石田英敬の発言 (国旗及び国歌に関する特別委員会)
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○参考人(石田英敬君) 東京大学の石田英敬と申します。
資料を用意しておりましたのですが、現在ちょっとどこかに置き忘れたみたいで、後ほど多分見つかると思いますが、とりあえず用意していた発言内容を発表させていただきたいと思います。
私は、記号とコミュニケーション研究の専門家として今日ここでお話をさせていただきます。と同時に、この法案が提案されることがはっきりしたこの六月以降、私たちのような人間科学、社会科学の比較的新しい研究分野で、特に日本の近代について、国民、国民国家、近代性、記号や表象といった問題を研究してきた研究者や知識人たちが出した日の丸・君が代の法制化に反対する共同声明の起草者の一人として、そして共同声明の署名者としての発言ともなるということをあらかじめ申し上げておきます。
この共同声明は、八百を超える署名者を共同署名者といたしまして、ニューヨーク、カリフォルニアからパリ、オスロ、ライプチヒ、香港、台湾、ソウルに至る、国際的な第一線の研究者を含む研究者、知識人による共同声明です。
したがいまして、私がこれから述べます意見は、もちろん一人の学者としての私の個人的な見解ではありますが、同時に、国民国家、ナショナリズム、国民や国家と記号や象徴の関係についての研究といった問題について世界各地の大学で日ごろ研究を行い、その知見に基づいて、今回の法制化について重大な危惧を表明している国際的な研究者たちの定説や共通した考えをある程度代弁するものであるということを御理解していただきたいと思います。
今回意見陳述を求められております国旗及び国歌に関する法律案が提起しております問題を、私たちのように国民、国家、近代の共同体を研究する立場から一言で定義するといたしますと、これは国家の象徴政治の問題であると言うことができると思います。
それは具体的には、どのような記号や象徴、すなわち旗にしても歌にしても、意味を生み出す記号やシンボルということですから、どのような記号や象徴を通して国民や国家の共同体をつくり出すのか、確認するのか、を国家が政治的に決定することにかかわる問題であるという意味で、これは国家の象徴政治にかかわる問題だというふうに考えるわけです。
これは、言うまでもなく国の根幹にかかわる重大な決定がかかっている事件であり、これこそすべての国民による広範な議論と十分な論議が尽くされるべき問題であることをまず述べておくことにいたしましょう。
限られた時間での意見陳述ですので、私が提起いたします問題の論点をあらかじめ幾つかに絞って整理して述べていきたいと思います。
今回の国旗・国歌の法制化に関して私が提起したい問題の論点は、ほぼ次の五つです。
その一、今回の法制化と天皇制の問題。二、今回の法制化がもたらす記憶の封殺の問題。三、今回法制化されようとしている日の丸・君が代が、私たちの用語でスペクタクル社会と呼びますが、見せ物とかマスメディアが支配するような社会、そのような今日のメディア・情報社会においての集団的忘却の回路とこの問題が結びつく可能性が提起する問題、これが第三点。四番目、特に学校教育において強化されると見られる象徴と権威の作用がもたらす問題、これが第四点。第五点は、それらすべての問題が私たちの国の民主主義にもたらす危機の問題であろうという、以上、五つの問題を論点として私の意見を述べさせていただきたいと思います。
第一に、天皇制の問題です。
周知のように、日本の近代国民国家は、天皇制という象徴的な権威の体系をつくり出すことによって国民の統合を行いました。人々は古い共同体から引き離されて、天皇制国家の象徴の体系の中に呼び込まれることによって国民となったのです。そのとき、近代天皇制の象徴体系の中に呼び込むための象徴装置の役割を担ったのが、日の丸、君が代、御真影、教育勅語といった、明治国家によって新しくつくり出された記号でした。
