憲法調査会
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会
会議録情報#0
平成十二年五月十七日(水曜日)
午後二時二十五分開会
─────────────
委員の異動
五月二日
辞任 補欠選任
円 より子君 本岡 昭次君
五月十六日
辞任 補欠選任
直嶋 正行君 寺崎 昭久君
高野 博師君 益田 洋介君
五月十七日
辞任 補欠選任
浅尾慶一郎君 柳田 稔君
─────────────
出席者は左のとおり。
会 長 村上 正邦君
幹 事
久世 公堯君
小山 孝雄君
鴻池 祥肇君
武見 敬三君
江田 五月君
吉田 之久君
魚住裕一郎君
小泉 親司君
大脇 雅子君
水野 誠一君
委 員
阿南 一成君
岩井 國臣君
岩城 光英君
海老原義彦君
片山虎之助君
亀谷 博昭君
北岡 秀二君
陣内 孝雄君
世耕 弘成君
谷川 秀善君
中島 眞人君
野間 赳君
服部三男雄君
松田 岩夫君
石田 美栄君
笹野 貞子君
高嶋 良充君
角田 義一君
寺崎 昭久君
本岡 昭次君
簗瀬 進君
柳田 稔君
大森 礼子君
福本 潤一君
益田 洋介君
橋本 敦君
吉岡 吉典君
吉川 春子君
福島 瑞穂君
佐藤 道夫君
事務局側
憲法調査会事務
局長 大島 稔彦君
参考人
国立民族学博物
館館長 石毛 直道君
埼玉大学名誉教
授 暉峻 淑子君
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本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
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この発言だけを見る →午後二時二十五分開会
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委員の異動
五月二日
辞任 補欠選任
円 より子君 本岡 昭次君
五月十六日
辞任 補欠選任
直嶋 正行君 寺崎 昭久君
高野 博師君 益田 洋介君
五月十七日
辞任 補欠選任
浅尾慶一郎君 柳田 稔君
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出席者は左のとおり。
会 長 村上 正邦君
幹 事
久世 公堯君
小山 孝雄君
鴻池 祥肇君
武見 敬三君
江田 五月君
吉田 之久君
魚住裕一郎君
小泉 親司君
大脇 雅子君
水野 誠一君
委 員
阿南 一成君
岩井 國臣君
岩城 光英君
海老原義彦君
片山虎之助君
亀谷 博昭君
北岡 秀二君
陣内 孝雄君
世耕 弘成君
谷川 秀善君
中島 眞人君
野間 赳君
服部三男雄君
松田 岩夫君
石田 美栄君
笹野 貞子君
高嶋 良充君
角田 義一君
寺崎 昭久君
本岡 昭次君
簗瀬 進君
柳田 稔君
大森 礼子君
福本 潤一君
益田 洋介君
橋本 敦君
吉岡 吉典君
吉川 春子君
福島 瑞穂君
佐藤 道夫君
事務局側
憲法調査会事務
局長 大島 稔彦君
参考人
国立民族学博物
館館長 石毛 直道君
埼玉大学名誉教
授 暉峻 淑子君
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本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
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村
村上正邦#1
○会長(村上正邦君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
日本国憲法に関する調査を議題といたします。
本日は、日本国憲法について、文明論・歴史論等も含めた広い観点から、参考人の御意見をお伺いした後、質疑を行います。
本日は、参考人として、石毛直道国立民族学博物館館長及び暉峻淑子埼玉大学名誉教授に御出席をいただきました。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。しかも、大変時間お待たせいたしましたことを心苦しく思っております。国会というところは、不規則な問題が多々出てまいりますので、どうかこの点御勘案いただきましてお許しを賜りたいということのおわびを兼ねて、調査会を代表いたしまして、本日御出席いただきましたことを厚く御礼申し上げます。
参考人の方々から忌憚のない御意見を承りまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いを申し上げます。
本日の議事の進め方でございますが、石毛参考人、暉峻参考人の順にお一人二十分程度ずつ御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず石毛参考人からお願いをいたします。石毛参考人。
この発言だけを見る →日本国憲法に関する調査を議題といたします。
本日は、日本国憲法について、文明論・歴史論等も含めた広い観点から、参考人の御意見をお伺いした後、質疑を行います。
本日は、参考人として、石毛直道国立民族学博物館館長及び暉峻淑子埼玉大学名誉教授に御出席をいただきました。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。しかも、大変時間お待たせいたしましたことを心苦しく思っております。国会というところは、不規則な問題が多々出てまいりますので、どうかこの点御勘案いただきましてお許しを賜りたいということのおわびを兼ねて、調査会を代表いたしまして、本日御出席いただきましたことを厚く御礼申し上げます。
参考人の方々から忌憚のない御意見を承りまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いを申し上げます。
本日の議事の進め方でございますが、石毛参考人、暉峻参考人の順にお一人二十分程度ずつ御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず石毛参考人からお願いをいたします。石毛参考人。
石
石毛直道#2
○参考人(石毛直道君) 私は、民族学をやっている人間でございますので、法律だとかあるいは政治とか国家ということを余り知らない方でございます。それで、皆さんの御要望にこたえられるかどうか甚だ不安ではございますが。
我々のやっている民族学というのは、一方では文化人類学とも言われます。そこで、文化それから民族ということをキーにして国家と民族の関係、あるいは民族というのはまた文化をともにしている人々のグループでありますので、文化と国家の関係に興味を持ちまして、そういったことからお話をいたしたいと思います。
まず申し上げたいことは、民族構成、その国家を幾つの民族がつくっているか、そういった民族構成というところから見ますと、日本は世界的に見たら例外的な国家のグループの中に入るんだということです。
大体、世界の国家というのは複数の民族から構成されています。国連加盟の約百八十カ国の中で一つの民族集団が総人口の九割以上を占める国家、これは日本もそうですが、それは百八十カ国の中の二三・三%になっています。これは国の数で数えるとそうなるわけで、太平洋の小さな島の十万人ぐらいの国、そういったのも一カ国として数えた場合、そういったところはまた単一民族的である国家が多いのでそういった国の数が大変多くなっているわけですが、それでも二三・三%です。一つの民族集団が総人口の過半数を占めている国家、これが四九・七%。十人のうち五人以上一つの大多数民族が総人口に占めている、そういった国が四九・七%。どの民族も総人口の中に過半数に満たない国家、これが二七%あるということになっています。
こうして見ますと、世界の国家の約七割は、住民十人のうち一人以上は多数民族以外の民族から構成されているということになります。
日本は、そういった意味では大分世界の中で特殊な部類の方に入るわけです。それだけ現在ですと日本人が多数を占めているわけなんで、巨視的に見たら日本民族イコール日本国民ということになります。そこで、単一民族論というようなことが言われたりしたわけですが、これは確かに巨視的に見たら日本は単一民族に近いような民族構成をとっている。しかしながら、それで単一民族だということでおしまいにしてしまったら、実はその中で暮らしている少数者たちが全部無視されるということになります。
今までも民族にかかわる問題としては、アイヌ民族の問題と在日韓国・朝鮮人問題の二つだけが論じられることが多くて、多くの日本人にとって民族問題というのは自分自身のこととして考えなくて済むような、そういった環境で育ってきたということが言えます。
ところで、歴史を考えてみますと、日本の歴史の最初から日本民族というのがあったわけではございません。縄文時代の社会を考えたら、恐らく日本列島に文化が違うグループ、例えば言葉が通じないグループ、そういったのがたくさんあったに違いない。北九州のグループと東北地方のグループが、縄文時代にコミュニケーションが同じ言葉でできたとはまず考えづらいような、そういったものであったと思います。
弥生時代になると、紀元前後のことを書いた中国の文献だと、「分かれて百余国をなす」、たくさんの国に分かれていた。それで、七世紀ごろになりますと、大和朝廷による国家統一が大分進行いたしますが、そのころでも当時の人々から異民族とみなされる人々が日本列島に幾つもありました。例えば、俘囚とか蝦夷とか熊襲とか隼人というような人々は異民族とされていて、そういった人々が北海道や東北、北陸の一部、南九州それから沖縄、そういったところは多数民族にとっては異民族と見える人々が住んでいた土地になっていた。
あるいは十五世紀、当時の琉球王国は東南アジアで活動していたわけです。大交易時代であったんです、沖縄の。そういった東南アジアに進出した沖縄人たちを、当時のポルトガル文献なんかを見ますと、日本人と明らかに区別しています。沖縄の人々は、琉球からきたんでしょうが、レキオ人と書いてあるわけです。日本人とはまた別のグループとして考えている。島津が沖縄に侵略したり、あるいは明治になってから沖縄県の設置がなかったら、多分今は沖縄県の人々は、我々の日本民族と違うもう一つの民族になっていたかもしれないというそういう可能性があります。
こういうことを考えますと、民族というのは自然発生的にできているものだというふうによく考えられるんですが、実は政治的につくられる集団でもあるわけです。沖縄もそういった例であります。それで、明治政府によって一方的に、おまえたちは日本国民だ、日本人だということにされて、そこのところで、方言だとかそういったのに取ってかわって国語教育を軸とする同化政策というのがなされたわけです。
さて、ここでちょっと別の方向から考えてみます。
二十世紀の後半というのは、航空機による人々の移動が大変日常的になった時代であります。人類の歴史にかつてなかった世界規模での人口の移動というのが始まっています。よりよい生活を求めて人々は国境を越えて移動いたします。島国という日本の地理的な特殊性、それによって我々は多民族国家にはならなかったわけですが、それがもう通用しないようになってきます。
