佐藤誼の発言 (文教委員会)
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○佐藤(誼)委員 何事も一〇〇%というのはありませんから、そういう意味ですべてよかったとは思わない。しかし、文部省もそれなりの努力をしてきているのですという趣旨のことなんですが、私はもう少しこの内容について突っ込んだ見方なり反省が欲しいと思うのです。
御承知のとおり、文部省が「我が国の初等中等教育」というのを一月二十三日に発表いたしましたね。これに対して、今臨教審の委員になっている香山健一氏は、「文部省改革の必要性に関する考察」というのを出しております。私はこれをすべて是とするものでありませんけれども、この中に、先ほど申し上げたような文部省の「我が国の初等中等教育」の報告書ですか、これを中心にして見解を出しております。言うなれば、文部省は、やってきたことに対する何ら基本的な反省がないのじゃないか、何が是で何が非であるのか、この辺のところのめり張りがさっぱりないじゃないか、これでは教育改革を主張するゆえんがどこから出てくるのですかというような趣旨のことが盛られておりますね。私はこれをすべて賛成というわけにはいきませんけれども、それなりの見方をしている方がかなりいると思うのです、文部省の文部行政に対して。このことはやはり深く反省してみる必要があると私は思うのです。何もこれは文教行政だけじゃありませんよ。それぞれ教育に携わった者がこの辺で戦後の教育について、自分はいかなる弊害に対する加担者であったのか、その総括と反省をみんなしなければならぬと私は思うのです。そういう観点から言うと、文部省の総括というか反省、突っ込んだ見方といいますか、私は不十分のような気がしてなりません。
そこで、若干長くなりますけれども、以下私の見解なり考え方を述べまして、それに対して文部省としての所見なり見解を後でお聞きいたします。
今日の教育荒廃、病理現象と言われるものが、有名高校、有名大学、一流企業就職エリート社員、そして出世と生活安定、つまり学歴社会を背景に父母の期待を背にした過激な受験競争、詰め込み教育、テスト教育、偏差値教育がもたらしたひずみ、ゆがみというのが非常に重要な要因だと私は見るのです。先ほど言ったことの繰り返しのようなことでありますけれどもね。
そこで、今これに対する文部省の反省の答弁をいただきましたが、私はすべて文部省が悪いとは言っておりませんよ。今日のこういう受験競争を初めとする教育荒廃を加速させていった一つの責任は、文部省の教育行政にもあったと私は思うのです。つまり戦後の教育の出発点は何であったか。それは、私から言えば、戦前の教育が国民教化の教育、すなわち富国強兵、戦争遂行という国家目的の手段とされてきた。その点を反省し、教育基本法に示されているように、教育が他の目的の手段ではなく、人間形成それ自体が目的であるということから出発したのが戦後の教育基本法の体制であったと私は思うのです。これは私は忘れてはならないと思うのですね。しかし、その後の文部行政の中では、私はそれが大きくゆがめられていったと思うのです。これはもちろん文部省のひとり歩きではございません。文部省は政府の一行政機関であり、それは政党政治のもとで行われたことは否定しがたいことはもちろんです。
ゆがめられていった第一は、教育が、高度経済成長政策、昭和三十五年ごろからだったと思いますが、それとともに経済発展の手段とされ、人格の完成よりは知育偏重のための人材開発に主眼が置かれてきた。そしてそのことに文部省は大きく加担してきたのではないか。
いま一つは、教育の自由と創造よりは、教育の国家統制と教育現場の管理強化を強め、教育現場における教師集団としての連帯性と活力を失わせ、子供の全面発達を願う教師の自由と創造の芽を摘み取ってきたのではないか。つまり、これは今日の受験体制の強化と相まって、遊びを知らない子供、学ぶことの楽しさを知らない子供にしてしまったのではないか。それが今日、テスト人間、偏差値人間と言われるおもしろくもおかしくもない子供がたくさん出、刺激がなければ反応しない無気力人間を多数つくることになってしまったのではないか。これは、いみじくもこのごろの各会社の採用試験等の中にそういう反省が随分出ていることは御承知のとおりです。
そこで、私は、先ほどから述べてきた経済成長政策の中で文教政策がどのような歩みを続けてきたか、この際若干触れてみたいと思います。
一九六〇年、昭和三十五年十二月、池田内閣の時代、所得倍増計画、つまり経済成長政策が閣議で決定をいたしました。それと関連して長期教育計画が経済審議会から発表されました。その計画によれば、教育が経済成長を進める立場からその任務が位置づけられ、教育は経済成長に必要な人的能力を開発し向上させることだ、つまり人間の全面発達よりは知育偏重の教育が強調されたということです。このことは、今日のよく言われる知育偏重のテストと教育、その選別のための偏差値教育をその後大きく促進していったことに無関係ではないと私は思うのです。その意味で、今日のよく言われる知育偏重の教育が必ずしも偶然に生まれたものではないと私は思います。今申し上げたことと深くかかわり合っているというふうに私は見るのです。
