暉峻淑子の発言 (憲法調査会)
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○参考人(暉峻淑子君) 暉峻でございます。
私は、石毛さんもおっしゃったんですけれども、憲法の専門家ではないので何かここに伺うのは場違いであるような気がしていたんですが、もし私がここで憲法について何か語る資格があるとすれば、私は日常生活の中で憲法をかなり頻繁に身近に意識して暮らしている人間です。その点では実はきょうもあふれるほど申し上げたいことがあるのですけれども、時間の制約がありますので、きょうは具体的な私が行っているNGOの活動を通して体験的に私がたどり着いた憲法への考え、特に前文と九条と国際貢献の問題に絞ってお話をしたいと思います。
私は、先に結論を言いますと、九条や前文は非常に立派な、もちろん人権に関してですけれども、条文でありまして、国際貢献はこのままでも立派にできるということを考えております。血を流さなくても、血を流すよりももっとすばらしい国際貢献ができますし、世界に尊敬され、信頼され、平和をつくっていくということもできると思います。
これは、机上の議論ではないのです。
私は、足かけ八年にわたって、NGO・国際市民ネットワークの代表として、ユーゴの内戦による難民や、親と生き別れになった孤児あるいは死に別れた子もいますけれども、病院や老人たちの救援を続けております。
そのため、この四月で三十一回ユーゴを訪れ滞在しておりますし、空爆の最中もユーゴにおりました。クライナやコソボから何十万という難民が逃げてきたときにも、寝袋を持って学生たちと一緒に野宿して、ろうそくの光を頼りに赤ちゃんや老人の救援を続けてきました。
皆様方は写真やテレビで、きょう皆様にお渡ししておりますカラーコピーよりももっと悲惨な状況はもう既に御存じだと思いますけれども、時間の制約もありますので、きょうは写真に沿って私の話をさせていただきたいと思います。
つまり、これは悲惨だから助けなさいという意味でこういうコピーをお渡ししているのではありません。こういう救援の仕事をしながら憲法のことを私がどういうふうに感じたかということをお話ししたいために、たくさんあったんですけれども、ごく少しのものを選びました。
一枚目ですけれども、これは、難民が一番最初に逃げてくるときというのは大体こういう状況です。それで、どこか建物の中に入れてもらえれば幸せな方で、古い倉庫とかもう廃屋になったところに入ることができる人もいますけれども、馬車に乗って逃げてきたり徒歩で逃げてきたりした人たちは、最初はもう野宿して、外でせいぜいたき火をして暖をとる。その中では、もちろん赤ちゃんとか老人とかは死んでいく人もいますし、逃げてくる難民の列に、これは誤爆か本当の空爆かわかりませんけれども爆弾が投下されるということもありまして、本当に悲惨な状況です。
私がなぜこういうことにかかわるようになったかということをごく簡単に言いますと、私は一九九三年にウィーン大学の客員教授をしていました。一年間講義やゼミを持ったんですが、その中にユーゴから来ている学生がいまして、ユーゴの状況、内戦の悲惨さを訴えるわけですね。それで、ぜひ一度自分の祖国に行ってくれと言われて、私は七〇年代、ユーゴがまだ非同盟中立国として西と東の橋渡しをしていた時期にユーゴに短期間滞在したこともあったものですから、イースターのお休みにユーゴを訪ねました。
それで、さっき言いましたように、孤児は本当にかわいそうな状況にいる。年金が払われない老人たちはもう餓死するよりしようがない。暖房がない病院で凍死していく患者がいる。無料食堂の前はもう長蛇の列です。子供たちは、日本なら簡単に治る病気であっても薬がないので死んでいきます。
一つエピソードを申し上げますと、私がある病院に行ったときに、そこの医者が私にこのようなことを言ったんですね。実は自分は、ある病室の戸をあけたらそこに若い医者が立っていた、状態がただならないのでその医者を廊下に連れ出してどうしたと聞いたら、薬もない、患者は苦しんで苦しんで、何にもしてやれない、もうこれだったら患者を殺した方が幸せではないかと思って実は自分は殺そうと思ってその患者のまくら元に立っていたんだ、そこにあなたが戸をあけたのでそのことを思いとどまったんだけれども、一体医者として自分は何ができるんだと、そう言ったと言うんですね。
本当に土気色でヤギの子供のような声しか出ないような子供も、私がそこのそばへ寄ると、何かほほ笑もうと努力するのを見て、もう本当に正視することができないという感じでした。
