佐々木毅の発言 (憲法調査会)
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○佐々木参考人 佐々木でございます。よろしくお願いいたします。
本日は、本調査会におきまして発言の機会を与えられましたことを、まことに光栄であると存じているところでございます。本日、私は、二十一世紀の日本の政治の展望に即して憲法をめぐる諸課題についてお話をすることにいたしたいと思いますが、何分にも先生方が政治の専門家でいらっしゃいますので、私の申し上げるべきことがそんなにたくさんあるのかどうか、非常にじくじたる思いできょうは参りました。
本日の私の発題の中心は、政治をめぐる仕組みの問題とさせていただきたいと思いまして、いわゆる政策にかかわるような事柄について言及するつもりはございません。二十世紀の終わりに当たりまして、これまでやり残したことといったことを確認した上で、来るべき世紀における日本の政治の仕組みをめぐる論点としてどのようなものが登場し得るのか、それらが憲法とどのように関連し得るのかについて、大変微力ではございますけれども、所見を述べさせていただきたいと思うわけでございます。
大変簡単なレジュメしかお手元にお渡しすることができず、恐縮でございますが、この順番に従ってお話をさせていただきたいと思います。
まず「一、「政治主導」の始動〜官主導の世紀との決別〜」ということでございます。
くしくも二十一世紀の劈頭に当たりまして、日本の政治は政治主導体制というものを文字どおり本格的に始動させることになりました。これは、十年余り前に始まりました政治の改革のいわば最終的目的地とでもいうべきものであると私は考えております。
この間のさまざまな諸改革の中で、政治の改革が先行したということは、これまでの仕組みの有効性が大なり小なり失われたという認識に基づき、政治が変わらない限りほかのものを変えることには限界があるという判断に基づくものであったと存じます。
これらの諸改革が戦後かつてなかったほどの制度や法律の大幅な見直しを求める以上、政治の責任はこの間ますます大きくなったことは言うまでもございません。政治は、眼前の利害調整だけに専念しているわけにはいかなくなりまして、広い意味での構造的な諸問題にもかかわらざるを得なくなったわけであります。これを表現するのが、一般に言われるところの官主導から政治主導へというキャッチフレーズだと思っております。
ある意味で、官主導体制と言われるものが構造的な諸問題のいわば根幹であるという認識ができるわけでありまして、したがいまして、それに依存するのではなくて、国民の負託を受けてそのあり方を改革するということが政治の課題になってきたわけであります。その意味で、今日本の政治は、これまでのいろいろな政治の改革の努力を踏まえて、新しいステップを踏み出そうとしているというふうに私は認識しております。
通常、政治の改革といえば政治と金の問題だという認識がまだ世間には広くございます。これはいわば政治をめぐる永遠のテーマだろうと私は思っておりますが、しかし、歴史的な展望を踏まえてこの官主導から政治主導へというテーマを考えてみますと、政治に問われておりますのは、端的に申しまして、政策を中心とした統治能力であろうというふうに考えます。そして、政治主導がこれを提供できるかどうか、これが焦眉の急であるというわけでございます。
そうした政策面を中心とした統治能力を現実化すべく、いろいろな制度の改正がこの間行われてまいりました。国会における政府委員の廃止や副大臣、政務官制度、官邸機能の強化などがあるわけでございますが、同時に、いよいよ現在の段階になりますと、政治主導の内実というものが一体いかなるものであるかということがむしろ問題になる段階に入ったかと思っております。したがって、制度の枠をつくるという仕事を終えて、そこにどのような中身を盛るのかということが国民の主たる関心事になってきておるわけであります。
問題は、この政治主導の内容について国会議員の方々がどのようなイメージをお持ちになっているのかということが、その意味で次の関心事になるわけでございます。
この点はなお、必ずしもはっきりいたしません。あるいはいろいろな意見があってもよろしいかとは思うんですけれども、しかし、事柄自体極めて重要でありますので、こうしたことについて政党政治の側で意見の集約をお進めいただくことはどうしても必要なことではないかと思います。
私の意見を申し上げますと、例えば政治主導というものを、官僚にかわって政治家が答弁したり、官僚にかわって政策のイニシアチブをとることだといった形で理解するのは、一見もっともではございますけれども、不十分であるという認識を持っております。