一九九五年の時点で、その前の十年間に東京都の外国人登録人口というのは倍になっている。新しいデータを調べる暇がなかったので、ちょっと古いデータですが。
日本経済が不況だといっても、アジア諸国なんかでは自国に比べたら日本での賃金だとか生活の質の高さというようなものには大きな落差があります。そういった落差がある以上、日本に一時居住しようとする外国人の数は減らないわけです。また、高齢化する日本社会が高い生産性を維持するためには、外国人労働者雇用の潜在的な需要というものが産業界にはございます。
我が国の場合、専門的な職種への外国人就労者には門戸を開くけれども、単純労働を目的とする外国人の入国は認めないという政策でございます。しかし、南米の日系人の出稼ぎ労働者は受け入れますし、研修という名目での就労者、あるいはまた超過滞在者、不法入国者もかなりおります。いかに法の垣根を高くしても外国人の流入というのを阻止することはできないでしょうし、それを阻止するために一種の鎖国政策を実施したら、これは国際世論の非難を受けることになるかと思います。
そういったことを考えますと、二十一世紀の中ごろになりましたら、お隣に住んでいる人が外国出身の人だという、それが当たり前になってくる。外国出身の人と隣り合わせに住む、そういったことになってきますと、ようやく日本が特殊な国家じゃなくて普通の国家になったんだということになるかもしれません。
その新しく入ってくる外国人の人々、これは昔の移民なんかとは大分違います。それから、在日韓国・朝鮮人あるいは中国系の人々で特別永住権を持つ人々がおりますが、それと違って、現代日本へ入っている人々、ニューカマーと呼ばれたりしますが、それは移民と全く違う人々なんですね。
かつての移民というのは、日本からも出ましたが、移住先の文化に同化してその国に骨を埋める覚悟で移住したわけです。ところが、現在の世界で起こっているのは、永住するのではなくて、一時的な就労を目的に国境を越えて移住する巨大な人口ができたということなわけです。
これらの人々は、移住先の国の社会で生活に必要なルールだとか文化を身につける一方、故国に対する強固なアイデンティティーを維持しております。故国との間で国際電話だとかファクスだとか電子メールといったものでいつも親族や友人と交流し、衛星テレビでリアルタイムで故国の情報を知ることができる。つまり、二つの国を同時に生きている、そういった人々が出現したわけです。
こういった人口が増加する現在を踏まえたときに、かつての日本の法律にあった、あるいは外国人政策の根本にあった日本への同化を前提とした定住外国人政策とか法律というのを転換せざるを得ないようになるのではないかと私は思います。
そういった外国人が国政に参加すべきではないということが幾つかありますけれども、その一例を申し上げますと、公権力の行使あるいは国家意思の形成への参画に携わる公務員は日本国籍を持つべきであるという見解が大変強うございます。
そこで、国家公務員に外国人がなれる職種というのは大分限られております。例えば国立大学の教官、教授や助教授になることは可能になりました。しかしながら、外国人の教官が学長だとか学部長の職につくことはできません。我々が外国でそういった学長だとか国立の研究機関の長と会って話していると、ああ、この人は別の国の国籍だなというのは、これは当たり前にあることなわけです。
さて、四国のある国立大学が外国人留学生の宿舎を建設しようとしました。そのとき住民の反対運動が起こったんですが、新聞で見ますと、その場合、住民の反対運動は、結局は外国人は怖い、日本人なら信用できるけれども外国人は信用できないというのがその理由でした。
怖いという反応はなぜ出てくるんでしょう。人間は未経験のことに遭遇しますと、不安を覚えて怖い、信用できないという、そういった反応を示すわけです。
日本社会では歴史的に日常生活で異なる文化に接する体験がなかった。つまり、ほとんど日本人とのつき合いだけで歴史的に完結してきた社会でございますので、そこで、そういった体験がなかったので外国人と接触することが不安である、それで怖いという反応になるわけです。日本でこれから多民族国家化していく過程で同じようなことが各地で起こりまして、それで日本人は差別主義者であるという、そういった国際世論が起こる可能性が私はあると思います。
未経験な事柄でも十分な知識や情報を持っていたら不安感を解消することはできます。
他民族との共存を経験してきた社会では、異民族との交際の仕方、どこまで自分の文化を主張して相手の文化に立ち入ることができるか、どこまで相手の文化を尊重するか、そういったことが公教育だけじゃなくて家庭教育の中でなされます。
例えば、子供が、お隣のあの家族は教会へ行かないけれどもどうしてというような、そういったものに宗教の違いを、宗教が違うんだと、あの人たちの宗教はこんなのだから、そうすると教会へ行かなくてもいいんだという、そういったことが親からの子への何というか、教育もありますし、体験。それからやはり異文化に対する公教育がなされます。
そのようなノウハウを日本の家庭は持っていないし、今のところ公教育でもほとんど教えていません。そういったことを考えると、多民族国家化する二十一世紀に向けて、公教育での取り組みというのが必要であろうと私は思います。
そしてまた、そういった定住外国人をたくさん抱えている自治体レベルの方が国家レベルよりも私には門戸開放が進行しているように思えます。自治省では都道府県や政令都市に対して一般事務職での外国人の採用を控えるように指導しておりますが、職員採用に対して全職種で国籍条項を撤廃する自治体が今増加しております。
一九九五年、最高裁判所は外国人の選挙権に関してこういう判断を下しています。憲法で保障された権利ではないが、地方選挙に限り外国人の選挙権は禁止されていないというような見解です。地域社会における住民の一員としての定住外国人に対する住民としての権利をどこまで拡大するか、これが将来の問題であります。
さて、日本人とそれから定住外国人とのいろんな摩擦が具体化するのは、これは人々の生活の場、つまりそれぞれの地域においてであります。同じ町に住んだり同じ市に住んでいる、そういったところでの定住外国人と日本人というのは、抽象的な概念としての民族ではなくて、だれだれさんという名前を持った、顔をそれぞれ知っている、そういった名前と顔を持った民族同士が出会った場であります。そこで発生した解決を必要とする問題は、その地域のならわしだとか地域の歴史だとか、そういったものを背景として出てくる大変個別的であり、かつ具体的な事柄であります。
その問題を日本人対外国人の問題だとして国家レベルまで持っていってしまったら、外務省だとかそういったのは、国家と国家として扱う、そういったことになってしまい、大変一般的、抽象的な次元となり、日本対外国という図式での解決が必要になってくるわけです。
このような国家と国家の問題として深刻化する前に、地域住民の話し合いの中で解決したり、問題の発生を予防することが大切であろうと思います。ということは、そのためには、中央政府の権限を大幅に地方に譲渡することも考えなくてはならないのではないかと思います。
そういった地方と中央ということで申し上げますと、鎌倉幕府以来明治時代になるまで、日本は地方分権が大変強い国家でありました。つまり封建制とか幕藩体制と言われるもとで、地方政府としての大名あるいは藩の自治権がかなり強い国家であったわけです。中央政府である幕府の地方に対する干渉は極めて少なく、税率だとか司法とか行政が藩に任されていたわけです。明治政府は廃藩置県を行って中央集権的官僚システムによる全国支配、統治を行って、それで伊予の国の住人だとか、紀州の住人、会津の住人といったような藩という地方への帰属意識を消して、日本国民という国民層を形成することに成功したわけです。
ただし、そこのところで、そういった明治が近代化するときの国家の形、そこには帝国という国の形がある程度尾を引いております。明治の大日本帝国形成期、このころは大英帝国だとかオーストリー・ハンガリー帝国、ドイツ帝国など西欧型の帝国もありましたし、オスマントルコ帝国とかロマノフ帝国、これは西欧型に半分入れてもいい。中国の大清帝国、そういった古い形の帝国もありました。こういった帝国型の国家というものに共通するのは、領土を拡張し国家の勢力圏をどんどん広げること、その基礎としては強大な軍事力を持つこと、そういった帝国というイメージがありました。
その十九世紀を引き継いだ二十世紀の先進諸国というのは、国家は二つの時代を経験したと思います。
まず最初は、前世紀から引き継いだ軍事大国路線でございます。強大な軍事力を背景に、国際社会での発言力を増大して列強の仲間入りすることを国家目標としたのでありまして、我々の国家もかつてはそうでありました。
二つの世界大戦を経過した後の二十世紀の中ごろからは経済力が国家の威信の源泉であると考えられるようになり、国々は経済大国になることを目指しました。生産力の増大と国際市場におけるシェアの拡大、そういったものを目指して物質的な豊かさ、それを実現させる、それに国家の目標が向かったわけですが、そういった経済の論理に陰りがあらわれるようになったのがこの世紀末でございます。
例えば、地球環境問題に見るように、……
この発言だけを見る →我々のやっている民族学というのは、一方では文化人類学とも言われます。そこで、文化それから民族ということをキーにして国家と民族の関係、あるいは民族というのはまた文化をともにしている人々のグループでありますので、文化と国家の関係に興味を持ちまして、そういったことからお話をいたしたいと思います。
まず申し上げたいことは、民族構成、その国家を幾つの民族がつくっているか、そういった民族構成というところから見ますと、日本は世界的に見たら例外的な国家のグループの中に入るんだということです。
大体、世界の国家というのは複数の民族から構成されています。国連加盟の約百八十カ国の中で一つの民族集団が総人口の九割以上を占める国家、これは日本もそうですが、それは百八十カ国の中の二三・三%になっています。これは国の数で数えるとそうなるわけで、太平洋の小さな島の十万人ぐらいの国、そういったのも一カ国として数えた場合、そういったところはまた単一民族的である国家が多いのでそういった国の数が大変多くなっているわけですが、それでも二三・三%です。一つの民族集団が総人口の過半数を占めている国家、これが四九・七%。十人のうち五人以上一つの大多数民族が総人口に占めている、そういった国が四九・七%。どの民族も総人口の中に過半数に満たない国家、これが二七%あるということになっています。
こうして見ますと、世界の国家の約七割は、住民十人のうち一人以上は多数民族以外の民族から構成されているということになります。
