文教委員会

1975-06-11 衆議院 全60発言

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会議録情報#0
昭和五十年六月十一日(水曜日)
    午前十時三十二分開議
 出席委員
   委員長 久保田円次君
   理事 河野 洋平君 理事 西岡 武夫君
   理事 藤波 孝生君 理事 三塚  博君
   理事 木島喜兵衞君 理事 嶋崎  譲君
   理事 山原健二郎君
      上田 茂行君    臼井 莊一君
      久野 忠治君    床次 徳二君
      楢橋  進君    西村 英一君
      深谷 隆司君    森  喜朗君
      山崎  拓君    小林 信一君
      辻原 弘市君    長谷川正三君
      山口 鶴男君    栗田  翠君
      有島 重武君    高橋  繁君
      安里積千代君
 出席政府委員
        文部政務次官  山崎平八郎君
        文部大臣官房長 清水 成之君
        文部省大学局長 井内慶次郎君
 委員外の出席者
        参  考  人
        (東京大学法学
        部教授)    伊藤 正己君
        参  考  人
        (和光大学人文
        学部教授)   生越  忠君
        参  考  人
        (大阪大学、名
        古屋大学名誉教
        授)      伏見 康治君
        参  考  人
        (早稲田大学理
        工学部教授)  並木美喜雄君
        参  考  人
        (東京農工大学
        農学部長)   諸星静次郎君
        文教委員会調査
        室長      石田 幸男君
    —————————————
委員の異動
六月九日
 辞任         補欠選任
  有島 重武君     矢野 絢也君
同日
 辞任         補欠選任
  矢野 絢也君     有島 重武君
    —————————————
六月六日
 教育条件の充実に関する請願(瀬野栄次郎君紹
 介)(第三四四四号)
 同(有島重武君紹介)(第三四九五号)
 同(山原健二郎君紹介)(第三五六九号)
 私立学校の振興助成法制定に関する請願(山原
 健二郎君紹介)(第三四四五号)
 私学助成に関する請願(原茂君紹介)(第三四
 四六号)
 公立高等学校事務長の職制及び職務の法制化に
 関する請願(河野洋平君紹介)(第三四九三
 号)
 公立学校女子事務職員の産休補助職員確保に関
 する請願(河野洋平君紹介)(第三四九四号)
 過疎地域の私立高等学校助成に関する請願外四
 件(原茂君紹介)(第三四九六号)
 学校図書館法の一部改正に関する請願(久保三
 郎君紹介)(第三四九七号)
は本委員会に付託された。
    —————————————
本日の会議に付した案件
 学校教育法の一部を改正する法律案(内閣提出
 第五一号)
     ————◇—————
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久保田円次#1
○久保田委員長 これより会議を開きます。
 内閣提出、学校教育法の一部を改正する法律案を議題といたします。
 本日は、本案審査のため、午前午後にわたり参考人に御出席をお願いしております。午前の参考人として、ただいま東京大学法学部教授伊藤正己君、和光大学人文学部教授生越忠君、大阪大学・名古屋大学名誉教授伏見康治君の三名の方々に御出席を願っております。
 参考人各位には、御多用中のところ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございました。本委員会におきましては、目下、内提提出、学校教育法の一部を改正する法律案を審査いたしておりますが、本日は、本法律案につきまして参考人各位のそれぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じます。
 これより参考人各位から御意見を承りたいと存じますが、議事の順序といたしまして、初めに参考人各位から御意見をそれぞれ十五分程度お述べいただきまして、後は委員の質疑に対しお答えをいただきたいと存じます。
 なお、参考人各位に申し上げますが、発言の際は委員長の許可を得て御発言を願いたいと存じます。また、念のため申し上げますが、参考人は委員に対し質疑はできないことになっておりますので、御了承をお願いいたします。
 御意見は、伊藤正己君、生越忠君、伏見康治君の順序でお願いいたします。
 まず、伊藤参考人にお願いいたします。伊藤参考人。
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伊藤正己#2
○伊藤参考人 現在御審議をいただいておりますこの学校教育法の一部改正法律案というのは、申すまでもなく大学院の問題を扱っているのがほとんど主たるところでございます。したがって、大学院の問題ということになりますと、この改正案に触れられております点のみならず、今日の私たちの大学における大学院のあり方全体の文脈というものの中で考えなければならないかと思いますので、多少そういった背景にも触れながら私の意見を申させていただきたいと存じます。
 現在におきまして、わが国の高等教育における大学院の役割りと申しますか、使命というものが非常に重大になってきた、また今後ますます重大になるであろうということはつとに指摘されているところでございますが、それにはいろいろな理由がございましょう。私はその重要なものとして三つあるかと思います。
 その第一点は、何と申しましてもいわゆる大学への進学率の非常な高まり。同一年齢の四〇%までが近く大学に進むのではないかと言われておりますときに、いわゆる学部教育というものについてどうあるか、これは十分考えなければなりませんが、いわゆる大衆化されていくということは避けられないのではないだろうかというふうに思います。そういう意味で、さらに高等教育の担い手として大学院教育が重要になってくるというのが第一点かと思います。諸外国におきましても、学部学生の十何%、さらには二〇%以上が大学院に進むというところが多くなってきているわけでございますが、日本ではまだ三%足らずである。しかし、今後ますますそのパーセントは上がってくるのではないかと思われるわけでございます。
 第二点は、学問研究が非常に進んでまいりますと、世界の学問研究におくれをとらないというためには、やはりこういう高度の研究教育をいたします中心としての大学院の使命が高まってくるということは印すまでもないと思われるわけでございます。
 第三に、大学院というものに対する社会の要求が非常に多様化してきたということかと思います。第二点で申しましたような研究教育あるいは研究方面の充実ということも必要でございますが、今後大学院、ことに修士の課程につきましてはいろいろな要求が重なってまいりました。たとえば学部だけでは十分ではなくて、いわば高度の職業人として修士課程に期待する、あるいは一度社会に出た人がもう一度先端を行く学問を学びたいということで大学院を利用するということはますますふえてくると思われるわけでございます。
 以上三点から申しまして、大学院に対する要望がますます強まってくると思われるのでございますが、従来日本の大学院がどうであったかということになりますと、いろいろな方の努力によって多くの人材を生み出してはまいりましたけれども、制度としてやはりいろいろな難点があったと思われるわけでございます。簡単に言えば、制度が固定化し、硬直化していたということがありましょう。研究者養成は重要でありますが、余りにそれに片寄って、たとえば先ほど申しました社会人を受け入れるというのには非常に不十分であったというようなことも指摘できますし、また専門別によって大学院に対する要求は多々違ってくるわけでございます。私に近い法学、経済学と理学あるいは工学というようなものについては、大学院に対する要求が非常に違っているにかかわらず制度は均一化していたというふうに言えるかと思います。あるいはまた学際領域というものの研究が、あるいは教育が必要になってくるにかかわらず、これは大学の方も反省しなければなりませんが、研究科の壁が厚くて、十分に学際領域の研究教育に応じ切れないという点があったかと思います。あるいはまた施設の整備あるいは人員の充実も十分でなかった。国立大学は十分の準備がないままに大学院を発足させましたし、私立大学におきましては、場合によっては大学院が学校経営の負担になるというようなことも申されております。あるいはオーバードクターの問題というような矛盾も出てまいりました。
 そういうふうに考えますと、現在におきましてこの大学院制度を何とか改めなければ、わが国の高等教育あるいは研究というものに非常に大きな禍根を残すのではないかと思われたわけでございます。これにつきましては、すでに御案内のとおり、本年四月に施行されました大学院の設置基準というものがございます。これは、設置基準審議会の答申に基づいてこれを制度化したものでございますが、端的に申しますと、先ほど申しました要求にこたえて大学院制度を柔軟にする、運用を弾力化する、それによって硬直化の弊害を除こうとしたものでございましょう。私は全体としてこの設置審議会の答申、さらに大学設置基準の線は望ましい方向にあるものとして考えております。
 このように設置基準が新しくできました以上は、各大学がその線に沿ってそれぞれの大学の立場で新しい制度を検討しなければならないと思います。すでに学則を改正された大学も多々あるようでございます。この結果として、従来と違いまして修士課程と博士課程の目的が非常に明確化する。あるいはそれを従来のように積み上げていくというだけではなくて、分けて修士課程、博士課程を置くこともできるというような制度も可能になりました。博士につきましても、優秀な学生は三年でドクターのデグリーがとれるというようなことも可能になりました。また、学部と大学院が密接に対応しなくてもいい。大学院の専任教官というものも置けるようになり、大学付置の研究所にも大学院が置けるというような形になりました。学術博士というような新しい学位を設けたのもその一つでありましょう。いろいろな点でこの設置審議会の答申に基づきまして制度が柔軟化されたわけでありまして、先ほど申しましたようにこれからは既成の大学院を含めてこれからの大学院がどうあるべきかということを考えながら整備をしていく必要があるのだろうと思うわけでございます。もちろん、設置基準が新しくつくられ、柔軟化した大学院がとれるようになりまして、これで事が片づくわけではございませんで、大学院の整備、充実は、国公私立を通じて財政的な裏づけであるとかあるいは教官を初めとする人的な充実を図る必要があると思われるのでございまして、大学自身も、私も大学の関係者といたしまして、既存の大学院を含めて今後のあり方を検討しなければならないのではないかと思います。後であるいは伏見先生あたりからもお話があるかと思いますが、私のような文科系よりもむしろ自然科学の学問分野におきましては、何とか世界の学問水準におくれないようにという非常な危機感があるわけでございまして、そういう意味でも特に自然科学系の大学院というものを考えなければならないのではないかと思うわけでございます。
 以上がバックグラウンドのようなものでございますが、さて今回提案されております学校教育法の一部改正法律案でございますが、いわば先ほど申しました設置基準では設置審議会の答申のすべてに対応できなかったわけでございます。それはやはりどうしても国会の御審議を経て、学校教育法という法律を改正する必要がある。それがなければ実現できないものがあるわけでございます。私は先ほど申しましたようにこの答申の線を支持しておりますので、今回の改正法律案というものもその必要に応じたものとして私としてはできるだけ早く成立させてほしいと考えているわけでございます。
