十二分開議
出席委員
委員長 相川 勝六君
理事 福井 順一君 理事 床次 徳二君
理事 保科善四郎君 理事 石橋 政嗣君
理事 受田 新吉君
小川 半次君 大坪 保雄君
大村 清一君 北 れい吉君
纐纈 彌三君 船田 中君
眞崎 勝次君 粟山 博君
茜ケ久保重光君 淡谷 悠藏君
稻村 隆一君 下川儀太郎君
中村 高一君
出席公述人
東京教育大学教
授 和歌森太郎君
歴史研究家 森 清人君
東京大学助教授 井上 光貞君
国学院大学教授 小野 祖教君
委員外の出席者
専 門 員 安倍 三郎君
―――――――――――――
本日の公聴会で意見を聞いた案件
国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律
案(纐纈彌三君外三十七名提出、衆法第一号)
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相
相川勝六#1
○相川委員長 これより国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案について内閣委員会公聴会を開会いたします。
本日御出席をいただきました公述人は、東京教育大学教授和歌森太郎君、歴史研究家森清人君、東京大学助教授井上光貞君、国学院大学教授小野祖教君の四名であります。
この際公述人各位に一言ごあいさつ申し上げます。本日は御多忙中にもかかわらず貴重なるお時間をさいて御出席をいただき厚く御礼を申し上げます。本法律案は御承知の通り建国記念の日として二月十一日を新たに国民の祝日に追加しようとするものであります。当委員会におきましては、先般来より本法律案の審議を慎重に進めて参っておりますが、広く公正なる世論を反映せしむるため、本日ここに公聴会を開会し、公述人各位の御出席をお願いいたした次第でございます。何とぞ当委員会審査のため、忌憚なき御意見なり、御批判なりを賜わらんことを切にお願いいたします。
以上簡単でありますがごあいさつにかえる次第であります。
それではこれより御意見を承わることといたしますが、便宜上午前中公述人各位の御意見を一通り伺った上で、委員各位より公述人各位に対する質疑は午後にこれを行うことといたします。なお御発言は一人当り約三十分程度にお願いいたします。
なおこの際念のため公述人各位に申し上げますが、衆議院規則の定めるところによりまして、公述人各位の御発言は委員長の許可を得ること、またその御発言の内容は、意見を聞こうとする問題外にわたらないこと、公述人から委員に対しての質疑をしてはならないことになっておりますので、この点をお含みおきの上御発言をお願いいたします。御発言の順序は、お手元に印刷配付いたしております公述人名簿の順序によりお願いすることといたします。初めに和歌森太郎君にお願いいたします。和歌森君。
この発言だけを見る →本日御出席をいただきました公述人は、東京教育大学教授和歌森太郎君、歴史研究家森清人君、東京大学助教授井上光貞君、国学院大学教授小野祖教君の四名であります。
この際公述人各位に一言ごあいさつ申し上げます。本日は御多忙中にもかかわらず貴重なるお時間をさいて御出席をいただき厚く御礼を申し上げます。本法律案は御承知の通り建国記念の日として二月十一日を新たに国民の祝日に追加しようとするものであります。当委員会におきましては、先般来より本法律案の審議を慎重に進めて参っておりますが、広く公正なる世論を反映せしむるため、本日ここに公聴会を開会し、公述人各位の御出席をお願いいたした次第でございます。何とぞ当委員会審査のため、忌憚なき御意見なり、御批判なりを賜わらんことを切にお願いいたします。
以上簡単でありますがごあいさつにかえる次第であります。
それではこれより御意見を承わることといたしますが、便宜上午前中公述人各位の御意見を一通り伺った上で、委員各位より公述人各位に対する質疑は午後にこれを行うことといたします。なお御発言は一人当り約三十分程度にお願いいたします。
なおこの際念のため公述人各位に申し上げますが、衆議院規則の定めるところによりまして、公述人各位の御発言は委員長の許可を得ること、またその御発言の内容は、意見を聞こうとする問題外にわたらないこと、公述人から委員に対しての質疑をしてはならないことになっておりますので、この点をお含みおきの上御発言をお願いいたします。御発言の順序は、お手元に印刷配付いたしております公述人名簿の順序によりお願いすることといたします。初めに和歌森太郎君にお願いいたします。和歌森君。
和
和歌森太郎#2
○和歌森公述人 私は日本歴史と日本の民俗学、この両方の学問の境界線において研究をしておるものでありますが、特にお祭とか年中行事について専攻しております。その立場からこの問題についての学問的な私の考えを申し上げたいと思うのでありますが、現在行われております国民の祝日というものが、非常にずさんにでき上っているということは、私どもの目から見て十分に感ずるのであります。それが慎重な学問的な根拠に基いて、あるいは日本の民衆の伝統に基いて制定されていないということを感じますので、全面的に再検討の要があるということは認めるのであります。そういう再検討の場合に、一般の世界の国々の国祭日がどんなふうに設けられておるかということを、まず確かめて参考にすべきかと思いますが、おもな国につきまして国が定めておる祝祭日を見てみますと、アメリカではリンカーンの誕生日、ワシントンの誕生日、陸軍記念日、母の記念日、南北戦争戦死者の記念日、フラッグ・デー、父の記念日、独立記念日、平和祈願の日、全国航空記念日、労働祭、アメリカ大陸発見記念日、セオドア・ルーズベルトの誕生日、第一次大戦の記念日、感謝祭、こんなふうになっております。それからイギリスでは全面的にキリスト教関係の記念日が多くありまして、ほとんどそれといってよろしいのでありますが、フランスではそうした宗教上の記念日以外に、四月一日に労働祭、五月の第二日曜にジャンヌ・ダルクの記念祭、七月十四日にフランス共和国の革命記念日、十一月一日にキリスト教の諸聖人祭、それから十一月十一日に第一次大戦の休戦記念日、十一月二十五日にカトリーヌの祭、これは婦人服やあるいは裁縫する、そういう仕事の人たちの守り神のお祭でありますが、そういった祝祭日がございます。ソ連ではレーニンの死んだ日、あるいは労働祭、十一月七日の革命記念日、それから憲法記念日、それからレニングラードのストライキの勃発した日、そういうふうに国柄で当然のことながらこういう記念日が祝祭日になっております。中国では孫文の誕生日、あるいは孔子節、それからまた双十節といったようなものがあった。これは現在とちょっと違っておりますが、そういうふうな例を一応見渡して、なおこまかに検討してみますと、総括して一つには歴史的な記念日ということであります。それからもう一つにはそれぞれの国民なり民族の生活に密着した宗教上の記念日、そういう性格を持っております。どの国の祝祭日もそういうふうな二つの面をもって構成されておるということがいえると思うのであります。宗教上の記念日ということが、今日問題になっております紀元節に関連する、建国記念日の問題に意味がつながるのでありますが、ここで注意しておきたいのは、どこまでも日常生活に相当に深くからみついてきた宗教的なほんとうの民衆の信仰的なものにからんでいる、そういう行事の日であるということであります。そういうふうな観点を立てまして、日本の今日行われております国民の祝日につきましても、やはり検討をし直すことが必要であるかと思うのであります。今見渡したように、実は建国記念日というものを持っておる国は、新しく独立なり、つまり植民地から独立した国、それから革命によって新興国を成就した国、そういう国だけでございまして、イギリスのような古い国におきましては、建国記念日がないのであります。そうであるのは、もちろんその建国の時点が、時のポイントがはっきりしないからだけのことであります。歴史的な記念日が国の祝祭日になるというのは、歴史的に明確な時点を持っておるということからくるのでありますが、あいまいであればそれを持ちようがないので、持っていないということになるのかと思います。しかしながらそれがないからといって、たとえばイギリスの国民が愛国の情において非常に弱い国民であるということはいえないかと思うのであります。愛国心を養うためにという理由によって、二月十一日に国の建国の記念日を制定したいという根拠が私には少しふに落ちないのであります。そういう理由でこの問題を考えるのは少し過ぎているんではないかということであります。
それから第二に、それにもかかわらず、とにかく今までわれわれの国において戦争が終るまで明治以来二月十一日という日を建国の記念日にしてきたのであるから、世界の諸国の情勢がどうであろうと、日本は日本としてその歴史の線に沿って建国の記念日を設けるべきであるという説が世に行われておるのでありますが、こうしたことの論拠といたしまして、個人の誕生日がそれぞれあって、これはみんなそれぞれお互いは客観的に、ほんとは知らないわけなんでありますが、そういうふうにいわれてきて知っておるわけなんです。そういう誕生日をお祝いするということが自然の感情としてあるではないか、だからして国家というものはやはりその誕生日を記念して祝うのがほんとうではないかというお考えがあるのでありますが、私はこれは少くとも自分のやっております日本の民俗学の研究の立場からいたしますと、非常に非日本的なお祝い行事であるということを感ずるのであります。初誕生と申しまして、満一年たちましたときに、家庭あるいはその近隣の者が集まりましてお祝いをしてやるということは、相当に根深い、伝統的な習俗になっておりますけれども、年々その誕生日を祝うということは、実は日本の民俗的な伝統の中からは出てこないのであります。そうして大正時代になりまして、モダン・ボーイ、モダン・ガールの風靡した時代がございましたが、そのころにヨーロッパのハイカラぶりを移し入れまして、そうしてこの誕生日を祝い会うということが都会あたりから始まったのであります。それが何となしに今一般化しておりまして、個人の誕生日のお祝いということが当然なもののように思われ、またそれを類推の根拠にいたしまして、国もまたしかるべきであるというふうに述べられるのでありますが、どうも私どもそれがほんの流行的な現象であるというふうにしか解釈されないので、それをもって、この国の誕生日云々というふうに類推を及ぼすことはまだ早いんではないかということを感ずるものであります。
それからもちろんこの二月十一日の日本の建国、これは神武天皇の御即位ということでいわれておるわけでありますが、そういうものに、日本書紀というものの史籍として、歴史の書物としてのいろんな弱点からして、確たる客観的な史実がくみとることができないということは、われわれ古代史の研究をしておる者として、いわば常識として持っておる判断でありますが、その日本書紀の性質や二月十一日となっておりますその神武天皇即位の文章につきましては、おそらく後ほど井上さんの方からこまかにお話があると思いますので、それに譲りたいと思いますが、とにかくこのあいまいな、史実とされておる、あいまいな表現となっておるこの二月十一日神武天皇即位ということにつきまして、これは私の解釈では、奈良時代に日本書紀の編さんをした人たちが、辛酉と書きましたかのととりの年の春正月の初め、一日です。春正月の初めに神武天皇が橿原宮において即位されたということを書いたその思想の方をわれわれ尊重すべきである、大事であるというふうに思うのであります。春正月の初めに神武天皇が即位したということを書いた。日本書紀の編さんをした人たちがそういうふうに考えて書いた、このことは何を意味しているかというと、日本の当時の奈良時代の、日本書紀を作り上げた人たちの頭の中で、われわれの国の前途洋々たるところがちょうど春の初め、旧暦で申しますならば正月の一日というのは春の初め、ちょうど立春の前後ごろになりますが、そういう境目にあって即位された、そうして意気揚々と国のいしずえを固めてここまで発展させてきたのだというふうに述べたかった、その観念というものをこの記事は明らかに示しておる。頭の中にあったそのことと、頭の外にあったそれからずっとさかのぼってのかのととりの年の正月元日即位ということとは全然別であって、客観的史実とはならないのであるということであります。従って率直に申しますと、奈良時代の支配者、時の貴族たちの一種の思想的な所産である、産物であるということになるのであって、これが長い間そういうふうに神武天皇即位が正月元日であって、そうだった、そうだった、そうだったといって言い伝え言い伝えしてきたものの痕跡がここに取り込まれたというものではなくて、あるいはそういうふうに考えた人は奈良時代より早くあったと思いますが、しかしそれは数百年とはさかのぼらないと思います。とにかく国家というものの確立が大化の改新、あるいはせいぜいさかのぼって聖徳太子というようなころに明確になってきた、そういう時期にわれわれの皇室の第一代の方が、春の初めにその地位につかれたのだ、こういうふうに言い伝えはしてきたでしょうが、言い伝えたことと史実とは別なのであります。そういう思想の方にもしわれわれが意を向けますならば、むしろ正月の初めとか、あるいは立春とか、そういうときに建国の記念の日を設ける方がよろしいのである。その方が民族の伝統なりあるいは昔ながらの考え方というものに即した持ち方ではないかというふうに思う。これを太陽暦に換算いたしまして、そうして明治の五年から六年にかけまして皇紀というものを定め、換算いたしまして、初めは一月二十九日という計算も出ましたが、二月十一日を明治六年に確立いたしまして、そうして宮中で紀元節祭を行われるから、そのときに国民も一緒にお祝いしようということで政府のおふれが出たわけであります。それまで宮中におきましては、いわゆる五節句、これがいわば年中行事であり国の公けの祝祭日というふうにして伝わってきておりました。私はこの五節句というものの味わい、これも相当中国の影響のあるもので、ほんとうの日本的なものというわけにはいかないかもしれませんけれども、相当長い間の歴史的な経験を積んできているものであって、この方にまだ意義深いものを感ずるのですが、それがあえて廃止されて、そうして天長節、紀元節、この二つがさしあたりまず取り上げられて、国の祝祭日になったということにやはり明治政府のイデオロギーと申しますか、国家についての自覚、考え方というものが十分によくくみとれると思います。つまり神武創業のいにしえに返るということが、この明治政府成立のスローガンでございました。当然そこから神武天皇というものへの懐古の念が強められて、そうして宮中でその第一代の天皇の御即位を記念する祭を行うということが、宮中即国家という考え方、天皇即国家という考え方で確立いたしました、この明治の政府による明治国家というものが押し出されてくるわけなんで、この二月十一日をもって紀元節として国の初めを祝わせるということになったところには、日本近代史上の特殊性というものが認められるように思われるのであります。だから、その当時、古来の神社神道というものが国家神道化する方向をぐんぐん高めて参りましたが、その国家神道となることと、宮中祭祈が国の祭祈であり、みんながそれぞれの地元々々において紀元節を祝うべき祭であるというふうに広げられてきたのだ、そういうことになる。こういうふうに考えますと、やはりその時代々々に相応した祝祭日というものの考え方があるのだ、歴史とともにこれは考えるべきものである。われわれが明治政府の行き方というものをそのまま今日とるならば、まだそういう説もあっていいわけなんですが、われわれどうしても今の日本の国というものをそのままの構造で、明治政府が支配体制をしいたそういう格好の国として自覚することは、とうていできないのであります。現代には現代相応の祝祭日の考え方というものがある。しかし、それはいつでも、先ほどから申しておりますように、一つは民族の伝統ということ、それから一つは現代の社会的な意義というものからからみついた、そこで交差するところに祝祭日というものを設けなければならない。そういう点で、二月十一日というものは一つの時代の一つの特殊な産物であって、伝統というふうなものではない。よく人は二月十一日は伝統というか、あるいは伝説なんだから、はやはりそのまま尊重して記念するのはかまわないじゃないかということを言われますが、私はこれを伝説とは見ません。このことは民族学の本をお読みになっていただけばすぐわかりますが、こうしたものは伝説とはいわないで、先ほど申しましたように、これは思想的な産物だというふうに扱うのであります。伝説というものはもう少しみんなの生活の中に密着してきて、それなしでは日常生活というものが規律されてこなかった、そういうもっと意味深いのものについていうのでありまして、特定の層の人たちが特に考えたものをもって伝説とはいわないのであります。そういう点で、江戸時代以前の歴史を見てもわかりますように、こうしたものが非常に上っつらのものであって、根深いものを持っていなかったということも考えていただきたいと思うのであります。
私の今申しましたことは、明治国家というものと現代日本国家というものの根本構造の違いから、やはりそういうものをそのまま引き継ぐわけにはいかない。たとい名前は紀元節という名前をとらなくても、それが同じ日であり、同じような意識をまだ低迷させておるような人々が、国民の中に多数おるのでありますから、そういうものになずんでしまうようないき方は、かえってわれわれの国家のあり方というものを変に向けていくものではないかというふうに解釈するものであります。初め、明治のときに、こういうふうな紀元節祭を宮中で行うから、国の祝祭日にする、みんな国旗を掲げてお祝いするようにというおふれを出しても、なかなか国民が踊らなかったということは、ベルツの日記にも出てくるのでありまして、非常にみんな冷やかであったのであります。それが一段と強調されましたのは、帝国憲法の制定されたときであります。二月十一日に、御承知の通り、帝国憲法は公布されました。それでお祝いをみんなやったのでありますが、そのときに雲にそびゆる高千穂のという、われわれにとってはなつかしいかもしれません、そういう歌が公けにも歌われるようになりました。それで紀元節のささえられてきた第二段階に達しましたが、さらに第三段階、これは満州事変前後からでございまして、このときになってやや熱狂的なある団体の盛り上りがありまして、建国祭という名目のもとに一種の民間行事風なものとして、相当にやかましい盛んなお祭が行われ、これに同調しない者に対して何か非愛国的な者であるかのような冷罵を浴びせるという傾向さえあったことは、われわれの記憶にまだなまなましいところであります。そういうふうなことで、これはまた戦争とともにあおられてきたということを感ずるのであります。私ども歴史学というものをやっておりますと、一つの事柄とほかの事柄とがどういうふうに関係するものかということについての研究をするのが歴史学だと思っておりますので、同じ時代における趣きの違った現象の関連ということを考えるのであります。従ってこの建国の記念日というものを直ちに二月十一日というふうに定めると、その昔に紀元節というものに関連していろいろなものがあった、そのことがやはり可能性としては出やすくなる危険を感ずるのであります。こっちの方はふさいでいけばいいのだ、建国記念日だけは二月十一日というふうにしていけばよろしいというふうにして、それだけをぎゅうぎゅう守り育てていき、あとは排除するということは実際問題としてなかなかできないものだということを思うのであります。一種の雰囲気ができやすい、そういう面については、一つは歴史学の方面から井上さんからお話があるかと思いますが、そういうふうな見方で、これはよほど慎重に考慮されなければいけないのじゃないかというふうに考えております。もう少し民衆の年中行事というようなものに即して、なお二十世紀の後半に入りました段階で、どういうふうなものを祝祭日にとったらいいのかということをもう少しゆっくり考えながら、慎重に検討した上でこの問題を再整理するということをやっていただきたいと私は思うのであります。
速急に思いつきあるいは何かの因縁で、あるいは郷愁でこれを戻す、変更してしまうということは危険である。どうもやはり上から押しつけるというふうなものよりは、一般の民衆の生活感情というものをよく吟味していただきたい。今日世論の中で、非常にパーセンテージが多くこの二月十一日の建国の日を迎えたい、記念日を設けたいという声があることはよく承知しておりますが、それぞれの内情といいますか、内心はずいぶんといろいろな動機があるかと思うのであります。単なる休みがほしいというくだらない議論もありますし、また単に昔やっていたというようなことでもってそういうことを連想して、それを願いたいというふうな声もあるのでありまして、もう少し国民の座興的な教養というものがつちかわれてきました段階、十年、二十年先になったらおそらく今そういうふうなことを実現した場合に、笑いものにするのではないかということを思うのであります。今のところまだ過渡期でありまして、もう少し見きわめて落ちついてこの問題を取り上げるようにした方がよいのではないか。さしあたりのところは、クリスマスと類推することはいけないことでありましょうけれども、かりに例をあげれば、そういうふうな民衆自体でもってお祝いしたいということで、ある部局々々で、あるいは村なり町なりでこの二月十一日を信じて、建国の日だというふうに信仰する者によってお祭をすることは、ごく自由ではないか。国家としてこれを分けにきめて、全面的に祝祭日にきめるということは非常に行き過ぎではないか。もっと伸びやかに神社に集まってこの二月十一日にお祝いをしたい人はするというふうにしていった方がいいのではないか。いろいろな政治的なあるいは教育的なものとこれを結びつけたり何かすることのないようにしていただきたい、そう思うのであります。