日本は、そういった意味では大分世界の中で特殊な部類の方に入るわけです。それだけ現在ですと日本人が多数を占めているわけなんで、巨視的に見たら日本民族イコール日本国民ということになります。そこで、単一民族論というようなことが言われたりしたわけですが、これは確かに巨視的に見たら日本は単一民族に近いような民族構成をとっている。しかしながら、それで単一民族だということでおしまいにしてしまったら、実はその中で暮らしている少数者たちが全部無視されるということになります。
今までも民族にかかわる問題としては、アイヌ民族の問題と在日韓国・朝鮮人問題の二つだけが論じられることが多くて、多くの日本人にとって民族問題というのは自分自身のこととして考えなくて済むような、そういった環境で育ってきたということが言えます。
ところで、歴史を考えてみますと、日本の歴史の最初から日本民族というのがあったわけではございません。縄文時代の社会を考えたら、恐らく日本列島に文化が違うグループ、例えば言葉が通じないグループ、そういったのがたくさんあったに違いない。北九州のグループと東北地方のグループが、縄文時代にコミュニケーションが同じ言葉でできたとはまず考えづらいような、そういったものであったと思います。
弥生時代になると、紀元前後のことを書いた中国の文献だと、「分かれて百余国をなす」、たくさんの国に分かれていた。それで、七世紀ごろになりますと、大和朝廷による国家統一が大分進行いたしますが、そのころでも当時の人々から異民族とみなされる人々が日本列島に幾つもありました。例えば、俘囚とか蝦夷とか熊襲とか隼人というような人々は異民族とされていて、そういった人々が北海道や東北、北陸の一部、南九州それから沖縄、そういったところは多数民族にとっては異民族と見える人々が住んでいた土地になっていた。
あるいは十五世紀、当時の琉球王国は東南アジアで活動していたわけです。大交易時代であったんです、沖縄の。そういった東南アジアに進出した沖縄人たちを、当時のポルトガル文献なんかを見ますと、日本人と明らかに区別しています。沖縄の人々は、琉球からきたんでしょうが、レキオ人と書いてあるわけです。日本人とはまた別のグループとして考えている。島津が沖縄に侵略したり、あるいは明治になってから沖縄県の設置がなかったら、多分今は沖縄県の人々は、我々の日本民族と違うもう一つの民族になっていたかもしれないというそういう可能性があります。
こういうことを考えますと、民族というのは自然発生的にできているものだというふうによく考えられるんですが、実は政治的につくられる集団でもあるわけです。沖縄もそういった例であります。それで、明治政府によって一方的に、おまえたちは日本国民だ、日本人だということにされて、そこのところで、方言だとかそういったのに取ってかわって国語教育を軸とする同化政策というのがなされたわけです。
さて、ここでちょっと別の方向から考えてみます。
二十世紀の後半というのは、航空機による人々の移動が大変日常的になった時代であります。人類の歴史にかつてなかった世界規模での人口の移動というのが始まっています。よりよい生活を求めて人々は国境を越えて移動いたします。島国という日本の地理的な特殊性、それによって我々は多民族国家にはならなかったわけですが、それがもう通用しないようになってきます。
一九九五年の時点で、その前の十年間に東京都の外国人登録人口というのは倍になっている。新しいデータを調べる暇がなかったので、ちょっと古いデータですが。
日本経済が不況だといっても、アジア諸国なんかでは自国に比べたら日本での賃金だとか生活の質の高さというようなものには大きな落差があります。そういった落差がある以上、日本に一時居住しようとする外国人の数は減らないわけです。また、高齢化する日本社会が高い生産性を維持するためには、外国人労働者雇用の潜在的な需要というものが産業界にはございます。
我が国の場合、専門的な職種への外国人就労者には門戸を開くけれども、単純労働を目的とする外国人の入国は認めないという政策でございます。しかし、南米の日系人の出稼ぎ労働者は受け入れますし、研修という名目での就労者、あるいはまた超過滞在者、不法入国者もかなりおります。いかに法の垣根を高くしても外国人の流入というのを阻止することはできないでしょうし、それを阻止するために一種の鎖国政策を実施したら、これは国際世論の非難を受けることになるかと思います。
そういったことを考えますと、二十一世紀の中ごろになりましたら、お隣に住んでいる人が外国出身の人だという、それが当たり前になってくる。外国出身の人と隣り合わせに住む、そういったことになってきますと、ようやく日本が特殊な国家じゃなくて普通の国家になったんだということになるかもしれません。
その新しく入ってくる外国人の人々、これは昔の移民なんかとは大分違います。それから、在日韓国・朝鮮人あるいは中国系の人々で特別永住権を持つ人々がおりますが、それと違って、現代日本へ入っている人々、ニューカマーと呼ばれたりしますが、それは移民と全く違う人々なんですね。
かつての移民というのは、日本からも出ましたが、移住先の文化に同化してその国に骨を埋める覚悟で移住したわけです。ところが、現在の世界で起こっているのは、永住するのではなくて、一時的な就労を目的に国境を越えて移住する巨大な人口ができたということなわけです。
これらの人々は、移住先の国の社会で生活に必要なルールだとか文化を身につける一方、故国に対する強固なアイデンティティーを維持しております。故国との間で国際電話だとかファクスだとか電子メールといったものでいつも親族や友人と交流し、衛星テレビでリアルタイムで故国の情報を知ることができる。つまり、二つの国を同時に生きている、そういった人々が出現したわけです。
こういった人口が増加する現在を踏まえたときに、かつての日本の法律にあった、あるいは外国人政策の根本にあった日本への同化を前提とした定住外国人政策とか法律というのを転換せざるを得ないようになるのではないかと私は思います。
そういった外国人が国政に参加すべきではないということが幾つかありますけれども、その一例を申し上げますと、公権力の行使あるいは国家意思の形成への参画に携わる公務員は日本国籍を持つべきであるという見解が大変強うございます。
そこで、国家公務員に外国人がなれる職種というのは大分限られております。例えば国立大学の教官、教授や助教授になることは可能になりました。しかしながら、外国人の教官が学長だとか学部長の職につくことはできません。我々が外国でそういった学長だとか国立の研究機関の長と会って話していると、ああ、この人は別の国の国籍だなというのは、これは当たり前にあることなわけです。
さて、四国のある国立大学が外国人留学生の宿舎を建設しようとしました。そのとき住民の反対運動が起こったんですが、新聞で見ますと、その場合、住民の反対運動は、結局は外国人は怖い、日本人なら信用できるけれども外国人は信用できないというのがその理由でした。
怖いという反応はなぜ出てくるんでしょう。人間は未経験のことに遭遇しますと、不安を覚えて怖い、信用できないという、そういった反応を示すわけです。
日本社会では歴史的に日常生活で異なる文化に接する体験がなかった。つまり、ほとんど日本人とのつき合いだけで歴史的に完結してきた社会でございますので、そこで、そういった体験がなかったので外国人と接触することが不安である、それで怖いという反応になるわけです。日本でこれから多民族国家化していく過程で同じようなことが各地で起こりまして、それで日本人は差別主義者であるという、そういった国際世論が起こる可能性が私はあると思います。
未経験な事柄でも十分な知識や情報を持っていたら不安感を解消することはできます。
他民族との共存を経験してきた社会では、異民族との交際の仕方、どこまで自分の文化を主張して相手の文化に立ち入ることができるか、どこまで相手の文化を尊重するか、そういったことが公教育だけじゃなくて家庭教育の中でなされます。
例えば、子供が、お隣のあの家族は教会へ行かないけれどもどうしてというような、そういったものに宗教の違いを、宗教が違うんだと、あの人たちの宗教はこんなのだから、そうすると教会へ行かなくてもいいんだという、そういったことが親からの子への何というか、教育もありますし、体験。それからやはり異文化に対する公教育がなされます。
そのようなノウハウを日本の家庭は持っていないし、今のところ公教育でもほとんど教えていません。そういったことを考えると、多民族国家化する二十一世紀に向けて、公教育での取り組みというのが必要であろうと私は思います。
そしてまた、そういった定住外国人をたくさん抱えている自治体レベルの方が国家レベルよりも私には門戸開放が進行しているように思えます。自治省では都道府県や政令都市に対して一般事務職での外国人の採用を控えるように指導しておりますが、職員採用に対して全職種で国籍条項を撤廃する自治体が今増加しております。
一九九五年、最高裁判所は外国人の選挙権に関してこういう判断を下しています。憲法で保障された権利ではないが、地方選挙に限り外国人の選挙権は禁止されていないというような見解です。地域社会における住民の一員としての定住外国人に対する住民としての権利をどこまで拡大するか、これが将来の問題であります。
さて、日本人とそれから定住外国人とのいろんな摩擦が具体化するのは、これは人々の生活の場、つまりそれぞれの地域においてであります。同じ町に住んだり同じ市に住んでいる、そういったところでの定住外国人と日本人というのは、抽象的な概念としての民族ではなくて、だれだれさんという名前を持った、顔をそれぞれ知っている、そういった名前と顔を持った民族同士が出会った場であります。そこで発生した解決を必要とする問題は、その地域のならわしだとか地域の歴史だとか、そういったものを背景として出てくる大変個別的であり、かつ具体的な事柄であります。
その問題を日本人対外国人の問題だとして国家レベルまで持っていってしまったら、外務省だとかそういったのは、国家と国家として扱う、そういったことになってしまい、大変一般的、抽象的な次元となり、日本対外国という図式での解決が必要になってくるわけです。
このような国家と国家の問題として深刻化する前に、地域住民の話し合いの中で解決したり、問題の発生を予防することが大切であろうと思います。ということは、そのためには、中央政府の権限を大幅に地方に譲渡することも考えなくてはならないのではないかと思います。
そういった地方と中央ということで申し上げますと、鎌倉幕府以来明治時代になるまで、日本は地方分権が大変強い国家でありました。つまり封建制とか幕藩体制と言われるもとで、地方政府としての大名あるいは藩の自治権がかなり強い国家であったわけです。中央政府である幕府の地方に対する干渉は極めて少なく、税率だとか司法とか行政が藩に任されていたわけです。明治政府は廃藩置県を行って中央集権的官僚システムによる全国支配、統治を行って、それで伊予の国の住人だとか、紀州の住人、会津の住人といったような藩という地方への帰属意識を消して、日本国民という国民層を形成することに成功したわけです。
