憲法調査会
⚠️ 発言のコピー・転載時は出典元URL(kokkai.ndl.go.jpおよびkokkai-data.com)を必ず残してください。改変・出典削除は禁止です。 詳細は利用規約をご確認ください。
会
会議録情報#0
平成十二年十一月九日(木曜日)
午前九時二分開議
出席委員
会長 中山 太郎君
幹事 石川 要三君 幹事 高市 早苗君
幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君
幹事 鹿野 道彦君 幹事 島 聡君
幹事 仙谷 由人君 幹事 赤松 正雄君
幹事 塩田 晋君
岩崎 忠夫君 奥野 誠亮君
木村 太郎君 久間 章生君
新藤 義孝君 田中眞紀子君
中曽根康弘君 中山 正暉君
額賀福志郎君 根本 匠君
鳩山 邦夫君 平沢 勝栄君
保利 耕輔君 三塚 博君
水野 賢一君 村井 仁君
森山 眞弓君 柳澤 伯夫君
山崎 拓君 吉野 正芳君
五十嵐文彦君 石毛えい子君
枝野 幸男君 大出 彰君
今野 東君 中野 寛成君
藤村 修君 細野 豪志君
前原 誠司君 牧野 聖修君
山花 郁夫君 横路 孝弘君
太田 昭宏君 斉藤 鉄夫君
武山百合子君 藤島 正之君
塩川 鉄也君 春名 直章君
山口 富男君 金子 哲夫君
辻元 清美君 土井たか子君
日森 文尋君 横光 克彦君
近藤 基彦君 井上 喜一君
松浪健四郎君
…………………………………
参考人
(東京大学教授) 佐々木 毅君
参考人
(南山大学教授・法学博士
) 小林 武君
衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君
—————————————
委員の異動
十一月八日
辞任
藤島 正之君
同日
補欠選任
村井 仁君
同月九日
辞任 補欠選任
杉浦 正健君 吉野 正芳君
宮下 創平君 岩崎 忠夫君
山花 郁夫君 今野 東君
武山百合子君 藤島 正之君
山口 富男君 塩川 鉄也君
辻元 清美君 金子 哲夫君
土井たか子君 日森 文尋君
野田 毅君 井上 喜一君
同日
辞任 補欠選任
岩崎 忠夫君 宮下 創平君
吉野 正芳君 木村 太郎君
今野 東君 山花 郁夫君
藤島 正之君 武山百合子君
塩川 鉄也君 山口 富男君
金子 哲夫君 辻元 清美君
日森 文尋君 横光 克彦君
井上 喜一君 松浪健四郎君
同日
辞任 補欠選任
木村 太郎君 杉浦 正健君
横光 克彦君 土井たか子君
松浪健四郎君 野田 毅君
—————————————
本日の会議に付した案件
日本国憲法に関する件(二十一世紀の日本のあるべき姿)
午前九時二分開議
————◇—————
この発言だけを見る →午前九時二分開議
出席委員
会長 中山 太郎君
幹事 石川 要三君 幹事 高市 早苗君
幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君
幹事 鹿野 道彦君 幹事 島 聡君
幹事 仙谷 由人君 幹事 赤松 正雄君
幹事 塩田 晋君
岩崎 忠夫君 奥野 誠亮君
木村 太郎君 久間 章生君
新藤 義孝君 田中眞紀子君
中曽根康弘君 中山 正暉君
額賀福志郎君 根本 匠君
鳩山 邦夫君 平沢 勝栄君
保利 耕輔君 三塚 博君
水野 賢一君 村井 仁君
森山 眞弓君 柳澤 伯夫君
山崎 拓君 吉野 正芳君
五十嵐文彦君 石毛えい子君
枝野 幸男君 大出 彰君
今野 東君 中野 寛成君
藤村 修君 細野 豪志君
前原 誠司君 牧野 聖修君
山花 郁夫君 横路 孝弘君
太田 昭宏君 斉藤 鉄夫君
武山百合子君 藤島 正之君
塩川 鉄也君 春名 直章君
山口 富男君 金子 哲夫君
辻元 清美君 土井たか子君
日森 文尋君 横光 克彦君
近藤 基彦君 井上 喜一君
松浪健四郎君
…………………………………
参考人
(東京大学教授) 佐々木 毅君
参考人
(南山大学教授・法学博士
) 小林 武君
衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君
—————————————
委員の異動
十一月八日
辞任
藤島 正之君
同日
補欠選任
村井 仁君
同月九日
辞任 補欠選任
杉浦 正健君 吉野 正芳君
宮下 創平君 岩崎 忠夫君
山花 郁夫君 今野 東君
武山百合子君 藤島 正之君
山口 富男君 塩川 鉄也君
辻元 清美君 金子 哲夫君
土井たか子君 日森 文尋君
野田 毅君 井上 喜一君
同日
辞任 補欠選任
岩崎 忠夫君 宮下 創平君
吉野 正芳君 木村 太郎君
今野 東君 山花 郁夫君
藤島 正之君 武山百合子君
塩川 鉄也君 山口 富男君
金子 哲夫君 辻元 清美君
日森 文尋君 横光 克彦君
井上 喜一君 松浪健四郎君
同日
辞任 補欠選任
木村 太郎君 杉浦 正健君
横光 克彦君 土井たか子君
松浪健四郎君 野田 毅君
—————————————
本日の会議に付した案件
日本国憲法に関する件(二十一世紀の日本のあるべき姿)
午前九時二分開議
————◇—————
中
中山太郎#1
○中山会長 これより会議を開きます。
この際、御報告いたします。
お手元に配付したとおり、去る九月二十八日に御報告いたしました欧州各国憲法調査議員団の報告書が完成いたしました。調査活動の参考となれば幸いでございます。
また、憲法調査会では、国民各層に対する広報活動の一環として、今国会から、本調査会の活動状況をお知らせするため、「衆議院憲法調査会ニュース」を発行いたしております。念のため、御報告申し上げます。
なお、国立国会図書館で調査をさせておりました世界各国における憲法裁判所の所在がいかなるものか、その状況についての報告書が参りましたので、午後の会議の際に配付させていただくことをけさ幹事会で決定させていただきましたので、御了承願いたいと思います。
日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を進めます。
本日、午前の参考人として東京大学教授佐々木毅君に御出席をいただいております。
この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見を賜り、調査の参考にさせていただきたいと思います。
次に、議事の順序について申し上げます。
最初に参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと思います。
なお、御発言の場合はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承を願います。
御発言は着席のままでお願いいたします。
それでは、佐々木参考人、お願いいたします。
この発言だけを見る →この際、御報告いたします。
お手元に配付したとおり、去る九月二十八日に御報告いたしました欧州各国憲法調査議員団の報告書が完成いたしました。調査活動の参考となれば幸いでございます。
また、憲法調査会では、国民各層に対する広報活動の一環として、今国会から、本調査会の活動状況をお知らせするため、「衆議院憲法調査会ニュース」を発行いたしております。念のため、御報告申し上げます。
なお、国立国会図書館で調査をさせておりました世界各国における憲法裁判所の所在がいかなるものか、その状況についての報告書が参りましたので、午後の会議の際に配付させていただくことをけさ幹事会で決定させていただきましたので、御了承願いたいと思います。
日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を進めます。
本日、午前の参考人として東京大学教授佐々木毅君に御出席をいただいております。
この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見を賜り、調査の参考にさせていただきたいと思います。
次に、議事の順序について申し上げます。
最初に参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと思います。
なお、御発言の場合はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承を願います。
御発言は着席のままでお願いいたします。
それでは、佐々木参考人、お願いいたします。
佐
佐々木毅#2
○佐々木参考人 佐々木でございます。よろしくお願いいたします。
本日は、本調査会におきまして発言の機会を与えられましたことを、まことに光栄であると存じているところでございます。本日、私は、二十一世紀の日本の政治の展望に即して憲法をめぐる諸課題についてお話をすることにいたしたいと思いますが、何分にも先生方が政治の専門家でいらっしゃいますので、私の申し上げるべきことがそんなにたくさんあるのかどうか、非常にじくじたる思いできょうは参りました。
本日の私の発題の中心は、政治をめぐる仕組みの問題とさせていただきたいと思いまして、いわゆる政策にかかわるような事柄について言及するつもりはございません。二十世紀の終わりに当たりまして、これまでやり残したことといったことを確認した上で、来るべき世紀における日本の政治の仕組みをめぐる論点としてどのようなものが登場し得るのか、それらが憲法とどのように関連し得るのかについて、大変微力ではございますけれども、所見を述べさせていただきたいと思うわけでございます。
大変簡単なレジュメしかお手元にお渡しすることができず、恐縮でございますが、この順番に従ってお話をさせていただきたいと思います。
まず「一、「政治主導」の始動〜官主導の世紀との決別〜」ということでございます。
くしくも二十一世紀の劈頭に当たりまして、日本の政治は政治主導体制というものを文字どおり本格的に始動させることになりました。これは、十年余り前に始まりました政治の改革のいわば最終的目的地とでもいうべきものであると私は考えております。
この間のさまざまな諸改革の中で、政治の改革が先行したということは、これまでの仕組みの有効性が大なり小なり失われたという認識に基づき、政治が変わらない限りほかのものを変えることには限界があるという判断に基づくものであったと存じます。
これらの諸改革が戦後かつてなかったほどの制度や法律の大幅な見直しを求める以上、政治の責任はこの間ますます大きくなったことは言うまでもございません。政治は、眼前の利害調整だけに専念しているわけにはいかなくなりまして、広い意味での構造的な諸問題にもかかわらざるを得なくなったわけであります。これを表現するのが、一般に言われるところの官主導から政治主導へというキャッチフレーズだと思っております。
ある意味で、官主導体制と言われるものが構造的な諸問題のいわば根幹であるという認識ができるわけでありまして、したがいまして、それに依存するのではなくて、国民の負託を受けてそのあり方を改革するということが政治の課題になってきたわけであります。その意味で、今日本の政治は、これまでのいろいろな政治の改革の努力を踏まえて、新しいステップを踏み出そうとしているというふうに私は認識しております。
通常、政治の改革といえば政治と金の問題だという認識がまだ世間には広くございます。これはいわば政治をめぐる永遠のテーマだろうと私は思っておりますが、しかし、歴史的な展望を踏まえてこの官主導から政治主導へというテーマを考えてみますと、政治に問われておりますのは、端的に申しまして、政策を中心とした統治能力であろうというふうに考えます。そして、政治主導がこれを提供できるかどうか、これが焦眉の急であるというわけでございます。
そうした政策面を中心とした統治能力を現実化すべく、いろいろな制度の改正がこの間行われてまいりました。国会における政府委員の廃止や副大臣、政務官制度、官邸機能の強化などがあるわけでございますが、同時に、いよいよ現在の段階になりますと、政治主導の内実というものが一体いかなるものであるかということがむしろ問題になる段階に入ったかと思っております。したがって、制度の枠をつくるという仕事を終えて、そこにどのような中身を盛るのかということが国民の主たる関心事になってきておるわけであります。
問題は、この政治主導の内容について国会議員の方々がどのようなイメージをお持ちになっているのかということが、その意味で次の関心事になるわけでございます。
この点はなお、必ずしもはっきりいたしません。あるいはいろいろな意見があってもよろしいかとは思うんですけれども、しかし、事柄自体極めて重要でありますので、こうしたことについて政党政治の側で意見の集約をお進めいただくことはどうしても必要なことではないかと思います。
私の意見を申し上げますと、例えば政治主導というものを、官僚にかわって政治家が答弁したり、官僚にかわって政策のイニシアチブをとることだといった形で理解するのは、一見もっともではございますけれども、不十分であるという認識を持っております。
官主導体制の一番の問題点は、官僚制というものが、仕切られた権限を前提にして活動せざるを得ない点にあると思います。そして、このことを是正する手段を官僚制は持っていないことが一番の究極的な問題だと思います。これは個々のお役人の善意や悪意とは必ずしも関係のない事態でございまして、そういう制度的な制約のもとで官僚制というものは動いているということでございます。したがいまして、こうした仕組みから必然的に割拠性とか縦割りといった弊害が出てくるのは必至のことでございまして、まさにこのことにどう向かい合うかということが、政治主導をぎりぎり詰めていったときに出てくる非常に重要なポイントになるかと思います。
仮に、政治の側がお役所と同じように縦割り化し、それをいわば同じような形で縦割り的に応援するというようなことになりますと、これは官主導を再生産していることとどこが違うのかという話に少なくとも効果の面ではなってしまうわけであります。その意味で、政治主導は、この点をぎりぎり詰めていきますと、政策面での体系性、つまり縦割り性に対して体系性と、それからばらばらなものを計画づけるあるいは優先順位をつけるという意味での計画性を可能な限り実現し、それを通して政治の戦略性とでもいうべきものを高めることに帰着するのではないかというふうに私は考えるわけでございます。
もちろん、この体系性とか計画性というのは決してイデオロギー的なものを必ずしも意味するわけではございません。それぞれの具体的な状況の中で何をどのような手順でやっていくのかということについて整理をする作業というのは、統治においては基本的に重要な役割でございまして、残念ながら行政官庁は、自分たちの所管について意見を申し述べることは一生懸命でありますけれども、それを彼らがお互いに調整するということになりますと、結局割拠的な形でしか調整することができないという当たり前のこと、これをどう政治の力で、政治の能力でもって乗り越えていくかということが一つの究極的なポイントになるかと思います。
そして、今回の政治主導の制度的プランを拝見いたしますと、これは内閣という公式制度を中心にこうした政治の戦略性あるいは政治主導の戦略性を実現することを目的にするものであるというふうに理解されるところでございます。
こうした構想の実現に向かって新世紀の政治が敢然と挑戦することは、私にとりましてまことに喜びにたえないところでございますが、そのために克服すべき課題もたくさんあると思います。しかし、これらのほとんどの課題は憲法問題でもなければ法律問題でも必ずしもなく、ほとんどが政治的な慣習、慣行の問題であると考えられるわけです。つまり、その意味で、政治家の方々自身の問題、処理できる問題であるというふうに言っていいと思います。
例えば、政策面での内閣と与党の二元的な運営方式をどのように一元化するのか、大臣任期に代表されるような人事の頻繁な交代で政治の戦略性は実現できるであろうかといった素朴な疑問は、国民が広く抱いているところでございます。多くの政治学者が言っておりますように、大臣の数を多く生産することと内閣の統治能力とはトレードオフの関係にあるというようなことがあるわけでございますが、そういったような事柄があることは否定できないわけであります。
また、このトップリーダーの任期と政策のあり方とは決して無関係ではないのでありまして、人事の慣行が政策内容に非常に悪い影響を及ぼすというようなことが起こるならば、これは改めていく必要があると思われます。
また、政治主導と行政の中立性とのバランスを現実にどのように担保していくのかについても、新たなルールづくりが求められていると思われます。今国会で御議論になっていると聞いておりますいわゆるあっせん利得をめぐる新しい法制度の整備はそういう役割を果たし得るかと思いますけれども、実はもっと問題は大きいのではないかと私は考えております。
また、政策面における政治の統治能力を高めることを目標とする以上、その担い手となる人材資源を常にキープし、あるいはそのために必要な努力を日常的に積み重ねていく必要があることは言うまでもございません。
これらいろいろ課題をあえて述べさせていただきましたが、それはどういう趣旨を持つかといいますと、政治主導に取り組む際に非常に大きな緊張感を持って取り組んでいただきたいと考えるわけでございます。そして、先ほど申しました政治的慣行や慣習を変えるというのは、ある意味では法律を変えるよりも難しいという面があるわけでございますが、一歩ずつでも見直しの努力を着実に進めるということ、あるいは諸政党の間で、政治主導のあり方についてこれ自身を競争のいわばテーマにしていくということなど、いろいろ工夫のしようがあるのかなというふうに愚考しているところでございます。
そして、今回始まります政治主導の結果は、基本的に日本の議会制の将来にとって重大な意味を持つと考えられます。もしそれが、いろいろな政治主導についての国民の期待があるわけでございますが、それにかなり合致しないというようなことが起こる、あるいは当初期待したのと、むしろもっと悪い事態が起こるというようなことが判明いたしますと、日本の議会制そのものの統治能力に陰りが生ずるということにもなり得るからでございます。
実際、昨今のいろいろな情勢を勘案いたしますと、二十世紀の後半につくられたいろいろな政治のやり方というものはだんだん有効性を失い始めているやに見えるわけでございまして、現に政党からの有権者の離脱状況、あるいはそういう意味で政党不信の広がりは、議会制の将来にとって極めて憂慮すべき事態であろうと思います。
その意味で、この政治主導体制の構築は新しく議会制を創造するというような意気込みを前提としたものであるべきでありまして、これまでの議会制の実態と議会制そのものを、言葉はちょっと適切じゃないかもしれませんけれども、いわば心中させるようなことがあってはならないと私自身は考えております。
以下の私の議論は、こういう意味での政治主導が近い将来に迫りくる財政問題や高齢社会問題に取り組んでしかるべき形で成果を上げ、政党政治に対する国民の信頼が定着するということを前提とした話でございます。もしこの前提が崩れますと、残念ながらいろいろなシナリオの書きかえを求められることになるおそれがあるわけでございます。
そこで、二番目として、「「政治主導」と憲法政治」ということについてお話しさせていただきます。
政治主導というものの一つの成熟形態は、憲法問題を国民の意向を踏まえながら冷静に取り扱うことができる段階に到達したときに、成熟したというふうな言い方ができるかとも思います。そして、これまでの二十世紀の日本の政治はこうした形で憲法問題を取り扱うことが必ずしもできなかったというのが、一つの歴史的な総括であろうかと思います。
個別の条項についていろいろ議論するに先立ちまして政党政治が主体的に判断しなければならないのは、政党政治がこうした大問題を扱うのに十分な強さと自信を備えているかどうかという点について判断することであると思います。それゆえ、私は、政治主導による実績が一定程度上げられた段階を前提にして、この重大な憲法にかかわる問題に踏み出すのが上策、それができればの話でございますが、特にこれはタイミングの問題でありますが、上策であるというふうに考えるわけでございます。
もちろん、同時に力説しなければいけないのは、憲法にかかわる問題がすべて国民生活にとって直接重大な影響を及ぼすものでないことも事実でございます。例えば国会にかかわるいろいろな条項について改正を発議するということは、必ずしもこれは国民にとって直接的に重大な影響を及ぼすとは限らない問題でございます。ですから、このような問題から順次憲法問題に取り組むというやり方も考えられると思います。
