文教委員会

1985-04-19 衆議院 全288発言

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会議録情報#0
昭和六十年四月十九日(金曜日)
    午前十時三十一分開議
出席委員
  委員長 阿部 文男君
   理事 石橋 一弥君 理事 大塚 雄司君
   理事 白川 勝彦君 理事 船田  元君
   理事 佐藤  誼君 理事 馬場  昇君
   理事 池田 克也君 理事 中野 寛成君
      青木 正久君    稻葉  修君
      臼井日出男君    榎本 和平君
      北川 石松君    北川 正恭君
      工藤  巖君    田川 誠一君
      中村  靖君    二階 俊博君
      額賀福志郎君    町村 信孝君
      渡辺 栄一君    木島喜兵衞君
      佐藤 徳雄君    田中 克彦君
      中西 績介君    有島 重武君
      木内 良明君    伏屋 修治君
      玉置 一弥君    藤木 洋子君
      山原健二郎君    江田 五月君
 出席国務大臣
        文 部 大 臣 松永  光君
        出席政府委員
        臨時教育審議会
        事務局次長   齋藤 諦淳君
        文部政務次官  鳩山 邦夫君
        文部大臣官房長 西崎 清久君
        文部大臣官房審
        議官      菱村 幸彦君
        文部省初等中等
        教育局長    高石 邦男君
        文部省教育助成
        局長      阿部 充夫君
        文部省高等教育
        局長      宮地 貫一君
        文部省高等教育
        局私学部長   國分 正明君
        文化庁次長   加戸 守行君
 委員外の出席者
        議     員 佐藤  誼君
        議     員 中西 績介君
        議     員 田中 克彦君
        議     員 佐藤 徳雄君
        文化庁長官   三浦 朱門君
        厚生省健康政策
        局看護課長   矢野 正子君
        会計検査院事務
        総局第二局文部
        検査第一課長  白川  健君
        参  考  人
        (日本私学振興 神山  正君
        財団理事)
        文教委員会調査
        室長      高木 高明君
    ―――――――――――――
委員の異動
四月十八日
 辞任         補欠選任
  佐藤 徳雄君     山本 政弘君
同日
 辞任         補欠選任
  山本 政弘君     佐藤 徳雄君
同月十九日
 辞任         補欠選任
  赤城 宗徳君     北川 石松君
  榎本 和平君     額賀福志郎君
  中村  靖君     工藤  巌君
  伏屋 修治君     木内 良明君
  滝沢 幸助君     玉置 一弥君
同日
 辞任        補欠選任
  北川 石松君     赤城 宗徳君
  工藤  巖君     中村  靖君
  額賀福志郎君     榎本 和平君
  木内 良明君     伏屋 修治君
  玉置 一弥君     滝沢 幸助君
四月十八日
 養護教諭の配置等に関する請願(日野市朗君紹
 介)(第三二六六号)
 同(横山利秋君紹介)(第三二六七号)
 私学の授業料助成の実現等に関する請願外三件
 (森井忠良君紹介)(第三二六八号)
 公立幼稚園の学級編制及び教職員定数の標準に
 関する法律制定に関する請願(日野市朗君紹介
 )(第三二六九号)
 同(松前仰君紹介)(第三二七〇号)
 同外二件(森井忠良君紹介)(第三二七一号)
 同外二件(横山利秋君紹介)(第三二七二号)
 中学校の租税教育推進に関する請願(春日一幸
 君紹介)(第三三八〇号)
同月十九日
 養護教諭の配置等に関する請願外二件(角屋堅
 次郎君紹介)(第三四四二号)
 公立幼稚園の学級編制及び教職員定数の標準に
 関する法律制定に関する請願外一件(角屋堅次
 郎君紹介)(第三四四三号)
 同外二件(嶋崎譲君紹介)(第三五七一号)
 身体障害児者に対する学校教育改善に関する請
 願(池端清一君紹介)(第三四七三号)
 同(梶山静六君紹介)(第三四七四号)
 同(渡辺美智雄君紹介)(第三四七五号)
は本委員会に付託された。
    ―――――――――――――
四月十九日
 義務教育国庫負担金制度維持に関する陳情書
 (第二八八号)
 義務教育教科書無償制度存続に関する陳情書
 (第二八九号)
 就学援助制度適用拡大に関する陳情書
 (第二九〇号)
 四十人学級の早期実現等教育諸条件の改善に関
 する陳情書外一件
 (第二九一号)
 宍粟郡の養護教員等配置に関する陳情書外二件
 (第二九二号)
 公立学校非木造建物耐力度測定方法の定式化促
 進に関する陳情書(
 第二九三号)
は本委員会に参考送付された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 参考人出頭要求に関する件
 国立学校設置法の一部を改正する法律案(内閣
 提出第一七号)
 学校教育法の一部を改正する法律案(佐藤誼君
 外二名提出、衆法第三号)
 学校教育法等の一部を改正する法律案(中西績
 介君外二名提出、衆法第四号)
 公立幼稚園の学級編制及び教職員定数の標準に
 関する法律案(中西績介君外二名提出、衆法第
 五号)
 公立の障害児教育諸学校の学級編制及び教職員
 定数の標準等に関する法律案(馬場昇君外二名
 提出、衆法第六号)
 著作権法の一部を改正する法律案(内閣提出第
 七四号)
 文教行政の基本施策に関する件
     ――――◇―――――
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阿部文男#1
○阿部委員長 これより会議を開きます。
 文教行政の基本施策に関する件について調査を進めます。
 質疑の申し出がおりますので、これを許します。佐藤誼君。
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佐藤誼#2
○佐藤(誼)委員 文部大臣の所信表明に対する質問の最後になるようでございますが、それでは早速質問に入らせていただきます。
 今日、教育改革は国民の大きな世論になっておりますし、また国政の重要な政策課題であることはひとしく認めているところだと思います。そこで、教育改革には、二十一世紀以降をも展望したやや長期的視点に立つものと、それから当面緊急の課題があるというふうに私は思うのですが、文部省として、緊急かつ重要な教育改革の課題は何であると考えていもか、まず文部大臣にお願いしたいと思います。
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松永光#3
○松永国務大臣 現在、学校教育の場でいろいろ指摘をされている問題は、非行の増加の問題、あるいはその中の一部になろうかと思いますが、いじめという問題、さらには高校あるいは大学における入試競争の過熱の問題、こういった事柄が学校教育のかかわりにおきましては速やかな対応を迫られておる問題ではなかろうかというふうに思っております。
 長期的な問題といたしましては、社会がこれから大きく変化していくということが確実に予測されておるわけでありまして、そういった変化に的確に対応しながら主体的に行動できる、そういう人材を養成していく。特に知育、徳育、体育という教育の分野におけるバランスのとれた教育活動がなされるようにしていくためにはいかにすべきかというのが長期的な課題ではなかろうかというふうに私は考えているわけでございます。
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佐藤誼#4
○佐藤(誼)委員 緊急、重要な課題ということで、非行、暴力、いじめ、加えて受験競争の過熱というようなことを挙げられましたが、私は、皆さんも大体そう思っていると思うんですね。
 これは御案内のとおりでありますが、昭和五十九年「少年非行等の概要」ということで、既に警察庁からその実態が出されております。
 これはいつの日付になっているかちょっとはっきりしませんが、私が見たのでは、「内外教育」の三月一日号付で見ておりますが、大体これを見ますと、非行、暴力的なものは大筋やや減少の傾向にある。しかし、今も出ましたけれども、盗みであるとかいじめであるとか、あるいは自殺もその中に入るかどうか、自殺であるとか、こういうものがどちらかというとふえている。しかし、依然として少年非行は予断を許さない、こういう形で出ておるわけですね。
 さらに、いみじくもきょうの新聞によりますと、これまた各社が取り上げているようでありますが、トップ記事で、「いじめ深刻七人自殺 全国で千九百二十人補導」ということで各社が報じておりますね。これは警察庁が十八日に発表した内容でありますけれども、極めて深刻な事態に達しているわけであります。特に、御承知のとおり自殺がふえてきている。ことしも小学校五年生の子供が自殺をいたしましたが、この発表によりますと、小学校四年の方が自殺をしているんですね。こういう憂慮すべき事態にありますし、またこういうことのもちろん反映でありますが、父兄の教育に関する調査、これはことしの二月二十三日、読売新聞の調査によりますと、現在の学校教育に対する父兄の不満が六〇%、大都市では七〇%。不満の理由、つまり裏を返せば、改革を必要とする事項のトップに非行、暴力等の問題、等というのは幅広いと思いますが、その問題が四七・六%、五〇%ですね。断トツであるわけです。やはり我々は、この非行、暴力に始まるところの今日の教育荒廃全体について、何としても朝野を挙げ各界が協力してこの問題を改革し、そして克服していかなければならぬというふうに考えるわけでありますが、その点について、重ねて大臣の見解をまず聞いておきたいと思うのです。
