小田晋の発言 (文教委員会)
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○参考人(小田晋君) こういう機会を与えていただいて光栄です。
現代子供の問題行動と教育ということが浮上してきたのは、これはもちろん広い文脈がございますが、神戸小学生殺害事件の直後、当時の小杉文部大臣が心の教育の必要性を掲げられたことも一因になっています。しかし、その後この事件についての報道及び行政等の動向を見ますと、憂慮にたえない動向も一つはあるようです。
実は、あの事件の犯人がまだ特定されないさきから、例の少年の口にくわえさせておいた挑戦状、その後神戸新聞に対して送付された犯行声明の中で学校殺死の酒鬼薔薇と名乗っていて、義務教育に対する積年の大怨ということがその中に含まれていたということから、その直後、やはり多くのジャーナリズム関係者が神戸市須磨区付近に集中しまして、例えば、少年が余りに凶暴なのでもう学校に出てくるなと教師が言ったとか、あるいはあの学校が比較的対教師暴力が少なかったので羊の学校と言われていたということとか、この話は真実でなかったそうですが、あるいは進学校であったというようなことを理由にして、内申書教育や偏差値教育、そういうところに原因がある、学校の管理教育が悪いというふうなかなり飛躍した議論が支配的になりました。特に、進歩的な社会学者がそれを主張したのであります。
この話は、このまま放置しておきますと実はこういうことになりかねません。須磨区を含めて神戸の教師たちは、こんな凶暴だったり異常だったりする少年に対して強く注意して、その後何かをしてかされ、あの先公が頭にきたからやったというようなことを言われたら立場がありませんから、もはやそういうことに対して強くとがめることはできなくなる可能性もあります。また受験教育、とにかく公立中学から進学校に子供を送り込むというのは相当の努力を要するのに、これだって、その結果このようなことが起きたと言われたら手抜きをせざるを得ない。そうなったら、あの辺のエコロジーからしまして、公立から私立への子供たちの大脱走も起きかねない。公立の中学校は死にます。酒鬼薔薇は学校殺しに成功するかもしれないんです。
この事件の特徴というのは、いわば快楽殺人と言われているものでありまして、快楽殺人というのは性欲と破壊衝動が結びついた形の犯罪です。この少年について言えば、例えば性的サディストであり行為障害者であるということは言えるんですが、そのほか、自分の犯罪をマスメディアに報道されることが一つの犯罪の目的であるところの劇場型犯罪であり、自分の犯罪の動機を社会に対する挑戦として大義名分化するという社会挑戦型犯罪でありますし、そのほか、オカルト的傾向を持つ超能力信仰者であったというような特徴があるのであります。
この事件の場合、どうしたら防げたかということが問題になるだろうと思います。つまり子育ての問題としては、この事件は異例のこととして鑑定書の一部が公表されたんですが、しかし、親子関係なんかの問題について言えばその部分は伏せられています。プライバシーは大事ですからA少年で構わないが、その辺の部分まで含めて少なくとも専門家の検討に付せられるという程度のことは必要だと思います。
一般的に言えることは、行為障害の中核となります感情の冷たさというものについて言うと、特に乳児期における母親と子供との関係がだんだん疎遠になるということが、やはり基本的な信頼関係とそれに基づく情性の発育を妨げているということは指摘されています。
それから、思春期における性欲と第二次性徴の処理については、極めて性教育は思春期において重要で、この少年の場合もその問題があったのでありますが、最近の性教育はともすればエイズ予防の方に引っ張られてしまって、とにかくコンドームの使用方法を教える、性の解放だけを一方的に強調するというような形の性教育になっているという点にも問題はあると思います。