ですから、端的に申し上げれば、国会の仕組みというあたりをまず一つの目標にしてお考えになるということは、取り組み方の手順としてはそれなりの合理性を備えているのではないだろうかというわけでございます。この点については、また後で少し述べさせていただきたいと思います。
ただし、この改正の手続をめぐる問題ということに即して申しますと、特に国会の発議がほとんどないということ、あるいは発議があることが考えられないということ、これは実態の問題と同時に心理的な問題がそこにあるかと思いますが、結果として、日本国憲法は一種の不磨の大典のようになってしまう。このことをどう考えたらいいだろうかということでございまして、九十六条、特に国会の発議の条件についてどのように政治的な判断を下すかということが非常に重要でございます。九十六条問題、特に国会の発議の要件をどうするか、これ自身は憲法問題でありますけれども、これはもう高度に政治問題だろうというふうに思われます。
したがって、発議が事実上できないようにしていく、あるいはできないと当事者が観念するようにしておくということは、政党政治にとって、さらには国民と政治の関係においてどのような意味を持つのか、これをぜひ御議論をお願いしたいと思いますし、以下、私なりの所感を申し上げるつもりでございます。
最近の世論調査の動向を見る限り、国民は、もし国会が改正発議をするならばそれを受けとめる用意があるという傾向を強めつつあるようでございます。その意味で、絶対的な改正反対論はだんだん少なくなってきております。世論は、二十一世紀の社会的必要に応じて憲法を見直し、それを一定程度つくりかえていく、あるいは少なくともつくりかえていくことを考える意向を示し始めているように察せられるわけであります。特に、若い世代にはそうした傾向はかなり顕著でありますが、同時に、若い世代はほとんど関心がないのにそういう傾向だけは顕著であるということは、なかなか難しい問題でございます。
同時に、先生方お気づきのように、見直しを求める論点なるものは非常に多岐にわたるようになってまいりました。私の世代などに特徴的な第九条一辺倒の憲法改正の時代と大分様子が変わってきているようでございます。特に注目されるのは、政治の仕組みの改革を求める主張が非常に顕在化しているということでございます。こうした動きをどう受けとめたらいいのか。問題が政治そのものの仕組みだということになりますと、この受けとめ方がまた一段と難しいものがあるというふうに考えます。
こうした政治の仕組みを変えたいというような議論が出てきたときに、とにかく発議はできないんだという手続論で実質論を抑え込み続けるということが果たしてどこまでできるのか。これは問題が問題であるだけに、従来とは違った観点から考える必要があろうかと思います。
逆に申しますと、国民と憲法、国民の憲法をめぐるいろいろな意見と政治の動きとの間のギャップが余りにも甚だしくなりますと、憲法の改正という問題が現実化したときには憲法そのものが限りなく空洞化しているということも起こり得るわけでございまして、この点、私は政治学者の一人としても非常に注目している点でございます。国民との関係が一つございます。
もう一つは、政治のあり方として、憲法改正の発議の問題は政治の場で事実上処理できない問題であるという状況をつくることが、政治にとっていいかどうかという問題があろうかと思います。
もちろん、いろいろなケースが考えられるわけでありますが、仮に、国会が国民生活にいろいろな意味で影響を及ぼす問題で憲法改正を発議することがそれほど難しくないという状況を仮定したとします。どういうことが起こるかといいますと、その場合、変えるということについて、いろいろな意味で、できるということがあるために、むしろ慎重かつ十分な決意を固めなければこうした問題に踏み込むことは逆に難しくなるということが考えられるわけであります。つまり、政治的なリスクや覚悟というものがその分求められるという、一見逆説的ではありますけれども、そういう面を、私は日本のこれまでの政治を見ていまして逆に感ずるところでございます。
ですから、憲法の問題について、各政党は、実際に動かし得る、発議し得るんだという条件が出てくれば出てくるほどある意味では慎重にならざるを得ない、あるいは真剣、あるいは緊張感を持ってこれに対応せざるを得なくなると思われますし、政党の間のみならず、政党内におきましても、この問題をめぐって緊張感は非常に高まることが予想されるわけでございます。つまり、変えるとか変えないとかについて、どういう態度を本当にとっているのか、あいまいな態度をとる余地がかえって少なくなるということが考えられるわけであります。
その意味で、これまでの政治史を振り返ってみますと、戦後の一時期を除きますと、政党政治の憲法に対する態度は賛否両論、いろいろ改正問題について態度の違いはございましたけれども、こういった今すぐ動くかもしれないといったような緊張感とはかなり違ったものではなかったかなというふうに思うわけであります。
改正発議の現実的可能性がほとんどないところで、あるいはないという前提のもとで憲法論議を繰り返しているという事態は一体いかなる意味を持つのか。あるいは、ひょっとするとマイナス効果も出てこないとも限らない、そういう問題を含んでいるように思いますし、私自身の認識で言いますと、政治全体のよどみというものがその分長続きするということにもなるという言い方もできるかもしれません。いずれにせよ、問題がなかなか整理できない、やるならやる、やらないならやらない、この整理ができないという事態をつくってきた可能性もあるわけであります。
したがって、政治と憲法との間によい意味での緊張感を回復するためには、改正発議の条件を今よりも緩和するという問題が一つ考えられるんだ、これは一考に値するテーマだろうというふうに考えております。ただし、もしそういうことを考えれば、直ちに続々と改憲の提案がなされるのではないかという危惧が述べられることは私も容易に想像するところでございますが、逆に、できるようになるということは、それだけの決意と覚悟なしにはできないということでございましょうから、そう事態は単純ではないように思われるわけであります。
また、誤解のないように申し述べますと、国民投票というものがその後に控えておりまして、そこでどのような要件を課するかということについては、これは発議の条件と別にまた議論をする余地があるのかなというふうに思います。
結論的に申しますと、二十一世紀の日本の政治が憲法改正の発議に一切かかわりなしにその役割を十分に果たし得るかどうか、これについては、決定的なことは申し上げられませんけれども、私はかなり疑問ではないかというふうに思っております。これはいろいろなケースについて考えられます。もし現行の発議条件でも十分にそういうことができるんだということであれば、国民の間で比較的論争性が少ない条項についてそれを実行して、今の手続でもできるということを示す努力が真摯に続けられる必要があるわけでございまして、そういうことがないと、発議条件の問題を今のまま維持していくということについてはなかなか難しい問題が出てくるのではないかというふうに愚考しているところでございます。
それから、次に三番のところでございます。これはいろいろ細かい問題がございますが、「政治及び政治制度をめぐる諸問題」ということで、やや個別的な論点について、必ずしも包括的ではございませんけれども、幾つかの点について申し上げたいと思います。
一が、政党の位置づけでございます。
これは、政党を憲法に位置づけ、その役割と責任を明確にするという提案でございます。政党が、憲法に具体的な定めがないにもかかわらず、公的な政策及び人事面で実に巨大な影響力を行使しております。この点で政党は、官僚制と並んで、憲法に明確な規定のない最大の権力集団であるというふうに考えられるわけであります。もちろん、近年は政党交付金を支給されるというようなことを通して公的な存在として法律的に位置づけられるようになりましたが、いずれにせよ、この政党という存在をプライベートな結社として法的に放置しておくことは非常に大きな問題をはらむ、あるいは少なくともわかりにくいことになるのではないかというふうに思います。
ここでの私の意図は、憲法で政党について細かな規定を置くことが趣旨ではございません。その眼目は、政党が民主政治と国民主権の実現のための一種の公器としての性格を有する、したがってそれにふさわしい開放性と公開性を持たなければならないことを記せば足りるというふうに考えます。それを受けまして、細目は例えば政党法というような形でいろいろなことを規定する余地も出てくるかと思いますが、いずれにいたしましても、日本の政治における非常に大事な役割を果たす主体について何も規定を置かないでいいというのは、国民的に見て理解しがたいことになっているのではないだろうかというふうに思います。
それはまた、政党というものに対する不信感を払拭する上でも、基本的に、それに正面から応答する上でも大事な対応措置ではないのか。そして、国政や権力の担い手として政党がいかに実質を十分備えているかということを国民が判断する材料を政党側で提供していく、こういう関係をきっちりつくることが政党の安定性を、国民の間に政党に対する信頼感を醸成するという意味で大事でありますし、なかんずく、議会制は政党なしには動かないのでありまして、議会制を維持し守っていくということであるならば、それだけ政党については国民の信頼を得るような措置を憲法も含めてお考えになるのが一つのあり方ではないだろうかというふうに私は考えております。
以上が、細かく言うといろいろありますけれども、aの問題でございます。
bの問題に移らせていただきます。
これもいろいろ議論はあろうかと思いますけれども、私は憲法学者ではございませんので、必ずしも網羅的なことを申し上げる用意はございませんが、例えば国会について憲法にかかわる問題がいろいろあり得るということは、例えば参議院の将来を考える懇談会といったものが意見書を出しておりますが、その中でもそういう論点が多数触れられているわけでございます。その中でも言われておるわけですが、国会の運営にかかわる会期不継続の原則といったようなものは廃止ないしは大幅に見直すべきでないかという提案がなされております。
もちろんこれは、これだけを取り上げるというわけにはいかないものだと私は思っておりますし、例えば法案の逐条審議や読会制を入れるというようなこととセットでこの問題を考える、これはある種やはり憲法問題だろうと思っております。いずれにしても、国会の運営について、二十世紀にいろいろな工夫をしてきたわけでございますけれども、やはり大枠で見直さなければならない問題が残ったのではないだろうかということの一つの例でございます。
私は、国民は国会審議の実質的な充実を切望しているわけでありまして、与野党間の審議なき取引といったものに関心を持つ国民はほとんどいなくなっているのではないだろうかというふうに思います。なかんずく、国会は立法権を持っているというふうに言われておりますが、本当の意味で法律の条文について審議しているのかどうかということに国民は疑いの目を持っている。あるいは、端的に申しますと、本当に予算案について審議しているのかということがわからない予算委員会がある。この辺の従来の慣行というものをやはりきっちり、余りにも乱れたものについては原則を再確認するということが新世紀に向かってなされるべきことである。
一定の範囲で憲法にかかわる見直しが必要であれば、この点について見直すことは国民はほとんど反対しないだろう。国会が年じゅう開催され、国会議員の先生方が今よりもたくさん働くようになるということに反対する国民はだれもいないだろうというふうに私も思っているところでございまして、会期の問題というあたりについて、いろいろな意見を申し述べることができるのではないかというふうに思います。
二番目の問題は、国会は二院、両院から成るということになっていますが、この国会の性格そのものが非常にわかりにくいという問題があります。
国会というのは、一つのまとまった一体として扱われるというように見えて、その中に実は非常に複雑なものが入り込んでいるのではないか。議会制の基本問題が二院制の問題であることは先生方既に御存じのところでございまして、いわゆる日本の二院制とは何であるのかということについて、私自身、考えれば考えるほどわからなくなってきているというのが現状でございます。
特に、参議院をめぐってはこれまでもいろいろな議論がございました。一院制でいくべきだという声は国民の中で決して小さくないやに見えるわけでございますが、しかし、そう簡単に一足飛びにいくというのは、かなり乱暴な議論だろうと思います。幾つかの段階を経て議論すべき論点がそれぞれあるのではないかというのが私の認識でございます。
例えば、衆議院と内閣との関係は、これは議会制の原則に従ってつくられていることは間違いございません。ところが、参議院と内閣の関係というのは非常に奇妙でございます。御案内のように、内閣不信任案というものはない、そういう決議権はない。そして同時に、参議院を解散することはもちろんできない。
これは、イメージとして言うと、大統領制下における議会と政府との関係にかなり近い面があるように見えるわけでございますが、それにもかかわらず、参議院は総理大臣の指名に加わるということをやっているわけです。アメリカの議会が大統領の指名に加わることはないように、そういうことはまず基本的にどういうことなのかなという疑問が出てまいります。しかも、参議院議員は、衆議院議員と同様に政府の大臣、首相にもなり得るわけでございますが、そのまま就任できるというような仕組みになっております。
つまり、参議院の問題というのは、この場で議論するのは適切かどうかわかりませんけれども、大統領制的な骨格の上に議会制的な論理が上乗せされているように私には見えるわけでございます。そうして、衆議院と参議院であわせて国会であると言われたときに、一体それは何なのかなということはなかなか整理が難しい。恐らくそういうところで先生方も御苦労されているのではないかなというわけでございます。参議院は、大統領制下の議会が持っております独立性を持っている。のみならず、議会制下の議会の持っている政権構築、政権参加の権限も持っているということでございます。これを一体どう整理したらいいんだろうか。
参議院の独自性をめぐる議論はいろいろございますが、既に独自性はその中にたっぷり入っているのではないかというのが私の意見でございまして、問題は、そこに切り込んできっちり整理するかどうかということに焦点があるわけでございます。その意味でいえば、参議院は良識の府、衆議院は何の府なのか、これはなかなか難しいところでありますけれども、権力をつくり、権力を運用する府ということになるかと思いますけれども、そういう議論のレベルではないんじゃないかなというふうに私自身は考えているところでございます。
その意味で、まず国会の整理、特に憲法を見ますと、国会議員はという書き方になっているんですけれども、どうもこの制度のつくり方からすると、やはり衆議院議員と参議院議員は相当違うという形で考えることもできるんではないか。そうしますと、膨大な条項をそれに絡んで整理しなければいけないという話になるのかもしれません。そのことは、逆を申しますと、内閣との関係がまたそれに従って整理が必要になってくるという可能性をも含んでいると思います。内閣の条項等につきましても、議論はいろいろできるかと思いますけれども、時間の関係もございますので、この辺でこのbの項目については話を閉じさせていただきたいと思います。
cですが、恐らく二十一世紀、中央、地方の関係をやはりもう一段整理することが必須になるのではないかなというふうに私は考えております。
これにつきましては、既に地方分権についてのいろいろな法案が通っておるわけでありますが、なお極めて不十分ではないだろうかというふうに私は思っております。むしろ憲法において、いずれ将来、いつぞやの段階において、中央政府、地方政府の役割分担を明確にせざるを得ない時期が来る、あるいはそうした方がいい時期が来るのではないかというのが私の主張でございます。
これは、いわゆる地方分権の徹底が必要であるという側面だけで議論するのは、私は間違いだと思っておりまして、中央政治の地方政治からの独立、解放という問題も、中央政治にとっては非常に重要なことではないか。これは両面あるわけでございまして、いわゆる中央による地方の支配なるものが地方の中央への浸透と表裏一体のシステムになっているということが、果たして十分透明性の高い、実効性のある政治というものにつながっているかどうか、この点について私は疑問を持っております。
国政と地方政治とは無関係では存在し得ないのでありますけれども、いわば雑然と重なり合っているという状態があるように見受けられるわけでありまして、特に、私は、そのことによって、いわば国政自体がいろいろな問題を抱えるようになってきているのではないのか。ですから、責任が重なっている状態、あるいは、俗な言葉で言えばもたれ合っている関係、これを一度整理をし、財源を含め、責任とコストの関係を可能な限り一元的に対応させるような仕組みに移すということは、恐らく財政問題等の過程で出てこざるを得ないのではないかと思っているわけであります。
いわば、中央政治は中央政治の役割をより明確にし、そこで自己責任、地方政治は地方政治なりの任務の中でその自己責任を果たすという、もう一段の中央、地方関係の整理というものが、二十一世紀の政治にとって、いずれにせよ避けられないのではないかというふうに私は思います。国政はより国政らしく、地方政治はより地方政治らしくしていくということ。その意味で、国政そのもののあり方を見直すことが実は中央、地方関係の見直しという問題にもつながる、そういう側面をあえて強調させていただきたいわけでございます。
あえて言えば、国政は与えられた任務を国際水準で達成するだけの機能アップが求められるわけでありまして、地方のいろいろな面倒を見るのが国政だというようなことでは国政が立ち行かないことになると思いますし、地方政治はやはり自分たちのコスト感覚を政治的にきっちりこなしていくという能力が求められるだろうと思いますし、そういう過程で、例えば地方自治体の数やサイズという問題がこれから大きな問題になってくる。
私の友人などでは、道州制というようなことを言う人間もふえてきておりますけれども、そういったような形で、今の都道府県の問題まで含めていろいろなアイデアが出てくる可能性があると思います。ですから、今の第八章を違った角度から書き直すといったような論点にこれはつながるかと思います。
時間が少なくなりましたので、dに移らせていただきます。国民の直接参加というテーマでございます。
これは九月二十九日の、具体的な新聞の名前を引用させていただいて恐縮でございますが、毎日新聞に掲載されました憲法世論調査によりますと、改憲論の具体的な内容は、第一に、首相を国民の直接投票で選べるようにする、第二に、重要な政策課題は国民投票で決める仕組みをつくるとのことでございます。これは、間接民主制や議会制にとってなかなか耳の痛い、あるいは深刻な傾向ないしは意見の表出でありまして、こうした雰囲気が広がりつつあることは、先生方のよく御存じのところでございます。これは、恐らく二十一世紀、なかなかなくならない一つの雰囲気ではないかなというふうに思うわけでございます。
同時に、その場合注意すべきは、この二つの要求は、地方政治においては事実上実現しているか、実現可能性のあるような要求でございまして、いわば中央政治と地方政治との間の制度間競争みたいなイメージで国民は中央と地方の政治を見ているという可能性が出てくる。ですから、決して実体的根拠のない話だとばかりは言えないというところが問題のスポットでございます。
私は、時間の関係もありまして、こういう主張あるいは要望に対して具体的に立ち入るつもりはございませんし、いろいろな反論が可能であると思いますが、最も説得的な反論は何であるかというと、これは大変単純なことになるかもしれませんけれども、現在の議会制が、その政治主導を内実のあるものにして、成果を現実に示していくということが一番いいいわば応答であることは言うまでもございません。
そして、いろいろな歴史を見ていきますと、この政治制度というものは、やはり成果を上げられなければだめになっていくということは歴然たる事実でございまして、その意味で最初に申し上げた問題に再び返っていくという形で、私の話を結ばせていただきたいと思います。
