森清人の発言 (内閣委員会公聴会)

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○森公述人 ただいま紀元節復活の問題は非常に大きな社会問題となっておりますが、先般内閣委員会の方から議事録を送っていただきまして、それを拝見いたしまして、賛否両論の方がこの問題につきまして非常に真剣に討議をしておられますことを知りまして、深く敬意を表する次第でございます。
 あの議事録を私はかなり入念に拝見いたしましたが、結局問題をしぼってみますと、反対の方の御意見は、建国記念日を設けること自体には反対ではない。しかし二月十一日という日がいけない。なぜいけないかというと、これはでたらめである、またうその歴史に基いておる、そういうようなうその史実に基いた国家の祝祭日というのはいけない。それからもう一つは、この建国記念日などというものは、侵略主義ないしは征服主義、そういったものとつながっておる、だからいけないという点が先般の内閣委員会で審議された最も重要な点であるように拝されます。そこで問題を四つにしぼりまして、しばらく私の卑見を申し上げたいと思います。
 第一の問題は、紀元節には科学的な根拠がないという問題。第二は、日本の上代史はうそである、従ってそれに基いた紀元節は意味がない。第三は、二月十一日というものもでたらめにきめたものであって、あてにならない、第四は、神武東征は侵略主義、征服主義の実践であって、これに関する記念日を制定するのはよろしくない、大体ごくおもな点をかいつまんで要約しますと、以上の四点になるかと考えますが、簡単にこれに対する卑見を申し上げたいと思います。
 最初に概括的なごく大事なことを一つ申し上げたいと思いますことは、この論は根本におきまして非常に大きな一つの誤まりの上に立っておると私は思うのです。と申しますのは、終戦後日本の紀元は六百年ばかり長いという問題が非常に問題となりまして、これがいつの間にか一つの流行学説みたいになりまして、今日では定説といわれている。そうしてそのために、紀から聖徳太子以前の上代史というものはほとんど削られておるというような状態でございます。そういったことが前提となってこれが考えられておるというところに、私どもがこの問題をあらためてしっかり考えなければならぬところがあるんじゃないかということを考える次第であります。
 そこで第一の問題ですが、紀元節は科学的な根拠がない、議事録についてみますと、日本の紀元は引き延ばしがあるということは、久米博士もいっておられるし、今日では学界の定説である、学者の何人も否定するものはない、かようなでたらめな紀元を問題にした紀元節は不当であるというような意味のことが書いてあります。なるほど科学的根拠というのは、これはなかなかむずかしいことでございまして、いかなる学者でも、神武天皇が何年前に即位をされたというようなことを断定的に申すことはできないと思うのです。しかしただいま流行しておりますのは、これは有名な明治時代の那珂博士が唱えられた説がもとになっておるようでありますが、ただ那珂博士の説を定説ときめてしまって、それに基いてすべての判断をするということは、これは非常に危険だと思うのです。御承知のようにこの那珂博士の説は、今から七十年ばかり前の、歴史のきわめて幼稚な時代に立てられた説でありまして、今日から見まするといろいろと問題があるわけです。詳しいことは時間がございませんから申し上げるひまがございませんが、とにかく言い得ることは、一国の法律改正のもとになるということは、よほどこれは確定的な確説でなければならぬと思う。このようなまだ不確定な説をもととして、それによってこの法律改正ということが考えられることは、よほど慎重にしなければならぬのではないかと思います。もちろん日本書紀の紀元というものにも、調べてみまするとずいぶん間違いがございます。たとえば神功紀の後半にはっきり百二十年の間違いがある、こういうことはもちろん否定できません。しかしながらそうであるからといって、戦後流行しておりますこの説が正しいわけでもございません。お手元に参考資料というものを差し上げておきまして、この第一のところに六百年説の骨子となるものを六つ書いておきました。