長谷川三千子の発言 (憲法調査会)

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○参考人(長谷川三千子君) 本日は、お招きいただきまして大変ありがとうございます。
 本日の会議に先立ちまして、調査会の事務局からはいろいろな資料をちょうだいいたしました。そこには、一年余りにわたるこの会議の会議録もございました。その中に、私が特に感銘を受けた御発言がございました。これは大学生の方の御発言なんですが、こんなふうにおっしゃっていらっしゃるんです。「今日求められる憲法論議とは」「憲法が実現しようとしている正義や理想それ自体を再検討する立憲的な議論であると思います。」と、こういうふうにおっしゃっていらっしゃいまして、私はこれに大変感銘を受けました。
 現在では、たくさん憲法論議と称するものが行われておりますけれども、本当に憲法の原理についてきちんとした吟味、検討をするという場は非常に少のうございます。私は、この憲法調査会、殊に参議院の憲法調査会というのは、そういう原理についての立憲的な議論のできる数少ない貴重な場であると認識しておりますので、私自身できるだけその皆様の御期待に沿えるような形で原理についての吟味、検討という、そういう立場から考えてまいりたいと存じます。
 殊に、きょう話題になっております国民主権という原理は、日本国憲法の原理の中でも、とりわけ大事な柱となる原理と言われております。それだけに、それについての吟味、検討というものは十分に客観的に綿密に行わなければならないと存じますので、私もきょうはその観点から、限られた時間ではございますけれども、できる限りの検討をしてみたいと思います。
 まず、国民主権というのはどういう原理なのかというふうに問われたときの一番常識的な基本的な答えはどんなふうなものかと考えてみて、これが、お手元にございます参考資料の①をごらんいただきたいんですが、これはある中学校の社会科教科書の公民に出ている国民主権についての説明でございます。「国民主権は、国家の権力は国民がもっており、政治は国民によって行われるという原理である。」と、これはもう本当に正しい、何の間違いもない解答と言っていいと思います。ただし、すらっとこれだけを言われますと、何か余りにも当たり前のこと、何を今さらこれが原理なんだというふうに感じる中学生もあるいはあるかもしれません。
 日本の政治は日本国民によって行われる、これは日本の長い歴史を振り返ってみましても、日本の政治が日本国民以外のだれかによって行われたというのは、第二次世界大戦の敗戦後の占領足かけ七年間のほんのわずかの特殊な例外的な時期だけでございます。日本の政治は日本国民によって行われる、これは何か余りにも当たり前ではないかという感じがいたします。
 ところが、そういうことではないんだ、国民主権というのはもっとはっきりした原理でありイデオロギーであり思想なんだということを指摘してくださるのが佐藤功先生の「日本国憲法概説」の中の、この二番に皆さんに御紹介してございます一節です。
 この「日本国憲法概説」という本は、多分昭和三十年代に法学部の大学生でいらした方は皆さんおなじみの、いわば教科書的な本と言ってよろしいかと思いますけれども、その中で佐藤功先生は、国民主権というのは、単に国家を形成するすべての人間の意思が政治権力の源泉であるという抽象的な無色な思想をあらわすのではないとはっきり喝破していらっしゃいます。「その歴史的性格に注意する必要がある。」、これが私は非常に重要な御指摘だと思います。
 国民主権という原理を理解する上で、それがどういう歴史的な経過でどういう思想として形成されてきたかという、これが非常に重要な意味を持ちます。これは、決して単に過去たまたまそういうときにあらわれたというエピソードのようなことではなくて、このこと自体が実は国民主権という原理の本質を形づくっている。