どうも失礼いたしました。拍手
この発言だけを見る →本日は、本調査会におきまして発言の機会を与えられましたことを、まことに光栄であると存じているところでございます。本日、私は、二十一世紀の日本の政治の展望に即して憲法をめぐる諸課題についてお話をすることにいたしたいと思いますが、何分にも先生方が政治の専門家でいらっしゃいますので、私の申し上げるべきことがそんなにたくさんあるのかどうか、非常にじくじたる思いできょうは参りました。
本日の私の発題の中心は、政治をめぐる仕組みの問題とさせていただきたいと思いまして、いわゆる政策にかかわるような事柄について言及するつもりはございません。二十世紀の終わりに当たりまして、これまでやり残したことといったことを確認した上で、来るべき世紀における日本の政治の仕組みをめぐる論点としてどのようなものが登場し得るのか、それらが憲法とどのように関連し得るのかについて、大変微力ではございますけれども、所見を述べさせていただきたいと思うわけでございます。
大変簡単なレジュメしかお手元にお渡しすることができず、恐縮でございますが、この順番に従ってお話をさせていただきたいと思います。
まず「一、「政治主導」の始動〜官主導の世紀との決別〜」ということでございます。
くしくも二十一世紀の劈頭に当たりまして、日本の政治は政治主導体制というものを文字どおり本格的に始動させることになりました。これは、十年余り前に始まりました政治の改革のいわば最終的目的地とでもいうべきものであると私は考えております。
この間のさまざまな諸改革の中で、政治の改革が先行したということは、これまでの仕組みの有効性が大なり小なり失われたという認識に基づき、政治が変わらない限りほかのものを変えることには限界があるという判断に基づくものであったと存じます。
これらの諸改革が戦後かつてなかったほどの制度や法律の大幅な見直しを求める以上、政治の責任はこの間ますます大きくなったことは言うまでもございません。政治は、眼前の利害調整だけに専念しているわけにはいかなくなりまして、広い意味での構造的な諸問題にもかかわらざるを得なくなったわけであります。これを表現するのが、一般に言われるところの官主導から政治主導へというキャッチフレーズだと思っております。
ある意味で、官主導体制と言われるものが構造的な諸問題のいわば根幹であるという認識ができるわけでありまして、したがいまして、それに依存するのではなくて、国民の負託を受けてそのあり方を改革するということが政治の課題になってきたわけであります。その意味で、今日本の政治は、これまでのいろいろな政治の改革の努力を踏まえて、新しいステップを踏み出そうとしているというふうに私は認識しております。
通常、政治の改革といえば政治と金の問題だという認識がまだ世間には広くございます。これはいわば政治をめぐる永遠のテーマだろうと私は思っておりますが、しかし、歴史的な展望を踏まえてこの官主導から政治主導へというテーマを考えてみますと、政治に問われておりますのは、端的に申しまして、政策を中心とした統治能力であろうというふうに考えます。そして、政治主導がこれを提供できるかどうか、これが焦眉の急であるというわけでございます。
そうした政策面を中心とした統治能力を現実化すべく、いろいろな制度の改正がこの間行われてまいりました。国会における政府委員の廃止や副大臣、政務官制度、官邸機能の強化などがあるわけでございますが、同時に、いよいよ現在の段階になりますと、政治主導の内実というものが一体いかなるものであるかということがむしろ問題になる段階に入ったかと思っております。したがって、制度の枠をつくるという仕事を終えて、そこにどのような中身を盛るのかということが国民の主たる関心事になってきておるわけであります。
問題は、この政治主導の内容について国会議員の方々がどのようなイメージをお持ちになっているのかということが、その意味で次の関心事になるわけでございます。
この点はなお、必ずしもはっきりいたしません。あるいはいろいろな意見があってもよろしいかとは思うんですけれども、しかし、事柄自体極めて重要でありますので、こうしたことについて政党政治の側で意見の集約をお進めいただくことはどうしても必要なことではないかと思います。
私の意見を申し上げますと、例えば政治主導というものを、官僚にかわって政治家が答弁したり、官僚にかわって政策のイニシアチブをとることだといった形で理解するのは、一見もっともではございますけれども、不十分であるという認識を持っております。
官主導体制の一番の問題点は、官僚制というものが、仕切られた権限を前提にして活動せざるを得ない点にあると思います。そして、このことを是正する手段を官僚制は持っていないことが一番の究極的な問題だと思います。これは個々のお役人の善意や悪意とは必ずしも関係のない事態でございまして、そういう制度的な制約のもとで官僚制というものは動いているということでございます。したがいまして、こうした仕組みから必然的に割拠性とか縦割りといった弊害が出てくるのは必至のことでございまして、まさにこのことにどう向かい合うかということが、政治主導をぎりぎり詰めていったときに出てくる非常に重要なポイントになるかと思います。
仮に、政治の側がお役所と同じように縦割り化し、それをいわば同じような形で縦割り的に応援するというようなことになりますと、これは官主導を再生産していることとどこが違うのかという話に少なくとも効果の面ではなってしまうわけであります。その意味で、政治主導は、この点をぎりぎり詰めていきますと、政策面での体系性、つまり縦割り性に対して体系性と、それからばらばらなものを計画づけるあるいは優先順位をつけるという意味での計画性を可能な限り実現し、それを通して政治の戦略性とでもいうべきものを高めることに帰着するのではないかというふうに私は考えるわけでございます。
もちろん、この体系性とか計画性というのは決してイデオロギー的なものを必ずしも意味するわけではございません。それぞれの具体的な状況の中で何をどのような手順でやっていくのかということについて整理をする作業というのは、統治においては基本的に重要な役割でございまして、残念ながら行政官庁は、自分たちの所管について意見を申し述べることは一生懸命でありますけれども、それを彼らがお互いに調整するということになりますと、結局割拠的な形でしか調整することができないという当たり前のこと、これをどう政治の力で、政治の能力でもって乗り越えていくかということが一つの究極的なポイントになるかと思います。
そして、今回の政治主導の制度的プランを拝見いたしますと、これは内閣という公式制度を中心にこうした政治の戦略性あるいは政治主導の戦略性を実現することを目的にするものであるというふうに理解されるところでございます。
こうした構想の実現に向かって新世紀の政治が敢然と挑戦することは、私にとりましてまことに喜びにたえないところでございますが、そのために克服すべき課題もたくさんあると思います。しかし、これらのほとんどの課題は憲法問題でもなければ法律問題でも必ずしもなく、ほとんどが政治的な慣習、慣行の問題であると考えられるわけです。つまり、その意味で、政治家の方々自身の問題、処理できる問題であるというふうに言っていいと思います。
例えば、政策面での内閣と与党の二元的な運営方式をどのように一元化するのか、大臣任期に代表されるような人事の頻繁な交代で政治の戦略性は実現できるであろうかといった素朴な疑問は、国民が広く抱いているところでございます。多くの政治学者が言っておりますように、大臣の数を多く生産することと内閣の統治能力とはトレードオフの関係にあるというようなことがあるわけでございますが、そういったような事柄があることは否定できないわけであります。
また、このトップリーダーの任期と政策のあり方とは決して無関係ではないのでありまして、人事の慣行が政策内容に非常に悪い影響を及ぼすというようなことが起こるならば、これは改めていく必要があると思われます。
また、政治主導と行政の中立性とのバランスを現実にどのように担保していくのかについても、新たなルールづくりが求められていると思われます。今国会で御議論になっていると聞いておりますいわゆるあっせん利得をめぐる新しい法制度の整備はそういう役割を果たし得るかと思いますけれども、実はもっと問題は大きいのではないかと私は考えております。
また、政策面における政治の統治能力を高めることを目標とする以上、その担い手となる人材資源を常にキープし、あるいはそのために必要な努力を日常的に積み重ねていく必要があることは言うまでもございません。
これらいろいろ課題をあえて述べさせていただきましたが、それはどういう趣旨を持つかといいますと、政治主導に取り組む際に非常に大きな緊張感を持って取り組んでいただきたいと考えるわけでございます。そして、先ほど申しました政治的慣行や慣習を変えるというのは、ある意味では法律を変えるよりも難しいという面があるわけでございますが、一歩ずつでも見直しの努力を着実に進めるということ、あるいは諸政党の間で、政治主導のあり方についてこれ自身を競争のいわばテーマにしていくということなど、いろいろ工夫のしようがあるのかなというふうに愚考しているところでございます。
そして、今回始まります政治主導の結果は、基本的に日本の議会制の将来にとって重大な意味を持つと考えられます。もしそれが、いろいろな政治主導についての国民の期待があるわけでございますが、それにかなり合致しないというようなことが起こる、あるいは当初期待したのと、むしろもっと悪い事態が起こるというようなことが判明いたしますと、日本の議会制そのものの統治能力に陰りが生ずるということにもなり得るからでございます。
実際、昨今のいろいろな情勢を勘案いたしますと、二十世紀の後半につくられたいろいろな政治のやり方というものはだんだん有効性を失い始めているやに見えるわけでございまして、現に政党からの有権者の離脱状況、あるいはそういう意味で政党不信の広がりは、議会制の将来にとって極めて憂慮すべき事態であろうと思います。
その意味で、この政治主導体制の構築は新しく議会制を創造するというような意気込みを前提としたものであるべきでありまして、これまでの議会制の実態と議会制そのものを、言葉はちょっと適切じゃないかもしれませんけれども、いわば心中させるようなことがあってはならないと私自身は考えております。
以下の私の議論は、こういう意味での政治主導が近い将来に迫りくる財政問題や高齢社会問題に取り組んでしかるべき形で成果を上げ、政党政治に対する国民の信頼が定着するということを前提とした話でございます。もしこの前提が崩れますと、残念ながらいろいろなシナリオの書きかえを求められることになるおそれがあるわけでございます。
そこで、二番目として、「「政治主導」と憲法政治」ということについてお話しさせていただきます。
政治主導というものの一つの成熟形態は、憲法問題を国民の意向を踏まえながら冷静に取り扱うことができる段階に到達したときに、成熟したというふうな言い方ができるかとも思います。そして、これまでの二十世紀の日本の政治はこうした形で憲法問題を取り扱うことが必ずしもできなかったというのが、一つの歴史的な総括であろうかと思います。
個別の条項についていろいろ議論するに先立ちまして政党政治が主体的に判断しなければならないのは、政党政治がこうした大問題を扱うのに十分な強さと自信を備えているかどうかという点について判断することであると思います。それゆえ、私は、政治主導による実績が一定程度上げられた段階を前提にして、この重大な憲法にかかわる問題に踏み出すのが上策、それができればの話でございますが、特にこれはタイミングの問題でありますが、上策であるというふうに考えるわけでございます。
もちろん、同時に力説しなければいけないのは、憲法にかかわる問題がすべて国民生活にとって直接重大な影響を及ぼすものでないことも事実でございます。例えば国会にかかわるいろいろな条項について改正を発議するということは、必ずしもこれは国民にとって直接的に重大な影響を及ぼすとは限らない問題でございます。ですから、このような問題から順次憲法問題に取り組むというやり方も考えられると思います。
ですから、端的に申し上げれば、国会の仕組みというあたりをまず一つの目標にしてお考えになるということは、取り組み方の手順としてはそれなりの合理性を備えているのではないだろうかというわけでございます。この点については、また後で少し述べさせていただきたいと思います。
ただし、この改正の手続をめぐる問題ということに即して申しますと、特に国会の発議がほとんどないということ、あるいは発議があることが考えられないということ、これは実態の問題と同時に心理的な問題がそこにあるかと思いますが、結果として、日本国憲法は一種の不磨の大典のようになってしまう。このことをどう考えたらいいだろうかということでございまして、九十六条、特に国会の発議の条件についてどのように政治的な判断を下すかということが非常に重要でございます。九十六条問題、特に国会の発議の要件をどうするか、これ自身は憲法問題でありますけれども、これはもう高度に政治問題だろうというふうに思われます。
したがって、発議が事実上できないようにしていく、あるいはできないと当事者が観念するようにしておくということは、政党政治にとって、さらには国民と政治の関係においてどのような意味を持つのか、これをぜひ御議論をお願いしたいと思いますし、以下、私なりの所感を申し上げるつもりでございます。
最近の世論調査の動向を見る限り、国民は、もし国会が改正発議をするならばそれを受けとめる用意があるという傾向を強めつつあるようでございます。その意味で、絶対的な改正反対論はだんだん少なくなってきております。世論は、二十一世紀の社会的必要に応じて憲法を見直し、それを一定程度つくりかえていく、あるいは少なくともつくりかえていくことを考える意向を示し始めているように察せられるわけであります。特に、若い世代にはそうした傾向はかなり顕著でありますが、同時に、若い世代はほとんど関心がないのにそういう傾向だけは顕著であるということは、なかなか難しい問題でございます。
同時に、先生方お気づきのように、見直しを求める論点なるものは非常に多岐にわたるようになってまいりました。私の世代などに特徴的な第九条一辺倒の憲法改正の時代と大分様子が変わってきているようでございます。特に注目されるのは、政治の仕組みの改革を求める主張が非常に顕在化しているということでございます。こうした動きをどう受けとめたらいいのか。問題が政治そのものの仕組みだということになりますと、この受けとめ方がまた一段と難しいものがあるというふうに考えます。
こうした政治の仕組みを変えたいというような議論が出てきたときに、とにかく発議はできないんだという手続論で実質論を抑え込み続けるということが果たしてどこまでできるのか。これは問題が問題であるだけに、従来とは違った観点から考える必要があろうかと思います。
逆に申しますと、国民と憲法、国民の憲法をめぐるいろいろな意見と政治の動きとの間のギャップが余りにも甚だしくなりますと、憲法の改正という問題が現実化したときには憲法そのものが限りなく空洞化しているということも起こり得るわけでございまして、この点、私は政治学者の一人としても非常に注目している点でございます。国民との関係が一つございます。
もう一つは、政治のあり方として、憲法改正の発議の問題は政治の場で事実上処理できない問題であるという状況をつくることが、政治にとっていいかどうかという問題があろうかと思います。
もちろん、いろいろなケースが考えられるわけでありますが、仮に、国会が国民生活にいろいろな意味で影響を及ぼす問題で憲法改正を発議することがそれほど難しくないという状況を仮定したとします。どういうことが起こるかといいますと、その場合、変えるということについて、いろいろな意味で、できるということがあるために、むしろ慎重かつ十分な決意を固めなければこうした問題に踏み込むことは逆に難しくなるということが考えられるわけであります。つまり、政治的なリスクや覚悟というものがその分求められるという、一見逆説的ではありますけれども、そういう面を、私は日本のこれまでの政治を見ていまして逆に感ずるところでございます。
ですから、憲法の問題について、各政党は、実際に動かし得る、発議し得るんだという条件が出てくれば出てくるほどある意味では慎重にならざるを得ない、あるいは真剣、あるいは緊張感を持ってこれに対応せざるを得なくなると思われますし、政党の間のみならず、政党内におきましても、この問題をめぐって緊張感は非常に高まることが予想されるわけでございます。つまり、変えるとか変えないとかについて、どういう態度を本当にとっているのか、あいまいな態度をとる余地がかえって少なくなるということが考えられるわけであります。
その意味で、これまでの政治史を振り返ってみますと、戦後の一時期を除きますと、政党政治の憲法に対する態度は賛否両論、いろいろ改正問題について態度の違いはございましたけれども、こういった今すぐ動くかもしれないといったような緊張感とはかなり違ったものではなかったかなというふうに思うわけであります。
改正発議の現実的可能性がほとんどないところで、あるいはないという前提のもとで憲法論議を繰り返しているという事態は一体いかなる意味を持つのか。あるいは、ひょっとするとマイナス効果も出てこないとも限らない、そういう問題を含んでいるように思いますし、私自身の認識で言いますと、政治全体のよどみというものがその分長続きするということにもなるという言い方もできるかもしれません。いずれにせよ、問題がなかなか整理できない、やるならやる、やらないならやらない、この整理ができないという事態をつくってきた可能性もあるわけであります。
したがって、政治と憲法との間によい意味での緊張感を回復するためには、改正発議の条件を今よりも緩和するという問題が一つ考えられるんだ、これは一考に値するテーマだろうというふうに考えております。ただし、もしそういうことを考えれば、直ちに続々と改憲の提案がなされるのではないかという危惧が述べられることは私も容易に想像するところでございますが、逆に、できるようになるということは、それだけの決意と覚悟なしにはできないということでございましょうから、そう事態は単純ではないように思われるわけであります。
また、誤解のないように申し述べますと、国民投票というものがその後に控えておりまして、そこでどのような要件を課するかということについては、これは発議の条件と別にまた議論をする余地があるのかなというふうに思います。
結論的に申しますと、二十一世紀の日本の政治が憲法改正の発議に一切かかわりなしにその役割を十分に果たし得るかどうか、これについては、決定的なことは申し上げられませんけれども、私はかなり疑問ではないかというふうに思っております。これはいろいろなケースについて考えられます。もし現行の発議条件でも十分にそういうことができるんだということであれば、国民の間で比較的論争性が少ない条項についてそれを実行して、今の手続でもできるということを示す努力が真摯に続けられる必要があるわけでございまして、そういうことがないと、発議条件の問題を今のまま維持していくということについてはなかなか難しい問題が出てくるのではないかというふうに愚考しているところでございます。
それから、次に三番のところでございます。これはいろいろ細かい問題がございますが、「政治及び政治制度をめぐる諸問題」ということで、やや個別的な論点について、必ずしも包括的ではございませんけれども、幾つかの点について申し上げたいと思います。
一が、政党の位置づけでございます。
これは、政党を憲法に位置づけ、その役割と責任を明確にするという提案でございます。政党が、憲法に具体的な定めがないにもかかわらず、公的な政策及び人事面で実に巨大な影響力を行使しております。この点で政党は、官僚制と並んで、憲法に明確な規定のない最大の権力集団であるというふうに考えられるわけであります。もちろん、近年は政党交付金を支給されるというようなことを通して公的な存在として法律的に位置づけられるようになりましたが、いずれにせよ、この政党という存在をプライベートな結社として法的に放置しておくことは非常に大きな問題をはらむ、あるいは少なくともわかりにくいことになるのではないかというふうに思います。