 この法律案は、いろいろ細かい点もございますが、重要な点は三つあると思います。
 第一がいわゆる独立大学院の制度を認めるということでございます。つまり学部を置かない大学院、大学院だけを置くところの大学を設ける道を開くということでございます。ことに最近大学に付置されておりません共同利用研究所がございまして、ここでは優秀なスタッフを備えて研究をしておられますが、そういうところでさらに研究所としての研究のみでなくて、新しい研究者を養成するというような大学院を設けるという必要は十分あるのではないかというふうに思われるわけでございます。学部を置かない大学というのは変則的なものでございますが、特例としてそういうものを置ける道だけは開いておく必要があるのではないかと思うわけでございます。しかも、今度の法案にありますように、それもやはり大学であるという点が私は重要だと思います。やはり大学として体系づけられた研究、教育の組織を持ち、しかも学問研究の自由が認められる大学であるということである。ただ学部が置かれないのだというところに特例があるということが十分望ましい形ではないかと思うわけであります。既存の大学につきましてもこういう大学院だけの大学を置いたらいいじゃないかという考え方もあるかもしれませんが、私は、大きな総合的大学は大学院の方に重点を置くということはあり得ても、やはり学部は必要だと思っておりますので、この道が開かれましてもやはり特別な場合に限られるのではないかと思っておりますが、いずれにいたしましてもそういう道を開いておくということが望ましいと思われるわけであります。
 それから第二の点が、これは独立大学院のある一種の形態とも言えますけれども、いわゆる連合大学院でございます。つまり幾つかの大学が連合して大学院を持つ、このことによりまして教官の人的充実が図られる、施設も整備されるということでありますから、特定の大学でなくて数個の大学が連合して大学院を持つということは、もうすでにそういう構想も出ており、午後にはそういうお話もあるかと思いますが、やはりこれに対応できるだけの法的措置は必要ではないかというふうに思うわけでございます。そういう意味で今回の法案の六十八条の二は特別の必要がある場合大学院だけを置く大学を認めるという道を開いていることは望ましい改正ではないかと思うわけであります。もちろん大学院の整備、充実は、こういう新しい型の大学院設置の可能性を認めるだけでは片づきません。今後大学院に対する十分の施策が必要でありましょう。ことに今度認められるような新しい型の大学院については、実際に具体的にあるものを置く場合には慎重な配慮が必要だということは申すまでもございません。連合大学院はばらばらの大学が共同して設けるものでございますから、管理、運営のあり方あるいは研究教育のやり方などについて配慮がなければ、これはうまくいかないかもしれません。そういうことでは十分の慎重な配慮が必要でありましょう。また独立大学院も先ほど申しました特殊なものになりますと、とかく狭い分野の非常に専門化した大学院になる可能性もございます。今回の設置基準は、博士につきましても幅の広い基礎的学識を要求しているわけでございますから、余りに狭いものであっては困るわけでございまして、そういう意味で、この独立大学院にしろ連合大学院にしろ、この法案が成立しました後にも、設置基準をどうするか、あるいは具体的認可についてはどう考えるかというようなこと、あるいは国立の場合には、国立学校設置法で改めて国会の十分の御審議が必要だと思いますが、ともかく私はこういう大学院が設置できる道を開いておく必要はあるのではないかと思うわけでございます。
 最後に、第三が後期博士課程、つまり後期三年の博士課程のみを置く大学院を置く道を開いておくという点でございます。この点は特に新しい、先ほど申しました独立大学院なり連合大学院について必要だと思いますが、そういうところでは修士課程あるいは博士課程、前期の二年の研究教育はほかの大学院に任せておいて、そこでそれを終えた人を受け入れる大学院というものが必要な場合が、やはりこれも特殊な場合にあり得るのではないか。既設の大学につきましても、たとえば研究所、付置研究所に大学院を置くような場合に、こういった形のものも考えられるかと思うわけでございます。特に新しい設置基準によりまして博士後期三年の教育というものはかなり研究に重点が置かれております。単位をもって強制するスクーリングも場合によっては強制しなくてもよいということになっておりまして、そういう研究に重点を置いた後期三年の博士課程の大学院も置ける道をここで開いておく必要があるのではないか。御案内のとおり現行法では大学院の入学資格が学部卒ということになっておりますので、こういう特殊な修士を終えた人だけを入れる大学院については、法改正が必要でございまして、今度六十七条ただし書きでございましたか、これを追加するのはやはり必要になってくると思われるわけであります。これも要するに道を開いておくという意味で望ましい改正ではないかと思うわけでございます。いずれにいたしましても一番初めに申しました多様化した大学院に対する要請にこたえるような意味で設置基準が柔軟化いたしましたけれども、さらに法的措置をもっていろいろな可能性を認めていくということが、将来の大学院を育て、社会の要求にこたえる道であろうかと思うわけでございまして、私はこの改正法案というものの成立を希望しているということになるわけでございます。簡単でございますが、これで私の意見を終わらせていただきます。拍手
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久保田円次#3
○久保田委員長 次に生越参考人にお願いいたします。
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生越忠#4
○生越参考人 御紹介いただきました和光大学の生越でございます。
 私は、まず私の立場を先に申させていただきます。私はもともと大学院の独立論者でございます。それが一番、二番目といたしまして、しかし大学院を拡充、強化する方向でその改革を直ちに行うことにつきましては、現在多大の疑問を持っているものでございます。三番目、他の諸制度の改革と並行して大学院の改革を進めてまいりませんと、せっかくのいい制度が裏目に出てくるのではないかということを、私は現在非常に恐れております。四番目、結論といたしまして、先ほどの伊藤参考人のお考えとは多少異なりまして、やはりこの際大学問題全体を考える中で大学院問題についての検討をさらに深く進めていくべきだろう、したがいましてこの法律が直ちに成立することは、私としては現在望んでいないものでございます。
 時間の範囲内でいままで申しました四点につきまして少しずつ申し上げてまいりたいと思います。
 まず、私はもともと大学院独立論者であるということにつきましては理由が幾つかございます。
 第一の理由、大衆化いたしました現在の大学は、教育機関としての機能が研究機関としての機能に比べて相対的に非常に大きくなっておりますし、また大きくなるべきであろうというふうに思います。したがいまして、教育機関としての機能を大きく持つべきである大学が、研究機関としての機能をより多く持つべきである大学院と同じ組織であるということにつきましては、さまざまな不都合があろうかと思います。
 それから二番目、これは一番目の理由と関連することでございますけれども、教授が自分の研究をちゃんとやっていれば、それがそのまま教育効果を生むというのは大学院レベルでは考えられると思いますけれども、大衆化した大学では、決してそういう現状にはございません。これは昔の大学と旧制高校における教師の役割りなどを考えれば一目瞭然だと思いますけれども、教育と研究とは本来は分離できないものでございますけれども、最高の研究者が常によき教育者であるということには限っておりません。それからまた、いわゆるよき教育者と言われている人たちが最高の研究者として現在学界の第一線で華々しい活躍をしているとも限らないと思います。そういうことがございまして、教育と研究とは元来一体のものであるけれども、実際に先ほどのような事情がございまして、ある程度組織的に教育機関と研究機関とを分離することは私は必要な場合もあろうかと思います。
 それから三番目、大学院と学部とが現在のように結合しておりますことにつきましては、確かにメリットもございますでしょう。しかし、これは大学に格差をもたらす大きな原因になっております。私、現在和光大学におりますけれども、それ以前東大理学部の地質学教室におきまして長い間研究生活をいたしておりました。大衆大学とそれから大学院を主とした大学と二つの大学で私は経験がございますが、なるほど東大のような博士課程までの大学院がそろっております大学の学部の学生にとってみますと、自分の大学に大学院があることは非常なメリットでございます。それからまた、自分が大学院に進学しようと思えば比較的簡単に進学できる事情にもございます。
 しかし、大学院のない大学、たとえば和光大学、何々大学、そういう大学の学部の学生で大学院に進学しようと思いますと、これは非常に難事中の難事でございます。私の大学でも東大の大学院、上智の大学院、横浜国立大学の大学院、そういうところに間々進学している学生がございますけれども、こういうコースをたどるということは、それこそ非常に大変なことでございます。これはどういうことであるか、大学院がすべての大学の学部に広く公平に開かれておりますならばそういうことはないと思いますけれども、実際には、自分の大学の学部の学生に先に優先的に門戸を開いているという実情がございます。こういうことがございますために、大学院のない大学の学部の学生と、大学院のある大学の学部の学生との間には、大学院の進学を希望した場合にすでに大きなハンディキャップ、差ができてきておる。すべての大学が大学院を持つことは絶対に不可能であります以上、大学院というものは大学の学部から原則として独立させまして、すべての大学の学部に公平に門戸を開いた方がはるかに教育の機会均等の精神に沿うものだというふうに私は思っております。このような理由がございますので、私は大学院だけを置く大学を異例として認めるのではなくて、それをむしろ原則とすべきであるということを常々主張してまいりました。
 しかし、大きな二番目といたしまして、にもかかわらず、ただいま先生方が御審議中のこの法律がもし成立し、実現いたしました場合どうなるだろうかということにつきまして、やはり多大の危惧を持たざるを得ません。その理由につきまして、これからいろいろと申し上げていきたいと思います。
 大学院の独立構想を含めました今回の法律改正でございますが、これはやはり四十六年六月の中教審答申に沿ったものだというふうに思われます。この答申は、日本の高等教育の改革構想を大胆に述べたものでございまして、いわゆる日本の教育の近代化構想であろうかと思います。前近代的な高等教育制度を近代化することにつきましては、従来は是とする向きが多かったと思います。私もそのように思っておりました。しかし、最近になりまして、ただ近代化すればいいかということにつきましては、いろいろと問題が出てきたように思います。ということは、決して現状維持を図れということではございません。しかし、近代における大学及び大学教育にいかなる矛盾あるいは欠陥、不合理があったか、この問題につきまして、現代という視野から、そういう近代における大学あるいは大学教育のひずみをいかに乗り越えるかということを考えることが今日非常に必要になってきたと思います。ということで、いわゆる近代化構想には私は原則的に反対する立場に最近立っております。それが一番でございます。
 二番目の理由といたしましては、現代科学の課題は何かということについてもう少し慎重に考える必要があろう。
 御承知のように資源問題、エネルギー問題、公害の多発と広域化あるいは人口の急増、それから異常気象と食糧危機その他さまざまな要因によりまして、いまや地球上の四十億の人類が滅亡するかいなかの危機に立たされております。そういう状態のときに、いままでのような経済発展に第一義的に寄与してまいりましたようないわゆる近代科学、その研究を従来の延長線上でもってさらに能率的、効率的に進めていくことが果たしてこれからの科学の要請にこたえるものであろうかどうかということにつきまして、私は非常に疑問に思っております。それよりも、人類が生き延びるための科学とは何ぞや、そういうものを追求いたしまして、そういう科学への百八十度の転換を迫る必要が来たと思います。