 そういう側面のあることをきょう少し眺めてまいりたいと思うんですが、ではその歴史的性格と言われるその歴史的出来事は何なのかといいますと、十八世紀後半のアメリカ革命、フランス革命というこの二つの革命であると佐藤先生は御指摘なさっていらっしゃいまして、まさにそのとおりなんです。ただ、今回、きょうは非常に時間が限られておりますので、アメリカ革命における国民主権の形成という、これは非常に複雑な問題で、多分小澤先生がこれについては正確に御説明くださると思いますけれども、私は、きょう差し当たっては、より単純で、しかもより典型的なフランス革命における国民主権という概念の出現という、そちらの方に焦点を絞って眺めてみたいと思います。
 しかし、いずれにしましても、この歴史的性格というのは結局何なのかというと革命ということなんですね。革命という言葉は我々よく使うんですが、実は革命というのは端的に言って何なのかといいますと内戦なんですね。つまり、国の内側である二つの勢力が相争う、それが革命の端的な姿なわけでして、ここに佐藤功先生が国民主権というのはその意味で闘争的な概念なのであるとおっしゃるのは、これもまた非常に的確な御指摘だと言っていいかと思います。
 これは、たまたまフランス革命、アメリカ革命の場合、どちらも君主に対抗する、あるいは特権階級に対抗するという、そういう国民の戦いであるという性格があるわけなんですが、これが果たしてそれだけで終わるものなのか。国の内側において二つの勢力が相争うという歴史的経過から登場してきたということが現在の国民主権の上に影を落としているかいないか、それについての吟味、検討というものが一つ問題点としてここから浮かび上がってくると言っていいかと思います。
 そういう意味で、この佐藤功先生の「日本国憲法概説」に書いていらっしゃる御指摘は非常に重要な大事な御指摘なんですが、ここにはちょっと一つだけ微妙にニュアンスのずれと言っていいようなものがあると思います。これは、君主主権、国民主権という場合の主権概念自体が闘争的な概念であると受け取れるような書き方をなさっていらっしゃいます。ところが、実際には主権概念それ自体はむしろ内戦という、そういう国家のある意味で病を克服しようという動きの中から出てきたんだということ、これも一つ我々が心得ておいていいことではないかと思うんです。
 これが三番にちょっと引用してございますジャン・ボダンの「国家論」からの主権というものの定義なんですが、ジャン・ボダンは十六世紀のフランスの法律家なんですが、既に十三世紀からフランスにおいて使われていた主権という言葉を正確に初めて定義した人というふうに知られております。主権と我々が日本語で訳すこの言葉のもとの意味は、端的に最高の力という意味でして、それをこのジャン・ボダンの「国家論」は最初にフランス語で書かれておりまして、それが十年ぐらい後にラテン語訳になるんですが、その二つのフランス語版とラテン語版においてボダンはちょっと違う定義づけをしております。まず、最初にフランス語版の方では、「主権とは国家の絶対的で永続的な権力である。」というふうに定義しております。これは、今我々がいわゆる国家主権として習っているそういう概念なんです。
 今の例えば公民の教科書でも、国家主権とそれから国民主権というときの主権とはページも四十ページぐらいかけ離れたところで説明しております。我々自身、全く同じ主権だという意識なしにこの言葉を使っているんですが、この主権という概念の定義の出発点においては、これは本当に一つの同じ事柄の二つの側面という形で定義されている。これも一つ、我々が心の片隅にとめておくべきことではないかと思います。
 殊に、国家主権という言葉が、現在では何かまるでこの言葉を言うこと自体が好戦的な姿勢であるかのようなそんな風潮も見られるんですが、実はボダンの国家主権の定義というのはこれと同時にこんなことを言っております。主権国家というのは、ヨーロッパだけに主権国家があるんではない、アフリカにもアジアにも多くの主権国家があって、これは神の前ではみんな平等の国家なんだという国家平等論をうたっているんです。これはキリスト教の神を前提としているということはあるんですが、考え方それ自体としては二十世紀の国連の基本としている考え方そのままなんですね。そういう先駆的な思想というものが既に主権という言葉に伴ってあらわれていたということも、ちょっと我々がついでながら心しておいていいことではないかと思うんです。