ここでの私の意図は、憲法で政党について細かな規定を置くことが趣旨ではございません。その眼目は、政党が民主政治と国民主権の実現のための一種の公器としての性格を有する、したがってそれにふさわしい開放性と公開性を持たなければならないことを記せば足りるというふうに考えます。それを受けまして、細目は例えば政党法というような形でいろいろなことを規定する余地も出てくるかと思いますが、いずれにいたしましても、日本の政治における非常に大事な役割を果たす主体について何も規定を置かないでいいというのは、国民的に見て理解しがたいことになっているのではないだろうかというふうに思います。
それはまた、政党というものに対する不信感を払拭する上でも、基本的に、それに正面から応答する上でも大事な対応措置ではないのか。そして、国政や権力の担い手として政党がいかに実質を十分備えているかということを国民が判断する材料を政党側で提供していく、こういう関係をきっちりつくることが政党の安定性を、国民の間に政党に対する信頼感を醸成するという意味で大事でありますし、なかんずく、議会制は政党なしには動かないのでありまして、議会制を維持し守っていくということであるならば、それだけ政党については国民の信頼を得るような措置を憲法も含めてお考えになるのが一つのあり方ではないだろうかというふうに私は考えております。
以上が、細かく言うといろいろありますけれども、aの問題でございます。
bの問題に移らせていただきます。
これもいろいろ議論はあろうかと思いますけれども、私は憲法学者ではございませんので、必ずしも網羅的なことを申し上げる用意はございませんが、例えば国会について憲法にかかわる問題がいろいろあり得るということは、例えば参議院の将来を考える懇談会といったものが意見書を出しておりますが、その中でもそういう論点が多数触れられているわけでございます。その中でも言われておるわけですが、国会の運営にかかわる会期不継続の原則といったようなものは廃止ないしは大幅に見直すべきでないかという提案がなされております。
もちろんこれは、これだけを取り上げるというわけにはいかないものだと私は思っておりますし、例えば法案の逐条審議や読会制を入れるというようなこととセットでこの問題を考える、これはある種やはり憲法問題だろうと思っております。いずれにしても、国会の運営について、二十世紀にいろいろな工夫をしてきたわけでございますけれども、やはり大枠で見直さなければならない問題が残ったのではないだろうかということの一つの例でございます。
私は、国民は国会審議の実質的な充実を切望しているわけでありまして、与野党間の審議なき取引といったものに関心を持つ国民はほとんどいなくなっているのではないだろうかというふうに思います。なかんずく、国会は立法権を持っているというふうに言われておりますが、本当の意味で法律の条文について審議しているのかどうかということに国民は疑いの目を持っている。あるいは、端的に申しますと、本当に予算案について審議しているのかということがわからない予算委員会がある。この辺の従来の慣行というものをやはりきっちり、余りにも乱れたものについては原則を再確認するということが新世紀に向かってなされるべきことである。
一定の範囲で憲法にかかわる見直しが必要であれば、この点について見直すことは国民はほとんど反対しないだろう。国会が年じゅう開催され、国会議員の先生方が今よりもたくさん働くようになるということに反対する国民はだれもいないだろうというふうに私も思っているところでございまして、会期の問題というあたりについて、いろいろな意見を申し述べることができるのではないかというふうに思います。
二番目の問題は、国会は二院、両院から成るということになっていますが、この国会の性格そのものが非常にわかりにくいという問題があります。
国会というのは、一つのまとまった一体として扱われるというように見えて、その中に実は非常に複雑なものが入り込んでいるのではないか。議会制の基本問題が二院制の問題であることは先生方既に御存じのところでございまして、いわゆる日本の二院制とは何であるのかということについて、私自身、考えれば考えるほどわからなくなってきているというのが現状でございます。
特に、参議院をめぐってはこれまでもいろいろな議論がございました。一院制でいくべきだという声は国民の中で決して小さくないやに見えるわけでございますが、しかし、そう簡単に一足飛びにいくというのは、かなり乱暴な議論だろうと思います。幾つかの段階を経て議論すべき論点がそれぞれあるのではないかというのが私の認識でございます。
例えば、衆議院と内閣との関係は、これは議会制の原則に従ってつくられていることは間違いございません。ところが、参議院と内閣の関係というのは非常に奇妙でございます。御案内のように、内閣不信任案というものはない、そういう決議権はない。そして同時に、参議院を解散することはもちろんできない。
これは、イメージとして言うと、大統領制下における議会と政府との関係にかなり近い面があるように見えるわけでございますが、それにもかかわらず、参議院は総理大臣の指名に加わるということをやっているわけです。アメリカの議会が大統領の指名に加わることはないように、そういうことはまず基本的にどういうことなのかなという疑問が出てまいります。しかも、参議院議員は、衆議院議員と同様に政府の大臣、首相にもなり得るわけでございますが、そのまま就任できるというような仕組みになっております。
つまり、参議院の問題というのは、この場で議論するのは適切かどうかわかりませんけれども、大統領制的な骨格の上に議会制的な論理が上乗せされているように私には見えるわけでございます。そうして、衆議院と参議院であわせて国会であると言われたときに、一体それは何なのかなということはなかなか整理が難しい。恐らくそういうところで先生方も御苦労されているのではないかなというわけでございます。参議院は、大統領制下の議会が持っております独立性を持っている。のみならず、議会制下の議会の持っている政権構築、政権参加の権限も持っているということでございます。これを一体どう整理したらいいんだろうか。
参議院の独自性をめぐる議論はいろいろございますが、既に独自性はその中にたっぷり入っているのではないかというのが私の意見でございまして、問題は、そこに切り込んできっちり整理するかどうかということに焦点があるわけでございます。その意味でいえば、参議院は良識の府、衆議院は何の府なのか、これはなかなか難しいところでありますけれども、権力をつくり、権力を運用する府ということになるかと思いますけれども、そういう議論のレベルではないんじゃないかなというふうに私自身は考えているところでございます。
その意味で、まず国会の整理、特に憲法を見ますと、国会議員はという書き方になっているんですけれども、どうもこの制度のつくり方からすると、やはり衆議院議員と参議院議員は相当違うという形で考えることもできるんではないか。そうしますと、膨大な条項をそれに絡んで整理しなければいけないという話になるのかもしれません。そのことは、逆を申しますと、内閣との関係がまたそれに従って整理が必要になってくるという可能性をも含んでいると思います。内閣の条項等につきましても、議論はいろいろできるかと思いますけれども、時間の関係もございますので、この辺でこのbの項目については話を閉じさせていただきたいと思います。
cですが、恐らく二十一世紀、中央、地方の関係をやはりもう一段整理することが必須になるのではないかなというふうに私は考えております。
これにつきましては、既に地方分権についてのいろいろな法案が通っておるわけでありますが、なお極めて不十分ではないだろうかというふうに私は思っております。むしろ憲法において、いずれ将来、いつぞやの段階において、中央政府、地方政府の役割分担を明確にせざるを得ない時期が来る、あるいはそうした方がいい時期が来るのではないかというのが私の主張でございます。
これは、いわゆる地方分権の徹底が必要であるという側面だけで議論するのは、私は間違いだと思っておりまして、中央政治の地方政治からの独立、解放という問題も、中央政治にとっては非常に重要なことではないか。これは両面あるわけでございまして、いわゆる中央による地方の支配なるものが地方の中央への浸透と表裏一体のシステムになっているということが、果たして十分透明性の高い、実効性のある政治というものにつながっているかどうか、この点について私は疑問を持っております。
国政と地方政治とは無関係では存在し得ないのでありますけれども、いわば雑然と重なり合っているという状態があるように見受けられるわけでありまして、特に、私は、そのことによって、いわば国政自体がいろいろな問題を抱えるようになってきているのではないのか。ですから、責任が重なっている状態、あるいは、俗な言葉で言えばもたれ合っている関係、これを一度整理をし、財源を含め、責任とコストの関係を可能な限り一元的に対応させるような仕組みに移すということは、恐らく財政問題等の過程で出てこざるを得ないのではないかと思っているわけであります。
いわば、中央政治は中央政治の役割をより明確にし、そこで自己責任、地方政治は地方政治なりの任務の中でその自己責任を果たすという、もう一段の中央、地方関係の整理というものが、二十一世紀の政治にとって、いずれにせよ避けられないのではないかというふうに私は思います。国政はより国政らしく、地方政治はより地方政治らしくしていくということ。その意味で、国政そのもののあり方を見直すことが実は中央、地方関係の見直しという問題にもつながる、そういう側面をあえて強調させていただきたいわけでございます。
あえて言えば、国政は与えられた任務を国際水準で達成するだけの機能アップが求められるわけでありまして、地方のいろいろな面倒を見るのが国政だというようなことでは国政が立ち行かないことになると思いますし、地方政治はやはり自分たちのコスト感覚を政治的にきっちりこなしていくという能力が求められるだろうと思いますし、そういう過程で、例えば地方自治体の数やサイズという問題がこれから大きな問題になってくる。
私の友人などでは、道州制というようなことを言う人間もふえてきておりますけれども、そういったような形で、今の都道府県の問題まで含めていろいろなアイデアが出てくる可能性があると思います。ですから、今の第八章を違った角度から書き直すといったような論点にこれはつながるかと思います。
時間が少なくなりましたので、dに移らせていただきます。国民の直接参加というテーマでございます。
これは九月二十九日の、具体的な新聞の名前を引用させていただいて恐縮でございますが、毎日新聞に掲載されました憲法世論調査によりますと、改憲論の具体的な内容は、第一に、首相を国民の直接投票で選べるようにする、第二に、重要な政策課題は国民投票で決める仕組みをつくるとのことでございます。これは、間接民主制や議会制にとってなかなか耳の痛い、あるいは深刻な傾向ないしは意見の表出でありまして、こうした雰囲気が広がりつつあることは、先生方のよく御存じのところでございます。これは、恐らく二十一世紀、なかなかなくならない一つの雰囲気ではないかなというふうに思うわけでございます。
同時に、その場合注意すべきは、この二つの要求は、地方政治においては事実上実現しているか、実現可能性のあるような要求でございまして、いわば中央政治と地方政治との間の制度間競争みたいなイメージで国民は中央と地方の政治を見ているという可能性が出てくる。ですから、決して実体的根拠のない話だとばかりは言えないというところが問題のスポットでございます。
私は、時間の関係もありまして、こういう主張あるいは要望に対して具体的に立ち入るつもりはございませんし、いろいろな反論が可能であると思いますが、最も説得的な反論は何であるかというと、これは大変単純なことになるかもしれませんけれども、現在の議会制が、その政治主導を内実のあるものにして、成果を現実に示していくということが一番いいいわば応答であることは言うまでもございません。
そして、いろいろな歴史を見ていきますと、この政治制度というものは、やはり成果を上げられなければだめになっていくということは歴然たる事実でございまして、その意味で最初に申し上げた問題に再び返っていくという形で、私の話を結ばせていただきたいと思います。
どうも失礼いたしました。拍手
中
中
中
新
新藤義孝#6
○新藤委員 自由民主党の新藤義孝でございます。
佐々木参考人には、大変意義ある、そしてまた興味深いお話を賜りまして、心から感謝を申し上げたいと存じます。そして、きょうお話しいただいた、佐々木先生の今のお話をもとに、また私なりに、高名な政治学者でいらっしゃいます先生に御質問をさせていただきたい、このように思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
私は、最初にお断り申し上げておきますが、ごらんのように三十三年生まれで、世代的にはこの中で最も若い方の部類です。先ほど先生がお話しされました、憲法に対する考え方、また国家に対する考え方が国民の中でいろいろ変わっているようだというお話がございました。ですから、多分その変わっている方の部類に入ると思いますので、少しぶしつけになるかもしれませんが、お答えをいただければありがたいな、このように思います。
まず私は、今回まさに先生がおっしゃいました政治主導、これは、政策の体系を整える、それからそれを実際にできるように計画する、それがまさに政治だと思っております。ですから、政を治める、物事を決めていくのが政治、そして政を行うのが行政だ。ですから、官僚をうまく活用しながらリーダーシップをとって物を決めていくのが政治なんだと。だから、ある一面で、もう役所は要らぬ、政策、法律は全部自分たちでつくるというような声もあるけれども、私はそこはちょっといろいろ考えた方がいいな、こういうふうに思っているのです。
きょうの憲法の話なんですけれども、五十三年たちました。世界で十五番目に古い。しかも一度も改正されていない。私どもはそれが当たり前のように大切に、先生も何回もお話しいただきました、不磨の大典という形になっておるわけなんでございますが、ドイツは四十六回、先生に釈迦に説法でございますけれども、一週間前に四十七回目の改正があったそうでございます。そしてフランスも九月に十四回目の改正ということなんですね。
御案内のように、我々はこれをどうしてこんなに大切にするのかな、もちろん国家の基本法ですから大切にするのは当たり前なんですが、なぜさわってはいけないんだ、ここが私は不思議で仕方がないのです。無理に直す必要もないけれども、さわることを許さぬというのは私には全く理解ができないということでございます。
そして、実は、そういう意味で政治主導のもとで憲法調査会がこの衆議院に設置された。その前に、二年間でしたか、中山先生また先輩方が御努力をされて憲法制度調査会設置推進議員連盟というのができておりまして、私もそこに入っておりました。
今でも忘れられないのですが、二年前でございましたか、憲法五十年を記念して、GHQのまだお元気な方に三人おいでいただきましたけれども、憲法調査会のシンポジウムをやったのです。よく覚えておりますけれども、そのときに、憲法草案にかかわったとされる方のお話は、この憲法は確かにマッカーサーから指示を受けて民政局で六日間でやりました、そしてそれは日本の占領下における私たちがつくった憲法だと思っておりました、独立後は自主憲法を制定しているものだと思っておりましたが、まさか五十年間、一字一句変えずに使っていただけるとは思いませんでした、ありがとうございましたと。そういうことを向こうから来た人がおっしゃったときに、何と皮肉なことかな、こういうふうに思ったわけでございます。
そこで、私は、だから直せばいいんだとは思っておりません。ただ一方で、時代にそぐわないところが出てきている。それから、先ほどから先生がおっしゃっていらっしゃる、政治が主導して国の形、そして国の方向の基本を整えるものとして、これは今まさに時代が変わろうとしている中、大いに議論していかなくてはならないのではないか、このように思うのでございます。
そこで、これは本当に基本的なことなんでございますが、先生は、憲法改正の手続の問題、そして発議と国民投票、こういうことにお触れになりましたが、私はもう一つその前に、一体全体この憲法は、原案をつくるのはだれがどういう形で作業をすべきなのか、このことも考えるべきだと思っているのです。
我々は、政を治め、そしてルールを決めていく仕事です。でも、決める前に、原案となるもの、立法作業といいますか、これは一体どういう形で行われていくべきなのか。これは、通常の法律と同じように、我々が議員立法でやっていくやり方もあると思います。しかし、国の基本となる憲法が果たしてそういう形でいいのかどうかというところに私はちょっと疑問を持っておりますし、法律学者として先生の御見解をいただければありがたいと思います。
例えば、大日本帝国憲法はだれがつくったのか、実際に書いた人はどなたなんでしょうか。そして、アメリカの憲法もそうです。ジョージ・ワシントンが出したといっても、一体だれがそのとき書いたのか。私は、審議のたたき台になる、また我々がこれから議論していくことはその原案の中に盛り込んでいくかもしれないことなんでございますが、これを一体全体どこがどういう機関でやるのかということは、実は非常に政治の役割として大きなことになるのではないかというふうに思うのです。
今の日本国憲法は、大日本帝国憲法改正案という形で出た。これも、今いろいろ資料がございまして、読むと極めて興味深いのですが、ホイットニー民政局長のもとでメンバーがやった。そして、マッカーサー三原則とアメリカ憲法及び州憲法、ワイマール憲法、フランス憲法、ソ連憲法、それから前文はアメリカ憲法とリンカーンのゲティスバーグ演説、テヘラン会議宣言等々が参照された。そして、その当時出していた日本案はほとんど重要視されなかった。ただ、一方で、唯一重要視された、GHQが参照したのが、学者さんの私的グループによる憲法研究会、これが発表されたものについては重要視されたというようなことが過去の歴史を振り返ってみると出てくるわけなんです。
今私たちは、九条をどうしましょうとか、前文をどうしましょうとか、そういう議論に入っている場合もあります。ただ、政治主導として行って憲法をつくっていく過程、これはもう少し考えを深めるべきことがあるのではないかなというふうに思っているのでございますが、先生の御意見をいただければ大変ありがたいと思います。
この発言だけを見る →佐々木参考人には、大変意義ある、そしてまた興味深いお話を賜りまして、心から感謝を申し上げたいと存じます。そして、きょうお話しいただいた、佐々木先生の今のお話をもとに、また私なりに、高名な政治学者でいらっしゃいます先生に御質問をさせていただきたい、このように思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
私は、最初にお断り申し上げておきますが、ごらんのように三十三年生まれで、世代的にはこの中で最も若い方の部類です。先ほど先生がお話しされました、憲法に対する考え方、また国家に対する考え方が国民の中でいろいろ変わっているようだというお話がございました。ですから、多分その変わっている方の部類に入ると思いますので、少しぶしつけになるかもしれませんが、お答えをいただければありがたいな、このように思います。
まず私は、今回まさに先生がおっしゃいました政治主導、これは、政策の体系を整える、それからそれを実際にできるように計画する、それがまさに政治だと思っております。ですから、政を治める、物事を決めていくのが政治、そして政を行うのが行政だ。ですから、官僚をうまく活用しながらリーダーシップをとって物を決めていくのが政治なんだと。だから、ある一面で、もう役所は要らぬ、政策、法律は全部自分たちでつくるというような声もあるけれども、私はそこはちょっといろいろ考えた方がいいな、こういうふうに思っているのです。
きょうの憲法の話なんですけれども、五十三年たちました。世界で十五番目に古い。しかも一度も改正されていない。私どもはそれが当たり前のように大切に、先生も何回もお話しいただきました、不磨の大典という形になっておるわけなんでございますが、ドイツは四十六回、先生に釈迦に説法でございますけれども、一週間前に四十七回目の改正があったそうでございます。そしてフランスも九月に十四回目の改正ということなんですね。