官主導体制の一番の問題点は、官僚制というものが、仕切られた権限を前提にして活動せざるを得ない点にあると思います。そして、このことを是正する手段を官僚制は持っていないことが一番の究極的な問題だと思います。これは個々のお役人の善意や悪意とは必ずしも関係のない事態でございまして、そういう制度的な制約のもとで官僚制というものは動いているということでございます。したがいまして、こうした仕組みから必然的に割拠性とか縦割りといった弊害が出てくるのは必至のことでございまして、まさにこのことにどう向かい合うかということが、政治主導をぎりぎり詰めていったときに出てくる非常に重要なポイントになるかと思います。
仮に、政治の側がお役所と同じように縦割り化し、それをいわば同じような形で縦割り的に応援するというようなことになりますと、これは官主導を再生産していることとどこが違うのかという話に少なくとも効果の面ではなってしまうわけであります。その意味で、政治主導は、この点をぎりぎり詰めていきますと、政策面での体系性、つまり縦割り性に対して体系性と、それからばらばらなものを計画づけるあるいは優先順位をつけるという意味での計画性を可能な限り実現し、それを通して政治の戦略性とでもいうべきものを高めることに帰着するのではないかというふうに私は考えるわけでございます。
もちろん、この体系性とか計画性というのは決してイデオロギー的なものを必ずしも意味するわけではございません。それぞれの具体的な状況の中で何をどのような手順でやっていくのかということについて整理をする作業というのは、統治においては基本的に重要な役割でございまして、残念ながら行政官庁は、自分たちの所管について意見を申し述べることは一生懸命でありますけれども、それを彼らがお互いに調整するということになりますと、結局割拠的な形でしか調整することができないという当たり前のこと、これをどう政治の力で、政治の能力でもって乗り越えていくかということが一つの究極的なポイントになるかと思います。
そして、今回の政治主導の制度的プランを拝見いたしますと、これは内閣という公式制度を中心にこうした政治の戦略性あるいは政治主導の戦略性を実現することを目的にするものであるというふうに理解されるところでございます。
こうした構想の実現に向かって新世紀の政治が敢然と挑戦することは、私にとりましてまことに喜びにたえないところでございますが、そのために克服すべき課題もたくさんあると思います。しかし、これらのほとんどの課題は憲法問題でもなければ法律問題でも必ずしもなく、ほとんどが政治的な慣習、慣行の問題であると考えられるわけです。つまり、その意味で、政治家の方々自身の問題、処理できる問題であるというふうに言っていいと思います。
例えば、政策面での内閣と与党の二元的な運営方式をどのように一元化するのか、大臣任期に代表されるような人事の頻繁な交代で政治の戦略性は実現できるであろうかといった素朴な疑問は、国民が広く抱いているところでございます。多くの政治学者が言っておりますように、大臣の数を多く生産することと内閣の統治能力とはトレードオフの関係にあるというようなことがあるわけでございますが、そういったような事柄があることは否定できないわけであります。
また、このトップリーダーの任期と政策のあり方とは決して無関係ではないのでありまして、人事の慣行が政策内容に非常に悪い影響を及ぼすというようなことが起こるならば、これは改めていく必要があると思われます。
また、政治主導と行政の中立性とのバランスを現実にどのように担保していくのかについても、新たなルールづくりが求められていると思われます。今国会で御議論になっていると聞いておりますいわゆるあっせん利得をめぐる新しい法制度の整備はそういう役割を果たし得るかと思いますけれども、実はもっと問題は大きいのではないかと私は考えております。
また、政策面における政治の統治能力を高めることを目標とする以上、その担い手となる人材資源を常にキープし、あるいはそのために必要な努力を日常的に積み重ねていく必要があることは言うまでもございません。
これらいろいろ課題をあえて述べさせていただきましたが、それはどういう趣旨を持つかといいますと、政治主導に取り組む際に非常に大きな緊張感を持って取り組んでいただきたいと考えるわけでございます。そして、先ほど申しました政治的慣行や慣習を変えるというのは、ある意味では法律を変えるよりも難しいという面があるわけでございますが、一歩ずつでも見直しの努力を着実に進めるということ、あるいは諸政党の間で、政治主導のあり方についてこれ自身を競争のいわばテーマにしていくということなど、いろいろ工夫のしようがあるのかなというふうに愚考しているところでございます。