なお、憲法まで持ち出すなら、今日行われております憲法は、そういう神社神道を国家神道化することをはばんだものでありまして、その抵抗、そういう制約から見ましても、これは簡単に二月十一日の、それぞれの神社ごとにお祭すべきものを国としての祝祭日というふうにきめて、また神社のあり方に対して、国家というものが政治的にかかわりを持ってくるというふうなことにもなる一つのきざしが現われるのではないか、そんなふうに考えられて、どうもこういう御提案はふに落ちないものがあるということを申し上げたのであります。拍手
この発言だけを見る →それから第二に、それにもかかわらず、とにかく今までわれわれの国において戦争が終るまで明治以来二月十一日という日を建国の記念日にしてきたのであるから、世界の諸国の情勢がどうであろうと、日本は日本としてその歴史の線に沿って建国の記念日を設けるべきであるという説が世に行われておるのでありますが、こうしたことの論拠といたしまして、個人の誕生日がそれぞれあって、これはみんなそれぞれお互いは客観的に、ほんとは知らないわけなんでありますが、そういうふうにいわれてきて知っておるわけなんです。そういう誕生日をお祝いするということが自然の感情としてあるではないか、だからして国家というものはやはりその誕生日を記念して祝うのがほんとうではないかというお考えがあるのでありますが、私はこれは少くとも自分のやっております日本の民俗学の研究の立場からいたしますと、非常に非日本的なお祝い行事であるということを感ずるのであります。初誕生と申しまして、満一年たちましたときに、家庭あるいはその近隣の者が集まりましてお祝いをしてやるということは、相当に根深い、伝統的な習俗になっておりますけれども、年々その誕生日を祝うということは、実は日本の民俗的な伝統の中からは出てこないのであります。そうして大正時代になりまして、モダン・ボーイ、モダン・ガールの風靡した時代がございましたが、そのころにヨーロッパのハイカラぶりを移し入れまして、そうしてこの誕生日を祝い会うということが都会あたりから始まったのであります。それが何となしに今一般化しておりまして、個人の誕生日のお祝いということが当然なもののように思われ、またそれを類推の根拠にいたしまして、国もまたしかるべきであるというふうに述べられるのでありますが、どうも私どもそれがほんの流行的な現象であるというふうにしか解釈されないので、それをもって、この国の誕生日云々というふうに類推を及ぼすことはまだ早いんではないかということを感ずるものであります。
それからもちろんこの二月十一日の日本の建国、これは神武天皇の御即位ということでいわれておるわけでありますが、そういうものに、日本書紀というものの史籍として、歴史の書物としてのいろんな弱点からして、確たる客観的な史実がくみとることができないということは、われわれ古代史の研究をしておる者として、いわば常識として持っておる判断でありますが、その日本書紀の性質や二月十一日となっておりますその神武天皇即位の文章につきましては、おそらく後ほど井上さんの方からこまかにお話があると思いますので、それに譲りたいと思いますが、とにかくこのあいまいな、史実とされておる、あいまいな表現となっておるこの二月十一日神武天皇即位ということにつきまして、これは私の解釈では、奈良時代に日本書紀の編さんをした人たちが、辛酉と書きましたかのととりの年の春正月の初め、一日です。春正月の初めに神武天皇が橿原宮において即位されたということを書いたその思想の方をわれわれ尊重すべきである、大事であるというふうに思うのであります。春正月の初めに神武天皇が即位したということを書いた。日本書紀の編さんをした人たちがそういうふうに考えて書いた、このことは何を意味しているかというと、日本の当時の奈良時代の、日本書紀を作り上げた人たちの頭の中で、われわれの国の前途洋々たるところがちょうど春の初め、旧暦で申しますならば正月の一日というのは春の初め、ちょうど立春の前後ごろになりますが、そういう境目にあって即位された、そうして意気揚々と国のいしずえを固めてここまで発展させてきたのだというふうに述べたかった、その観念というものをこの記事は明らかに示しておる。頭の中にあったそのことと、頭の外にあったそれからずっとさかのぼってのかのととりの年の正月元日即位ということとは全然別であって、客観的史実とはならないのであるということであります。従って率直に申しますと、奈良時代の支配者、時の貴族たちの一種の思想的な所産である、産物であるということになるのであって、これが長い間そういうふうに神武天皇即位が正月元日であって、そうだった、そうだった、そうだったといって言い伝え言い伝えしてきたものの痕跡がここに取り込まれたというものではなくて、あるいはそういうふうに考えた人は奈良時代より早くあったと思いますが、しかしそれは数百年とはさかのぼらないと思います。とにかく国家というものの確立が大化の改新、あるいはせいぜいさかのぼって聖徳太子というようなころに明確になってきた、そういう時期にわれわれの皇室の第一代の方が、春の初めにその地位につかれたのだ、こういうふうに言い伝えはしてきたでしょうが、言い伝えたことと史実とは別なのであります。そういう思想の方にもしわれわれが意を向けますならば、むしろ正月の初めとか、あるいは立春とか、そういうときに建国の記念の日を設ける方がよろしいのである。その方が民族の伝統なりあるいは昔ながらの考え方というものに即した持ち方ではないかというふうに思う。これを太陽暦に換算いたしまして、そうして明治の五年から六年にかけまして皇紀というものを定め、換算いたしまして、初めは一月二十九日という計算も出ましたが、二月十一日を明治六年に確立いたしまして、そうして宮中で紀元節祭を行われるから、そのときに国民も一緒にお祝いしようということで政府のおふれが出たわけであります。それまで宮中におきましては、いわゆる五節句、これがいわば年中行事であり国の公けの祝祭日というふうにして伝わってきておりました。私はこの五節句というものの味わい、これも相当中国の影響のあるもので、ほんとうの日本的なものというわけにはいかないかもしれませんけれども、相当長い間の歴史的な経験を積んできているものであって、この方にまだ意義深いものを感ずるのですが、それがあえて廃止されて、そうして天長節、紀元節、この二つがさしあたりまず取り上げられて、国の祝祭日になったということにやはり明治政府のイデオロギーと申しますか、国家についての自覚、考え方というものが十分によくくみとれると思います。つまり神武創業のいにしえに返るということが、この明治政府成立のスローガンでございました。当然そこから神武天皇というものへの懐古の念が強められて、そうして宮中でその第一代の天皇の御即位を記念する祭を行うということが、宮中即国家という考え方、天皇即国家という考え方で確立いたしました、この明治の政府による明治国家というものが押し出されてくるわけなんで、この二月十一日をもって紀元節として国の初めを祝わせるということになったところには、日本近代史上の特殊性というものが認められるように思われるのであります。だから、その当時、古来の神社神道というものが国家神道化する方向をぐんぐん高めて参りましたが、その国家神道となることと、宮中祭祈が国の祭祈であり、みんながそれぞれの地元々々において紀元節を祝うべき祭であるというふうに広げられてきたのだ、そういうことになる。こういうふうに考えますと、やはりその時代々々に相応した祝祭日というものの考え方があるのだ、歴史とともにこれは考えるべきものである。われわれが明治政府の行き方というものをそのまま今日とるならば、まだそういう説もあっていいわけなんですが、われわれどうしても今の日本の国というものをそのままの構造で、明治政府が支配体制をしいたそういう格好の国として自覚することは、とうていできないのであります。現代には現代相応の祝祭日の考え方というものがある。しかし、それはいつでも、先ほどから申しておりますように、一つは民族の伝統ということ、それから一つは現代の社会的な意義というものからからみついた、そこで交差するところに祝祭日というものを設けなければならない。そういう点で、二月十一日というものは一つの時代の一つの特殊な産物であって、伝統というふうなものではない。よく人は二月十一日は伝統というか、あるいは伝説なんだから、はやはりそのまま尊重して記念するのはかまわないじゃないかということを言われますが、私はこれを伝説とは見ません。このことは民族学の本をお読みになっていただけばすぐわかりますが、こうしたものは伝説とはいわないで、先ほど申しましたように、これは思想的な産物だというふうに扱うのであります。伝説というものはもう少しみんなの生活の中に密着してきて、それなしでは日常生活というものが規律されてこなかった、そういうもっと意味深いのものについていうのでありまして、特定の層の人たちが特に考えたものをもって伝説とはいわないのであります。そういう点で、江戸時代以前の歴史を見てもわかりますように、こうしたものが非常に上っつらのものであって、根深いものを持っていなかったということも考えていただきたいと思うのであります。
私の今申しましたことは、明治国家というものと現代日本国家というものの根本構造の違いから、やはりそういうものをそのまま引き継ぐわけにはいかない。たとい名前は紀元節という名前をとらなくても、それが同じ日であり、同じような意識をまだ低迷させておるような人々が、国民の中に多数おるのでありますから、そういうものになずんでしまうようないき方は、かえってわれわれの国家のあり方というものを変に向けていくものではないかというふうに解釈するものであります。初め、明治のときに、こういうふうな紀元節祭を宮中で行うから、国の祝祭日にする、みんな国旗を掲げてお祝いするようにというおふれを出しても、なかなか国民が踊らなかったということは、ベルツの日記にも出てくるのでありまして、非常にみんな冷やかであったのであります。それが一段と強調されましたのは、帝国憲法の制定されたときであります。二月十一日に、御承知の通り、帝国憲法は公布されました。それでお祝いをみんなやったのでありますが、そのときに雲にそびゆる高千穂のという、われわれにとってはなつかしいかもしれません、そういう歌が公けにも歌われるようになりました。それで紀元節のささえられてきた第二段階に達しましたが、さらに第三段階、これは満州事変前後からでございまして、このときになってやや熱狂的なある団体の盛り上りがありまして、建国祭という名目のもとに一種の民間行事風なものとして、相当にやかましい盛んなお祭が行われ、これに同調しない者に対して何か非愛国的な者であるかのような冷罵を浴びせるという傾向さえあったことは、われわれの記憶にまだなまなましいところであります。そういうふうなことで、これはまた戦争とともにあおられてきたということを感ずるのであります。私ども歴史学というものをやっておりますと、一つの事柄とほかの事柄とがどういうふうに関係するものかということについての研究をするのが歴史学だと思っておりますので、同じ時代における趣きの違った現象の関連ということを考えるのであります。従ってこの建国の記念日というものを直ちに二月十一日というふうに定めると、その昔に紀元節というものに関連していろいろなものがあった、そのことがやはり可能性としては出やすくなる危険を感ずるのであります。こっちの方はふさいでいけばいいのだ、建国記念日だけは二月十一日というふうにしていけばよろしいというふうにして、それだけをぎゅうぎゅう守り育てていき、あとは排除するということは実際問題としてなかなかできないものだということを思うのであります。一種の雰囲気ができやすい、そういう面については、一つは歴史学の方面から井上さんからお話があるかと思いますが、そういうふうな見方で、これはよほど慎重に考慮されなければいけないのじゃないかというふうに考えております。もう少し民衆の年中行事というようなものに即して、なお二十世紀の後半に入りました段階で、どういうふうなものを祝祭日にとったらいいのかということをもう少しゆっくり考えながら、慎重に検討した上でこの問題を再整理するということをやっていただきたいと私は思うのであります。
速急に思いつきあるいは何かの因縁で、あるいは郷愁でこれを戻す、変更してしまうということは危険である。どうもやはり上から押しつけるというふうなものよりは、一般の民衆の生活感情というものをよく吟味していただきたい。今日世論の中で、非常にパーセンテージが多くこの二月十一日の建国の日を迎えたい、記念日を設けたいという声があることはよく承知しておりますが、それぞれの内情といいますか、内心はずいぶんといろいろな動機があるかと思うのであります。単なる休みがほしいというくだらない議論もありますし、また単に昔やっていたというようなことでもってそういうことを連想して、それを願いたいというふうな声もあるのでありまして、もう少し国民の座興的な教養というものがつちかわれてきました段階、十年、二十年先になったらおそらく今そういうふうなことを実現した場合に、笑いものにするのではないかということを思うのであります。今のところまだ過渡期でありまして、もう少し見きわめて落ちついてこの問題を取り上げるようにした方がよいのではないか。さしあたりのところは、クリスマスと類推することはいけないことでありましょうけれども、かりに例をあげれば、そういうふうな民衆自体でもってお祝いしたいということで、ある部局々々で、あるいは村なり町なりでこの二月十一日を信じて、建国の日だというふうに信仰する者によってお祭をすることは、ごく自由ではないか。国家としてこれを分けにきめて、全面的に祝祭日にきめるということは非常に行き過ぎではないか。もっと伸びやかに神社に集まってこの二月十一日にお祝いをしたい人はするというふうにしていった方がいいのではないか。いろいろな政治的なあるいは教育的なものとこれを結びつけたり何かすることのないようにしていただきたい、そう思うのであります。
なお、憲法まで持ち出すなら、今日行われております憲法は、そういう神社神道を国家神道化することをはばんだものでありまして、その抵抗、そういう制約から見ましても、これは簡単に二月十一日の、それぞれの神社ごとにお祭すべきものを国としての祝祭日というふうにきめて、また神社のあり方に対して、国家というものが政治的にかかわりを持ってくるというふうなことにもなる一つのきざしが現われるのではないか、そんなふうに考えられて、どうもこういう御提案はふに落ちないものがあるということを申し上げたのであります。拍手
相
森
森清人#4
○森公述人 ただいま紀元節復活の問題は非常に大きな社会問題となっておりますが、先般内閣委員会の方から議事録を送っていただきまして、それを拝見いたしまして、賛否両論の方がこの問題につきまして非常に真剣に討議をしておられますことを知りまして、深く敬意を表する次第でございます。
あの議事録を私はかなり入念に拝見いたしましたが、結局問題をしぼってみますと、反対の方の御意見は、建国記念日を設けること自体には反対ではない。しかし二月十一日という日がいけない。なぜいけないかというと、これはでたらめである、またうその歴史に基いておる、そういうようなうその史実に基いた国家の祝祭日というのはいけない。それからもう一つは、この建国記念日などというものは、侵略主義ないしは征服主義、そういったものとつながっておる、だからいけないという点が先般の内閣委員会で審議された最も重要な点であるように拝されます。そこで問題を四つにしぼりまして、しばらく私の卑見を申し上げたいと思います。
第一の問題は、紀元節には科学的な根拠がないという問題。第二は、日本の上代史はうそである、従ってそれに基いた紀元節は意味がない。第三は、二月十一日というものもでたらめにきめたものであって、あてにならない、第四は、神武東征は侵略主義、征服主義の実践であって、これに関する記念日を制定するのはよろしくない、大体ごくおもな点をかいつまんで要約しますと、以上の四点になるかと考えますが、簡単にこれに対する卑見を申し上げたいと思います。
最初に概括的なごく大事なことを一つ申し上げたいと思いますことは、この論は根本におきまして非常に大きな一つの誤まりの上に立っておると私は思うのです。と申しますのは、終戦後日本の紀元は六百年ばかり長いという問題が非常に問題となりまして、これがいつの間にか一つの流行学説みたいになりまして、今日では定説といわれている。そうしてそのために、紀から聖徳太子以前の上代史というものはほとんど削られておるというような状態でございます。そういったことが前提となってこれが考えられておるというところに、私どもがこの問題をあらためてしっかり考えなければならぬところがあるんじゃないかということを考える次第であります。
そこで第一の問題ですが、紀元節は科学的な根拠がない、議事録についてみますと、日本の紀元は引き延ばしがあるということは、久米博士もいっておられるし、今日では学界の定説である、学者の何人も否定するものはない、かようなでたらめな紀元を問題にした紀元節は不当であるというような意味のことが書いてあります。なるほど科学的根拠というのは、これはなかなかむずかしいことでございまして、いかなる学者でも、神武天皇が何年前に即位をされたというようなことを断定的に申すことはできないと思うのです。しかしただいま流行しておりますのは、これは有名な明治時代の那珂博士が唱えられた説がもとになっておるようでありますが、ただ那珂博士の説を定説ときめてしまって、それに基いてすべての判断をするということは、これは非常に危険だと思うのです。御承知のようにこの那珂博士の説は、今から七十年ばかり前の、歴史のきわめて幼稚な時代に立てられた説でありまして、今日から見まするといろいろと問題があるわけです。詳しいことは時間がございませんから申し上げるひまがございませんが、とにかく言い得ることは、一国の法律改正のもとになるということは、よほどこれは確定的な確説でなければならぬと思う。このようなまだ不確定な説をもととして、それによってこの法律改正ということが考えられることは、よほど慎重にしなければならぬのではないかと思います。もちろん日本書紀の紀元というものにも、調べてみまするとずいぶん間違いがございます。たとえば神功紀の後半にはっきり百二十年の間違いがある、こういうことはもちろん否定できません。しかしながらそうであるからといって、戦後流行しておりますこの説が正しいわけでもございません。お手元に参考資料というものを差し上げておきまして、この第一のところに六百年説の骨子となるものを六つ書いておきました。これは一々を説明する時間がございませんから項目だけを読みますが、六百年の年数がすでに問題がございまして、これは藤貞幹が天明年間に衝口発という本を書いて、その中で主張しておるものでありまして、学問的な理由、根拠というものは何も示しておりません。しいて言えば新羅の君長を素戔鳴尊であるときめて、その説のつじつまを合せるために六百年長いということを言い出した。それ以外に別に学問的なしっかりした根拠というものは示されておりません。それから上代天皇の長寿の問題、これはまた大事な問題でございますので、あとでちょっと触れたいと思います。それから日本書紀の紀元は推古九年の辛酉の年から千二百六十年逆算してきめたのだ、この説。この説にも十分批判の余地があると思う。それから卑弥呼比定の問題、神功紀年代の比定の問題、それから朝鮮、シナ――漢韓史との年代の比較問題、こういった問題が学問的には取り上げられなければならぬのであります。こういうことがまだほとんど論議されておりませんで、そうしていつの間にか学界の定説などと言われてしまった。少くとも学界の定説というところまで持ってくるためには、賛否両論の学者が十分な論議を尽して、そうして学説というものはおのずから帰着するところに帰着する。そこにほんとうの定説というものが生まれてくる。そういうような点におきまして、従来いわれております点に、よほど慎重にもう一ぺんじっくりと考え直すところがあるのではないかと思う次第であります。
それから第二の問題の上代天皇の長寿の問題、これも先般の内閣委員会でも問題になったようですが、これはまたよく世間の人も言うことなんです。なるほど日本書紀を見ますと、仁徳天皇以前の十六天皇のうちに百才以上の天皇が十二名ばかりおられる。これはだれが考えましても不合理であります。どんなに上代の天皇が長生きであったとしても、十六人の中で百才以上が十二名ある、そのようなことはあり得ない。しかしながら歴史の研究というものは、あらゆる角度から慎重に研究しなければならぬと思う。裏からも表からも、縦からも横からも、あらゆる角度から研究するのが歴史であります。そういう意味から考えますと、那珂博士がこの上代天皇の長寿の問題を人間生理の定則上あるべからず、こういったような簡単なことで割り切っておられる。これは十分考えなければならぬと思う。そのような歴史上の大事な問題は単なる人間生理の定則のみで片づけ得るような簡単なものではないと思う。たとえばここに、参考資料の二の方に七つの例をあげております。これも今は一々は説明できませんから、簡単に項目だけを読み上げますが、昔から――今日もありますが、襲名というものがございます。これは那珂博士も上代に襲名のあったことは認めておられます。たとえば彦火火出見尊、倭迹迹日百襲姫命あるいは八井耳尊あるいは吉備津彦尊、こういったものは非常に年代が長くなっておりますが、これは襲名によるものと考えられます。