ただし、そこのところで、そういった明治が近代化するときの国家の形、そこには帝国という国の形がある程度尾を引いております。明治の大日本帝国形成期、このころは大英帝国だとかオーストリー・ハンガリー帝国、ドイツ帝国など西欧型の帝国もありましたし、オスマントルコ帝国とかロマノフ帝国、これは西欧型に半分入れてもいい。中国の大清帝国、そういった古い形の帝国もありました。こういった帝国型の国家というものに共通するのは、領土を拡張し国家の勢力圏をどんどん広げること、その基礎としては強大な軍事力を持つこと、そういった帝国というイメージがありました。
その十九世紀を引き継いだ二十世紀の先進諸国というのは、国家は二つの時代を経験したと思います。
まず最初は、前世紀から引き継いだ軍事大国路線でございます。強大な軍事力を背景に、国際社会での発言力を増大して列強の仲間入りすることを国家目標としたのでありまして、我々の国家もかつてはそうでありました。
二つの世界大戦を経過した後の二十世紀の中ごろからは経済力が国家の威信の源泉であると考えられるようになり、国々は経済大国になることを目指しました。生産力の増大と国際市場におけるシェアの拡大、そういったものを目指して物質的な豊かさ、それを実現させる、それに国家の目標が向かったわけですが、そういった経済の論理に陰りがあらわれるようになったのがこの世紀末でございます。
例えば、地球環境問題に見るように、……
村
石
石毛直道#4
○参考人(石毛直道君) はい。
生産は必ずしも善ではないということになりました。
ちょっとはしょって申し上げますと、そういった経済の時代の次、将来来るのは一体何であろうか。
私は、物質的な豊かさを一応達成した先進諸国においては、これから要請されるのは心の豊かさであります。その心の豊かさをつくるのは文化でございます。
残念ながら、日本は第二次大戦の敗戦後、文化国家になると言いましたけれども、文化は常に弱者の立場であって、例えば予算的に言っても大変文化についてのお金は少なかったわけです。
しかしながら、文化というものは、国家や民族間の摩擦を解消するために、文化に力を注ぐ国家というのは尊敬される国家になり、文化を振興させるということは国家にとっての保険を掛けることになる。これからの世紀には文化が平和的手段による安全保障になる。そういった可能性を持っているんだと思います。
そういったことで、これからの二十一世紀に尊敬される日本国ということを考えると、文化に力を注ぐ国家が尊敬される、そういった時代になるんではないかということを心にとめていただけましたら大変ありがたいということと、あと一言だけ。
そういった多民族国家化していろいろ異なる文化が交わり合う、このことは必ずしもマイナスではない。例えば、移民国家であったアメリカ合衆国が活力を持ったのも、異なる文化を持っている民族同士が交わったことに一つの要因を持つということであります。
私、時間の配分を間違えまして、大分最後の方をはしょり過ぎましたが、これで私のお話を終わりたいと思います。
この発言だけを見る →生産は必ずしも善ではないということになりました。
ちょっとはしょって申し上げますと、そういった経済の時代の次、将来来るのは一体何であろうか。
私は、物質的な豊かさを一応達成した先進諸国においては、これから要請されるのは心の豊かさであります。その心の豊かさをつくるのは文化でございます。
残念ながら、日本は第二次大戦の敗戦後、文化国家になると言いましたけれども、文化は常に弱者の立場であって、例えば予算的に言っても大変文化についてのお金は少なかったわけです。
しかしながら、文化というものは、国家や民族間の摩擦を解消するために、文化に力を注ぐ国家というのは尊敬される国家になり、文化を振興させるということは国家にとっての保険を掛けることになる。これからの世紀には文化が平和的手段による安全保障になる。そういった可能性を持っているんだと思います。
そういったことで、これからの二十一世紀に尊敬される日本国ということを考えると、文化に力を注ぐ国家が尊敬される、そういった時代になるんではないかということを心にとめていただけましたら大変ありがたいということと、あと一言だけ。
そういった多民族国家化していろいろ異なる文化が交わり合う、このことは必ずしもマイナスではない。例えば、移民国家であったアメリカ合衆国が活力を持ったのも、異なる文化を持っている民族同士が交わったことに一つの要因を持つということであります。
私、時間の配分を間違えまして、大分最後の方をはしょり過ぎましたが、これで私のお話を終わりたいと思います。
村
暉
暉峻淑子#6
○参考人(暉峻淑子君) 暉峻でございます。
私は、石毛さんもおっしゃったんですけれども、憲法の専門家ではないので何かここに伺うのは場違いであるような気がしていたんですが、もし私がここで憲法について何か語る資格があるとすれば、私は日常生活の中で憲法をかなり頻繁に身近に意識して暮らしている人間です。その点では実はきょうもあふれるほど申し上げたいことがあるのですけれども、時間の制約がありますので、きょうは具体的な私が行っているNGOの活動を通して体験的に私がたどり着いた憲法への考え、特に前文と九条と国際貢献の問題に絞ってお話をしたいと思います。
私は、先に結論を言いますと、九条や前文は非常に立派な、もちろん人権に関してですけれども、条文でありまして、国際貢献はこのままでも立派にできるということを考えております。血を流さなくても、血を流すよりももっとすばらしい国際貢献ができますし、世界に尊敬され、信頼され、平和をつくっていくということもできると思います。
これは、机上の議論ではないのです。
私は、足かけ八年にわたって、NGO・国際市民ネットワークの代表として、ユーゴの内戦による難民や、親と生き別れになった孤児あるいは死に別れた子もいますけれども、病院や老人たちの救援を続けております。
そのため、この四月で三十一回ユーゴを訪れ滞在しておりますし、空爆の最中もユーゴにおりました。クライナやコソボから何十万という難民が逃げてきたときにも、寝袋を持って学生たちと一緒に野宿して、ろうそくの光を頼りに赤ちゃんや老人の救援を続けてきました。
皆様方は写真やテレビで、きょう皆様にお渡ししておりますカラーコピーよりももっと悲惨な状況はもう既に御存じだと思いますけれども、時間の制約もありますので、きょうは写真に沿って私の話をさせていただきたいと思います。
つまり、これは悲惨だから助けなさいという意味でこういうコピーをお渡ししているのではありません。こういう救援の仕事をしながら憲法のことを私がどういうふうに感じたかということをお話ししたいために、たくさんあったんですけれども、ごく少しのものを選びました。
一枚目ですけれども、これは、難民が一番最初に逃げてくるときというのは大体こういう状況です。それで、どこか建物の中に入れてもらえれば幸せな方で、古い倉庫とかもう廃屋になったところに入ることができる人もいますけれども、馬車に乗って逃げてきたり徒歩で逃げてきたりした人たちは、最初はもう野宿して、外でせいぜいたき火をして暖をとる。その中では、もちろん赤ちゃんとか老人とかは死んでいく人もいますし、逃げてくる難民の列に、これは誤爆か本当の空爆かわかりませんけれども爆弾が投下されるということもありまして、本当に悲惨な状況です。
私がなぜこういうことにかかわるようになったかということをごく簡単に言いますと、私は一九九三年にウィーン大学の客員教授をしていました。一年間講義やゼミを持ったんですが、その中にユーゴから来ている学生がいまして、ユーゴの状況、内戦の悲惨さを訴えるわけですね。それで、ぜひ一度自分の祖国に行ってくれと言われて、私は七〇年代、ユーゴがまだ非同盟中立国として西と東の橋渡しをしていた時期にユーゴに短期間滞在したこともあったものですから、イースターのお休みにユーゴを訪ねました。
それで、さっき言いましたように、孤児は本当にかわいそうな状況にいる。年金が払われない老人たちはもう餓死するよりしようがない。暖房がない病院で凍死していく患者がいる。無料食堂の前はもう長蛇の列です。子供たちは、日本なら簡単に治る病気であっても薬がないので死んでいきます。
一つエピソードを申し上げますと、私がある病院に行ったときに、そこの医者が私にこのようなことを言ったんですね。実は自分は、ある病室の戸をあけたらそこに若い医者が立っていた、状態がただならないのでその医者を廊下に連れ出してどうしたと聞いたら、薬もない、患者は苦しんで苦しんで、何にもしてやれない、もうこれだったら患者を殺した方が幸せではないかと思って実は自分は殺そうと思ってその患者のまくら元に立っていたんだ、そこにあなたが戸をあけたのでそのことを思いとどまったんだけれども、一体医者として自分は何ができるんだと、そう言ったと言うんですね。
本当に土気色でヤギの子供のような声しか出ないような子供も、私がそこのそばへ寄ると、何かほほ笑もうと努力するのを見て、もう本当に正視することができないという感じでした。
帰国後、国際市民ネットワークを設立しまして、学生のボランティアと一緒に、個人の寄附をもとにして八年間、ずっと救援を足を洗うことができないで続けてきたわけです。
その救援の中で私は、ここに自衛隊がもし出てきていたらどういうことになったんだろう、人道援助の私たちの援助活動は一体どういう効果というか平和のために意味を持っているんだろうということをしばしば考え、黙っていても頭の中にそれが浮かんできて、また学生とも話し合いました。
最後に締めくくりとしてそのことは申し上げますけれども、ユーゴに関しては、ほかでもそういうことが多いのでこれはユーゴの問題だけじゃないんですけれども、戦争が起こるときというのは非常に不自然な形で起こってくるんですね。
例えば、東独が統一で解体されて、東独から武器がずっと流れてくる。それから、アルバニアの社会主義政権が崩れて、武器庫が襲われてそこから武器が大量に流れ込んでくるということがあります。
私がずっと市民や難民の間にいて感じることは、戦争というのは自然発生的に決して起こるものではなくて、そこにその武器が入ってきたり、それから社会主義の世界が崩れていくとか、それからあおる者、あおる人というのは必ずいるんですね。
難民たちにアンケート調査をして、一体いつごろから民族憎悪というのがあなたたちに意識され出したかと聞いてみると、それは、民族主義者の政治家がそこで政権をとったり、かなり実力を発揮し得る地位についたころからざっと変わってくるというのが、そのアンケート調査の結果でもよくわかります。
それで、民族憎悪とか宗教憎悪というのは、そういう言葉で片づけるともうとても簡単にわかりやすいのでそういうふうに片づけられているんですけれども、例えば、ちょっと例えが余りよくないかもしれませんが、柳条湖事件というのがあの十五年戦争のときに起こりました。これも実は日本の軍隊が鉄道を爆破したのに、そうじゃなくて中国人が爆破したんだということで世論を操作して、けしからぬ、じゃ軍隊が出ていかなくちゃということになったわけですけれども、それと似たようなことはいっぱいあるわけですね。