 したがいまして、単純に高等教育の拡充あるいは学術研究の高度化、そういうものが達成されればそれでよしとするものではないと思います。したがいまして、だれのための、何のための学問か、現代科学の課題とは何か、そういう問題をいまこそ深く追求する必要があろうかと思います。そういう問題についての根源的な問い直しが余り十分に行われることなく、単に制度をあれこれ攻革いたしましても、余り意味がないのではないかと思います。
 三番目、資格制度の空洞化、形骸化が最近目立ってきたというふうに、私は本来地質学の専門でございますが、そういう学問分野に即して非常に感じております。
 いよいよ本格的な情報化社会が到来いたしました。既成の情報の急速な陳腐化が進みつつございます。そのようなことになりますと、従来のような大学におきます単位制度あるいは卒業制度、修了制度、資格制度、学位制度、こういうものはだんだん無意味になってきたように私には感じられます。しかし、この改正案にはそうした考え方が十分検討されていないように思います。やはり従来どおり資格授与機関として大学院及び大学院の研究科を機能させるということが一つの考えのようでございますが、私はそれには反対でございます。
 一つの資格が十年、二十年と物を言う時代は過去のものだと思います。これからは一生涯に何度も資格を取り直す時代がやってまいったと思います。もし学位制度がありますならば、一生の間に、たとえばこの政治家は当選何回の議員であるというように、何回博士号をとったというようなことがこれから必要になってまいりますでしょう。そうでなければ、実力のみが問われ、資格は問われないという時代が、ある分野については参るであろうということがございますので、この資格制度についての根本的な再検討が必要であろう。そういうことの再検討なしに、従来の延長線上で大学院のいわゆる近代化を図るということにつきましては私は反対でございます。
 それから四番目でありますが、研究者は純粋培養されるべきものではないというふうに最近つくづく感じております。
 これから大学院が職業人あるいは主婦などその他さまざまな階層の人たちに広く門戸を開く、そのために柔軟な組織にするということにつきましては、私は全面的に賛成でございますけれども、大学の学部の卒業者が直ちに入ることを前提とするいままでの大学院の考え方、これは時代おくれだと思います。博士課程の大学院だけをつくる場合には修士課程を卒業した者ということになっておりますけれども、しかし、私どもの研究の最近の動向を見てみますと、大人になって、かなり年をとってからもう一度研究テーマを変えた人間、そういう人たちが非常にユニークな研究業績を上げ、あるいは新しい研究のテーマを発見しておるというのがございます。こういうところが非常に重要なんでございまして、大学を出てそれから修士課程に入り、あるいは博士課程に入りということで、若いうちに研究業績を積み上げてしまう、そういう早期からの選別によるいわゆるエリート教育、これは裏目に出るのではないかということを私最近つくづく感じております。ということで、そういう日本の研究体制の風土あるいは土壌、このあたりの問題を再検討しなければ、制度だけを改革しても何も意味はないのではないかと思います。
 それから五番目は、研究機関の多核化が非常に進んでいるということでございます。大学院に最高の基礎科学研究機関としての機能を期待することは、私は幻想だろうと思います。すぐれた教育、あるいは研究者の養成、あるいは高度の専門性を備えた職業人の養成を、果たして大学院の整備拡充で図ることができるかどうか、私は非常に疑問に思っております。基礎研究でさえいまは大学だけでなく官公庁、企業などでも盛んに行われております。応用研究や開発研究を進めていく中で新しい基礎研究のテーマが見つかったということもしばしばございます。あるいは現実の市氏の厳しい生活あるいは労働の中から新しい基礎研究のテーマが見つかったということもしばしばございます。現実の行動による検証の全くない研究室、書斎の中だけの理論優先の学術研究が、果たして今後の社会の要請に合うだろうかどうか、私は全くそうではないのではないかというふうに思います。ということがございますので、大学院及び大学院研究科を基礎研究機関の中心に据えるという考え方、あるいは研究者、高度の職業人の養成を大学院で行うという考え方が果たしていいかどうか、私は非常に疑問だと思います。
 その次の理由は、こういう改革が実施に移されますと、大学の格差が拡大しやしないかということになってまいります。先ほど伊藤参考人が申されましたように、この改革案には、既成の大学院の硬直化した制度を柔軟化するという意味で非常に大きなメリットはあるかと思います。しかし、いかほど結構な制度の改革と申しましても、やはりほかの要因を考えませんと、せっかくいい制度が裏目に出るということがあろうかと思います。やはりいま大学の不当な格差をもたらしている要因は何であるか。博士課程までの大学院のある大学、修士課程どまりの大学院のある大学、大学院と称するものは一切ない大学、まずこの三つで格差がAクラス、Bクラス、Cクラスというふうについておると思います。こういういわれのない格差が学部教育の中にも格差を持ち込んでいるという厳然たる事実、この問題を抜きにして大学院制度だけをいじりましても、私は現在の大学のひずみをある意味では逆に拡大することになるのではないかと思います。そういうこともございますので、柔軟な大学院制度をつくるのでございましたならば、私がかねてから主張しておりますように、大学院と称するものはむしろ大学制度からはずし、科学院、研究院などの名前に変えて別枠にする、名実ともに独立させますならば、大学の格差拡大のおそれはございません。中途半端な改正はよくないと思います。
 次は博士浪人の問題がございます。伊藤参考人も多少述べておられました。大学院研究科をいかほど拡充強化いたしましても、そこを修了した人間の就職問題は一体どうなるだろう。いまでさえ博士浪人問題は非常に深刻な問題でございます。これの解決策の見通しは立っておりません。そういう問題を抜きにしておいて大学院制度をいかほどいじろうとも、卒業生あるいは修了生の就職問題のことは、さらにさらに厳しくなるのではないかというふうに思います。いろいろ大学院の拡充強化によりましていわゆる研究者、教授、助手その他のスタッフは拡充されますでしょう。そうした場合に、いわゆるあぶれた研究者が一時的にポストを得て就職可能ということになるかもしれません。しかしそれだけのことでございます。ということで、ほかの制度の同時改革がかなり必要であろう。
 真に民主的な研究体制、内容の充実した研究体制の確立を図るのならば、まず研究員の任期制などを大胆に試行して新陳代謝を図るということが必要であろう。学閥人事を防止するため、同じ大学の出身者の占有率、シェアがたとえば五割を超えないようにすることを法的に制限する、そういったチェックも必要であろう。たとえばそういう大胆な制限措置が先行されることによって、先生方が現在御審議になっておられます大学院制度の改革、学校教育法の一部改正ということでございますが、その中身が生きてくるのではないかと思います。そういう現在の日本の大学の腐敗堕落あるいは沈滞、科学研究のおくれ、それをもたらしているさまざまな理由の中で、金よりも人の問題がございます。そういう問題をやはり同時に手をつけることなしに制度の改革だけを先行させましても、余り大した意味はないのではないかということでございますので、もう少し多方面からの慎重な御審議が必要であろうかと思います。
 時間になりました。私の意見はこれでもって一まず終わらせていただきたいと思います。拍手
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久保田円次#5
○久保田委員長 次に伏見参考人にお願いいたします。
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伏見康治#6
○伏見参考人 私ここへ出てまいりましたのは、いろいろな関連で大学院問題を議論しておりますものですから、それでお呼び出しを受けたのだと思うのでございますけれども、そういういろいろな組織での御議論にとらわれないで私の自由な気持ちで発言さしていただきたいと思っておりますので、どうぞよろしく御了承願いたいと思います。
 大学院の問題は、伊藤先生も言われましたように、あるいは生越さんも言われましたように、非常に根深い問題が背後にございまして、そこから根本的に考えなければ本当の解決にはならないと思うのでございますが、従来の制度というものがいささか狭過ぎまして、いい方へ大学院の制度を改革しようにも、その制度のかたくなさのためにそれが行いがたい点がございました。それが今度の法律の改正によりまして、ある程度の自由な発想で大学院の改革が行えるような道が開かれるということは歓迎いたしたいと思います。ただし、お二人も言われましたとおりに、大学院の問題は、この法律でその自由度が増したということだけで現実にりっぱな大学院ができるわけではございません。その開かれた自由度の中で、実際どういうものをつくっていくかという次の段階での御議論が大変大事だろうと思うわけでございます。私の申し述べたいのはその二点でございます。
 戦争後の学制改革で六・三・三制といったようなものが大学まで及んでまいりましたときに、大学の改革というのがどうも大変中途半端に終わってしまいまして、現在の大学というのは二つの思想の混合物でできているようなものでございます。つまり、私たちのゼネレーションが育ちました旧制大学、大体ヨーロッパの大学のまねをしてつくられたものだと思うのでございますが、そういう旧制大学の思想というものと、それから戦後の改革で出てまいりましたアメリカ流の大学の考え方、その二つの考え方が同居いたしておりまして、それがまじめに余り議論されずにそのまま押し流されてきてしまった。そのために、両方のいいところがまざっているなら結構なんでございますが、何か両方の悪い点が助長されて出ているといったような結果になり終わっていると思います。実はアメリカの制度というものも、つまり古い植民地の時代の大学というものが非常に程度の低い大学でございまして、今世紀の初頭あたりではアメリカの大学というのはヨーロッパの大学に比べて一段と劣った大学でしかなかったわけでございます。アメリカはそういう意味で文化的後進国であったわけです。その低い程度の水準の大学をどうしてりっぱなものにするかということでアメリカの方々はずいぶん奮闘なすったのだろうと思うのであります。そして現在の水準の高い大学に持ち上げられたと思うのでありますが、どうも私たちは、何か格の高いところから出発いたしまして格の低いところへ行きましたために、非常に変なことになっていると思います。その結果、世間に対する権威といったようなものだけが高くて、内容、実質はきわめて低いという不思議なことになりまして、それがいろいろな大学紛争の遠因にもなったのではないかとひそかにおそれているわけでございます。
 とにかく、いわゆる大学というものは昔流の考え方の大学ではなくなってまいりまして、完全に大衆化いたしました。もはや学問と研究の接点である大学といったようなことは、ほとんど何か空文化してしまったような感じがいたします。残るところは、研究と教育との接点というのは大学院に求めるほかはもはやなくなっているというのが実情であろうと思うのでございますが、その最後の牙城である大学院も、いまや大衆化の荒波にどうやら洗われかかっているのではないかと思います。生越先生が引用されましたいわゆるオーバードクター問題といったようなものも、実は大学院そのものが大衆化しつつあるということの一つの現象ではないかと思います。