それからまた天皇が複数に用いられた例があります。一人の天皇の名前が二人の天皇を示すような場合もある。その例を申し上げますれば、飛鳥浄見原御宇天皇、こういう一つの名前で文武天皇と持統天皇の二人が表わされておる。
あるいはまた空位――ただいまは明治以後皇室典範というものができまして以来天皇の空位というものはございませんが、上代には空位というものがしばしばございます。日本書紀を調べてみますると、この空位の年数も次の天皇の年数の中に含まれております。具体的な例を申しますれば、安閑天皇と継體天皇との間に空位がございますが、これは日本書紀では安閑天皇治世年数中に入っておる。あるいはまた日本書紀で削除されておる天皇もございます。たとえば弘文天皇のごときは削除されております。この弘文天皇が即位をされたということは明らかな歴史的な根拠がございます。それで明治三年に第三十九代として天皇に加えられたわけでありますが、こういうような例はほかにもある。市辺天皇という天皇が安閑天皇と雄略天皇の間に即位をされたということはこれも歴史の事実がございます。こういうような場合に日本書紀は、削除した場合の年数を調べてみますると、これを次の天皇の年数の中に入れておる。こういうことも日本番組の上代の天皇の年代が大きくなっておる一つの理由なんです。あるいはまた脱落した場合がある。今申しましたのは削除です。意識的に削った。そうではなく不注意で落すとか、あるいは資料が十分でなくて、わからぬで落したといったような脱落の例もあるのです。新しい例で申しますれば、大正十五年に九十八代に列しました長慶天皇、これは最近まで落しておった。歴史学が進んだ最近でもこういう事実があるのでありますから、古い時代にはまたこういうことも十分あり得たろうと考えられます。
それからまた歴史を調べてみますると、異称天皇ともいうべき天皇がございます。これは正史には天皇として書いてございませんけれども、ほかの文献に天皇として書かれておる。たとえば宇治天皇とか清貞天皇あるいは飯豊天皇、こういうような場合も、私はこの天皇の年代が大きくなった一つの理由と考える。
また世代の別というものがございまして、詳しくは申し上げる時間がございませんが、たとえば今上天皇は代で申しますと百二十四代、世で申しますと七十一世、この代と世の区別がどこから始まっておるか、調べてみますると、仁徳天皇と履中天皇のところで始まっておる。それまでは、つまり仁徳天皇までの世代というものははっきりいたしておりません。混淆しておる。それから百才以上の天皇を調べてみましても仁徳天皇以後にはないのです。履中天皇以後の天皇の年を調べてみますると、継體天皇の年の八十二才を最高といたしまして、あとはわれわれの普通一般の年とほぼ同じでございます。ですから百才以上の問題は、仁徳天皇以前だけに限られておる。しかもよくこれを調べてみますと、その仁徳天皇までが世代が混淆しておる。かようにいろいろな角度からこれを考えてみますと、上代天皇の年が百才以上であるということにもいろいろ理由があるわけです。ですからただ単にこれを人間生理の定則上さようなことはないといって簡単に片づけられぬ問題があるわけです。
それから第三番目の問題でございますが、つまり二月十一日という問題、これは議事録を拝見いたしますと、二月十一日というのも、明治五年に明治政府や御用学者が勝手にきめたもので、何ら歴史的な根拠はない、えともなかった古い時代のことははっきりわかるわけはない、こんなでたらめな日を国家の祝祭日にすべきではないということが書いてございます。これも一応ごもっともな御意見と思います。しかしながらえともなかった、つまり干支ですが、えともなかった古い時代のことであるから太陽暦への換算はできない、でたらめだということは言い得ないと思うのです。なぜかと申しますと、月や太陽や地球の自然現象というものは今も二千年前も変りはないわけです。えととはこれは関係ございません。えとは人間が勝手に作ったもので、自然現象には関係がございません。この千年前、二千年前の太陰暦の正月元日でも太陽暦に換算できるということは、それはどういう方法か簡単に申し上げてみますと、地球は三百六十五日五時間四十八分幾らで太陽を一周いたしますので、四年目ごとに一日のうるうを置いて四百年間に三回だけはこれを置かない、これは御存じの通りです。そういたしますと、紀元を二六一七年と仮定いたしまして、日にちに換算してみますと、大体九十五万二千八百日くらいになるわけです。そこでまず最初に太陽暦の日をずっと表をこしらえます。そうしてこの表に今度は太陰、つまり旧暦ですが、旧暦の日を一々それにずっと当てていきます。月は、御承知のように、大体二十九日半くらいで地球を一周いたしますから、二十九日または三十日を一月としてその十二ヵ月を一年といたしますと、太陽の一年よりもおよそ十一日くらい短かいことになります。そこでこれを太陽に合せるためには大体二年半に一日のうるう月を置かなければなりません。この場合にはえとを入れても入れなくてもかまいません。今申したような太陰暦と太陽暦の対照表ができますと、そうすると千年前の花月元日でも、二千年前の正月元日でもすぐわかるわけです。かようにして作りました暦を三正総覧というのです。これは暦というよりも太陽暦と太陰暦の対照表ともいうべきものですが、ともかくそういった三正総覧というものができておるのです。試みにここに御参考までに一、二の例を申し上げてみますと、徳川家康が江戸に幕府を開きました慶長八年の旧暦の元日は、新暦で申しますと二月十一日になっております。それから源頼朝が鎌倉に幕府を開きました建久三年の旧暦の元日は、太陽暦では二月二十二日になっております。それから大化の改新の行われました大化元年の正月元日は、太陽暦の二月五日に当る。かようにいたしまして、この二千五百何年前の旧暦は新暦の何日に当るということは、これは大体わかるのであります。もちろん人間のやることでございますから、寸分も間違いがないということは、これはだれも言い切れませんが、しかし大体そういった筋の通ったことで太陽暦に換算することはできるのであります。ですからただ単純に干支もなかった古い時代のことだから、二月十一日なんてものは当てにならぬ、こう簡単に割り切ることもできなかろうかと思うのです。
時間がありませんから急ぎますが、この四の神武東征から橿原宮の即位までの歴史は、日本が剣をもって他を圧迫したあるいは征服した、いわゆる侵略主義の実行で、これを記念日とすることはもってのほかであるというようなことが議事録に書いてございましたが、またこの「神武東征」という言葉はだいぶ方々に出ておりまして、だいぶ問題になったように思われます。
そこで私はちょっと申し上げたいと思いますが、先ほも申しましたように、私どもが歴史を調べるには、やはり慎重に一字一句もずっと入念に調べていかなければならぬと思う。ただ感情的あるいは妙な立場で見るようなことは、私は歴史を正しく見る態度ではないと思う。なるほど日本書紀には「神武東征」と著いてございます。「東征」と書いてあるからといって、真ちに東を征伐した、征服したというように考えてしまうのも私はどうかと思う。大体日本書紀の「神武東征」という言葉は、普通にはこれを東を「ウッ」と読むのであります。しかし私はこれは東に「ユク」と読むべきものだと考えておるのであります。この参考資料の四の1のところをごらん願いたいと思います。ここに詳しく「征」という言葉の、文字の説明をいたしておりますが、この「征」の原義は、これは「行く」ということ、転義が「行きて正す」です。漢字は御承知のように原義と転義があります。原義は「行く」であります。その例として唐の詩人の許渾の詩を響いておりますが、ここに「征衣」という言葉が出て参ります。この「征衣」はカッコで説明しておりますように、これは征伐、征服などの意味ではございません。その「朝来有郷信猶自寄征衣」この「征衣」は旅の衣の意味であります。同じく王褒の詩の中に「飛蓬以征客千里自長馳」ということがありますが、この場合の「征客」という言葉は旅人という意味であります。もっと明らな例を申し上げますと、奈良朝時代に唐の名僧であります鑑真和尚――わが国の律宗の開祖でございますが、この人が日本に来ましたことを書いた本、これは淡海三船の著作です。この本の名前を鑑真和尚東征伝と申します。これは有名な木です。こういう本があるからといって、この書物は唐の名僧の鑑真和尚が東の日本を征伐に来たと思うごときは、むしろナンセンスであります。このようでありまして、大体これを東を征つと読むと漢文上からもちょっと矛盾するわけであります。もしこれを東を征つと読みますならば、「征東」と書かなければならぬ。「征」を上に置かなければならぬと思う。そういうふうなことから考えてみまして、私は今の言葉で申しますならば、この神武天皇の東征ということは、むしろ綏撫と申しますかあるいは宣撫とでも申しますか、これを古典の言葉で申しますると、古事記、日本書紀を見てみますと、「言向平和」という言葉が四ヵ所使ってある。ことをむけてやわす、こういうことが神武東征の根本の精神ではないかと思います。
それを主張します根本の理由として私はここに三つの理由をあげておる。第一は東征の宣言の中に、「吾必ず鋒刃の威をからず。坐ながらにして天の下をことむけむ」ということが日本書紀に見えております。これは神武東征の根本の精神を示したものだと思いますが、「鋒刃の威をからず」。これは今で言うならば武力を用いないということであると思いますが、もちろん実際の日本書紀を見ますと、武力を用いられた例はたくさんあります。第一、神武天皇も武装して行かれたことも事実であります。しかしこれは未知の地に行かれるのですから、そのようなことがあったのは当然と思うし、またいろいろ長い間には反対者もおるし、あるいはことさらに妨害する者もあったのですから、これはまたときには武力を用いることもやむを得なかったと思うのです。とにかくその根本の精神は「吾必ず鋒刃の威をからず。」そこにあったのだと思う。
それからCのところに書いておりますように、「敵人登用愛護の例」と書いておりますが、きのうまでの敵を抜擢して枢要な地位に用いておられます。たとえば「弟猾猛田の県主に任じ、弟磯城を磯城の県主となし、剣根を葛城の国造に登用」された。あるいは「宇摩志真知命を内廷守護に任ぜらる。」ということがその例と言えますが、たとえば頼山陽はこういうことを書いております。「敵師の蒙子をして一たびその降を容るるや、之に授くるに干才を以てし、委するに環衛の任を以てして敢て疑はず。蓋し赤心を人の腹中におくもの也。」こういうことを申しております。
そこで大事なことは、もし神武天皇の東征がただ単なる侵略であり征服であって、それが日本の伝統となってきておったといたしますならば、おそらく皇室というものはとっくに滅びてしまっただろうと考えます。これが大事なところでありますが、歴史というものは厳粛なものです。歴史に奇蹟はない。大体申しまして……。そこで滅びるものは滅びるべくして滅びていく、続くものは続くべくして続いていく。クリストもヨハネ伝の中で、剣によって興ったものは剣によって滅ぶと申しておりますが、別にクリストの言葉を待つまでもなく、日本の歴史を見ても、ヨーロッパの歴史を見ても、みな歴史はそれを事実をもって示しております。
これについておもしろい一つの例がございますが、平安時代の末ごろに、日本の学問僧の奝然というのが中国に渡っております。たままた中国では宋の太祖の時代でありまして、宋の太祖が奝然から日本の歴史を聞き、また日本の皇室のことが始祖神武天皇以来、一系不易であるということを聞きまして、非常に驚きかつ羨望いたしまして、日本を手本にして宋室の万世無窮の計を立てまして、ここに詔勅を出しておる。それがここの第三のところに書いておりますからごらん願いたい。その一番おしまいのところには、「朕雖徳慙往聖、常夙夜寅畏、講求治本、不敢暇逸、」「不敢暇逸」とは怠らないということ、「建無窮之業、垂可久之範、亦以為子孫之計」と言っておる。これは何も宋の太祖に限ったことではありません。すでに古く秦の始皇帝が天下を統一したときにも、万世無窮ということを言っておる。しかしながらこういう一片の詔勅をもってしては、私は王室の万世無窮ということはできないと思う。やはり民衆と対立があったりしてはこれは実現できないと思うのです。そういう点から考えてみまして、日本の歴史を見てみましても、人民が天皇を敵としたことはほとんど見当りません。たとえば一揆には、土一揆だとか百姓一揆などというようなものがいろいろございますが、天皇を敵とした一揆は見当りません。こういったような、今日の言葉でいえば平和主義の精神をもって建国されたのが、神武天皇の建国であると思います。ですから私は、侵略主義とか、あるいは単なる軍国主義、あるいは征服主義というようにこれを割り切ってしまうのは、危険ではないかと思うのです。
最後に結論を申し上げますが、ただいま申しましたように、私、多年上代史を研究いたしまして、こういったような建国の精神は平和主義にあるということを信じております。これは神武天皇が最初に示されたものでございまして、決して軍国主義、侵略主義につながるものではない。そういうような意味におきまして、ただいま日本民族が行くべき方向に迷っておるときに、こういう建国の精神が平和精神であるということをはっきり盛り込んだような新しい意味の建国記念日、あるいは紀元節と申しますか、こういうものを設けるということは大いに必要ではないか、かように信ずる次第でございます。拍手
この発言だけを見る →あの議事録を私はかなり入念に拝見いたしましたが、結局問題をしぼってみますと、反対の方の御意見は、建国記念日を設けること自体には反対ではない。しかし二月十一日という日がいけない。なぜいけないかというと、これはでたらめである、またうその歴史に基いておる、そういうようなうその史実に基いた国家の祝祭日というのはいけない。それからもう一つは、この建国記念日などというものは、侵略主義ないしは征服主義、そういったものとつながっておる、だからいけないという点が先般の内閣委員会で審議された最も重要な点であるように拝されます。そこで問題を四つにしぼりまして、しばらく私の卑見を申し上げたいと思います。
第一の問題は、紀元節には科学的な根拠がないという問題。第二は、日本の上代史はうそである、従ってそれに基いた紀元節は意味がない。第三は、二月十一日というものもでたらめにきめたものであって、あてにならない、第四は、神武東征は侵略主義、征服主義の実践であって、これに関する記念日を制定するのはよろしくない、大体ごくおもな点をかいつまんで要約しますと、以上の四点になるかと考えますが、簡単にこれに対する卑見を申し上げたいと思います。
最初に概括的なごく大事なことを一つ申し上げたいと思いますことは、この論は根本におきまして非常に大きな一つの誤まりの上に立っておると私は思うのです。と申しますのは、終戦後日本の紀元は六百年ばかり長いという問題が非常に問題となりまして、これがいつの間にか一つの流行学説みたいになりまして、今日では定説といわれている。そうしてそのために、紀から聖徳太子以前の上代史というものはほとんど削られておるというような状態でございます。そういったことが前提となってこれが考えられておるというところに、私どもがこの問題をあらためてしっかり考えなければならぬところがあるんじゃないかということを考える次第であります。
そこで第一の問題ですが、紀元節は科学的な根拠がない、議事録についてみますと、日本の紀元は引き延ばしがあるということは、久米博士もいっておられるし、今日では学界の定説である、学者の何人も否定するものはない、かようなでたらめな紀元を問題にした紀元節は不当であるというような意味のことが書いてあります。なるほど科学的根拠というのは、これはなかなかむずかしいことでございまして、いかなる学者でも、神武天皇が何年前に即位をされたというようなことを断定的に申すことはできないと思うのです。しかしただいま流行しておりますのは、これは有名な明治時代の那珂博士が唱えられた説がもとになっておるようでありますが、ただ那珂博士の説を定説ときめてしまって、それに基いてすべての判断をするということは、これは非常に危険だと思うのです。御承知のようにこの那珂博士の説は、今から七十年ばかり前の、歴史のきわめて幼稚な時代に立てられた説でありまして、今日から見まするといろいろと問題があるわけです。詳しいことは時間がございませんから申し上げるひまがございませんが、とにかく言い得ることは、一国の法律改正のもとになるということは、よほどこれは確定的な確説でなければならぬと思う。このようなまだ不確定な説をもととして、それによってこの法律改正ということが考えられることは、よほど慎重にしなければならぬのではないかと思います。もちろん日本書紀の紀元というものにも、調べてみまするとずいぶん間違いがございます。たとえば神功紀の後半にはっきり百二十年の間違いがある、こういうことはもちろん否定できません。しかしながらそうであるからといって、戦後流行しておりますこの説が正しいわけでもございません。お手元に参考資料というものを差し上げておきまして、この第一のところに六百年説の骨子となるものを六つ書いておきました。これは一々を説明する時間がございませんから項目だけを読みますが、六百年の年数がすでに問題がございまして、これは藤貞幹が天明年間に衝口発という本を書いて、その中で主張しておるものでありまして、学問的な理由、根拠というものは何も示しておりません。しいて言えば新羅の君長を素戔鳴尊であるときめて、その説のつじつまを合せるために六百年長いということを言い出した。それ以外に別に学問的なしっかりした根拠というものは示されておりません。それから上代天皇の長寿の問題、これはまた大事な問題でございますので、あとでちょっと触れたいと思います。それから日本書紀の紀元は推古九年の辛酉の年から千二百六十年逆算してきめたのだ、この説。この説にも十分批判の余地があると思う。それから卑弥呼比定の問題、神功紀年代の比定の問題、それから朝鮮、シナ――漢韓史との年代の比較問題、こういった問題が学問的には取り上げられなければならぬのであります。こういうことがまだほとんど論議されておりませんで、そうしていつの間にか学界の定説などと言われてしまった。少くとも学界の定説というところまで持ってくるためには、賛否両論の学者が十分な論議を尽して、そうして学説というものはおのずから帰着するところに帰着する。そこにほんとうの定説というものが生まれてくる。そういうような点におきまして、従来いわれております点に、よほど慎重にもう一ぺんじっくりと考え直すところがあるのではないかと思う次第であります。
それから第二の問題の上代天皇の長寿の問題、これも先般の内閣委員会でも問題になったようですが、これはまたよく世間の人も言うことなんです。なるほど日本書紀を見ますと、仁徳天皇以前の十六天皇のうちに百才以上の天皇が十二名ばかりおられる。これはだれが考えましても不合理であります。どんなに上代の天皇が長生きであったとしても、十六人の中で百才以上が十二名ある、そのようなことはあり得ない。しかしながら歴史の研究というものは、あらゆる角度から慎重に研究しなければならぬと思う。裏からも表からも、縦からも横からも、あらゆる角度から研究するのが歴史であります。そういう意味から考えますと、那珂博士がこの上代天皇の長寿の問題を人間生理の定則上あるべからず、こういったような簡単なことで割り切っておられる。これは十分考えなければならぬと思う。そのような歴史上の大事な問題は単なる人間生理の定則のみで片づけ得るような簡単なものではないと思う。たとえばここに、参考資料の二の方に七つの例をあげております。これも今は一々は説明できませんから、簡単に項目だけを読み上げますが、昔から――今日もありますが、襲名というものがございます。これは那珂博士も上代に襲名のあったことは認めておられます。たとえば彦火火出見尊、倭迹迹日百襲姫命あるいは八井耳尊あるいは吉備津彦尊、こういったものは非常に年代が長くなっておりますが、これは襲名によるものと考えられます。
それからまた天皇が複数に用いられた例があります。一人の天皇の名前が二人の天皇を示すような場合もある。その例を申し上げますれば、飛鳥浄見原御宇天皇、こういう一つの名前で文武天皇と持統天皇の二人が表わされておる。
