生越忠の発言 (文教委員会)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○生越参考人 お答えいたします。
まず大学院の使命でございますが、これはよく言われておりますように最高の基礎科学研究機関。私もそうは思いますけれども、しかし、先ほど申しましたように、現在の複雑な世の中では必ずしも大学院という形をとって存在している学術研究機関で最高の研究が行われているとは限っていないと思います。やはり応用研究あるいは開発研究をやる中からまたすぐれた基礎研究も出てきているというようなこともございまして、書斎あるいは研究室の中で十分な設備、それから施設設備、それから費用、人員、それさえ整えばうまく研究が進むというものではなくなってきているだろうということを私は感じます。
そこで日本の学術を阻んでいるものは一体何であろうか。私、常々考えますのには、やはり研究者あるいは教員の間の交流がほとんどないということでございます。それからまた先ほどからたびたびお話ししておりますように学閥というのがございまして、これは言うなれば近親結婚ですね。近親結婚をやると頭の悪い子供が生まれるというのは、これは遺伝学の法則でございますけれども、この法則を地で行っておりますのが東大の医学部です。医学部は生物学を基礎とした学問のはずでございますけれども、それを地で行っております。特に医学部では大学紛争の原因になりましたように非常に封建的な徒弟制度がございますが、これを支えているものがまた学閥であるというふうに私は思います。こういうものをなくなさないで幾らお金をかけても、これは香水をどぶの中に捨てるのに等しいのではないかというふうに思います。やはり新しい学問が進む原因と申しますのは、異質の価値観がぶつかり合うところから生ずると思います。異質の価値観をぶっつけ合うということは、やはり立場の違う者、思想、信条の違う者、そういう人たちがお互いに相手の立場を認め合いながらやはり共同で研究を進めていく、あるいは作業を進めていくというところから出るのだと思いますけれども、残念ながら日本の大学には、大学というのは派閥の見本市と言われておりますように、ありとあらゆる派閥が大学へ来るとみんなあるというふうなことでございまして、そういうところではいかなる研究も促進はされないだろうというふうに思います。
二番目、資格の問題でございますが、先生が御指摘になりましたような単位の加算、私も非常に結構だと思います。しかし、資格制度のいまの一番の根本的な問題は、昔の業績でいつまでも飯を食える制度に、いまの資格制度というものがなっている。安定した社会ではそれもよかったかもしれませんけれども、昔百年、今五年と言われておりますように、昔百年間かかって変化したのが今五年で進んでいるというような、こういう激動の社会では、資格制度というもの自体が存在の意義を失っているのではないかと私は思います。その証拠には、実力の伴わない資格というものがありますために、たとえば新しい私大をつくる場合に、やはり若手の人間は、やれ、勤務年限が足らぬ、博士号を持ってないというようなことで教授になれない。そうすると国立大学を定年でやめた老人が私立大学の教授になるというようなことで、やはりそういうことが非常ないまの大学のガンになっておりますが、そういう問題を解決することなしに資格制度をやたらに厳格にしましても、それは学問の発達とは無縁であろうというふうに思います。
それから、私は旧制の学位を持っておりますが、最近の私の後輩なんか見ますと、大学院の博士課程で論文博士でなくていわゆる課程博士でございますね。課程博士の制度ができましてから非常に若く大学院の博士課程を卒業した、まだまだ三十にならないような段階ですでに理学博士号なり何々博士号の学位をとることが可能になってまいります。昔でも絶対に不可能ではございませんでしたけれども、昔は論文を三十、四十書く、あるいは十年、二十年の研究をやった後で、円熟したところで博士号をとるというのが間々あったというよりは、むしろそれが普通だったのでございますけれども、最近は特に理科系では簡単に博士号をとれるようになりました。大学院に五年おれば大体取れるということになりますと、そのことからどういうあれがきたかというと、とにかく博士号を取るのが一応目的だ、それが実は終着駅になってしまいまして、研究者の老朽ではなくて若朽現象あるいは若衰現象、若年寄り、これが非常に出ているというような気がいたします。そういうことで、いまの博士号は完全に裏目に出ているものである、日本の風土、土壌にはどうも適しないのではないかというふうに思います。どういう方向で解決すべきかということについての御質問がございましたが、これはちょっと一言では言えませんので、やはり日常ふだんの大学の中にあるさまざまな矛盾、これを改革していくという形でしか当面はできないと思います。