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松永光#5
○松永国務大臣 学校における非行、暴力は、先生御指摘のように、やや減少傾向が見られるようでありますけれども、しかし全体としての数字はまだ極めて高い数字になっておるわけでありまして、減少傾向が出てきたからということで安心しておってはいかぬというふうに思うわけでありまして、今まで同様あるいはそれより以上に、こうした学校現場における暴力の問題あるいは青少年の非行の問題、これは深刻に受けとめて真剣に対応していかなければならぬというふうに考えております。
 先ほど先生から、自殺の問題等が指摘をされましたけれども、これも昔は余りなかったことじゃなかろうか、こういうふうに思うわけでありますが、こうした非行、暴力あるいはいじめ、自殺の問題等は、これは学校教育だけで対応できる問題でもないわけでありまして、家庭における親の養育の仕方もかかわりがあるでしょう。あるいは家庭のいろいろな環境も関係があるでしょう。そしてまた、学校において教師の指導力、あるいは学校において教師全体が連絡をとり協力をしながらこの非行、暴力等々に対処していくということも大事なことであろうと思います。
 同時にまた、社会における青少年の健全育成を阻害するいろいろな状況も出てきておるわけでありまして、そういったものの解決策を図っていくことも極めて大事なことであると思うわけでありまして、さようなわけで、家庭、学校、社会それぞれの分野でそれぞれ携わる者たちが、先ほどから申し上げているような青少年の教育にかかわるいろいろな困った問題について、協力しながら解決策を図っていくということが今極めて大事なことであるというふうに私は考えておる次第でございます。
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佐藤誼#6
○佐藤(誼)委員 今の問題、もう少し突っ込んで質問し、私の見解も述べていきたいというふうに思います。
 そこで、まず、今の回答に引き続きまして、非行、暴力を初めとする今日の教育荒廃、これは今いみじくも文部大臣も対策ということで言われましたが、社会、学校、家庭、これらにまたがる複合的な原因によるものと私も思うのです。言うなれば、社会の経済至上主義であるか、あるいは社会のひずみ、非教育的な環境、さらに家庭における核家族化、共働き、家庭の甘え、さらに学校における受験競争の激化、テスト教育、管理強化、いろいろあると思うのです。私は、そういう複合的な要因によるものだとは思いますが、しかし、我々がこれから適切にその克服のために対応していく上で、これら諸要因、その中でも非行、暴力を初めとする教育荒廃の主たる原因あるいは構造的要因、これを何と考えておられるか、お聞きしたいと思います。
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松永光#7
○松永国務大臣 何が主たる原因かと特定することはなかなか難しい問題であると思いますが、先ほども申し上げましたとおり、家庭における親の養育のあり方、家族構成、それと学校における教師の指導力やあるいは教師が協力しながら、十分連絡をとりながら対応していくという問題、ここらが対応策としては特に大事ではなかろうかと私は考える次第でございます。
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佐藤誼#8
○佐藤(誼)委員 悪いけれども、とらえ方がちょっと甘いのではないか。その原因をきりもみのようにもっときちっと追求する必要があると私は思うのです。私から言わせると、いろいろな要因が複合していると思いますけれども、基本的に言えば、今日学歴社会を背景にした過熱した受験競争とテスト教育、そのえり分けの手段とされてきた偏差値教育にあると私は思うのです。つまり、偏差値による序列化と落ちこぼれ、それは不適応な子供の発生と差別に対する反発、こういうものを必然的に引き起こしていると私は思うのです。その中で主として差別に対する反発が非常に強いと思うのです。その結果生まれてくるのが、積極的な面で出てくるのが非行、暴力であり、いじめと言われる現象だろうと思うのです。内側に返ってくる、内側に人づていくという、これが言うなれば登校拒否であり、自殺であり、ある面から言えば高校の大量退学だと私は思うのです。このことはいみじくも、この前、警察庁に補導された大部分の子供、その中でも特に書類送検等をされた子供を見ますと、成績の序列ではほとんど下位なのですね。学校でいうならばお客様扱い、構ってくれない、そういう子供が異口同音に言っていることは、そういう学校の扱いに対するあるいは教師に対する不信と反発なのですね。ですから、いろいろな要因が複合していることはそのとおりなんですけれども、あえて主たる原因、構造的要因というならば、ここのところに原因を見出しながら、他に気を配りながらそこをぴしっと押さえていかなければならぬのではないかと私は思うのです。
 そこで、時間も制限されておりますので引き続いて申し上げますが、一九八四年四月の日本青年会議所「学校教育の現状と課題」というその中に、「学校教育の課題」とありまして、「教育理想の見直し」の中に次のことが書いてある。「学歴主義と受験教育体制が強まるとともに、画一的なつめ込み教育と、それに適応できない生徒の逸脱現象が深刻化している。」こういうふうに言っているのです。私は非常に適切だと思います。
 さらに一九八四年九月、関西経済連合会「教育改革への提言」の中の「五、知識偏重教育の是正」の中に、「戦後の日本は高度産業社会の建設を急ぐあまり、教育が知識偏重に走りすぎた。有名大学に入学することを唯一の目的とし、そのための激烈な競争は高校以下小学校教育にまで波及した。」以下云々と書いていますね。私はこれも当たっていると思う。特に「戦後の日本は高度産業社会の建設を急ぐあまりこというのは非常に適切な見方だと私は思うのです。
 続いて、一九八四年十一月「自由民主」。自由民主党の機関紙だと私は思うのですけれども、その中に次のように書いてある。
 「児童生徒の校内暴力、家庭内暴力や登校拒否の多発、少年の非行犯罪の年々の増加と若年化、悪質化の傾向等は、わが国の将来に暗影を投じており、憂慮に耐えない。その根源は、広くは学歴社会に根ざす受験本位の知育偏重、画一教育にあり、これについていけない落ちこぼれが将来に望みを失い、非行や犯罪に走るところにある。」こういうふうに書いてある。
 次に、ことしの二月四日、衆議院予算委員会において海部委員、つまり元文部大臣、この方が次のようなことを言っている。「問題を追求していくと、そこには偏差値教育とか入学試験の問題とか、いろいろ出てきました。」ずっとありまして、「社会において学歴偏重社会、いいところへ就職するためにこの学校へ集中するんだという風潮がなくならないと病理現象の解決ができませんので、まず第一は、ここのところへ手をつけて解決をしていかなければならぬ。」
 私は今ずっと引用いたしましたけれども、それぞれ立場や考え方は違っても非常に共通している。私もこの見方に大筋は賛成なのです。このことを文部省が果たしてどの程度とらえているのか。先ほどの大臣の答弁では、非常に広くはとらえているけれども核心に触れていない感じがしてならない。
 そこで、私は、では文部省がどういうとらえ方をしているのだろうかということを若干文献で見てまいりましたが、なかなかそれらしいものが見当たらないのです。ごく最近のものでは、昨年の七月「校内暴力の実態と文部省の施策について」その「はじめに」というところに、「校内暴力等の問題行動の背景には、家庭の在り方をはじめ、物質中心主義の社会的風潮、急激な社会環境の変化、学校における指導の在り方など種々の要因が複雑に絡み合っている。」こういう表現になっているのです。私は、これでは平板的であり、並列的であり、核心に触れてないという感じがしてならないのです。
 この間、昭和六十年一月二十三日に「我が国の初等中等教育」というのを文部省が出しましたね。この中の「三、知・徳・体調和のとれた人間形成の重視」その「自今後の課題」の中に次のような指摘がしてあります。「また、過熱した受験競争の中で知識のつめ込み教育重視の風潮が児童生徒の人間形成に悪影響を及ぼしているとの指摘も強い。」となっている。「指摘も強い。」という表現になっている。自分たちがそう思うとは書いてない。こういう文部省のとらえ方なんですね。
 先ほど大臣も言われましたけれども、緊急の課題はまさに今の教育の荒廃の克服であり、父母や国民の期待にこたえるという点からいうと、その施策のこれからの道筋としてはその原因のとらえ方が非常に総花的であり、あえて言うならば皮相的ではないかと思うわけでございます。したがって、その辺のことについて、私はあえて今言いましたけれども、どうお考えですか。
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松永光#9
○松永国務大臣 青少年の非行の増加あるいは落ちこぼれ、いじめ、こういう極めて憂慮すべき事態の原因でございますが、先ほど来申し上げておりますように、いろいろな原因が複合してそうなっていると思うわけであります。