あるいはまた空位――ただいまは明治以後皇室典範というものができまして以来天皇の空位というものはございませんが、上代には空位というものがしばしばございます。日本書紀を調べてみますると、この空位の年数も次の天皇の年数の中に含まれております。具体的な例を申しますれば、安閑天皇と継體天皇との間に空位がございますが、これは日本書紀では安閑天皇治世年数中に入っておる。あるいはまた日本書紀で削除されておる天皇もございます。たとえば弘文天皇のごときは削除されております。この弘文天皇が即位をされたということは明らかな歴史的な根拠がございます。それで明治三年に第三十九代として天皇に加えられたわけでありますが、こういうような例はほかにもある。市辺天皇という天皇が安閑天皇と雄略天皇の間に即位をされたということはこれも歴史の事実がございます。こういうような場合に日本書紀は、削除した場合の年数を調べてみますると、これを次の天皇の年数の中に入れておる。こういうことも日本番組の上代の天皇の年代が大きくなっておる一つの理由なんです。あるいはまた脱落した場合がある。今申しましたのは削除です。意識的に削った。そうではなく不注意で落すとか、あるいは資料が十分でなくて、わからぬで落したといったような脱落の例もあるのです。新しい例で申しますれば、大正十五年に九十八代に列しました長慶天皇、これは最近まで落しておった。歴史学が進んだ最近でもこういう事実があるのでありますから、古い時代にはまたこういうことも十分あり得たろうと考えられます。
それからまた歴史を調べてみますると、異称天皇ともいうべき天皇がございます。これは正史には天皇として書いてございませんけれども、ほかの文献に天皇として書かれておる。たとえば宇治天皇とか清貞天皇あるいは飯豊天皇、こういうような場合も、私はこの天皇の年代が大きくなった一つの理由と考える。
また世代の別というものがございまして、詳しくは申し上げる時間がございませんが、たとえば今上天皇は代で申しますと百二十四代、世で申しますと七十一世、この代と世の区別がどこから始まっておるか、調べてみますると、仁徳天皇と履中天皇のところで始まっておる。それまでは、つまり仁徳天皇までの世代というものははっきりいたしておりません。混淆しておる。それから百才以上の天皇を調べてみましても仁徳天皇以後にはないのです。履中天皇以後の天皇の年を調べてみますると、継體天皇の年の八十二才を最高といたしまして、あとはわれわれの普通一般の年とほぼ同じでございます。ですから百才以上の問題は、仁徳天皇以前だけに限られておる。しかもよくこれを調べてみますと、その仁徳天皇までが世代が混淆しておる。かようにいろいろな角度からこれを考えてみますと、上代天皇の年が百才以上であるということにもいろいろ理由があるわけです。ですからただ単にこれを人間生理の定則上さようなことはないといって簡単に片づけられぬ問題があるわけです。
それから第三番目の問題でございますが、つまり二月十一日という問題、これは議事録を拝見いたしますと、二月十一日というのも、明治五年に明治政府や御用学者が勝手にきめたもので、何ら歴史的な根拠はない、えともなかった古い時代のことははっきりわかるわけはない、こんなでたらめな日を国家の祝祭日にすべきではないということが書いてございます。これも一応ごもっともな御意見と思います。しかしながらえともなかった、つまり干支ですが、えともなかった古い時代のことであるから太陽暦への換算はできない、でたらめだということは言い得ないと思うのです。なぜかと申しますと、月や太陽や地球の自然現象というものは今も二千年前も変りはないわけです。えととはこれは関係ございません。えとは人間が勝手に作ったもので、自然現象には関係がございません。この千年前、二千年前の太陰暦の正月元日でも太陽暦に換算できるということは、それはどういう方法か簡単に申し上げてみますと、地球は三百六十五日五時間四十八分幾らで太陽を一周いたしますので、四年目ごとに一日のうるうを置いて四百年間に三回だけはこれを置かない、これは御存じの通りです。そういたしますと、紀元を二六一七年と仮定いたしまして、日にちに換算してみますと、大体九十五万二千八百日くらいになるわけです。そこでまず最初に太陽暦の日をずっと表をこしらえます。そうしてこの表に今度は太陰、つまり旧暦ですが、旧暦の日を一々それにずっと当てていきます。月は、御承知のように、大体二十九日半くらいで地球を一周いたしますから、二十九日または三十日を一月としてその十二ヵ月を一年といたしますと、太陽の一年よりもおよそ十一日くらい短かいことになります。そこでこれを太陽に合せるためには大体二年半に一日のうるう月を置かなければなりません。この場合にはえとを入れても入れなくてもかまいません。今申したような太陰暦と太陽暦の対照表ができますと、そうすると千年前の花月元日でも、二千年前の正月元日でもすぐわかるわけです。かようにして作りました暦を三正総覧というのです。これは暦というよりも太陽暦と太陰暦の対照表ともいうべきものですが、ともかくそういった三正総覧というものができておるのです。試みにここに御参考までに一、二の例を申し上げてみますと、徳川家康が江戸に幕府を開きました慶長八年の旧暦の元日は、新暦で申しますと二月十一日になっております。それから源頼朝が鎌倉に幕府を開きました建久三年の旧暦の元日は、太陽暦では二月二十二日になっております。それから大化の改新の行われました大化元年の正月元日は、太陽暦の二月五日に当る。かようにいたしまして、この二千五百何年前の旧暦は新暦の何日に当るということは、これは大体わかるのであります。もちろん人間のやることでございますから、寸分も間違いがないということは、これはだれも言い切れませんが、しかし大体そういった筋の通ったことで太陽暦に換算することはできるのであります。ですからただ単純に干支もなかった古い時代のことだから、二月十一日なんてものは当てにならぬ、こう簡単に割り切ることもできなかろうかと思うのです。
時間がありませんから急ぎますが、この四の神武東征から橿原宮の即位までの歴史は、日本が剣をもって他を圧迫したあるいは征服した、いわゆる侵略主義の実行で、これを記念日とすることはもってのほかであるというようなことが議事録に書いてございましたが、またこの「神武東征」という言葉はだいぶ方々に出ておりまして、だいぶ問題になったように思われます。
そこで私はちょっと申し上げたいと思いますが、先ほも申しましたように、私どもが歴史を調べるには、やはり慎重に一字一句もずっと入念に調べていかなければならぬと思う。ただ感情的あるいは妙な立場で見るようなことは、私は歴史を正しく見る態度ではないと思う。なるほど日本書紀には「神武東征」と著いてございます。「東征」と書いてあるからといって、真ちに東を征伐した、征服したというように考えてしまうのも私はどうかと思う。大体日本書紀の「神武東征」という言葉は、普通にはこれを東を「ウッ」と読むのであります。しかし私はこれは東に「ユク」と読むべきものだと考えておるのであります。この参考資料の四の1のところをごらん願いたいと思います。ここに詳しく「征」という言葉の、文字の説明をいたしておりますが、この「征」の原義は、これは「行く」ということ、転義が「行きて正す」です。漢字は御承知のように原義と転義があります。原義は「行く」であります。その例として唐の詩人の許渾の詩を響いておりますが、ここに「征衣」という言葉が出て参ります。この「征衣」はカッコで説明しておりますように、これは征伐、征服などの意味ではございません。その「朝来有郷信猶自寄征衣」この「征衣」は旅の衣の意味であります。同じく王褒の詩の中に「飛蓬以征客千里自長馳」ということがありますが、この場合の「征客」という言葉は旅人という意味であります。もっと明らな例を申し上げますと、奈良朝時代に唐の名僧であります鑑真和尚――わが国の律宗の開祖でございますが、この人が日本に来ましたことを書いた本、これは淡海三船の著作です。この本の名前を鑑真和尚東征伝と申します。これは有名な木です。こういう本があるからといって、この書物は唐の名僧の鑑真和尚が東の日本を征伐に来たと思うごときは、むしろナンセンスであります。このようでありまして、大体これを東を征つと読むと漢文上からもちょっと矛盾するわけであります。もしこれを東を征つと読みますならば、「征東」と書かなければならぬ。「征」を上に置かなければならぬと思う。そういうふうなことから考えてみまして、私は今の言葉で申しますならば、この神武天皇の東征ということは、むしろ綏撫と申しますかあるいは宣撫とでも申しますか、これを古典の言葉で申しますると、古事記、日本書紀を見てみますと、「言向平和」という言葉が四ヵ所使ってある。ことをむけてやわす、こういうことが神武東征の根本の精神ではないかと思います。
それを主張します根本の理由として私はここに三つの理由をあげておる。第一は東征の宣言の中に、「吾必ず鋒刃の威をからず。坐ながらにして天の下をことむけむ」ということが日本書紀に見えております。これは神武東征の根本の精神を示したものだと思いますが、「鋒刃の威をからず」。これは今で言うならば武力を用いないということであると思いますが、もちろん実際の日本書紀を見ますと、武力を用いられた例はたくさんあります。第一、神武天皇も武装して行かれたことも事実であります。しかしこれは未知の地に行かれるのですから、そのようなことがあったのは当然と思うし、またいろいろ長い間には反対者もおるし、あるいはことさらに妨害する者もあったのですから、これはまたときには武力を用いることもやむを得なかったと思うのです。とにかくその根本の精神は「吾必ず鋒刃の威をからず。」そこにあったのだと思う。
それからCのところに書いておりますように、「敵人登用愛護の例」と書いておりますが、きのうまでの敵を抜擢して枢要な地位に用いておられます。たとえば「弟猾猛田の県主に任じ、弟磯城を磯城の県主となし、剣根を葛城の国造に登用」された。あるいは「宇摩志真知命を内廷守護に任ぜらる。」ということがその例と言えますが、たとえば頼山陽はこういうことを書いております。「敵師の蒙子をして一たびその降を容るるや、之に授くるに干才を以てし、委するに環衛の任を以てして敢て疑はず。蓋し赤心を人の腹中におくもの也。」こういうことを申しております。
そこで大事なことは、もし神武天皇の東征がただ単なる侵略であり征服であって、それが日本の伝統となってきておったといたしますならば、おそらく皇室というものはとっくに滅びてしまっただろうと考えます。これが大事なところでありますが、歴史というものは厳粛なものです。歴史に奇蹟はない。大体申しまして……。そこで滅びるものは滅びるべくして滅びていく、続くものは続くべくして続いていく。クリストもヨハネ伝の中で、剣によって興ったものは剣によって滅ぶと申しておりますが、別にクリストの言葉を待つまでもなく、日本の歴史を見ても、ヨーロッパの歴史を見ても、みな歴史はそれを事実をもって示しております。
これについておもしろい一つの例がございますが、平安時代の末ごろに、日本の学問僧の奝然というのが中国に渡っております。たままた中国では宋の太祖の時代でありまして、宋の太祖が奝然から日本の歴史を聞き、また日本の皇室のことが始祖神武天皇以来、一系不易であるということを聞きまして、非常に驚きかつ羨望いたしまして、日本を手本にして宋室の万世無窮の計を立てまして、ここに詔勅を出しておる。それがここの第三のところに書いておりますからごらん願いたい。その一番おしまいのところには、「朕雖徳慙往聖、常夙夜寅畏、講求治本、不敢暇逸、」「不敢暇逸」とは怠らないということ、「建無窮之業、垂可久之範、亦以為子孫之計」と言っておる。これは何も宋の太祖に限ったことではありません。すでに古く秦の始皇帝が天下を統一したときにも、万世無窮ということを言っておる。しかしながらこういう一片の詔勅をもってしては、私は王室の万世無窮ということはできないと思う。やはり民衆と対立があったりしてはこれは実現できないと思うのです。そういう点から考えてみまして、日本の歴史を見てみましても、人民が天皇を敵としたことはほとんど見当りません。たとえば一揆には、土一揆だとか百姓一揆などというようなものがいろいろございますが、天皇を敵とした一揆は見当りません。こういったような、今日の言葉でいえば平和主義の精神をもって建国されたのが、神武天皇の建国であると思います。ですから私は、侵略主義とか、あるいは単なる軍国主義、あるいは征服主義というようにこれを割り切ってしまうのは、危険ではないかと思うのです。
最後に結論を申し上げますが、ただいま申しましたように、私、多年上代史を研究いたしまして、こういったような建国の精神は平和主義にあるということを信じております。これは神武天皇が最初に示されたものでございまして、決して軍国主義、侵略主義につながるものではない。そういうような意味におきまして、ただいま日本民族が行くべき方向に迷っておるときに、こういう建国の精神が平和精神であるということをはっきり盛り込んだような新しい意味の建国記念日、あるいは紀元節と申しますか、こういうものを設けるということは大いに必要ではないか、かように信ずる次第でございます。拍手
相
井
井上光貞#6
○井上公述人 井上でございますが、私、きょうここで申し述べますのは、いろいろ問題が多岐にわたるのをおそれまして、ただ日本書紀に出ております神武天皇即位の年を西暦紀元前六百六十年、辛酉の年の正月の朔としていることが歴史的事実であるかどうか、ただそれだけに問題を限ります。それからもう一つは、私がこれから申し上げますことは私の説ではないのでありまして、一般に古代史家が考えておりますことの要点だけを、三つに分けまして御紹介しておきます。
第一は考古学者の考えであります。西暦紀元前六百六十年といいますと、紀元前七世紀ということになりますが、そういうときに暦の知識があったということは、考古学上の事実に照らしまして、おそらくどころか、ほとんど考えがたいことであるというふうに思います。と申しますのは、この時代の日本は石器時代である。そして農耕でありますとか、あるいは金属器の使用というものが始まりますのが、それから以後三世紀後のことでありまして、文化の発展の一般的な事情から考えまして、石器時代の日本人が暦を知っている、あるいは文字を使用していたということは考えがたいことであります。そして暦がもし知られていなかったといたしますと、神武天皇即位の年月日というようなものを後世に伝える方法はなかったであろう、こういうことであります。これが第一の考古学上から言える論拠であります。
第二番目は、これは日本書紀及び古事記の文献批判的研究からの問題であります。さっき森先生が言われましたように、神武天皇の即位の年月日というものは神武東征の一連の物語の中にしるされているわけであります。そこでそういう一連の物語がどういうふうにして伝えられて、日本書紀及び古事記に集録されるに至ったかということであります。それについての文献学者の言っておりますことを、最大公約数、だれでもが大体この点は認めているという形でごく結論だけを申しますと、こういうふうに言うことができると思います。こういう物語でありますとか、あるいは日本武尊の蝦夷の征討の話というようなものは、これは大体西暦紀元後六世紀の前後におきまして、旧辞と称する書物にまとめられたものと考えられております。そしてこの物語を集録した旧辞には年月日というようなものは記載されておらなかった。その後七世紀の初め及び後半にかなり大がかりな歴史編さんの仕事が進められました。そしてその成果が、また少し時を経まして、八世紀の初めに古事記及び日本書紀として完成いたしましたが、その古事記、日本書紀の完成の際に、先ほど申しました旧辞がその中に取り入れられてきているわけであります。でき上りました古事記、日本書紀を比べますと、古事記の方は旧辞を正確になるたけ素朴な形で伝えようとしている。そしてその古事記の方には年月日というものは、どなたもごらんになりますように入っておりません。一方同時に、中国の史書の体裁にならって、日本書紀の方は、当時として現代史の部分がおもでございますが、これにそういう部分の史料をたくさん用いまして、そして編さん事業として完成されたので、日本書紀の方には、すべてのできごとにわたって年月日が入っておりまして、その一環として神武即位のことについても日付が記されているわけであります。こういうように一般に文献学者は考えておるわけであります。これは大体最大公約数でありまして、中に多少のニュアンスの違いはありますが、そういうふうに考えます。神武東征の物語は、その素朴な形においては年代あるいは日付というものを欠いておったということは、ほぼ確実に言えるところであります。この事実は注目すべき点だと思います。
第三番目はいわゆる紀年論であります。この紀年論というのは、先ほど森先生が触れられました問題と直接に関係があるのであります。その紀年論の要点を申しますと二点あると思います。第一は、神武天皇即位の年を干支で辛酉ということに関してであります。さっきも触れられたようでありますが、中国の繊緯思想、一種の占いの思想でありますが、それによりますと、辛酉の年には革命がある、すなわち王者の天命があらたまる、甲子の年には政令があらたまる、そういうふうにしてこの二つの年を特に注意しているわけであります。ところが日本書紀を見ますと、さっき申しましたように、神武天皇即位の年を辛酉といたしますと、それから天皇が平定を終って皇祖を祭る年、これを甲子と言っております。これは偶然の符合ではなくて、繊緯思想によってこの干支を定めたものだというふうに考えられます。
第二番目にもう一つ重要な点は、繊緯思想を述べました中国の書物の緯書の一つに、特に一千二百六十年ごとの辛酉の年に大きな変革があるというふうにしております。そこで神武即位の年とされましたところの紀元前六百六十年の辛酉から逆算いたしました、西暦六百一年という年に注目してみますと、その三年の後に暦が公けに用いられ始めた。それから約二十年たちまして六百二十四年に一つの歴史編纂事業が――これは聖徳太子の歴史編纂事業でありますが、行われております。そこでこれはすべての学者ではありませんが、多くの学者は西暦紀元前六百四年に暦を公けに用い始めて、そのすぐ二十年後に歴史編さんが始まった際に、そのときから一番近い辛酉の年、つまり六百一年という年を基準にして、それから千二百六十年前の紀元前六百六十年を神武即位の年ときめた、こういうふうに考えるわけであります。そしてさらにその日付に対しては、その正月の一日という一番最初の日を神武天皇即位の日というふうに定めた、こういうふうになっていると思います。
大体以上が、私の説ではありませんので、専門の人々が考えております考えの大要であります。従って私はこれは歴史事実でないということをほぼ確信いたします。ただし歴史学の問題は、確実に証拠を提出しなければならない、そうでなければ確定できないのだというのでありますと、こういう問題に、確実な証拠を提出するということは不可能であります。そういう意味において歴史事実ではないと断言しないで、歴史事実と考えがたいというふうに一歩譲歩して申すわけであります。
それで最後に、この立場から紀元節の建国祭の復活についての私自身の考えというものを申しますと、歴史学、ことに古代史学に携わっております一人といたしまして、それから歴史の教育に携わっておる一人としまして、私は不確実な事実というものをあたかも歴史事実のようにしてしまうということをおそれるわけであります。建国祭と歴史教育は必ずしも関係はないと思いますけれども、しかし建国祭が定められますと、少くとも初等、中等教育の日本の国家紀元に関する教育内容には、何らかの制限がこれに加わってきはしないか。そうすると史実にあらざるもの、もしくは史実でない可能性のあるものを歴史教育の中で教えるということになりはしないかと思います。歴史教育というものがいかにあるべきかということについては、いろいろ考えがあると思いますけれども、私は歴史教育の第一条件は事実を事実として教えるということでなければならないと思います。そういう際に、ことに重要な問題に関して、事実でないもしくは事実でないという疑いがあることが教えられるようになるとすると、これは歴史教育の大きな破壊である、そういうふうに思います。ですから私は歴史の学問に携わる者、歴史教育に携わる者といたしまして、こういうことはなるだけお取り上げにならないでいただきたい、こういうふうに考えるわけであります。拍手
この発言だけを見る →第一は考古学者の考えであります。西暦紀元前六百六十年といいますと、紀元前七世紀ということになりますが、そういうときに暦の知識があったということは、考古学上の事実に照らしまして、おそらくどころか、ほとんど考えがたいことであるというふうに思います。と申しますのは、この時代の日本は石器時代である。そして農耕でありますとか、あるいは金属器の使用というものが始まりますのが、それから以後三世紀後のことでありまして、文化の発展の一般的な事情から考えまして、石器時代の日本人が暦を知っている、あるいは文字を使用していたということは考えがたいことであります。そして暦がもし知られていなかったといたしますと、神武天皇即位の年月日というようなものを後世に伝える方法はなかったであろう、こういうことであります。これが第一の考古学上から言える論拠であります。