御案内のように、我々はこれをどうしてこんなに大切にするのかな、もちろん国家の基本法ですから大切にするのは当たり前なんですが、なぜさわってはいけないんだ、ここが私は不思議で仕方がないのです。無理に直す必要もないけれども、さわることを許さぬというのは私には全く理解ができないということでございます。
そして、実は、そういう意味で政治主導のもとで憲法調査会がこの衆議院に設置された。その前に、二年間でしたか、中山先生また先輩方が御努力をされて憲法制度調査会設置推進議員連盟というのができておりまして、私もそこに入っておりました。
今でも忘れられないのですが、二年前でございましたか、憲法五十年を記念して、GHQのまだお元気な方に三人おいでいただきましたけれども、憲法調査会のシンポジウムをやったのです。よく覚えておりますけれども、そのときに、憲法草案にかかわったとされる方のお話は、この憲法は確かにマッカーサーから指示を受けて民政局で六日間でやりました、そしてそれは日本の占領下における私たちがつくった憲法だと思っておりました、独立後は自主憲法を制定しているものだと思っておりましたが、まさか五十年間、一字一句変えずに使っていただけるとは思いませんでした、ありがとうございましたと。そういうことを向こうから来た人がおっしゃったときに、何と皮肉なことかな、こういうふうに思ったわけでございます。
そこで、私は、だから直せばいいんだとは思っておりません。ただ一方で、時代にそぐわないところが出てきている。それから、先ほどから先生がおっしゃっていらっしゃる、政治が主導して国の形、そして国の方向の基本を整えるものとして、これは今まさに時代が変わろうとしている中、大いに議論していかなくてはならないのではないか、このように思うのでございます。
そこで、これは本当に基本的なことなんでございますが、先生は、憲法改正の手続の問題、そして発議と国民投票、こういうことにお触れになりましたが、私はもう一つその前に、一体全体この憲法は、原案をつくるのはだれがどういう形で作業をすべきなのか、このことも考えるべきだと思っているのです。
我々は、政を治め、そしてルールを決めていく仕事です。でも、決める前に、原案となるもの、立法作業といいますか、これは一体どういう形で行われていくべきなのか。これは、通常の法律と同じように、我々が議員立法でやっていくやり方もあると思います。しかし、国の基本となる憲法が果たしてそういう形でいいのかどうかというところに私はちょっと疑問を持っておりますし、法律学者として先生の御見解をいただければありがたいと思います。
例えば、大日本帝国憲法はだれがつくったのか、実際に書いた人はどなたなんでしょうか。そして、アメリカの憲法もそうです。ジョージ・ワシントンが出したといっても、一体だれがそのとき書いたのか。私は、審議のたたき台になる、また我々がこれから議論していくことはその原案の中に盛り込んでいくかもしれないことなんでございますが、これを一体全体どこがどういう機関でやるのかということは、実は非常に政治の役割として大きなことになるのではないかというふうに思うのです。
今の日本国憲法は、大日本帝国憲法改正案という形で出た。これも、今いろいろ資料がございまして、読むと極めて興味深いのですが、ホイットニー民政局長のもとでメンバーがやった。そして、マッカーサー三原則とアメリカ憲法及び州憲法、ワイマール憲法、フランス憲法、ソ連憲法、それから前文はアメリカ憲法とリンカーンのゲティスバーグ演説、テヘラン会議宣言等々が参照された。そして、その当時出していた日本案はほとんど重要視されなかった。ただ、一方で、唯一重要視された、GHQが参照したのが、学者さんの私的グループによる憲法研究会、これが発表されたものについては重要視されたというようなことが過去の歴史を振り返ってみると出てくるわけなんです。
今私たちは、九条をどうしましょうとか、前文をどうしましょうとか、そういう議論に入っている場合もあります。ただ、政治主導として行って憲法をつくっていく過程、これはもう少し考えを深めるべきことがあるのではないかなというふうに思っているのでございますが、先生の御意見をいただければ大変ありがたいと思います。
佐
佐々木毅#7
○佐々木参考人 今、いろいろな形での憲法のつくり方についてお話があったかと思います。つまり、ゼロから全面的に変えるというような場合ももちろんあるわけでございまして、ですから、それぞれ、どういう範囲のものを変えるのかというようなものによって、つくられる仕組みというものに多様なものが出てくる。だから、憲法をつくるための特別の国会みたいなものをつくってやるというケースも、もちろん昔はあったわけでございます。
ただ、今先生言われたようなお話のうち、例えばこの中のある部分について変えるというようなことを考えるとしますと、その手続というのは、もちろん各党で事実上いろいろなアドバイスを受けるなりなんなりというのは幾らでもおやりになって結構だと思いますけれども、第三者の審議会みたいなものに投げるというのは、先ほど来議員が言われた趣旨とも非常に違うのではないだろうか。
私自身、確たる提案があるというほどのものではございませんけれども、例えば国会にこういった、調査会なのか何なのかわかりませんけれども、憲法を議するコミッティーみたいなものがアドホックであれ何であれつくられるということがやはり一つのベースになるのではないだろうか。いつもつくっておく必要はないかもしれませんけれども、そのことを考え続けるための場があるということはそんなに不自然なことではないだろうというふうに私自身は考えております。
ですから、どういう委員会かわかりませんけれども、何か憲法を扱うコミッティーといったようなものを舞台にして、そこで、果たしてどういう手続でもってどれだけの賛成があればどうだこうだという話は、これは最後は非常に政治の問題になろうかと思うのですけれども、ある程度議論を煮詰めないと、国民に対して提案をすることはできないのは言うまでもございません。
ですから、どこまでが煮詰まり、どこまでは対立点は残るんだけれどもあえて提案するという形にするのかどうかというようなことについて、そういう場で審議をされるというのが一番オーソドックスなやり方ではないだろうか。ですから、事実上のアドバイスその他の問題は全部切り離して申し上げたつもりでございます。
この発言だけを見る →ただ、今先生言われたようなお話のうち、例えばこの中のある部分について変えるというようなことを考えるとしますと、その手続というのは、もちろん各党で事実上いろいろなアドバイスを受けるなりなんなりというのは幾らでもおやりになって結構だと思いますけれども、第三者の審議会みたいなものに投げるというのは、先ほど来議員が言われた趣旨とも非常に違うのではないだろうか。
私自身、確たる提案があるというほどのものではございませんけれども、例えば国会にこういった、調査会なのか何なのかわかりませんけれども、憲法を議するコミッティーみたいなものがアドホックであれ何であれつくられるということがやはり一つのベースになるのではないだろうか。いつもつくっておく必要はないかもしれませんけれども、そのことを考え続けるための場があるということはそんなに不自然なことではないだろうというふうに私自身は考えております。
ですから、どういう委員会かわかりませんけれども、何か憲法を扱うコミッティーといったようなものを舞台にして、そこで、果たしてどういう手続でもってどれだけの賛成があればどうだこうだという話は、これは最後は非常に政治の問題になろうかと思うのですけれども、ある程度議論を煮詰めないと、国民に対して提案をすることはできないのは言うまでもございません。
ですから、どこまでが煮詰まり、どこまでは対立点は残るんだけれどもあえて提案するという形にするのかどうかというようなことについて、そういう場で審議をされるというのが一番オーソドックスなやり方ではないだろうか。ですから、事実上のアドバイスその他の問題は全部切り離して申し上げたつもりでございます。
新
新藤義孝#8
○新藤委員 なかなかどっちと決められるものではないと思うのです。ただ、私は、当然自分たちだけでやればいいんだ、国会で決めればいいんだ、例えば公職選挙法を直すのに国会議員だけで直していいのか、こういうのと同じ部分があるんではないかなというふうに思っておりまして、これは先生からもまさに参考になる御意見をいただければいいなというふうに思っておるのです。
そして、実は今のお話にもありましたし、先ほどもお触れになりましたが、先生としては結論を出されていないなというふうに思っていることがございます。憲法の改正のことなんですけれども、結局、今論議をしていく中で、先ほどからまさに先生がおっしゃっているように、全面改正すべきなのか、それとも、部分的に国民的合意ができた上、そこからまず改正するのか、こういう二つがあるとおっしゃいました。
そこで、これは一体どっちがいいんですかということを我々もやっていかなきゃならないわけです。どっちがいいんだとだれも決められないと思うのです、みんな意見はそれぞれですから。
ただ、政治主導として、今のこの国のこういう状況を見て選択するならば、より望ましいのはどちらなんだ。できるかできないかということではなくて、より望ましいのはどちらなんだという観点からすると、これは、現実的な方をとるか、それとも、対立は厳しいけれども、いろいろともめるかもしれないけれども、全面改正か。これは先生の個人的な感覚で結構でございますので、もし支持をされるとすれば、二つしかなければ、先生はどちらをお選びになるか。
それからもう一つ、その場合に、改正の手続の問題も出てくるんですね。今、不磨の大典化しているのは、まさに厳格な手続の中で非常に動きづらくなっているという部分があると思います。
もし作業が進んでいったとして、改正をするということになったとして、果たして、今度改正をする憲法ではその改正の手続は柔軟にするのか。そして、諸外国のようにそれこそ何十回も場合によっては時代によって変わっていくこともある、そういう状況のものにしていった方がいいのか。それとも、やはり日本は日本独自の、一度つくったら五十年、百年、もちろん手続を厳格にすればそういうことがあり得ることになるのではないかと思うのですが、これも、先生のお考えでは、望ましいとすればどちらなのか。ちょっとお答えをいただくのは難しいかもしれませんけれども、参考までに教えていただきたいと思います。
この発言だけを見る →そして、実は今のお話にもありましたし、先ほどもお触れになりましたが、先生としては結論を出されていないなというふうに思っていることがございます。憲法の改正のことなんですけれども、結局、今論議をしていく中で、先ほどからまさに先生がおっしゃっているように、全面改正すべきなのか、それとも、部分的に国民的合意ができた上、そこからまず改正するのか、こういう二つがあるとおっしゃいました。
そこで、これは一体どっちがいいんですかということを我々もやっていかなきゃならないわけです。どっちがいいんだとだれも決められないと思うのです、みんな意見はそれぞれですから。
ただ、政治主導として、今のこの国のこういう状況を見て選択するならば、より望ましいのはどちらなんだ。できるかできないかということではなくて、より望ましいのはどちらなんだという観点からすると、これは、現実的な方をとるか、それとも、対立は厳しいけれども、いろいろともめるかもしれないけれども、全面改正か。これは先生の個人的な感覚で結構でございますので、もし支持をされるとすれば、二つしかなければ、先生はどちらをお選びになるか。
それからもう一つ、その場合に、改正の手続の問題も出てくるんですね。今、不磨の大典化しているのは、まさに厳格な手続の中で非常に動きづらくなっているという部分があると思います。
もし作業が進んでいったとして、改正をするということになったとして、果たして、今度改正をする憲法ではその改正の手続は柔軟にするのか。そして、諸外国のようにそれこそ何十回も場合によっては時代によって変わっていくこともある、そういう状況のものにしていった方がいいのか。それとも、やはり日本は日本独自の、一度つくったら五十年、百年、もちろん手続を厳格にすればそういうことがあり得ることになるのではないかと思うのですが、これも、先生のお考えでは、望ましいとすればどちらなのか。ちょっとお答えをいただくのは難しいかもしれませんけれども、参考までに教えていただきたいと思います。
佐
佐々木毅#9
○佐々木参考人 私は、先ほども申し上げたかと思いますけれども、国民生活に非常に重大な影響を及ぼすとおぼしき条項、こういったものは改正ということになりましてもなかなか難しいだろうというふうに思います。これは、必要万やむを得ざる状況に陥って、とにかく何はともあれやらざるを得ないという場合ももちろんあるかもしれないけれども、そういうことでないとすれば、大事なのは、今の御質問と若干ニュアンスは違うかもしれませんけれども、そんなに対立がないようなことでもやってこなかったのかもしれない。発議条件が厳しいからということでそこも全部説明してきたところはなかったろうかというのを、まさに一つは考えていただきたいというふうに思う。
ただ、全体的な方向として言うと、私は、発議条件を緩和することは十分考えるに値するというふうに思っております。その具体案はいろいろあると思うんですけれども、三分の二という問題もございますし、両院という問題もございますし、それから国民は過半数ですから、これをどう考えるか、それぞれについていろいろな提案があり得るかなと思っております。ですから、改正手続について、今の制度をとにかく何はともあれこれだけは守るべきだという議論に私はくみするつもりはございません。その点だけは申し上げておきます。
この発言だけを見る →ただ、全体的な方向として言うと、私は、発議条件を緩和することは十分考えるに値するというふうに思っております。その具体案はいろいろあると思うんですけれども、三分の二という問題もございますし、両院という問題もございますし、それから国民は過半数ですから、これをどう考えるか、それぞれについていろいろな提案があり得るかなと思っております。ですから、改正手続について、今の制度をとにかく何はともあれこれだけは守るべきだという議論に私はくみするつもりはございません。その点だけは申し上げておきます。
新
新藤義孝#10
○新藤委員 ありがとうございます。
今の時点ではまだどちらと決めるべき段階にまで来ていないことでもあるんですね。ただ、これから作業していく上で、議論をしていく前提として、やはり先生に今そういうふうにお話をいただいたのは非常に大きな意義があると思っておりますので、御理解いただきたいと思います。
それから、要は、今までの議論も、結局、本来ならば初めに憲法ありき、初めに法律ありきで、その法律のもとで何ができるのかということを考えるのか、それとも、自分たちのやりたいことや望むことがあって、そして何をやるべきなのか、法律の中でやるのか、それとも法律を決めていけばいいじゃないか、こういう行って来いの議論があると思うんですね。
要は、それが堂々と憲法を論じられるようになったということは、私は、それだけこの国が成熟してきた、そしてまた、いろいろと御批判いただいておりますが、政治もそういう意味での成熟度を増したんではないかな、このように思っているんです。
その大前提として、憲法は国の基本となるものですから、その意味で、国民意識とかそれから国に対する国家観、こういうものをこれからどういうふうに我々日本人は持っていくべきかということが大切な要素になってくるんではないかなというふうに思っているのでございまして、きょう先生お触れになっておりませんけれども、恐縮ですが、また参考になる御意見をいただければありがたい、このように思うんです。
それは、今私たちの国、非常に連帯感が薄れているような、個人個人がばらばらになっている、こういうことをよく言われます。そして、そういう意味での国としての統一性というんでしょうか、国民としての、私たちは日本に住んでいるんだ、こういう一体感が弱いというよりも表に出ていない時代だなというふうに思っているんです。
これは一方で、不思議なことに、友達同士とか自分にかかわりのあることについては物すごく強烈に結びつくんですね。そのかわり、ちょっと離れて、自分に直接関係ない、所属しているけれども自分には直接関係ない、そういうものについては今度は極めて冷淡になる、こういう不思議なというかおもしろい現象があるんではないかというふうに思っています。
ふだんは全然知らぬ顔している人たちが、例えばオリンピックだとかワールドカップのときによくわかるんですけれども、もともとはまとまりがいい民族なんだなとそのとき改めてわかります。これ一回でワールドカップに出られるんだ、もう一回勝てばメダルとれるんだ、そのときの日本人の熱狂ぶり、特にふだん白けている若い連中が、おれは君が代なんか知らない、日の丸なんか嫌いだ、こんなことを言っている人たちが外国へ出かけていって、もう一回ここで勝てば日本がワールドカップに出られるとなるとみんなで立って国歌を歌う。
何か私は、日本人のアイデンティティーというのは、昔の一億総火の玉、これに尽きるなというのが個人的な感覚なんですけれども、そういう底に流れているものと、それから表面上の表現の仕方が今全然違ってきている、このように感じております。
それに、うがった見方かもしれませんが、これに対して、戦後の日本社会をつくってきたこの憲法や日本の国の進め方、これは影響が出ていないのかどうなのかというようなことを私は感じているんです。
今の憲法は戦前の軍国主義、全体主義を否定して、基本的人権を尊重しましょう、こういうもとで封建制を壊しましょう、こういう憲法だと思っているんです。個人の権利を尊重しなさい、それから農地解放だとか財閥解体だとか、要するに富や権力の集中を排除した、教育改革や、労働者や女性の解放を行った、これは非常にいい効果をもたらしてきましたけれども、その一方で、無理やり、国家国民だとかそういうことを考えるのはおかしいよ、自分のことを主張しなさい、こういうような風潮を生んできてしまったんではないかなというふうに思うのでございます。
特に、この憲法の中には基本的人権の尊重規定というのがございますけれども、国だとか公共への義務とか奉仕、こういうものについての規定がないに等しいというか、極めて少ない。教育の義務と勤労の義務と納税の義務しかありません。こういうことがありますし、今話題になっている教育の改革についても、基本法についても、まさに個人を追求しなさい。これは憲法から導き出されてきている道だなと私は思っているんです。
そこで、長々になって恐縮なんですが、先生、これからの私たちの国のあるべき姿として、一体日本の国、個人の権利と公共や国に対するこういう意識、これはどこまでどういうバランスをとるべきなのか。先生、今現状をごらんになって、私は今のがだめだと思っていませんよ、結局、最終的には日本人はみんなまとまります。でも、今百花繚乱で、議論は自由なんだ。権利を主張することをどんどんやって、そのおかげでいろいろな仕事が進まなかったり、この政治の場もそうなんですけれども、ある意味での混乱も巻き起こっているような気がするんです。個人と国や公共との集団、公のバランス、これはどういうふうにとるべきなのか、お考えをお聞かせいただければありがたいのでございます。
この発言だけを見る →今の時点ではまだどちらと決めるべき段階にまで来ていないことでもあるんですね。ただ、これから作業していく上で、議論をしていく前提として、やはり先生に今そういうふうにお話をいただいたのは非常に大きな意義があると思っておりますので、御理解いただきたいと思います。
それから、要は、今までの議論も、結局、本来ならば初めに憲法ありき、初めに法律ありきで、その法律のもとで何ができるのかということを考えるのか、それとも、自分たちのやりたいことや望むことがあって、そして何をやるべきなのか、法律の中でやるのか、それとも法律を決めていけばいいじゃないか、こういう行って来いの議論があると思うんですね。
要は、それが堂々と憲法を論じられるようになったということは、私は、それだけこの国が成熟してきた、そしてまた、いろいろと御批判いただいておりますが、政治もそういう意味での成熟度を増したんではないかな、このように思っているんです。
その大前提として、憲法は国の基本となるものですから、その意味で、国民意識とかそれから国に対する国家観、こういうものをこれからどういうふうに我々日本人は持っていくべきかということが大切な要素になってくるんではないかなというふうに思っているのでございまして、きょう先生お触れになっておりませんけれども、恐縮ですが、また参考になる御意見をいただければありがたい、このように思うんです。