帰国後、国際市民ネットワークを設立しまして、学生のボランティアと一緒に、個人の寄附をもとにして八年間、ずっと救援を足を洗うことができないで続けてきたわけです。
その救援の中で私は、ここに自衛隊がもし出てきていたらどういうことになったんだろう、人道援助の私たちの援助活動は一体どういう効果というか平和のために意味を持っているんだろうということをしばしば考え、黙っていても頭の中にそれが浮かんできて、また学生とも話し合いました。
最後に締めくくりとしてそのことは申し上げますけれども、ユーゴに関しては、ほかでもそういうことが多いのでこれはユーゴの問題だけじゃないんですけれども、戦争が起こるときというのは非常に不自然な形で起こってくるんですね。
例えば、東独が統一で解体されて、東独から武器がずっと流れてくる。それから、アルバニアの社会主義政権が崩れて、武器庫が襲われてそこから武器が大量に流れ込んでくるということがあります。
私がずっと市民や難民の間にいて感じることは、戦争というのは自然発生的に決して起こるものではなくて、そこにその武器が入ってきたり、それから社会主義の世界が崩れていくとか、それからあおる者、あおる人というのは必ずいるんですね。
難民たちにアンケート調査をして、一体いつごろから民族憎悪というのがあなたたちに意識され出したかと聞いてみると、それは、民族主義者の政治家がそこで政権をとったり、かなり実力を発揮し得る地位についたころからざっと変わってくるというのが、そのアンケート調査の結果でもよくわかります。
それで、民族憎悪とか宗教憎悪というのは、そういう言葉で片づけるともうとても簡単にわかりやすいのでそういうふうに片づけられているんですけれども、例えば、ちょっと例えが余りよくないかもしれませんが、柳条湖事件というのがあの十五年戦争のときに起こりました。これも実は日本の軍隊が鉄道を爆破したのに、そうじゃなくて中国人が爆破したんだということで世論を操作して、けしからぬ、じゃ軍隊が出ていかなくちゃということになったわけですけれども、それと似たようなことはいっぱいあるわけですね。
これはスイスで出された新聞なんですが、(資料を示す)皆様も御承知かと思いますが、アメリカのタイムという雑誌に、コンベニックというボスニアの兵士がセルビアの強制収容所に入れられて、食べ物も何にももらえなくて虐待されて、あばら骨がこんなに出ていて、セルビアけしからぬという、そういうのが世界を駆けめぐったわけです。
ところが、ピーター・ブロックという新聞記者がこの本人を訪ね当ててみたら、何とこの兵士はセルビア人だったんですね。それで、結核の持病を持っていてすごくやせていて、これを鉄条網の前に立たせて、それでセルビアが強制収容所でこういうふうに虐待しているということがもうざっと地球を回ってしまう。
一例しか時間の制約があって挙げられませんけれども、その他そういういろんな戦争に向かう世論操作が行われて、そしてあるとき戦争になる。
しかし、市民たちは、クロアチア人もボスニア人も、大体難民の収容所にはいろんな民族が一緒に入っているわけですけれども、聞いてみると、私たちの日常生活の中ではそんなに民族憎悪なんてなかった、もう本当に仲よくやっていた、私のおばさんは何人だし、私の母は何民族、父はこういう民族でと、もう混血がすごく進んでいてそんなことは意識したこともなかったという人たちが本当にほとんどなんですね。
それで、例えば東西ドイツでも、ホーネッカーとかアデナウアーはしきりに西の悪口を言い、東の悪口を言って国民に敵がい心を植えつけるんですけれども、ドイツ人そのものは本当に水面下で私たちは同じドイツ人なんだということで早く統一してほしい、統一してほしいと言い続けていた。
これは朝鮮でもそうなんですね。政治家がいかにあおっても、政治家って、全部の政治家ではありません、ごく一部の政治家がそれをあおっても、国民の意識というのはそうではなくて、共存を願っている。仲よくしていくにこしたことはない、助け合っていきたいという気持ちは根強く持っています。ユーゴの場合も全くそうでした。
それで、そういうときに必要なのは、やっぱり人道援助というのが一番必要だと思います。私たちは本当にこういう命からがら逃げてきた、一ページ目、二ページ目のころは衣食住、医薬品を主として持っていきます。そのときに、日本の学生、若者を連れていくということで日本の側にも人道援助というものは非常に大きなプラスをもたらしました。
日本の若者は、偏差値とかなんとかという競争を経てきているので、自分の人間としての価値を偏差値とかいい大学に入っているということで知らず知らずのうちに判定しているわけですけれども、こういう修羅場に連れていって、だれから命令されるのでもない、指示されるのでもないけれども、自分の人間性を呼び起こして適切な行動をとるしかないということになると、実にいい行動をしてくれるんですね。