 そういうようなことから考えまして、日本の学問水準を維持いたしますためには、大学院をこそちゃんとしたものにいたしませんと、今後ちゃんとした日本の学問というものは育たなくなるのではないかという非常な危惧感を覚えております。それで御関係の先生方皆様それぞれいろいろなことを考えておられます。午後になってたとえば諸星先生がお話しくださるだろうと思うのですが、農学部の関係の先生方が特に御熱心に推進されております連合大学院構想といったようなものも一つのそういう構想のあらわれです。こういういろいろな構想は、それぞれの分野、学問の分野であるとか、その学問の性格であるとか、あるいは現状であるとかいうものを踏んまえて考えませんと、単なる抽象的理想論をやりましても無意味なことになると思うのでございますが、たとえば農学関係の先生方が考えておられます連合大学院の構想というのは、その先生方のお考えの範囲内では相当熱心に議論されたものであって、そういう方向に改革が進むということを私は希望したいと思います。理学部で物理なんかやっております私のような関係から申しますと、また違った構想が出てくると思うのでございますが、それぞれの分野でいろいろな大学院の構想が練られておりますので、そういう構想がそれぞれ現実化していけるように、まず窓口を開いていただくという今度の法制の改革というものは、非常に結構なことだと思っております。
 よく言われることでございますが、たとえばドイツならドイツという国の人口とドイツ人でノーベル賞をもらった人との比率をつくってみますと、それは日本人の場合で同じ比率をつくったよりはるかに大きいわけでございまして、日本人のノーベル賞受賞者がなぜこの程度の数にとどまっているのかということは、特にそれを感じますのは戦争後になって育った方でノーベル賞をもらわれたのは江崎さんお一人のような感じがいたします。あとの方々は皆戦争前の、つまり古い教育制度の産物でできた人たちであるわけです。そういう点は、戦後の教育制度というものを見守ってきた者といたしましては責任を感じないわけにはいかないわけです。
 それで、現在の大衆化してしまいました大学で、そういう本当の学問の先端を担うような方々を育て上げるということはもはや不可能だと思いますので、私は、りっぱな大学院をつくって、そこでいろいろな方々が本当の勉強をする場所をつくり上げていただきたいと思うわけでございます。
 その一つの考え方といたしましては、先ほど農学関係の方々が連合大学院という構想をお持ちだということを申し上げましたが、私たち理学関係の人間は、研究所を土台にした大学院というものを考えたらどうかというふうに考えているわけです。その研究所も特定の、あくまでも大学院というのは教育と研究との接点にあるわけでございますので、大学から完全に遊離してしまった研究所といったものを構想しても無意味だと思うのでございますが、大学との関連のきわめて深いような研究所を大学から離れてつくる。それはいろいろな大学の方々と接触しているという意味において共同利用研究所であるべきだと考えておりますが、その共同利用の研究所で、いろいろの大学の方がそこに自由に出入りできるといったようなものを構想いたしまして、そこが同時に大学院の学生も育てることができるような仕組みを考えていきたい。その仕組みといたしましては、いままでもそういうことが完全にできないわけではなかったわけでございまして、いわゆる委託加工と申しまして大学の先生から特定の研究所テーマについて大学院の学生をお預かりして、その研究テーマに関していろいろ研究所の方々が施設を提供し、あるいは知識を授けるといったようなことが、従来の制度でできなかったわけではございませんのですが、それがやはり仮の制度でございますために、皆さん余り本気になっておられない面があるわけです。それで一つのちゃんとした制度化をいたしまして、研究所が大学院というものを引き受けられるような状態に持っていくのが適当ではなかろうかと思っております。
 ただし、そういうのはただそういう議論だけで物事が進行するわけではございませんでして、日本の学問というものは日本人の性格によるのでございましょうけれども、大体において本家思想というものが非常に強いわけです。何か既成の学問の中心部にいる学問が一番学問らしい学問であって、そこから少しわき道にそれたような学問というものはとかくべっ視されるような、そういう傾向がございます。ところが、新しい学問というものは、まさに本家からはずれた分家のところに実は本当の新しい学問の芽生えがあるわけでございまして、真に第一線的な研究を育てるということのためには、分家を許容できるような場所でないといけないわけです。
 昔のことを思い出しますと、湯川、朝永両先生が素粒子論というものを始められたときには、日本の大学には素粒子論の講座なんというものは一つもなかったわけでございまして、言わばお二人の新しい仕事というものは全く分家的なお仕事でございました。それで、その当時のお二人は、しきりに日本の大学というものはいかに狭量であるか、つまり新しい学問の芽生えをいかに育てるような意欲がないかということをしきりに不平を漏らしておられたのを思い出すことができるわけですが、うっかりある特定の研究目的を持った研究所に大学院制度をつくりますと、その研究所の研究目的だけがすべての最高の学問のターゲットであって、それ以外のものは全部堕落であるといったような考え方がとかく育ちがちでございます。ですから、そういうものが起こらないような新しい大学院制度というものをつくっていかないといけないと思うのでありますが、そのためには少なくともある狭い分野の研究所だけが大学院を持つということでなくして、そういう研究所の幾つかが集まった研究所群といったようなものを構想いたしまして、その研究所群の中で、いわば違った研究者の間の学際的な事柄ということが自由に考えられるような場所でその大学院教育を行うのが適当であろうと思います。
 現在の大学の引き受けております大学院制度では、教授会というのがございまして、その教授会が博士号を審査しているわけでございますが、その教授会には理学部で申しますと物理の先生もおれば数学の先生もいる、生物の先生もいるというわけでございまして、生物の大学院生の論文を数学の先生が聞いているといったような、多少おかしな面もございますけれども、しかし、やや広い学問分野にわたった研究者の集まったところでその論文を審査する、そういう姿勢というものは今後も必要なのではなかろうかと思います。余りに専門分野を限定してしまったところで論文審査が行われるというようなことになりますと、非常に独善的な、ひとりよがりな博士が製造されるというおそれが出てまいると思います。しかし、余りにかけ離れてしまいますと全然理解できないということに学問はなりがちになっているわけございますけれども、そういう意味で、ある範囲の、できるだけ広い分野での学問の方々に論文審査をしていただくというのが適当ではないかと思っております。
 それで、これはまだどこでも十分議論が進んでいるわけではございませんが、連合研究所の経営する大学院といったようなことが私の頭の中には芽生えているわけです。先ほど申し上げました、午後の諸星先生がお話しくださるであろう農学関係の先生方の、いろいろな大学が連合して一つの大学院を持とうというようなお話といったようなものも、相当真剣に具体的に考えられておりますので、今後、今度の法律改正を契機にいたしまして、そういう話がまじめにそれぞれ検討されて、それぞれりっぱな大学院構想が打ち出されるように心から希望いたしたいと思います。
 以上でございます。拍手
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久保田円次#7
○久保田委員長 これにて三参考人の御意見の開陳は一応終わりました。
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久保田円次#8
○久保田委員長 引き続き質疑に入ります。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。木島喜兵衞君。
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木島喜兵衞#9
○木島委員 質問の時間が大変ないものでありますので、三先生に一つずつということになりましょうか。
 伊藤先生、連合大学院大学ということに対する魅力とおっしゃいましたが、そこで、私立を含めた国公私立の連合大学というものが発想されるだろうか、その場合の形態は一体どうなっていくのだろうか、そのことは将来の日本の教育制度全体とのかかわりも出てくる——単時間なものですから余り説明いたしませんが、おわかりでございましょうから、そういう意味でひとつお聞かせいただきたいと思うのであります。
 それから、生越先生のはずいぶんと興味のある問題がいろいろあるものですからなんですが、オーバードクターのお話がございましたけれども、この問題は、一つには大学の大衆化そのことが教育と研究の分離の方向に行かざるを得ない、だから一つのこういう要請が出たのだろうと思う。すると、先ほど伏見先生もおっしゃいましたけれども、大学院がまた大衆化されてくる、大学院におけるところの教育と研究という問題がやがて起こってくるのだろうか、とすると一体生涯教育と言われるようなことも含めた将来の教育制度全体をどう考えたらいいのだろうか。
 同じく伏見先生からも、その点について少しお聞かせいただければ大変ありがたいと思います。
 時間がありませんから一問だけにいたします。
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伊藤正己#10
○伊藤参考人 それでは簡単にお答えいたします。
 連合大学院というものは恐らくは、今後できますとしますと国公私立を含めたような連合大学院というものの必要性も出てくるかというふうに思いますが、現在構想されておりますのは、先ほど御紹介もありました農学系などは、国立大学が幾つか集まって連合大学院をつくるというものでありましょう。これにつきましては、将来の制度のあり方といたしましては、連合大学院というものをせっかくつくる以上は、国立大学で非常に土地が離れているところよりも、むしろ私立あるいは公立も含めた連合大学院というものの構想があっていいと私は思います。
 ただこれにつきましては、私はよくは存じませんけれども、まだいろいろな制度的難点がございます。したがって、さしあたりは恐らく国立大学同士あるいは私立大学同士の連合大学院というものが構想され、そうしてそれが機が熟してくれば、制度的なものも考えながらこういう将来の連合大学院のあり方を考えるという順序ではないだろうかというふうに考えております。
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生越忠#11
○生越参考人 お答えいたします。
 私は、実はちょっとまたここで大ぼらを吹くことになるかと思いますが、教育制度改革構想というのは、私はいわゆる学校という形をとっての教育は高等学校までで十分だと思います。そこを出まして、一応社会に出て職業につく、あるいは家庭に入る、そこでこんな勉強をしたいと思ったときにいつでも自由に大学に戻ってこられるようにする、そういう機関としての高等教育機関というものが広く大衆化された形であるのが一番望ましいと思っております。ということでございますので、いまのように下からずっと小学校、中学校、高等学校、大学、大学院と何年も何年もスクーリングという形で教育を受けるのはいかがなものであろうか、こういうふうに教育年限が長いということが日本の教育のひずみになっていはしないかというふうにつくづく思います。たとえば、大学の数が多い割りにはすぐれた研究あるいはユニークな研究がないと言われておりますけれども、これは科学技術白書なんかを見まして技術貿易の収支のあれを見ましても、先進国で導入技術の支払い額が輸出した技術の額よりもはるかに大きい、高いというのは、大体先進国では日本だけだと思います。このようになっておりますのは、やはり日本の教育が受け身の教育ということから来ているのではないか、学問もしたがってサルまね学問、物まね学問、これに徹しておるというところからこういう形になっておるのだと思います。そういう日本の教育のひずみなどについて根本的なメスを入れることなしに、従来の制度の多少の手直し程度ではやはりいかぬのじゃないかと思います。
