内田健三の発言 (憲法調査会)

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○参考人(内田健三君) 内田でございます。
 ただいまは、加藤周一先生から大文明論と申しますか、非常にスケールの大きなお話があったと思います。実は私は加藤先生の門下生でございまして、もう二十年近くになりますか、その前二十年ぐらい加藤塾で教えを受けていた者でございます。
 さて、きょうは私の話は加藤さんのお話とは全く違うというか、私は五十年近く政治ジャーナリストでございます。日本の戦後の政治のウオッチャーとして活動してまいりました。その見地からきょうは極めてナウな、現実的な問題について考えを申し上げたいと思います。
 憲法は一九四七年に公布されまして、もう五十三年たったわけであります。私は、憲法を千古不磨の大典などというのは思い込みが強過ぎるのではないかという意見でございまして、千古不磨の大典といったのは明治憲法でございますが、明治憲法は五十六年をもって敗戦時に終わりました。その終戦の翌々年に現在の日本国憲法というものができましたから、今日は既に五十三年を経過しているわけであります。
 憲法というものに寿命があるかどうか、これはわかりませんが、結果論でありますが、私は日本憲法について改憲論というものが出始めているのは、そういう意味からいえばごく当然のことかなというふうに思っております。
 改憲だ護憲だというすさまじい対立の数十年は既に終わったと。これは国際情勢という問題もあります。国民感情、国民の意識の変化ということもあります。今やその点は非常に自由に考えた方がいいのではないか。その点から論憲という言葉がちょうど中間の言葉としてございますが、私は、論憲、大いに結構であるというのが私の基本的な立場でございます。
 さて、日本の憲法は五十年たちましたが、この間に非常に大きな変化が一つありました。
 つまり、一九四六、七年、敗戦後の憲法論議、制定の経過というものについては、アメリカの押しつけ憲法であるとか、いやいや日本国民の伝統的な考え方がここでやっと日の目を見たんだということとかいろいろありますけれども、この制定経過についてはさまざまな議論がにぎやかに展開をされてきておりますが、私がきょうちょっと申し上げたいのは、この憲法が十年たったときに岸内閣のもとで政府の憲法調査会というものがつくられました。これの論議の経過というものをよく私どもは参考として見た方がいいのではないかという考え方を一つまず申し上げます。
 たまたま私は、この岸憲法調査会はまだ若い記者時代に担当記者になりまして、これが何と七年間論議をしたんですね。昭和三十二年にできまして、岸内閣が三十五年、あの安保闘争によって倒れますが、その間の三年間、ずっとこの調査会制定以来担当をいたしました。三十五年に、あの安保闘争の後に池田内閣ができました。池田内閣が四年間でありまして、やがて佐藤内閣、これは一九六四年でありますが、佐藤内閣ができたとき、その直後にようやく答申案ができました。
 これは、前後七年間の大調査会であったわけであります。しかも政府の調査会であった。そしてふれ込みは、岸さんが、この憲法は占領下にできた憲法である、こういう憲法をいつまでも持っていてはいけないということで、改憲調査会として発足をしたわけであります。
 しかし、七年間やりましたあげくの佐藤内閣が出しました答申案、結論というものは、これは全く改憲とかあるいは護憲とかいう論議を超えて、両者が出し合ったいろんな意見を並べた、併記した答申案でありまして、これは恐らく調査会をつくられた岸さんの本意では全くなかった。しかし、私は、それは当時の日本の状況から見れば当然であったというふうに思います。
 私自身、若い記者でございまして、憲法を議論するのはいいよと、議論するのはいいが、岸さんが、これは個人の問題になりますが、岸さんという人がこの憲法を改正したいということで思い立った調査会はおかしいのではないかというのが記者自身の胸のうちにあった考えでございます。そのことが取材にどこまで影響したか、それは何ということはないんですけれども、私はそのことが、この調査会を七年後には何のためにやった議論かわからぬと言ってもいいような結論になった理由であると思います。
 私がなぜその岸調査会に反対したかと申しますと、これは言うまでもなく、戦中戦後における岸さんの政治行動というものが、私はこの方がこの戦後にできた憲法というものを大改革するという、大改正をするという資格はないのではないかというのが基本にありましたためにそういうことになりました。結論もそう、世論もそう見たと言っていいかと思います。しかし、このときに起こった変化というものは、今日まで非常に岸調査会のいわば後遺症というものは私は残っているというふうに思います。
 岸調査会がどうしてその本来のねらいを達せられなかったかといえば、これは日本の国情が変わったからであります。日本の国民の意識が変わったからであります。言うまでもなく、それは六〇年安保を境にして池田内閣が登場いたしまして、この池田さんは、要するに所得倍増計画という、とにかくもう安保問題あるいは憲法問題で何だかんだ議論するようなときは過ぎたではないかと。新安保条約はもうできてしまっているし、そのもとで我々はこれから、この焼け野が原であった十年を経て、これからどうやって日本を再建するかという、そこからお互い国民仲よく、イデオロギー闘争はもういいかげんにして、そして汗水垂らして、あるいは友情を持って働こうじゃないか、これが所得倍増計画でありました。