 今先生は、過熱した受験競争そして学歴社会、それに非常に大きなウエートを置いて御発言をなさったわけでありますが、私も、過熱した受験競争そして学歴社会の弊風、これも極めて大きな要因であると思いますけれども、だからといって、受験競争が過熱しているから過熱した受験競争がなくならない限り非行、落ちこぼれ、いじめはなくならないというふうには私は考えないわけであります。あるいは学歴社会があるから非行に走るのもやむを得ないという考え方には私は立ちたくないわけであります。やはり受験競争にしろ学歴社会にしろ実は昔もあったわけであります。高等学校の入学競争、ある意味では昔の方が競争は激しかったと思います。あるいは大学の受験競争、昔もまた激しかったと思います。したがって、それだけに責任を転嫁することは私はいかがなものかなというふうに思うわけでありまして、先ほど申したとおり、家庭における養育のあり方あるいは家庭環境、そして今申し上げたような学校の場においては受験競争の問題があり、そして社会の問題としては学歴社会の問題がある。いずれもそれぞれに問題があるわけでありまして、それぞれを解決していくことが大事なことであって、受験競争、学歴社会にだけ問題を持っていくのは、私はちょっと、ほかの分野の責任というものがなくなって、転嫁されるおそれがあると思いますので、やはり先ほど来申し上げましたとおり、家庭、学校、社会それぞれに原因がある、それぞれが責任を持って問題解決に当たらなければならぬと思っておるわけであります。
 そういうことから、受験競争の問題にいたしましては、前々からこの委員会でも御議論なされておりますように、高等学校の入学試験のあり方について改善されるように、文部省としては都道府県教育委員会に通知を出し、そして改善措置をお願いする。その中身は、公立高校についての受験機会の複数化、あるいは偏差値偏重による選考をやめてもらいたい、それからまた進路指導に当たる先生に対しましては、生徒の適性、能力あるいは意欲等々を総合的に判断して適切な指導をするように、こういった幾つかの改善措置をしてくれるように指導して、受験競争の過熱化に対応しようとしているわけであります。同時に、大学の受験の過熱の問題にいたしましては、国大協あるいは臨教審でその改善策が今検討されておる、こういうことでございます。学歴社会というのは、これは社会の対応との関係もございますので文部省だけでは対応できない点もあるわけでありますが、やはりこれは学校側も、それから社会、企業の側も、学歴じゃなくして学力、あるいは生涯を通じての学習というようなことで、公正な立場でそれぞれが生きていけるような状態をつくり出すことが大事なことであろうというふうに思っておるわけであります。
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佐藤誼#10
○佐藤(誼)委員 私も、この学歴社会を背景にした受験競争、それに伴うもろもろのものだけが原因だなんて言ってないわけです。いろいろなものが複合しているということを前提にしながら、その中であえて主たる原因、構造的なものまで突っ込んでいくとそれが浮かび上がってくる、こうい意味合いで、改革についてはそこだけに焦点を当てればすべて解決するとも言っていないのです。私はやはりとらえ方、そこを軸にしたとらえ方をしないと改革の具体的な方策は浮かんでこないのではないか、文部省はどう考えておるかなかなかよくわかりませんけれども。ただ、先ほど私は幾つか引用いたしましたけれども、私が知り得る限りの、党派、立場を超えても、その主たる要因、構造的原因というのはほとんどそこに見出せるという点、これは文部省、ぜひ理解をしておいていただきたいと思います。
 今、昔も受験競争があった、今もあるという言い方をしますが、確かにそれはそうだと思う。長くは言いませんけれども、私たちもそういう網をくぐってきました。しかし、昔の受験というのは、確かに厳しかったけれども一種のロマンがあったと私は思う、厳しい中にも。しかし、今の受験競争、受験体制はまさに灰色だと思うのですね。行き詰まりだと思う。人間的な壁としてぶつかっている。こういうところに基本的な問題があると私は思いますから、その点はあえて文部大臣に答弁を求めても意見の違いが浮き彫りにされるだけでしょうからそこはあえて言いませんけれども。
 そこで、問題は、学校の実態がどうなっているのか、子供が今の受験体制なり過熱なる受験競争なり偏差値教育、テスト教育をどう考えているか、このことを私はちょっと引用しておきたいと思うのです。
 既にいろいろ知っておられることでありますが、次の詩です。つまり、高校入試を間近に控えた中学三年生の詩です。
   ぼくの見た夢
 大きな商店の店先に ぼくは並べられていた
 ぼくも、ぼくのまわりの商品もみんな値段がつけられている
 それは偏差値である お客は数値の高いものから買っていく。
 ぼくは売れ残ってなかなか売れない「お客」という意味は高等学校だろうと思うのですがね。
 これは非常に意味深い詩だと思うのですね。この中学校の生徒の詩。つまり、テスト結果による偏差値でレッテルが張られ、序列化していく。そして、偏差値で冷酷に進学校が定められていく。つまり輪切り進学です。その姿が如実に浮き彫りにされていると私は思います。つまり、今日の受験体制に組み込まれた学校教育の実情と、そこから抜け出すことのできない子供たちのやるせない心情、静かなる怒り、これがこの詩の中に入っていると思う。私は心して読まなきゃならぬ詩だと思うのです。教育改革の出発点はここにも一つのベースを置かなきゃいかぬのじゃないかと思うのです。
 次に、これも予算委員会で読まれている詩ですけれども、小学校四年生の詩。この子供は五年のときに自殺をいたしましたね。
   テスト戦争
 紙がくばられた
 みんな、シーンとなった
 テスト戦争の始まりだ、
 ミサイルのかわりにえん筆を持ち
 機関じゅうのかわりにケシゴムを持つ
 そして目の前のテストを敵として戦う
 自分の苦労と努力を その中にきざみこむのだ
 テストが終わると戦争も終わる
 テストに勝てはよろこび
 負ければきずのかわりに不安になる
 テスト戦争は 人生をかえる、
 苦しい戦争この詩は、今言ったように小学校四年のときにつくった詩でありますけれども、五年のときに自殺をしている、御承知の二月十六日に自殺した横浜市金沢区並木第三小学校五年生杉本治君の詩ですね。この子供は、自殺をする前日つまり二月の十五日に親友に、学校が破壊すれば勉強しなくてもいいし先生も楽になる、こういうことを言った。このことでもってこの子供は担任の先生の注意と指導を受けた。それからずっといきまして、翌日に自殺をしているのですね、この子は。確かに、新聞の報道等によりますと、この子供は特異な性格を持った子供でなかったかとか、担任の指導のあり方等についていろいろ言われております。しかし、私は、この詩の中にも、今日学校の教育の中でテスト教育、偏差値教育、これがいかに子供に過重になっているか、そして子供の心をむしばみ、非人間的な扱いの矛盾、これを引き起こしているか、私はこのことを察するに余りあると思うのです。
 今、文部大臣は、戦前の受験競争、そしてまた現在も同じような受験競争があると言う。確かに見た目は同じです。しかし、中身の深刻さはかなり違う。このことをとらえておかないと、本当に父母あるいは国民にこたえる教育改革は果たして進むのかどうか、このことを私は非常に憂うる者の一人なんです。そういう点で今あえてこのことについて申し上げました。先ほどから大臣の答弁を聞いていますから、端的にこの詩に対してどうですか。この詩に対しての所感を……。
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松永光#11
○松永国務大臣 いわゆる受験競争のもたらす弊害というものが小学生あるいは中学生に相当の影響を与えている。この詩を書いた人たちは特異な、何というか非常に敏感に受けとめる、そういう人のように思われますけれども、受験競争の激しさが子供の健全な育成に大きな影響を及ぼしていると私は考えております。
 ただ、私も子供を育てたことがある、私も受験競争をくぐり抜けてきた人間の一人でありますけれども、率直に言って、昔は旧制中学校の合格率は六〇%ですね。今は高等学校の入学率は九九%、高等学校に進みたいという人のほとんどすべてが高等学校には行っておるわけですよね。そこで、何が問題かというと、希望する高等学校に行けないという問題があろうかと思います。特に佐藤先生の場合には東北大学にあの当時御入学というのは相当な厳しい競争を生き抜いてこられたわけであります。したがって、大事なことは二つあります。
 一つは、努力しなければならぬということはやはり高校生にも教える必要があると思います。先輩たちはみんな努力して自分の希望する大学に入られた、その問題が一つあるわけであります。問題は、努力の仕方なのでありまして、そこに入学試験の選抜の仕方につきまして合理的になるような改善措置がなされなければならぬというふうに私は思うわけであります。
 また、中学生の関係で言えば、先ほども申し上げたとおり、公立高校の入学試験を受ける機会が一回しかないということがありますので、中学浪人を出すわけにいかぬ、中学浪人になるわけにはいかぬから、そこでいわゆる偏差値による進路指導がなされる。もしこれが複数化されれば、先ほど先生の御指摘がありますように、ここに挑戦してみるかということで一つのロマンも生まれてくるだろう。努力した結果、偏差値は必ずしもよくなかったけれども、合格した。そこにチャレンジするということでそれが成功するという例もありましょう。しかし二度目はやはり安全をかけて、行けそうなところに行く、しかしこれは自分がチャレンジした結果でありますから認めざるを得ない、こうなるわけでありまして、制度、仕組みの改善は思い切ってやっていかなければなりませんけれども、やはり受験というのは、着実に努力しなければ自分の希望は達成されない、このことだけは子供にもわかってもらう必要がある。努力をしないで自分の希望がかなえられるというふうに思い込ませるということは、子供の健全な育成上もそういいことじゃないような感じを私は持っておるわけであります。
