江橋崇の発言 (憲法調査会)
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○参考人(江橋崇君) 江橋でございます。
一応書いてきたものを用意しましたけれども、それをそのまま読み上げるのではなくて、もう少し話し言葉にして御説明したいと思います。
初めに書いておきましたけれども、アメリカでは一般に裁判官はジャッジと呼ばれる中で、連邦最高裁判所の裁判官だけがジャスティスと呼ばれております。ジャッジというものは憲法やそのほかの法に基づいて人を裁く仕事であるのに対して、連邦最高裁判所は、判例法の国ですから、連邦裁判所の裁判官が語ったことが法になる、つまり彼らは社会のあるべき正義を語り法を語る口になるということだと思います。
現在、衆参両議院に設置されましたこの憲法調査会も、憲法を解釈し、それに基づいて法をあれこれと議論する場ではなくして、二十一世紀の日本社会においてどのような法、憲法が必要なのか、何が社会の法と正義になるべきなのかという、すぐれて憲法政策的な議論をなさる場所かと思います。私もこれまでの毎回の参考人と同じく、そういうつもりでこれから陳述いたします。皆様のお役に立てば幸いです。
まず、本日のテーマが国民主権と国の機構ということですが、私は改めて国民主権て何だろうと考え直してみました。その結果は、これまで言われているような意味での国民主権というのはもう歴史的使命を終えたということであります。
もともと国民主権という物の考え方は、ヨーロッパでもどこの国でも君主主権に対抗する言葉として考え出されてきたように思われます。日本でも、したがって戦前の大日本帝国の天皇が主権者であったそういう国の政治のあり方、国の形を改めるキーワードとして国民主権という言葉が投ぜられたのだと思っております。幸いなことに、その意味での君主主権か国民主権かということに関して言えば、日本国内の世論と、それと連合国側の厳しい監視もあって、戦後の日本の天皇制は戦前の天皇制の復活ではなくして全く新しい象徴天皇制という方向に移行し、とりわけ現在の天皇及び皇后の結婚したあのミッチーブーム、御成婚のころからいわゆる象徴天皇制というものが安定して国民に広く支持されてきたと思います。
したがって、主権者としての天皇の地位を否定するかどうかという論点から言えば、もう国民主権だから象徴天皇制は君主主権ではないんだからというようなことを今さら言ってもほとんど意味がない。そして、この意味で君主主権と国民主権との対抗関係などというものはもう世界各国とも憲法学者はほとんど相手にしていない議論になっているかと思います。
それにかわって、最近では日本の憲法学でもごく一部に、日本国憲法に国民主権と書いてあるのを、これを人民主権的な意味合いに再解釈しよう、そうするとこれから先、日本の民主主義がもう少し前に進むのではないかと、私は国民主権のリユース学派と呼んでいますが、リユースしようという主張があります。あるいは、来週ここに呼ばれることが予定されている辻村教授もその有力な一人かと思いますが。
私は、あの議論は基本的には自分の言いたいことを人民主権と言い直しているだけの議論だと思っております。そういった意味において、国民主権とか人民主権という言葉が使われることによって日本の国、これからの国の政治がよくなるとか、あるいは憲法問題に新しいレベルが開かれるということは余り期待できない。そういった意味では、歴史的な使命を終えつつある言葉と思っております。
しかし、そう言ってしまいますと私の話は終わってしまいますので、もう少し続けなければいけません。
もともと、日本国憲法でなぜ国民主権ということが言われたのかといえば、帝国憲法の原理を否定しようということだったと思います。その際の一番大きな眼目が天皇主権であったことはもちろんそのとおりなんですが、実は大日本帝国憲法にはもちろんそのほかにもさまざまな問題がありました。今、渡部参考人のお話しになったこともその一部かと思いますが、さらに、例えば軍部が独走する、あるいは植民地に日本の憲法秩序が及ばない、そのほかいろんな問題があるかと思います。したがって、日本国憲法で国民主権というのを唱えた場合には、そういったさまざまな問題、官僚主導型であるとかいろんなことがありますが、そういう事柄に対してもう少し国民が市民中心の、市民が主人公になる政治でいこうという大きな約束事が国民主権だったのではないかと思っております。