 生涯教育は私もちろん必要だと思います。先ほど先生も言われましたけれども、やはりこれから情報化がどんどん進んでまいりますと、どんな職業につきどんな場所で働く人間も、一生にわたって自分の頭脳を絶えずリフレッシュするということが必要になろうかと思います。ということから、生涯教育を含めた教育研究体制をどう考えるかということがまさに現在の課題だと思いますが、今回の法律改正ではそういう観点が必ずしも十分なくて、一応いろいろな人たちに開かれたようには制度の上ではなっておりますけれども、現実には、やはり資格制度がつきまとい、それから修士を出た人間が博士課程ということになりますと、下から順々に学校教育を受けて研修を積み上げてきた人間のうちいわゆるエリートと称される人間だけが終着駅まで着けるということに実際はなってしまうだろう。これは言うなればエリート教育をさらにさらに進めていくものじゃないか。しかし、私はエリートの存在を決して無視するものではないし必要ないとは言っておりませんけれども、従来のようなエリート教育というのはまさに専門ばか、学者ばかといわれるような、そのこと以外のことについては何にも問題提起もできないような、そういう非常に狭い人間をつくってしまって、結果において柔軟な、あるいは激動社会といわれる情報化社会には全然適応できないような、まさに非エリート教育をエリート教育の名のもとにやってしまうことになりはしないかということでございますので、やはりそのあたりの問題がさらに追求されるべきだろうと思います。
 大学が大衆化し、そうするとやはり大学院というものがクローズアップされてきて、研究と教育とがある程度分離されるということ、これは必然的な勢いだろうと思いますが、その大学院もまた大衆化することになると一体どうなるか。先ほど私以外の二人の参考人の方もいろいろその点についての問題の指摘をされておりましたけれども、私は重ね重ね申しますように、大衆化ということは結構なんでございますけれども、その大衆化がなぜ起こったか、ここらあたりの問題もやはりこのあたりでもう一度議論する必要があろうかと思います。はっきり申しまして大学の大衆化というのは私は結構なことだと思っておりません、現在の実情では。本来結構なものであるはずなんだけれども、現在の大衆化というのは、要するに学問をやるということよりはパスポートを得る、そういう国民の飽くなき要求が大学の大衆化をもたらしたのであって、これは非常に不健全であるというふうに私は思っております。そういうことではない本当の意味の大衆化を図るためにはどうしたらいいかということがまさに問われているのであって、パスポート要求の学生がふえたことをもって大学の大衆化、高等教育の大衆化が図られ、これは結構なことだということは若干問題でなかろうかと思います。
 それと同様に、これだけ大学が大衆化したのだから大学院に行かないとエリートになれないということで、昔大学へ行っていたように——私どもの学生のころは三%でございました、高等教育の進学率、大学進学率は。それと同じあるいはそれ以上の比率の人たちがまたまた今度は大学院を目指してもう一つ学歴をとろうということで大衆化してまいった場合、これはいわゆる管理社会をますますしんどいものにする要件になりはしないかということでございまして、大衆化の意味するもの、その中身、それは是か否か、そういう問題についての検討もさらに必要であろうかと思います。
 ちょっと取りとめのない意見の開陳で申しわけございませんが、とりあえずそういうことでございます。
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伏見康治#12
○伏見参考人 生越さんの言われたことと似たようなことになると思うのでございますが、私のつまらない経験を一つ申し上げますと、名古屋大学のプラズマ研究所で大学院の学生を相手にしておりまして、その人が博士号をとるという卒業期になって相談しに参りまして、これから何をしたらいいでしょうかという質問を受けて非常なショックを受けたことを覚えております。つまり、いまの学生の非常に多くはエスカレーター思想というもので育てられてきてしまって、百貨店のエスカレーターが一階から二階、二階から三階と動いているから乗ってきてしまった。屋上まで来てしまってから、一体どこへ行ったらいいかと思って迷っているというようなそういう感じが非常に濃厚ですね。余りに教育制度が整い過ぎていて、つまり人生というのは一体何物であるかということを自分自身で突き詰めて考えた機会が一つもなしに大学院まで来てしまった、そういう人たちが非常に多いように思います。
 いまの教育制度の一番大きな欠陥は、おそらくそういう突き詰めて自分で独立して物を考えるという人間を育てなかったこと、いわゆる入学試験でもっぱら出された問題を短時間に大急ぎで解くということの練習ばかりやってきたという人たちの集団であって、根本的な人生の問題を自分自身が問いかけてみて、自分で解こうとする努力を一遍も経験したことがないような人々がふえてしまっている、それが非常に大きな欠陥であろうと思います。
 もともと旧制大学の私ぐらいまでのゼネレーションの先生方が期待しておりますのは、インディペンダントに、独立して物を考える人間がその学生として入ってきていただくことであって、そして、大学の先生というのは、そういう独立して物を考える人々が自由に物を考えられるような場所をただ設定してやるんだというふうに考えていたわけです。つまり、湯川、朝永両先生が育った京都大学に湯川、朝永先生よりも偉い先生がいて育てたわけではないのであって、湯川、朝永という二つの天才が自由に伸び得るような環境をつくっておられたということであろうと思います。旧制の大学というのは、そういう意味で入ってくる学生が独立して考えられることを期待して成立していたわけです。ところが、大学が大衆化いたしまして、みんなエスカレーター思想で育った人たちが入ってまいりますと、要するに自分で考えることのできない人たちが大学生であり大学院の学生になっているわけですから、そういった人たちを従来の、つまり湯川、朝永先生の学生時代と同じように取り扱いますと大変なことになるわけです。そのちぐはぐなところ、つまり、よくアメリカの教育制度と日本の教育制度とを比較いたしまして、日本では小学、中学の低学年ほど勉強させて、上へ行くほど勉強させなくなる、アメリカは逆で、小中学生で遊ばせておいて、上へ行くほど非常にがっちり締めつけるというお話がございますが、日本の大学は実際逆になっておりまして、非常に遊ばせてしまっているわけです。それは旧制大学の理念で学生を見ているからなのです。ところが、実際入ってくる学生は独立して物を考えることができなくなっている。それで、実はいまの新制大学というのは、根本的にはもっとぎゅうぎゅう締めつけるような教育制度に変えないといけないと私は思っております、そうしてやれば、おそらく役に立たない大学卒業生でなくして本当に役に立つ大学生が——学問を継承するという意味ではないと思うのですけれども、それぞれの技術なり知識なりの最高水準を身につけた人たちがたくさんに出てきて、それはそれで大変結構なことだと思います。
 問題は、そういういわば大衆教育をやっている間に本当の天才を逃してしまうおそれがないかというわけで、その二つをどう調和させて進んでいくかということが大事だと思っております。
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木島喜兵衞#13
○木島委員 終わります。
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久保田円次#14
○久保田委員長 栗田翠君。
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栗田翠#15
○栗田委員 共産党の栗田でございます。
 時間の関係がありますので、幾つかの質問をまとめてさせていただきます。
 まず伊藤先生に伺いますが、先ほどのお話の中で、今度の改正とも関連しまして、特に連合大学院の構想との関連でお話しくださいましたが、修士を終えた人の入れる博士課程、大学院の道を開くということをおっしゃっておられました。今度の大学院設置基準の制定を見ますと、修士課程と博士課程の目的というのがはっきりと分けられておりますけれども、こういう状態の中で果たして修士から博士課程への道が開けるかどうかという辺のお考えをひとつ伺いたいと思います。
 それからもう一つは、大学設置審議会が幾つかの報告や答申などを出しておられますけれども、最初に四十七年三月十一日に出しておられます報告があります。「大学院および学位制度に関する専門委員会における審議の概況について」これを拝見しますと、学生の処遇の問題などが出ておりまして、先ほどから三先生からお話のありました大学院生、オーバードクターという問題でこれは出されておりましたけれども、かなり大きな問題になっていることに関連して、かなり細かい報告が出ております。ところが、最後の最終答申、四十九年三月三十日の答申を見ますと、この問題が完全になくなっております。なぜこれが消えてしまったのかということ、この二点について伺いたいと思います。
 それから次に、伏見先生に伺わせていただきますが、日本学術会議はしばしば勧告、報告、答申いろいろなものを出しておられます。特に先ほどノーベル賞受賞の問題とも関連されまして、戦後の教育制度を批判されたと思いますけれども、やはり何といっても教育研究機関の総合的また高度な発展というものがいま必要になってきているわけでございます。学術会議は、五十九回の総会に基づいて「科学研究五カ年計画についての勧告」というのを七一年の十二月九日に出しておられます。この趣旨を見ますと、今度の法改正の趣旨、政府が提案しております趣旨とも非常にぴったりと合っているわけなんですけれども、この学術会議が出されました勧告が実際には政府機関にどのように取り上げられているだろうかという問題です。実際に十分に取り上げられているのでしょうか、そうでないのでしょうかという実情などをひとつ伺いたいと思います。
 それからもう一点は、独立大学院構想、教員養成大学院構想、そして技術科学系大学院構想などについて日本学術会議はかなり批判的な御意見を述べていらっしゃる文章がございます。これは、たとえば大学設置審議会の中間報告に対する意見という形で、独立大学院構想の場合には、単独で大学院を置くことは、学校教育体系を非常に変えていくのであり、高校以下の教育体系全体の変質を求めることにもなり、疑念がある、危惧される点があるというようなことも言っておられますし、また教員養成大学院の構想などについても疑念を述べられております。たとえば「この課程修了者が特別の教育職における資格取得と結びつくことによって教育系学部の系列化をもたらす怖れがある。」ということを言っておられますし、また技術科学系大学院の場合にも、これは連合大学院構想と全く異質のものであり、いままでの矛盾を激化するのではないかというようなことを言っておられます。このようなことの内容は具体的にどういうことかということを伺いたいと思います。
 非常にたくさん一遍に伺って申しわけございませんが、いまの四点についてお答えいただけましたら幸いでございます。
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伊藤正己#16
○伊藤参考人 私に対します二点の御質問でございますが、第一点で、先ほど申し上げましたように、確かに今度の新設置基準は修士課程と博士課程の目的を非常に明確に分けるという立場をとりました。しかし、博士課程につきましては主として研究者養成でございますが、修士課程の目的を非常に多様化したわけでございます。したがって、ある修士課程についてはむしろ社会人の再教育のようなものに重点を置く修士課程というようなものがあるかもしれません。そういう場合にはおそらくそこに入ってくる人は、例外を除いては、修士課程を終えて再び社会に復帰していくということになるであろうと思いますが、しかし、修士課程は、同時に研究能力の養成というものを目的にしているわけでございまして、おそらくそこの修士課程で研究能力の養成、そして続いては研究者として自立していきたいという方は修士課程を経て博士課程に入っていくということでございますから、目的は多様化しましたけれども、修士課程の中にも博士課程へ進んでいくという目的もございます。