そして、今回始まります政治主導の結果は、基本的に日本の議会制の将来にとって重大な意味を持つと考えられます。もしそれが、いろいろな政治主導についての国民の期待があるわけでございますが、それにかなり合致しないというようなことが起こる、あるいは当初期待したのと、むしろもっと悪い事態が起こるというようなことが判明いたしますと、日本の議会制そのものの統治能力に陰りが生ずるということにもなり得るからでございます。
実際、昨今のいろいろな情勢を勘案いたしますと、二十世紀の後半につくられたいろいろな政治のやり方というものはだんだん有効性を失い始めているやに見えるわけでございまして、現に政党からの有権者の離脱状況、あるいはそういう意味で政党不信の広がりは、議会制の将来にとって極めて憂慮すべき事態であろうと思います。
その意味で、この政治主導体制の構築は新しく議会制を創造するというような意気込みを前提としたものであるべきでありまして、これまでの議会制の実態と議会制そのものを、言葉はちょっと適切じゃないかもしれませんけれども、いわば心中させるようなことがあってはならないと私自身は考えております。
以下の私の議論は、こういう意味での政治主導が近い将来に迫りくる財政問題や高齢社会問題に取り組んでしかるべき形で成果を上げ、政党政治に対する国民の信頼が定着するということを前提とした話でございます。もしこの前提が崩れますと、残念ながらいろいろなシナリオの書きかえを求められることになるおそれがあるわけでございます。
そこで、二番目として、「「政治主導」と憲法政治」ということについてお話しさせていただきます。
政治主導というものの一つの成熟形態は、憲法問題を国民の意向を踏まえながら冷静に取り扱うことができる段階に到達したときに、成熟したというふうな言い方ができるかとも思います。そして、これまでの二十世紀の日本の政治はこうした形で憲法問題を取り扱うことが必ずしもできなかったというのが、一つの歴史的な総括であろうかと思います。
個別の条項についていろいろ議論するに先立ちまして政党政治が主体的に判断しなければならないのは、政党政治がこうした大問題を扱うのに十分な強さと自信を備えているかどうかという点について判断することであると思います。それゆえ、私は、政治主導による実績が一定程度上げられた段階を前提にして、この重大な憲法にかかわる問題に踏み出すのが上策、それができればの話でございますが、特にこれはタイミングの問題でありますが、上策であるというふうに考えるわけでございます。
もちろん、同時に力説しなければいけないのは、憲法にかかわる問題がすべて国民生活にとって直接重大な影響を及ぼすものでないことも事実でございます。例えば国会にかかわるいろいろな条項について改正を発議するということは、必ずしもこれは国民にとって直接的に重大な影響を及ぼすとは限らない問題でございます。ですから、このような問題から順次憲法問題に取り組むというやり方も考えられると思います。
ですから、端的に申し上げれば、国会の仕組みというあたりをまず一つの目標にしてお考えになるということは、取り組み方の手順としてはそれなりの合理性を備えているのではないだろうかというわけでございます。この点については、また後で少し述べさせていただきたいと思います。
ただし、この改正の手続をめぐる問題ということに即して申しますと、特に国会の発議がほとんどないということ、あるいは発議があることが考えられないということ、これは実態の問題と同時に心理的な問題がそこにあるかと思いますが、結果として、日本国憲法は一種の不磨の大典のようになってしまう。このことをどう考えたらいいだろうかということでございまして、九十六条、特に国会の発議の条件についてどのように政治的な判断を下すかということが非常に重要でございます。九十六条問題、特に国会の発議の要件をどうするか、これ自身は憲法問題でありますけれども、これはもう高度に政治問題だろうというふうに思われます。
したがって、発議が事実上できないようにしていく、あるいはできないと当事者が観念するようにしておくということは、政党政治にとって、さらには国民と政治の関係においてどのような意味を持つのか、これをぜひ御議論をお願いしたいと思いますし、以下、私なりの所感を申し上げるつもりでございます。
最近の世論調査の動向を見る限り、国民は、もし国会が改正発議をするならばそれを受けとめる用意があるという傾向を強めつつあるようでございます。その意味で、絶対的な改正反対論はだんだん少なくなってきております。世論は、二十一世紀の社会的必要に応じて憲法を見直し、それを一定程度つくりかえていく、あるいは少なくともつくりかえていくことを考える意向を示し始めているように察せられるわけであります。特に、若い世代にはそうした傾向はかなり顕著でありますが、同時に、若い世代はほとんど関心がないのにそういう傾向だけは顕著であるということは、なかなか難しい問題でございます。