それは、今私たちの国、非常に連帯感が薄れているような、個人個人がばらばらになっている、こういうことをよく言われます。そして、そういう意味での国としての統一性というんでしょうか、国民としての、私たちは日本に住んでいるんだ、こういう一体感が弱いというよりも表に出ていない時代だなというふうに思っているんです。
これは一方で、不思議なことに、友達同士とか自分にかかわりのあることについては物すごく強烈に結びつくんですね。そのかわり、ちょっと離れて、自分に直接関係ない、所属しているけれども自分には直接関係ない、そういうものについては今度は極めて冷淡になる、こういう不思議なというかおもしろい現象があるんではないかというふうに思っています。
ふだんは全然知らぬ顔している人たちが、例えばオリンピックだとかワールドカップのときによくわかるんですけれども、もともとはまとまりがいい民族なんだなとそのとき改めてわかります。これ一回でワールドカップに出られるんだ、もう一回勝てばメダルとれるんだ、そのときの日本人の熱狂ぶり、特にふだん白けている若い連中が、おれは君が代なんか知らない、日の丸なんか嫌いだ、こんなことを言っている人たちが外国へ出かけていって、もう一回ここで勝てば日本がワールドカップに出られるとなるとみんなで立って国歌を歌う。
何か私は、日本人のアイデンティティーというのは、昔の一億総火の玉、これに尽きるなというのが個人的な感覚なんですけれども、そういう底に流れているものと、それから表面上の表現の仕方が今全然違ってきている、このように感じております。
それに、うがった見方かもしれませんが、これに対して、戦後の日本社会をつくってきたこの憲法や日本の国の進め方、これは影響が出ていないのかどうなのかというようなことを私は感じているんです。
今の憲法は戦前の軍国主義、全体主義を否定して、基本的人権を尊重しましょう、こういうもとで封建制を壊しましょう、こういう憲法だと思っているんです。個人の権利を尊重しなさい、それから農地解放だとか財閥解体だとか、要するに富や権力の集中を排除した、教育改革や、労働者や女性の解放を行った、これは非常にいい効果をもたらしてきましたけれども、その一方で、無理やり、国家国民だとかそういうことを考えるのはおかしいよ、自分のことを主張しなさい、こういうような風潮を生んできてしまったんではないかなというふうに思うのでございます。
特に、この憲法の中には基本的人権の尊重規定というのがございますけれども、国だとか公共への義務とか奉仕、こういうものについての規定がないに等しいというか、極めて少ない。教育の義務と勤労の義務と納税の義務しかありません。こういうことがありますし、今話題になっている教育の改革についても、基本法についても、まさに個人を追求しなさい。これは憲法から導き出されてきている道だなと私は思っているんです。
そこで、長々になって恐縮なんですが、先生、これからの私たちの国のあるべき姿として、一体日本の国、個人の権利と公共や国に対するこういう意識、これはどこまでどういうバランスをとるべきなのか。先生、今現状をごらんになって、私は今のがだめだと思っていませんよ、結局、最終的には日本人はみんなまとまります。でも、今百花繚乱で、議論は自由なんだ。権利を主張することをどんどんやって、そのおかげでいろいろな仕事が進まなかったり、この政治の場もそうなんですけれども、ある意味での混乱も巻き起こっているような気がするんです。個人と国や公共との集団、公のバランス、これはどういうふうにとるべきなのか、お考えをお聞かせいただければありがたいのでございます。
佐
佐々木毅#11
○佐々木参考人 大変難しい問題で、いろいろな観点から議論できる問題を提起されたというふうに思っております。
ただ、私自身の認識を申しますと、自分の非常にプライベートな利益に関心があるというのは、これは万国共通で、どこもそうです。それから、だんだん豊かになりました結果、日本人は自分の趣味に興味を持つようになった、海外旅行も含めてなんですが、これも議員御案内のような形で、それは確かにふえてきていますね。
問題は、それだけでいいんだろうかということを、私の世代も含めて国民はやはり考え始めているんだと思うんですよ。それで、そういういわば非常に自分、個人に近いところで満足するというのを超えて、何かしなきゃいかぬじゃないかという気持ちをかなり潜在的には持っているのかな。ですから、これは必ずしも議員のおっしゃる意味と同じかどうかわかりませんけれども、例えば外国の貧しい人々のために自分は何かをしたいんだという言い方もこれはある。
ですから、それは国とか日本というのに必ずしも一元化されるとは限らないんだけれども、非常に個人ないし自分の周辺のことだけで全部がんじがらめになっているという状態は、ちょっと人間としてのバランス上必ずしも好ましくないなという意識は今の日本に結構存在し始めているのではないだろうか。ですから、そこからどこへどういう形でそれがあらわれていくのかなということについては、いろいろなあらわれ方があるのかなというふうに私は思っております。
ですから、議員があるいは意図されたことのように必ずしもならないかもしれませんけれども、非常に身近なところだけで何かやっているというので十分だという時代は終わって、それは高齢社会の問題もあるかもしれないし、地域の問題もあるかもしれないし、何か自分たちで、生きがいの問題も含めて、ちょっとパブリック的なことをやってみたいな、あるいはやるべきではないかなという状況に今日本人はいるのではないかなというふうに私自身は思っております。そういうエネルギーをどういうふうにうまく活用していくかというのが、これが政治の側の知恵にかかわることではないかなというふうに思っておりまして、一部お答えになったかどうかわかりませんが、そんな感じを持っております。
この発言だけを見る →ただ、私自身の認識を申しますと、自分の非常にプライベートな利益に関心があるというのは、これは万国共通で、どこもそうです。それから、だんだん豊かになりました結果、日本人は自分の趣味に興味を持つようになった、海外旅行も含めてなんですが、これも議員御案内のような形で、それは確かにふえてきていますね。
問題は、それだけでいいんだろうかということを、私の世代も含めて国民はやはり考え始めているんだと思うんですよ。それで、そういういわば非常に自分、個人に近いところで満足するというのを超えて、何かしなきゃいかぬじゃないかという気持ちをかなり潜在的には持っているのかな。ですから、これは必ずしも議員のおっしゃる意味と同じかどうかわかりませんけれども、例えば外国の貧しい人々のために自分は何かをしたいんだという言い方もこれはある。
ですから、それは国とか日本というのに必ずしも一元化されるとは限らないんだけれども、非常に個人ないし自分の周辺のことだけで全部がんじがらめになっているという状態は、ちょっと人間としてのバランス上必ずしも好ましくないなという意識は今の日本に結構存在し始めているのではないだろうか。ですから、そこからどこへどういう形でそれがあらわれていくのかなということについては、いろいろなあらわれ方があるのかなというふうに私は思っております。
ですから、議員があるいは意図されたことのように必ずしもならないかもしれませんけれども、非常に身近なところだけで何かやっているというので十分だという時代は終わって、それは高齢社会の問題もあるかもしれないし、地域の問題もあるかもしれないし、何か自分たちで、生きがいの問題も含めて、ちょっとパブリック的なことをやってみたいな、あるいはやるべきではないかなという状況に今日本人はいるのではないかなというふうに私自身は思っております。そういうエネルギーをどういうふうにうまく活用していくかというのが、これが政治の側の知恵にかかわることではないかなというふうに思っておりまして、一部お答えになったかどうかわかりませんが、そんな感じを持っております。
新
新藤義孝#12
○新藤委員 ありがとうございました。もう十分なお答えをいただいております。
すべてそれが憲法なり法律なりに原因があるわけではない、これは先生おっしゃるとおりです。でもしかし、大きな流れの中で、やはり国が戦前から戦後の大きく方向転換をした大きな目的といいますか、一つになっていると私は思うんですね。ですから、結局、国の基本法たる憲法を論じるときには、一体、日本人と国というものをどういう方向でどの程度でバランスさせておくかというのは非常に重要な問題だ。もちろん、このことは違う考えの方もたくさんいらっしゃいますので、大いにこれから憲法調査会で議論すべきことではないかというふうに思うのでございます。
最後に、残り時間も少なくなってまいりましたが、これまた先生、非常に総花的とか大枠の話で大変恐縮なんですが、私はそういう自分の物の考え方を長い目で見るようにしたらというふうに思っておりまして、今日本人は、国内においては自分たちはすごいと思っているわけですよ。ですから、国の中では日本人一人一人はみんなそれぞれ自分でプライドを持って物すごく自己主張をします。でも一方で、外国へ出ると、自分は東洋の小さな島国だ、こういうふうに思っている人がすごく多いのですね。外国に出ると、我々日本人はまだ小さな東洋の国だから、こういうふうに言っている。内にあっては、経済にしても何にしても、国内では一流だ、自分たちはすごくレベルが高くなっている、こういうふうに思っている人たちが多いというふうに思うんですね。
そこで、例えば、アメリカは確かに日本の人口の二倍、国土は二十五倍です。でも、イギリスは日本の人口の半分しかありません。それから、国の大きさは実は日本の六割なんですね。それで、GDPは八掛けです。ドイツにしても中国にしてもしかり。ドイツは大きな国かと思ったら、やや日本の方が大きいのですね。
国の大きさとか人口で別に競争するわけじゃないのですけれども、これから私たちは、戦争に負けて、そしてその後、奇跡的な復興を遂げて、今こういう価値観が多様化している中で、次の時代の私たちの国の位置、これは国際社会できちんとした尊敬と、それから自分たちの義務を果たせるような、そういう位置を占めるために一体何が大事なんだろう。
結局、考えてみると、歴史上、今まで日本の国は、あるときまで、ある線まではいいところまでいったと思うんです。明治時代も列強列国に伍して戦うほどにいって、そしてめちゃくちゃになった。まただめになったかと思ったら、もう一回立ち直ってきた。でも、いつでも共通しているのは、やはり東洋の特殊な国で、世界の中で、私もちょっとそれはコンプレックスになっているのかもしれませんが、どう見ても、やはり日本の国力やこれだけの勤勉性を持った国の評価というものはまだ正当なものになっていないのではないかな。だとすると、それは私たちの国の今のあり方に問題があるのではないかなというふうに思うんです。
非常に総花的とまさに申し上げましたけれども、恐縮なんですが、これからの日本のあるべき姿を考えるときに、一体どんなポイントが重要になってくるのか。国際社会の中の日本ということで、先生のお感じになっていることがあったら、最後に教えていただきたいというふうに思います。
この発言だけを見る →すべてそれが憲法なり法律なりに原因があるわけではない、これは先生おっしゃるとおりです。でもしかし、大きな流れの中で、やはり国が戦前から戦後の大きく方向転換をした大きな目的といいますか、一つになっていると私は思うんですね。ですから、結局、国の基本法たる憲法を論じるときには、一体、日本人と国というものをどういう方向でどの程度でバランスさせておくかというのは非常に重要な問題だ。もちろん、このことは違う考えの方もたくさんいらっしゃいますので、大いにこれから憲法調査会で議論すべきことではないかというふうに思うのでございます。
最後に、残り時間も少なくなってまいりましたが、これまた先生、非常に総花的とか大枠の話で大変恐縮なんですが、私はそういう自分の物の考え方を長い目で見るようにしたらというふうに思っておりまして、今日本人は、国内においては自分たちはすごいと思っているわけですよ。ですから、国の中では日本人一人一人はみんなそれぞれ自分でプライドを持って物すごく自己主張をします。でも一方で、外国へ出ると、自分は東洋の小さな島国だ、こういうふうに思っている人がすごく多いのですね。外国に出ると、我々日本人はまだ小さな東洋の国だから、こういうふうに言っている。内にあっては、経済にしても何にしても、国内では一流だ、自分たちはすごくレベルが高くなっている、こういうふうに思っている人たちが多いというふうに思うんですね。
そこで、例えば、アメリカは確かに日本の人口の二倍、国土は二十五倍です。でも、イギリスは日本の人口の半分しかありません。それから、国の大きさは実は日本の六割なんですね。それで、GDPは八掛けです。ドイツにしても中国にしてもしかり。ドイツは大きな国かと思ったら、やや日本の方が大きいのですね。
国の大きさとか人口で別に競争するわけじゃないのですけれども、これから私たちは、戦争に負けて、そしてその後、奇跡的な復興を遂げて、今こういう価値観が多様化している中で、次の時代の私たちの国の位置、これは国際社会できちんとした尊敬と、それから自分たちの義務を果たせるような、そういう位置を占めるために一体何が大事なんだろう。
結局、考えてみると、歴史上、今まで日本の国は、あるときまで、ある線まではいいところまでいったと思うんです。明治時代も列強列国に伍して戦うほどにいって、そしてめちゃくちゃになった。まただめになったかと思ったら、もう一回立ち直ってきた。でも、いつでも共通しているのは、やはり東洋の特殊な国で、世界の中で、私もちょっとそれはコンプレックスになっているのかもしれませんが、どう見ても、やはり日本の国力やこれだけの勤勉性を持った国の評価というものはまだ正当なものになっていないのではないかな。だとすると、それは私たちの国の今のあり方に問題があるのではないかなというふうに思うんです。
非常に総花的とまさに申し上げましたけれども、恐縮なんですが、これからの日本のあるべき姿を考えるときに、一体どんなポイントが重要になってくるのか。国際社会の中の日本ということで、先生のお感じになっていることがあったら、最後に教えていただきたいというふうに思います。
佐
佐々木毅#13
○佐々木参考人 時間もあれですから、簡単に私の考えを述べさせていただきます。
それはもちろん政府なりなんなりの役割は非常に大きいということはそうなんですけれども、やはり我々が持っている国民の能力を生かす仕組みというものをもっと工夫する必要があるのではないだろうか。まさに政治主導というのも、国民の能力を今までとは違った形で動かしていこうということなのではないでしょうか。だから、そういう点で、まず何か今までなかったようなことをぜひやっていただきたいのですよ。
これは時間がかかることですから簡単にはいきません。だから、あそこのかなりの数の人々をいろいろな形で政治的なアポインティーとして使えるというふうになったことをどう活用されるのかという、具体的なことで私としてはぜひ成果を見たいなというふうに思っている、例えば外国に派遣する人をどういう形で決めるのかというようなこと一つをとりましても。ですから、いろいろな段階の議論があって、まず隗より始めよというタイプの話もございますので、例えばそういうことも考えられると思うんです。
ただし、何か非常にまどろっこしい気持ちは私もよくわかります。だけれども、何か特効薬と言われても、これだけやれば十分だというふうなものがあるかと言われると、私は、やはり御時世も変わってきていますから、必ずしもこれだというふうにもなかなか言えないところがある。だけれども、まず足元の問題として言えば、例えばそういうことで随分日本の政府のイメージというものも変えることができるのじゃないか。そういう試みもぜひやっていただきたい。
これもちょっとまたお答えになっていませんけれども、私の手短な感想だけを申し上げました。
この発言だけを見る →それはもちろん政府なりなんなりの役割は非常に大きいということはそうなんですけれども、やはり我々が持っている国民の能力を生かす仕組みというものをもっと工夫する必要があるのではないだろうか。まさに政治主導というのも、国民の能力を今までとは違った形で動かしていこうということなのではないでしょうか。だから、そういう点で、まず何か今までなかったようなことをぜひやっていただきたいのですよ。
これは時間がかかることですから簡単にはいきません。だから、あそこのかなりの数の人々をいろいろな形で政治的なアポインティーとして使えるというふうになったことをどう活用されるのかという、具体的なことで私としてはぜひ成果を見たいなというふうに思っている、例えば外国に派遣する人をどういう形で決めるのかというようなこと一つをとりましても。ですから、いろいろな段階の議論があって、まず隗より始めよというタイプの話もございますので、例えばそういうことも考えられると思うんです。
ただし、何か非常にまどろっこしい気持ちは私もよくわかります。だけれども、何か特効薬と言われても、これだけやれば十分だというふうなものがあるかと言われると、私は、やはり御時世も変わってきていますから、必ずしもこれだというふうにもなかなか言えないところがある。だけれども、まず足元の問題として言えば、例えばそういうことで随分日本の政府のイメージというものも変えることができるのじゃないか。そういう試みもぜひやっていただきたい。
これもちょっとまたお答えになっていませんけれども、私の手短な感想だけを申し上げました。
新
中
鹿
鹿野道彦#16
○鹿野委員 佐々木先生、今最も重要なポイントのお話をいただきまして、まことにありがとうございました。
そこで、先生は官主導から政治主導へということをまず強調されたわけでございますけれども、このことは基本的に、国民の依存型社会、国民の依存体質からの脱却というふうなことを意味しておるのではないか、こういうふうに私は認識をいたすわけであります。すなわち、今の日本の国が、いよいよ新世紀を前にして、来世紀は自立の時代だ、こういうふうな言葉がよく使われます。しかし、仕組みそのものが自立の時代を迎える仕組みになっていない。すなわち、だれかが何か困ったときにはやってくれるんだろう、お上がやってくれるんだろうといいますか、そういう依存の体質を醸成せざるを得ないような仕組みになっているのではないか、こういうふうに考えているのであります。
そこで、一つ具体的に先生のお考えをお聞きしたいのですけれども、先ほど先生が首相公選論のお話をなされました。国民は、この閉塞状況から抜け切るには、自分で総理大臣を選びたい、新しい政治をぜひやってほしい、強力な政治のリーダーシップを発揮してもらいたい、こういうふうなことだと思うんです。
先生は、その前に、議会制というものが本当にしっかりしているのかどうかというものを、まずここでもう一度見直してみたらどうかというお話でございますけれども、私は、日本の総理大臣の権限が非常に不明確だというところに今日の総理大臣のリーダーシップを発揮できにくい状況になっているのではないか。憲法においては、六十六条において明確に、総理大臣というのは首長だ、それから六十八条においては、総理大臣の大臣の任免権というものがきちっとそこに言われているわけです。
しかし、現実的に、では内閣法にいくと、総理大臣の権限については何も書いていない。そして、内閣法六条においては、合議体、合議制というふうなものだけが規定されておる。そうすると、各大臣は同列なのか、こういうふうな考え方。そうなってくると、そこから、やはり先ほど先生のお触れになった縦割り行政の弊害というふうなものが出てくる。総理大臣という立場におけるその強力なるリーダーシップをなかなか発揮できないようになってきてしまった。
ゆえに、私は、総理大臣の権限というもの、統括する権限というものをもっと明確にしたらどうか、こういうふうな考え方に立つわけでありますけれども、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
