井上光貞の発言 (内閣委員会公聴会)

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○井上公述人 井上でございますが、私、きょうここで申し述べますのは、いろいろ問題が多岐にわたるのをおそれまして、ただ日本書紀に出ております神武天皇即位の年を西暦紀元前六百六十年、辛酉の年の正月の朔としていることが歴史的事実であるかどうか、ただそれだけに問題を限ります。それからもう一つは、私がこれから申し上げますことは私の説ではないのでありまして、一般に古代史家が考えておりますことの要点だけを、三つに分けまして御紹介しておきます。
 第一は考古学者の考えであります。西暦紀元前六百六十年といいますと、紀元前七世紀ということになりますが、そういうときに暦の知識があったということは、考古学上の事実に照らしまして、おそらくどころか、ほとんど考えがたいことであるというふうに思います。と申しますのは、この時代の日本は石器時代である。そして農耕でありますとか、あるいは金属器の使用というものが始まりますのが、それから以後三世紀後のことでありまして、文化の発展の一般的な事情から考えまして、石器時代の日本人が暦を知っている、あるいは文字を使用していたということは考えがたいことであります。そして暦がもし知られていなかったといたしますと、神武天皇即位の年月日というようなものを後世に伝える方法はなかったであろう、こういうことであります。これが第一の考古学上から言える論拠であります。
 第二番目は、これは日本書紀及び古事記の文献批判的研究からの問題であります。さっき森先生が言われましたように、神武天皇の即位の年月日というものは神武東征の一連の物語の中にしるされているわけであります。そこでそういう一連の物語がどういうふうにして伝えられて、日本書紀及び古事記に集録されるに至ったかということであります。それについての文献学者の言っておりますことを、最大公約数、だれでもが大体この点は認めているという形でごく結論だけを申しますと、こういうふうに言うことができると思います。こういう物語でありますとか、あるいは日本武尊の蝦夷の征討の話というようなものは、これは大体西暦紀元後六世紀の前後におきまして、旧辞と称する書物にまとめられたものと考えられております。そしてこの物語を集録した旧辞には年月日というようなものは記載されておらなかった。その後七世紀の初め及び後半にかなり大がかりな歴史編さんの仕事が進められました。そしてその成果が、また少し時を経まして、八世紀の初めに古事記及び日本書紀として完成いたしましたが、その古事記、日本書紀の完成の際に、先ほど申しました旧辞がその中に取り入れられてきているわけであります。でき上りました古事記、日本書紀を比べますと、古事記の方は旧辞を正確になるたけ素朴な形で伝えようとしている。そしてその古事記の方には年月日というものは、どなたもごらんになりますように入っておりません。一方同時に、中国の史書の体裁にならって、日本書紀の方は、当時として現代史の部分がおもでございますが、これにそういう部分の史料をたくさん用いまして、そして編さん事業として完成されたので、日本書紀の方には、すべてのできごとにわたって年月日が入っておりまして、その一環として神武即位のことについても日付が記されているわけであります。こういうように一般に文献学者は考えておるわけであります。これは大体最大公約数でありまして、中に多少のニュアンスの違いはありますが、そういうふうに考えます。神武東征の物語は、その素朴な形においては年代あるいは日付というものを欠いておったということは、ほぼ確実に言えるところであります。この事実は注目すべき点だと思います。
 第三番目はいわゆる紀年論であります。この紀年論というのは、先ほど森先生が触れられました問題と直接に関係があるのであります。その紀年論の要点を申しますと二点あると思います。第一は、神武天皇即位の年を干支で辛酉ということに関してであります。さっきも触れられたようでありますが、中国の繊緯思想、一種の占いの思想でありますが、それによりますと、辛酉の年には革命がある、すなわち王者の天命があらたまる、甲子の年には政令があらたまる、そういうふうにしてこの二つの年を特に注意しているわけであります。ところが日本書紀を見ますと、さっき申しましたように、神武天皇即位の年を辛酉といたしますと、それから天皇が平定を終って皇祖を祭る年、これを甲子と言っております。これは偶然の符合ではなくて、繊緯思想によってこの干支を定めたものだというふうに考えられます。
 第二番目にもう一つ重要な点は、繊緯思想を述べました中国の書物の緯書の一つに、特に一千二百六十年ごとの辛酉の年に大きな変革があるというふうにしております。そこで神武即位の年とされましたところの紀元前六百六十年の辛酉から逆算いたしました、西暦六百一年という年に注目してみますと、その三年の後に暦が公けに用いられ始めた。それから約二十年たちまして六百二十四年に一つの歴史編纂事業が――これは聖徳太子の歴史編纂事業でありますが、行われております。そこでこれはすべての学者ではありませんが、多くの学者は西暦紀元前六百四年に暦を公けに用い始めて、そのすぐ二十年後に歴史編さんが始まった際に、そのときから一番近い辛酉の年、つまり六百一年という年を基準にして、それから千二百六十年前の紀元前六百六十年を神武即位の年ときめた、こういうふうに考えるわけであります。そしてさらにその日付に対しては、その正月の一日という一番最初の日を神武天皇即位の日というふうに定めた、こういうふうになっていると思います。
 大体以上が、私の説ではありませんので、専門の人々が考えております考えの大要であります。従って私はこれは歴史事実でないということをほぼ確信いたします。ただし歴史学の問題は、確実に証拠を提出しなければならない、そうでなければ確定できないのだというのでありますと、こういう問題に、確実な証拠を提出するということは不可能であります。そういう意味において歴史事実ではないと断言しないで、歴史事実と考えがたいというふうに一歩譲歩して申すわけであります。
 それで最後に、この立場から紀元節の建国祭の復活についての私自身の考えというものを申しますと、歴史学、ことに古代史学に携わっております一人といたしまして、それから歴史の教育に携わっておる一人としまして、私は不確実な事実というものをあたかも歴史事実のようにしてしまうということをおそれるわけであります。建国祭と歴史教育は必ずしも関係はないと思いますけれども、しかし建国祭が定められますと、少くとも初等、中等教育の日本の国家紀元に関する教育内容には、何らかの制限がこれに加わってきはしないか。そうすると史実にあらざるもの、もしくは史実でない可能性のあるものを歴史教育の中で教えるということになりはしないかと思います。歴史教育というものがいかにあるべきかということについては、いろいろ考えがあると思いますけれども、私は歴史教育の第一条件は事実を事実として教えるということでなければならないと思います。そういう際に、ことに重要な問題に関して、事実でないもしくは事実でないという疑いがあることが教えられるようになるとすると、これは歴史教育の大きな破壊である、そういうふうに思います。ですから私は歴史の学問に携わる者、歴史教育に携わる者といたしまして、こういうことはなるだけお取り上げにならないでいただきたい、こういうふうに考えるわけであります。(拍手)

発言情報

speech_id: 102604914X00119570508_006

発言者: 井上光貞

speaker_id: 31028

日付: 1957-05-08

院: 衆議院

会議名: 内閣委員会公聴会