これは一々を説明する時間がございませんから項目だけを読みますが、六百年の年数がすでに問題がございまして、これは藤貞幹が天明年間に衝口発という本を書いて、その中で主張しておるものでありまして、学問的な理由、根拠というものは何も示しておりません。しいて言えば新羅の君長を素戔鳴尊であるときめて、その説のつじつまを合せるために六百年長いということを言い出した。それ以外に別に学問的なしっかりした根拠というものは示されておりません。それから上代天皇の長寿の問題、これはまた大事な問題でございますので、あとでちょっと触れたいと思います。それから日本書紀の紀元は推古九年の辛酉の年から千二百六十年逆算してきめたのだ、この説。この説にも十分批判の余地があると思う。それから卑弥呼比定の問題、神功紀年代の比定の問題、それから朝鮮、シナ――漢韓史との年代の比較問題、こういった問題が学問的には取り上げられなければならぬのであります。こういうことがまだほとんど論議されておりませんで、そうしていつの間にか学界の定説などと言われてしまった。少くとも学界の定説というところまで持ってくるためには、賛否両論の学者が十分な論議を尽して、そうして学説というものはおのずから帰着するところに帰着する。そこにほんとうの定説というものが生まれてくる。そういうような点におきまして、従来いわれております点に、よほど慎重にもう一ぺんじっくりと考え直すところがあるのではないかと思う次第であります。
 それから第二の問題の上代天皇の長寿の問題、これも先般の内閣委員会でも問題になったようですが、これはまたよく世間の人も言うことなんです。なるほど日本書紀を見ますと、仁徳天皇以前の十六天皇のうちに百才以上の天皇が十二名ばかりおられる。これはだれが考えましても不合理であります。どんなに上代の天皇が長生きであったとしても、十六人の中で百才以上が十二名ある、そのようなことはあり得ない。しかしながら歴史の研究というものは、あらゆる角度から慎重に研究しなければならぬと思う。裏からも表からも、縦からも横からも、あらゆる角度から研究するのが歴史であります。そういう意味から考えますと、那珂博士がこの上代天皇の長寿の問題を人間生理の定則上あるべからず、こういったような簡単なことで割り切っておられる。これは十分考えなければならぬと思う。そのような歴史上の大事な問題は単なる人間生理の定則のみで片づけ得るような簡単なものではないと思う。たとえばここに、参考資料の二の方に七つの例をあげております。これも今は一々は説明できませんから、簡単に項目だけを読み上げますが、昔から――今日もありますが、襲名というものがございます。これは那珂博士も上代に襲名のあったことは認めておられます。たとえば彦火火出見尊、倭迹迹日百襲姫命あるいは八井耳尊あるいは吉備津彦尊、こういったものは非常に年代が長くなっておりますが、これは襲名によるものと考えられます。
 それからまた天皇が複数に用いられた例があります。一人の天皇の名前が二人の天皇を示すような場合もある。その例を申し上げますれば、飛鳥浄見原御宇天皇、こういう一つの名前で文武天皇と持統天皇の二人が表わされておる。
 あるいはまた空位――ただいまは明治以後皇室典範というものができまして以来天皇の空位というものはございませんが、上代には空位というものがしばしばございます。日本書紀を調べてみますると、この空位の年数も次の天皇の年数の中に含まれております。具体的な例を申しますれば、安閑天皇と継體天皇との間に空位がございますが、これは日本書紀では安閑天皇治世年数中に入っておる。あるいはまた日本書紀で削除されておる天皇もございます。たとえば弘文天皇のごときは削除されております。この弘文天皇が即位をされたということは明らかな歴史的な根拠がございます。それで明治三年に第三十九代として天皇に加えられたわけでありますが、こういうような例はほかにもある。市辺天皇という天皇が安閑天皇と雄略天皇の間に即位をされたということはこれも歴史の事実がございます。こういうような場合に日本書紀は、削除した場合の年数を調べてみますると、これを次の天皇の年数の中に入れておる。こういうことも日本番組の上代の天皇の年代が大きくなっておる一つの理由なんです。あるいはまた脱落した場合がある。今申しましたのは削除です。意識的に削った。そうではなく不注意で落すとか、あるいは資料が十分でなくて、わからぬで落したといったような脱落の例もあるのです。新しい例で申しますれば、大正十五年に九十八代に列しました長慶天皇、これは最近まで落しておった。歴史学が進んだ最近でもこういう事実があるのでありますから、古い時代にはまたこういうことも十分あり得たろうと考えられます。