第二番目は、これは日本書紀及び古事記の文献批判的研究からの問題であります。さっき森先生が言われましたように、神武天皇の即位の年月日というものは神武東征の一連の物語の中にしるされているわけであります。そこでそういう一連の物語がどういうふうにして伝えられて、日本書紀及び古事記に集録されるに至ったかということであります。それについての文献学者の言っておりますことを、最大公約数、だれでもが大体この点は認めているという形でごく結論だけを申しますと、こういうふうに言うことができると思います。こういう物語でありますとか、あるいは日本武尊の蝦夷の征討の話というようなものは、これは大体西暦紀元後六世紀の前後におきまして、旧辞と称する書物にまとめられたものと考えられております。そしてこの物語を集録した旧辞には年月日というようなものは記載されておらなかった。その後七世紀の初め及び後半にかなり大がかりな歴史編さんの仕事が進められました。そしてその成果が、また少し時を経まして、八世紀の初めに古事記及び日本書紀として完成いたしましたが、その古事記、日本書紀の完成の際に、先ほど申しました旧辞がその中に取り入れられてきているわけであります。でき上りました古事記、日本書紀を比べますと、古事記の方は旧辞を正確になるたけ素朴な形で伝えようとしている。そしてその古事記の方には年月日というものは、どなたもごらんになりますように入っておりません。一方同時に、中国の史書の体裁にならって、日本書紀の方は、当時として現代史の部分がおもでございますが、これにそういう部分の史料をたくさん用いまして、そして編さん事業として完成されたので、日本書紀の方には、すべてのできごとにわたって年月日が入っておりまして、その一環として神武即位のことについても日付が記されているわけであります。こういうように一般に文献学者は考えておるわけであります。これは大体最大公約数でありまして、中に多少のニュアンスの違いはありますが、そういうふうに考えます。神武東征の物語は、その素朴な形においては年代あるいは日付というものを欠いておったということは、ほぼ確実に言えるところであります。この事実は注目すべき点だと思います。
第三番目はいわゆる紀年論であります。この紀年論というのは、先ほど森先生が触れられました問題と直接に関係があるのであります。その紀年論の要点を申しますと二点あると思います。第一は、神武天皇即位の年を干支で辛酉ということに関してであります。さっきも触れられたようでありますが、中国の繊緯思想、一種の占いの思想でありますが、それによりますと、辛酉の年には革命がある、すなわち王者の天命があらたまる、甲子の年には政令があらたまる、そういうふうにしてこの二つの年を特に注意しているわけであります。ところが日本書紀を見ますと、さっき申しましたように、神武天皇即位の年を辛酉といたしますと、それから天皇が平定を終って皇祖を祭る年、これを甲子と言っております。これは偶然の符合ではなくて、繊緯思想によってこの干支を定めたものだというふうに考えられます。
第二番目にもう一つ重要な点は、繊緯思想を述べました中国の書物の緯書の一つに、特に一千二百六十年ごとの辛酉の年に大きな変革があるというふうにしております。そこで神武即位の年とされましたところの紀元前六百六十年の辛酉から逆算いたしました、西暦六百一年という年に注目してみますと、その三年の後に暦が公けに用いられ始めた。それから約二十年たちまして六百二十四年に一つの歴史編纂事業が――これは聖徳太子の歴史編纂事業でありますが、行われております。そこでこれはすべての学者ではありませんが、多くの学者は西暦紀元前六百四年に暦を公けに用い始めて、そのすぐ二十年後に歴史編さんが始まった際に、そのときから一番近い辛酉の年、つまり六百一年という年を基準にして、それから千二百六十年前の紀元前六百六十年を神武即位の年ときめた、こういうふうに考えるわけであります。そしてさらにその日付に対しては、その正月の一日という一番最初の日を神武天皇即位の日というふうに定めた、こういうふうになっていると思います。
大体以上が、私の説ではありませんので、専門の人々が考えております考えの大要であります。従って私はこれは歴史事実でないということをほぼ確信いたします。ただし歴史学の問題は、確実に証拠を提出しなければならない、そうでなければ確定できないのだというのでありますと、こういう問題に、確実な証拠を提出するということは不可能であります。そういう意味において歴史事実ではないと断言しないで、歴史事実と考えがたいというふうに一歩譲歩して申すわけであります。
それで最後に、この立場から紀元節の建国祭の復活についての私自身の考えというものを申しますと、歴史学、ことに古代史学に携わっております一人といたしまして、それから歴史の教育に携わっておる一人としまして、私は不確実な事実というものをあたかも歴史事実のようにしてしまうということをおそれるわけであります。建国祭と歴史教育は必ずしも関係はないと思いますけれども、しかし建国祭が定められますと、少くとも初等、中等教育の日本の国家紀元に関する教育内容には、何らかの制限がこれに加わってきはしないか。そうすると史実にあらざるもの、もしくは史実でない可能性のあるものを歴史教育の中で教えるということになりはしないかと思います。歴史教育というものがいかにあるべきかということについては、いろいろ考えがあると思いますけれども、私は歴史教育の第一条件は事実を事実として教えるということでなければならないと思います。そういう際に、ことに重要な問題に関して、事実でないもしくは事実でないという疑いがあることが教えられるようになるとすると、これは歴史教育の大きな破壊である、そういうふうに思います。ですから私は歴史の学問に携わる者、歴史教育に携わる者といたしまして、こういうことはなるだけお取り上げにならないでいただきたい、こういうふうに考えるわけであります。拍手
相
小
小野祖教#8
○小野公述人 私は日本の思想というようなものを研究しておりますので、この問題についてできるだけ広い考え方で申し上げてみたいと思います。問題が歴史に関係いたしますので、歴史の論に傾きやすいのでありまして、またそういうところから考えていく傾向を持っておりますが、私は、この問題は国の初めの記念日を設けるという問題であって、日本の紀元を定めるという問題ではない、そこのところに一つはっきりしたポイントを置いて考えていきたい、こういうふうに思っております。
第一番に、そういう観点から非常に大事な問題として世論の問題でございますが、これは御提案にもありますように、数度の世論調査におきまして、国民の大多数がこの記念日を設けることを非常に望んでおるという事実がございます。民主主義の政治の建前からいたしまして、これだけ国民が熱心に望んでおるものを議会が尊重して下さるということは、これは常道であって、これだけの理由でもこの日をお取り上げになっていただくというのに十分に近い根拠であると思うのでありますが、建国の記念日を設けたいということについては、今までの委員会の御討議の議事録を拝見いたしましても、与党も野党も御賛成の御様子でございますので、その点については大へんけっこうなことに存じておるのでありますが、残ります問題は結局日の問題であります。私は、これはできるだけ世論を尊重して実現していただきたいということにつきましては、この世論の背景にあるものがどういうものかというようなことが一応問題になっておりますが、結論的に考えておりまするのは、非常に国民の健全な気持がここに反映しておるというふうに思っております。と申しますのは、たとえば福沢諭吉翁が独立自尊ということを申されましたが、人間が一個の人間として社会的にりっぱな人間として生きていくためには、自分の人格を大事にするという気持が根本になる。同じように一国の国民が自分たちの国をりっぱにしていこうという考えを持つときには、やはり同じように国を大切にするものであるという気持がなければならない。その気持がここにあるのであって、私は日本のすべての人々が今度の戦争において自分たちの国の顔に泥を塗ったということをひとしく情ないことに思っておると思うのであります。従って、何とかしてもう一度日本の顔の立つようなりっぱな国になりたい、こういう気持からして、独立ということと結びついて、どうか日本を日本としてもう一度認識して、そうしてりっぱな国に作り上げたい、こういう気持が現われておるというふうに思うのでありまして、これは決して一部の者の一方へ引っぱっていこうというようなことでもって、とても八割以上の世論を盛り上げるなどということはできないと思います。ことに占領期間中及び今日において新聞に現われております論説は、多くはこの記念日のようなものについては反対をする立場、または日本の歴史にはうそがあったというようなことの宣伝にほとんど力が用いられているような状況でありまして、一部の者の力などではとてもいかない。何度世論調査をやってみましても、こうして国民が支持しているということは、そこに非常に奥深い国民の心の中から浮び上ってきているものが反映しておる、こういうふうに私は思っておるのであります。従って御提案の中に「真の祖国復興」「国民精神の覚醒」あるいは「伝統の恢弘」というような言葉が見えておりますが、私はそういったような気持が国民の大部分の者の心であるというふうに考えますので、ぜひその気持を尊重する線においてこの問題を考えていただきたいと思うのであります。そういうものは愛国心につながるもので、そんなものを持つと愛国心が起ってきて困るだろうというようなことがもし言われるとしたら、これは大へんに間違ったことだろうと思うのであります。このことについてちょうちょうと申し上げる必要はないと思いますが、この記念日を置くことを命令をもって禁止したバンス自身が言っております。アメリカ人にはアメリカ人の愛国心というものがあり、それは非常に大事なものだ。日本人にも日本人の愛国心がなければならぬ。われわれが問題にしているのはそれが誤まった愛国心になることであって、正しい愛国心が伸びなければ日本は立っていけないのじゃないか。日本をりっぱにしようったって土台になるものがないんだから、われわれは決してそれを弾圧しようとする気持はない、ということを言っておるのであります。これは当然のことだと思うのであります。そういう意味において、せっかく国民の中にめばえておる、新しい日本を作り上げていく土台としてもう一度日本を見直そうという気持を尊重していくことが、必常に大事な問題だと私は考えます。
次に、建国の記念日としての日を選ぶ問題でございます。日の問題はいろいろ出ますけれども、それを考える際に一つはっきり考えなければならないことは、自然人のわれわれでございますと、誕生日というものははっきり認めることのできるものであります。従って、歴史上の日付というものをはっきりきめることができるのであります。また一つでなければならないということにしぼられて参ります。ところが、国そのものが観念的な一つの存在でございますので、建国というものも観念的なものである。国も学校も会社もその他の団体も同じような性質を持っているものでありますから、いつを創立のときにしよう、いつを建国のときにしようということは、観念によって、意識によっていろいろなものがきまってくるので、一つのものが出てこなのいは当然である。そうして必ずしも歴史的なものに拘泥しないで考えることもできる。そういう性質を持っているものでありますから、その性質に従って広い立場で問題を考えていくことが必要だと思います。もし、五月三日がよろしい、国民全体の気持がそこへ寄って、これが一番意義のある日だと言えばそれを尊重していくのがいいと思う。決して悪いことではないと思う。また八月十五日の敗戦の日が一番いいんだという世論であれば、私はそれも意義があると思います。そのほかの日でも、選び方によっていろいろきまるのでありますが、今日は国民の世論が二月十一日というところにしぼられて、絶対的な世論が出てきておるのでありまして、この点に立って考えるのが考え方の常道であると思われるのであります。そこに国民の気持が寄って、この日ならばみんなが気持よく祝えるという方向になってきたならば、それを尊重していいんじゃないか。歴史的に何か非常にはっきりしたものがなければいけないのだという制約はない。この問題をきめるのには外国にもいろいろ似たようなものがあります。ある国もない国もあります。しかしながら、これはわれわれの問題であります。日本人みんなが自主的に相談して考えてみて、この日ならばわれわれが求めているような気持の盛り上る日だというところで決着のついたものを、政治的に大きな目で見て考えていただくのがいいと思います。もちろんそれをきめるのには歴史の問題も考えないわけにはいかない。そういう問題についてももちろん十分に検討されることが必要であります。
まず第一番に考えたいことは学問と政治との関係でございますが、日本の紀元について不確かだという学問上の説がいろいろある。一体明治五年に紀元節を制定したときそれをどうしたか、学問を全く封じてしまったか、あるいは何にも知らないでもってきめてしまった乱暴なものであったかということを顧みてみますと、決して学問を知らなかったわけでもなく、乱暴なことをやったわけでもない。またその後に学問を封じてしまおうというようなことをやったわけでもない。学問上の疑点があることは重々承知の上でこの問題を割り切り、必ずしも学問で割り切らないでよい性質のものであるということをのみ込んで、そうして現在の段階においてどう取り扱うかということを政治家が頭でもって政治的に判断して処理された、こういうふうに私は考えます。従って、あとから那珂博士の説も出れば、その他の学者の説も出て、日本の紀元について誤まりがあるようだというようなことについての論議が十分戦さわれ、その論文は幾らでも発表されている。この点は別に何ら制限はなかったのであります。私どもの学校などこういう問題はかなり慎重に取り扱う学校でありますけれども、戦時中でもこういう説が紹介され、そういうものに基いて研究していくという態度をとっておったが、何ら弾圧もされなければ、何にもございません。そういうような立場でもって考えられていくのでありまして、二千六百十七年という年が歴史上のはっきりした年でないとして、なければないような取扱いがある。たとえ話で申し上げますれば、ここに正宗の刀を持ってこられて、これが正宗の刀か鑑定してくれと言われたときに、鑑定家も、専門的に鑑定がつかない場合は「伝正宗作」ということでもって、捨ててしまわないで、尊重していくということでもって、そういう問題はあとで明らかにするように取り扱っていく方法があるのであります。この二千六百十七年というのは日本書紀が表わしておったものであります。従って、伝二千六百十七年でありまして、伝という一字がつくことによってはっきりすることであります。そういうような頭さえ持てばこの問題は政治の上でもって取り扱う別の道がついてくる、私はそういうような性質のものだと思っております。大体日本書紀の紀元に問題がある。日本書紀の記載が学問上問題になる。ということは、決して明治の時代になって明らかになったことでもなければ、戦後になって急にはっきりしたものでない。日本書紀ができたときからはっきりしていることであります。それはお手元に差し上げましたような表によってわかる。古事記と日本書紀の天皇のお年を比較してみるだけで違っているのであります。千三百年前この書物ができたときにはっきりしていることであります。議論すれば幾らでも議論の余地があり、研究の余地があることは本来早くからわかっておった。明治の時代にこのことを知らずしてきめたわけではない。政治的な常識において取り扱ったので、そういうようなことを頭に置いてこの問題を処理することが一番大事ではないかと思います。先ほど井上先生が言われましたように、学問の圧迫になるようなことは困るというような御心配があって、その学者の説を尊重されることは教育上も大事なことでございますが、そういうようなことを考慮してあとで問題が起ったりなんかしないようにということを考えるのであります。私はこれは必要のないことであると思う。今日憲法において学問も思想も完全に保障せられている時代に、何でそんなことを圧迫することができるものかと思うのであります。もし御心配であるならば議会において一つ附帯決議をつけていただきたい。この決定は日本書紀の紀元による時期の決定であって、将来にわたって学問の自由及び教育上異設を教えることを拘束するものでないとおきめになったら、もうこれはだれも文句はないと思うのであります。それほど神経衰弱的に考えなければならないならばそこまでいったらよろしい、こう思います。
なお、それでは学問の上でははっきりしないのにやっていく、それでもよろしいといっても、あまり常識はずれ、けたはずれのことでは困るということは、議会でもってお考えになるのには大事な考慮の一点であろうと思いますけれども、大体文献学というものには私は限界があると思います。人間がもとは口で伝えてきた。そして文献がぼつぼつできるようになってきた。どれだけ完全な文献が残るか、どれだけ完全な口伝えが残るか。それだけでもってすべての問題が解決するということを考えるのは無理だと思う。非常に短かい形のものが現われてくることもあるだろうし、長い形のものが現われてくることもある、全然何といっていいかわからないような場面になってしまうこともあるだろうと思います。だから文献学がすべての発言権を持っているものではない。日本の古さというものを考える場合には、もっとほかの学問を使えるならばそれを考えていかなければならないと思うのですが、考古学者の今日の多くの方々は、決して二千六百年が短かいとは言っておられないようであります。大和朝廷の歴史はもっと長いというふうに言っておられる方が相当にある。考古学は現にものが残っておる。そしてそれを証拠にしていくのですから、文献学よりはもっと年代などを考えるときには参考になる性質のものだ。そういうふうな性質を持っている学問が、今日もう少し長くてもいいんだということをいっている段階において、文献学だけでもって短かいというふうに切ってしまうということはできないのであります。その非常な長さの範囲を中で考えてみれば、二千六百十七年はそんな非常識なものではない、常識的に許される範囲において政治の常識に基いて取り扱っていかれる、こういうようなことが一つの考え方の点にならなければならないのではないかというふうに考えております。
いろいろそういうようなことを考えていく問題もあると思うのでありますが、日本書紀というものによるという場合に、日本書紀がもしほんとうにでたらめないいかげんな本であるとするならば、たとい一つの儀礼的な立場でもって尊重するにしても、これも問題でありましょうがこれは天皇から御命令があって国の官吏が一生懸命で研究をして責任をもって御報告したものでありまして、その点はきわめて明瞭になっているものであります。できた年代も千三百年前にできております。日本としてはきわめて古い、第一級の古典である。その古典をそのまま信憑するというのじゃない、学問は幾らでもほじくっていく余地があるのですから、そのまま信ずるのじゃない。古典を古典として尊重するという立場でもって尊重に値するか値しないかという問題になれば、私は無条件で尊重しなければならないものだと思う。だからこれを使ったからおかしいということはないと思う。日本ではこれはどうしたって大事にしていかなければならない文献の一つである。それを尊重するという建前でもって、先ほどのようにこれによってこの時代の問題を政治的に取り扱うところの一つのよりどころにしたということで、一向常識に反しないというふうに考えます。
日本書紀がいかに良心的であるかという問題について一々申し上げる時間もありませんので、表の中にちょっと出しておいたのであります。古事記と日本書紀とを比較してみても、日本書紀の年ばかりが長いのじゃない。古事記よりも日本書紀の方が天皇のお年を短かくしているようなものもあるのであります。日本書紀がただ引き伸ばすということだけ考えておったならば、みんな引き伸ばしたらいい。小説や何かじゃないので、勝手なものは作れない。少くともその時代において存した資料に基いて、いろいろな考え方に基いてこれが責任の持てるというものを書いたんだということは、私は、きわめて一端ですけれども、そういうことからうかがえると思う。その他のことについて一々申し上げる必要はないと思います。日本書紀がまじめな編さんをしたものであって、そして古典としては尊重しなければならない性質のものであるから、それに従って考えていくというだけの権威は少くとも持っておる、こういうふうに確信しております。
なおいろいろ天皇の問題などにつきまして、神武天皇の御即位の日を日本書紀の伝承に従って建国記念日にしたというようなことになると、天皇制というもうに対してまた火がついて専制政治の方へ戻っていきはしないか、逆コースになりはしないか、そういうようなことでありますが、これは私はふに落ちないのであります。日本人の今度の戦争の痛ましい敗戦の体験というものを通してほんとうに天皇を尊敬し、愛するという気持の人間がどう考えるかということは、人の心を正しく理解をしてもらえば明瞭にわかることだと思う。マッカーサーの前に立たれて、朕の身はどうなってもいいが、国民を何とか無事にしていただきたいということを申された。ドイツのカイザーのように廃帝になられるか、あるいは配所の月をながめられるようなことになりはしないかというような、そういう差し迫った体験を経た人たちが、再び天皇に非常な責任のある地位に立ってもらって、またあんなことが起るようなことを望んでいるような人が出てきたら、私はどうかしていると思う。私は、皇室を大事にする人の方が慎重であって、皇室を大事にしない人の方が慎重でない考えを持つということ、天皇制を批評してどうこうということは逆なことではないか、歴史がそこまで動いてきている、この動いている歴史を見なくてはならない、こういうふうに思います。