そのほか情報環境の問題については、劇画とホラービデオの問題ですが、特に劇画とホラービデオが少年の欲求不満を解消するというような議論が一部の心理学者や精神科医からも唱えられていますが、実はこの少年の場合はホラービデオを持ち込んで見ていたのは母親の影響であったとも伝えられています。そうじゃなくても、精神鑑定をやった性犯罪者の場合、直前にホラービデオや劇画やあるいはポルノグラフィーを見ていなかったケースの方が極めてまれなんです。
今後どうすべきかということについて言いますと、これは法務委員会の問題であるとおっしゃるかもしれませんが、やはり現在のままではこういう問題行動に対する正当な対処はできません。
少年犯罪の上限、これは日本だけが二十歳ですが、諸外国は全部十八歳ですし、下限についても、日本は少年犯罪として特に刑事責任を問い得る年齢が十六歳以上になっていますが、資料の二枚目にありますように、アメリカでは七歳以上、イギリスでは十歳以上、フランスでは十三歳以上、ドイツでは十四歳以上になっています。余りに日本だけがかけ離れた、少年の実態にそぐわない法律になっています。刑事処分年齢の制限の廃止。
それから、少年審判に検察官が立ち会えないのでありますが、弁護人だけが付添人という形で立ち会っていますとどうしても検察官の反対尋問ができませんので、結果として見たら高裁の裁判官はじだんだを踏むような判決になってしまうこともあります。
裁判に被害者側の声を反映するという意味では検察審査会の関与が大事なんですけれども、検察審査会に関与の余地を残すという意味でも、検察官による抗告権をやっぱり認めなきゃなりませんし、特にあのA少年の場合、少年院を少なくとも二、三年で出てくると予想されているんですが、そういう場合に出てくるときの出口審査のための機関が必要です。
さらに、どうすればこの少年の犯罪を防げたかといいますと、例の猫殺しの事件でルーズなカウンセリングをやっていたわけですけれども、あれが単なる来談者中心的なカウンセリングじゃなくて、精神科医が情報事務に当たられた上で診察していたら薬物療法によってでも犯罪を阻止することができたというのは、上智大学の福嶋章先生を初め精神科医が皆異口同音に言うところです。
つまり、少年にちゃんと家庭裁判所なり地方裁判所の命令によって治療を命ずる、治療を勝手に怠ったならば少年院に収容するという医療的保護観察制度、これだけそろえばかなりこういう事件でも予防はできるのであります。
教育をめぐる問題でございますが、学校が制度的に機能していることに反感を持っている人たちの学校に対する攻撃が激しいので、そういう場合に学校はどういうふうに危機管理すべきか。全部箱口令をしいてしまいますと、まともな意見を言う少年や教師は表面にあらわれない。買収された、またふてくされた人たちの意見だけが表面にあらわれてくるということがあります。
クラスの中の情報戦争といいますのは、やはりクラスの中でいじめっ子のグループにはヘゲモニーを握らせないように、例えばロングホームルームなんかをするような場合は、教師はちゃんとその前からそのための準備をしておかなきゃならないということです。
いじめ問題への対応の変化ということで、いじめ問題について言えば、いじめ問題についての専門家たちが従来ずっといじめられつ子の方の研究ばかりをやってきたのは、その方が易しいからです。それをやれば簡単に研究費だとかそれから地位だとかが得られますので、いじめられっ子の研究ばかりをやってきた。いじめ問題はいじめられつ子が悪いと。しかも、いじめっ子に対する対策を講じようとすると、特に最近の人権論というのは加害者の人権ばかりで、被害者の人権は全く考えられないという傾向がありますので、そういうことがあるために手が触れられなかったんです。特にこの二、三年、文部省の協力者会議は方針を変えられまして、変えられたのは非常にいいことだと思います。
いじめというのは、もともと鶏のつつき順位というのがありまして、狭い空間に脊椎動物を囲い込んで生活させると必ずいじめが起きるんです。やはり逃げ場をつくらなきゃなりません。図書室、保健室の役割は非常に重要です。こういうところから少年たちを追い出すというような管理をしてはいけないんですが、特に保健室の役割が重要で、例えば養護教諭を二人制にして、しかもカリキュラムの四〇%から五〇%は精神医学及び心理学にするというようにすれば随分状態は変わってきます。
