橋本龍太郎の発言 (社会労働委員会)
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○橋本(龍)委員 きょう私は、この援護法の審査に際して、主として二つの点について政府の答弁を求め、また政府の決断を求めたいと思います。
いまさら同僚委員の各位に申し上げるまでもなく、すでに戦後三十年という歳月を経て今日なお遺族援護に関して私どもがこうした問題を取り上げなければならないということ自体が、私は、きわめて残念なことだと思います。ただそれだけに、今日まで残っておる問題は、それぞれにあるいは非常に心情的に気の毒だと思いながらも法律に乗りにくいとか、あるいは証明する資料が不足だとか、あるいは援護法と一般の問題との接点部分に当たるものだとかいうことで、政府として取り上げづらい状況があることを私も知らないわけではありません。しかしそれと同時に、少なくともこれだけの歳月を経て、法律条文を理解する上できわめて厳正に運用を図ることだけが、私は、政府として好ましい態度だとも思いません。ことに戦争による犠牲者に対しての援護というようなものについては、私は、ある程度弾力的な見解を政府にも持ってもらいたいと日ごろから考えております。
きょう取り上げたい第一の問題は、すでに何回も本院において、あるいは参議院において質問がなされ、質問趣意書等も出されてきました対馬丸の問題についてであります。
これは、いまさら私が細かく申し上げるまでもありませんが、第二次世界大戦中における大きな悲劇の一つとして、今日もなお当時を知る者の胸から去らない事件であります。要点は、この対馬丸に乗っていて海没し、死亡した学童たちを準軍属として処遇してやってもらいたいということであります。これは、いままで政府としてはたびたび拒否の回答をなされてきました。そして、それはそれなりの理由があったと思います。しかし本年は、対馬丸事件が起きましてからちょうど三十三回忌であります。そして本土においてもこの風習は同じことでありますけれども、沖繩県における伝統的な慣習からして、三十三回忌というものは、県内の人々には私どもが考える以上の大きな意味を持っているわけであります。それだけに何とかして本年この問題に解決をしてもらいたい、これは私、たまたまきょう質問に立たせていただきましたが、沖繩県出身国会議員団、党派を抜きにしてすべての方々の希望であることを最初に私は政府に対して申し上げたいと思います。
簡単に事件の経過を振り返ってみますと、昭和十九年の七月七日にサイパンが玉砕をいたしましてから、本土においても学童疎開が行われるようになりました。東條内閣の緊急閣議の決定により学童疎開が行われたわけであります。沖繩県当局でこの閣議の決定を受けて七月十九日に、内政部長名により宮古、八重山、那覇・首里、三郡の学校長あてに「学童集団疎開準備に関する件」という通達が出されました。その文章は左のとおりであります。「時局の現段階に対処して、一億国民総力を挙げて敵反攻にそなうる国土防衛態勢確立急務なるとき、人口疎開の一翼として県下学童を安全地区に集団疎開し、戦時といえども少国民の教育運営に遺憾なきを期し、併せて県内食糧事情の調節を図らんがため、標記疎開につき、計画いたし度きにつき、左記事項参照の上、速急に可然措置相成度くこの段通牒す」これに実施要綱がつけられ現地軍との協力のもとに学童疎開が行われた、これがこの対馬丸事件の発端であります。
この「県内食糧事情の調節を図らんがため」というのは、東京においても大阪においても同じような内容の通達が出されました。私どもも、それで学童疎開をした一人であります。しかし、沖繩県という地域を考え、その後の戦局の推移を考えたときに、当時沖繩県において「県内食糧事情の調節を図らんがため」という一言が、どれだけ県民の上に大きな心理的影響を及ぼしたかは、恐らく政府の皆さんにも御想像がつくことと思う。そして、その第一船が出発し、撃沈をされた。そして多くの学童が死にました。乗船人員千六百六十一名中、生存人員は百七十七名、戦没人員は千四百八十四名であります。その中には引率の教師、世話人あるいは学童の付添人もあります。しかし、ここで私が問題にしたいのは、この学童であり、七百三十六名の対馬丸とともに沈んだこの学童を準軍属にしてもらいたいという点であります。
今日まで対馬丸の問題が何回か議論をされてきました中で、昭和三十七年には疎開学童及び引率教師の遺族に対して政府は見舞金を支出され、また昭和四十七年には学童の付添者の遺族に対しても見舞金を支給された。また、昭和四十一年にはきわめて特異なケースでありますが、靖国神社に合祀がされました。また、さらに昭和四十八年には叙勲が行われ、勲八等の勲記並びに端宝章が贈られております。そして昨年の八月二十二日には、遭難現場において国が海上慰霊祭を執行され、東宮殿下御夫妻の献花等も行われました。
疎開船は、沖繩県内を考えましてもこの一隻ではありません。また、南洋諸島等からの疎開船も多くあります。しかし、その中で対馬丸だけがなぜこうして特殊に扱われてきたか、政府自身が特別にお扱いになったか、それはただ単なる一般の疎開船とは違い、戦時協力の一還として行われた学童の疎開船であり、そして多くの犠牲者を出し、この対馬丸が沈んだために沖繩県における学童疎開が実質的には中止をされたという状況があったからだと私は思います。
今日まで政府がどうしてこういうふうに対馬丸だけを他の疎開船とは異なって処遇をしてこられたのか、まず一番最初に、私は援護局長からその点を答えてもらいたいと思う。