これはスイスで出された新聞なんですが、(資料を示す)皆様も御承知かと思いますが、アメリカのタイムという雑誌に、コンベニックというボスニアの兵士がセルビアの強制収容所に入れられて、食べ物も何にももらえなくて虐待されて、あばら骨がこんなに出ていて、セルビアけしからぬという、そういうのが世界を駆けめぐったわけです。
ところが、ピーター・ブロックという新聞記者がこの本人を訪ね当ててみたら、何とこの兵士はセルビア人だったんですね。それで、結核の持病を持っていてすごくやせていて、これを鉄条網の前に立たせて、それでセルビアが強制収容所でこういうふうに虐待しているということがもうざっと地球を回ってしまう。
一例しか時間の制約があって挙げられませんけれども、その他そういういろんな戦争に向かう世論操作が行われて、そしてあるとき戦争になる。
しかし、市民たちは、クロアチア人もボスニア人も、大体難民の収容所にはいろんな民族が一緒に入っているわけですけれども、聞いてみると、私たちの日常生活の中ではそんなに民族憎悪なんてなかった、もう本当に仲よくやっていた、私のおばさんは何人だし、私の母は何民族、父はこういう民族でと、もう混血がすごく進んでいてそんなことは意識したこともなかったという人たちが本当にほとんどなんですね。
それで、例えば東西ドイツでも、ホーネッカーとかアデナウアーはしきりに西の悪口を言い、東の悪口を言って国民に敵がい心を植えつけるんですけれども、ドイツ人そのものは本当に水面下で私たちは同じドイツ人なんだということで早く統一してほしい、統一してほしいと言い続けていた。
これは朝鮮でもそうなんですね。政治家がいかにあおっても、政治家って、全部の政治家ではありません、ごく一部の政治家がそれをあおっても、国民の意識というのはそうではなくて、共存を願っている。仲よくしていくにこしたことはない、助け合っていきたいという気持ちは根強く持っています。ユーゴの場合も全くそうでした。
それで、そういうときに必要なのは、やっぱり人道援助というのが一番必要だと思います。私たちは本当にこういう命からがら逃げてきた、一ページ目、二ページ目のころは衣食住、医薬品を主として持っていきます。そのときに、日本の学生、若者を連れていくということで日本の側にも人道援助というものは非常に大きなプラスをもたらしました。
日本の若者は、偏差値とかなんとかという競争を経てきているので、自分の人間としての価値を偏差値とかいい大学に入っているということで知らず知らずのうちに判定しているわけですけれども、こういう修羅場に連れていって、だれから命令されるのでもない、指示されるのでもないけれども、自分の人間性を呼び起こして適切な行動をとるしかないということになると、実にいい行動をしてくれるんですね。
物を配るだけでなくて、まだ日没まで時間があれば子供たちを集めて一緒に歌を歌ってくれたり励ましたり、それからおばあさんたちの背中をなでてあげたり、本当にこれが日本で見た学生かなというように、すばらしい自主性と人道的な態度をとってくれます。お互いの異文化の中で、つたない英語を使っても難民は英語もわからないので、そこを何とか身ぶりでやったり相手の行動から察して彼らは人道的な活動をしてくれます。
それで、助け合うということは私は人間の本能であり基本だと思っているんですけれども、そういうことをするとどういういいことがあるかということなんですが、ユーゴの、国境なき援助をしていますから、実は私たちの活動をあの人たちは恩に着ていた、恩を感じていたらしいんですね。
阪神大震災が起こったときに私のところにファクスが入ってきて、本当にあなたたちのお世話になった、今度こそ恩返しをしたい、私たちは貧乏だけれども、ぜひ震災の直後の春休みにテントの中にいる子供たちをホームステイに連れてきてくださいと、心から恩返しをしたいと言ってきたんですね。
でも、あなたの国はそれどころではないでしょうと私は返信を送ったんですが、一夜にしてすべてを失ったという難民を身内に抱えている私たちは、一夜にして失った人の気持ちはよくわかる、物はないけれども心で子供たちを助けたいと言ってくれました。
阪神の子は、もちろん春休みにテントから抜け出て向こうへ行ってホームステイしたんですけれども、本当に大事にされまして、難民キャンプを訪れたり子供病院を訪れたりしたんですけれども、阪神の子供たちが一番心の糧になったのは、難民の子供たちが阪神の子供を迎えて、不幸の中にも一つだけいいことがあると、そういうことをおばあさんから教わった、それが今わかりましたと。私たちは難民キャンプにいたので日本のこういう友達をつくることができた、本当にうれしいというようなことを言ってくれたり、難民の子供から励まされて、神戸の子供たちは本当に元気になって帰ってきました。
それでおしまいと思っていたら、神戸の子供たちは、私には黙って、毎日曜日に周りの家から不用品を出してもらって、それをフリーマーケットで売って、自分たちもまだ仮設にいるのに、その売上金を貯金して、私にある日、暉峻先生、僕たち七十八万までためたよ、これで今度ユーゴの子供を日本に呼んでやりたいと言うんですね。六甲山まで行ってかき氷を売ったり手づくりのはがきを売ったりして、これが日本の若者か、子供たちかと、私の方が本当に胸を打たれました。
それで、私も一生懸命に努力して神戸にユーゴの子を呼び返しました。ホームステイをして、広島に連れていったんですが、広島の原爆資料館を見せた後、出口に出てきたユーゴの子はもうみんな泣いていました。そして、本当に平和は大事だということを口々に言いました。
こういうことは、人道援助をしていれば、それが波紋の上にまた波紋を生んで、次々にこういう人間関係が出てくるわけですね。これは人道援助というもののよさで、ミサイル一発一億円以上、もう二億円、日本はもっと高いと言われていますが、そういうものを撃ち込むよりも、事前に戦争になる前ぶれというのはいろいろあるわけですから、そこから私たちは人道援助あるいは技術移転、経済援助をして、何とか戦争を防ぐことができないのか、そして軍備に使うお金をこうやって人道援助に使っていけば、平和をつくっていくということのとても大きな力になると思いました。
学生がもうへとへとに疲れて援助をして帰ろうとしたら、私たちが帰るトラックのところに有名な文学者で作家でチョーシッチという人が来て、学生にこう言いました。困難なときにこんなにして来てくださったことを私たちは永久に忘れません、私は年寄りだけどこの御恩返しをきっと私の息子たちが日本に対してしてくれるでしょう、もしそれが長く貧乏でできないとしても神様がかわってあなた方に恩返しをしてくれると思いますという言葉を言ってくれました。
学生たちは、そういうものに接すると、先生、僕は自分がこんなに価値がある人間だと思っていなかったと言うんです。成績とかそういうことでいつもできるできないということで思っていたので、僕は自分の価値に目覚めましたと言って、本当に変わります。こんなに人道援助というのはいいのに、そしてそれは憲法が私たちに教えてくれたものなんですね。
次のページに行きますが……
この発言だけを見る →私は、石毛さんもおっしゃったんですけれども、憲法の専門家ではないので何かここに伺うのは場違いであるような気がしていたんですが、もし私がここで憲法について何か語る資格があるとすれば、私は日常生活の中で憲法をかなり頻繁に身近に意識して暮らしている人間です。その点では実はきょうもあふれるほど申し上げたいことがあるのですけれども、時間の制約がありますので、きょうは具体的な私が行っているNGOの活動を通して体験的に私がたどり着いた憲法への考え、特に前文と九条と国際貢献の問題に絞ってお話をしたいと思います。
私は、先に結論を言いますと、九条や前文は非常に立派な、もちろん人権に関してですけれども、条文でありまして、国際貢献はこのままでも立派にできるということを考えております。血を流さなくても、血を流すよりももっとすばらしい国際貢献ができますし、世界に尊敬され、信頼され、平和をつくっていくということもできると思います。
これは、机上の議論ではないのです。
私は、足かけ八年にわたって、NGO・国際市民ネットワークの代表として、ユーゴの内戦による難民や、親と生き別れになった孤児あるいは死に別れた子もいますけれども、病院や老人たちの救援を続けております。
そのため、この四月で三十一回ユーゴを訪れ滞在しておりますし、空爆の最中もユーゴにおりました。クライナやコソボから何十万という難民が逃げてきたときにも、寝袋を持って学生たちと一緒に野宿して、ろうそくの光を頼りに赤ちゃんや老人の救援を続けてきました。
皆様方は写真やテレビで、きょう皆様にお渡ししておりますカラーコピーよりももっと悲惨な状況はもう既に御存じだと思いますけれども、時間の制約もありますので、きょうは写真に沿って私の話をさせていただきたいと思います。
つまり、これは悲惨だから助けなさいという意味でこういうコピーをお渡ししているのではありません。こういう救援の仕事をしながら憲法のことを私がどういうふうに感じたかということをお話ししたいために、たくさんあったんですけれども、ごく少しのものを選びました。
一枚目ですけれども、これは、難民が一番最初に逃げてくるときというのは大体こういう状況です。それで、どこか建物の中に入れてもらえれば幸せな方で、古い倉庫とかもう廃屋になったところに入ることができる人もいますけれども、馬車に乗って逃げてきたり徒歩で逃げてきたりした人たちは、最初はもう野宿して、外でせいぜいたき火をして暖をとる。その中では、もちろん赤ちゃんとか老人とかは死んでいく人もいますし、逃げてくる難民の列に、これは誤爆か本当の空爆かわかりませんけれども爆弾が投下されるということもありまして、本当に悲惨な状況です。
私がなぜこういうことにかかわるようになったかということをごく簡単に言いますと、私は一九九三年にウィーン大学の客員教授をしていました。一年間講義やゼミを持ったんですが、その中にユーゴから来ている学生がいまして、ユーゴの状況、内戦の悲惨さを訴えるわけですね。それで、ぜひ一度自分の祖国に行ってくれと言われて、私は七〇年代、ユーゴがまだ非同盟中立国として西と東の橋渡しをしていた時期にユーゴに短期間滞在したこともあったものですから、イースターのお休みにユーゴを訪ねました。
それで、さっき言いましたように、孤児は本当にかわいそうな状況にいる。年金が払われない老人たちはもう餓死するよりしようがない。暖房がない病院で凍死していく患者がいる。無料食堂の前はもう長蛇の列です。子供たちは、日本なら簡単に治る病気であっても薬がないので死んでいきます。
一つエピソードを申し上げますと、私がある病院に行ったときに、そこの医者が私にこのようなことを言ったんですね。実は自分は、ある病室の戸をあけたらそこに若い医者が立っていた、状態がただならないのでその医者を廊下に連れ出してどうしたと聞いたら、薬もない、患者は苦しんで苦しんで、何にもしてやれない、もうこれだったら患者を殺した方が幸せではないかと思って実は自分は殺そうと思ってその患者のまくら元に立っていたんだ、そこにあなたが戸をあけたのでそのことを思いとどまったんだけれども、一体医者として自分は何ができるんだと、そう言ったと言うんですね。