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佐藤誼#12
○佐藤(誼)委員 子供に努力の必要とか、親の言葉で言えば先憂後楽ということでしょうが、そういう観点で、子供にはよい大学、一流企業ということで、子供のしりをたたいているのが現実の姿ですね。そういう状況の中で子供が大変苦労していることをよく考えてみなければならぬのではないかということだけを申し上げたいと思うのです。
 そこで、私はちょっと質問の角度を変えますが、今私が述べたような教育荒廃、文部大臣も教育荒廃ということについては共通の認識のようでありますけれども、今日の教育荒廃をもたらした責任の一端は、文部省の今日までの教育行政にもあったと私は思うのです。その点、文部省はどう考えておりますか。
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高石邦男#13
○高石政府委員 戦後、文部省は、小中高等学校の教育につきましては、一人一人の子供の適性を伸ばすということでいろいろな政策を展開してきたわけでございます。しかし、その政策が必ずしもこれで磐石、万全であるということが言えないというのが現実だと思います。したがいまして、そういう事象に対して常に対応していくという姿勢でやっているわけでございます。
 御指摘がございますように、高等学校につきましても受験競争が現在非常に激化しているし、いろいろ問題があるということで、四十一年に入試のあり方の検討をし、その後の経緯を見て、昨年は入試改善についての抜本的な対応を講ずるというようなこともやってまいったわけでございます。
 一方、教職員の質、研修、そういう点で十分な対応をしていかなければならないということで、教職員の質を高めるためのいろいろな施策も展開してきたわけでございます。また、教育内容、教科につきましても、時代の進展に対応して教育内容を改定していく、詰め込み主義だと言われていたものをできるだけ簡素化し、基礎、基本の教育内容に改める等のことをやってきているわけでございまして、文部省のやってきたことが現実の教育をゆがめるというふうに指摘をされる方もございますけれども、文部省は、少なくともそういう現実の問題について、それを解消し解決するための対応を懸命になって努力してきたつもりでございますが、現実にはなお不十分な点があるということは認識しているわけでございます。
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佐藤誼#14
○佐藤(誼)委員 何事も一〇〇%というのはありませんから、そういう意味ですべてよかったとは思わない。しかし、文部省もそれなりの努力をしてきているのですという趣旨のことなんですが、私はもう少しこの内容について突っ込んだ見方なり反省が欲しいと思うのです。
 御承知のとおり、文部省が「我が国の初等中等教育」というのを一月二十三日に発表いたしましたね。これに対して、今臨教審の委員になっている香山健一氏は、「文部省改革の必要性に関する考察」というのを出しております。私はこれをすべて是とするものでありませんけれども、この中に、先ほど申し上げたような文部省の「我が国の初等中等教育」の報告書ですか、これを中心にして見解を出しております。言うなれば、文部省は、やってきたことに対する何ら基本的な反省がないのじゃないか、何が是で何が非であるのか、この辺のところのめり張りがさっぱりないじゃないか、これでは教育改革を主張するゆえんがどこから出てくるのですかというような趣旨のことが盛られておりますね。私はこれをすべて賛成というわけにはいきませんけれども、それなりの見方をしている方がかなりいると思うのです、文部省の文部行政に対して。このことはやはり深く反省してみる必要があると私は思うのです。何もこれは文教行政だけじゃありませんよ。それぞれ教育に携わった者がこの辺で戦後の教育について、自分はいかなる弊害に対する加担者であったのか、その総括と反省をみんなしなければならぬと私は思うのです。そういう観点から言うと、文部省の総括というか反省、突っ込んだ見方といいますか、私は不十分のような気がしてなりません。
 そこで、若干長くなりますけれども、以下私の見解なり考え方を述べまして、それに対して文部省としての所見なり見解を後でお聞きいたします。
 今日の教育荒廃、病理現象と言われるものが、有名高校、有名大学、一流企業就職エリート社員、そして出世と生活安定、つまり学歴社会を背景に父母の期待を背にした過激な受験競争、詰め込み教育、テスト教育、偏差値教育がもたらしたひずみ、ゆがみというのが非常に重要な要因だと私は見るのです。先ほど言ったことの繰り返しのようなことでありますけれどもね。
 そこで、今これに対する文部省の反省の答弁をいただきましたが、私はすべて文部省が悪いとは言っておりませんよ。今日のこういう受験競争を初めとする教育荒廃を加速させていった一つの責任は、文部省の教育行政にもあったと私は思うのです。つまり戦後の教育の出発点は何であったか。それは、私から言えば、戦前の教育が国民教化の教育、すなわち富国強兵、戦争遂行という国家目的の手段とされてきた。その点を反省し、教育基本法に示されているように、教育が他の目的の手段ではなく、人間形成それ自体が目的であるということから出発したのが戦後の教育基本法の体制であったと私は思うのです。これは私は忘れてはならないと思うのですね。しかし、その後の文部行政の中では、私はそれが大きくゆがめられていったと思うのです。これはもちろん文部省のひとり歩きではございません。文部省は政府の一行政機関であり、それは政党政治のもとで行われたことは否定しがたいことはもちろんです。
 ゆがめられていった第一は、教育が、高度経済成長政策、昭和三十五年ごろからだったと思いますが、それとともに経済発展の手段とされ、人格の完成よりは知育偏重のための人材開発に主眼が置かれてきた。そしてそのことに文部省は大きく加担してきたのではないか。
 いま一つは、教育の自由と創造よりは、教育の国家統制と教育現場の管理強化を強め、教育現場における教師集団としての連帯性と活力を失わせ、子供の全面発達を願う教師の自由と創造の芽を摘み取ってきたのではないか。つまり、これは今日の受験体制の強化と相まって、遊びを知らない子供、学ぶことの楽しさを知らない子供にしてしまったのではないか。それが今日、テスト人間、偏差値人間と言われるおもしろくもおかしくもない子供がたくさん出、刺激がなければ反応しない無気力人間を多数つくることになってしまったのではないか。これは、いみじくもこのごろの各会社の採用試験等の中にそういう反省が随分出ていることは御承知のとおりです。
 そこで、私は、先ほどから述べてきた経済成長政策の中で文教政策がどのような歩みを続けてきたか、この際若干触れてみたいと思います。
 一九六〇年、昭和三十五年十二月、池田内閣の時代、所得倍増計画、つまり経済成長政策が閣議で決定をいたしました。それと関連して長期教育計画が経済審議会から発表されました。その計画によれば、教育が経済成長を進める立場からその任務が位置づけられ、教育は経済成長に必要な人的能力を開発し向上させることだ、つまり人間の全面発達よりは知育偏重の教育が強調されたということです。このことは、今日のよく言われる知育偏重のテストと教育、その選別のための偏差値教育をその後大きく促進していったことに無関係ではないと私は思うのです。その意味で、今日のよく言われる知育偏重の教育が必ずしも偶然に生まれたものではないと私は思います。今申し上げたことと深くかかわり合っているというふうに私は見るのです。
 以後、文部省は、経済成長のための人的能力の開発と向上の立場で教育政策を進めてきたと思います。その具体的報告書が一九六二年十一月「日本の成長と教育」という教育白書の中にあらわれてきております。その内容は、端的に言えば教育投資論です。どれだけの投資をしたらどれだけの人間能力が開発、向上され、つまり人材が開発され、経済成長に役立つかという、いわゆるエコノミスト的な観点に立つ白書であったことは御案内のとおりであります。
 さらに、一九六三年一月、人的能力の開発、よく言われるマンパワーポリシーが経済審議会から発表され、一九六六年十月には、それを受けた形で後期中等教育の拡充と整備というのが中央教育審議会から答申をされ、そして、それに基づいて経済成長に役立つ人的能力の開発が文部省の教育行政の中で進められていったことは、紛れもない歴史的な事実だと私は思うのです。
 その点、私は、先ほどから問題になっておる学歴社会と受験競争の激化という立場から若干触れてみたいと思います。つまり、文部省の人的能力開発政策によって、経済発展に役立つ能力、すなわち知的能力を持った者が社会的評価を受けるようになるのは当然です。やがてそのことは、知的能力を持つ者がペーパーテストで選別され、よりよい大学、つまり有名大学に進学するようになる。そして有名大学を出た者は、エリートとして一流会社に就職し、よりよい社会的地位を獲得するという、いわゆる学歴社会の風潮を促進していったと考えられると思います。言うなれば、学歴社会の定義にもよるでしょうけれども、私は、学歴社会は、よりよい学校歴を得た者がよりよい社会的地位につく可能性のある社会というふうに私は思いますから、そういう意味では、今のマンパワーポリシーの政策は、学歴社会の風潮を促進していったと考えざるを得ないわけです。一方そのことは、学歴社会を背景に、知育偏重の受験競争の激化を招き、そのえり分けのすぐれた方法として偏差値が導入され、今日のいわゆる輪切り進学を生むということにつながってきたというふうに私は思います。