私としては、国民主権を、何年憲法のどこではこういう意味であるという憲法解釈的な、あるいは授業的なことはここではお話ししたくありません。ここで皆様に申し上げたいのは、国民主権という言葉の中で市民が主人公になる政治というものが戦後は考えられてきたんだと、そのことは基本的に私は支持できる、正しいことだと思っております。
もう一つ国民主権論をめぐって厄介なのは、アメリカ軍による占領中に国民主権の憲法ができたというこのパラドキシカルな事態をどう説明するかであります。答えは私は簡単だと思っております。
日本の憲法及び憲法学者は、国民主権というのを一晩で成立するものだと考えていたわけです。もう少し美しい言葉で言えば、革命によって一挙に国民主権になると思っていたわけなんです。一挙に国民主権になるというふうに考えると、昭和二十一年十一月三日に公布された日本国憲法には国民主権と書いてあるわけですから、どこかの時点で一晩のうちに国民主権が成立したと言わなければいけない。もちろんそんな日はないわけであります。日本は市民革命をしていません。古い指導者、支配者が、最近もテレビでよく出てきている国々のように、飛行機に乗って亡命していく、国民がみんな万歳を言いながら大統領官邸を占拠する、こんなことは日本では決して起きないし、起きてもいないわけであります。したがって、問題なのは、そういう革命で一晩のうちに政権が交代するということがないのに日本国憲法にいつの間にか国民主権となってしまった、これをどう説明するかであります。
東京大学の丸山真男先生が初め言い出し、後に憲法学者の宮沢俊義先生によって体系化されてきたのがいわゆる八・一五革命説、つまり、日本がアメリカに降伏しポツダム宣言を受諾した瞬間に日本は国民主権になったのだという説であります。私は、それは間違いだと思っております。
ポツダム宣言を受諾し、いやポツダム宣言をしたのは日本側の思惑でして、アメリカ側は無条件降伏でありました。ポツダム宣言は天皇の主権を制限していませんが、無条件降伏になれば天皇の主権は制限、剥奪されるわけであります。そして、日本は無条件降伏したのでありまして、その無条件降伏した瞬間に天皇の主権者である地位はなくなったと私も思っていますが、そのことが直ちに国民主権原理の確立を見たことに直結するというのは間違いでありまして、昭和二十年八月に起きたのは天皇主権からGHQ主権に移ったということだと思っております。したがって、そこはもうフラットに認めた方がいいというのが最近、憲法の学会の中でも出てきている議論かと思います。
そして、その中で、昭和二十一年十一月三日、昭和二十二年五月三日に施行された日本国憲法において、国民主権というものがようやく予告された、いわば大綱的プログラムとしては決められたわけですが、当時は何といってもGHQの超憲法的権力というものが日本に君臨していたわけですから、実際に国民主権になったのは私はむしろサンフランシスコ平和条約以降と思います。サンフランシスコ平和条約の一条b項に、お書きしたものの三ページの下に書いておきましたけれども、「連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。」という、この際、私の議論にとっては多少都合のいい、全面的に都合のいいわけでもないですが、多少都合のいい部分がございます。
つまり、日本における国民主権というのは、まずその前の主権者である天皇が昭和二十年に滅び、天皇の主権が滅び、天皇は滅びていませんけれども、天皇の主権が滅び、昭和二十一年十一月三日に公布された日本国憲法によって国民主権ということがいわば予告され、そして昭和二十七年四月、サンフランシスコ条約の発効とともに占領軍が撤退し、日本が国民主権を持つようになったと、そういうふうにフラットに考えればいいことだと思っております。昔は、こういうことを言うと、それは押しつけ憲法に何か城を明け渡すこととか、いろんなややこしい政治的思惑があってはっきり言えなかったんですが、今となってみればこの辺はすらっと言ってもいいことではないかと思っております。
