太田昭宏の発言 (憲法調査会)
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○太田(昭)委員 まず第一に、昨年の一月から憲法調査会が始まりまして、中山会長、鹿野会長代理を初めとして、一貫して丁寧に論議が常にされてきたということについて、大変よかったと敬意を表したいと思っております。
と申しますのは、我が党は論憲ということを掲げておりますが、この論憲ということの憲法的な問題だけでなくて、国会の運営ということを考えてみましても、今我が国で一番大事な国会論戦としてやるべきことは、二十一世紀の国のあり方をどうするかという骨太の論議であろうというふうに思っておりますが、なかなか、各委員会でなされるものは、法案の、目の前の問題の処理ということに明け暮れ、また、本来は、党首討論というのは骨太のそうした論議であるはずなんですが、それ以上に、この憲法調査会の中で骨太の論議が行われているということは大変すばらしいことであろうというふうに私は思っております。
さらに、国会内のそうした論争だけでなく、この国のあり方の行方を探るということが、地方の公聴会とか、あるいはインターネットを使っての意見の糾合であるとか、さまざまな形で展開されてきたことは大変大きな意義があったというふうに思っておりまして、さらに国民的な議論を起こす主導のエンジン役として、この憲法調査会が機能していくことが大事なことだというふうに思っております。
第二番目に、この憲法調査会の中で議論されてきましたことは、憲法制定過程、そしてまた二十一世紀日本の国のあり方はいかにあるべきかということであったと思います。私は、憲法制定過程も学んだことは大事であったと思いますし、しかし論議は、より一層未来志向の憲法論議でなくてはならない、このように思っております。
憲法制定当時、日本の大きな理念の変換があったわけですが、例えばノートルダム女子大学の学長であります梶田先生が四つおっしゃっていますが、戦前は軍国主義であった、そして戦後理念の転換があって、軍国主義が平和主義になった、しかし現実にはその平和主義が一国平和主義に陥っているという現実から論議が展開されていかなくてはいけない。また、梶田先生は、軍国主義から平和主義へとともに、全体主義から個人主義へ、日本主義から国際主義へ、そして国家神道体制という、まあ一宗統制というようなことから社会の無宗教化へということが大きな特徴であったということを指摘されておりますが、私も全く同感でありまして、実は平和主義が一国平和主義になったというその地点から、憲法論的には九条の中身を問うという作業になるのではないかというふうに思います。
また、個人主義が一たんはいいと思われていたのですが、現実には脆弱な私生活主義に陥っているという、そこの現状から物を論議しなくてはいけないというふうに思っておりますが、憲法論的には憲法第十三条、個人の尊厳というものがアプリオリに提起されているということの、その個人、インディビデュアルというものの意味が、実はヨーロッパ近代からの、人は生まれながらにして自由で平等であるというような、そうした観点からの個人、その個人という言葉の使い方の中に歴史や伝統や時間軸というものが非常に必要であるというふうに実は私自身思っております。その意味では、個人主義から脆弱な私生活主義に陥ったというそこのところの論議は、憲法論的には十三条の、一番憲法の骨格となっております個人というものが、一体どういう定義の中で制定されているかという論議は極めて大事なことだというふうに思っております。
また、日本主義から国際主義ということはいいのですが、しかしナショナルアイデンティティーの欠如ということが今大きな課題になっているんだというふうに思っております。その意味で、前文と第一章の天皇、そして第一条の天皇と主権在民というあたりをもっと掘り下げた思想的な論議というものがこの憲法調査会では行われるべきであろうという考えを私は持っております。
また、第四の国家神道体制から社会の無宗教化というものが、現実には社会の哲学不在というこれまた深刻な問題になっているというふうに思いまして、その意味では、教育とか信教の自由であるとかあるいは政教分離ということも含めた包括的な論議がされていかなくてはいけないというふうに思っております。
未来志向の憲法論議というふうに申し上げましたが、私は、未来志向というのは、五十年、百年という長期にわたっては、私たちの頭脳ではなかなか難しかろうということで、二〇二〇年、二〇三〇年というようなことで、またそのときに考えればいいのではないかというふうに思っております。その意味では、二十一世紀の冒頭のこの社会がどういうふうに想定されるかというと、IT、ゲノム、環境、住民参加、私は、四つのマグマといいますか、四つのキーワードがあるように思いまして、その一つ一つについての論議もまた大事だというふうに思っておりまして、ここで科学技術についての論議とか宇宙についての論議が若干されましたけれども、さらにそれが大きく論戦として展開されていくことが必要じゃないかというふうに思っております。
三番目に、日本の国のあり方とナショナルアイデンティティーということについては、私は、ナショナリズムということについて最近大変危惧をしている問題がございます。文化とか伝統とか共同体ということについての論議は当然大事なんですが、国のナショナルアイデンティティーという論議の中で、私は、二十一世紀の日本というのは、二十世紀の日本が、ある意味では奪い合う二十世紀から分かち合う共生の二十一世紀というようなスローガンがあるわけですが、この共同体というものについての議論、そして愛国心とナショナルアイデンティティーというものをもう少し掘り下げる必要があろうというふうに思っております。
私は、最近の論議の中で、どうもナショナリズムというのは本来感情的なものだというふうに思っておりますが、しかし感情的なものとしても、その上でも理性的なナショナリズムと感情的なナショナリズムというものがあるような気がいたします。ほかの国に言われる筋合いはないなどという論議が現実に今いろいろな問題で起きていて、そんな声が高まっていることは大変私は問題だというふうに思いまして、まさにそれは私の言葉で言うと感情的なナショナリズムにすぎない。弱いからこそ強がりを言うということがありますけれども、日本はもっと思想的にも経済的にも強い国家をつくり上げなくてはいけないし、強い一人一人をつくり上げなくてはいけないというふうに思っております。
二十世紀はネーションステーツということがさりげなく言われておりますが、ネーションとステーツという違うものがともに一体となって、そして殺りくを繰り返したというような悲劇が私はあったというふうに思っております。二十一世紀はどちらかというと、文明の衝突ということでハンチントンは言うわけでありますが、私は、ハンチントン流の文明の衝突というよりは文化の衝突の時代である、こういうふうに思っておりまして、ネーションという部分は、ナショナルアイデンティティーと通じることになろうかと思いますが、それはもう少し狭くなってくる。
そして、二十一世紀の国家は、やはりステーツという部分の機能国家的なものがありながら、しかも精神的なものの中では地域とか共同体とか、むしろ愛国心、パトリ、郷土愛というような中で展開されていかなくてはいけないのではないかというふうに思っておりまして、地域の中での共生あるいは共同体意識というものを形づくっていく方が、私は、二十一世紀は文化の時代であって、ナショナルアイデンティティーとしての地方主権というような角度がますます必要であろうというふうに思っております。
四番目に、その意味で、二十一世紀これからの憲法論議で必要なのは、そうした思想的論議というものをさらに深めて、国家のあり方というもののもう少し思想的な問題についての論究をするとともに、これから国民が参加をしていくことがさらに大事でありましょうから、国民憲法というもの、そしてまた環境とか人権という二十一世紀を志向しますと、国民憲法、環境憲法、そして人権憲法という方向での大きな論議が必要だというふうに思っております。
以上でございます。