 それからまた歴史を調べてみますると、異称天皇ともいうべき天皇がございます。これは正史には天皇として書いてございませんけれども、ほかの文献に天皇として書かれておる。たとえば宇治天皇とか清貞天皇あるいは飯豊天皇、こういうような場合も、私はこの天皇の年代が大きくなった一つの理由と考える。
 また世代の別というものがございまして、詳しくは申し上げる時間がございませんが、たとえば今上天皇は代で申しますと百二十四代、世で申しますと七十一世、この代と世の区別がどこから始まっておるか、調べてみますると、仁徳天皇と履中天皇のところで始まっておる。それまでは、つまり仁徳天皇までの世代というものははっきりいたしておりません。混淆しておる。それから百才以上の天皇を調べてみましても仁徳天皇以後にはないのです。履中天皇以後の天皇の年を調べてみますると、継體天皇の年の八十二才を最高といたしまして、あとはわれわれの普通一般の年とほぼ同じでございます。ですから百才以上の問題は、仁徳天皇以前だけに限られておる。しかもよくこれを調べてみますと、その仁徳天皇までが世代が混淆しておる。かようにいろいろな角度からこれを考えてみますと、上代天皇の年が百才以上であるということにもいろいろ理由があるわけです。ですからただ単にこれを人間生理の定則上さようなことはないといって簡単に片づけられぬ問題があるわけです。
 それから第三番目の問題でございますが、つまり二月十一日という問題、これは議事録を拝見いたしますと、二月十一日というのも、明治五年に明治政府や御用学者が勝手にきめたもので、何ら歴史的な根拠はない、えともなかった古い時代のことははっきりわかるわけはない、こんなでたらめな日を国家の祝祭日にすべきではないということが書いてございます。これも一応ごもっともな御意見と思います。しかしながらえともなかった、つまり干支ですが、えともなかった古い時代のことであるから太陽暦への換算はできない、でたらめだということは言い得ないと思うのです。なぜかと申しますと、月や太陽や地球の自然現象というものは今も二千年前も変りはないわけです。えととはこれは関係ございません。えとは人間が勝手に作ったもので、自然現象には関係がございません。この千年前、二千年前の太陰暦の正月元日でも太陽暦に換算できるということは、それはどういう方法か簡単に申し上げてみますと、地球は三百六十五日五時間四十八分幾らで太陽を一周いたしますので、四年目ごとに一日のうるうを置いて四百年間に三回だけはこれを置かない、これは御存じの通りです。そういたしますと、紀元を二六一七年と仮定いたしまして、日にちに換算してみますと、大体九十五万二千八百日くらいになるわけです。そこでまず最初に太陽暦の日をずっと表をこしらえます。そうしてこの表に今度は太陰、つまり旧暦ですが、旧暦の日を一々それにずっと当てていきます。月は、御承知のように、大体二十九日半くらいで地球を一周いたしますから、二十九日または三十日を一月としてその十二ヵ月を一年といたしますと、太陽の一年よりもおよそ十一日くらい短かいことになります。そこでこれを太陽に合せるためには大体二年半に一日のうるう月を置かなければなりません。この場合にはえとを入れても入れなくてもかまいません。今申したような太陰暦と太陽暦の対照表ができますと、そうすると千年前の花月元日でも、二千年前の正月元日でもすぐわかるわけです。かようにして作りました暦を三正総覧というのです。これは暦というよりも太陽暦と太陰暦の対照表ともいうべきものですが、ともかくそういった三正総覧というものができておるのです。