 また現実におそらく、将来はいざ知らず、当分は修士課程と博士課程後期というようなものが積み上げられているという大学院が多いと思います。そういう意味では修士課程から後期三年の大学院に対する入学資格を認めていただきますと、かなり多くの方がそういった形で後期三年の大学院に入っていくということができるのではないかというふうに考えております。
 それから、時間がありませんので、少し簡単でございますが、第二の点は、私も、また将来の日本の学問を支えていく者として、大学院生の処遇というのは非常に重要だと考えております。そういう意味で、最初の専門委員会での中間報告のようなところで、これは重要であるとして、項目を設けて指摘をしたわけでございますが、本来、大学設置審議会の方に諮問をされましたのは設置基準をどうすればいいかということでございます。私たちの審議の過程におきまして、私もそれに多少関係しておりましたのですが、そういう設置基準に関連するものだけに限って答申をしようということになりました。院生の処遇、たとえば奨学金をどうするかとか、いろいろな問題を、むしろ設置基準の問題ではなくて、予算措置その他で考えていただかなければならない問題である、そういう意味で本文から落としたわけでございますが、重要性がないと言っているわけではなくて、むしろ最終答申をお読みいただきますと、むしろ前文のところで、学生の処遇を十分考える必要があるという指摘をしていると思いますので、そういう趣旨で、こういう形になったということでございます。
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伏見康治#17
○伏見参考人 私、ただいま日本学術会議の副会長を相務めておりますので、御質問のようなことが出てきたんだろうと思うのでございますが、今日は実は学術会議の代表という意味で出てきたつもりではないので、それからまた、そういう意味で十分細かい点の資料等を準備しておりませんので、細かい点の御返答はできにくいかと思っておるのでございますが、ごく荒っぽい精神的なことだけ申し上げてみたいと思います。
 第一の、学術会議は政府に対していろいろのことを勧告してまいりました。それがどう取り扱われているかという御趣旨のことかと思うのでございます。
 学術会議は、元来学術研究面を考える場所でございまして、政府にいろいろ諮問を受けて、それにお答えするというのが元来の役割りであると思っております。したがって、教育そのものに関係のありますことは、しばしば言いたくてむずむずすることもあるのですけれども、御遠慮申し上げているわけでございます。ただ、大学院の問題というのは直接研究者の養成ということに関連がありますし、もっと端的に申しますと、日本の学問の相当の部分というものが大学院学生によって実は遂行されているという現状から申しまして、つまり研究者としてむしろ取り扱う方がよろしいという面があります。そういう意味で、学術会議は大学院問題に対して特に強い関心を持っておりまして、またその範囲内ならよろしかろうということでいろいろと発言をしてまいりました。研究所の設立の勧告というものなどもたくさんしてまいりました。その研究面からの、要するにいろいろと注文をつけてまいったわけでございます。研究プロパーの方の、研究所の設立につきましても、非常にたくさんの研究所をつくっていただきたいと申し上げているわけでございますが、実はそのごくわずかな部分だけしか実現していないわけでございまして、打率から申しますとパーセンテージのオーダーではないかと思うのでございます。したがって、大学院につきましてもいろいろ申し上げてはいるわけですけれども、それが十分に消化されているというふうには私たちは考えておりませんので、なおお役人方が学術会議の勧告等を現実化するために一生懸命いろいろ御勉強をさらにしていただけるとうれしいと思っておるわけでございます。それが第一点に対するお答えです。
 第二点の方は、これは、そういう新しいいろいろな大学院制度に対して全般的な反対を申し上げているということではございませんでして、とかく、そういう構想をするときには当初考えておられる理想的な面のほかに、副次的ないろいろな面がございまして、その副次的な面が、かえって理想的な面というものを損なってしまうような事態がしばしば起こりかねませんので、そういう点についてよく吟味してくれという、副次的な面で大事な理想までが損なわれることがないように十分な注意をしてくれという意味の一般的な勧告であると私は信じております。
 細かい点はちょっと資料を調べませんとわかりませんので、その程度のお答えで御満足をお願いいたしたいと思います。
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栗田翠#18
○栗田委員 どうもありがとうございました。
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三塚博#19
○三塚委員長代理 山原健二郎君。
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山原健二郎#20
○山原委員 関連して一言だけ、三人の先生に伺いたいのです。
 それは、いまの大学制度が硬直あるいは狭量という言葉も出てまいりました。問題があることは事実です。それに対して、もっと柔軟、あるいは道を開くという言葉も出てまいりました。そういう要請や希望のあることは事実だと思います。そのことはわかるのですけれども同時に、では道を開く、あるいは開かれた大学という論法のもとに筑波大学も生まれた経過もあるわけです。そういう点から考えますと、要請や希望とまた違った形態が将来予想されるということも私たちは十分審議をしておく必要があると思うのです。たとえば、今度予想されるものとして、技術科学大学院が予想されるわけですけれども、これとても、いままでのこの委員会での質疑の中では問題がかなり存在をしておりますし、また、かなりの部分、無理な制度上の改革も必要になってきておる、こういう問題が出ています。ことに、高専をつくります場合の当時の荒木文部大臣の説明では、いまや東海道だけではだめだ、二級国道が必要だというような発想もあるわけですね。
 これらのことを考えてみますと、確かに希望や要請はある。あるいは連合大学院については一定の賛意を表明し、また具体的に進んでおる面もありますけれども、しかし、いままで文部省がやってきた予算の問題あるいは人員の問題等、今日の日本の学術、研究というものが一体どういうふうになっておるのかというような総合的な問題を十分に大学関係者が審議をしていかなければならぬのじゃないか。その意味では、制度をつくるということでは、あるいは問題は非常に簡単なように見えますけれども、しかし、すぐ目の前に出てくる具体的な問題が予想される段階では、相当慎重な態度がいま要請されているのではないかと思います。
 だから、伊藤先生のように大学設置審議会の答申を出される衝に当たられた先生のお考えもあると思います。けれども、同時に、私たちがいまこの法案を審議して、この法案の決着をつけなければならぬ段階に参りますと、ここで本当にこの問題を総合的に慎重な検討、これが要請されておるのではないかというふうに痛切に感じているわけですが、この点ではどうでしょうか。この法案についての賛成やあるいは慎重論があるかもしれませんが、ともかく、大学問題をあるいは大学院問題を中心にして、これを本当にここで慎重に大学関係者が論議をしていく。現在の大学の制度の上では全く不可能なのかどうか、あるいは可能な部分はこの程度しかないのだとかいうようなことが論議をされることが必要じゃないかというふうに私は思うのですけれども、この点について、お三人の先生方の御意見を簡明に伺って、質問を終わりたいと思います。
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伊藤正己#21
○伊藤参考人 いまの先生の御指摘、もっともな点、多々あると思います。確かに、制度をつくるということは、道を開くだけでも具体的にどういうものが考えられているのかということを十分慎重に配慮しなければならないというふうに思うわけでございます。設置審議会でもその点十分に考えました。いま例に挙げられました技術科学大学院につきましては、また技術科学大学院として審議会を設けられて十分に慎重な審議をされていると考えるわけでございまして、私自身もあれにはいろいろ制度的な問題があるというふうにも思っておりますが、しかし、この大学の制度的な改正というものは、慎重であることは必要でございますけれども、現在、私が最初に申しましたような多様化した大学院の要請にこたえる道だけは法律的に開いておいていただきませんと、たとえば独立大学院にしても連合大学院にしても、現行法制のもとではそれが実現できないということでありますと、そういう構想を考えられる場合にもそれが非常な制約になるわけでございます。
 そういう意味では、今度の法案でそういう道を開いておいていただければ、それぞれ具体的な構想についてはそれは十分慎重にしなければならないと思うのございますが、その段階でいろいろ御審議がなされ、大学関係者も十分に審議をしていくべきではないか。そういう意味で、その道だけを開いて、そういう構想を具体化していこうという場合にもそういうものは現行法制のもとではできるのだということをお願いしたいというのが、私の意見でございます。
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生越忠#22
○生越参考人 お答えさしていただきます。
 できる子供ならばみんな東大へ入れるのだ、これは事実だと思います。だからいまの教育制度は民主的なんだということが言えるかどうかというと、私は必ずしもそうではないと思います。たとえば、最近のあの東大生は非常にブルジョア化しておって、六〇%ぐらいが大会社の部長あるいは重役、中央官庁の次官、局長、そういったところのいわゆる高級管理職、その方々の子弟が大体六割ぐらいまで占めておるということが言われております。昔は農村の子弟が十数%おりましたが、いまはわずか二%。つまり、いまの社会制度のもと、あるいは経済情勢のもとでは、東大という大学に入ろうと思うと、その前にどれだけ金をかけるかということがまずポイントになってまいります。こういったことの不公平あるいは社会的な不公平、不公正、こういう問題についてのメスが入れられませんと、制度として幾らすべての人間に開かれておることになっておりましても、実際には一部の人間にしか開かれていないということになろうかと思います。先生先ほど御指摘の筑波大学の問題についても、私は全くそのように思っております。開かれた大学と申しますけれども、結局財界などにしか一方的に開かれていないということは、昨今の筑波大学のいろいろな問題を洗ってみますと、そういうことが言えるのでございまして、やはり真に広く民衆に向かって開かれているとは言えないと思います。
 そういうことから考えまして、単に制度の改革さえやればいいんだということではないということを私は先ほど最初の意見開陳の際に申し上げました。