この発言だけを見る →そこで、先生は官主導から政治主導へということをまず強調されたわけでございますけれども、このことは基本的に、国民の依存型社会、国民の依存体質からの脱却というふうなことを意味しておるのではないか、こういうふうに私は認識をいたすわけであります。すなわち、今の日本の国が、いよいよ新世紀を前にして、来世紀は自立の時代だ、こういうふうな言葉がよく使われます。しかし、仕組みそのものが自立の時代を迎える仕組みになっていない。すなわち、だれかが何か困ったときにはやってくれるんだろう、お上がやってくれるんだろうといいますか、そういう依存の体質を醸成せざるを得ないような仕組みになっているのではないか、こういうふうに考えているのであります。
そこで、一つ具体的に先生のお考えをお聞きしたいのですけれども、先ほど先生が首相公選論のお話をなされました。国民は、この閉塞状況から抜け切るには、自分で総理大臣を選びたい、新しい政治をぜひやってほしい、強力な政治のリーダーシップを発揮してもらいたい、こういうふうなことだと思うんです。
先生は、その前に、議会制というものが本当にしっかりしているのかどうかというものを、まずここでもう一度見直してみたらどうかというお話でございますけれども、私は、日本の総理大臣の権限が非常に不明確だというところに今日の総理大臣のリーダーシップを発揮できにくい状況になっているのではないか。憲法においては、六十六条において明確に、総理大臣というのは首長だ、それから六十八条においては、総理大臣の大臣の任免権というものがきちっとそこに言われているわけです。
しかし、現実的に、では内閣法にいくと、総理大臣の権限については何も書いていない。そして、内閣法六条においては、合議体、合議制というふうなものだけが規定されておる。そうすると、各大臣は同列なのか、こういうふうな考え方。そうなってくると、そこから、やはり先ほど先生のお触れになった縦割り行政の弊害というふうなものが出てくる。総理大臣という立場におけるその強力なるリーダーシップをなかなか発揮できないようになってきてしまった。
ゆえに、私は、総理大臣の権限というもの、統括する権限というものをもっと明確にしたらどうか、こういうふうな考え方に立つわけでありますけれども、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
佐
佐々木毅#17
○佐々木参考人 私、今の議員の御意見をお聞きいたしまして、今のような御意見というものは反対すべき根拠がないんじゃないか。つまり、そういう方向を、どこでどうするのかという手続その他の問題はございますけれども、総理大臣の権限は、少なくとも憲法のレベルではかなり明確に読める側面はあると思うんですけれども、法体系全体の問題と果たして接合性があるのかということについて、おっしゃられた点は私も基本的に同意いたします。
例えば、こういう内閣法みたいなものを、そもそも法律そのものが、端的に申すと必要なものなのかどうかということも本当は議論していただくべきことなのかなというふうに私は思います。内閣法というような形で、いわば政権の構成と運用についてどの程度法律的な制限の問題になじむのか、それともその内閣の自由な裁量にゆだねていいものか、この辺はやはり線引きを一度し直す必要が私はあるのではないか。その意味でいうと、余りにも法律で決め過ぎて、内閣法で決め過ぎているということは、やはり大きな問題点ではないだろうかというふうに思います。
法律に従って権限が行使されること自体は、そうでなければならないとは思うんですけれども、しかし、それによって肝心の目的が十分達せられないということになれば、これはやはり目的と手段が転倒している、逆さになっているということではないかなというふうに思いますので、議員の御意見に対しては、私は基本的に同意いたす次第でございます。
この発言だけを見る →例えば、こういう内閣法みたいなものを、そもそも法律そのものが、端的に申すと必要なものなのかどうかということも本当は議論していただくべきことなのかなというふうに私は思います。内閣法というような形で、いわば政権の構成と運用についてどの程度法律的な制限の問題になじむのか、それともその内閣の自由な裁量にゆだねていいものか、この辺はやはり線引きを一度し直す必要が私はあるのではないか。その意味でいうと、余りにも法律で決め過ぎて、内閣法で決め過ぎているということは、やはり大きな問題点ではないだろうかというふうに思います。
法律に従って権限が行使されること自体は、そうでなければならないとは思うんですけれども、しかし、それによって肝心の目的が十分達せられないということになれば、これはやはり目的と手段が転倒している、逆さになっているということではないかなというふうに思いますので、議員の御意見に対しては、私は基本的に同意いたす次第でございます。
鹿
鹿野道彦#18
○鹿野委員 もう一点、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
先ほどからの、官主導から政治主導へという切りかえをしていかなきゃならない。そこで問題になるのは現行憲法の六十五条ではないか、こういうふうに思うんです。「行政権は、内閣に属する。」こういうふうなことがうたわれておるわけでありますけれども、この六十五条によって、戦前の、天皇なり内閣なり、あるいは基本的に行政そのものが一体なんだ、そういうふうなことで国の運営をしてきた、その解釈がそのまま戦後においても残ってきてしまっておる。
本来、内閣は執政機関であって、あくまでも官僚機構と別に考えなきゃならない。ところが、今申し上げたような戦前の考え方がそのまま移行しているものですから、内閣も行政も一緒なんだ、こういうふうな、先ほど先生の触れられた慣例、慣習になってしまっておる。ですから、行政権というものが実にあいまいになってしまっている。
そして、内閣と行政が一体であるという考え方が、一方において議会とそこは別なんだという、いつの間にか分離する考え方が、そこで線引きされてしまっておる。それが官僚の行政の中立性なんだ、こんなふうにとられてしまっておる。そこに日本の国の基本的な、議院内閣制の根本的問題があるんではないか。こんな認識を持っておりまして、この行政権というものの六十五条の条項について、内閣と行政機構との関係、そして国会と内閣との関係、こういうものを明確にしていく必要がある。
すなわち、あくまでも国の運営というものは、議院内閣制であるわけですから、政治いわゆる内閣のもとに官僚機構というものがあるんだ、こういうふうな位置づけをしっかりと踏まえて国を運営していかなければならないんではないか、こんなふうに考えるわけです。
今申し上げたような日本の国の実質的な政府運営なものですから、例えば、現実の社会においても行政指導、通達行政がまかり通っておったわけですね。だから、よく外国人が、日本の政治はだれがどこで意思決定するのかわからない国だと。これはわからないわけですよ。各省庁の大臣すらどうなっているのかわからない。もう局長あたりもわからない形で、課長くらいのところが通達を出してやっておる。MOF担の問題が大蔵省の改革のときに大変問題になりましたけれども、日本の国はまともな民主主義の国なのか、こういうふうなことにもなるわけです。
そういうことからしますと、まさに来世紀、先生の言われる官主導から政治主導へというふうなことは、私は、基本的に、日本の国を真の民主主義の国の体制、社会にしていかなきゃならない、こういうふうな認識を持っておりまして、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
この発言だけを見る →先ほどからの、官主導から政治主導へという切りかえをしていかなきゃならない。そこで問題になるのは現行憲法の六十五条ではないか、こういうふうに思うんです。「行政権は、内閣に属する。」こういうふうなことがうたわれておるわけでありますけれども、この六十五条によって、戦前の、天皇なり内閣なり、あるいは基本的に行政そのものが一体なんだ、そういうふうなことで国の運営をしてきた、その解釈がそのまま戦後においても残ってきてしまっておる。
本来、内閣は執政機関であって、あくまでも官僚機構と別に考えなきゃならない。ところが、今申し上げたような戦前の考え方がそのまま移行しているものですから、内閣も行政も一緒なんだ、こういうふうな、先ほど先生の触れられた慣例、慣習になってしまっておる。ですから、行政権というものが実にあいまいになってしまっている。
そして、内閣と行政が一体であるという考え方が、一方において議会とそこは別なんだという、いつの間にか分離する考え方が、そこで線引きされてしまっておる。それが官僚の行政の中立性なんだ、こんなふうにとられてしまっておる。そこに日本の国の基本的な、議院内閣制の根本的問題があるんではないか。こんな認識を持っておりまして、この行政権というものの六十五条の条項について、内閣と行政機構との関係、そして国会と内閣との関係、こういうものを明確にしていく必要がある。
すなわち、あくまでも国の運営というものは、議院内閣制であるわけですから、政治いわゆる内閣のもとに官僚機構というものがあるんだ、こういうふうな位置づけをしっかりと踏まえて国を運営していかなければならないんではないか、こんなふうに考えるわけです。
今申し上げたような日本の国の実質的な政府運営なものですから、例えば、現実の社会においても行政指導、通達行政がまかり通っておったわけですね。だから、よく外国人が、日本の政治はだれがどこで意思決定するのかわからない国だと。これはわからないわけですよ。各省庁の大臣すらどうなっているのかわからない。もう局長あたりもわからない形で、課長くらいのところが通達を出してやっておる。MOF担の問題が大蔵省の改革のときに大変問題になりましたけれども、日本の国はまともな民主主義の国なのか、こういうふうなことにもなるわけです。
そういうことからしますと、まさに来世紀、先生の言われる官主導から政治主導へというふうなことは、私は、基本的に、日本の国を真の民主主義の国の体制、社会にしていかなきゃならない、こういうふうな認識を持っておりまして、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
佐
佐々木毅#19
○佐々木参考人 行政という概念をどう理解するかということにまさにかかわるわけで、行政と政治というのは、背反、違う概念ではあるんですけれども、しかし、いかなる意味で違う概念なのか、それとも無関係な概念なのか、ある意味では機能分担の概念なのか、この辺の整理がなかなか難しいところがあります。中学校の教科書にまでこの議論はずっと及んでおりまして、非常に厳格な意味での行政権と立法権の仕分けという議論が、日本のこの種の議論をするときに非常にドグマとして広く流通しているという歴史的な背景も、明治時代云々の話はおきまして、これは戦後の問題としてまさに流通をしているわけでございます。
したがって、議員が今おっしゃられました国会と内閣、端的に言えば与党と内閣の一体的な政権運営というものが、日本の政治の一番の基本がそこにあって、そこが自治というもののいわば担い手、民主主義の担い手になる、こういう構図がそこでぷつんと、確かに、何か別の世界に内閣は行ってしまう。そっちの世界と国会との関係というのはどうなっているのかな。
端的に申しますと、もし与党と内閣が一体であるとすると、与党議員が内閣に質問するというのも、これは何だろうかなという話があるんですけれども、新聞を含めて皆さん、別にそのことは何も疑問も抱かないで書いているというわけでございますし、それから、大臣の方々も、それは国会の問題ですから私は存じませんという話をすることができる。これなども、やはり切れているという観念があるものですから、そういうことが余り疑問なしに行われてきたのではないだろうかというふうに思います。
今、政治主導という形で、そこをいわば一体として運営するんだという態度を非常に明らかにされた結果として、わからない問題が逆に出てきたというのが、私は今の状況ではないだろうかというふうに思います。
恐らく内閣は、政策の決定を含めて、いわゆる行政機構が末端でやっているような仕事をはるかに超えるジャッジメントを日常的にやるという、その意味で非常に広いまさに政治を行う権限を持っているわけで、いわゆる国会政治じゃないかもしれませんけれども、国会政治も含めて政治を行う、そういう責務を持っているというふうに私は思います。
その意味で三権分立、ちょっと司法権は別にして、立法権と行政権という、しかも行政権という言葉は日本では独特のニュアンスを持っているために、議員もおっしゃるように、またいろいろな問題が起こる。しかし、仮にエグゼクティブパワーというふうにそれをアメリカ風に呼びかえたとしても、この二つを切り離して考えるという議論は非常に混乱を招くだけのことではないか。
政治主導をするということは、まさにそこの誤解を国会の方々が、実は今までのようなそういう誤解されたのとは違う形で動かしますよということを世の中に向かって宣言されたことではないか。それを一月からおやりになるということではないだろうかというふうに私は思っているわけでございます。ですから、国会の答弁者の問題も、まさに変わったというのも、ある意味では当然のことであった。
ただ、憲法教育を含めて、議員が心配なさっているような事実はなお牢固として存在している、あるいはそういう観念が存在しているということは事実でございます。
ですから、国会の運営の問題なども含めて、ただ人事の問題だけではなくて、やはり国会のあり方もそれに沿っていろいろ議論していくということを同時におやりになるともうちょっといろいろなことが見えやすくなってくるのではないか。今は何か、点がぽつぽつできているという段階で、クエスチョンタイムみたいなのがぽつんとできる。ぽつんぽつん点はできているんですけれども、線としてあるいは面として、構造がこうなんですよ、新しい理解はこうなんですよという形のところまではまだ行っていない嫌いがあるのではないだろうか。
だから、これは憲法の条文の問題でもありますけれども、やはりプラクティスというか実際の問題として、そのことについて工夫を重ねていく必要がある問題ではないかというふうに私は思っております。
この発言だけを見る →したがって、議員が今おっしゃられました国会と内閣、端的に言えば与党と内閣の一体的な政権運営というものが、日本の政治の一番の基本がそこにあって、そこが自治というもののいわば担い手、民主主義の担い手になる、こういう構図がそこでぷつんと、確かに、何か別の世界に内閣は行ってしまう。そっちの世界と国会との関係というのはどうなっているのかな。
端的に申しますと、もし与党と内閣が一体であるとすると、与党議員が内閣に質問するというのも、これは何だろうかなという話があるんですけれども、新聞を含めて皆さん、別にそのことは何も疑問も抱かないで書いているというわけでございますし、それから、大臣の方々も、それは国会の問題ですから私は存じませんという話をすることができる。これなども、やはり切れているという観念があるものですから、そういうことが余り疑問なしに行われてきたのではないだろうかというふうに思います。
今、政治主導という形で、そこをいわば一体として運営するんだという態度を非常に明らかにされた結果として、わからない問題が逆に出てきたというのが、私は今の状況ではないだろうかというふうに思います。
恐らく内閣は、政策の決定を含めて、いわゆる行政機構が末端でやっているような仕事をはるかに超えるジャッジメントを日常的にやるという、その意味で非常に広いまさに政治を行う権限を持っているわけで、いわゆる国会政治じゃないかもしれませんけれども、国会政治も含めて政治を行う、そういう責務を持っているというふうに私は思います。
その意味で三権分立、ちょっと司法権は別にして、立法権と行政権という、しかも行政権という言葉は日本では独特のニュアンスを持っているために、議員もおっしゃるように、またいろいろな問題が起こる。しかし、仮にエグゼクティブパワーというふうにそれをアメリカ風に呼びかえたとしても、この二つを切り離して考えるという議論は非常に混乱を招くだけのことではないか。
政治主導をするということは、まさにそこの誤解を国会の方々が、実は今までのようなそういう誤解されたのとは違う形で動かしますよということを世の中に向かって宣言されたことではないか。それを一月からおやりになるということではないだろうかというふうに私は思っているわけでございます。ですから、国会の答弁者の問題も、まさに変わったというのも、ある意味では当然のことであった。
ただ、憲法教育を含めて、議員が心配なさっているような事実はなお牢固として存在している、あるいはそういう観念が存在しているということは事実でございます。
ですから、国会の運営の問題なども含めて、ただ人事の問題だけではなくて、やはり国会のあり方もそれに沿っていろいろ議論していくということを同時におやりになるともうちょっといろいろなことが見えやすくなってくるのではないか。今は何か、点がぽつぽつできているという段階で、クエスチョンタイムみたいなのがぽつんとできる。ぽつんぽつん点はできているんですけれども、線としてあるいは面として、構造がこうなんですよ、新しい理解はこうなんですよという形のところまではまだ行っていない嫌いがあるのではないだろうか。
だから、これは憲法の条文の問題でもありますけれども、やはりプラクティスというか実際の問題として、そのことについて工夫を重ねていく必要がある問題ではないかというふうに私は思っております。
鹿
鹿野道彦#20
○鹿野委員 基本的にこれは、極端な言い方ですけれども、官僚機構の方にいわば政治が丸投げをしてきたところにやはり問題があるんではないか。ですから、私は、このような日本の仕組みが、実際はこのような仕組みじゃないんですけれども、今申し上げたような仕組みになってしまったということは、やはり政治の責任ではないか。だから、明確に内閣イコール行政ではないんだというふうな考え方、同時に、今先生のお話の議院内閣制の健全なあり方というものを来世紀は確立をしていかなきゃならないのじゃないか。
今の議院内閣制というのは、二元構造になって、いわゆる内閣と与党の二つの柱になっている。ですから、何か都合悪いことが起きますと、単なる内閣の改造によって責任逃れというような形になっておる。そこに常に責任のあいまいさというものが出てくる。この無責任さというふうな政治の姿から、社会においてしっかりとした規律なんて生まれてこない、倫理の社会なんというものもつくられにくい。いわば、来世紀は議院内閣制が本当に機能した議院内閣制を確立する、そういうふうな意味で、この六十五条におけるところの問題はさらに明確にしていく必要があるんではないか、こんなふうに考えておりますので、もう一度先生から、この点についてもし所感ということでありますならば、お述べいただければと思っております。
この発言だけを見る →今の議院内閣制というのは、二元構造になって、いわゆる内閣と与党の二つの柱になっている。ですから、何か都合悪いことが起きますと、単なる内閣の改造によって責任逃れというような形になっておる。そこに常に責任のあいまいさというものが出てくる。この無責任さというふうな政治の姿から、社会においてしっかりとした規律なんて生まれてこない、倫理の社会なんというものもつくられにくい。いわば、来世紀は議院内閣制が本当に機能した議院内閣制を確立する、そういうふうな意味で、この六十五条におけるところの問題はさらに明確にしていく必要があるんではないか、こんなふうに考えておりますので、もう一度先生から、この点についてもし所感ということでありますならば、お述べいただければと思っております。
佐
佐々木毅#21
○佐々木参考人 いろいろな権限を前提にして、それでいろいろな組織をこれに割り当てるというような書き方になっているわけですね。「行政権は、内閣に属する。」内閣は何するところかという書き方になっていないですね。
ですから、この辺の、何から出発しているかということを見ただけでも、私は、この憲法にはいろいろなふぐあいがあるのではないか、議員が御指摘になった六十五条についてもそうしたふぐあいが散見される一例ではないかというふうに考えます。
以上です。
この発言だけを見る →ですから、この辺の、何から出発しているかということを見ただけでも、私は、この憲法にはいろいろなふぐあいがあるのではないか、議員が御指摘になった六十五条についてもそうしたふぐあいが散見される一例ではないかというふうに考えます。
以上です。
鹿
中
赤
赤松正雄#24
○赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。