試みにここに御参考までに一、二の例を申し上げてみますと、徳川家康が江戸に幕府を開きました慶長八年の旧暦の元日は、新暦で申しますと二月十一日になっております。それから源頼朝が鎌倉に幕府を開きました建久三年の旧暦の元日は、太陽暦では二月二十二日になっております。それから大化の改新の行われました大化元年の正月元日は、太陽暦の二月五日に当る。かようにいたしまして、この二千五百何年前の旧暦は新暦の何日に当るということは、これは大体わかるのであります。もちろん人間のやることでございますから、寸分も間違いがないということは、これはだれも言い切れませんが、しかし大体そういった筋の通ったことで太陽暦に換算することはできるのであります。ですからただ単純に干支もなかった古い時代のことだから、二月十一日なんてものは当てにならぬ、こう簡単に割り切ることもできなかろうかと思うのです。
 時間がありませんから急ぎますが、この四の神武東征から橿原宮の即位までの歴史は、日本が剣をもって他を圧迫したあるいは征服した、いわゆる侵略主義の実行で、これを記念日とすることはもってのほかであるというようなことが議事録に書いてございましたが、またこの「神武東征」という言葉はだいぶ方々に出ておりまして、だいぶ問題になったように思われます。
 そこで私はちょっと申し上げたいと思いますが、先ほも申しましたように、私どもが歴史を調べるには、やはり慎重に一字一句もずっと入念に調べていかなければならぬと思う。ただ感情的あるいは妙な立場で見るようなことは、私は歴史を正しく見る態度ではないと思う。なるほど日本書紀には「神武東征」と著いてございます。「東征」と書いてあるからといって、真ちに東を征伐した、征服したというように考えてしまうのも私はどうかと思う。大体日本書紀の「神武東征」という言葉は、普通にはこれを東を「ウッ」と読むのであります。しかし私はこれは東に「ユク」と読むべきものだと考えておるのであります。この参考資料の四の1のところをごらん願いたいと思います。ここに詳しく「征」という言葉の、文字の説明をいたしておりますが、この「征」の原義は、これは「行く」ということ、転義が「行きて正す」です。漢字は御承知のように原義と転義があります。原義は「行く」であります。その例として唐の詩人の許渾の詩を響いておりますが、ここに「征衣」という言葉が出て参ります。この「征衣」はカッコで説明しておりますように、これは征伐、征服などの意味ではございません。その「朝来有郷信猶自寄征衣」この「征衣」は旅の衣の意味であります。同じく王褒の詩の中に「飛蓬以征客千里自長馳」ということがありますが、この場合の「征客」という言葉は旅人という意味であります。もっと明らな例を申し上げますと、奈良朝時代に唐の名僧であります鑑真和尚――わが国の律宗の開祖でございますが、この人が日本に来ましたことを書いた本、これは淡海三船の著作です。この本の名前を鑑真和尚東征伝と申します。これは有名な木です。こういう本があるからといって、この書物は唐の名僧の鑑真和尚が東の日本を征伐に来たと思うごときは、むしろナンセンスであります。このようでありまして、大体これを東を征つと読むと漢文上からもちょっと矛盾するわけであります。もしこれを東を征つと読みますならば、「征東」と書かなければならぬ。「征」を上に置かなければならぬと思う。そういうふうなことから考えてみまして、私は今の言葉で申しますならば、この神武天皇の東征ということは、むしろ綏撫と申しますかあるいは宣撫とでも申しますか、これを古典の言葉で申しますると、古事記、日本書紀を見てみますと、「言向平和」という言葉が四ヵ所使ってある。ことをむけてやわす、こういうことが神武東征の根本の精神ではないかと思います。
 それを主張します根本の理由として私はここに三つの理由をあげておる。第一は東征の宣言の中に、「吾必ず鋒刃の威をからず。坐ながらにして天の下をことむけむ」ということが日本書紀に見えております。これは神武東征の根本の精神を示したものだと思いますが、「鋒刃の威をからず」。これは今で言うならば武力を用いないということであると思いますが、もちろん実際の日本書紀を見ますと、武力を用いられた例はたくさんあります。第一、神武天皇も武装して行かれたことも事実であります。しかしこれは未知の地に行かれるのですから、そのようなことがあったのは当然と思うし、またいろいろ長い間には反対者もおるし、あるいはことさらに妨害する者もあったのですから、これはまたときには武力を用いることもやむを得なかったと思うのです。とにかくその根本の精神は「吾必ず鋒刃の威をからず。」そこにあったのだと思う。