さて、問題はその先でありまして、日本国憲法が国民主権を採用したのが、革命で一晩で権力がかわったということの追加的な承認ではなくて、一つのプログラムだとしたら一体何だったのかと。先ほど申し上げたとおり、市民が主人公になる政治を行うんだというのが日本国憲法の基本的な約束事だったろうと思っております。私は、その内容を七つにこの際取り上げてまとめてみました。
一つに、レジュメにも書いて、レジュメというか書いたものにも載せておきましたけれども、五ページ目の後ろの方から載せておきましたけれども、まず天皇主権を克服する。これは既にお話ししたとおり、オーケーでありました。
二つ目に、戦前の日本が非常に中央集権的な官僚システムによってどこかに国民全体を引っ張っていくものだったということの反省として、地方分権ということが唱えられました。
日本国憲法ができた当時には、後に最高裁判所の裁判官になった田中二郎さんなどは、当時、東大の新進の行政法の教授でしたけれども、日本国憲法の五大原理といって、その一つに地方自治と入れたぐらい重要な原則だと考えられていた、まさに国民主権の基本的な構成要素だと考えられていたにもかかわらず、実際にはその後、地方自治は不振で、中央集権的な国家の再建と産業界の再建が進む中で一たびは地方自治は非常に弱いものになってきたし、憲法学者の憲法の説明の中でも、地方自治なんて及ばない、条文が後ろの方にあることもあって授業では扱わないというケースが多かったように思います。
それに対して、一九七〇年代以降、まさに日本の市民が、市民自身が革新自治体、途中からはまさに革新が取れて自治体になってきましたけれども、あるいは市民自治の憲法理論、地方の時代、そういったことを強調し主張する中で日本国民自身が地方分権というものをつくってきた。そして、その試みの中で一九九〇年代になって分権推進委員会ができ、その答申をまって地方分権推進一括法が国会で通過し、国と自治体の関係が上下の関係ではなくて対等協力の関係だと言われるようになり、また、憲法六十五条で「行政権は、内閣に属する。」という規定がありますので、かつては地方自治も含めてすべてのことは内閣に源があるんだと言われていましたが、そうではないと。憲法六十五条は、国の行政権は内閣に属するというだけであって、地方自治体の部分については別だと。むしろ、九十二条以下の地方自治の問題だと。国会で橋本首相によって唱えられるような、そういう時代になった。つまり、国と自治体、国と地方の分権、あるいは中央集権的な国家構造の改革というものには約五十年かかってここまで来たのかと思っています。
同じような意味で、三番目に官僚制度の統制の問題もあります。これについてもまさに行革のテーマでありまして、最近というよりことしの一月一日からの省庁再編成に伴って、一応、内閣あるいは内閣総理大臣の指導性を維持するというところまで話は進んできましたけれども、まだまだ官僚機構による日本の指導というものを改めていくのは、まだ道遠いところがあるかと思っております。
四番目に、これは通常は国民主権の問題としては議論してないんですけれども、女性の問題を私は考えております。日本国憲法は、確かに表面上は男女の同権を唱えた憲法でありました。その意味において女性もまた主権者の一員になったのでありますが、実際には、日本国において発生したのは、男性の優位と性別役割分業に基礎を置いた男性社会だったと思います。それに対して女性が、本当に自分たちが、市民が主役の政治であるならば自分たちも主役になるのだと言って政治の場における男女の同権を追求し始めたのは、どう早く見ても一九七五年のメキシコ会議以降、いやどう早く見てもと言っては申しわけないですね、戦前の、市川房枝さんたちの戦前からの伝統があるのでそれを無視したら怒られちゃいますが、広く一般的に言われるようになったのはとりわけ一九九〇年代に入ってからであったかと思います。