同時に、先生方お気づきのように、見直しを求める論点なるものは非常に多岐にわたるようになってまいりました。私の世代などに特徴的な第九条一辺倒の憲法改正の時代と大分様子が変わってきているようでございます。特に注目されるのは、政治の仕組みの改革を求める主張が非常に顕在化しているということでございます。こうした動きをどう受けとめたらいいのか。問題が政治そのものの仕組みだということになりますと、この受けとめ方がまた一段と難しいものがあるというふうに考えます。
こうした政治の仕組みを変えたいというような議論が出てきたときに、とにかく発議はできないんだという手続論で実質論を抑え込み続けるということが果たしてどこまでできるのか。これは問題が問題であるだけに、従来とは違った観点から考える必要があろうかと思います。
逆に申しますと、国民と憲法、国民の憲法をめぐるいろいろな意見と政治の動きとの間のギャップが余りにも甚だしくなりますと、憲法の改正という問題が現実化したときには憲法そのものが限りなく空洞化しているということも起こり得るわけでございまして、この点、私は政治学者の一人としても非常に注目している点でございます。国民との関係が一つございます。
もう一つは、政治のあり方として、憲法改正の発議の問題は政治の場で事実上処理できない問題であるという状況をつくることが、政治にとっていいかどうかという問題があろうかと思います。
もちろん、いろいろなケースが考えられるわけでありますが、仮に、国会が国民生活にいろいろな意味で影響を及ぼす問題で憲法改正を発議することがそれほど難しくないという状況を仮定したとします。どういうことが起こるかといいますと、その場合、変えるということについて、いろいろな意味で、できるということがあるために、むしろ慎重かつ十分な決意を固めなければこうした問題に踏み込むことは逆に難しくなるということが考えられるわけであります。つまり、政治的なリスクや覚悟というものがその分求められるという、一見逆説的ではありますけれども、そういう面を、私は日本のこれまでの政治を見ていまして逆に感ずるところでございます。
ですから、憲法の問題について、各政党は、実際に動かし得る、発議し得るんだという条件が出てくれば出てくるほどある意味では慎重にならざるを得ない、あるいは真剣、あるいは緊張感を持ってこれに対応せざるを得なくなると思われますし、政党の間のみならず、政党内におきましても、この問題をめぐって緊張感は非常に高まることが予想されるわけでございます。つまり、変えるとか変えないとかについて、どういう態度を本当にとっているのか、あいまいな態度をとる余地がかえって少なくなるということが考えられるわけであります。
その意味で、これまでの政治史を振り返ってみますと、戦後の一時期を除きますと、政党政治の憲法に対する態度は賛否両論、いろいろ改正問題について態度の違いはございましたけれども、こういった今すぐ動くかもしれないといったような緊張感とはかなり違ったものではなかったかなというふうに思うわけであります。
改正発議の現実的可能性がほとんどないところで、あるいはないという前提のもとで憲法論議を繰り返しているという事態は一体いかなる意味を持つのか。あるいは、ひょっとするとマイナス効果も出てこないとも限らない、そういう問題を含んでいるように思いますし、私自身の認識で言いますと、政治全体のよどみというものがその分長続きするということにもなるという言い方もできるかもしれません。いずれにせよ、問題がなかなか整理できない、やるならやる、やらないならやらない、この整理ができないという事態をつくってきた可能性もあるわけであります。
したがって、政治と憲法との間によい意味での緊張感を回復するためには、改正発議の条件を今よりも緩和するという問題が一つ考えられるんだ、これは一考に値するテーマだろうというふうに考えております。ただし、もしそういうことを考えれば、直ちに続々と改憲の提案がなされるのではないかという危惧が述べられることは私も容易に想像するところでございますが、逆に、できるようになるということは、それだけの決意と覚悟なしにはできないということでございましょうから、そう事態は単純ではないように思われるわけであります。
また、誤解のないように申し述べますと、国民投票というものがその後に控えておりまして、そこでどのような要件を課するかということについては、これは発議の条件と別にまた議論をする余地があるのかなというふうに思います。