これらすべては古来からの伝統ではなく、近代国家をつくるための新しく発明された伝統であったということが重要です。日の丸は、のぼりなどとは違って、ヨーロッパ的規格に基づく当時としては新しい視覚記号、目に見える記号であり、君が代は、洋楽と雅楽の折衷のメロディーにより歌詞の意味を近代的に組みかえた新しい歌、御真影も、外国人画家が描いた天皇の肖像を写真として複製したという、二重の意味で新しい記号でした。
それらの記号は、公教育を通して、未来の国民としての生徒たちの身体の中に刷り込まれたのです。天皇を唯一の超越した「君」と呼ぶことで、一人称の私たちは、一人一人が、天皇という超越的な君主の臣下としての国民、すなわち明治憲法下における臣民になる。これらの国民を制作する象徴装置によって、人々は大日本帝国という近代的国民国家の君主に対する臣下として統合されていったと考えられます。
今回の法制化の問題点は、戦後の第二の国民国家において、「あいまいなまま」にとどめられていた明治憲法下における国家の象徴装置だったそれらの記号を、再び国民をつくり、あるいは、国民が自己を国民として確認するための国家の記号として明示的に定めようという点にあります。
このときに問われるのは、当然、大日本帝国憲法下の近代日本の第一期国民国家における象徴的な権威としての天皇制と、戦後の日本国憲法下の第二期国民国家における象徴天皇制との関係であるということが言えます。
しかし、また同時に、現在の国民国家を単位とする世界システムの再編期、すなわちこれが冷戦の終わり以降の世界新秩序の問題だと言うことができますが、その世界システムの再編期とのかかわりからいうと、明治憲法五十余年、戦後憲法五十余年という二つの国民国家を経て、恐らく今姿をあらわしつつある二十一世紀の第三期国民国家としての日本における天皇制の確認と再定義の問題がここで焦点となっているのであろうと分析することができます。
君が代の「君」をめぐっての六月十一日の政府見解や六月二十九日の小渕首相による補足は、天皇制の象徴体系について戦前と戦後の連続性を初めて政府見解として明言したものですが、引用いたしますが、「二十一世紀を迎えることを一つの契機」に、「成文法で明確に規定することが必要」という首相の説明は、来るべき第三の国民国家においては、明治憲法下における国家象徴が再定着、再定義されるべきだという意思の表明だと理解できます。
以上が天皇制をめぐる問題です。
第二の論点は、多くの人々が既に訴えているように、この法制化が記憶の封殺につながらないかという問題です。
日の丸・君が代は、日本の近代国家の成立過程において、国内においては国家による国民の強制的で規律的な統合の道具になったし、朝鮮や台湾の支配に見られるように植民地化と異民族の併合、そして特にアジア近隣諸国に対する戦争と侵略の道具になりました。第二次大戦後、日の丸や君が代が批判され議論の的となってきたのは、そのような日本国家の過去の行いについての記憶を持つ人々が現に多数存在しているからです。
日の丸・君が代は、国内における文化的、民族的、宗教的マイノリティーや戦争犠牲者たち、アジア近隣諸国の侵略を受けた人々の社会的記憶の象徴となっている。法制化はそれらの人々の記憶にどのようにこたえるかを示してはいません。今回の私たちの共同声明には、アジアの研究者のほか、アジア諸国からの留学生や、逆に日本からアジア諸国に留学して研究を行っている大学院生がたくさんの署名を寄せました。
そのような日本の過去の歴史を反省する議論を打ち切り、法による封印をすることになるのではないか。過去の侵略の歴史事実を否定したり虐殺を否認したりする歴史修正主義が無批判に流布される傾向が存在しているこの国では、過去をまともに正視し、きちんと整理した上で国の未来を議論するという契機をないがしろにしてしまうような国家の不道徳がさらに蔓延することにならないかというのが研究者、知識人の深刻な懸念であると申し上げておきましょう。