 ただ、その場合、戦前には偏差値という考え方はなかった、もちろんかぎ括弧つきですが。偏差値教育という言葉もなかった。私は、偏差値教育が全国レベルで普及するためには少なくとも二つの条件が社会的に必要であったと思うのです。その一つは、統計処理の母集団をより広く求めることができるということです。すなわち、受験産業の資本が巨大化し、全国規模の模擬テストの実施が可能であるということ。いま一つは、コンピューターの導入で統計処理が迅速かつ正確にできるということであります。この学校の序列化、偏差値教育、輪切り進学に今大きく寄与してきているのが大学の共通一次だと私は思うのです。そういう意味で、つまりそれが今共通一次が教育改革の重要な課題になってきているのだというふうに思うのですね。
 最後に、私は、かつて一九七〇年日本を訪れたOECDの教育調査団の報告書の中で、日本の教育はすべて経済という機関車に連結されていると述べています。そして、すぐに役立つ教育はやがて役に立たなくなると指摘しているのです。日本の今日の学歴社会を背景にした受験競争と偏差値教育、そのことが引き起こした教育のひずみ、ゆがみと教育荒廃、これは、日本の教育が経済発展や経済界の要求に左右され、極論するならばその手段とされ、かつ、経済界の要求を代弁してきた政府及び文部省の教育行政が、その加担者としてその一翼を担ってきた、そういう意味で、私は責任追及するなどという考えは毛頭ありませんけれども、今教育改革が大きな国民世論になっている折から、この点をもう一度振り返って総括し、反省すべき点は反省すべきだと私は思うのです。ただ単にこれは教育行政だけを責めているわけじゃありません。教育はすべての、それぞれの分野で協力し合って成り立っているわけですから、私は、文部行政があるいは文部省が、総括、反省すると同時に、それぞれの教育に当たった所掌の皆さんが、戦後の教育をもう一度振り返って反省し、総括する必要があるという観点であえて申し上げているわけであります。
 そこで、私は、以上述べたようなことから見ますと、文部省の考え方にはどうしても歴史的な視点が欠け、かつ、その加担者と言うと厳しいのですけれども、その一翼の責任があったという、そういう反省が欠けているのではないかということを言わざるを得ません。したがって、今後教育改革は、単なる小手先の制度いじりではなく、その根源ともいうべき歴史的、社会的背景にまでメスを入れる必要があると思うし、そして、教育は何かという本質に迫るとともに、教育改革に哲学がなければならないというふうに私は思います。
 そういう意味で、いろいろ長く述べましたけれども、私はそういう考え方を持っております。それに対して文部大臣並びに文部省はどのような所感と感想を持たれるか、ありましたらお聞きしたいと思います。
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松永光#15
○松永国務大臣 先生のいろいろな観点からする戦後教育の分析につきましては、一つの御意見として参考にさせていただきたいと思いますが、経済成長、所得倍増に文部省が加担したとかなんとかというふうな見方ではなくして、むしろ文部省は経済成長あるいは所得倍増を活用して教育の量的拡大を図ってきたというふうに私は見るわけであります。
 それは、先生も御承知のとおり昭和三十年、高等学校進学率は五〇%でございました。高度経済成長の成果を活用して高等学校の量的拡大を大いに図ってきたわけでありまして、その結果が今日九四%の高等学校進学率というふうになってきたわけでありますが、それは教育の機会均等を実現したということにもなるわけでありまして、それなりに評価をしなければならぬというふうに私は思うわけであります。
 ただ、反省すべき点は、量的拡大を目指す余り、多様な高等学校、それぞれの子供に適した高等学校教育を与えるようなところまでまだいってなかったというふうに思うわけでありまして、これから多様な高等学校をつくり、あるいは子供の個性あるいは能力等々に応じた高等学校の教育がなされるような改善措置が必要ではないかというふうに考えるわけであります。
 人的能力の開発という視点でございますけれども、いつの時代にも人的能力の開発は必要なことであると思うわけでありまして、教育基本法に言う「人格の完成」というのは、その人の持っておるいろいろな能力を発展させていくということが人格の完成の意味でもあると思うのでありまして、その意味では人的能力の開発はいつの時代でも大切なことだというふうに思います。
 特に、我が国は科学技術その他の面でも相当発展を遂げてきたわけでありますけれども、今まではややともすれば模倣型であったと言われているわけでありまして、ほかの国の優秀な人材が開発をした科学技術等を利用してそれに改善を加えたような形でしかないじゃないか、世界人類に貢献するような発明、発見あるいは科学技術の進歩というものが日本の人でできるような人材を育成する、あるいは人的能力の開発を図ってそういう分野で世界に貢献するということも大事なことであろう、そういったことをしなければ、世界の人たちから尊敬される国家、国民にはなれないのじゃないかというふうに思うわけでありまして、その面でも力を入れていかなければならぬというふうに思うわけであります。
 経済成長というのは、国の経済を繁栄させ拡大させることによって、国民は充実した経済生活を営むことができ、また幸福をつかむこともできるわけでありまして、経済の発展というものを否定するわけにはいかぬわけであります。また、そうした経済の発展は、その国の国民、なかんずく青年がそれなりの能力を持ち、また高い教育を受けるその人たちが経済の発展を支えるわけでありまして、そしてその結果は、国民の経済の充実ということでみんなの幸せにつながっていくものだというふうに私は考えておるわけであります。
 それから、有名大学云々の問題でありますが、私は、ある意味では昔よりも大分改善されてきた。有名大学といえば日本の場合には東京大学であるわけでありますが、最近では、ある意味では東京大学の地位は低下してきたというふうに私は見ております。いろいろな分野でその現象は出ておるわけでありまして、例えば司法試験等を見ますと、東京大学卒業者の合格率は三分の一を切っておりまして、その他の大学が三分の二以上を占めておる、早稲田大学、中央大学等々、他の大学が東京大学の地位にとってかわっているという面も実はあるわけであります。また、有名企業等が採用する場合にも、東大だから云々という状況は大分なくなってきたようでありまして、むしろ、ある意味では、東大卒業者の弱点、欠点が指摘されている状況になってきておるわけでありまして、むしろそれ以外の大学出の方が重要視されるという状況も出てきておるわけであります。ことしのいわゆる上級職合格者の中から文部省へ採用された人の中には東大法学部出身者は一人もいないということなども、学歴主義が相当改善されてきた結果ではないかというふうに私は思うわけでありまして、いろいろな大学から文部省に将来の幹部候補生として採用されているという現象も出てきております。恐らくこういうことは十年、十五年前には考えられなかったことではないかというふうにも思うわけでありまして、大変いい傾向であるというふうに私は思っておるわけでありますが、将来ともいろいろな改善措置を常に図っていかなければならぬ。そしてまた、今までの文部省の教育行政については常に反省を加え、よりよいものを志向していくことが私どもの務めであるというふうに考えておるわけでございます。
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佐藤誼#16
○佐藤(誼)委員 経済成長政策がすべて悪かったとか、経済成長がすべての悪の根源だとか、そういうことを言っているわけじゃないのです。確かに経済成長が日本の繁栄をもたらしたし、またそれは、暮らしの豊かさをもたらすことによって進学率を高めていったし、そういう意味では、量的な拡大ということとともに教育の水準なり教育の機会均等というものが高まっていったことは統計的に明らかであるわけです。私はこのことを否定するわけじゃないのです。
 ただしかし、そのことの余り、量の面と質の面、この両面を考えたときに、確かに量の面ではそうなってきたと思うのです。しかし、質の面をとらえますと、先ほど文部大臣は人格の完成ということを言われました。そのとおりです。私は、端的に言えば、この人格の完成という丸みを帯びた教育目標がだんだんかすんでいったのではないか。今大臣が言われる人格の完成という中身は多面的な能力も含まれている。確かにそのとおりです。例えば知・徳・体。経済成長を急ぐ余り、教育の果たすべき役割、任務を、人格の完成の多面的な中の一つである知的能力だけをえりすぐってそこだけを開発、向上させようとした、そういう偏った政策というものが、ずっと今日の高学歴社会の志向をもたらしたり、あるいはそれを達成するための過熱な受験競争を引き起こしたりという、そういうひずみ、ゆがみを生んでくる重要な要因をなしたのではないか、そのことを我々はきちっと歴史的な評価としてしておく必要があるのではないか、このことを指摘しているのであって、その点、私は、やや言葉も選びながら私の見解を述べているつもりでございますので、十分その点は文部省もきちっと理解をしておいてもらいたいと思います。