神武天皇の御東征の問題もそうでございます。確かにあのときに戦争をしたのであります。弓と刀でもって戦争をした。あの戦争が今日の戦争のお手本になる。原子爆弾が頭の上からいつ落ちてくるかわからないようなこの時代に、アメリカでもソビエトでも一国では防衛ができないことは歴然たる時代に、このちっぽけな日本が一体どうするつもりか。この世界を征服する思想を起してくるやつは気違いである、私はそう思います。従ってそんな方へ行くという心配を考えることは私は神経衰弱だと思う。そういうような考えを乗り越えて新しい日本の建設という方面に進んでいきたい、こう私は思うのであります。
大体八紘為宇の詔勅というものについて非常な読み違いをなされておるようでありまして、あれが世界征服主義に利用されるというのでありますが、利用された人はあの本をよく読まなかったのであります。それはお手元に差し上げてありますが、読んでみればはっきりわかる。六年の戦争が終ってこれから都を建てて、そうして国民の利益になるような政治をやっていこう、そうして自分たちの御祖先の徳とお心に沿うて正義の国を立てたなら、おのずから四方の者が四海兄弟の平和な世界になってくるのだから、もう戦争はやめだという平和な世界を作るための平和大宣言である。それをどう読み違えたのか、それはどうも古典をあまり教えなかったことの罪だと思う。通に今から教えなければならない。読んでみればそんな心配はないと私は考えております。だからこれがもう一度持ち出されたときには、徹底的に教えて間違いないようにする。しかしそれも新しい日本というものを考える場合にはそれだけではないので、もっと日本人は日本人の目でものを見ていく、だからそれだけですべてでないというふうに考えていってもいいと思います。
それからもう一つ、先ほど和歌森先生からお話があったのですが、私はちょうど逆の見方をしている。明治政府が紀元節を作ったということは、なるほどあの時代のことでありますから、政府が中心となって作った。だから国民がそれに親しみを持つまでの間に時間がかかったということは事実であります。しかしながら徳川時代以前に一体日本がどういう国際的地位にあったかということを考える必要がある。日本が建国の日を祝うという気持がなかったとは決して思いません。その中に旧事紀を引いてございます。旧事紀の方がわかりやすいから引きましたが、六日の拝賀と神武天皇の即位とは結びついた気持を持っておりますので、おのずから年の始めのお祝いをしますれば、国の始めのお祝いということも含まれますので、そういうような気持で特に日を設ける必要がなかったということもあるのでありますが、日本というものを特に意識してお祝いをしなければならないという必要はきわめて少いのであります。
なぜかといえば、明治以後には、開国が行われて、国際社会の一員となって、他と自分とを区別するという意識、日本というものを一つの独立的なものと考える意識が強まって、国際社会の一員となって、そうしてそれから先の生活が続けば続くほど、この日は意味を持ってくるのでありまして、だからして、初めはそれほどでもなかったものが、だんだん国民の愛着を持つ日になって、理解を持つ日になってくるというのが、これが歴史の進んでいく方向である。逆になっていくとすれば、これは歴史がさかさまに歩いていくということになる。その意味では、きわめて自然な現象を踏んできておると思います。同じく国民が誕生日を祝うということをやっておらなかったのに、このごろ国の誕生日という言葉がばかにはやるけれども、これは当然なことでありまして、国民が自分の考えていることとぴったりしたことをいわれれば、それに共鳴を感じていくので、あの言葉は、確かに今の国民は非常に共鳴を感じております。なぜ感じるか。これも同じことであります。近代社会、近代思想というものは、個人の自覚ということが大事な問題であります。民主主義をやっていくのに、こいつをやらなければだめだ。それがだんだん進んでいくからして、それで、それに従って自己というものの自覚が出てきて、われわれの誕生日というものが問題になってきた。それがだんだん国民に取り入れられてきて、その言葉がきわめて自然に入り込んできているのが、現在の国の誕生日という言葉であります。だからして、近代的な考え方が進むに従って、この意識というものは強まり、国民がますます自分のものとしての気持になる性格を持ったものであります。そういう方向に進んでいる。過去にあったそのときだけで動いているのじゃないということが、かえってこのことでわかるのでありまして、これは和歌森先生は昭和二十九年の放送討論会のときに、同じくこのことを言われて、戦後二十三年の世論調査に現われたところでは、それはまだ明治の時代の頭の人間がたくさんあって、その頭の抜け切らない連中だからして、あれだけの世論が出た。民主主義の教育ができたのだから、今やれば世論は減るとおっしゃったけれども、しかしその放送討論会をやった直後にNHKでやった世論調査というものは、ここに御提案の中に出ているように、八一%という成績を示して、さらに一進展をしておるのであります。わずかな期間に民主主義が進んで、かえってふえる方向を示したということは、私は雄弁に、国民がいよいよ自己というものを自覚する方向にいって、その意味では非常に民主的方向が開けてきている、こう見ることができると思うのであります。そういうような点から、いよいよ国民に親しまれるべき性質を持った記念日として、ぜひこれを実現していただきたい。そうして多くの人々が二月十一日という希望をしている。国民の気持を一ついれて、二月十一日にしていただく。無理な日ではない。大ざっぱにして、別に紀元をきめるのではなくて、一つの歴史的な古典を尊重して、その中に現われているものによって、ほぼ大した見当違いでも一ないところを頭の中に描きながら、古い国というものを自分の祖国と考える、この気持を一つ買ってやっていただきたい。そうして、建国の記念日というふうな御提案になっておりますが、建国とか肇国とかいうことはいろいろ問題になりまして、日本の国の成り立ちというものはどういうものかというような議論もあります。むしろ紀元節という名前が親しまれて七十年もみんなが使ってきたのでありますから、そしてその名前を使うことにも多くの人が心を寄せているのですから、私はこれも、紀元でもなければ何でもない、そうして国の初めという言葉に連なる言葉ですから、これを尊重していただくのが、国民の気持に一番沿うていると思います。できるならばそういうふうな線でやっていただきたいと思う。もしいけないとすれば、やわらかく、国の初めの日とか、国の初めの記念日とかいうような親しみやすい言葉にしていただけば、かえってその方が学問上の議論なども起らずに、いいのじゃないか。名前の点などもその辺の穏やかなところで、日のことも穏やかに、国民の気持を受け入れてきめていただけたならば、新しい日本という気持がかえってここに非常にわき上ってきて、日本の国民がこれから日本を再建していく、その方向に向っていく、一つの足がかりにもなる。これは日本の国にとっても大きな意義を持つことになるのではないかというふうに考えております。
大へん失礼いたしました。
この発言だけを見る →第一番に、そういう観点から非常に大事な問題として世論の問題でございますが、これは御提案にもありますように、数度の世論調査におきまして、国民の大多数がこの記念日を設けることを非常に望んでおるという事実がございます。民主主義の政治の建前からいたしまして、これだけ国民が熱心に望んでおるものを議会が尊重して下さるということは、これは常道であって、これだけの理由でもこの日をお取り上げになっていただくというのに十分に近い根拠であると思うのでありますが、建国の記念日を設けたいということについては、今までの委員会の御討議の議事録を拝見いたしましても、与党も野党も御賛成の御様子でございますので、その点については大へんけっこうなことに存じておるのでありますが、残ります問題は結局日の問題であります。私は、これはできるだけ世論を尊重して実現していただきたいということにつきましては、この世論の背景にあるものがどういうものかというようなことが一応問題になっておりますが、結論的に考えておりまするのは、非常に国民の健全な気持がここに反映しておるというふうに思っております。と申しますのは、たとえば福沢諭吉翁が独立自尊ということを申されましたが、人間が一個の人間として社会的にりっぱな人間として生きていくためには、自分の人格を大事にするという気持が根本になる。同じように一国の国民が自分たちの国をりっぱにしていこうという考えを持つときには、やはり同じように国を大切にするものであるという気持がなければならない。その気持がここにあるのであって、私は日本のすべての人々が今度の戦争において自分たちの国の顔に泥を塗ったということをひとしく情ないことに思っておると思うのであります。従って、何とかしてもう一度日本の顔の立つようなりっぱな国になりたい、こういう気持からして、独立ということと結びついて、どうか日本を日本としてもう一度認識して、そうしてりっぱな国に作り上げたい、こういう気持が現われておるというふうに思うのでありまして、これは決して一部の者の一方へ引っぱっていこうというようなことでもって、とても八割以上の世論を盛り上げるなどということはできないと思います。ことに占領期間中及び今日において新聞に現われております論説は、多くはこの記念日のようなものについては反対をする立場、または日本の歴史にはうそがあったというようなことの宣伝にほとんど力が用いられているような状況でありまして、一部の者の力などではとてもいかない。何度世論調査をやってみましても、こうして国民が支持しているということは、そこに非常に奥深い国民の心の中から浮び上ってきているものが反映しておる、こういうふうに私は思っておるのであります。従って御提案の中に「真の祖国復興」「国民精神の覚醒」あるいは「伝統の恢弘」というような言葉が見えておりますが、私はそういったような気持が国民の大部分の者の心であるというふうに考えますので、ぜひその気持を尊重する線においてこの問題を考えていただきたいと思うのであります。そういうものは愛国心につながるもので、そんなものを持つと愛国心が起ってきて困るだろうというようなことがもし言われるとしたら、これは大へんに間違ったことだろうと思うのであります。このことについてちょうちょうと申し上げる必要はないと思いますが、この記念日を置くことを命令をもって禁止したバンス自身が言っております。アメリカ人にはアメリカ人の愛国心というものがあり、それは非常に大事なものだ。日本人にも日本人の愛国心がなければならぬ。われわれが問題にしているのはそれが誤まった愛国心になることであって、正しい愛国心が伸びなければ日本は立っていけないのじゃないか。日本をりっぱにしようったって土台になるものがないんだから、われわれは決してそれを弾圧しようとする気持はない、ということを言っておるのであります。これは当然のことだと思うのであります。そういう意味において、せっかく国民の中にめばえておる、新しい日本を作り上げていく土台としてもう一度日本を見直そうという気持を尊重していくことが、必常に大事な問題だと私は考えます。
次に、建国の記念日としての日を選ぶ問題でございます。日の問題はいろいろ出ますけれども、それを考える際に一つはっきり考えなければならないことは、自然人のわれわれでございますと、誕生日というものははっきり認めることのできるものであります。従って、歴史上の日付というものをはっきりきめることができるのであります。また一つでなければならないということにしぼられて参ります。ところが、国そのものが観念的な一つの存在でございますので、建国というものも観念的なものである。国も学校も会社もその他の団体も同じような性質を持っているものでありますから、いつを創立のときにしよう、いつを建国のときにしようということは、観念によって、意識によっていろいろなものがきまってくるので、一つのものが出てこなのいは当然である。そうして必ずしも歴史的なものに拘泥しないで考えることもできる。そういう性質を持っているものでありますから、その性質に従って広い立場で問題を考えていくことが必要だと思います。もし、五月三日がよろしい、国民全体の気持がそこへ寄って、これが一番意義のある日だと言えばそれを尊重していくのがいいと思う。決して悪いことではないと思う。また八月十五日の敗戦の日が一番いいんだという世論であれば、私はそれも意義があると思います。そのほかの日でも、選び方によっていろいろきまるのでありますが、今日は国民の世論が二月十一日というところにしぼられて、絶対的な世論が出てきておるのでありまして、この点に立って考えるのが考え方の常道であると思われるのであります。そこに国民の気持が寄って、この日ならばみんなが気持よく祝えるという方向になってきたならば、それを尊重していいんじゃないか。歴史的に何か非常にはっきりしたものがなければいけないのだという制約はない。この問題をきめるのには外国にもいろいろ似たようなものがあります。ある国もない国もあります。しかしながら、これはわれわれの問題であります。日本人みんなが自主的に相談して考えてみて、この日ならばわれわれが求めているような気持の盛り上る日だというところで決着のついたものを、政治的に大きな目で見て考えていただくのがいいと思います。もちろんそれをきめるのには歴史の問題も考えないわけにはいかない。そういう問題についてももちろん十分に検討されることが必要であります。
まず第一番に考えたいことは学問と政治との関係でございますが、日本の紀元について不確かだという学問上の説がいろいろある。一体明治五年に紀元節を制定したときそれをどうしたか、学問を全く封じてしまったか、あるいは何にも知らないでもってきめてしまった乱暴なものであったかということを顧みてみますと、決して学問を知らなかったわけでもなく、乱暴なことをやったわけでもない。またその後に学問を封じてしまおうというようなことをやったわけでもない。学問上の疑点があることは重々承知の上でこの問題を割り切り、必ずしも学問で割り切らないでよい性質のものであるということをのみ込んで、そうして現在の段階においてどう取り扱うかということを政治家が頭でもって政治的に判断して処理された、こういうふうに私は考えます。従って、あとから那珂博士の説も出れば、その他の学者の説も出て、日本の紀元について誤まりがあるようだというようなことについての論議が十分戦さわれ、その論文は幾らでも発表されている。この点は別に何ら制限はなかったのであります。私どもの学校などこういう問題はかなり慎重に取り扱う学校でありますけれども、戦時中でもこういう説が紹介され、そういうものに基いて研究していくという態度をとっておったが、何ら弾圧もされなければ、何にもございません。そういうような立場でもって考えられていくのでありまして、二千六百十七年という年が歴史上のはっきりした年でないとして、なければないような取扱いがある。たとえ話で申し上げますれば、ここに正宗の刀を持ってこられて、これが正宗の刀か鑑定してくれと言われたときに、鑑定家も、専門的に鑑定がつかない場合は「伝正宗作」ということでもって、捨ててしまわないで、尊重していくということでもって、そういう問題はあとで明らかにするように取り扱っていく方法があるのであります。この二千六百十七年というのは日本書紀が表わしておったものであります。従って、伝二千六百十七年でありまして、伝という一字がつくことによってはっきりすることであります。そういうような頭さえ持てばこの問題は政治の上でもって取り扱う別の道がついてくる、私はそういうような性質のものだと思っております。大体日本書紀の紀元に問題がある。日本書紀の記載が学問上問題になる。ということは、決して明治の時代になって明らかになったことでもなければ、戦後になって急にはっきりしたものでない。日本書紀ができたときからはっきりしていることであります。それはお手元に差し上げましたような表によってわかる。古事記と日本書紀の天皇のお年を比較してみるだけで違っているのであります。千三百年前この書物ができたときにはっきりしていることであります。議論すれば幾らでも議論の余地があり、研究の余地があることは本来早くからわかっておった。明治の時代にこのことを知らずしてきめたわけではない。政治的な常識において取り扱ったので、そういうようなことを頭に置いてこの問題を処理することが一番大事ではないかと思います。先ほど井上先生が言われましたように、学問の圧迫になるようなことは困るというような御心配があって、その学者の説を尊重されることは教育上も大事なことでございますが、そういうようなことを考慮してあとで問題が起ったりなんかしないようにということを考えるのであります。私はこれは必要のないことであると思う。今日憲法において学問も思想も完全に保障せられている時代に、何でそんなことを圧迫することができるものかと思うのであります。もし御心配であるならば議会において一つ附帯決議をつけていただきたい。この決定は日本書紀の紀元による時期の決定であって、将来にわたって学問の自由及び教育上異設を教えることを拘束するものでないとおきめになったら、もうこれはだれも文句はないと思うのであります。それほど神経衰弱的に考えなければならないならばそこまでいったらよろしい、こう思います。
なお、それでは学問の上でははっきりしないのにやっていく、それでもよろしいといっても、あまり常識はずれ、けたはずれのことでは困るということは、議会でもってお考えになるのには大事な考慮の一点であろうと思いますけれども、大体文献学というものには私は限界があると思います。人間がもとは口で伝えてきた。そして文献がぼつぼつできるようになってきた。どれだけ完全な文献が残るか、どれだけ完全な口伝えが残るか。それだけでもってすべての問題が解決するということを考えるのは無理だと思う。非常に短かい形のものが現われてくることもあるだろうし、長い形のものが現われてくることもある、全然何といっていいかわからないような場面になってしまうこともあるだろうと思います。だから文献学がすべての発言権を持っているものではない。日本の古さというものを考える場合には、もっとほかの学問を使えるならばそれを考えていかなければならないと思うのですが、考古学者の今日の多くの方々は、決して二千六百年が短かいとは言っておられないようであります。大和朝廷の歴史はもっと長いというふうに言っておられる方が相当にある。考古学は現にものが残っておる。そしてそれを証拠にしていくのですから、文献学よりはもっと年代などを考えるときには参考になる性質のものだ。そういうふうな性質を持っている学問が、今日もう少し長くてもいいんだということをいっている段階において、文献学だけでもって短かいというふうに切ってしまうということはできないのであります。その非常な長さの範囲を中で考えてみれば、二千六百十七年はそんな非常識なものではない、常識的に許される範囲において政治の常識に基いて取り扱っていかれる、こういうようなことが一つの考え方の点にならなければならないのではないかというふうに考えております。
いろいろそういうようなことを考えていく問題もあると思うのでありますが、日本書紀というものによるという場合に、日本書紀がもしほんとうにでたらめないいかげんな本であるとするならば、たとい一つの儀礼的な立場でもって尊重するにしても、これも問題でありましょうがこれは天皇から御命令があって国の官吏が一生懸命で研究をして責任をもって御報告したものでありまして、その点はきわめて明瞭になっているものであります。できた年代も千三百年前にできております。日本としてはきわめて古い、第一級の古典である。その古典をそのまま信憑するというのじゃない、学問は幾らでもほじくっていく余地があるのですから、そのまま信ずるのじゃない。古典を古典として尊重するという立場でもって尊重に値するか値しないかという問題になれば、私は無条件で尊重しなければならないものだと思う。だからこれを使ったからおかしいということはないと思う。日本ではこれはどうしたって大事にしていかなければならない文献の一つである。それを尊重するという建前でもって、先ほどのようにこれによってこの時代の問題を政治的に取り扱うところの一つのよりどころにしたということで、一向常識に反しないというふうに考えます。
日本書紀がいかに良心的であるかという問題について一々申し上げる時間もありませんので、表の中にちょっと出しておいたのであります。古事記と日本書紀とを比較してみても、日本書紀の年ばかりが長いのじゃない。古事記よりも日本書紀の方が天皇のお年を短かくしているようなものもあるのであります。日本書紀がただ引き伸ばすということだけ考えておったならば、みんな引き伸ばしたらいい。小説や何かじゃないので、勝手なものは作れない。少くともその時代において存した資料に基いて、いろいろな考え方に基いてこれが責任の持てるというものを書いたんだということは、私は、きわめて一端ですけれども、そういうことからうかがえると思う。その他のことについて一々申し上げる必要はないと思います。日本書紀がまじめな編さんをしたものであって、そして古典としては尊重しなければならない性質のものであるから、それに従って考えていくというだけの権威は少くとも持っておる、こういうふうに確信しております。