しかも、社会的記憶については、侵害を受けた側の方が侵害を行った側よりもずっと長く記憶を維持し続けるものであるという、これまた極めて人間的な事実も思い起こされるべきでしょう。国民への定着を言うのであれば、それらのシンボルが、在日韓国人、在日朝鮮人の人々やアジア近隣諸国の人々にどのようなイメージとして定着しているのかをも調査し、検討すべきなのではないでしょうか。
第三点、スペクタクル社会という問題ですけれども、オリンピックやワールドカップなどのスポーツイベントにおいて国民国家の象徴が果たす意味作用をもって、それらの象徴が人々に広く受け入れられたものとする見方が流布しています。それは、私たちのような研究を行う文化記号論的な立場から言うと完全な誤りです。スポーツはゲームである。すべてのゲームは便宜的な象徴や記号の働きによって可能になるのですが、それはその場限りで共有されたルールに基づいてつくり出される意味の経験にすぎない。そして、すべてのゲームは、世界の時間からの離脱と歴史の一時的な忘却をつくり出すという効果を持っています。人々は、現実から一時離れ、自分の生活をひととき忘れるためにこそゲームするのです。スポーツなどのゲームによって生み出される人間の意味の経験は、その場でのプレーがつくり出していくものにすぎません。
メディアイベントが支配するスペクタクル社会は、これを見せ物社会と言ってもよろしいと思いますが、そうした象徴のゲームによる忘却装置を社会の至るところに持つことになりました。そして、それは歴史の忘却を生み出すに至った。
しかし、歴史の中に蓄積された社会的記憶の問題とゲームが生み出す集団的忘却とを同じ水準で論ずることはできないのです。社会は、さまざまな水準で経験を組織し、同じ象徴でもそれらの水準において違った機能を担っています。マスメディア自体がスペクタクル社会の担い手であり、水準の混乱を引き起こし、歴史の忘却を促す役割を果たしつつあるとも言えます。
例えば、サッカーのサポーターが日の丸をボディーペインティングして熱狂することと、学校の国旗掲揚の儀式化を通して国民国家の一員になるということは、同じシンボルを介したものであるとしても、全く違った意味の経験です。前者は、観客の一人一人が想像の中でせいぜい日の丸サッカーチームの一員になるといった程度の想像的経験にすぎない。ところが後者は、国民国家の運命を引き受ける習性を持った一人一人の国民主体になることを意味している。それは国や国民の歴史や運命を引き受けることをも含むものです。
両者がまぜられ水準が混乱するときに、スポーツやイベントの政治利用の問題があらわれることになります。このような水準の混乱や政治利用の経験は、旧ユーゴスラビアの一九八四年のサラエボ冬季五輪とその後のバルカンの紛争や、ナチス・ドイツのベルリン・オリンピックの民族の祭典の経験が教えているものです。
四番目に参ります。
象徴は、人が何かを語るときの後ろ盾にもなり、権威の体系と結びつくことができます。国民を生み出す象徴装置という役割を既に述べましたが、日の丸・君が代の天皇制の象徴体系は、そのような権威の体系として成立し機能してきました。
そして、再び日の丸・君が代は、学校においてそのような権威と規律の体系を強化するために再び使われようとしているのではないか。国家の象徴体系と権力の系列関係が学校において整序され対応するようになると、教育という行為がどのようなものになっていくのかという問題がここにはあります。
国民国家の教育という場合、教育の役割は国民の再生産ということですから、その再生産は、理論的には市民社会や国民を基礎にして行われるというあり方、すなわち国民による国民のための国民の教育というあり方と、国家がヘゲモニーを持って国民をつくり出していくという二つの方向性があり得ることになります。法制化は明らかに後者の傾向に、国家のヘゲモニーの傾向に象徴的な裁可を与えることになります。
国家による教育の強化によって、市民社会における市民の教育の自由はますます狭められていく。そのことによって、教師たちはますます物言わぬ人々へと変えられていき、生徒たちは規律による教育の受動的な受け手に変えられていく。そして、市民の公教育への参加の契機はますます閉ざされていくことになりはしないか。