以後、文部省は、経済成長のための人的能力の開発と向上の立場で教育政策を進めてきたと思います。その具体的報告書が一九六二年十一月「日本の成長と教育」という教育白書の中にあらわれてきております。その内容は、端的に言えば教育投資論です。どれだけの投資をしたらどれだけの人間能力が開発、向上され、つまり人材が開発され、経済成長に役立つかという、いわゆるエコノミスト的な観点に立つ白書であったことは御案内のとおりであります。
さらに、一九六三年一月、人的能力の開発、よく言われるマンパワーポリシーが経済審議会から発表され、一九六六年十月には、それを受けた形で後期中等教育の拡充と整備というのが中央教育審議会から答申をされ、そして、それに基づいて経済成長に役立つ人的能力の開発が文部省の教育行政の中で進められていったことは、紛れもない歴史的な事実だと私は思うのです。
その点、私は、先ほどから問題になっておる学歴社会と受験競争の激化という立場から若干触れてみたいと思います。つまり、文部省の人的能力開発政策によって、経済発展に役立つ能力、すなわち知的能力を持った者が社会的評価を受けるようになるのは当然です。やがてそのことは、知的能力を持つ者がペーパーテストで選別され、よりよい大学、つまり有名大学に進学するようになる。そして有名大学を出た者は、エリートとして一流会社に就職し、よりよい社会的地位を獲得するという、いわゆる学歴社会の風潮を促進していったと考えられると思います。言うなれば、学歴社会の定義にもよるでしょうけれども、私は、学歴社会は、よりよい学校歴を得た者がよりよい社会的地位につく可能性のある社会というふうに私は思いますから、そういう意味では、今のマンパワーポリシーの政策は、学歴社会の風潮を促進していったと考えざるを得ないわけです。一方そのことは、学歴社会を背景に、知育偏重の受験競争の激化を招き、そのえり分けのすぐれた方法として偏差値が導入され、今日のいわゆる輪切り進学を生むということにつながってきたというふうに私は思います。
ただ、その場合、戦前には偏差値という考え方はなかった、もちろんかぎ括弧つきですが。偏差値教育という言葉もなかった。私は、偏差値教育が全国レベルで普及するためには少なくとも二つの条件が社会的に必要であったと思うのです。その一つは、統計処理の母集団をより広く求めることができるということです。すなわち、受験産業の資本が巨大化し、全国規模の模擬テストの実施が可能であるということ。いま一つは、コンピューターの導入で統計処理が迅速かつ正確にできるということであります。この学校の序列化、偏差値教育、輪切り進学に今大きく寄与してきているのが大学の共通一次だと私は思うのです。そういう意味で、つまりそれが今共通一次が教育改革の重要な課題になってきているのだというふうに思うのですね。
最後に、私は、かつて一九七〇年日本を訪れたOECDの教育調査団の報告書の中で、日本の教育はすべて経済という機関車に連結されていると述べています。そして、すぐに役立つ教育はやがて役に立たなくなると指摘しているのです。日本の今日の学歴社会を背景にした受験競争と偏差値教育、そのことが引き起こした教育のひずみ、ゆがみと教育荒廃、これは、日本の教育が経済発展や経済界の要求に左右され、極論するならばその手段とされ、かつ、経済界の要求を代弁してきた政府及び文部省の教育行政が、その加担者としてその一翼を担ってきた、そういう意味で、私は責任追及するなどという考えは毛頭ありませんけれども、今教育改革が大きな国民世論になっている折から、この点をもう一度振り返って総括し、反省すべき点は反省すべきだと私は思うのです。ただ単にこれは教育行政だけを責めているわけじゃありません。教育はすべての、それぞれの分野で協力し合って成り立っているわけですから、私は、文部行政があるいは文部省が、総括、反省すると同時に、それぞれの教育に当たった所掌の皆さんが、戦後の教育をもう一度振り返って反省し、総括する必要があるという観点であえて申し上げているわけであります。
そこで、私は、以上述べたようなことから見ますと、文部省の考え方にはどうしても歴史的な視点が欠け、かつ、その加担者と言うと厳しいのですけれども、その一翼の責任があったという、そういう反省が欠けているのではないかということを言わざるを得ません。したがって、今後教育改革は、単なる小手先の制度いじりではなく、その根源ともいうべき歴史的、社会的背景にまでメスを入れる必要があると思うし、そして、教育は何かという本質に迫るとともに、教育改革に哲学がなければならないというふうに私は思います。
そういう意味で、いろいろ長く述べましたけれども、私はそういう考え方を持っております。それに対して文部大臣並びに文部省はどのような所感と感想を持たれるか、ありましたらお聞きしたいと思います。