伏見康治の発言 (文教委員会)
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○伏見参考人 生越さんの言われたことと似たようなことになると思うのでございますが、私のつまらない経験を一つ申し上げますと、名古屋大学のプラズマ研究所で大学院の学生を相手にしておりまして、その人が博士号をとるという卒業期になって相談しに参りまして、これから何をしたらいいでしょうかという質問を受けて非常なショックを受けたことを覚えております。つまり、いまの学生の非常に多くはエスカレーター思想というもので育てられてきてしまって、百貨店のエスカレーターが一階から二階、二階から三階と動いているから乗ってきてしまった。屋上まで来てしまってから、一体どこへ行ったらいいかと思って迷っているというようなそういう感じが非常に濃厚ですね。余りに教育制度が整い過ぎていて、つまり人生というのは一体何物であるかということを自分自身で突き詰めて考えた機会が一つもなしに大学院まで来てしまった、そういう人たちが非常に多いように思います。
いまの教育制度の一番大きな欠陥は、おそらくそういう突き詰めて自分で独立して物を考えるという人間を育てなかったこと、いわゆる入学試験でもっぱら出された問題を短時間に大急ぎで解くということの練習ばかりやってきたという人たちの集団であって、根本的な人生の問題を自分自身が問いかけてみて、自分で解こうとする努力を一遍も経験したことがないような人々がふえてしまっている、それが非常に大きな欠陥であろうと思います。
もともと旧制大学の私ぐらいまでのゼネレーションの先生方が期待しておりますのは、インディペンダントに、独立して物を考える人間がその学生として入ってきていただくことであって、そして、大学の先生というのは、そういう独立して物を考える人々が自由に物を考えられるような場所をただ設定してやるんだというふうに考えていたわけです。つまり、湯川、朝永両先生が育った京都大学に湯川、朝永先生よりも偉い先生がいて育てたわけではないのであって、湯川、朝永という二つの天才が自由に伸び得るような環境をつくっておられたということであろうと思います。旧制の大学というのは、そういう意味で入ってくる学生が独立して考えられることを期待して成立していたわけです。ところが、大学が大衆化いたしまして、みんなエスカレーター思想で育った人たちが入ってまいりますと、要するに自分で考えることのできない人たちが大学生であり大学院の学生になっているわけですから、そういった人たちを従来の、つまり湯川、朝永先生の学生時代と同じように取り扱いますと大変なことになるわけです。そのちぐはぐなところ、つまり、よくアメリカの教育制度と日本の教育制度とを比較いたしまして、日本では小学、中学の低学年ほど勉強させて、上へ行くほど勉強させなくなる、アメリカは逆で、小中学生で遊ばせておいて、上へ行くほど非常にがっちり締めつけるというお話がございますが、日本の大学は実際逆になっておりまして、非常に遊ばせてしまっているわけです。それは旧制大学の理念で学生を見ているからなのです。ところが、実際入ってくる学生は独立して物を考えることができなくなっている。それで、実はいまの新制大学というのは、根本的にはもっとぎゅうぎゅう締めつけるような教育制度に変えないといけないと私は思っております、そうしてやれば、おそらく役に立たない大学卒業生でなくして本当に役に立つ大学生が——学問を継承するという意味ではないと思うのですけれども、それぞれの技術なり知識なりの最高水準を身につけた人たちがたくさんに出てきて、それはそれで大変結構なことだと思います。
問題は、そういういわば大衆教育をやっている間に本当の天才を逃してしまうおそれがないかというわけで、その二つをどう調和させて進んでいくかということが大事だと思っております。