結論的に申しますと、二十一世紀の日本の政治が憲法改正の発議に一切かかわりなしにその役割を十分に果たし得るかどうか、これについては、決定的なことは申し上げられませんけれども、私はかなり疑問ではないかというふうに思っております。これはいろいろなケースについて考えられます。もし現行の発議条件でも十分にそういうことができるんだということであれば、国民の間で比較的論争性が少ない条項についてそれを実行して、今の手続でもできるということを示す努力が真摯に続けられる必要があるわけでございまして、そういうことがないと、発議条件の問題を今のまま維持していくということについてはなかなか難しい問題が出てくるのではないかというふうに愚考しているところでございます。
それから、次に三番のところでございます。これはいろいろ細かい問題がございますが、「政治及び政治制度をめぐる諸問題」ということで、やや個別的な論点について、必ずしも包括的ではございませんけれども、幾つかの点について申し上げたいと思います。
一が、政党の位置づけでございます。
これは、政党を憲法に位置づけ、その役割と責任を明確にするという提案でございます。政党が、憲法に具体的な定めがないにもかかわらず、公的な政策及び人事面で実に巨大な影響力を行使しております。この点で政党は、官僚制と並んで、憲法に明確な規定のない最大の権力集団であるというふうに考えられるわけであります。もちろん、近年は政党交付金を支給されるというようなことを通して公的な存在として法律的に位置づけられるようになりましたが、いずれにせよ、この政党という存在をプライベートな結社として法的に放置しておくことは非常に大きな問題をはらむ、あるいは少なくともわかりにくいことになるのではないかというふうに思います。
ここでの私の意図は、憲法で政党について細かな規定を置くことが趣旨ではございません。その眼目は、政党が民主政治と国民主権の実現のための一種の公器としての性格を有する、したがってそれにふさわしい開放性と公開性を持たなければならないことを記せば足りるというふうに考えます。それを受けまして、細目は例えば政党法というような形でいろいろなことを規定する余地も出てくるかと思いますが、いずれにいたしましても、日本の政治における非常に大事な役割を果たす主体について何も規定を置かないでいいというのは、国民的に見て理解しがたいことになっているのではないだろうかというふうに思います。
それはまた、政党というものに対する不信感を払拭する上でも、基本的に、それに正面から応答する上でも大事な対応措置ではないのか。そして、国政や権力の担い手として政党がいかに実質を十分備えているかということを国民が判断する材料を政党側で提供していく、こういう関係をきっちりつくることが政党の安定性を、国民の間に政党に対する信頼感を醸成するという意味で大事でありますし、なかんずく、議会制は政党なしには動かないのでありまして、議会制を維持し守っていくということであるならば、それだけ政党については国民の信頼を得るような措置を憲法も含めてお考えになるのが一つのあり方ではないだろうかというふうに私は考えております。
以上が、細かく言うといろいろありますけれども、aの問題でございます。
bの問題に移らせていただきます。
これもいろいろ議論はあろうかと思いますけれども、私は憲法学者ではございませんので、必ずしも網羅的なことを申し上げる用意はございませんが、例えば国会について憲法にかかわる問題がいろいろあり得るということは、例えば参議院の将来を考える懇談会といったものが意見書を出しておりますが、その中でもそういう論点が多数触れられているわけでございます。その中でも言われておるわけですが、国会の運営にかかわる会期不継続の原則といったようなものは廃止ないしは大幅に見直すべきでないかという提案がなされております。
もちろんこれは、これだけを取り上げるというわけにはいかないものだと私は思っておりますし、例えば法案の逐条審議や読会制を入れるというようなこととセットでこの問題を考える、これはある種やはり憲法問題だろうと思っております。いずれにしても、国会の運営について、二十世紀にいろいろな工夫をしてきたわけでございますけれども、やはり大枠で見直さなければならない問題が残ったのではないだろうかということの一つの例でございます。
私は、国民は国会審議の実質的な充実を切望しているわけでありまして、与野党間の審議なき取引といったものに関心を持つ国民はほとんどいなくなっているのではないだろうかというふうに思います。なかんずく、国会は立法権を持っているというふうに言われておりますが、本当の意味で法律の条文について審議しているのかどうかということに国民は疑いの目を持っている。あるいは、端的に申しますと、本当に予算案について審議しているのかということがわからない予算委員会がある。この辺の従来の慣行というものをやはりきっちり、余りにも乱れたものについては原則を再確認するということが新世紀に向かってなされるべきことである。