「みにくいあひるの子」型いじめというのは、要するに少数派をつつく。アンデルセンの「みにくいあひるの子」のような形になりますが、それをやめさせることが重要で、これこそが国際化教育の一番重要な点でありまして、むしろ小学校で英語を教えるよりもこの方が重要だと私は思うぐらいです。
それからさらに、非行型いじめというのがありまして、愛知県西尾市立東部中学校の大河内君の自殺の事件の場合なんかは、殴って金を取れば強盗ですし、殴るぞと言って金を取れば恐喝ですし、自転車をあんなにしょっちゅう壊していれば器物毀棄ですし、ついに殺人未遂に至るまで、本当は非行が連続してグループ的に行われていたのに学校側はこれに目をつぶっていた。
つまり、少年を強く制止すればすぐ体罰の問題が出てきますし、そうかといって、これを非行として問題にすれば子供を警察に売ったというようなことが、例えばよく地方議会なんかでは議員によって提起されて、それを新聞が報道するというようなことがあるために、学校の手は縛られに縛られ続けているわけです。見てもどうにもならないけれども、ほうっておくこともできないものに対して見えなくなるというのは、これは精神分析的には否認という行動規制でありまして、そのために学校の先生たちは見えなくなっています。
いじめや非行が起きることは校長や教頭の責任ではないが、それを放置して、あるいは職務上当然の注意が払われていれば発見できたことが発見できなかった場合には必ず責任を問われるということを文部省ないし教育委員会が方針としてお決めになれば、この形のいじめ、第三型のいじめは数カ月で終えんすると思います。最近の少年たちは大人以上に情報人間でありまして、この程度のことをすればこの程度のパニッシュメントがあるということについては大人以上に敏感だからです。
いじめっ子問題に対する適切な対応について言えば、例えば登校停止ということも適用されていいというふうに文部省は通達されました。このことは非常に敬意を表すべきことでありますけれども、今度の場合、もう学校に来るなと教師が言ったということが神戸の事件のきっかけになったというように間違った報道が一部なされたために、それは間違った報道であったということは少年自身の書いた「犯行計画書」やそれから「懲役十三年」という文書によってわかっているんですが、しかしながら、それによって登校停止というのはもうやってはいけないというようなことになったならば、そして今のようにいじめられっ子の方が転校させられるという、外国から来た例えばノルウェーの専門家オルヴェウスを初め、みんな驚いているようなことがまたこれからも続く。登校停止を休眠させてはいけないということは、この際どうしても確認しておかなきゃいけないことであります。
子育てといじめ非行の抑制ということについて言えば、子育てというのはやっぱり乳児期には愛情と受容です。乳児期には一〇〇%の愛情を、幼児期にはしつけと愛を、少年期には教えることを、思春期には考えさせることを、というプログラムが行われていかなきゃならないんですが、この場合、愛による抑制のほかに、学習による抑制、つまり賞罰ということも大事です。賞罰というのは、少年の行動の修正には役立たないという考え方はよく進歩的な評論家や進歩的な教育学者や進歩的な心理学者がおっしゃるんでありますが、しかしその場合は、ごね得、しら切り、口裏合わせで、少なくとも十九歳までは何でも済んでしまうという少年たちの社会通念ですね。
例えば、一つはおやじ狩りという形の、あれは強盗なんでありますが、あれがおやじ狩りというごく軽い一過性のものだというので、かなり多くのものが強盗罪でありながら保護観察で済んでしまっている。そういうことが少年たちにはたっぷり逆学習を行っているんですね。教育、刑法、宗教という三つの問題行動に対する抑制のシステムというのは、どうしてもしっかり確立しなきゃなりません。
第一、こういうことを何でこの場違いの文教委員会で申すかというと、例えば法務委員会や地方行政委員会で例の少年法改正なんかの場合、教育の立場からといってこれに対して横やりが入ることが従来ありまして、そういうことがあってはならないと思うからです。