先ほど紹介いたしました私たちの共同声明は次のように述べています。
かつて一度も法制化されたことのなかった国旗・国歌を、法制化によって正当化しようとするこの動きが、主として学校教育の場を念頭において進められていることも、私たちの懸念をより深刻なものにしています。いま学校教育にもとめられているのは、有無を言わせず「日の丸」を掲げ生徒たちに「君が代」を歌わせることではないはずです。疑問を封殺するために国家の規範を強制するのではなく、世界の人々と共生することができる国や社会の原理とはなにかを生徒たちに考えさせること、他の国々との相互の歴史認識を深め、国の内外の異なった言語や民族や文化の人々と共に生きる市民社会の基本的価値や原理とは何かについての議論を重ねることからしか、国民的同一性についての真の教育は根付かないのではないでしょうか。
と、このように述べております。これが、国家の教育の強化か、市民社会に基づく教育かという対立にかかわる今回の法制化の問題点です。
最後に、以上に述べました問題点を総合してみた場合に、法制化が私たちの近未来社会にもたらす影響についての論点があります。
学校では、日の丸・君が代という古風な記号を強制され、規律と権威のルールの体系を身体に刷り込まれ、他方、学校の外では、ますます拡大し続けるスペクタクル・メディア社会の忘却のゲームにのみ込まれていくというような生活が定着するときに、国民とはどのようなものになっていくことを運命づけられるのかという問題です。
同じような生活は、学校を終えた後の国民の生活の基調でもあり続けるでしょう。例えば、仕事の場においては権威と規律の関係に支配され、仕事の外ではマスメディアのスペクタクルの、見せ物の支配に流されていくという生活、それは基本的には今でもよく見なれた国民生活の光景と言えるかもしれません。
国家イメージをつくる記号に関してそのような回路が定着してしまうとき、決定的に欠落してしまうのは、実は、私たちの市民社会とは何か、国民とは何か、国とは何かという問いかけと反省の理性的な契機なのです。
法という沈黙のおきてによって決められた国家の象徴の囲いは、市民社会の自己イメージ化を許しません。国家の象徴をみずから動機づける、モチベートする対話を許さない。そして、スペクタクル社会は、みずからの最も近い過去の歴史を問う回路をあらかじめショートさせてしまう。国民自身が自問すること、自分たちの過去の歴史についての議論を公共化し、自分たちの未来をともに考えて決定することや、他者とのかかわりにおいて自己を問題化するための契機、市民社会の原理に基づいた理性的な他者との、そして自分自身との対話の契機をこの国は失ってしまうことにならないか。過去の記憶の封殺と、集団的忘却をつくるメディア社会の仕組み、そして権威の体系の強化、それらが国家のシンボルをめぐって結びついたとき、私たちの国から一体何が失われていくのか。それこそ、私たちがもう一度理性的に考えてみなければならないことではないでしょうか。
その意味で、今回の国旗・国歌の法制化は私たちの国の民主主義の大きな危機を予告していると、私は多くの研究者や知識人とともに深く危惧せざるを得ないのです。
いずれにいたしましても、冒頭に申し上げましたように、今回の法制化は、日本の国民国家の基本原則にかかわる国と国民の未来にとって重大な問題でありますので、拙速な決定は避けるべきであります。多くの国民が慎重に議論を重ねた上で決定すべきであると考えていることは新聞社による世論調査の結果等が示していることでもあります。
この問題については、広範な国民的議論が行われなければならないと思いますし、だれの目から見ても問題のない民主主義的なプロセスを経て決定が行われることが何よりも重要なことであろうと思います。国民世論と国民の声の負託が議会に反映されるという代議制民主主義の基本原理にもとるような、国会内的な数合わせによって採決決定されるには、事は余りに重大な案件であり、二十一世紀の国民国家の未来にとって禍根を残すことのないよう、十分な審議を尽くすことを国会には望みます。
以上、私、石田英敬からの参考人意見陳述でした。