なおいろいろ天皇の問題などにつきまして、神武天皇の御即位の日を日本書紀の伝承に従って建国記念日にしたというようなことになると、天皇制というもうに対してまた火がついて専制政治の方へ戻っていきはしないか、逆コースになりはしないか、そういうようなことでありますが、これは私はふに落ちないのであります。日本人の今度の戦争の痛ましい敗戦の体験というものを通してほんとうに天皇を尊敬し、愛するという気持の人間がどう考えるかということは、人の心を正しく理解をしてもらえば明瞭にわかることだと思う。マッカーサーの前に立たれて、朕の身はどうなってもいいが、国民を何とか無事にしていただきたいということを申された。ドイツのカイザーのように廃帝になられるか、あるいは配所の月をながめられるようなことになりはしないかというような、そういう差し迫った体験を経た人たちが、再び天皇に非常な責任のある地位に立ってもらって、またあんなことが起るようなことを望んでいるような人が出てきたら、私はどうかしていると思う。私は、皇室を大事にする人の方が慎重であって、皇室を大事にしない人の方が慎重でない考えを持つということ、天皇制を批評してどうこうということは逆なことではないか、歴史がそこまで動いてきている、この動いている歴史を見なくてはならない、こういうふうに思います。
神武天皇の御東征の問題もそうでございます。確かにあのときに戦争をしたのであります。弓と刀でもって戦争をした。あの戦争が今日の戦争のお手本になる。原子爆弾が頭の上からいつ落ちてくるかわからないようなこの時代に、アメリカでもソビエトでも一国では防衛ができないことは歴然たる時代に、このちっぽけな日本が一体どうするつもりか。この世界を征服する思想を起してくるやつは気違いである、私はそう思います。従ってそんな方へ行くという心配を考えることは私は神経衰弱だと思う。そういうような考えを乗り越えて新しい日本の建設という方面に進んでいきたい、こう私は思うのであります。
大体八紘為宇の詔勅というものについて非常な読み違いをなされておるようでありまして、あれが世界征服主義に利用されるというのでありますが、利用された人はあの本をよく読まなかったのであります。それはお手元に差し上げてありますが、読んでみればはっきりわかる。六年の戦争が終ってこれから都を建てて、そうして国民の利益になるような政治をやっていこう、そうして自分たちの御祖先の徳とお心に沿うて正義の国を立てたなら、おのずから四方の者が四海兄弟の平和な世界になってくるのだから、もう戦争はやめだという平和な世界を作るための平和大宣言である。それをどう読み違えたのか、それはどうも古典をあまり教えなかったことの罪だと思う。通に今から教えなければならない。読んでみればそんな心配はないと私は考えております。だからこれがもう一度持ち出されたときには、徹底的に教えて間違いないようにする。しかしそれも新しい日本というものを考える場合にはそれだけではないので、もっと日本人は日本人の目でものを見ていく、だからそれだけですべてでないというふうに考えていってもいいと思います。
それからもう一つ、先ほど和歌森先生からお話があったのですが、私はちょうど逆の見方をしている。明治政府が紀元節を作ったということは、なるほどあの時代のことでありますから、政府が中心となって作った。だから国民がそれに親しみを持つまでの間に時間がかかったということは事実であります。しかしながら徳川時代以前に一体日本がどういう国際的地位にあったかということを考える必要がある。日本が建国の日を祝うという気持がなかったとは決して思いません。その中に旧事紀を引いてございます。旧事紀の方がわかりやすいから引きましたが、六日の拝賀と神武天皇の即位とは結びついた気持を持っておりますので、おのずから年の始めのお祝いをしますれば、国の始めのお祝いということも含まれますので、そういうような気持で特に日を設ける必要がなかったということもあるのでありますが、日本というものを特に意識してお祝いをしなければならないという必要はきわめて少いのであります。
なぜかといえば、明治以後には、開国が行われて、国際社会の一員となって、他と自分とを区別するという意識、日本というものを一つの独立的なものと考える意識が強まって、国際社会の一員となって、そうしてそれから先の生活が続けば続くほど、この日は意味を持ってくるのでありまして、だからして、初めはそれほどでもなかったものが、だんだん国民の愛着を持つ日になって、理解を持つ日になってくるというのが、これが歴史の進んでいく方向である。逆になっていくとすれば、これは歴史がさかさまに歩いていくということになる。その意味では、きわめて自然な現象を踏んできておると思います。同じく国民が誕生日を祝うということをやっておらなかったのに、このごろ国の誕生日という言葉がばかにはやるけれども、これは当然なことでありまして、国民が自分の考えていることとぴったりしたことをいわれれば、それに共鳴を感じていくので、あの言葉は、確かに今の国民は非常に共鳴を感じております。なぜ感じるか。これも同じことであります。近代社会、近代思想というものは、個人の自覚ということが大事な問題であります。民主主義をやっていくのに、こいつをやらなければだめだ。それがだんだん進んでいくからして、それで、それに従って自己というものの自覚が出てきて、われわれの誕生日というものが問題になってきた。それがだんだん国民に取り入れられてきて、その言葉がきわめて自然に入り込んできているのが、現在の国の誕生日という言葉であります。だからして、近代的な考え方が進むに従って、この意識というものは強まり、国民がますます自分のものとしての気持になる性格を持ったものであります。そういう方向に進んでいる。過去にあったそのときだけで動いているのじゃないということが、かえってこのことでわかるのでありまして、これは和歌森先生は昭和二十九年の放送討論会のときに、同じくこのことを言われて、戦後二十三年の世論調査に現われたところでは、それはまだ明治の時代の頭の人間がたくさんあって、その頭の抜け切らない連中だからして、あれだけの世論が出た。民主主義の教育ができたのだから、今やれば世論は減るとおっしゃったけれども、しかしその放送討論会をやった直後にNHKでやった世論調査というものは、ここに御提案の中に出ているように、八一%という成績を示して、さらに一進展をしておるのであります。わずかな期間に民主主義が進んで、かえってふえる方向を示したということは、私は雄弁に、国民がいよいよ自己というものを自覚する方向にいって、その意味では非常に民主的方向が開けてきている、こう見ることができると思うのであります。そういうような点から、いよいよ国民に親しまれるべき性質を持った記念日として、ぜひこれを実現していただきたい。そうして多くの人々が二月十一日という希望をしている。国民の気持を一ついれて、二月十一日にしていただく。無理な日ではない。大ざっぱにして、別に紀元をきめるのではなくて、一つの歴史的な古典を尊重して、その中に現われているものによって、ほぼ大した見当違いでも一ないところを頭の中に描きながら、古い国というものを自分の祖国と考える、この気持を一つ買ってやっていただきたい。そうして、建国の記念日というふうな御提案になっておりますが、建国とか肇国とかいうことはいろいろ問題になりまして、日本の国の成り立ちというものはどういうものかというような議論もあります。むしろ紀元節という名前が親しまれて七十年もみんなが使ってきたのでありますから、そしてその名前を使うことにも多くの人が心を寄せているのですから、私はこれも、紀元でもなければ何でもない、そうして国の初めという言葉に連なる言葉ですから、これを尊重していただくのが、国民の気持に一番沿うていると思います。できるならばそういうふうな線でやっていただきたいと思う。もしいけないとすれば、やわらかく、国の初めの日とか、国の初めの記念日とかいうような親しみやすい言葉にしていただけば、かえってその方が学問上の議論なども起らずに、いいのじゃないか。名前の点などもその辺の穏やかなところで、日のことも穏やかに、国民の気持を受け入れてきめていただけたならば、新しい日本という気持がかえってここに非常にわき上ってきて、日本の国民がこれから日本を再建していく、その方向に向っていく、一つの足がかりにもなる。これは日本の国にとっても大きな意義を持つことになるのではないかというふうに考えております。
大へん失礼いたしました。
相
相川勝六#9
○相川委員長 午後一時より再開することとし、これにて休憩いたします。午後は公述人の方に質問を行います。
午後零時十五分休憩
――――◇―――――
午後一時二十一分開議
この発言だけを見る →午後零時十五分休憩
――――◇―――――
午後一時二十一分開議
相
大
大村清一#11
○大村委員 和歌森教授の御公述の中に、建国記念日またはこれに類する祝祭日の点につきまして、諸外国の例のお話があったのでありますが、そのうちで建国日を持っている国は多くは若い国であって、英国のごとき古い国は建国日が定まっていないというお話があったのであります。私は英国が建国日を持っていないのは、古いから持っていないというわけではなくて、ほかに理由があるのではないかという疑問を持つのであります。これについての私の疑問を解いてほしいと思うのであります。
その疑問と申しますのは、私は英国が建国日を持たないのは、持たないだけの理由があるのではないかと思うのであります。私詳しく記憶はしておりませんが、聞き覚えによりますと、英国はあのイングランド、アイルランド等の諸島に住む英国民族は、歴史的に申しまして王朝が分れておった。そうして英国としての統一が歴史上なかった場合が相当長かった、ことに現在の英国王朝も、ヨーロッパ大陸から征服的な関係で国を建てているというような特殊事情がございますので、建国記念日を作ることが英国には適当でないというような事情があったのでありまして、古い国だから建国日は持たなかったというように考えられないと思うのであります。わが国は英国以上の古い歴史を持っており、しかも二千年も前に大和王朝が国を建てまして、自来連綿として日本民族及び大和王朝というものは今日まで続いてきておるのであります。このような古い歴史を持っておりますわが国民性といたしまして、祖先を尊び家の歴史を重んずるという風習は大いに存在しておると思うのであります。歌舞伎を見ましても、命をかけての太刀合いをする際におきましては、祖先以来の名誉ある家の経歴を述べてそうして家の名誉を傷つけないような行動をしようということで命のやりとりをするというようなことも、子供のじぶんから見せつけられておるのでありまして、家を尊ぶという風習が日本に古来あると私は固く信ずるものであります。そういうような国、民族におきまして、建国記念日を作りたいという欲求のあることは、民族の要求であるように思うのであります。すなわち歴史が古いから建国記念日を持たないということで片づけてしまうわけにいかないのじゃないかという点に多大の疑問を持っておるわけであります。願わくばこの点について学問的御解説を伺えればはなはだ仕合せだと思うのであります。
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和
和歌森太郎#12
○和歌森公述人 申し上げます。私は建国記念日を歴史の古いような国では持っていないというふうに確かに申し上げましたが、その歴史が古いということは、歴史そのものの古いということよりも、かなり年代がさかのぼるがために、その国の統一の時期というものがはっきり定めがたい、そういうふうな確実性を持っていないところにおいては、これをあえて持たなかったという意味でありまして、大体イギリスの方ではそういった国の祝祭日をどういう動機で設けたかと申しますと、やはり日常のイギリス民族――統一された後のイギリス民族ですが、その中で生活を規律する意味において意味の深いような宗教行事の日を全面的に取り上げたのであります。これは別に国家の政治とかなんとかいうことに関係なしに、いわば伝承的に年中行事の日をそのまま国の祝祭日にしたという性格があって、これはほかの諸民族あるいは諸国家の祝祭日の取り方と比べまして確かに特色のあるところだと思います。
それからイギリスの側でもって、そういうふうに自分の国は歴史が古いからといって建国の記念日を設けなかったという説明ではないのであります。たまたまそういうふうなイギリスの場合のように、国家の統一とか建国とかいうことがはっきりいつというふうには定めがたいようなところでは、そういうものを定めようとする意欲さえ起きなかったということを申し上げたのです、日本の国の場合を考えてみますと、いつ国ができたと言っていいか、実際人によって国家というものについての概念に相違がありますから明確にいかないと思います。大和地方だけが大皇のしろしめすところとなった段階をもって国の統一が行われた、国家ができたというふうに認識する者もありますし、それからまた九州地方を合せて瀬戸内海を仲立ちにした統一を果された時をもって国の統一、国家のでき上りというふうに解釈する者もありますし、あるいはさらに加えて出雲地方を包括した段階をもって国の統一、日本のでき上りというふうに見る者もありますし、なお後になりますと大化の改新でそれができたというふうに見る者もあって、そこで問題になるのは、国歌のでき上りというのはどこにポイントを定めたらいいのかということになるのであります。イギリスの場合は諸民族のいろいろの葛藤やなんかででき上ってきたわけですが、日本の場合はそういう民族的な葛藤ではなくて、ただ規模が拡大していく。プロセスを言っておりますが、そのでき上った時点を定める定め方に非常な見方の相違があって、結局それをどこで押えたらいいかわからないということになる。そのような場合には、進んで建国の日を設定するということは非常にむずかしいのではないかという意味において申し上げたのであります。
それからもう一つの国の成り立ちについて、家を尊重すると同じような気持において、またその家を尊重する気持というのは、日本民族の伝統的な心情であるから、それによって国の成り立ちを祝うというのは自然ではないか。またそういう要求を民族として持っているのじゃないかというお説のようでありましたが、確かに日本人が家というものについて意識がまことに鋭い、それに対する愛着の念が強いということは間違いないことだと思います。もっとも家と申しましても、それが世帯ごとの家ばかりでなくて、家の連合体としての同族団というような場合もありますし、規模は大小さまざまとなって今日に至っておりますが、とにかくばくたる観念でありますけれども、それに対する意識、関心が強い。それを国家に規模を広げ、押し及ぼして、そういうものだからして国の始まりを祝う、あるいは祝いたいという要求があるというふうにおとりになられるのはどういうわけであるか、私にはよくわからないのです。その間の結びつきに、お説の中に飛躍があるように感じられますし、それから国の独立、成り立ちを祝おうとする、そういうものが伝統的な心情でなかったということは先ほども申しましたし、つまり明治以来のそれは、小野先生のおっしゃるところでは、要するに近付の日本人の個人的な自覚が進んできて、それを国にまで及ぼしてきたという独立自尊の考え方ができて初めて現われるものであるというお説がありましたが、確かにそういう近代日本の特殊な産物であったろうとは思います。しかしそれは民族的な心情として、その時代になってつちかわれてきたものではなくて、私に言わせれば、やはりこれは相当強引な教育力というものがあずかっていたように思うのです。明治、大正、昭和と太平洋戦争を終るまでの間の、あの国家主義ないしは昭和の戦争時代になりますと、超国家主義的になる、そういう体制の中での教育というものが、何となしに今の国民の世論に響いていますような工合の感情をつちかったのであって、ほんとうの古代以来連綿と続いてきている伝統的な心情というものとは、それはぴったりするものではない、従ってそういう伝統的な心情の中で、十分に人々が歴史的な教養を積んだ上で、こういうふうな国の独立あるいは建国の日を記念したい、祝いたいというふうになるまで待った方がよいのではないか、そういう意味であります。
この発言だけを見る →それからイギリスの側でもって、そういうふうに自分の国は歴史が古いからといって建国の記念日を設けなかったという説明ではないのであります。たまたまそういうふうなイギリスの場合のように、国家の統一とか建国とかいうことがはっきりいつというふうには定めがたいようなところでは、そういうものを定めようとする意欲さえ起きなかったということを申し上げたのです、日本の国の場合を考えてみますと、いつ国ができたと言っていいか、実際人によって国家というものについての概念に相違がありますから明確にいかないと思います。大和地方だけが大皇のしろしめすところとなった段階をもって国の統一が行われた、国家ができたというふうに認識する者もありますし、それからまた九州地方を合せて瀬戸内海を仲立ちにした統一を果された時をもって国の統一、国家のでき上りというふうに解釈する者もありますし、あるいはさらに加えて出雲地方を包括した段階をもって国の統一、日本のでき上りというふうに見る者もありますし、なお後になりますと大化の改新でそれができたというふうに見る者もあって、そこで問題になるのは、国歌のでき上りというのはどこにポイントを定めたらいいのかということになるのであります。イギリスの場合は諸民族のいろいろの葛藤やなんかででき上ってきたわけですが、日本の場合はそういう民族的な葛藤ではなくて、ただ規模が拡大していく。プロセスを言っておりますが、そのでき上った時点を定める定め方に非常な見方の相違があって、結局それをどこで押えたらいいかわからないということになる。そのような場合には、進んで建国の日を設定するということは非常にむずかしいのではないかという意味において申し上げたのであります。
それからもう一つの国の成り立ちについて、家を尊重すると同じような気持において、またその家を尊重する気持というのは、日本民族の伝統的な心情であるから、それによって国の成り立ちを祝うというのは自然ではないか。またそういう要求を民族として持っているのじゃないかというお説のようでありましたが、確かに日本人が家というものについて意識がまことに鋭い、それに対する愛着の念が強いということは間違いないことだと思います。もっとも家と申しましても、それが世帯ごとの家ばかりでなくて、家の連合体としての同族団というような場合もありますし、規模は大小さまざまとなって今日に至っておりますが、とにかくばくたる観念でありますけれども、それに対する意識、関心が強い。それを国家に規模を広げ、押し及ぼして、そういうものだからして国の始まりを祝う、あるいは祝いたいという要求があるというふうにおとりになられるのはどういうわけであるか、私にはよくわからないのです。その間の結びつきに、お説の中に飛躍があるように感じられますし、それから国の独立、成り立ちを祝おうとする、そういうものが伝統的な心情でなかったということは先ほども申しましたし、つまり明治以来のそれは、小野先生のおっしゃるところでは、要するに近付の日本人の個人的な自覚が進んできて、それを国にまで及ぼしてきたという独立自尊の考え方ができて初めて現われるものであるというお説がありましたが、確かにそういう近代日本の特殊な産物であったろうとは思います。しかしそれは民族的な心情として、その時代になってつちかわれてきたものではなくて、私に言わせれば、やはりこれは相当強引な教育力というものがあずかっていたように思うのです。明治、大正、昭和と太平洋戦争を終るまでの間の、あの国家主義ないしは昭和の戦争時代になりますと、超国家主義的になる、そういう体制の中での教育というものが、何となしに今の国民の世論に響いていますような工合の感情をつちかったのであって、ほんとうの古代以来連綿と続いてきている伝統的な心情というものとは、それはぴったりするものではない、従ってそういう伝統的な心情の中で、十分に人々が歴史的な教養を積んだ上で、こういうふうな国の独立あるいは建国の日を記念したい、祝いたいというふうになるまで待った方がよいのではないか、そういう意味であります。
大
大村清一#13
○大村委員 御趣旨は一応私了承いたしましたが、私の申し述べました点がわからないという御疑念が起りましたのも、言葉が足らないからそうだったと思いますが、わが国の歴史を見ますると、氏族、氏の時代が長く続いておって、今日のような個人的の家というようなことになったのはよほど後代のことであろうと思います。そういうような歴史上の事実がございますので、たとえばわが国の各家庭の持っております系譜というようなものは、必ず皇族からだんだんと下って参りまして、何十代かの後の今日というようなことで系図を非常に尊重する習慣、これは要するに大和民族、大和朝廷、日本民族、日本国家ということに対する非常に強いあこがれであるということは明らかであると思います。この建国日ができなかったということにつきましては、小野教授の申し述べられましたような、国際意識が強くなったときに始まったということに関連はあると思いますが、しかし日本民族で日本及び日本国というものにつきまして、この建国を祝うということは決して国民性に反するというように私は考えないのであります。もっとも歴史が古いと的確に国家がいつ建国したかということをきめることの困難さがあることは私にもよくわかります。しかし例にあげられましたイギリスは、単に古いからということでなく、私はほかに建国祭を作れない特殊事情があるのではないかという点につきましては、依然として疑問を持つわけであります。また日本の場合におきまして、いつ建国されたか、その日を確定することは歴史上、科学上困難だという点は確かにあるでございましょうが、しかし日本民族及び日本国の成立を祝うために記念日を作って――いつ建国ということを言うのではありません。その建国のありましたときを記念いたしまして、日本民族として、日本国として、世界に伍して名誉ある立場をとっていこうというような、意を新たにするために、すなわち建国の昔をしのびまして、今後の日本国の行き方について、国民が善処するというための記念日を作ることは、大いに理由のあることだと私自身は考えておるわけであります。この点につきましては、議論になりますからこれ以上お尋ねをいたしません。一応ただいまのお答えで私は了解をいたした次第でございます。