本当に土気色でヤギの子供のような声しか出ないような子供も、私がそこのそばへ寄ると、何かほほ笑もうと努力するのを見て、もう本当に正視することができないという感じでした。
帰国後、国際市民ネットワークを設立しまして、学生のボランティアと一緒に、個人の寄附をもとにして八年間、ずっと救援を足を洗うことができないで続けてきたわけです。
その救援の中で私は、ここに自衛隊がもし出てきていたらどういうことになったんだろう、人道援助の私たちの援助活動は一体どういう効果というか平和のために意味を持っているんだろうということをしばしば考え、黙っていても頭の中にそれが浮かんできて、また学生とも話し合いました。
最後に締めくくりとしてそのことは申し上げますけれども、ユーゴに関しては、ほかでもそういうことが多いのでこれはユーゴの問題だけじゃないんですけれども、戦争が起こるときというのは非常に不自然な形で起こってくるんですね。
例えば、東独が統一で解体されて、東独から武器がずっと流れてくる。それから、アルバニアの社会主義政権が崩れて、武器庫が襲われてそこから武器が大量に流れ込んでくるということがあります。
私がずっと市民や難民の間にいて感じることは、戦争というのは自然発生的に決して起こるものではなくて、そこにその武器が入ってきたり、それから社会主義の世界が崩れていくとか、それからあおる者、あおる人というのは必ずいるんですね。
難民たちにアンケート調査をして、一体いつごろから民族憎悪というのがあなたたちに意識され出したかと聞いてみると、それは、民族主義者の政治家がそこで政権をとったり、かなり実力を発揮し得る地位についたころからざっと変わってくるというのが、そのアンケート調査の結果でもよくわかります。
それで、民族憎悪とか宗教憎悪というのは、そういう言葉で片づけるともうとても簡単にわかりやすいのでそういうふうに片づけられているんですけれども、例えば、ちょっと例えが余りよくないかもしれませんが、柳条湖事件というのがあの十五年戦争のときに起こりました。これも実は日本の軍隊が鉄道を爆破したのに、そうじゃなくて中国人が爆破したんだということで世論を操作して、けしからぬ、じゃ軍隊が出ていかなくちゃということになったわけですけれども、それと似たようなことはいっぱいあるわけですね。
これはスイスで出された新聞なんですが、(資料を示す)皆様も御承知かと思いますが、アメリカのタイムという雑誌に、コンベニックというボスニアの兵士がセルビアの強制収容所に入れられて、食べ物も何にももらえなくて虐待されて、あばら骨がこんなに出ていて、セルビアけしからぬという、そういうのが世界を駆けめぐったわけです。
ところが、ピーター・ブロックという新聞記者がこの本人を訪ね当ててみたら、何とこの兵士はセルビア人だったんですね。それで、結核の持病を持っていてすごくやせていて、これを鉄条網の前に立たせて、それでセルビアが強制収容所でこういうふうに虐待しているということがもうざっと地球を回ってしまう。
一例しか時間の制約があって挙げられませんけれども、その他そういういろんな戦争に向かう世論操作が行われて、そしてあるとき戦争になる。
しかし、市民たちは、クロアチア人もボスニア人も、大体難民の収容所にはいろんな民族が一緒に入っているわけですけれども、聞いてみると、私たちの日常生活の中ではそんなに民族憎悪なんてなかった、もう本当に仲よくやっていた、私のおばさんは何人だし、私の母は何民族、父はこういう民族でと、もう混血がすごく進んでいてそんなことは意識したこともなかったという人たちが本当にほとんどなんですね。
それで、例えば東西ドイツでも、ホーネッカーとかアデナウアーはしきりに西の悪口を言い、東の悪口を言って国民に敵がい心を植えつけるんですけれども、ドイツ人そのものは本当に水面下で私たちは同じドイツ人なんだということで早く統一してほしい、統一してほしいと言い続けていた。
これは朝鮮でもそうなんですね。政治家がいかにあおっても、政治家って、全部の政治家ではありません、ごく一部の政治家がそれをあおっても、国民の意識というのはそうではなくて、共存を願っている。仲よくしていくにこしたことはない、助け合っていきたいという気持ちは根強く持っています。ユーゴの場合も全くそうでした。
それで、そういうときに必要なのは、やっぱり人道援助というのが一番必要だと思います。私たちは本当にこういう命からがら逃げてきた、一ページ目、二ページ目のころは衣食住、医薬品を主として持っていきます。そのときに、日本の学生、若者を連れていくということで日本の側にも人道援助というものは非常に大きなプラスをもたらしました。
日本の若者は、偏差値とかなんとかという競争を経てきているので、自分の人間としての価値を偏差値とかいい大学に入っているということで知らず知らずのうちに判定しているわけですけれども、こういう修羅場に連れていって、だれから命令されるのでもない、指示されるのでもないけれども、自分の人間性を呼び起こして適切な行動をとるしかないということになると、実にいい行動をしてくれるんですね。
物を配るだけでなくて、まだ日没まで時間があれば子供たちを集めて一緒に歌を歌ってくれたり励ましたり、それからおばあさんたちの背中をなでてあげたり、本当にこれが日本で見た学生かなというように、すばらしい自主性と人道的な態度をとってくれます。お互いの異文化の中で、つたない英語を使っても難民は英語もわからないので、そこを何とか身ぶりでやったり相手の行動から察して彼らは人道的な活動をしてくれます。
それで、助け合うということは私は人間の本能であり基本だと思っているんですけれども、そういうことをするとどういういいことがあるかということなんですが、ユーゴの、国境なき援助をしていますから、実は私たちの活動をあの人たちは恩に着ていた、恩を感じていたらしいんですね。
阪神大震災が起こったときに私のところにファクスが入ってきて、本当にあなたたちのお世話になった、今度こそ恩返しをしたい、私たちは貧乏だけれども、ぜひ震災の直後の春休みにテントの中にいる子供たちをホームステイに連れてきてくださいと、心から恩返しをしたいと言ってきたんですね。
でも、あなたの国はそれどころではないでしょうと私は返信を送ったんですが、一夜にしてすべてを失ったという難民を身内に抱えている私たちは、一夜にして失った人の気持ちはよくわかる、物はないけれども心で子供たちを助けたいと言ってくれました。
阪神の子は、もちろん春休みにテントから抜け出て向こうへ行ってホームステイしたんですけれども、本当に大事にされまして、難民キャンプを訪れたり子供病院を訪れたりしたんですけれども、阪神の子供たちが一番心の糧になったのは、難民の子供たちが阪神の子供を迎えて、不幸の中にも一つだけいいことがあると、そういうことをおばあさんから教わった、それが今わかりましたと。私たちは難民キャンプにいたので日本のこういう友達をつくることができた、本当にうれしいというようなことを言ってくれたり、難民の子供から励まされて、神戸の子供たちは本当に元気になって帰ってきました。
それでおしまいと思っていたら、神戸の子供たちは、私には黙って、毎日曜日に周りの家から不用品を出してもらって、それをフリーマーケットで売って、自分たちもまだ仮設にいるのに、その売上金を貯金して、私にある日、暉峻先生、僕たち七十八万までためたよ、これで今度ユーゴの子供を日本に呼んでやりたいと言うんですね。六甲山まで行ってかき氷を売ったり手づくりのはがきを売ったりして、これが日本の若者か、子供たちかと、私の方が本当に胸を打たれました。
それで、私も一生懸命に努力して神戸にユーゴの子を呼び返しました。ホームステイをして、広島に連れていったんですが、広島の原爆資料館を見せた後、出口に出てきたユーゴの子はもうみんな泣いていました。そして、本当に平和は大事だということを口々に言いました。
こういうことは、人道援助をしていれば、それが波紋の上にまた波紋を生んで、次々にこういう人間関係が出てくるわけですね。これは人道援助というもののよさで、ミサイル一発一億円以上、もう二億円、日本はもっと高いと言われていますが、そういうものを撃ち込むよりも、事前に戦争になる前ぶれというのはいろいろあるわけですから、そこから私たちは人道援助あるいは技術移転、経済援助をして、何とか戦争を防ぐことができないのか、そして軍備に使うお金をこうやって人道援助に使っていけば、平和をつくっていくということのとても大きな力になると思いました。
学生がもうへとへとに疲れて援助をして帰ろうとしたら、私たちが帰るトラックのところに有名な文学者で作家でチョーシッチという人が来て、学生にこう言いました。困難なときにこんなにして来てくださったことを私たちは永久に忘れません、私は年寄りだけどこの御恩返しをきっと私の息子たちが日本に対してしてくれるでしょう、もしそれが長く貧乏でできないとしても神様がかわってあなた方に恩返しをしてくれると思いますという言葉を言ってくれました。
学生たちは、そういうものに接すると、先生、僕は自分がこんなに価値がある人間だと思っていなかったと言うんです。成績とかそういうことでいつもできるできないということで思っていたので、僕は自分の価値に目覚めましたと言って、本当に変わります。こんなに人道援助というのはいいのに、そしてそれは憲法が私たちに教えてくれたものなんですね。
次のページに行きますが……
村
暉
暉峻淑子#8
○参考人(暉峻淑子君) はい。
私たちは、ただ物をくれてやるだけではなくて、憲法に言う自立それから人間らしく生きる、生存権だけではなくて人間の尊厳ということを無意識に考えます。
それで、次のページは、自立していくための編み物の指導をして、自分で生きがいを持ちお金を得ることができる。その次は、もう最後はしょりますけれども、ミシンの工房をキャンプの中につくりました。ここで私たちは寝泊まりして一緒に、難民たちがオーバーコートを縫えるまで朝から晩まで指導して、一番最後は、これは難民の人たちが村の子供を呼んで自分の縫った洋服のファッションショーをしたところです。
それで、そのあとも、ずっと日本の新聞にもその状況が書かれているのですけれども、申し上げたいことは、本当に憲法はいい。労働の権利ということも私たちは知っているので、難民の人たちにただ物を施すというだけではなくて、この人たちが一人の人間として生きていけるように、あるいは教育の権利、それから文化に浴する権利、こういうものを考えて、最後に、この四月に地域の合唱団の子供たちを連れて文化に浴することのない難民キャンプでコーラスをして、難民キャンプの子供たちと一緒に歌を歌ったり遊んだりしました。
一番最後のページは、これは、さっき言った阪神の子供が自分たちの復興をもっといい形で恩返しをして、ユーゴやそのほかの子供たちと交流をやろうとしているところです。
最後に一言。
軍事文化と人権文化というのがあります。軍事文化というのは、やっぱり秘密主義、命令で上からやる、それから恨みを呼びやすい。さっき言った間違った情報の上に誤って武力を使うということもあります。軍拡は、もう今のNMDでもTMDでも核でも、いつまでも予算を大きくする。