 そこで、今いろいろ話した中で学歴社会の話が大臣からも出ました。今まで私が述べてきたいろいろな教育のひずみ、ゆがみの大きな背景になっているのは、日本型の学歴社会ということです。このことについては今臨教審の中の第二部会等でも議論されております。いずれこの辺の問題もまた議論しなければならぬと思いますが、その中で、これは新聞の報道の限りでありますけれども、我が国は必ずしも学歴偏重しているとは認められない、しかし国民の意識の中には高学歴志向が残っているというふうな述べ方をしておりますね。これはどういうまとめになって答申になってくるかわかりません。私は、この点、学歴社会の問題は大学の格差とか受験競争とか今日の偏差値教育に深くかかわっている問題でありまして、このことは十分掘り下げなければならぬと思うのです。このことが、今第二部会で言われるような今日の学歴社会が単に国民の意識の問題だと片づけられるのかどうか、私はもう少し実態に照らして精査してみる必要があると思うのです。実態と変化の方向というものを明らかにしておかなければならぬのではないかと思うのです。
 例えば、私はいろいろな資料を見てまいりましたが、就職に当たって一流有名大学を重視するというような考え方を持つ企業は、従業員が五千人以上の場合には七九・六%あるというのですね。これは一九八四年四月のリクルート調査です。しかも、大企業の八〇%近くが就職に当たっていわゆる一流有名大学を重視すると言っているのです。それから新重役の出身校、これは東京証券一部、二部上場の調べでありまして、これは一九八一年の週刊ダイヤモンドですから随分古いのでありますが、国立大学、私立大学有名校が圧倒的に多い。これははっきり数字が出ている。それから学歴と所得、縮まってきたとは言いますけれども、一九八三年の労働省の調査によれば、年齢五十五歳から五十九歳の間をとってみますと、高校卒を一〇〇にしたときに大卒は一六九になっておる。これは統計的数字を見た限りで、学歴あるいは学校歴と就職の有利さ、昇進、所得は関係があるということをこの数字は示していると私は思うのです。そしてまた、親が子供を大学にやりたいというのが五二%あり、しかも、本人任せという二七%を入れますと、約八〇%が大学にやりたい。本人がその気になったらやりたいというような趣旨を含めますと非常に高いのですね。ただ、変わりつつあるというのは、御承知のとおり、企業の採用に当たって指定校制度が少なくなったということや、あるいは企業内での昇進、昇格、これを実力主義または企業の実績主義に基づくという、余り学校歴を重視しないという企業が非常に多くなってきた。これは好ましい傾向だと思うのです、これが八〇%近くありますから。ただ、ごく最近は情報化社会に向けてまじめ人間よりは個性と創造にあふれた人物が必要だ、こういう会社が多くなりつつありますから、私はこの学歴社会が固定したものでないということはわかりますけれども、先ほど言った高学歴者が一流企業に行き、やがて社会的地位を受ける、こういう実態は依然として強く存在しているということですね。そして、それにもまして高学歴志向が国民の中に根強くある、この事実はやはりきちっと押さえておく必要があるのではないかということを、この際、学歴社会の問題が出ましたから、私の調べた限りのことをここで申し上げておきたいと思います。
 なお、教育荒廃を初めとする今後の教育改革のあり方については、文教常任委員会の討議すべき大きな課題でありますから、いずれまたこの点については私も行いたいと思いますが、時間の関係もありますから先に進ませていただきます。
 次は、臨教審に関する若干の質問をし、お答えをいただきたいと思うのです。
 そこで、まず文部省の方にお尋ねいたしますが、端的に聞きます。
 第一点は、今まで申し上げているような、現在、学歴社会を背景にした学校格差、受験競争の激化、テスト教育等が問題にされています。そのときに、学校設立の自由、私に言わせれば学校あるいは教育の供給の自由、次に学区制の廃止、つまり学校選択の自由ということだと思います。それに複線型エリート校と見られる六年制中等学校が誕生したならば、今のような日本の教育の現状の中でこれからの日本の教育がどうなると思いますか。質問の趣旨はおわかりですか。
 二番の質問です。文部省は、臨教審の答申のいかんにかかわらず、教育基本法を変える意思はないというふうに確認してよいと思うかどうか。また、もし臨教審の答申が教育基本法の精神に反するものであれば、それは採択しないのだと理解してよいか。
 以上、二点です。
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西
西崎清久#17
○西崎政府委員 ただいま佐藤先生の御質問の第一点でございますが、学校の設置の自由、それから学校選択の自由と申しますか学区制の問題、それから六年制高等学校と申しますか中高一貫の問題、このような事柄が今後の教育において実施される場合にどういうふうに考えるか、こんな点であったかと思うわけでございます。
 まず、学校の設置の関係でございますが、学制の問題としては、義務教育の問題あるいは義務教育以上の高等学校、大学の問題については基本法、学校教育法の規定があるところでございます。学校の設置者が自由に学制を決める、学校の内容なり制度なりを決めるということは基本法体系からいって、これは問題でございます。基本的な義務教育の区切りの問題等は基本法に明定されておるわけでございまして、基本法に明定されている以外の区切りの問題についてはまだ立法によって許されるというふうに考えるわけでございます。
 それから、学校の学区制でございますが、この問題は、保護者に義務教育を受けさせる義務を負わせ、設置者に学校設置の義務を課しておるわけでございます。普通教育として市町村に対して小中学校の設置義務を課しておるわけでございますから、児童生徒の父兄に学校の選択の自由を全面的に認めるということにつきましては、義務教育の制度の趣旨からいって極めて困難でございます。したがいまして、現在における学区制の問題につきましては、若干の身体的事由その他の調整の余地があるわけでございますが、その辺の運用の問題としては考えられることではないかというふうに考えるわけでございます。
 それから、六年制の問題につきましては、義務教育は九年とするとし、その中学校につきましての三年が義務教育になっておるわけでございますが、六年制の区切りの問題については必ずしも基本法の問題としてはとらえられませんで、今後の立法の問題でございますので、この点については、考え方として六年制の高等学校、中学校をくっつける問題は今後の検討課題として考えられるところでございます。
 それから、先生の御質問の第二点でございますが、教育基本法の精神にのっとり臨時教育審議会は審議を行うということでございますので、期待されておるわけでございますので、自由濶達な御議論は別といたしまして、私ども行政庁の立場といたしましては、臨時教育審議会でお出しになる答申は基本法の精神にのっとって審議された結果が答申される、したがって基本法に抵触するような答申ではないということを期待しておるわけでございまして、現時点では基本法の問題でその改正等を必要とする答申が出るかどうかという仮定の問題については考えていない、こういうふうな現状でございます。
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佐藤誼#18
○佐藤(誼)委員 私が質問した趣旨とちょっと答弁が違っているというか、とらえ方が違っているのです。私は今の項目についてどう思うかということを言ったのじゃなくて、今のこういう荒廃した高学歴社会を背景にした場合に、簡単に言えば今のような自由化にしていった場合、しかもエリート、六年制の複線型として出ていった場合に、これからの教育がどうなっていくだろうか、そういう政策的な意味で質問したわけでありますけれども、それ相応の答えが得られなかったのは非常に残念ですが、時間がありませんから、この問題はいずれまたやりたいと思います。
 ただ、私はちょっとその点について見解を述べておきますが、香山氏を初めとする自由化論の皆さんは、今日の教育の病根が画一性なりあるいはまた閉鎖性、非国際性ということと指摘されております。これは私はそれなりに理解できる点があります。そしてまた、香山氏に言わせれば、教育の荒廃の非常に大きな要因は画一性にある、こういう言い方をしておりますね。これは私は一面うなずける点がありますけれども、これでは不十分だと思います、学歴社会というファクターが必要だと思いますから。
 そこで、ただ、香山氏が自由化ということで、かつてアメリカの教育使節団が日本に来たときに、教育は教師の自由から出発しなければならぬという、このことを引用されております。この点については私は非常に高く評価し、賛意を表します。時間がありませんから引用はいたしません。ただ、そういう状況の中で、この「自由化」、これはかぎ括弧で、どういうことを本当に言われているのかまだわかりませんけれども、少なくとも我々が新聞その他で見聞きしている範囲内においては、その流れとしては、例の中曽根首相のブレーンである京都座会ですね、そして七つの提言等がその背景になり、ずっと流れてきている。これはこれからいよいよ精査をしていかなければならぬし、このことについてはしかるべきところで議論したいと私は思っております。しかし、おしなべて言えることは、その背景になるものは臨調行革の考え方が根底にある。言うなれば、今行われていると同じような意味での、教育におけるあるいは教育界における民間活力の導入、そして市場原理の導入、受益者負担、こういうような考え方が基本にありまして、教育の民営化、あえて言うならば教育の商品化、こういうような形で、供給とそれから選択の自由、それを前提にして開放していく、つまりそれが画一性に対する我々の考え方だというような出され方をしておりますけれども、しかし、この行き先がどうなるかということは私の多弁を要するところではないと思うのです。ただ、今のような学歴社会を背景にした受験競争の状況の中でこういうことをやれば、当然それは特定の学校に集中し、そのことによってさらに一層の企業主義をあおりながら、受験競争の激化というようなことを誘発し、そしてそれがどんどん進んでいくということは当然でありますし、また特に、今申し上げたような複線型のエリート校ができてくるならば、それに対する集中ということで、もう小学校の段階からさらにそういうような受験競争の激化ということが低学年の状態まで進んでいくであろうということは想像にかたくないわけであります。したがって、どうもこの辺の輪郭がはっきりしませんので何とも言えないのですが、私は、今時点で言うならば、そういうことが、これから今の教育荒廃の問題に違った角度からさらに拍車をかけるだろうというようなことを指摘をしておきたいというふうに思います。