物を配るだけでなくて、まだ日没まで時間があれば子供たちを集めて一緒に歌を歌ってくれたり励ましたり、それからおばあさんたちの背中をなでてあげたり、本当にこれが日本で見た学生かなというように、すばらしい自主性と人道的な態度をとってくれます。お互いの異文化の中で、つたない英語を使っても難民は英語もわからないので、そこを何とか身ぶりでやったり相手の行動から察して彼らは人道的な活動をしてくれます。
それで、助け合うということは私は人間の本能であり基本だと思っているんですけれども、そういうことをするとどういういいことがあるかということなんですが、ユーゴの、国境なき援助をしていますから、実は私たちの活動をあの人たちは恩に着ていた、恩を感じていたらしいんですね。
阪神大震災が起こったときに私のところにファクスが入ってきて、本当にあなたたちのお世話になった、今度こそ恩返しをしたい、私たちは貧乏だけれども、ぜひ震災の直後の春休みにテントの中にいる子供たちをホームステイに連れてきてくださいと、心から恩返しをしたいと言ってきたんですね。
でも、あなたの国はそれどころではないでしょうと私は返信を送ったんですが、一夜にしてすべてを失ったという難民を身内に抱えている私たちは、一夜にして失った人の気持ちはよくわかる、物はないけれども心で子供たちを助けたいと言ってくれました。
阪神の子は、もちろん春休みにテントから抜け出て向こうへ行ってホームステイしたんですけれども、本当に大事にされまして、難民キャンプを訪れたり子供病院を訪れたりしたんですけれども、阪神の子供たちが一番心の糧になったのは、難民の子供たちが阪神の子供を迎えて、不幸の中にも一つだけいいことがあると、そういうことをおばあさんから教わった、それが今わかりましたと。私たちは難民キャンプにいたので日本のこういう友達をつくることができた、本当にうれしいというようなことを言ってくれたり、難民の子供から励まされて、神戸の子供たちは本当に元気になって帰ってきました。
それでおしまいと思っていたら、神戸の子供たちは、私には黙って、毎日曜日に周りの家から不用品を出してもらって、それをフリーマーケットで売って、自分たちもまだ仮設にいるのに、その売上金を貯金して、私にある日、暉峻先生、僕たち七十八万までためたよ、これで今度ユーゴの子供を日本に呼んでやりたいと言うんですね。六甲山まで行ってかき氷を売ったり手づくりのはがきを売ったりして、これが日本の若者か、子供たちかと、私の方が本当に胸を打たれました。
それで、私も一生懸命に努力して神戸にユーゴの子を呼び返しました。ホームステイをして、広島に連れていったんですが、広島の原爆資料館を見せた後、出口に出てきたユーゴの子はもうみんな泣いていました。そして、本当に平和は大事だということを口々に言いました。
こういうことは、人道援助をしていれば、それが波紋の上にまた波紋を生んで、次々にこういう人間関係が出てくるわけですね。これは人道援助というもののよさで、ミサイル一発一億円以上、もう二億円、日本はもっと高いと言われていますが、そういうものを撃ち込むよりも、事前に戦争になる前ぶれというのはいろいろあるわけですから、そこから私たちは人道援助あるいは技術移転、経済援助をして、何とか戦争を防ぐことができないのか、そして軍備に使うお金をこうやって人道援助に使っていけば、平和をつくっていくということのとても大きな力になると思いました。
学生がもうへとへとに疲れて援助をして帰ろうとしたら、私たちが帰るトラックのところに有名な文学者で作家でチョーシッチという人が来て、学生にこう言いました。困難なときにこんなにして来てくださったことを私たちは永久に忘れません、私は年寄りだけどこの御恩返しをきっと私の息子たちが日本に対してしてくれるでしょう、もしそれが長く貧乏でできないとしても神様がかわってあなた方に恩返しをしてくれると思いますという言葉を言ってくれました。
学生たちは、そういうものに接すると、先生、僕は自分がこんなに価値がある人間だと思っていなかったと言うんです。成績とかそういうことでいつもできるできないということで思っていたので、僕は自分の価値に目覚めましたと言って、本当に変わります。こんなに人道援助というのはいいのに、そしてそれは憲法が私たちに教えてくれたものなんですね。
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