この発言だけを見る →相
眞
眞崎勝次#15
○眞崎委員 私はまず小野先祖にお伺いしたいと思います。大体において小野先生の御意見なり、森先生の御意見に私は同意を表するものであって、和歌森先生や井上先生の御意見に不同意のものであって、それがかえって侵略主義を起し、あるいは軍国主義のもとになりはせぬかとおっしゃったのですが、先生方の御意見がやがて戦争の原因を作り、革命の原因を作るものと思って私は非常に心配をしているものであります。
まず第一番に小野先生に対しては、国家のみならず人間でもすべての者が共通の普遍性を持っておると同時に、特異性を持っていなくちゃいけない、特異性のないものは存在の意義はない、国家としても特異性のないものはおのずから滅びる、その特異性が世界共存共栄していく普遍性と矛盾しているものであってはならない、それがさっき申し上げましたような、八紘一宇とか何とかを取り違えたと先生が申されたが、私も同意見であります。これを取り違えたためにこういう戦争になったのでありまして、この国家としての特異性と普遍性の存在について先生の御意見を伺いたい。
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小
小野祖教#16
○小野公述人 国家の特異性と普遍性とをどういうふうに考えていったらよいかということでございますが、私はすべて先ほど申し上げましたように、人間が一つの人間として存在するためには、自分の人格というものを確立していかなければ主体的な行動というものはできない、ここに責任を持つという立場ができてくるので、これがつまりその国の特殊の立場というものを考える根拠であると思います。この特殊の立場を持つということは、おのずから他の者の特殊な立場をも認めて、それぞれがそれぞれの特殊の立場を持ちながらそうして国際社会の結びつきをやっていくことによって、平和な国々の交わりというものができていくのであって、普遍というよりもむしろそういうようなお互い同士の社会的関係という意味においての広い行き方というものがあるが、それはつまり自主的の立場と矛盾するものではなくて、それがあることによって、かえって責任のある立場においてよりよくお互いを立てたり、お互いを理解したりしていくことのできるような、そういう行き方ができるのだ、そうしてそれが欠けてしまって他のものと同じような立場にいくということは結局自分自身の人格的自覚、国家ならば国家的自覚というものがないので、責任感が非常に弱くなってしまう。それで私は当然そういうような自主性の根拠というものを持つことが大切であるというふうに考えております。
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眞崎勝次#17
○眞崎委員 ただいま御説明をいただいてはっきりいたしましたが、その日本の特異性というものが、いわゆる国民、国家一体の原理をとり、それが宇宙の大神である、物はすべて一元から発して、個々に発達したものは一つもない、その一体の発達の根源をどこに求めるかということで、肇国ということを非常に考え出したろうと私は思うのであります。それで教育勅語の中にも「国ヲ肇ムルコト宏遠二徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」とぼかしてあるが、そういうほんとうの初めというものは、人類発生の初めもはっきりいたしませんように、ほんとうに古い国はそうはっきりしないのが当りまえで、それじゃみんなうそかというと、国民感情の集まりで、世論と同じで、いかにも大衆というものはむとんちゃくのように見えるけれども、かえってそのむとんちゃくの中に真理を発見して、その帰一点が紀元節となり、しかも日本が発展するにつれ、対外関係ができるにつれて日本国の存在を非常にはっきり認識した。それが紀元節となって現われた。またさっき和歌森先生は個人の誕生日でも非常に軽く思われるように言っておりましたが、やはり哲学が発達してきて人生観を持つようになってくると、自分の存在をはっきり見出したいという気持がそこに出てくる。ただ科学的ということだけでいうならば、自分の生まれ日でも戸籍と非常に違っておるのがございます。自分の生まれ日でも戸籍簿とほんとうに生まれた日と非常に違った者があります。かようにして国の古い生まれ日がそう科学的にはっきりとわかるなんということは皮相の見解である。ものの見方が違っているのであります。肇国の精神というものは日本だけしか持ち得ない。森先生の御意見もありましたが、外国にない、まず発見し得ない歴史を持っている。それが日本が非常に強くてこうしてきたもとだと思います。日本の特異性というものは肇国の精神を持ち得ているというところにあると思いますが、この点について小野先生の御意見を伺います。
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小野祖教#18
○小野公述人 今度の戦争が終ってから、紀元節をやらせなくなったアメリカの責任の衝にあられたのがバンス博士でありますが、ハンスが日本にああいうような態度をとりました根底には、アメリカが二百年に満たない歴史しか持たない新しい国である、その国に育った東洋史の研究家としての感覚があると思うのであります。その感覚というものをそのまま日本人の頭に当てはめるわけにはいかない。日本人の頭には、もっともっと古い国である、そして古いということが決して不思議でも何でもないような気持があって、それだけの古い国の歴史のあるという事実をまず認めていくということが、この問題に対しての一つの根底になっていると思います。そういうような特殊な国であるという立場で考えないと理解のつかないような、そういうふうな現われ方をしている面があると思うのであります。これは日本人だけでお互いにその点を理解して維持していくということが必要だと思うのであります。
なお、日がさめられないという問題につきましては、二千年も前の問題は絶対にといってもきまるものではないと思う。もしもこれを三年か四年の学界の論争できめようと言ったならば、これはきまらないことを承知で言っているか、あるいは学問の性質を知らずに言っている、こういうことになると思いますので、むしろこれは暴論に近い。きめようと思えばきめられる、しかも古い国というのをある程度で押えたいという気持に乗った考え方をしていくよりほかに、日本の国に合う考え方はないのじゃないか。
なお蛇足かもしれませんが、祝い日の問題は、生まれた日と全然違った日であっても、祝いの日を設ける意味はあるので、祝うということに意味があると思います。いつか日をきめなければならないということになれば、何かの意味で比較的その根拠のある日を求めたいというのが人情であります。二月十一日の問題が出ているのは、その意味で日本人の人情――政治は人情に基いてやられて当然な面を持っておりますので、その人情ということを考えて、ただ学問々々でものを考えてはいけないというふうに考えております。
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なお蛇足かもしれませんが、祝い日の問題は、生まれた日と全然違った日であっても、祝いの日を設ける意味はあるので、祝うということに意味があると思います。いつか日をきめなければならないということになれば、何かの意味で比較的その根拠のある日を求めたいというのが人情であります。二月十一日の問題が出ているのは、その意味で日本人の人情――政治は人情に基いてやられて当然な面を持っておりますので、その人情ということを考えて、ただ学問々々でものを考えてはいけないというふうに考えております。
相
相川勝六#19
○相川委員長 ちょっと皆様方に申し上げますが、和歌森先生が二時半ごろまでしか時間がございませんから、和歌森先生の御質問をできるだけ早くやって下さい。ほかの先生方にはその後でもいいですから。
この発言だけを見る →眞
眞崎勝次#20
○眞崎委員 次に、四人の先生方の御意見を伺っておると、ものの見方、考え方というものに非常に相違がある。近代人をこうして見ておると、ただ客観的に上っつらだけを見て、よくそれをそしゃくせずして批評するところがある。ものの見方によって、たとえば水でも水の四見相、こういっておるように、人間が見ると、水が当りまえの水に見えるが、餓鬼が見ると、火炎に見えるというておるように、主観の持ちようで、ものというものはいろいろにとれます。でありまするから、歴史を研究せられる上において、どうも私に与える感想は、和歌森先生、井上先生のお考えをじっと考えておると、客観的に、まことに失礼ですけれども、この日本の歴史をどこかけちつけるところはなかろうかというようなことで、そこを探された結論がさようになるのであって、今度は主観的に内部に入って、日本の成長の中に入り込んで、自分がこれを観察し、同時に外部からその発達の歴史を見て、これをかみ合せて考える、そうしてなおかつわからぬところがあるところは、民族の栄誉、民族の永遠のために、そう肯定的に考えるのが普通の考えようじゃなかろうかと思いますが、この点に関する小野先生の御意見はいかがです。
この発言だけを見る →小
小野祖教#21
○小野公述人 外から見る見方がいろいろあっていいということは、学問の世界では必ずしも一つの見方でなければならないということはないので、学者はそれぞれの立場でもって御研究になっていいものだと思うのであります。ただ歴史というものは生きた問題を取り扱っていくのでありまして、そこに生きている人間がどういう人間であるか、どういう心持で生活しておるものであるかということに対する深い理解がなければ、結局は正しい把握はできないだろうと思うので、日本の歴史を考える場合に、日本というものに深い理解を持っていくような、そういう心でやったものが、ほんとうの意味での日本の歴史をとらえたということになるであろうということは、私などの常々とっておる態度であります。学問としてはいろいろな立場があっても差しつかえないのではないかというふうに考えております。
この発言だけを見る →眞
眞崎勝次#22
○眞崎委員 次に和歌森先生にお伺いいたしますが、文献と口碑、言い伝えということについてどう考えておられるか。私は浅薄であるけれども、高楠順次郎博士から相当教えを受けたのですが、かえって文献よりも言い伝えの方が誤まりが少いと言っておられましたが、現に私が調べた文献でも、最近のものでも、いろいろなアクシデントに対する文献で、ほんとうのものはほとんどない。それから義太夫みたいなもので、ずっと見たところでも、たとえば一の谷の三段目を見てみると、壇浦の戦いを見ると、明治の始まるころまでは、敵とみなすは安徳天皇と言うたものです。それからだんだん敵とみなすは御若君と言って、次にはとってしまった。それからロシヤが千島に反攻してきましたときでも、実際反対のことを全部書いてあるのです。最近はまた日露戦争、日清戦争に対しても全く歪曲をして、世人を誤まらしめるようなことを書いて伝えておるのであります。口碑ということも、言い伝えということも、そう軽く見るべきものじゃないと思いますが、御意見はいかがでしょう。
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和歌森太郎#23
○和歌森公述人 お答えします。ただいまのお話は、私の学問に非常に近い話ですが、私は実際は文献一本やりでない主義で歴史をやっておりまして、口碑を十分に調べて、民族学でございますから、民族伝承になっておる言い伝えの方を非常に重い材料と見るのであります。そういう点で、私どもの調べた中で感じられますことは、年代とか時とかいうものに関しましては、口碑はまことにおぼろであって、それがずっと内容的には真実な形で伝わってきていても、年代がさだかでない口碑であるがゆえに、文献的な知識を持っているこざかしい人たち、坊さんとか、私どもの調べております山伏とか、そういう人たち、あるいは後の江戸時代でありますならば地方の好事家風な学者、そういう人たちの介添えによりまして、これはこのときの話にしようというふうな、そういう相談をしたわけじゃないですけれども、そういう年代を差し込むのです。そういうことをやって、いかにもっともらしい形――そうしないと知的な人たちが約得しないがゆえに、口碑を信じないがゆえに、年月日なんかを麗々と差し込みます。それを差し込んだあとで書きものにして、いかにも根っからの文献として伝わってきているもののように世の中に示すのであります。そういう傾向が日本人の口碑――日本ばかりでなくて、これは世界的にそうだと思いますが、口碑から文献へのプロセスの中にはあるのであります。そういうことは認めますが、そうしますと、私が先ほど言いましたように、日本書紀ができ上る前には旧辞というものがあって、その旧辞は口承、伝承、つまり口碑を相当取り込んでいると思いますが、ここでは年月日なんかはほとんどなかったと思います。またそういう月を判断するのは、大体月の満ち欠けによって一月、一月を勘定しておりましただけで、それを一々記録にとどめておくということはできなかった文化段階でありましたがゆえに、ごくあいまいな計算で進んできておりますし、そうしたばく然たる口碑を旧辞に取り込み、またその旧辞から歴史書として堂々たる体裁を整えるに当って、年月日をそこに挿入するということを遂げたんだというふうに、私たちは日本書紀の成立過程を考えておる。そういう点でも史実の不確かさ――あれが史実であるというふうには受けとれない。でありますが、そのことは、私自身の説から言いまして、実は今日問題になっておりますことについてはあまり重い意味をなさないのでありまして、むしろ私はこの明治以来のあり方というものについての深刻な反省からこの問題に迫っているのでありまして、ただそういう御質問がありましたから、私の研究しておる立場からの口碑と文献についての関係を申し上げたのでありますが、なおお話の中に日本人のほんとうの心を――小野先生もおっしゃったのですが、深いものをつかみとろうという立場、つまり表面的ではなくて内面的に歴史を研究すべきではないかとおっしゃられましたが、私などはおそらくそういうふうな立場をとっていることにおいて人後に落ちないつもりであります。でありますから、たとえば系図をいろいろ調べて参ることがあるのですが、村の旧家にはそういう系図がたくさん残っておりますが、みな源平藤橋に結びつけてあるのを見るのです。紙といい、字といい明らかに江戸時代の書きものである、あとから作った系図である。ところがずっと古い室町以前の平安時代にさかのぼるころに先祖を結びつけようとする、そういう気持がよく出ておる。そういう源平藤橘になりますと渕源するところは天皇であります。ですから始まりは天皇というふうに書いてあるのが一般の系図のあり方であります。先ほどお話がありましたが、そういうふうなことが日本人の皇室への一体化というものを示しておるので、それがやはりこの問題を考えるのに大事な点ではないかというお説でありますが、こういうふうに尊いものを尊重するということについては、確かにあったと思います。それが皇室へという形で結びつけられてきたのは、やはり先ほどちょっと言いました近世江戸時代のこざかしい人たちの計らいごとであって、あなたのところは大きなうちであって何かいい系図でも作っておかなければいけないんじゃないかというサゼストをいたしまして、そうして商売にいたしまして系図を書いてあげた。そのときにいろいろな口碑をもとにいたしまして、これは平氏の流れだとか、あるいはこれは源氏の流れだとかいうようなことで、いろいろただし合いまして、それでは清和天皇にいくではないか、あるいは桓武天皇にいくではないかということで、系図を作ってあげた。そういう商売が成り立っていたことは、江戸時代の事情を見ますとよくわかるのであります。そういうふうなことであって、やはりこれはほんとうに根っからそういうことを伝えてきたものを系図化したものであるというふうにはとれないで、おせっかいがそういうふうな結果を導いたというようにとれますので、ちょっと話が先ほどの御意見に触れたのでありますが、私の歴史の見方を御理解いただく、つまり内面的に探っていくということについては、そんなようなやり方でもって考えていくものであるということを御理解願いたいと思います。
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眞崎勝次#24
○眞崎委員 次に私どもの研究し、体験したところでは、日本が明治維新後わずか四十年で、それまでは、日清戦争前までは約三千万の人口、そうして日清戦争までは東洋に日本国があるということを知っておる白人は少い。そういう哀れな日本であったが、わずか四十年足らずの間に世界の三大強国というところまで伸びて行ったところの根本の原因は、いわゆる日本の特異性が非常に国民の団結を促したということにあると私は思います。そうしてなお天は二物を与えずで、この特異性を取り違えて、外来の思想に操縦されたために、ことに第一次大戦後のロシヤ革命以後は非常に破壊的な思想がふえまして、現在日本にはこれがはんらんしておる。そういうわけで、日本精神をかきまぜ、むしろ日本精神を失い、そうして外来思想に操縦されたところに第二次大戦に日本が突入していったところの原因があると私は断定しておるのであります。この点に対しても多くの人の誤解があるように思いますが、先生の御意見はいかがでありますか。
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和歌森太郎#25
○和歌森公述人 お答えします。明治以来の日本の異常な発展――異常と申してもいいと思いますが、そういう発展に、根源において日本人の民族的エネルギーと申しますか、そういうものが燃え盛ったということは十分認められると思います。それがどういう方向行へったか、あの時代、あの国際社会の中において、日本のあり方から見まして、そのように燃え盛ってああいう国家を作ったということはそれ相応に意義があり、とうといことであったと私は思います。しかしまたその後この大正、昭和という時代において、日本の大衆の経済的な困窮とか、社会不安とかいうものを打開し、解決していく行き方として進んだ方向、民族の行き方は賢明でなかったというふうに思うのであります。そういう時代になおかつ明治のときのりっぱであったイデオロギーや体制を押しかぶせて、そうしてぐんぐん不幸な方向へ行ったということを私たちは認めなくちゃいけないのじゃないか。確かに昭和の戦争はわれわれにとって不幸であったと思うのです。そういう知恵、働きを持って機動力を持っているということが明治の精神の一面であった。全面的に明治を否定するものではありませんが、明治の一面が大正、昭和の時代をうまく解決していくのに制約となった。そういう一面にこの一月十一日というふうなものが、いわば連想的ですが関連があるのじゃないか、そういう点で、素朴な気持で国民感情に従ってこれを設定することは、ごくすなおに考えて何でもないことだと私は思うのでありますが、何かその後に来る影響、関連ということについての不安を感ずるということはやはり申し上げざるを得ないのであります。
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眞崎勝次#26
○眞崎委員 もう一つは、戦前ならばむしろ国家の統制力をもっとゆるめてよかったろうと思いますが、しかし今日の日本の姿は、やたらに日本を弱体化して破壊せんがためにしたところの新憲法やあるいは占領政策の誤まりのためにこうなった。全く日本の今の姿は、ただ個人の自由のみあって、精神的に一つも指導原理を持たない。そうして自由と言うても、人格の自由と法の自由と取り違えておる、そういう点がありまして、今日は日本の再建を望み、個人の自由、個人の幸福を望むならば、国家と離れては考えられないのでありますから、むしろもう少し国家の統制力を増し、それを増す根本になるところの特異性と指導原理をここに確立すべきである。この意味において私どもは肇国祭と言いたいのですが、そういう日がほしいと思いますが、これに対する御所見を伺いたい。
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和歌森太郎#27
○和歌森公述人 お答えします。今日の思想的混迷と申しますか、錯雑している状況、これはやはり認めざるを得ないと思います。それだからといって、やはり統制をしようという……。
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和