それから、大学院の不備な点、どういうところがあるか、先ほど先生申されましたが、これはやはり予算が足らない、施設も十分でない、いろいろございますでしょう。しかし、ここで再度申し上げておきたいと思いますけれども、やはり人事の硬直化、大学あるいは研究機関では一番あってはならない終身雇用、年功序列という日本の封建社会の遺物のような制度が一番かたく存在しているということですね。この問題を何とか直さなければ、いかほど大学院をかっこうよく改革しようとも、人事制度が封建制の遺物のようなこういう制度によって支えられている以上は何にもならぬだろう。
それからまた、今回の法改正によりまして、いろいろ大学院の中にもいままで以上にランクができると思います。そういうランキングができるということが、たとえば博士課程の大学院だけのある大学ということになりますと、それがまた人事の硬直化、そちらの方にみんなヒラメの目のように向いてしまいまして、修士の大学院のあるところから博士の大学院のあるところへ何とか行きたいという中央志向あるいは上昇志向、こういうのがやはり大学人も人間でございますのであると思いますが、そういう風潮がますますひどくなりはしないか。やはり能力、適性、希望、テーマそういうものに応じて自由に移動できるような体制が必要であろう。そのためには、格差のようなものをなくすことが必要であろう。私は決して悪平等を主張しているわけではございません。そういうことでございます。
それから最後に一点申し上げておきたいと思いますが、これは私が東大の理学部で助手をやっておりましたときの経験でございますが、いまある制度ですら十分使われておりません。たとえば、大学の教授が定年でやめた場合、その後の欠員補充をやります場合に、私が前におりました東大理学部地質学科では、一つの教授のポストが八年、十年にわたって空席のまま置かれているということがしょっちゅうございました。これはどういうことか。やはり残った教授の間の利害関係がございまして、あれをやってはおれの得にならぬ、こっち連れてくると今度はだれが損だというようなことがございまして、なかなか教授が決まらぬということがございます。これはいわゆる大学の民主化が十分達成されていない、教授だけしか発言権を持っていないとかいうところから来ると思いますけれども、いまある制度すら十分使われておらず、いまあるポストですら十分充足されておらぬ。それで政府に向かっては、定員が足らぬ足らぬということをしょっちゅう言われるわけでございますけれども、ではあいているのはどうなんだ。外に向かいましてはかっこうよく適任者がいないからあけてあるんだというようなことを申しますけれども、それは表面上の理由でございまして、実際には教授の間の派閥争いでなかなか人が決まらぬというようなことが非常にたくさんございます。こういう問題を抜きにしておいて、お金を注げばいい、あるいは定員をふやせばいいという議論だけでは、日本の学術研究はいつまでたってもだめではないか。
それから、やはり自立した精神、これが必要だということを先ほど伏見参考人が言われましたけれども、私は非常にそれを感じます。いわゆるエリート大学と言われる大学ほど外国の翻訳みたいなことをたくさんやっておられる方がどうもあるようでございます。東大教授はみんなアメリカの方に目を向け、地方大学の教授はみんな東大が何しているかに目を向ける、したがって、日本には日本固有の文化も育たなければ学問も育たぬ、地方には地方固有の文化も育たないということがあるのじゃないか。私は日本の大学というのは水力発電所だと思っておりますけれども、日本とアメリカとの情報、知識の五年なり十年なりの落差、これが日本の大学教師のエネルギーになってはいないだろうか。こういう情けないことではやはりだめなのであって、何よりも大学教師があるいは研究者が自立した考え方を持って、自前の精神で自前の学問をやるということなしには、制度の改革だけでは日本の学問は進まないだろうというふうに思います。
以上でございます。