それに比べると、助け合うということは、本当に今言ったようないろんないいものを生んでいくわけで、私は、殺されない権利というのはもちろんあるわけですけれども、殺さない権利というものをとても大事だと思う。人を殺したくないという権利というのはあると思うんです。ツィビルディーンスト、徴兵を拒否して福祉施設で働くというのもその一つでしょうけれども、私は、やっぱり憲法というのはその道を示しているとてもいいものだと。これは机上の理論じゃなくて、本当に私の具体的な活動の中で感じていることです。
以上で終わります。
この発言だけを見る →私たちは、ただ物をくれてやるだけではなくて、憲法に言う自立それから人間らしく生きる、生存権だけではなくて人間の尊厳ということを無意識に考えます。
それで、次のページは、自立していくための編み物の指導をして、自分で生きがいを持ちお金を得ることができる。その次は、もう最後はしょりますけれども、ミシンの工房をキャンプの中につくりました。ここで私たちは寝泊まりして一緒に、難民たちがオーバーコートを縫えるまで朝から晩まで指導して、一番最後は、これは難民の人たちが村の子供を呼んで自分の縫った洋服のファッションショーをしたところです。
それで、そのあとも、ずっと日本の新聞にもその状況が書かれているのですけれども、申し上げたいことは、本当に憲法はいい。労働の権利ということも私たちは知っているので、難民の人たちにただ物を施すというだけではなくて、この人たちが一人の人間として生きていけるように、あるいは教育の権利、それから文化に浴する権利、こういうものを考えて、最後に、この四月に地域の合唱団の子供たちを連れて文化に浴することのない難民キャンプでコーラスをして、難民キャンプの子供たちと一緒に歌を歌ったり遊んだりしました。
一番最後のページは、これは、さっき言った阪神の子供が自分たちの復興をもっといい形で恩返しをして、ユーゴやそのほかの子供たちと交流をやろうとしているところです。
最後に一言。
軍事文化と人権文化というのがあります。軍事文化というのは、やっぱり秘密主義、命令で上からやる、それから恨みを呼びやすい。さっき言った間違った情報の上に誤って武力を使うということもあります。軍拡は、もう今のNMDでもTMDでも核でも、いつまでも予算を大きくする。
それに比べると、助け合うということは、本当に今言ったようないろんないいものを生んでいくわけで、私は、殺されない権利というのはもちろんあるわけですけれども、殺さない権利というものをとても大事だと思う。人を殺したくないという権利というのはあると思うんです。ツィビルディーンスト、徴兵を拒否して福祉施設で働くというのもその一つでしょうけれども、私は、やっぱり憲法というのはその道を示しているとてもいいものだと。これは机上の理論じゃなくて、本当に私の具体的な活動の中で感じていることです。
以上で終わります。
村
村上正邦#9
○会長(村上正邦君) ありがとうございました。
これより参考人に対する質疑に入ります。
質疑のある方はあらかじめ届け出ていただいておりますので、順次御発言を願います。
本日は、通常と違いまして逆回りでお願いをしたいと思っております。まず、佐藤道夫委員からお願いいたします。
この発言だけを見る →これより参考人に対する質疑に入ります。
質疑のある方はあらかじめ届け出ていただいておりますので、順次御発言を願います。
本日は、通常と違いまして逆回りでお願いをしたいと思っております。まず、佐藤道夫委員からお願いいたします。
佐
佐藤道夫#10
○佐藤道夫君 ということで、最初に口火を切ると、大変光栄に存じております。どうかよろしくお願いします。
先生方、きょうは大変貴重な御意見をありがとうございました。大変参考になりました。
そこで、私から一問ずつちょっとお伺いいたしたいと思いますが、最初に石毛先生に、民族学が御専門ということなので大変よかったと思います。今回問題になっております森首相の発言、日本は天皇を中心とする神の国ですか、これについて民族学者として、また同時に憲法にそれなりに関心をお持ちの立場から見てどのようにお考えなのか、それをちょっと簡単で結構ですからまず伺いたい、こう思います。
この発言だけを見る →先生方、きょうは大変貴重な御意見をありがとうございました。大変参考になりました。
そこで、私から一問ずつちょっとお伺いいたしたいと思いますが、最初に石毛先生に、民族学が御専門ということなので大変よかったと思います。今回問題になっております森首相の発言、日本は天皇を中心とする神の国ですか、これについて民族学者として、また同時に憲法にそれなりに関心をお持ちの立場から見てどのようにお考えなのか、それをちょっと簡単で結構ですからまず伺いたい、こう思います。
石
石毛直道#11
○参考人(石毛直道君) まず、天皇を中心にして神の国だったというのは、もしそうだとしたら、私は二つ日本の歴史の中にあったと思います。これは奈良時代よりももっと前のことです。例えば卑弥呼に見られるように、政治とそれから宗教がかなり一体化していた、ですから政治事をまつりごとと呼びますね、そういった時代と、それからもう一つは私は明治時代になってからだろうと思います。
それで、例えば奈良時代になりますと、実は飛鳥時代からもう始まっているわけですが、奈良時代ですと、皇室とそれから神道の関係だけじゃなくて、皇室と今度寺社の関係が大変強くなります。ですから、天皇の詔で諸国に国分寺というお寺を建てさせるようなことになる。それで、そのうち天皇の実効支配というか、かなりもう既に平安時代になりますと天皇は何か象徴化されてきます。
そういった中でも、神の国だけではなくて天皇家と宗教のかかわりでいったら仏の国でもあるわけです。つまり、天皇自身がある時期から大体仏教の葬送儀礼である火葬に移ります。それから上皇になったかつての天皇は寺院に住んだりする。あるいは門跡寺院というところに親王さんたちが行く。
そういったふうに考えたら、実は日本は神の国であったのは、明治以降かなりそれが強化されてあって、その間は実は天皇家との関係においても神の国だけではなくて仏の国とも言わなきゃならない、そういったものであったと考えた方がいいだろう。
それから、憲法上の解釈について、私は余り専門ではありませんで、ちょっと控えさせていただきたく存じます。
この発言だけを見る →それで、例えば奈良時代になりますと、実は飛鳥時代からもう始まっているわけですが、奈良時代ですと、皇室とそれから神道の関係だけじゃなくて、皇室と今度寺社の関係が大変強くなります。ですから、天皇の詔で諸国に国分寺というお寺を建てさせるようなことになる。それで、そのうち天皇の実効支配というか、かなりもう既に平安時代になりますと天皇は何か象徴化されてきます。
そういった中でも、神の国だけではなくて天皇家と宗教のかかわりでいったら仏の国でもあるわけです。つまり、天皇自身がある時期から大体仏教の葬送儀礼である火葬に移ります。それから上皇になったかつての天皇は寺院に住んだりする。あるいは門跡寺院というところに親王さんたちが行く。
そういったふうに考えたら、実は日本は神の国であったのは、明治以降かなりそれが強化されてあって、その間は実は天皇家との関係においても神の国だけではなくて仏の国とも言わなきゃならない、そういったものであったと考えた方がいいだろう。
それから、憲法上の解釈について、私は余り専門ではありませんで、ちょっと控えさせていただきたく存じます。
佐
佐藤道夫#12
○佐藤道夫君 次は、暉峻先生にお伺いいたしますが、先生の周辺にいる学生たちの感触、感覚なんですけれども、どこかで国際紛争が起こるとPKOを派遣するということになりますけれども、我が国の場合には血を流さない、武器を使わないということが原則的な建前になっておるものですから、どうしても危険地帯には行くことができない。後方で道路の補修とか食糧の支援、運搬などを行う。そうすると、最前線の最も危険なところではアメリカ、イギリス、フランス、ドイツの青年たちが血を流していると。それについて日本の青年としてどういうふうに考えているのか、周辺におられる学生の気持ちだけでも結構ですから御披露いただければと思います。
この発言だけを見る →暉
暉峻淑子#13
○参考人(暉峻淑子君) 血を流すとか危ないとかということは、現地に行ってくださればすぐおわかりになると思うんですけれども、私たちはいつも一番危ないところにいるんです。この間も、NGOではありませんが、どなたかキルギスで亡くなられた方がありましたね。別に軍隊が危ないところにいるわけではなくて、NGO活動というのは、国境なき医師団もそうだと思いますけれども、私たちはいつも危ないところにいるわけです。
しかし、私たちの行動が武力じゃなくて本当に人道的な活動であるということは周りの人たちはすぐにわかってくれます。そうすると、みんなが私たちを守ろうとするし本当に感謝してくれるので、何の対立もなく今まで無事にやってこれた。ですから、危ないということは軍人だけがそこに当面するわけじゃない。だから、幾らでもほかの方法で、恨まれない方法でやることはできると思います。
この発言だけを見る →しかし、私たちの行動が武力じゃなくて本当に人道的な活動であるということは周りの人たちはすぐにわかってくれます。そうすると、みんなが私たちを守ろうとするし本当に感謝してくれるので、何の対立もなく今まで無事にやってこれた。ですから、危ないということは軍人だけがそこに当面するわけじゃない。だから、幾らでもほかの方法で、恨まれない方法でやることはできると思います。
佐
村
佐
村
水
村
水
水野誠一#20
○水野誠一君 参議院クラブの水野でございます。
きょうは大変貴重なお話を伺えてありがとうございました。
私は、特に石毛先生の「文化麺類学ことはじめ」なんかを初めとして食文化の本を多く読ませていただいておりまして、きょうは食関係だけではなくて非常に幅広くお話を伺えたと思います。
先生がおっしゃっている中で、特に帝国主義の時代から経済大国の時代、そしてこれから文化大国を目指す、こういう時代なんだということは大変私も同感なんですが、まず一つ伺いたいのは、文化大国を目指していくというこの時代になったときに、現在の憲法の中で何か足りない部分、つまりそういう何か先生のお気づきの点があればひとつ伺わせていただきたいというふうに思っております。
この発言だけを見る →きょうは大変貴重なお話を伺えてありがとうございました。
私は、特に石毛先生の「文化麺類学ことはじめ」なんかを初めとして食文化の本を多く読ませていただいておりまして、きょうは食関係だけではなくて非常に幅広くお話を伺えたと思います。
先生がおっしゃっている中で、特に帝国主義の時代から経済大国の時代、そしてこれから文化大国を目指す、こういう時代なんだということは大変私も同感なんですが、まず一つ伺いたいのは、文化大国を目指していくというこの時代になったときに、現在の憲法の中で何か足りない部分、つまりそういう何か先生のお気づきの点があればひとつ伺わせていただきたいというふうに思っております。
石
石毛直道#21