一定の範囲で憲法にかかわる見直しが必要であれば、この点について見直すことは国民はほとんど反対しないだろう。国会が年じゅう開催され、国会議員の先生方が今よりもたくさん働くようになるということに反対する国民はだれもいないだろうというふうに私も思っているところでございまして、会期の問題というあたりについて、いろいろな意見を申し述べることができるのではないかというふうに思います。
二番目の問題は、国会は二院、両院から成るということになっていますが、この国会の性格そのものが非常にわかりにくいという問題があります。
国会というのは、一つのまとまった一体として扱われるというように見えて、その中に実は非常に複雑なものが入り込んでいるのではないか。議会制の基本問題が二院制の問題であることは先生方既に御存じのところでございまして、いわゆる日本の二院制とは何であるのかということについて、私自身、考えれば考えるほどわからなくなってきているというのが現状でございます。
特に、参議院をめぐってはこれまでもいろいろな議論がございました。一院制でいくべきだという声は国民の中で決して小さくないやに見えるわけでございますが、しかし、そう簡単に一足飛びにいくというのは、かなり乱暴な議論だろうと思います。幾つかの段階を経て議論すべき論点がそれぞれあるのではないかというのが私の認識でございます。
例えば、衆議院と内閣との関係は、これは議会制の原則に従ってつくられていることは間違いございません。ところが、参議院と内閣の関係というのは非常に奇妙でございます。御案内のように、内閣不信任案というものはない、そういう決議権はない。そして同時に、参議院を解散することはもちろんできない。
これは、イメージとして言うと、大統領制下における議会と政府との関係にかなり近い面があるように見えるわけでございますが、それにもかかわらず、参議院は総理大臣の指名に加わるということをやっているわけです。アメリカの議会が大統領の指名に加わることはないように、そういうことはまず基本的にどういうことなのかなという疑問が出てまいります。しかも、参議院議員は、衆議院議員と同様に政府の大臣、首相にもなり得るわけでございますが、そのまま就任できるというような仕組みになっております。
つまり、参議院の問題というのは、この場で議論するのは適切かどうかわかりませんけれども、大統領制的な骨格の上に議会制的な論理が上乗せされているように私には見えるわけでございます。そうして、衆議院と参議院であわせて国会であると言われたときに、一体それは何なのかなということはなかなか整理が難しい。恐らくそういうところで先生方も御苦労されているのではないかなというわけでございます。参議院は、大統領制下の議会が持っております独立性を持っている。のみならず、議会制下の議会の持っている政権構築、政権参加の権限も持っているということでございます。これを一体どう整理したらいいんだろうか。
参議院の独自性をめぐる議論はいろいろございますが、既に独自性はその中にたっぷり入っているのではないかというのが私の意見でございまして、問題は、そこに切り込んできっちり整理するかどうかということに焦点があるわけでございます。その意味でいえば、参議院は良識の府、衆議院は何の府なのか、これはなかなか難しいところでありますけれども、権力をつくり、権力を運用する府ということになるかと思いますけれども、そういう議論のレベルではないんじゃないかなというふうに私自身は考えているところでございます。
その意味で、まず国会の整理、特に憲法を見ますと、国会議員はという書き方になっているんですけれども、どうもこの制度のつくり方からすると、やはり衆議院議員と参議院議員は相当違うという形で考えることもできるんではないか。そうしますと、膨大な条項をそれに絡んで整理しなければいけないという話になるのかもしれません。そのことは、逆を申しますと、内閣との関係がまたそれに従って整理が必要になってくるという可能性をも含んでいると思います。内閣の条項等につきましても、議論はいろいろできるかと思いますけれども、時間の関係もございますので、この辺でこのbの項目については話を閉じさせていただきたいと思います。
cですが、恐らく二十一世紀、中央、地方の関係をやはりもう一段整理することが必須になるのではないかなというふうに私は考えております。