そして日本は、この立ちおくれが世界各国に例を見ない国会及び地方議会における女性議員の比率の低さということになってあらわれてきているわけであります。今、男女共同参画社会基本法とともに女性のメーンストリーミング、つまり女性も政治の主役として中心にあって決定に参画するということが唱えられるようになってきたという意味で、今我々は、やっと男性だけの国民主権から女性も交えた国民主権へ転換しつつある時期だと言えるかと思います。同じようなことが障害者に関しても言えますし、子供に関しても言えますし、であります。ちょっと時間の関係もあるのでそこは飛ばしてしまいますが。
もう一つ、私は、戦後の国民主権が克服しなければいけない課題は、戦前の国家が帝国であったということ、その帝国を改めるということだったと思います。つまり、植民地支配の問題であります。
残念なことに、戦後の日本では、市民が主役になるという場合に、戦前をどう清算するのかということがきちんと行われていなかったために、今日に至るまでなお戦争責任の問題はもやもやしていますし、日本にずっと生活していた在日韓国・朝鮮人の人々に対する差別、これまた非常に厳しく加えられてきたと思います。そういった意味においては、私は、すべての市民が日本国、日本列島上に生活の本拠を得て頑張っているならば、国籍とか人種とかそういうものにかかわりなくすべての人が主人公になれる政治体制をつくるということは、この面でもまだまだかと思っております。
さて、私はまだまだだという課題をぞろぞろと並べるつもりではないのであります。繰り返しますが、国民主権ということは憲法で一応決められたとしても、それが一体何なのかということは実は判然としていなかった。それに対して、サンフランシスコ平和条約で日本が独立してから以降、日本の市民は、みずからが実際に生活の場で困った、嫌な思いをした、あるいはよくあるべきだと考えた、さまざまな理由からみずから当事者として市民が主役になる政治を追求してきた、その成果に我々は今注目しておく必要があるだろうということなのであります。
日本の高度成長は、確かに産業界と官僚界によって主導されました。高度成長が終わった一九七〇年代以降、日本は世界の最先端の経済力を持つようになったわけでして、もはやどこかの国に追いつけ追い越せというモデルはない、そういう時代になりました。そのときに、モデル勉強再現型を得意とする官僚が日本の政治、日本の行政を主導してもどうもうまくいかない。これからは、むしろ産業界あるいは労働界あるいはその他市民各界の実際に生活している現場において、人々が何を考え何を苦労しているのかというところを緻密に拾い出してくるという現場重視型の政治が必要であり、それは官僚によっては担い切れなくて、むしろ現場の人々によって担われてきたんだと。もし、日本の戦後の憲法実践というものが国民主権の観点から価値があるとするならば、そういう人々の営みにこそ価値があるんだと私は申し上げたいのであります。
時間が大変短くなっておりますが、レジュメに書いておきました十二ページの憲法改正の問題について、一言だけ触れさせていただきたいと思います。
国民主権と考えた場合、やはり一つの大きな論点は憲法改正がどうあるべきかということであろうかと思います。御承知のとおり、戦後の日本は、この点について改憲論と護憲論の思想の激突を繰り返してきましたために、実際に政治の場で憲法問題をどう考えていったらいいかということについての議論は甚だ少なかったように思っております。
私は、この際、皆様に特に御注目いただきたいのが、プラス改憲と書いておきましたけれども、ほかの人によると増憲、憲法を増すというふうに書いている人もいます。これは何かというと、アメリカ型の憲法改正のあり方であります。アメリカは、憲法を改正するときには本文には手をつけない。時代が変わったりあるいは問題が変わったりして困った場合、その後ろに条文を新たにつけていく。例えば、南北戦争が終わって奴隷解放がついたとか、そういうことであります。本文は歴史的産物であり、歴史に責任を持つという意味からもこれを消さない、後の時代に出てきた知恵は後ろに足していく、これがアメリカ型の増加型改正という考え方、アメンドメント方式であります。