 これは岸さんの弟さんである佐藤さんも、憲法には中途半端といいますか、ある種の結論をつけて終わって、そして池田さんの後を引き継いだ後は、御存じのように池田・佐藤時代と言われる十二年にわたる日本の国運を担われたわけでありまして、その間になされたことは経済発展であると。国民が豊かになろう、こういうことであって、それは成功をした。あるいは、それが十二年だけであったのか、後の田中政権あるいは三角大福と言われる時代まで続いたかと思いますが、そういうことが、私は、この敗戦後の憲法制定の次に十五年ぐらいたったところで大きな動きがあったということをこの際もう一度思い出してみる必要があると思います。
 次の日本の転機は中曽根内閣の登場であったと私は思います。これは一九八二年ですね。八二年ですから、四五年の敗戦からもう三十年ぐらいたつというときであります、三十数年たつ。この中曽根さんが総理になられたときに、おれは戦後政治の総決算をしたいということを旗印に掲げられた。これは私は非常に大きな意味を持ったと思います。当時私は、その中曽根さんについて、これはジャーナリストですから具体的な名前を挙げてあれこれ申しますが、中曽根さんというのはやっぱり少し危ないところのある政治家ではないかと、こういうふうな、一口で言えばそういう印象を持った。すばらしい人だけれども、どうもそういう思想的にもあるいは政治的にもどうかなという感じを絶えず持っておりました。
 ところが、この方が戦後政治の総決算と言われたとき、私はこれはいきなり憲法改正かなと直観をしましたけれども、それは私の考えが浅はかであって、私は中曽根政治の五年というのは、つまり戦後の十年から池田・佐藤の十二年、その次に第三期を画した非常に大きな政治であったというふうに思います。
 それは、なさったことが、今お書きになったものもありますが、おれは憲法改正をしようなんということでこの言葉を使ったんではないんだと。要するに、数十年を経て日本もどうやら一つの限界に来ていると。そこで、この日本の政治を変えようということでなさったのが土光政治臨調であります。そして、あるいは教育問題で臨時教育審議会というものをつくられた。
 この土光臨調は、言うまでもなく、もはや成長の限界というか、高度成長の限界に来た日本をどうやったら立て直せるか、新しい政治にできるかということでありまして、これは一つはもちろん小さな政府を志向するという行財政の改革であったわけで、そしてまた、これは憲法という問題は忘れておられたわけではない、意識の大底にはあるわけですが、その前に教育のあり方というものに目をつけられた。
 これはそれからもはや十五、六年たっておるわけですが、今日もいつもいわば政治の亜流の政権がと言うと悪いんですが、またぞろ小さな政府を志向する、あるいは教育改革が基本だ、教育がなってないよというふうなことを言っておりますが、私はそれは一九八二年の段階では非常に大きな見識であったなと今にして思っております。
 そういうことから発展させますと、私は、土光臨調の後を引き継ぎました政治臨調という、今二十一世紀臨調というふうに名前を変えておりますが、この仕事をこの十年来続けておりますのも、結局は中曽根改革の引き継ぎなのかなと。これは特に、中曽根さんが起用された臨調の中で亀井正夫さんという方が国鉄の民営・分割をなさった。私は、これは土光臨調、非常に大きな働きはしましたが、成果として唯一世界にも誇れるのは国鉄の民営・分割であるというふうに思っておりますので、その会長である亀井正夫さんを担いでと申しますか中心にして、今なお日本の二十一世紀の改革というものはどうあるべきかということを今、毎日のように議論をしておるわけでありまして、私は、以上のような憲法制定の当時と、それから十五年たった後の岸憲法調査会というもののいわば失敗といいますか、竜頭蛇尾に終わったということと、そして新たに中曽根時代になっての改革論というものをよく研究する必要があるなと。
 これは何と申しますか、私は、政治はやはり十年先、二十年先を見通した変革というものをしなければならないものであると。すぐれたリーダーというものはそういう先見性といいますか、あるいは歴史を踏まえた展望というものを持つべきものであるというふうに思っておりますので、きょう、とにかくこの調査会に出て話をしろと言われますと、私はやはりこの五十年の歴史というものをよく点検する必要があるのではないか、そしてそれを踏まえて、ここまで来たこの段階の改革というものは何であるのかということを議論すべきであると。
 幸い、この国会で久しぶりに設けられました憲法調査会というものは、超党派の会であり、しかも改憲であるとか護憲であるとかイデオロギーの角突き合いをする調査会ではないよという合意のもとに出発しているのでありますから、その本来の趣旨を徹底して委員の皆さんがおやりになることが私ども国民のためにもありがたいことであるというふうに存じているわけであります。
 まず、冒頭にはこれだけのことを申し上げておきたいと存じます。

発言情報

speech_id: 115014184X00220001127_006

発言者: 内田健三

speaker_id: 19225

日付: 2000-11-27

院: 参議院

会議名: 憲法調査会