これにつきましては、既に地方分権についてのいろいろな法案が通っておるわけでありますが、なお極めて不十分ではないだろうかというふうに私は思っております。むしろ憲法において、いずれ将来、いつぞやの段階において、中央政府、地方政府の役割分担を明確にせざるを得ない時期が来る、あるいはそうした方がいい時期が来るのではないかというのが私の主張でございます。
これは、いわゆる地方分権の徹底が必要であるという側面だけで議論するのは、私は間違いだと思っておりまして、中央政治の地方政治からの独立、解放という問題も、中央政治にとっては非常に重要なことではないか。これは両面あるわけでございまして、いわゆる中央による地方の支配なるものが地方の中央への浸透と表裏一体のシステムになっているということが、果たして十分透明性の高い、実効性のある政治というものにつながっているかどうか、この点について私は疑問を持っております。
国政と地方政治とは無関係では存在し得ないのでありますけれども、いわば雑然と重なり合っているという状態があるように見受けられるわけでありまして、特に、私は、そのことによって、いわば国政自体がいろいろな問題を抱えるようになってきているのではないのか。ですから、責任が重なっている状態、あるいは、俗な言葉で言えばもたれ合っている関係、これを一度整理をし、財源を含め、責任とコストの関係を可能な限り一元的に対応させるような仕組みに移すということは、恐らく財政問題等の過程で出てこざるを得ないのではないかと思っているわけであります。
いわば、中央政治は中央政治の役割をより明確にし、そこで自己責任、地方政治は地方政治なりの任務の中でその自己責任を果たすという、もう一段の中央、地方関係の整理というものが、二十一世紀の政治にとって、いずれにせよ避けられないのではないかというふうに私は思います。国政はより国政らしく、地方政治はより地方政治らしくしていくということ。その意味で、国政そのもののあり方を見直すことが実は中央、地方関係の見直しという問題にもつながる、そういう側面をあえて強調させていただきたいわけでございます。
あえて言えば、国政は与えられた任務を国際水準で達成するだけの機能アップが求められるわけでありまして、地方のいろいろな面倒を見るのが国政だというようなことでは国政が立ち行かないことになると思いますし、地方政治はやはり自分たちのコスト感覚を政治的にきっちりこなしていくという能力が求められるだろうと思いますし、そういう過程で、例えば地方自治体の数やサイズという問題がこれから大きな問題になってくる。
私の友人などでは、道州制というようなことを言う人間もふえてきておりますけれども、そういったような形で、今の都道府県の問題まで含めていろいろなアイデアが出てくる可能性があると思います。ですから、今の第八章を違った角度から書き直すといったような論点にこれはつながるかと思います。
時間が少なくなりましたので、dに移らせていただきます。国民の直接参加というテーマでございます。
これは九月二十九日の、具体的な新聞の名前を引用させていただいて恐縮でございますが、毎日新聞に掲載されました憲法世論調査によりますと、改憲論の具体的な内容は、第一に、首相を国民の直接投票で選べるようにする、第二に、重要な政策課題は国民投票で決める仕組みをつくるとのことでございます。これは、間接民主制や議会制にとってなかなか耳の痛い、あるいは深刻な傾向ないしは意見の表出でありまして、こうした雰囲気が広がりつつあることは、先生方のよく御存じのところでございます。これは、恐らく二十一世紀、なかなかなくならない一つの雰囲気ではないかなというふうに思うわけでございます。
同時に、その場合注意すべきは、この二つの要求は、地方政治においては事実上実現しているか、実現可能性のあるような要求でございまして、いわば中央政治と地方政治との間の制度間競争みたいなイメージで国民は中央と地方の政治を見ているという可能性が出てくる。ですから、決して実体的根拠のない話だとばかりは言えないというところが問題のスポットでございます。
私は、時間の関係もありまして、こういう主張あるいは要望に対して具体的に立ち入るつもりはございませんし、いろいろな反論が可能であると思いますが、最も説得的な反論は何であるかというと、これは大変単純なことになるかもしれませんけれども、現在の議会制が、その政治主導を内実のあるものにして、成果を現実に示していくということが一番いいいわば応答であることは言うまでもございません。
そして、いろいろな歴史を見ていきますと、この政治制度というものは、やはり成果を上げられなければだめになっていくということは歴然たる事実でございまして、その意味で最初に申し上げた問題に再び返っていくという形で、私の話を結ばせていただきたいと思います。
どうも失礼いたしました。(拍手)