嶋崎譲の発言 (文教委員会)

⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。 詳細は利用規約をご確認ください。

○嶋崎委員 局長は少し先走って回答しているようですが、まだそっちへ入ってなかったのですけれども、それじゃその問題に合わせていきますと、大学の場合には大学設置基準というものがございます。大学設置基準は、ここにありますように、大学設置に当たって数量的な基準をかなり細かに決めてございます。そういう意味では客観的な判断が可能であったわけであります。ですから、いままでの学校教育法で言う大学という場合には、もういままでの長い経験の中から、ここの大学設置基準で言っているような数量化が可能であったわけであります。ところが、昨年の六月につくられましたこの大学院設置基準というのは、これは大学設置基準に比べまして、これ自身にも私問題をたくさん感じますが、大学院というものの大まかな組織を決めただけであって、いわゆる設置基準に相当するような、内容に相当するものはありません。ところが、いまおっしゃいましたように、いままでは学部を中心にしてその上に大学院をつくる、そういうたてまえで大学院というものを考えてきましたから、しかも大学院というのは研究科委員会であって、組織としては教授会ではなかったわけですから、つまり学部の研究教育に必要な条件、基準というものをきちっと決めておけば、それを前提にすればほぼ大学院は行けるという判断に立って、大学院というのは特別に認可というような考え方をとらなくても、ある意味では協議でもって事を処理していくことが可能であったと思うのです。
 ところが今度は、学部を持たない大学という六十八条の新しい大学院大学構想というものを一方で含みながら、大学院というものを多様化しようという立法政策上の意図が一方にありますから、そうなりますと、その大学院というもののいわば設置基準、もう少し数量化された基準というものを持っていないと、いまおっしゃるように協議から認可事項にして、よりその条件についてシビアな検討をやらざるを得ないでしょうということになるとすると、認可権だけが前に出ていて、そして認可をするに当たっての客観的基準というものができていないということになりますと、文部省サイドないしは大学設置基準の中でその大学院のつくり方についての客観的基準がないために、いままである意味では政治家が仲に入ってできた大学院もあれば、そういうことはチェックしようという意図かもしれませんけれども、しかしその客観的基準のないところで、いまから協議を認可にするというような変え方をすると、逆に認可権の方が強化されていって、それを判断する客観的基準というものがないという場合に、この大学院の設置認可というものに問題点を起こしはしないか。仮に大学の内部で自主的に判断をして、もううちでは博士課程はよろしいとか、新しい大学院の構想をつくることができると一方で判断しても、それに対しての客観的基準というものがないまま行って、認可権だけが前に出たときに、大学の自治だとか学問の研究の自由だとかいう問題にかかわり合いを持ってこないだろうかということを私大変不安に思うわけであります。
 そういう意味で、ここで言っている大学院及び大学院の研究科というものを監督庁の認可の対象とするというこの考え方の中には、もっと全国の今日の大学院というものを検討してみて、現に学部の上に大学院のある大学は国公私立を含めていっぱいあるわけですから、そういう観点からした場合には、一定の大学設置基準に相当するような大学院の設置基準について、いまの段階で少なくとも客観的な数量化は一定程度可能ではなかろうかと思います。その点どう思いますか。

発言情報

speech_id: 107505077X01319750604_008

発言者: 嶋崎譲

speaker_id: 860

日付: 1975-06-04

院: 衆議院

会議名: 文教委員会