坂本昭の発言 (社会労働委員会)
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○坂本昭君 この帰還の交渉に当りまして、先ほど葛西さんの説明の通り、警戒と不信から融和と信頼と友情へだんだん変っていったその長い忍耐の御苦労に対して、私たち心から感謝と敬意を表したいと思います。特に、今最初にお話のありました昭和三十一年の日本の同胞引き揚げのことについては、私も直接関係があったんです。ちょうど三十年の九月に、日赤の本社で井上外事部長に、当時平壌に集結して故国に帰りたいということを切望しておった三十数名の日本人の帰国の交渉に当ったことがあります。というのは、ちょうど忘れもしない三十年の八月の中旬です。あの暑い平壌の駅で、三十人ほどの、中には御婦人もまじえた方々から、当時はほとんど廃墟に近い平壌の町、その中からたしかユリの花を持って私たちを平壌の駅へ送りにきてくれた同胞の人たちがおりました。その人たちは、私たちの持っている旅行カバンの中に入れて連れて帰って下さい、私たちは日本へ帰りたいんだ、そういうことを切実に訴えられたことがある。私はその当時の同胞の胸をえぐるような訴えを忘れることができなくて、九月の初めに羽田に着いて、朝五時ごろ、税関が終ったら夜がもう明けていましたが、そのまま、日赤の方々がおいでになった時間を見計らって井上外事部長に面会を求めて交渉をして何とかして帰してもらいたいということを申し上げたことがあります。いわば、ちょうど昭和三十年の夏にたまたま私が平壌へ、そのときはもちろん国会議員ではありません、一私人として参りましたことがきっかけとなってこうなってきたことを、非常に、何と申しますか、感慨深く顧みるものでございます。その当時、この廃墟の平壌の町の中に、引き揚げの三十数人の日本人のために特別な家を作っておりました。これは葛西さんも御承知と思いますが、障子の入った日本風の家なんです。それには子供ももう入っておって、当時集結しておった日本の同胞諸君は非常に感謝と満足の気持を持っておりました。ただ問題は、いつ帰れるかという不安であったんです。それが幸いにして皆様方の熱心な御努力によって帰ることができて、私も三十一年の春でしたか、帰られた方々から、並びに、その家族から、お礼状をもらったことを今でも忘れることが実はできません。それで、その当時の平壌におった日本人の気持を考えると、今、日本におって朝鮮に帰りたいという人の気持が、私は、純然たる人道主義的な気持でよくわかるんです。私は高知県ですが、高知のいなかにおった朝鮮人の諸君からも、もうこれでお別れですから、先生と一緒に写真をとらして下さい、そう言って写真をとったこともあるんです。ところが、四カ月たってもなかなか帰れないので、おそらく平壌におった日本人の人たちと同じ気持で、非常にいらいらした気持でいるのじゃないかと思います。一つ純然たる人道主義的な立場でその立場を貫いて、特に赤十字の精神を徹底さして、今回の帰還業務を精神的にも物質的にも十分にやりとげていただいて、日本赤十字健在なりということを示していただきたいと思うんです。
それで少し具体的なことをこれから二、三お尋ねしたいんですが、まず赤十字の国際委員会の承認は絶対間違いないというふうに、日赤の方々は非常に確信と自信を持っておりますけれども、どうもわれわれ報道関係を見ても、一体それほど確実なのだろうか、そういう証拠があるのだろうか、一体どういう証拠がまずあるかということ、たとえば、この十一日にはコミュニケが出されるというふうに出ておりました。最初十口であったのが十一日に延びた。このコミュニケには何かそういうことを裏書きするようなことが予想されるのか、あるいはまた、国際委員会の公式の意思表示というものがいつなされるか、調印の十三日からジュノー副委員長の出発される十八日までの間にそれがなされるのか。それからもう一つは、十八日ごろに国際委員会の副委員長のマルセル・ジュノー氏がジューネーブをたって日本に特派されるというのですが、一体その目的は那辺にあるのか、とりあえず、それらの点を御説明いただきたい。