 そこで、やはり先生先ほど御指摘のように、いまの大学制度は硬直化しているから柔軟にしなければいかぬ、これはわかるというふうに言われました。私もそう思うのでございますが、しかし今回のこの法律改正がもし実施されますと、やはり不当な大学間の格差がますます広がることにならぬだろうかということを私は恐れます。いまの大学の実情をそのままにしておいて、たとえば大学院のところだけをいじるということになりますと、たとえば博士課程だけの大学院を持っておる大学というのはほかの大学に比べて格が上になり、そこの大学のいわゆるエリート化がさらにさらに進んでいきはしないかということになりますと、これは青少年、特に小中学生の自殺者がたくさん出ているというような非常に嘆かわしい事態を生んでおる現在の受験競争をさらに過酷なものにする原因にならぬだろうかどうだろうかということを私は感じるわけでございます。ということでございますので、やはりこういう制度の改革が実現いたしました場合に、ほかのさまざまな方面にいかなる影響が及ぶだろうかということの、これは最近の公害問題で言いますと、事前評価、テクノロジーアセスメント、こういう言葉も最近出ておりまして、そういうことの必要性が非常に叫ばれておりますけれども、こういう制度の改革がほかの面に及ぼす影響などについての調査など、あるいは予測などもきちんといたしませんと、いい制度だと思って始まったものが、それが裏目に出たということになろうかと思います。そういうことでございますので、先ほど先生が言われましたことについては、私は基本的に賛成でございます。
 それで、私は何よりもいまの大学をもう少し直したらどうかというようなことをつくづく大学の現場におって感じております。伊藤先生には申しわけございませんが、たとえば東大教授の東大閥、九五%が東大出身者でございます。法学部は教授、助教授が一〇〇%東大卒。新聞研もそう、東洋文化研究所もそう。ただ原子核研究所、それから物性研、海洋研こういうところ——これは伏見先生の方の御関係でございますが、いわゆる共同利用研究所につきましては、東大には東大閥はございません。東大についでもしいま改革することがあるとしたら、大学院制度をいじり、あるいは総合大学院をつくるとかいうことではなくて、たとえば学閥をなくすというようなことを先にやったら、大分いまの枠の中でもちゃんとした大学ができ、その上に大学院制度の改革が行われて、もうちょっとちゃんとした大学院ができるということでございましたら、効果は一〇〇%だろうと思います。ちなみに、原子核研究所などでは教授九人のうち東大卒業者はわずか三人、三三・三%、助教授は二五%、十六人のうちで四人。たとえばこういうことが法学部、文学部、理学部でなぜできないのか、まさにこれをやっていないということが問題なのでございまして、そういうことをやった上での制度いじりなら、私は全面的に賛成するつもりでございます。
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伏見康治#23
○伏見参考人 御質問の真意を必ずしも正しく了解できていると思いませんが、こういうことを申し上げておきたいと思います。
 先ほど私が新しい大学院の構想を練っているということを申し上げました。たとえばいろいろな研究所を土台にした大学院制度を設けたらどうかというふうに考えているということを申し上げました。それは、その研究所は共同利用研究所という形で、つまりいろいろの大学の先生がその研究に関心をお持ちになる限りにおいて、あるいはその能力をお持ちになる限りにおいて、自由に出入りできるような、そういう共同利用研究所がまず幾つかつくられているということが前提になっております。
 現在の非常にたくさんの大学にそれぞれ第一線的な研究を行いますような施設を設けるということは、それは言うべくしてなかなか行われがたいと私は思いますので、そういう研究する場所というものを大学から一応切り離した場所に共同利用の研究所としてつくっていくというのが本来の筋ではなかろうかと思っております。そういう共同利用の研究所がいろいろな学問分野にわたって相当数がそろってまいりますれば、そういう研究所を土台にした大学院というものが、その時期になれば十分できる価値があると思っております。そういう共同利用の研究所というものでは、いま生越さんが言われたような学閥的なことは一切なくなってしまうわけでございまして、全国の大学の方に一様に門戸を開いたような場所——いまのところ、現在までつくりました共同利用研究所では、国立の大学の先生と公私立の大学の先生との間に多少の差がないわけではないのでございますけれども、しかし、本質的には無差別にそういう公私立の大学の先生方にも来ていただけるようなふうに努力しているわけでございます。そういう共同利用の研究所が幾つかできまして、それぞれの学問分野でそれが育ってまいりますと、そういうものを幾つか連合して一つの大学院制度を設けるということは、非常にいい制度ではないかと思っております。つまり、そういうところでは特定の何か学閥的なもので学生が育てられるということがございませんし、それから、学問的にも幾つかの研究所が総合してそれを賄えれば、学問的な意味でのセクショナリズムといったようなものも避けられるのではなかろうかと思っております。もちろん、こういうことは将来の問題でございまして、将来さらに具体化する段階でまたいろいろと次の考えるべき問題が幾つも派生してくるとは思うのでございますが、そういうことをやるだけの十分な体制は整っていると思いますので、今回の法律の改正でただ自由度がふえたから勝手気ままな大学院ができるということにはならないだろうと思っております。それぞれの大学院がそれぞれいろいろな目的、いろいろな形態のものがそれぞれまじめに議論されてできてくるということを期待している、こういうふうに申し上げておきたいと思います。
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三塚博#24
○三塚委員長代理 有島重武君。
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有島重武#25
○有島委員 三先生にそれぞれ伺いたいと存じますが、最初に大学院と研究所、あるいは科学院というようなお話がいま出ておりましたけれども、大学院の大学院たるゆえんは一体何であるのかということについて、三先生に初めに承っておきたいと思うのです。
 どうも大学院に行けば資格がもらえるということ、これはかなり重要なことなんじゃなかろうかという気がするわけでございます。それから財政上の問題もあるかもしれない。あるいは研究に重きを置くのか、教育に重きを置くのかというようなこともあるのかもしれないけれども、研究所あるいは共同利用の研究所あるいは連合研究所、あるいは科学院というようなものが今度の改正によって大学院を称することができる可能性、そういった道は開かれる。だけれども、それじゃそういった道が開かれないからといって、日本の学術というものが著しく道が阻まれるのかどうか、この辺のことをひとつ最初に承っておきたいと思います。
 それから、私は高等教育における資格制度というものについて、これは改革を要するんじゃないかということをかねがね考えておるわけなんでございますけれども、この法案の審議に当たりましても、先日も文部大臣に御質疑を申し上げたのは、単位を累次加算していくというような方式に今後は切りかえていかなければいけないんじゃないだろうか。大ざっぱに学士であるとか修士であるとか博士であるとかということよりも、単位の累次加算というようなことが一般化していくというふうに資格制度の改革をすべきじゃなかろうかというように思っておるわけです。教育制度は確かに日本は完備していると諸外国からほめられているようなことでございますけれども、教育制度が、そのまま教育資格制度が非常に完備しているというようなふうにも極端に申せば言えるんじゃないかというように思うわけです。三先生からも御意見を承りたいのと同時に、それじゃ、もしそういったことをお認めいただけるとすれば、こうしたことを破っていくと言いますか、変革していくためにはどんな方途がよろしいのかというようなことを承れれば幸いだと思います。
 それからもう一つは、三番目に、現在でも、大学院にせよそれから研究所にせよ、実際に携わっていらっしゃって、大変不備な点が多いんじゃないかと思うわけでございます。そうした困難を、財政的な困難もあるでしょう、それから人の不足というようなことの困難もあるでしょう、というようなことについて、今度のこの法改正が何か有効な貢献ができるのであろうかどうか。
 以上、三点にわたってお伺いいたします。
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伊藤正己#26
○伊藤参考人 時間もありませんので簡単にお答えいたしますので、御質問の主意に沿うかどうかわかりませんが、大学院の趣旨は一体どこにあるのか、大学院というものはどういうものなのかということになりますと大問題でございますが、日本の学問研究が世界の学問研究におくれないようにするのにはいろいろな方法があるかと思います。研究所を充実させる。先ほども再々お話に出ております共同利用研究所というようなものをつくっていただきまして、一人前の研究者が一緒になって共同研究をして学問を推進するということも一つの方法かと思いますが、やはりもう一つは、大学院ということによって、そのいわば研究者になる人を育てていくということが必要ではないか。その場合には、研究所にほうり込むというよりは、研究所にいたしましても、大学院という一つの教育組織をつくってそこで養成していくということが必要ではないか。今度の設置基準によりましても、博士は何も一人前のでき上がった研究者に博士を与えるのではなくて、自立して研究ができる人、そういう人を系統だった形で育てていくという大学院が日本の学問研究にとっては必要なのではないかというふうに考えております。
    〔三塚委員長代理退席、委員長着席〕
それから修士につきましては、先ほど申しましたように、多少枠を広げまして、多様化する大学院というものを考える、そういう形での多様な大学院というものを置くということが必要であり、今度の改正案はそれに一部こたえるものであるというふうに考えているわけでございます。
 それから第二の、大学院と資格の問題でございますが、先生は単位の加算ということをおっしゃいました。こういうことも十分必要であろうかと思います。ただ、私などが、これは分野によって違うかもわかりませんが、こういう大学院において学位論文を書くということが非常に意味があるのではないか。修士の場合は多少、論文でなくても研究の一種の報告でもいいということになりましたが、特に博士の場合に、博士論文を書くということが意味があるわけでございまして、そういう博士論文を書くことによって自立した研究者になるということになるんじゃないか。そういう意味では、こういう大学院制度を設け、そうして修士なり博士なりという学位を与えるという方法はやはり必要なのではないだろうか。諸外国でも大体そういうことが行われているように思うわけでございます。
 それから第三の点、確かに私も申しましたように、制度、道を開くだけでは十分ではなくて、現在の大学院は国公私立を通じて十分の設備がなく、また定員不足によってもずいぶん悩まされているということはございまして、これなどはやはり国の十分な配慮を必要とするというふうに思いますが、今度の改正が直ちにそれに役立つかどうかということになりますと、私は判断できませんが、こういう多様な大学院を置ける道を開くことによって、国の方でもそう多様化した大学院にふさわしい設備なり人員を充実させるという一つの機縁にはなり得るのではないだろうかというふうに私は考えているわけで、これは国会の諸先生方にもよろしくお願いしたいというふうに思うわけでございます。
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生越忠#27
○生越参考人 お答えいたします。
 まず大学院の使命でございますが、これはよく言われておりますように最高の基礎科学研究機関。私もそうは思いますけれども、しかし、先ほど申しましたように、現在の複雑な世の中では必ずしも大学院という形をとって存在している学術研究機関で最高の研究が行われているとは限っていないと思います。やはり応用研究あるいは開発研究をやる中からまたすぐれた基礎研究も出てきているというようなこともございまして、書斎あるいは研究室の中で十分な設備、それから施設設備、それから費用、人員、それさえ整えばうまく研究が進むというものではなくなってきているだろうということを私は感じます。