きょうは、佐々木先生から、二十一世紀の日本のあるべき姿ということについて非常に示唆に富んだお話をしていただきました。大変にありがとうございました。
先ほどのお話を聞いておりまして、まず、今鹿野委員からもございましたけれども、憲法第六十五条をめぐっての議院内閣制のいわば二元構造というふうな問題、いみじくも大臣を経験された委員から、従来の日本の政治は官に丸投げをしてきたのではないかという反省があるというお話もありました。
そういうことを踏まえて、もう少し具体的というか、私は、長く野党にいた政党から今与党の側に来ていろいろ感ずるところはあるわけですけれども、この官主導ということについてしみじみと感じることがありました。
そこで、佐々木先生がお書きになられた「論争東洋経済」のことしの十一月号、「議会制の浮沈がかかる政治主導体制の構築」というテーマの論文を読ませていただいて、きょうお話に出なかったことをまず最初にもう少し突っ込んでお聞きしたいなというところがございます。
それはどういうことかといいますと、要するに、政官はもたれ合いで、私など野党の側にいた人間から見ますと、与党の側に一方的な官僚の情報の集中というものがあって、野党の側には、今は知りませんけれども、かつてそうした政治をとり行う上における情報が極めて少なかった。そういう背景を踏まえて、佐々木先生がお書きになっていることに、一カ所すごくおもしろいなというか、さらに聞いてみたいなというところがございます。
それはどういうところかといいますと、「官の奮起なしには政治主導の「質」はむしろ危ういことになりかねない。」ということを言われた上で、「官主導の伝統を放棄し、もっぱら「行政の中立性」の観点から政治との接点を大臣その他公的地位にある者に限定し、もっぱら政策面において協力するにとどめたいということを官が全体として言い出せば、それは一つの重要な問題解決の糸口になる。」こういうふうな指摘をされております。「こうした観点からすれば、現在までのところ、政官双方が自らの持ち分について率直に議論を交わすことがほとんど見られず、個別散発的に問題の処理が試みられているのは、きわめて憂慮すべき事態である。」こういうふうにおっしゃっているわけですけれども、政官の線引きという問題について、こういうふうな率直な議論をして、今のこの日本の政治状況に対して、問題を官が全体として言い出すなんということがあり得るというか、そういうことについて、見通しとしてどういうことを感じておられるでしょうか。
〔会長退席、鹿野会長代理着席〕
この発言だけを見る →きょうは、佐々木先生から、二十一世紀の日本のあるべき姿ということについて非常に示唆に富んだお話をしていただきました。大変にありがとうございました。
先ほどのお話を聞いておりまして、まず、今鹿野委員からもございましたけれども、憲法第六十五条をめぐっての議院内閣制のいわば二元構造というふうな問題、いみじくも大臣を経験された委員から、従来の日本の政治は官に丸投げをしてきたのではないかという反省があるというお話もありました。
そういうことを踏まえて、もう少し具体的というか、私は、長く野党にいた政党から今与党の側に来ていろいろ感ずるところはあるわけですけれども、この官主導ということについてしみじみと感じることがありました。
そこで、佐々木先生がお書きになられた「論争東洋経済」のことしの十一月号、「議会制の浮沈がかかる政治主導体制の構築」というテーマの論文を読ませていただいて、きょうお話に出なかったことをまず最初にもう少し突っ込んでお聞きしたいなというところがございます。
それはどういうことかといいますと、要するに、政官はもたれ合いで、私など野党の側にいた人間から見ますと、与党の側に一方的な官僚の情報の集中というものがあって、野党の側には、今は知りませんけれども、かつてそうした政治をとり行う上における情報が極めて少なかった。そういう背景を踏まえて、佐々木先生がお書きになっていることに、一カ所すごくおもしろいなというか、さらに聞いてみたいなというところがございます。
それはどういうところかといいますと、「官の奮起なしには政治主導の「質」はむしろ危ういことになりかねない。」ということを言われた上で、「官主導の伝統を放棄し、もっぱら「行政の中立性」の観点から政治との接点を大臣その他公的地位にある者に限定し、もっぱら政策面において協力するにとどめたいということを官が全体として言い出せば、それは一つの重要な問題解決の糸口になる。」こういうふうな指摘をされております。「こうした観点からすれば、現在までのところ、政官双方が自らの持ち分について率直に議論を交わすことがほとんど見られず、個別散発的に問題の処理が試みられているのは、きわめて憂慮すべき事態である。」こういうふうにおっしゃっているわけですけれども、政官の線引きという問題について、こういうふうな率直な議論をして、今のこの日本の政治状況に対して、問題を官が全体として言い出すなんということがあり得るというか、そういうことについて、見通しとしてどういうことを感じておられるでしょうか。
〔会長退席、鹿野会長代理着席〕
佐
佐々木毅#25
○佐々木参考人 官というものもないんだと思います。何とか省というのとか何とか局というものはあると思うんですけれども、官というものは全体概念としてはやはりないのではないか。したがって、今議員御指摘のようなことは、私としては、そこに書いた趣旨からすれば残念ではございますけれども、なかなか、もっと言えば、あなたが言うのだったらいいというタイプの話になりやすいのではないだろうか。
ただ、この点につきましては、私は、人事院のいろいろな研修等で、繰り返し繰り返し、いわゆる官の方々に、これではどうだろうかというような物言いを個人的には努力をいたしておりますけれども、官主導体制とはいいますけれども、官という一つのものがないということがやはり基本的なジレンマ、先ほど申したようなジレンマでございますので、なかなかその実現を期待するということは、リアルに考えれば難しいかもしれない。
しかし、仮に、内閣に属している官のトップの方でもそういう問題を提起されれば、これは一つの議論として政治の側でも受けとめる可能性が出てくるのであって、諸省庁から自由にいろいろな意見が出てくるということでは、やはりそういうことはないだろうなというふうに思っています。
この発言だけを見る →ただ、この点につきましては、私は、人事院のいろいろな研修等で、繰り返し繰り返し、いわゆる官の方々に、これではどうだろうかというような物言いを個人的には努力をいたしておりますけれども、官主導体制とはいいますけれども、官という一つのものがないということがやはり基本的なジレンマ、先ほど申したようなジレンマでございますので、なかなかその実現を期待するということは、リアルに考えれば難しいかもしれない。
しかし、仮に、内閣に属している官のトップの方でもそういう問題を提起されれば、これは一つの議論として政治の側でも受けとめる可能性が出てくるのであって、諸省庁から自由にいろいろな意見が出てくるということでは、やはりそういうことはないだろうなというふうに思っています。
赤
赤松正雄#26
○赤松(正)委員 今、実は、佐々木教授がかかわっておられる二十一世紀臨調ですか、先般、政治家に対するアンケート、政治主導に関するアンケートをいただきました。さまざまな政治主導に対する、あるいは官のありようというものに対する考え方を問いかけるアンケートをいただいたわけですけれども、私は、あのアンケートに書いていて、政治家がこういうことを言うのもおかしな話なんですが、すごく物足りなさを感じたわけです。
二つありまして、一つは、現実に日本の政治を、今先生がいみじくも、官主導と言っておられた、そういう官というものはないんだというお話でございますけれども、いわゆる政治が主導してこないで、全体としての官僚群というものが政治を仕切ってきたという側面がある。そういうことに対する明確な、それを構成している一人一人に対する考え方というものに対する問いかけというか、きちっとした調査というか、そういうものが欲しいなというのが一つ。それからもう一つは、政治家に対するこういうアンケートがいろいろな機会に寄せられるわけですけれども、正直言って、事の本質をついていないということを感じざるを得ない質問が多いということ、鋭い大事な質問も幾つもあるのですけれども。
それともう一つは、そういったことをより多くの国民に提示する、このことが非常に大事だ。そのことが国民全体の上に余り反映されていないのじゃないのか。そういう点では、私は、いわゆるインフォメーションテクノロジー、IT革命の流れの中で、これは政治家の側がこういうことを言うのもおかしい話かもしれませんが、どの政治家がどういう物の考え方をしているのか、今の例えば政治の仕組みなら仕組みという問題に対してどういう考え方を持っているのかということについて、もっとより的確にオープンに国民の皆さんに知らせるための作業を、ぜひ先生のようなお立場の方はそういうIT革命の流れの中で活用されたらいいのじゃないかというふうに思うのですけれども、この二点についてお話を聞かせていただきたいと思います。
この発言だけを見る →二つありまして、一つは、現実に日本の政治を、今先生がいみじくも、官主導と言っておられた、そういう官というものはないんだというお話でございますけれども、いわゆる政治が主導してこないで、全体としての官僚群というものが政治を仕切ってきたという側面がある。そういうことに対する明確な、それを構成している一人一人に対する考え方というものに対する問いかけというか、きちっとした調査というか、そういうものが欲しいなというのが一つ。それからもう一つは、政治家に対するこういうアンケートがいろいろな機会に寄せられるわけですけれども、正直言って、事の本質をついていないということを感じざるを得ない質問が多いということ、鋭い大事な質問も幾つもあるのですけれども。
それともう一つは、そういったことをより多くの国民に提示する、このことが非常に大事だ。そのことが国民全体の上に余り反映されていないのじゃないのか。そういう点では、私は、いわゆるインフォメーションテクノロジー、IT革命の流れの中で、これは政治家の側がこういうことを言うのもおかしい話かもしれませんが、どの政治家がどういう物の考え方をしているのか、今の例えば政治の仕組みなら仕組みという問題に対してどういう考え方を持っているのかということについて、もっとより的確にオープンに国民の皆さんに知らせるための作業を、ぜひ先生のようなお立場の方はそういうIT革命の流れの中で活用されたらいいのじゃないかというふうに思うのですけれども、この二点についてお話を聞かせていただきたいと思います。
佐
佐々木毅#27
○佐々木参考人 前者、特に官の担い手たちの意識の調査ということにつきましては、可能であれば我々もぜひやらせていただきたいというふうに思っております、それをどう評価するかとかいろいろなことはさておきまして。
その意味で言いますと、私らのような第三者と言ったら大変失礼ですけれども、そういった人間の集団の役割もこれまで必ずしも十分でなかったところがあるのかなという点は、議員御指摘の第二点とも絡むわけでございまして、恐らくそういう点が、やはり全体として日本の仕組みの中で、反省も込めて申しますけれども、十分でなかったことも、全体のいろいろな状況の推移というものに対して少なからぬ影響を及ぼしたということはあるのかな。
つまり、ある意味で余りにも国会内的、あるいは余りにも政党内的というところでしか政治情報というものが出てこなかったという仕組みがあった。国民もそこばかり見させられるというような状態が続いてきたために、政治全体、ある意味では行政も含めてなんですけれども、全体についてのバランスのある見方なり議論なりがなかなかしにくい情報構造とでもいうべきものがあったのかなという点は、私自身もそれなりの反省を込めて自覚しているところでございますので、今後、どの程度のことができるかわかりませんけれども、議員の御指摘については真摯に受けとめたいと思っております。
この発言だけを見る →その意味で言いますと、私らのような第三者と言ったら大変失礼ですけれども、そういった人間の集団の役割もこれまで必ずしも十分でなかったところがあるのかなという点は、議員御指摘の第二点とも絡むわけでございまして、恐らくそういう点が、やはり全体として日本の仕組みの中で、反省も込めて申しますけれども、十分でなかったことも、全体のいろいろな状況の推移というものに対して少なからぬ影響を及ぼしたということはあるのかな。
つまり、ある意味で余りにも国会内的、あるいは余りにも政党内的というところでしか政治情報というものが出てこなかったという仕組みがあった。国民もそこばかり見させられるというような状態が続いてきたために、政治全体、ある意味では行政も含めてなんですけれども、全体についてのバランスのある見方なり議論なりがなかなかしにくい情報構造とでもいうべきものがあったのかなという点は、私自身もそれなりの反省を込めて自覚しているところでございますので、今後、どの程度のことができるかわかりませんけれども、議員の御指摘については真摯に受けとめたいと思っております。
赤
赤松正雄#28
○赤松(正)委員 それから、先ほど先生からお話しいただいた「「政治主導」と憲法政治」という中の「改正手続をめぐる問題」のお話とも関連するんですが、私ども公明党としましては、この憲法調査会の五年の議論を踏まえてその方向性が出た、それを踏まえて、次の五年の期間の中で憲法の改正という問題について、まず第一段階、合意のしやすいものからしていこう、そういうふうな方針を先ほど党大会で出したばかりなんですけれども、そういった意味で、先ほど先生がおっしゃった、まず国会の仕組みあたりを目標にというお話は非常に参考になりました。
そこで、そういうことを踏まえた上で、先ほど自由民主党の委員の方から、なぜ憲法についてはさわってはいけないのか全く理解できないというお話がございました、過去の経緯の中で。私は全く理解できるわけでございまして、つまり、それはなぜかというと、長く日本の国の与党を形成してきた自由民主党という政党を構成しておられる皆さん全体の国家観、歴史観初め、極めて不透明な部分があったということがやはり一つの原因だろう。裏返せば、野党の側のそうした歴史観、国家観についても、国民の側から見ればかなり不透明な部分があった。両方相まって、憲法について直接それをどう変えていくかという議論がなかったというものが形成されてきたのだろうと思うんです。
先ほど佐々木先生が非常におもしろい言い方をされておりましたが、この改正の手続を、今の発議をもう少ししやすくすることによってむしろ逆に緊張感が高まるんだというお話をされておりましたが、私は、今申し上げたように、いわば与野党ともに、国民の目から見て極めて不透明な部分がある歴史観、国家観があって、こういう政党たちによって憲法を変えられたらたまらないという部分があったのではないかという感じがいたしました。
そういう流れの中で、一方でイデオロギーの終えんというようなことがあり、あるいはまた、日本の国内政治的にいえば、自民党の一党集中的な行き方が少し弱まってきた。そういう流れの中で、むしろ憲法について率直な意見が出てくる背景になっていった。つまり、この国が成熟した云々の話がありましたが、決してそうじゃなくて、むしろ政治への不信感が高まってきているがゆえに、こういう仕組みではだめだ、そういう部分で国民の皆さんの間の憲法に対する姿勢も変わってきたのではないのかな、そういうふうに思っております。
とにもかくにも、今の日本の政治が、私どもも与党を形成し、そして先ほど申し上げたように、論憲の流れの中から、憲法については合意を得やすいところから変えていこうというふうな姿勢に立っている。また、野党第一党のリーダーの中にも、憲法改正について積極的な意見が出ている。こういう背景は、先ほど先生がおっしゃったような形に持っていく流れが非常に大きく出てきたというふうに受けとめているのですけれども、重なるかもしれませんが、今申し上げたような受けとめ方について、佐々木先生のお話を聞かせていただきたいと思います。
この発言だけを見る →そこで、そういうことを踏まえた上で、先ほど自由民主党の委員の方から、なぜ憲法についてはさわってはいけないのか全く理解できないというお話がございました、過去の経緯の中で。私は全く理解できるわけでございまして、つまり、それはなぜかというと、長く日本の国の与党を形成してきた自由民主党という政党を構成しておられる皆さん全体の国家観、歴史観初め、極めて不透明な部分があったということがやはり一つの原因だろう。裏返せば、野党の側のそうした歴史観、国家観についても、国民の側から見ればかなり不透明な部分があった。両方相まって、憲法について直接それをどう変えていくかという議論がなかったというものが形成されてきたのだろうと思うんです。
先ほど佐々木先生が非常におもしろい言い方をされておりましたが、この改正の手続を、今の発議をもう少ししやすくすることによってむしろ逆に緊張感が高まるんだというお話をされておりましたが、私は、今申し上げたように、いわば与野党ともに、国民の目から見て極めて不透明な部分がある歴史観、国家観があって、こういう政党たちによって憲法を変えられたらたまらないという部分があったのではないかという感じがいたしました。
そういう流れの中で、一方でイデオロギーの終えんというようなことがあり、あるいはまた、日本の国内政治的にいえば、自民党の一党集中的な行き方が少し弱まってきた。そういう流れの中で、むしろ憲法について率直な意見が出てくる背景になっていった。つまり、この国が成熟した云々の話がありましたが、決してそうじゃなくて、むしろ政治への不信感が高まってきているがゆえに、こういう仕組みではだめだ、そういう部分で国民の皆さんの間の憲法に対する姿勢も変わってきたのではないのかな、そういうふうに思っております。
とにもかくにも、今の日本の政治が、私どもも与党を形成し、そして先ほど申し上げたように、論憲の流れの中から、憲法については合意を得やすいところから変えていこうというふうな姿勢に立っている。また、野党第一党のリーダーの中にも、憲法改正について積極的な意見が出ている。こういう背景は、先ほど先生がおっしゃったような形に持っていく流れが非常に大きく出てきたというふうに受けとめているのですけれども、重なるかもしれませんが、今申し上げたような受けとめ方について、佐々木先生のお話を聞かせていただきたいと思います。
佐
佐々木毅#29
○佐々木参考人 私は、戦後の憲法をめぐるいろいろな議論が違うフェーズに入ったというところまでは必ずしも確信を持てないのですけれども、しかし、先ほど申し上げましたように、できることをとにかくやってみられるということがやはり大事な点であるということをきょうは申し上げたつもりでございます。
したがいまして、どこから始めるかというのは、決して適当に選べるというものではないだろうということ。そして、その意味で、憲法を扱う政治の側がある意味では憲法を大事に扱いつつ、しかし改めるところは改めていくといいますか、この辺のことについて議員の方々の間で、最後の個別の案件について意見が違うことがあったとしても、何か基本的な態度においてある種の共通の雰囲気が醸成されていくということが、あえて言えば成熟ということになるのかな。ですから、最後ぎりぎりのところで意見が全部一緒になるという必要は必ずしもないと僕は思う。ただ、憲法を政治が扱うというのはどういうことなのかなということについての共通の理解なり雰囲気を醸成されていくということが、あえて言えば成熟という言い方もできるかな、そういうふうに考えております。
この発言だけを見る →したがいまして、どこから始めるかというのは、決して適当に選べるというものではないだろうということ。そして、その意味で、憲法を扱う政治の側がある意味では憲法を大事に扱いつつ、しかし改めるところは改めていくといいますか、この辺のことについて議員の方々の間で、最後の個別の案件について意見が違うことがあったとしても、何か基本的な態度においてある種の共通の雰囲気が醸成されていくということが、あえて言えば成熟ということになるのかな。ですから、最後ぎりぎりのところで意見が全部一緒になるという必要は必ずしもないと僕は思う。ただ、憲法を政治が扱うというのはどういうことなのかなということについての共通の理解なり雰囲気を醸成されていくということが、あえて言えば成熟という言い方もできるかな、そういうふうに考えております。