川村継義の発言 (本会議)

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○川村継義君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員野田武夫君は、去る六月七日逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。
 先生は、五月半ば、からだの不調を感じて入院されましたが、病は以外にも重く、治療に専念するのやむなきに至りました。
 その後、病状は日を追って快方に向かい、なくなられた当日にも、「もうだいじょうぶだよ」と、お顔に笑みさえ浮かべておられたとのことですが、無情にも病状が急変し、ついに永遠の眠りにつかれたのでありまして、先生の訃報に接した私は、大きな衝撃と深い悲しみに心を打たれたのであります。
 私は、ここに諸君の御同意を得まして、議員一同を代表し、つつしんで哀悼のことばを申し述べたいと存じます。(拍手)
 野田先生は、明治二十八年二月、熊本県飽託郡天明町にお生まれになり、長じて名門熊本中学を経て早稲田大学法学部に進まれました。在学中、雄弁会、新聞学会あるいはアジア学会等学内活動を通じて直接大隈侯の高邁な理想と気概に触れ、若い血を燃やさずにはいなかったのであります。とりわけ、新聞学会発会の際、老侯が、「新聞記者は社会の木鐸である。ベンは剣より強し。正義と信念を一堅持して民族の指導者たる自党をもって戦え」と、烈々たる反骨精神を吐露して学生を激励されました。この言に先生は強烈な感銘を受け、そのときすでに新聞記者たらんとする決意を固め、対照十二年、大学卒業とともに、朝日新聞社に入社されました。政治部記者として先生は、持ち前の闘志と俊敏さをもって手腕をふるわれ、気鋭の記者としてつとに名をはせましたが、他面、常に紳士的態度を堅持し、内外の信を集められました。
 昭和九年、後の立憲民政党総裁町田忠治氏が商工大臣に就任された際、先生は懇願されてその秘書官となりました。これが、先生が政界に入る契機となったのであります。
 昭和十一年二月、第十九回衆議院議員総選挙が行なわれるや、当時、「腕の喜三郎」とうたわれた立憲政友会総裁鈴木喜三郎氏の選挙区である神奈川県第二区をあえて選んで立候補されました。選挙民にとって先生は全く未知の存在であり、敗戦を覚悟の上で選挙戦に臨みましたが、言論一筋に訴えるその至情は、選挙民の心をしっかりととらえるところとなり、みごと初当選の栄誉を獲得され、(拍手)ここに青年代議士野田武夫君がはなばなしく登場したのであります。しかしながら、その直後二・二六事件が起こり、以来わが国はかつて見ない変転と多くの困難にあい、議会政治もまたきびしい試練を経てまいりました。
 このような困難な情勢の中で、先生は予算委員会理事、総合計画局参与、商工省参与となるなど、議員としての職責をよく果たしてこられました。
 わが国に平和が回復するや、先生は大いに志を伸ばそうとされましたが、そのやさき不運にも公職追放の指令を受けて、雌伏を余儀なくされました。しかし、この間にあっても、憂国の至情いよいよ厚く、わが国の過去を顧み、現状を探り、他日を期しておられたのであります。
 この長い苦難の時期を経て、昭和三十年には再び本院に復帰されましたが、かねて郷土熊本に対する愛着の人一倍強かった先生は、郷党の熱心なすすめもあって、昭和三十八年の第三十回総選挙からは選挙区を熊本県第一区に移して当選し、今日に及んでおります。
 野田先生は、長い風雪に耐え抜いた真の政党政治家であり、気骨の政治家として独自の地歩を築かれ、国政の進展に大きな足跡を残されました。
 本院においては、予算、外務、商工等各委員会において活躍され、特に、昭和三十二年及び三十七年には外務委員長にあげられ、また、昭和四十一年には石炭対策特別委員長に就任されましたが、委員長として、党派を越えて公正な立場を堅持し、各党の意見を十分に聞き入れ、円満にして充実した審議に心を砕き、よくその重責を果たされたのでありまして、名委員長としてその名を臨めたことは周知のことであります。(拍手)
 昭和三十八年には、第二次池田内閣の総理府総務長官に任命され、引き続き第三次池田内閣にも再任されました。この間、各省庁間における諸問題の調整に当たるとともに、特にオリンピック東京大会の準備に努力され、アジアにおける最初のオリンピックを成功させる上に大きな役割りを果たされました。また、昭和四十三年には、第二次佐藤内閣の自治大臣、北海道開発庁長官として入閣し、その才幹を遺憾なく発揮されました。
 自由民主党においても、総務、代議士会長あるいは外交調査会副会長となり、党の運営、政策の立案に大きな尽力をいたされました。