○参考人(石毛直道君) 実は私、こういった機会がありましたので、久しぶりにけさ新幹線の中で憲法を読んできたわけでございますが、足らないということはどうも感じなかったんです。むしろこれは憲法の問題というよりも国家の政策の問題ではないかと思います。
例えば、国家の未来を考えたときに、我々はどういう目標を置くのか。現在の日本国は教育大国それから科学技術創造立国を目指すと言われていますが、例えば科学技術創造立国のようなことは、これは本当に国家の目的なのか手段なのかということでございます。
科学技術が繁栄して豊かになったらそれは大変いいことです。しかし、豊かになることが目標なのか、あるいはそれは手段であって、日本国家が繁栄したらそれを一体何に使うのか、そういった国家目標の設定。その中で私は、今まで大変弱くて、しかしながらこれからの世界にとって国家の勲章として役に立つようなそういったものというのは、結局文化をおいてはないという考えをしているわけでございます。
何か御質問の趣旨をすりかえたようなことになりましたが、よろしくお願いします。
この発言だけを見る →例えば、国家の未来を考えたときに、我々はどういう目標を置くのか。現在の日本国は教育大国それから科学技術創造立国を目指すと言われていますが、例えば科学技術創造立国のようなことは、これは本当に国家の目的なのか手段なのかということでございます。
科学技術が繁栄して豊かになったらそれは大変いいことです。しかし、豊かになることが目標なのか、あるいはそれは手段であって、日本国家が繁栄したらそれを一体何に使うのか、そういった国家目標の設定。その中で私は、今まで大変弱くて、しかしながらこれからの世界にとって国家の勲章として役に立つようなそういったものというのは、結局文化をおいてはないという考えをしているわけでございます。
何か御質問の趣旨をすりかえたようなことになりましたが、よろしくお願いします。
水
水野誠一#22
○水野誠一君 もう一つ石毛先生に伺いたいと思いますが、これからもう一つの方向として多民族国家を目指していくべきだということが最後の結論でございました。それによってこれからの日本に活力がまたよみがえってくるのではないかというお話もございました。
そこで伺いたいんですが、文化人類学的に見た場合、多民族国家の方が他国に対する理解度、つまり非常に純粋・単一民族国家よりも他国との関係においても理解力、理解度というものが増していくということ、こういうことは何か証明されているのかどうか、そういった点について伺いたいと思います。
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石
石毛直道#23
○参考人(石毛直道君) これはちょっと証明するのは大変難しいことでございますのですが。
多民族国家では、例えばカナダとかオーストラリアのようなところ、そういったところでは多民族国家であることを前提としました多文化教育という面がなされています。また、これは生涯教育でもありまして、例えばその国に住んでいる複数の民族の言語での新聞を出したり、あるいは放送局をつくったり、あるいは図書館はそういったさまざまな言語でのものをそろえるという、一つの文化だけじゃなくて国内の多数の文化を尊重するという立場であります。
そういった中でやっていますと、自分の文化、自分の所属する文化と国内の別のグループの文化の違いというのがわかり、それを違うことを意識することによって自分たちの文化に対する理解度がそれだけまた逆に高まるという、そういったことはございます。
ただし、この多文化主義というのは一方ではコストが膨大にかかるものであり、日本のような国家で、理念としての多文化主義は大変結構だけれども、実行面としてすべてのことについて多文化主義のポリシーでやったら、これは大変お金がかかることになります。ですから、ある外国人が多い地方だとか、いろんなこれは地方で考えなきゃならないと思います。
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そういった中でやっていますと、自分の文化、自分の所属する文化と国内の別のグループの文化の違いというのがわかり、それを違うことを意識することによって自分たちの文化に対する理解度がそれだけまた逆に高まるという、そういったことはございます。
ただし、この多文化主義というのは一方ではコストが膨大にかかるものであり、日本のような国家で、理念としての多文化主義は大変結構だけれども、実行面としてすべてのことについて多文化主義のポリシーでやったら、これは大変お金がかかることになります。ですから、ある外国人が多い地方だとか、いろんなこれは地方で考えなきゃならないと思います。
水
水野誠一#24
○水野誠一君 ありがとうございました。
それでは、次に暉峻先生に伺いたいと思います。
先生のユーゴにおけるNGO活動、大変敬意を表したいと思っております。一つそこで伺いたいんですが、戦争にもいろいろな歴史があるわけですが、国家間の戦争から冷戦期を経て今地域紛争の時代に入ってきている。
そういった変化の中で、国際貢献の意味というのも非常に大きくなってきていると思うんですが、日本国憲法、これは大変先生が評価をされているということもよくわかりますが、こういった地域紛争というものがなかった時代、戦争のあり方がちょっと違った時代における平和憲法ということを前提としたときに、今のようなこういう地域紛争の時代における国際貢献をなさるときに、今の憲法で何か不備な点、あるいはもう少し概念的にこういうふうに変えていった方がいいんじゃないかというような点というのはないのかどうか。ちょっと難しい質問で恐縮なんですが、ざっくばらんなところでお答えいただければと思います。
この発言だけを見る →それでは、次に暉峻先生に伺いたいと思います。
先生のユーゴにおけるNGO活動、大変敬意を表したいと思っております。一つそこで伺いたいんですが、戦争にもいろいろな歴史があるわけですが、国家間の戦争から冷戦期を経て今地域紛争の時代に入ってきている。
そういった変化の中で、国際貢献の意味というのも非常に大きくなってきていると思うんですが、日本国憲法、これは大変先生が評価をされているということもよくわかりますが、こういった地域紛争というものがなかった時代、戦争のあり方がちょっと違った時代における平和憲法ということを前提としたときに、今のようなこういう地域紛争の時代における国際貢献をなさるときに、今の憲法で何か不備な点、あるいはもう少し概念的にこういうふうに変えていった方がいいんじゃないかというような点というのはないのかどうか。ちょっと難しい質問で恐縮なんですが、ざっくばらんなところでお答えいただければと思います。
暉
暉峻淑子#25
○参考人(暉峻淑子君) 私は、今のところ、憲法を読み返してみていますけれども、不備なところとか必要なところというのは発見できません。
今の条文の中で私たちがどういうふうに動いていくかという、この自分たちのいわゆる行為が大事なのであって、法律の文章をああしろこうしろと言っても、特に何か余り効果もないし変わらない。私たちがどう行動し、どういう人生を生きるかということなんだろうなというふうに思っています。
どうも素人的で申しわけありません。
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どうも素人的で申しわけありません。
水
村
大
大脇雅子#28
○大脇雅子君 社会民主党の大脇でございます。
石毛先生に一問お尋ねをいたしたいと思います。
私は、日比混血児の親捜しの運動に弁護士としてかかわったことがございます。子供たちの親を捜して経済的な支援を求めるのが主たる目的のように最初は受けとめていたんですが、子供たちと話す中で、子供たちは自分のアイデンティティー探しをしているんだと、そしてそういう子たちと話をする中で、私はこの子たちというのは日本とフィリピンをつなぐ友好と文化のかけ橋なんだということに深く心打たれまして、先生がおっしゃったニューカマーという、いわば強固なふるさとといいますか故国に対してアイデンティティーを持ちながら移住する人たちということがやはり二十一世紀の大きい問題であるというふうに思うわけです。ただ、日本では大変、幾つかの差別がございます。そういう人たちを受け入れる心優しい文化というのが育っていないわけですけれども、先生は、今日本に置かれているそういう人たちに対する差別というものをどうしたら解消できるかという点についてお尋ねをします。
この発言だけを見る →石毛先生に一問お尋ねをいたしたいと思います。
私は、日比混血児の親捜しの運動に弁護士としてかかわったことがございます。子供たちの親を捜して経済的な支援を求めるのが主たる目的のように最初は受けとめていたんですが、子供たちと話す中で、子供たちは自分のアイデンティティー探しをしているんだと、そしてそういう子たちと話をする中で、私はこの子たちというのは日本とフィリピンをつなぐ友好と文化のかけ橋なんだということに深く心打たれまして、先生がおっしゃったニューカマーという、いわば強固なふるさとといいますか故国に対してアイデンティティーを持ちながら移住する人たちということがやはり二十一世紀の大きい問題であるというふうに思うわけです。ただ、日本では大変、幾つかの差別がございます。そういう人たちを受け入れる心優しい文化というのが育っていないわけですけれども、先生は、今日本に置かれているそういう人たちに対する差別というものをどうしたら解消できるかという点についてお尋ねをします。
石
石毛直道#29
○参考人(石毛直道君) 差別をなくすことは、結局、これはまず人々が情報を持つことである、それからそういった情報を人々に日常的にどんどん与えること、それの大変具体的なところは私は教育であろうと思います。
それで、先ほどもちょっと申し上げましたが、地理的な条件もあり、我々は歴史的に異民族と接して暮らすことがなかった。だから、体験がないから、我々がすることなすこと歴史的な蓄積を持たずに、それでいてこれから異文化と接することが多くなる。そういったときの我々の何げない行動が実は相手の文化を逆なでしていて、差別されたということになるかもしれない。そういう意味では、我々日本人は差別する民族性を持っていると言われるようになることを私は大変恐れています。
それでいて、残念ながら日本の公教育ではそういったことを教えるカリキュラムがちゃんとしておりません。これはかなり海外の国家では公教育の中の公民教育でそういった文化に対する違い、そういったものに対する態度のようなものを教えていますが、残念ながらまだ我々の国では本格的にはなされていないということです。
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それでいて、残念ながら日本の公教育ではそういったことを教えるカリキュラムがちゃんとしておりません。これはかなり海外の国家では公教育の中の公民教育でそういった文化に対する違い、そういったものに対する態度のようなものを教えていますが、残念ながらまだ我々の国では本格的にはなされていないということです。