日本国憲法はアメリカの進駐軍のつくった憲法ですから、九十六条に出てくる改正の部分についてはアメンドメントという英訳の言葉が与えられております。そして、実際の条文を見ると、十三ページ目に書いておきましたけれども、九十六条二項では、憲法改正が国民投票の過半数で可決された場合に、「天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」と決まっております。
この「一体を成すもの」というのがくせ者でありまして、憲法全部をひっくり返してしまうという全面改正の場合は一体じゃないですよね、かわるものですから一体はなさない。あるいは、憲法を部分的に改正する場合も、その前の条文がなくなって新しいものがかわりにはめ込まれるわけですから、これも一体とは言わない。「一体を成す」というのは、前のものが全部残っていて後から継ぎ足すから一体なのであります。つまり、もともと日本憲法はどちらかというとアメリカ型の改憲を考えていた。
したがって、日本国憲法ができたときには、日本国憲法の改正の形は三つだと普通、憲法の教科書に書いてありました。全面改正と部分改正と増加型改正であると。本則は増加型改正だけれども、このようなものは日本の政治風土に合わない、立法文化に合わない、法文化に合わないというのが佐藤功教授の見解でありました。したがって、だんだんその扱いが小さくなってきて、最近、怠け者の私たち中堅、若手の憲法学者は、九十六条に進むときに、憲法改正は全面改正と部分改正と二つであると言って、増加型改正は書かないというのが普通でありました。
それはなぜかというと、アメリカは何やっているんだろうね、古いものをちっともなくさないでと思っていたわけであります。しかしながら、よくよく考えてみると、例えばフランスは今でも第四共和制の憲法を直し直し使っている。ドイツだって、東西ドイツが統一されたときには新しい憲法をつくることができなくてボン基本法を直し直し使っている。イギリスなんかもっとすごいところでありまして、つい二、三十年前にやっとマグナカルタがなくなったと言われていまして、それまで一二一五年の鎌倉時代のマグナカルタが現行法としての価値を持っていた。今でも一六八九年の権利の章典、日本でいえば元禄時代の生類憐みの令のころにつくられたものが今でも法律として使われているのがイギリスであります。つまり、立憲主義の先進的な国々というのは古いものを大事にする。そう簡単に全面改正といってどこかの駅前の再開発みたいなことはしないということであります。
なぜだろう、これが実は戦後、日本ではわからなかったのでありますが、やっぱり戦後五十年、このように憲法の実践を経てくると、皆様がそうでありますように、一党一派が独裁的に憲法を改正するなら何でもできるけれども、そうでないとするならば、やっぱり与野党みんな集まっていろいろ知恵を出してやっていこう、そうなったら余り全部改正しようといっても無理だと。今の憲法がいいという人もいれば、いけないという人もいれば、ここはいい、形だけ変えろとか、もう一回国民投票だけやらせろとか、いろんな意見があるときにどうすればいいのかといえば、やはり今の日本国憲法をきちんと残した上で、足りない部分を足していくというようなところが具体的に政治的な落としどころではないんですかというのが私の考えであります。
こういうことに気がつけるようになるのに五十年かかった。逆に言うと、日本は、日本国憲法ができたときにはアメンドメント方式とかイギリス型とかフランス型とかよくわからなかったけれども、五十年やってきて、与野党何度も激突して憲法問題の処理に困りながらやってきてみると、なかなかだなと、足して二で割るみたいな話になっちゃいますけれども、日本国憲法を残しておいて与野党の合意ができるところから順次足していけばいいじゃないということにあろうかと思っております。
そういった意味において、私は国民主権というものは、何かぼんと一晩にして大きく変わるということではなくて、やはり市民が中心になって、市民中心の、市民の市民による市民のための政治を実現していくこと、その一環としてまさに民主主義の成熟度が問われる憲法改正問題にきちんと取り組むことだというふうに思っております。
以上です。