伏見康治の発言 (文教委員会)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○伏見参考人 私ここへ出てまいりましたのは、いろいろな関連で大学院問題を議論しておりますものですから、それでお呼び出しを受けたのだと思うのでございますけれども、そういういろいろな組織での御議論にとらわれないで私の自由な気持ちで発言さしていただきたいと思っておりますので、どうぞよろしく御了承願いたいと思います。
大学院の問題は、伊藤先生も言われましたように、あるいは生越さんも言われましたように、非常に根深い問題が背後にございまして、そこから根本的に考えなければ本当の解決にはならないと思うのでございますが、従来の制度というものがいささか狭過ぎまして、いい方へ大学院の制度を改革しようにも、その制度のかたくなさのためにそれが行いがたい点がございました。それが今度の法律の改正によりまして、ある程度の自由な発想で大学院の改革が行えるような道が開かれるということは歓迎いたしたいと思います。ただし、お二人も言われましたとおりに、大学院の問題は、この法律でその自由度が増したということだけで現実にりっぱな大学院ができるわけではございません。その開かれた自由度の中で、実際どういうものをつくっていくかという次の段階での御議論が大変大事だろうと思うわけでございます。私の申し述べたいのはその二点でございます。
戦争後の学制改革で六・三・三制といったようなものが大学まで及んでまいりましたときに、大学の改革というのがどうも大変中途半端に終わってしまいまして、現在の大学というのは二つの思想の混合物でできているようなものでございます。つまり、私たちのゼネレーションが育ちました旧制大学、大体ヨーロッパの大学のまねをしてつくられたものだと思うのでございますが、そういう旧制大学の思想というものと、それから戦後の改革で出てまいりましたアメリカ流の大学の考え方、その二つの考え方が同居いたしておりまして、それがまじめに余り議論されずにそのまま押し流されてきてしまった。そのために、両方のいいところがまざっているなら結構なんでございますが、何か両方の悪い点が助長されて出ているといったような結果になり終わっていると思います。実はアメリカの制度というものも、つまり古い植民地の時代の大学というものが非常に程度の低い大学でございまして、今世紀の初頭あたりではアメリカの大学というのはヨーロッパの大学に比べて一段と劣った大学でしかなかったわけでございます。アメリカはそういう意味で文化的後進国であったわけです。その低い程度の水準の大学をどうしてりっぱなものにするかということでアメリカの方々はずいぶん奮闘なすったのだろうと思うのであります。そして現在の水準の高い大学に持ち上げられたと思うのでありますが、どうも私たちは、何か格の高いところから出発いたしまして格の低いところへ行きましたために、非常に変なことになっていると思います。その結果、世間に対する権威といったようなものだけが高くて、内容、実質はきわめて低いという不思議なことになりまして、それがいろいろな大学紛争の遠因にもなったのではないかとひそかにおそれているわけでございます。
とにかく、いわゆる大学というものは昔流の考え方の大学ではなくなってまいりまして、完全に大衆化いたしました。もはや学問と研究の接点である大学といったようなことは、ほとんど何か空文化してしまったような感じがいたします。残るところは、研究と教育との接点というのは大学院に求めるほかはもはやなくなっているというのが実情であろうと思うのでございますが、その最後の牙城である大学院も、いまや大衆化の荒波にどうやら洗われかかっているのではないかと思います。生越先生が引用されましたいわゆるオーバードクター問題といったようなものも、実は大学院そのものが大衆化しつつあるということの一つの現象ではないかと思います。
そういうようなことから考えまして、日本の学問水準を維持いたしますためには、大学院をこそちゃんとしたものにいたしませんと、今後ちゃんとした日本の学問というものは育たなくなるのではないかという非常な危惧感を覚えております。それで御関係の先生方皆様それぞれいろいろなことを考えておられます。午後になってたとえば諸星先生がお話しくださるだろうと思うのですが、農学部の関係の先生方が特に御熱心に推進されております連合大学院構想といったようなものも一つのそういう構想のあらわれです。こういういろいろな構想は、それぞれの分野、学問の分野であるとか、その学問の性格であるとか、あるいは現状であるとかいうものを踏んまえて考えませんと、単なる抽象的理想論をやりましても無意味なことになると思うのでございますが、たとえば農学関係の先生方が考えておられます連合大学院の構想というのは、その先生方のお考えの範囲内では相当熱心に議論されたものであって、そういう方向に改革が進むということを私は希望したいと思います。理学部で物理なんかやっております私のような関係から申しますと、また違った構想が出てくると思うのでございますが、それぞれの分野でいろいろな大学院の構想が練られておりますので、そういう構想がそれぞれ現実化していけるように、まず窓口を開いていただくという今度の法制の改革というものは、非常に結構なことだと思っております。
よく言われることでございますが、たとえばドイツならドイツという国の人口とドイツ人でノーベル賞をもらった人との比率をつくってみますと、それは日本人の場合で同じ比率をつくったよりはるかに大きいわけでございまして、日本人のノーベル賞受賞者がなぜこの程度の数にとどまっているのかということは、特にそれを感じますのは戦争後になって育った方でノーベル賞をもらわれたのは江崎さんお一人のような感じがいたします。あとの方々は皆戦争前の、つまり古い教育制度の産物でできた人たちであるわけです。そういう点は、戦後の教育制度というものを見守ってきた者といたしましては責任を感じないわけにはいかないわけです。