もう一つは、狭義の心の教育とカウンセリングの問題ですが、やっぱり養護教諭の役割は非常に重要です。つまり、カウンセラーを配置するという話になっていますけれども、日本の風土の中では心の問題よりも体の問題をきっかけに入っていくのはとてもすっと入っていけるのでありまして、心の教育の担い手としての養護教諭と保健室の役割は重要なんです。養護教諭を二人制にして、そこで精神医学教育を徹底するというのが非常に有効な方法です。
確かに、カウンセラーを配置することは役に立つんですが、この場合、非常に問題点があります。現代までの日本のカウンセリングは来談者中心療法、やつで来て話をする子供の話を黙って聞いているというやり方が中心で、そうして子供の自主性を重んじることが大事なんだけれども、子供の行動を修正するということに対しては余りカウンセラーは手は出さないという、そういう形の教育を受けてきた人が多いんですね。今度の事件の場合でも、児童相談所はそういう形のカウンセリングをやっていたことが、児童相談所がそういうカウンセリングをやっていながら途中で防げなかった一つの理由になっているんです。
ですから、カウンセラー教育をするならば、やはり危機介入のテクニックを教えなきゃいけない。非行臨床的技術というのと犯罪心理学の知識ですね。それから、精神医学との協力ということはやっぱりしなきゃいけません。自主性という名の無責任というのかな、そういうのを教えるような教育をやっちゃいけません。
何よりも私心配しますのは、現場の教育を知らないまま、現代の教育は管理教育だ管理教育だということばかり頭に入れて現場に出かけていったカウンセラーたちが、実は学校の中で無用の混乱をかえって生み出すことがあり得るんじゃないかという心配です。
こういう場合、例えば登校拒否とか不登校の場合でも、学校に行かない子供の方がまともであって、学校に行っている子供の方が実は管理教育の中に巻き込まれているんだというようなことを、これは児童精神医学者の一部、全共闘出身の人が多いのでありますが、そういう説がありまして、それは非常に問題になっているんです。私の言うことに御異議のあることはわかっていますが、私はそう思います。
ただ、現実に登校拒否の場合、こういうプロジェクトがありました。筑波大学の体育学群がやりましたプロジェクトですが、野外学習の専門家の先生がいまして、野外学習のやり方をコーチするために、大学院学生と学生のためのキャンプ場をつくって、そこでキャンプの実習をやっていたんです。これは山に登ったり、沢を渡ったり、きわめつきは一人で野営させたりするキャンプなんですが、これをやって帰ると、実は学校に行くようになる少年がかなり多いんです。登校拒否の子供がまじっていたら、登校拒否の子供をそれに入れてやってみたら一応の治療効果はあるんですね。結局、何らかの形で友達とともに自然と肉体的な体験をするという体験型学習というのは、大変そういう形の非社会的な問題行動には役に立ちます。
いずれにしても、二枚目のプリントの一番下にありますように、現代の少年犯罪は、少年の犯罪被害も過去十年間で三割強の増加を示しておりますし、最近五年間は凶悪・粗暴犯、強制わいせつ被害の増加が顕著で、特に小中学生に被害が集中する傾向があります。犯罪被害が少年に与える心の傷を考えましても、少年の犯罪だからといって単なる保護主義で一貫して、因果応報、こういうことをすればこういう報いがあるという、そのことを教えない現在の少年法や学校教育というのは間違っているんじゃないだろうかと私は思います。
米国でさえ、実はこの形の少年保護のやり方というのは米国から出てきた発想ですが、本家の米国ではすっかり変わっていまして、最近ではカウンセリングは来談者中心から行動主義的なカウンセリングヘと方向が変わっています。
要するに、もちろん子供の心の教育は大事ですが、心の教育ということは決して学校の中における規律を無視することであってもならないし、いじめっ子や非行少年を彼らの欲望のまにまに行動させることを自由にしろ、学校をディズニーランドみたいに変えてしまえという一部の人々の主張に根拠を与えるものじゃないということはぜひわかっていただきたいと思います。
終わります。