 それからCのところに書いておりますように、「敵人登用愛護の例」と書いておりますが、きのうまでの敵を抜擢して枢要な地位に用いておられます。たとえば「弟猾猛田の県主に任じ、弟磯城を磯城の県主となし、剣根を葛城の国造に登用」された。あるいは「宇摩志真知命を内廷守護に任ぜらる。」ということがその例と言えますが、たとえば頼山陽はこういうことを書いております。「敵師の蒙子をして一たびその降を容るるや、之に授くるに干才を以てし、委するに環衛の任を以てして敢て疑はず。蓋し赤心を人の腹中におくもの也。」こういうことを申しております。
 そこで大事なことは、もし神武天皇の東征がただ単なる侵略であり征服であって、それが日本の伝統となってきておったといたしますならば、おそらく皇室というものはとっくに滅びてしまっただろうと考えます。これが大事なところでありますが、歴史というものは厳粛なものです。歴史に奇蹟はない。大体申しまして……。そこで滅びるものは滅びるべくして滅びていく、続くものは続くべくして続いていく。クリストもヨハネ伝の中で、剣によって興ったものは剣によって滅ぶと申しておりますが、別にクリストの言葉を待つまでもなく、日本の歴史を見ても、ヨーロッパの歴史を見ても、みな歴史はそれを事実をもって示しております。
 これについておもしろい一つの例がございますが、平安時代の末ごろに、日本の学問僧の奝然というのが中国に渡っております。たままた中国では宋の太祖の時代でありまして、宋の太祖が奝然から日本の歴史を聞き、また日本の皇室のことが始祖神武天皇以来、一系不易であるということを聞きまして、非常に驚きかつ羨望いたしまして、日本を手本にして宋室の万世無窮の計を立てまして、ここに詔勅を出しておる。それがここの第三のところに書いておりますからごらん願いたい。その一番おしまいのところには、「朕雖徳慙往聖、常夙夜寅畏、講求治本、不敢暇逸、」「不敢暇逸」とは怠らないということ、「建無窮之業、垂可久之範、亦以為子孫之計」と言っておる。これは何も宋の太祖に限ったことではありません。すでに古く秦の始皇帝が天下を統一したときにも、万世無窮ということを言っておる。しかしながらこういう一片の詔勅をもってしては、私は王室の万世無窮ということはできないと思う。やはり民衆と対立があったりしてはこれは実現できないと思うのです。そういう点から考えてみまして、日本の歴史を見てみましても、人民が天皇を敵としたことはほとんど見当りません。たとえば一揆には、土一揆だとか百姓一揆などというようなものがいろいろございますが、天皇を敵とした一揆は見当りません。こういったような、今日の言葉でいえば平和主義の精神をもって建国されたのが、神武天皇の建国であると思います。ですから私は、侵略主義とか、あるいは単なる軍国主義、あるいは征服主義というようにこれを割り切ってしまうのは、危険ではないかと思うのです。
 最後に結論を申し上げますが、ただいま申しましたように、私、多年上代史を研究いたしまして、こういったような建国の精神は平和主義にあるということを信じております。これは神武天皇が最初に示されたものでございまして、決して軍国主義、侵略主義につながるものではない。そういうような意味におきまして、ただいま日本民族が行くべき方向に迷っておるときに、こういう建国の精神が平和精神であるということをはっきり盛り込んだような新しい意味の建国記念日、あるいは紀元節と申しますか、こういうものを設けるということは大いに必要ではないか、かように信ずる次第でございます。(拍手)

発言情報

speech_id: 102604914X00119570508_004

発言者: 森清人

speaker_id: 4776

日付: 1957-05-08

院: 衆議院

会議名: 内閣委員会公聴会