それで、現在の大衆化してしまいました大学で、そういう本当の学問の先端を担うような方々を育て上げるということはもはや不可能だと思いますので、私は、りっぱな大学院をつくって、そこでいろいろな方々が本当の勉強をする場所をつくり上げていただきたいと思うわけでございます。
その一つの考え方といたしましては、先ほど農学関係の方々が連合大学院という構想をお持ちだということを申し上げましたが、私たち理学関係の人間は、研究所を土台にした大学院というものを考えたらどうかというふうに考えているわけです。その研究所も特定の、あくまでも大学院というのは教育と研究との接点にあるわけでございますので、大学から完全に遊離してしまった研究所といったものを構想しても無意味だと思うのでございますが、大学との関連のきわめて深いような研究所を大学から離れてつくる。それはいろいろな大学の方々と接触しているという意味において共同利用研究所であるべきだと考えておりますが、その共同利用の研究所で、いろいろの大学の方がそこに自由に出入りできるといったようなものを構想いたしまして、そこが同時に大学院の学生も育てることができるような仕組みを考えていきたい。その仕組みといたしましては、いままでもそういうことが完全にできないわけではなかったわけでございまして、いわゆる委託加工と申しまして大学の先生から特定の研究所テーマについて大学院の学生をお預かりして、その研究テーマに関していろいろ研究所の方々が施設を提供し、あるいは知識を授けるといったようなことが、従来の制度でできなかったわけではございませんのですが、それがやはり仮の制度でございますために、皆さん余り本気になっておられない面があるわけです。それで一つのちゃんとした制度化をいたしまして、研究所が大学院というものを引き受けられるような状態に持っていくのが適当ではなかろうかと思っております。
ただし、そういうのはただそういう議論だけで物事が進行するわけではございませんでして、日本の学問というものは日本人の性格によるのでございましょうけれども、大体において本家思想というものが非常に強いわけです。何か既成の学問の中心部にいる学問が一番学問らしい学問であって、そこから少しわき道にそれたような学問というものはとかくべっ視されるような、そういう傾向がございます。ところが、新しい学問というものは、まさに本家からはずれた分家のところに実は本当の新しい学問の芽生えがあるわけでございまして、真に第一線的な研究を育てるということのためには、分家を許容できるような場所でないといけないわけです。
昔のことを思い出しますと、湯川、朝永両先生が素粒子論というものを始められたときには、日本の大学には素粒子論の講座なんというものは一つもなかったわけでございまして、言わばお二人の新しい仕事というものは全く分家的なお仕事でございました。それで、その当時のお二人は、しきりに日本の大学というものはいかに狭量であるか、つまり新しい学問の芽生えをいかに育てるような意欲がないかということをしきりに不平を漏らしておられたのを思い出すことができるわけですが、うっかりある特定の研究目的を持った研究所に大学院制度をつくりますと、その研究所の研究目的だけがすべての最高の学問のターゲットであって、それ以外のものは全部堕落であるといったような考え方がとかく育ちがちでございます。ですから、そういうものが起こらないような新しい大学院制度というものをつくっていかないといけないと思うのでありますが、そのためには少なくともある狭い分野の研究所だけが大学院を持つということでなくして、そういう研究所の幾つかが集まった研究所群といったようなものを構想いたしまして、その研究所群の中で、いわば違った研究者の間の学際的な事柄ということが自由に考えられるような場所でその大学院教育を行うのが適当であろうと思います。
現在の大学の引き受けております大学院制度では、教授会というのがございまして、その教授会が博士号を審査しているわけでございますが、その教授会には理学部で申しますと物理の先生もおれば数学の先生もいる、生物の先生もいるというわけでございまして、生物の大学院生の論文を数学の先生が聞いているといったような、多少おかしな面もございますけれども、しかし、やや広い学問分野にわたった研究者の集まったところでその論文を審査する、そういう姿勢というものは今後も必要なのではなかろうかと思います。余りに専門分野を限定してしまったところで論文審査が行われるというようなことになりますと、非常に独善的な、ひとりよがりな博士が製造されるというおそれが出てまいると思います。しかし、余りにかけ離れてしまいますと全然理解できないということに学問はなりがちになっているわけございますけれども、そういう意味で、ある範囲の、できるだけ広い分野での学問の方々に論文審査をしていただくというのが適当ではないかと思っております。
それで、これはまだどこでも十分議論が進んでいるわけではございませんが、連合研究所の経営する大学院といったようなことが私の頭の中には芽生えているわけです。先ほど申し上げました、午後の諸星先生がお話しくださるであろう農学関係の先生方の、いろいろな大学が連合して一つの大学院を持とうというようなお話といったようなものも、相当真剣に具体的に考えられておりますので、今後、今度の法律改正を契機にいたしまして、そういう話がまじめにそれぞれ検討されて、それぞれりっぱな大学院構想が打ち出されるように心から希望いたしたいと思います。
以上でございます。(拍手)