 そこで日本の学術を阻んでいるものは一体何であろうか。私、常々考えますのには、やはり研究者あるいは教員の間の交流がほとんどないということでございます。それからまた先ほどからたびたびお話ししておりますように学閥というのがございまして、これは言うなれば近親結婚ですね。近親結婚をやると頭の悪い子供が生まれるというのは、これは遺伝学の法則でございますけれども、この法則を地で行っておりますのが東大の医学部です。医学部は生物学を基礎とした学問のはずでございますけれども、それを地で行っております。特に医学部では大学紛争の原因になりましたように非常に封建的な徒弟制度がございますが、これを支えているものがまた学閥であるというふうに私は思います。こういうものをなくなさないで幾らお金をかけても、これは香水をどぶの中に捨てるのに等しいのではないかというふうに思います。やはり新しい学問が進む原因と申しますのは、異質の価値観がぶつかり合うところから生ずると思います。異質の価値観をぶっつけ合うということは、やはり立場の違う者、思想、信条の違う者、そういう人たちがお互いに相手の立場を認め合いながらやはり共同で研究を進めていく、あるいは作業を進めていくというところから出るのだと思いますけれども、残念ながら日本の大学には、大学というのは派閥の見本市と言われておりますように、ありとあらゆる派閥が大学へ来るとみんなあるというふうなことでございまして、そういうところではいかなる研究も促進はされないだろうというふうに思います。
 二番目、資格の問題でございますが、先生が御指摘になりましたような単位の加算、私も非常に結構だと思います。しかし、資格制度のいまの一番の根本的な問題は、昔の業績でいつまでも飯を食える制度に、いまの資格制度というものがなっている。安定した社会ではそれもよかったかもしれませんけれども、昔百年、今五年と言われておりますように、昔百年間かかって変化したのが今五年で進んでいるというような、こういう激動の社会では、資格制度というもの自体が存在の意義を失っているのではないかと私は思います。その証拠には、実力の伴わない資格というものがありますために、たとえば新しい私大をつくる場合に、やはり若手の人間は、やれ、勤務年限が足らぬ、博士号を持ってないというようなことで教授になれない。そうすると国立大学を定年でやめた老人が私立大学の教授になるというようなことで、やはりそういうことが非常ないまの大学のガンになっておりますが、そういう問題を解決することなしに資格制度をやたらに厳格にしましても、それは学問の発達とは無縁であろうというふうに思います。
 それから、私は旧制の学位を持っておりますが、最近の私の後輩なんか見ますと、大学院の博士課程で論文博士でなくていわゆる課程博士でございますね。課程博士の制度ができましてから非常に若く大学院の博士課程を卒業した、まだまだ三十にならないような段階ですでに理学博士号なり何々博士号の学位をとることが可能になってまいります。昔でも絶対に不可能ではございませんでしたけれども、昔は論文を三十、四十書く、あるいは十年、二十年の研究をやった後で、円熟したところで博士号をとるというのが間々あったというよりは、むしろそれが普通だったのでございますけれども、最近は特に理科系では簡単に博士号をとれるようになりました。大学院に五年おれば大体取れるということになりますと、そのことからどういうあれがきたかというと、とにかく博士号を取るのが一応目的だ、それが実は終着駅になってしまいまして、研究者の老朽ではなくて若朽現象あるいは若衰現象、若年寄り、これが非常に出ているというような気がいたします。そういうことで、いまの博士号は完全に裏目に出ているものである、日本の風土、土壌にはどうも適しないのではないかというふうに思います。どういう方向で解決すべきかということについての御質問がございましたが、これはちょっと一言では言えませんので、やはり日常ふだんの大学の中にあるさまざまな矛盾、これを改革していくという形でしか当面はできないと思います。
 それから、大学院の不備な点、どういうところがあるか、先ほど先生申されましたが、これはやはり予算が足らない、施設も十分でない、いろいろございますでしょう。しかし、ここで再度申し上げておきたいと思いますけれども、やはり人事の硬直化、大学あるいは研究機関では一番あってはならない終身雇用、年功序列という日本の封建社会の遺物のような制度が一番かたく存在しているということですね。この問題を何とか直さなければ、いかほど大学院をかっこうよく改革しようとも、人事制度が封建制の遺物のようなこういう制度によって支えられている以上は何にもならぬだろう。
 それからまた、今回の法改正によりまして、いろいろ大学院の中にもいままで以上にランクができると思います。そういうランキングができるということが、たとえば博士課程の大学院だけのある大学ということになりますと、それがまた人事の硬直化、そちらの方にみんなヒラメの目のように向いてしまいまして、修士の大学院のあるところから博士の大学院のあるところへ何とか行きたいという中央志向あるいは上昇志向、こういうのがやはり大学人も人間でございますのであると思いますが、そういう風潮がますますひどくなりはしないか。やはり能力、適性、希望、テーマそういうものに応じて自由に移動できるような体制が必要であろう。そのためには、格差のようなものをなくすことが必要であろう。私は決して悪平等を主張しているわけではございません。そういうことでございます。
 それから最後に一点申し上げておきたいと思いますが、これは私が東大の理学部で助手をやっておりましたときの経験でございますが、いまある制度ですら十分使われておりません。たとえば、大学の教授が定年でやめた場合、その後の欠員補充をやります場合に、私が前におりました東大理学部地質学科では、一つの教授のポストが八年、十年にわたって空席のまま置かれているということがしょっちゅうございました。これはどういうことか。やはり残った教授の間の利害関係がございまして、あれをやってはおれの得にならぬ、こっち連れてくると今度はだれが損だというようなことがございまして、なかなか教授が決まらぬということがございます。これはいわゆる大学の民主化が十分達成されていない、教授だけしか発言権を持っていないとかいうところから来ると思いますけれども、いまある制度すら十分使われておらず、いまあるポストですら十分充足されておらぬ。それで政府に向かっては、定員が足らぬ足らぬということをしょっちゅう言われるわけでございますけれども、ではあいているのはどうなんだ。外に向かいましてはかっこうよく適任者がいないからあけてあるんだというようなことを申しますけれども、それは表面上の理由でございまして、実際には教授の間の派閥争いでなかなか人が決まらぬというようなことが非常にたくさんございます。こういう問題を抜きにしておいて、お金を注げばいい、あるいは定員をふやせばいいという議論だけでは、日本の学術研究はいつまでたってもだめではないか。
 それから、やはり自立した精神、これが必要だということを先ほど伏見参考人が言われましたけれども、私は非常にそれを感じます。いわゆるエリート大学と言われる大学ほど外国の翻訳みたいなことをたくさんやっておられる方がどうもあるようでございます。東大教授はみんなアメリカの方に目を向け、地方大学の教授はみんな東大が何しているかに目を向ける、したがって、日本には日本固有の文化も育たなければ学問も育たぬ、地方には地方固有の文化も育たないということがあるのじゃないか。私は日本の大学というのは水力発電所だと思っておりますけれども、日本とアメリカとの情報、知識の五年なり十年なりの落差、これが日本の大学教師のエネルギーになってはいないだろうか。こういう情けないことではやはりだめなのであって、何よりも大学教師があるいは研究者が自立した考え方を持って、自前の精神で自前の学問をやるということなしには、制度の改革だけでは日本の学問は進まないだろうというふうに思います。
 以上でございます。
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伏見康治#28
○伏見参考人 御質問の趣旨をよく理解しておりませんので、とんちんかんなお答えになるかとも思いますが、大学院というものを私はこんなふうに考えているわけなんです。
 大学院の学生というのは大体二十歳代の後半から三十歳近くになるのですが、そのころが実は日本人の、特に私の専門でございます物理の分野のようなところでは一番仕事のできるところでございまして、また湯川、朝永先生の例を出しますと、お二人がノーベル賞をもらわれた仕事というのは、みんな三十歳前後につくられたお仕事のわけです。つまり、そういう青春のまだみなぎっているときに、本当にオリジナルな仕事がなし得られるのであって、長い間の蓄積で学問を達成するという場合、そういう学問の種類ももちろんあると思うのでございますが、少なくとも私の関連している分野では、ことに理論物理学といったような分野では、若さというものが決定的な要因になっておりまして、大学院の学生はむしろ私は研究者と考えている次第でございます。修士の方の話はまたちょっと変わりますけれども、少なくともドクターコース、博士課程の方の大学院学生というのは、本当の研究者だと私は考えております。そういう研究者が本当に研究できる道場のような場所、そういうような場所をつくるということが大学院制度だと思っております。そこでは要するに一つの雰囲気があって、何か真理を探求することに若さの熱情を全部注げるような場所、そういう場所をつくってあげるということが一番大事なことではないかと思っております。
 そういう意味で、博士論文を仕上げるということはまた非常に意味が深いことだと思っております。これも学問の種類によっては、博士号というものが何か世間に金銭的価値をもたらす符牒であるような場合もあるのだと思いますが、幸か不幸か理学博士などというのはそういう価値がとんとございませんので、もっと別なところに本質的な意味の価値を認める幸運を持っておると思うのでございますが、博士号を取るために一つの論文をまとめ上げるという過程は、研究者の過程として非常に大事な要素だと思っております。というのは、研究というのはあれこれの個々の経験事実の羅列ということにあるのではございませんでして、そういうたくさんの経験事実の中から何が本質であるかという筋書きを読み取るということにあるわけです。それは三カ年なら三カ年いろいろな実験をやって、あれこれ試してみた生のデータを幾ら並べても実は博士論文は書けないのでありまして、その中からちゃんと一つの筋を読み取って初めて一つの論文にまとまるわけです。その論文にまとめるというプロセス自身が、学問を研究する上での非常に大事なステップになっております。多くの研究者の中には、個々の実験事実、経験事実を克明に蓄えるという能力を持っておられる方があるのですが、それをまとめて、その中から一つの筋を読み取る、そこの段階にはどうしてもついに到達できないような方がおられます。そういう方はそういう方で、また別の価値があると思うのでございますけれども、研究者という価値から申しますと、博士論文を一つまとめ上げるというのは非常に重要な意味を持っておると思います。
 あといろいろございますけれども、その辺で御勘弁を願いたいと思います。
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有島重武#29
○有島委員 伏見先生にもう一言伺いますけれども、博士課程だけの大学院というものをつくったといたします。研究者と教育者という二つのタイプがあるのではないか、あるいはもう一つ言えば実務家タイプというようなものがあるかもしれません。けれども、研究者としても教育者的要素というのは、やはりいまおっしゃいました、物をまとめていく、その筋を読み取っていく、いろいろな啓発をしていくために、後輩と触れていくということもかなり大きな要素ではないかというふうにぼくは承っておるわけです。そういったところから、博士だけの大学院というもの、これは望ましいものであるかどうか、この辺はどういうふうにお考えになっていらっしゃいますか、それだけ伺っておきます。
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