 それから、教育基本法の問題ですけれども、教育基本法の精神にのっとり答申されることを期待している、まだ出ていないので何とも言えない、こういう趣旨なのですけれども、これは、教育基本法と乖離しないということは予算委員会の中で中曽根内閣総理大臣がはっきり言っていることですから、あえて私は質問したのは、所管の文部省ですから聞いたのでありまして、これをあいまいにしておくとまた誤解を招きますから、私は、内閣総理大臣の予算委員会の答弁に間違いはないというふうに理解をしておきますから、これはまた変えることもあり得るみたいな答弁になりますと、これは大問題ですからね。
 それから、基本法の精神に反するものが出た場合どうするかということでありますが、これは基本法の精神にのっとりですから、反するものは切る、答申は採用しないということになるのが当然だと私は思うのです。何が反するか、反しないかということは判断の問題ですけれども、私は、この辺のところをはっきりしておく必要があると思う。しかし現実の問題としては、それをどういうふうに分析し、対応するかという問題はまた出てくると思いますけれども、この辺のところをはっきりしておかないと、いろいろな問題で、何遍も何遍も同じような余り生産的でない議論がなされるということを考えますので、私はあえて文部省にもそのことを申し上げておきたいというふうに思います。
 そこで、次に、これは臨教審の方に質問しておきますが、どうせきょうは時間もありませんからすべて質問に答えるわけにはいかぬと思いますので、きょうは質問だけしておきまして、どうせ二十四日臨教審の代表の方が来ますから、申し上げてだけおきます。
 一つは、審議会の当面の審議日程及び報告、答申のスケジュールはどうなっているか。
 一番目として、臨教審の審議に当たってどのような調査報告資料を活用しているのか。
 二番目は、報告、答申をまとめるに当たって、部会と総会の関係、それに部会長の任務と権限、また会長の権限はどうなっているか。
 最後に、私の感想も入ってですが、報告、まとめの取り組みが、教育という点から言うと拙速主義ではないのか。
 その次に大きい二番、委員及び専門委員はその肩書きで対外的にどの程度審議内容及びそれに関する個人の意見を述べることができるのか。
 さらに、今までの質問等にもありましたけれども、マスコミ等にどんどん発表されて、国会が知る前に、何か臨教審の議論になりますと、もうそれが決まったかのごとき印象を与え、また国民が受けとめているということは極めて遺憾なことでありますので、この辺に我々はどう対応したらいいのか、いずれかの機会で議論したいと思いますが、これは文部省並びに我々議会の側として重要な対応でありますので、よく考えておく必要があると思うのです。
 最後に、この臨教審の今日までの審議の経過、全部はつまびらかではありません。これは二十四日概要が出ますけれども、どうも審議の中身が、ほとんど下地ができておって、それを審議会の舞台に乗せ、臨教審の答申内容に盛られるように人選が進められてきているのではないか。そして審議はその線に沿って進められているのではないか、こういうことですね。先ほど私は、京都座会のことやら香山氏のそれなりの論文と言いましたけれども、きょうは時間がありませんから、全部詳細に引用するわけにはいきません。私は、どうも初めに臨教審の答申の内容ありき、逆順して人選して材料を引っ張り出してくる、こういうような嫌いはないのか。つまり、臨教審の出発とあり方の問題が非常に疑問にされておりますので、以上の点を私はこの際申し上げておきたいと思います。
 それで、この臨教審の問題は、また二十四日にありますから、重ねての答弁等はそのときにしてもらいたいというふうに思います。
 そこで、最後に、外国人の教員採用の問題について残った時間、質問をいたします。
 一つは、長野県の在日韓国人ヤン・ホンジャ(梁弘子)さん、日本読みでどういうふうに読むのか私ちょっとわかりませんけれども、この方は、五年間の臨時教員生活を経てことし四月常勤講師として採用されました。ヤンさんの採用をめぐりまして、いわゆる国籍条項が改めて問題になりましたけれども、この国籍条項には法的根拠があるのかどうか、これが一点。
 二番、この国籍条項は、国公立の学校の教員には適用されますけれども、私立学校には適用されておりません。なぜ公立と私立に差があるのか、この二点、まず質問します。
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阿部充夫#19
○阿部政府委員 公立の小中高等学校のいわゆる国籍条項の問題でございますけれども、公立の小中学校、高等学校の場合には公務員ということになるわけでございますが、外国人の公務員への就任能力につきましては、法令上の明文の規定があるわけではございませんけれども、従来から公務員に関する当然の法理である、いわば不文法の原理であるというようなことで、公権力の行使あるいは公の意思形成への参画にかかわる公務員には外国人を任用することはできないという解釈で参っておるわけでございます。公立の小中高等学校等の先生は地方公務員でございまして、その職務内容は児童生徒に対する教育を行うと同時に、校長の行う、例えば教育課程の編成でございますとか、入退学の許可でございますとか、そういったたぐいの公務の運営に参画をすることをその内容としているということから、これにつきましては外国人が就任することはできないというのが政府としての統一的な見解でございます。
 それから、第二点の、私立学校についてのお話でございますけれども、国籍条項、ただいま申し上げましたように文字どおり公務員について適用される法理であるというようなことから、私立学校についてはこの法理の適用はないと考えておるところでございます。
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佐藤誼#20
○佐藤(誼)委員 どうも理解できないのが、当然の法理ということですね。この当然の法理というのはいかなるものであるのか。少なくとも日本は法治国家であり、法律に基づいて行政が行われるわけですから、少なくとも憲法を頂点とする法律上の根拠がなくて、行政府の判断で一方的に行政行為が行われるというふうに私たちは理解できないわけですよ。行政行為をやることはできないと思うのです。すなわち、今の点に関して言うならば、職業選択の自由を制限するためには、少なくとも国会の定める法律によるべきであり、法律の規定がないのに行政の一方的判断で制限することはできない。このような行政行為は、つまり憲法が定めるところの法治主義に関する違反ではないか、そういう意味では違憲の疑いすらあるのではないかというふうに私は思うのです。
 これに類似した例は、かつて司法試験に合格した、言うなれば外国人をその国籍条項によって研修生に採用しないという問題が出まして、今私が述べたような法治主義の原則に違反するということでいろいろ議論になりまして、最後はこの外国人の方は国籍条項を除外されて研修生になったという経過があるのです。ですから、私は、当然の法理という考え方自体が行政権としては行き過ぎた判断であり、見方ではないかと思うのですけれども、まずその点が一つ。
 それからもう一つは、国公立の学校には適用するけれども私立には適用しない、こういうことですが、これは余り時間がありませんから深みに入りませんが、ただ、私は教育活動というのが国家権力の行使そのものではないと思うのです。これは、文部大臣は予算委員会でもそのことは言っておりますね。これは清水委員に対する答弁の中で議事録に明記されております。それはそうだと思うのですね。ただ、公の意思形成ということがそれじゃどういうことになるのかとなりますと、私はその理解が非常に難しいのですけれども、少なくとも大臣の答弁では公的なものという言い方をしております。つまり、私もそうだと思うのですが、私的なものに対して公的なもの、こういう意味だと思うのですね、少なくとも教育というのは。これは教育基本法の第六条の教育は公的であるというこのものにつながる考え方であって、この教育基本法そのものは、公立であろうが私立てあろうが全部適用されますから、少なくともそういう公的なものというそういう意思形成というのは、教育基本法をまつまでもなく、公立であろうが国立てあろうが私立てあろうが、これはやらなければならぬし、やっているわけです。とするならば、公の意思形成ということを前提にして、国公立には適用するけれども私立には適用しないというこういう考えは、私は少なくとも成り立たぬと思うし、教育基本法の第六条に照らしても、これは等しく扱わなければならないことだと思うのです。まずそれが、公立、私立ということを差別する理由はないということと、少なくとも教育活動というのは権力の行使でありませんから、したがってそこに国籍条項を適用するというのはおかしいというふうに私は思うわけです。
