伏見康治の発言 (文教委員会)
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○伏見参考人 御質問の趣旨をよく理解しておりませんので、とんちんかんなお答えになるかとも思いますが、大学院というものを私はこんなふうに考えているわけなんです。
大学院の学生というのは大体二十歳代の後半から三十歳近くになるのですが、そのころが実は日本人の、特に私の専門でございます物理の分野のようなところでは一番仕事のできるところでございまして、また湯川、朝永先生の例を出しますと、お二人がノーベル賞をもらわれた仕事というのは、みんな三十歳前後につくられたお仕事のわけです。つまり、そういう青春のまだみなぎっているときに、本当にオリジナルな仕事がなし得られるのであって、長い間の蓄積で学問を達成するという場合、そういう学問の種類ももちろんあると思うのでございますが、少なくとも私の関連している分野では、ことに理論物理学といったような分野では、若さというものが決定的な要因になっておりまして、大学院の学生はむしろ私は研究者と考えている次第でございます。修士の方の話はまたちょっと変わりますけれども、少なくともドクターコース、博士課程の方の大学院学生というのは、本当の研究者だと私は考えております。そういう研究者が本当に研究できる道場のような場所、そういうような場所をつくるということが大学院制度だと思っております。そこでは要するに一つの雰囲気があって、何か真理を探求することに若さの熱情を全部注げるような場所、そういう場所をつくってあげるということが一番大事なことではないかと思っております。
そういう意味で、博士論文を仕上げるということはまた非常に意味が深いことだと思っております。これも学問の種類によっては、博士号というものが何か世間に金銭的価値をもたらす符牒であるような場合もあるのだと思いますが、幸か不幸か理学博士などというのはそういう価値がとんとございませんので、もっと別なところに本質的な意味の価値を認める幸運を持っておると思うのでございますが、博士号を取るために一つの論文をまとめ上げるという過程は、研究者の過程として非常に大事な要素だと思っております。というのは、研究というのはあれこれの個々の経験事実の羅列ということにあるのではございませんでして、そういうたくさんの経験事実の中から何が本質であるかという筋書きを読み取るということにあるわけです。それは三カ年なら三カ年いろいろな実験をやって、あれこれ試してみた生のデータを幾ら並べても実は博士論文は書けないのでありまして、その中からちゃんと一つの筋を読み取って初めて一つの論文にまとまるわけです。その論文にまとめるというプロセス自身が、学問を研究する上での非常に大事なステップになっております。多くの研究者の中には、個々の実験事実、経験事実を克明に蓄えるという能力を持っておられる方があるのですが、それをまとめて、その中から一つの筋を読み取る、そこの段階にはどうしてもついに到達できないような方がおられます。そういう方はそういう方で、また別の価値があると思うのでございますけれども、研究者という価値から申しますと、博士論文を一つまとめ上げるというのは非常に重要な意味を持っておると思います。
あといろいろございますけれども、その辺で御勘弁を願いたいと思います。