 特に、野田先生は、中国問題については党内におけるかけがえのない権威者でありました。昭和三十年、超党派からなる中国訪問議員団として訪中し、毛沢東主席、周恩来総理と会談をして、戦犯釈放、遺骨の送還など諸問題の解決に当たられ、また、昭和三十七年にも、高碕達之助氏を団長とする経済使節団として北京を訪れ、いわゆるLT貿易の開始あるいは新聞記者交換の実現に果たされた役割りも特記すべきところであります。(拍手)
 そして、昨年七月には、党内に設置された中国問題調査会会長の重職につかれ、わが国の重要な政治課題となった日中国交回復のために日夜奮闘し、十月には日中国交正常化決議の野田試案を提示し、党内の意見調整に当たるなど、文字どおり生命をかけて尽瘁してこられました。
 さきに、北京においてあの歴史的な米中首脳会談が行なわれた面後の二月二十九日、野田先生は、本議場において、自由民主党を代表して質問演説を行ないました。その中で、米中共同声明を高く評価するとともに、日中国交正常化に積極的に取り組むべきことを説き、アジアの平和、ひいては世界の平和のためにぜひともこれが実現を期さなければならないことを、条理を尽くして堂々と述べられましたが、思えば、これが野田代議士の長い政治生活の最後を飾る演説となったのであります。
 先生が、柔軟な対中姿勢を基調として、ただに党内のみならず、広く国民的合意を得るために献身的な努力を傾注されたことは、高く評価され、いつまでも語り継がれていくものと信ずるのであります。(拍手)
 かくて、野田先生は、本院議員に当選すること前後八回、在職二十二年二カ月の長きに及び、その間、国政に尽くされた功績はまことに偉大なものがあります。
 思うに、野田先生は体躯こそ小柄でありましたが、豪放らいらくにして、まさに古武士の風格を備えたきっすいの政党政治家でありました。
 先生は、小学生時代病弱であったため、御両親は中学への進学を断念させようとされたのでありますが、ついに君のたっての懇願をいれざるを得なくなりました。しかしながら、その君が在学中の五カ年を無欠席で卒業されたのであります。
 「天地自から拓く」、これを先生が座右の銘としておられたのは、精神力の偉大さ、とうとさを当時身をもって学び取られたからでありましょう。(拍手)
 政治家として、難問に直面するたびに、先生は、「人間は当たって砕けろだよ」と言いながら、敢然として事に当たり、全力を傾注してこれが実現をはかってこられました。しかも、事がなるや、それをみずからの功とせず、謙虚にして、いささかもおごることがなかったのでありまして、これこそ政治家の範とすべきものと信じます。(拍手)
 しかし、他面、先生はこまやかな愛情とあたたかい包容力を持った方でありました。子供を集めて柔道大会を開いたり、また野球チームをつくって総監督となるなど、ときに童心に帰り、あるいはまた、好んで若者と談論されていたのでありまして、みずからを「元祖ヤングパワー」と称して、いつまでも衰えぬ若さを誇っておられたのも、この生活実感が言わせたものといえましょう。常に新鮮な感覚と若々しい実行力を持ち続けた野田先生が、永遠の青年政治家と評されたのも、けだし当然のことであります。
 「中国問題を解決しないで死ねるか」、これは、いままさに生命のともしびの消えようとするその瞬間まで執念を燃やし続けておられた政治家野田武夫先生の悲願でありました。
 「日中問題で言いたいことがあるんだ。のどまで出ているんだが出てこない。どうしても出てこない。」これは、病のため意のままにことばにあらわすことができなかった先生が、のどをもどかしそうに押えながらの最後のことばでありました。私は、野田先生の政治家としてのきびしさをあらためて思い知らされ、その胸中を察し、痛恨やる方ないものを覚えずにはおられません。七十七歳にしてその生涯を静かに閉じていかれた野田武夫先生の最後こそ、真に政治家らしい政治家の終えんであったと申せましょう。
 われわれ国会議員は、先生の十分に果たし得なかった志を継いで、必ずや国家国民のために全力を尽くすことをお誓いしたいと存じます。(拍手)
 わが国内外の情勢が重大な時期に直面しているこのときにあたり、余人をもってかえることのできない野田武夫先生をいまにわかに失いましたことは、国原国民のため、はかり知れない大きな損失であり、まことに惜しみても余りあるものがあります。(拍手)
 ここに、野田君の生前の功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。(拍手)
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 裁判官訴追委員の選挙

発言情報

speech_id: 106805254X04019720616_004

発言者: 川村継義

speaker_id: 26811

日付: 1972-06-16

院: 衆議院

会議名: 本会議