 以上の点について、どうですか。
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阿部充夫#21
○阿部政府委員 法理についてのお尋ねでございますけれども、御承知のように、素人っぽい議論をすることになりますけれども、法というものにつきましては成文法の場合と不文法の場合があるということでございまして、成文になっていないものにつきましても当然の法理というものはあり得るというのが私どもの解釈でございますし、これは政府全体として、新憲法のもとにおいて昭和二十年代からとってきた解釈でございます。
 それから、私立学校のことについてでございますけれども、私学につきましては、先ほどのお答えの繰り返しになりますけれども、公務員について、公務員という国の行政関係の業務を担当する職員についての法理ということで考えられておるわけでございますので、同じようなことであったといたしましても、国あるいは地方公共団体で何事かを定めるというものと私立学校において何事かを決めていくということは性格が違うわけでございまして、まさに公務員についての法理ということで、国公立についてだけ適用される法理であるというふうに解しているわけでございます。
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佐藤誼#22
○佐藤(誼)委員 当然の法理というのが、政府なり行政権の所在するそこでもってそういうふうな選択と判断がなされていいのかどうか。少なくとも憲法を頂点とする法治国家ではそういうことは許されないと私は思うのです。これはまたいずれ機会をとらえてということになりますが。
 それから、もう一つの公立、私立の問題です。少なくともあの教育基本法はすべての学校に適用されるわけであります。しかも、その原則の一つは公ということでしょう。そのために、私立学校であっても学校法人というのが前提になっているわけですからね。そのことを考えますと、そこに差をつける、つまり公の意思形成ということを前提にして、そして私立と公立――国立も含みますけれども、差をつける、それは私は納得がいかないということだけ申し上げておきます。
 あと次に、これに関して一、二でありますが、若干私の見解という形になるかもしれません。
 外国人の教員採用については、御承知のとおり大学の外国人採用の法律によって、そして従来は、助手あるいは専任教師、つまりここで言う公の意思形成に参画することのできる教授会には参加できないその職種だけが従来は外国人が採用されて、公の意思形成をする教授会に参加する職種である教授、助教授、講師等については採用されなかったのですね。ところが、この改正によって、外国人であっても公の意思形成を図る教授会に参加できる教授なり助教授なり講師も採用することができるようになった、これが大きな違いだと思うのですよ。
 ところが、今の中学校なり高等学校なり小学校では、教諭はもちろん、講師であっても助教諭であっても、今で言う公の意思形成と言われる職員会議にはもう既に全部出ているわけですよ。これは紛れもない事実なんです。だとするならば、最初から公の意思形成であるところの職員会議に、校長はもちろん教諭も講師も助教諭も皆出ているわけですから、そこになぜ教諭と一この場合ヤンさんの場合でいいますと常勤講師というところになぜ区別をつけなければならぬのか、まずこれが一つ。
 それからもう一つは、実際学校の中では教諭、常勤講師も、何も変化がないわけです。子供にとっても、職員会議の構成員あるいは発言する機会にとっても、何も変わりがないのです。あるとすれば、たまたま同じ資格を持っておって同じ試験を通っても、定員の問題とかそれに準ずるようなことで身分上の差をつけることはありますけれども、しかし、そのことをもって教諭と講師に区別をつけて、教諭の方は外国人を採用してはならぬけれども常勤講師についてはよろしいという判断は出てこないと思うのです。このことについてどう思われるのか、お尋ねします。
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阿部充夫#23
○阿部政府委員 小中高等学校の場合の教諭でございますけれども、これは学校で最も基幹的な職員ということで、児童の教育をつかさどるというような規定で置かれている職でございます。したがいまして、当然、大学の場合の教授等が従来果たしていたと同じように、校長の行う校務の運営に参画をしていくことが予定されている職であると考えておるわけでございます。これに対しまして助教諭、講師でございますけれども、これは学校教育法の規定でも明らかなように、特別の事情がある場合に限りまして、しかも教諭にかえて置くことができるというポストでございまして、そういう意味で、助教諭、講師が常時教諭と一緒にいるということは予定されておらない、特別の事情がある場合に限って置かれるポストであるということでございます。また、その職務内容も、助教諭につきましては教諭を助ける、それから講師につきましては教諭または助教諭に準ずるというような規定でございまして、いずれにいたしましても、教諭に比べますとその職務内容とか責任、権限等が狭くあるいは軽くなっているというふうに考えておりまして、そういうものであるから、それは教諭と同じような形で校務の運営に参画をすることを期待されていない者、こういうふうに解釈をいたしておるわけでございます。
 なお、職員会議につきましては、先生のお話がございましたけれども、私どもは意見を異にしておるわけでございまして、職員会議というのはそこで何事かを決めていくという大学の教授会のような法的根拠を持った機関ではない、全く事実上の会議であるというふうに考えておるわけでございます。
 なお、大学の助教授、講師との対比についてのお話がございましたけれども、大学の場合にも助教授、講師について従来からなり得ないことはない、外国人がその職につき得ないというものでは必ずしもないという解釈をしてまいっておりまして、ただ、その中で正規の機関である教授会に参画をするというケースがあることから、そういう意味で、この前の外国人任用法案におきましては、その点を明確にするために助教授、講師についても外国人を採用し得るという規定が置かれた、こういうふうに理解をしているものでございます。
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佐藤誼#24
○佐藤(誼)委員 今の答弁を聞いておっても、当然の法理から出発した具体的任用に至るまで、全体的に非常に行政府の一方的な判断に基づいてこのことが扱われているという点は、私は強く指摘しておきたいと思うのです。
 それから、もう一つは、今の説明の中でも全体的に整合性が弱いと思う。ですから、そういう面での議論があると同時に、極めて外国人を差別する云々という意味での今の指紋押捺の問題とも絡みまして、非常に大きな政治的な問題にもなっているわけでございますから、きょうここですべてを尽くすわけにいきませんけれども、いずれかの機会に譲りたいと思います。
 そこで、今の外国人に対する国籍条項、このことに最後に大臣として、ずっと今まで答弁した経過もありますし、また四月にヤンさんが常任講師として採用されましたね、そういう経緯もございますから、文部大臣から所感を聞いて終わりたいと思います。
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松永光#25
○松永国務大臣 先ほど局長も答弁いたしましたように、公権力の行使または公の意思形成に参画する公務員の任用につきましては、公務員任用に関する当然の法理があるわけでありまして、その法理を踏まえて、それに抵触しないような形で任命権者である長野県教育委員会が講師として採用されたものと受けとめております。私といたしましては、梁さんが講師として立派に活躍をされることを望んでおる次第でございます。
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佐藤誼#26
○佐藤(誼)委員 それでは、この問題はいずれまたやることにしまして、きょうの質問は終わります。
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阿部文男#27
○阿部委員長 この際、休憩いたします。
    午後零時五分休憩
     ――――◇―――――
    午後二時三分開議
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阿部文男#28
○阿部委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。
 内閣提出、国立学校設置法の一部を改正する法律案を議題といたします。
 この際、参考人出頭要求に関する件についてお諮りいたします。
 本案審査のため、本日、日本私学振興財団理事神山王君に参考人として御出席を願い、御意見を聴取することにいたしたいと存じますが、御異議ありませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
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阿部文男#29
○阿部委員長 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。
    ―――――――――――――
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