 いわゆる君主主権と言われるのがこの後半の定義なんですが、まずここで、ボダンは一体何でこういう定義づけをしたんだろうかということを理解しておく必要があります。これは、今ちらっと申しましたように、フランスの十六世紀というのは、宗教戦争で国内の内紛が絶えない、ほとんど国が分裂するんではないかと内側にいる人にとっては感じられるような、そういう危機の時代でございました。この危機を何とかして乗り切っていくためには、このフランスという国家の船を沈没させないようにしっかりと国家のシステムをつくり上げる必要がある。それにはまず、平たく言えば国が一つの国家としてしっかりとまとまること、それからそのかじ取りをだれがするのかということがしっかり定まっていて、しかもそのかじ取りが自由に行えるようになっていること、これが危機に際しては非常に必要なことである、これがボダンの「国家論」を書くに当たっての心構えだったわけです。
 そういう観点から、君主主権の定義というものも行われております。ここには、「主権とは市民や臣民に対して最高で、法律の拘束をうけない権力である。」という、こういう定義づけがなされております。ボダン自身としては、これは今申し上げましたように、あくまでも危機を乗り切るために必要な方便という、そういう意味での定義づけをしているわけです。
 ですけれども、皆さんすぐお気づきのように、これはある意味で大変危険なものを含んでおります。法律の拘束を受けない権力というものを主権者に与えた場合に、これは何でも主権者が望めば法律お構いなしに行うことができるという一種の暴君容認論になりかねないわけです。ボダンは、これについては非常にはっきりと歯どめをかけております。ボダンはこの「国家論」の中で、主権の定義と同時に正しい統治論というものを掲げておりまして、主権者といえども、つまり最高の力の持ち主といえどもこの宇宙の絶対の支配者である神に対してはしもべである。神の命令、すなわち正しい統治を行えという命令に背いたらば、たちまち天罰が下るということを言っているんです。
 正しい統治というのは何なのかというと、これは彼の言うところによれば、国民の自由と財産と生命を守り保障するということなんですね。つまり、端的に言えば国民のための政治をせよと、こういう縛りがある。それに背いたときには君主、最高の権力者といえども神罰を得ずにはいられないという、そういう考え方なんです。ですから、差し当たってボダン自身の主権論の中では、これは決して闘争的な概念でもなければ暴君容認論でもない。ただし、今申し上げたように、そういう歯どめを抜きにしたらば非常に危ういというものが確かにその中にはあったわけです。
 これを二百年後にちょうど反対側にひっくり返しましたのが、これが四番に挙げておりますシェイエス、シェイエスのこの「第三階級とは何か」というのは、一七八九年、フランス革命の直前、その年の一月に出版されまして、これが間接的にフランス革命の火つけ役になったとも言われている、フランス革命の理論家と言われるシェイエスの主張なんですけれども、そこではっきりとシェイエスは、国民主権という言葉は使っていないんですが、国民主権の思想を語っております。ちょうど君主を国民に置きかえた形で、国民が意思すること、それが法律となるのだと。そして、国民はあらかじめ法律に縛られることなしにその意思を通すことができるという、そういう国民主権の理念というものをここで打ち出します。
 ただし、一つだけここで違うのは、ボダンの場合には神による命令というものがあったんですが、この国民主権では神による命令というものは一切取り除かれているんです。むしろ逆に、これははっきりと国民を神の位置に置いているというふうに言うことができるんです。
 例えばここに、「国民はすべてに優先して存在し、あらゆるものの源泉である。」、あるいは「その意思は常に至上至高の法である。」という表現があるんですが、これは明らかにそれまでの時代では神だけに使われるような表現なんですね。ここで、いかに国民というものが至上至高のものに祭り上げられているかということがはっきりと見てとれると思うんです。
 ただ、それだけなら構わないんですが、ここで一つ問題があるのは、例えば「国民がたとえどんな意思をもっても、国民が欲するということだけで十分なのだ。」というこういう言い方をしております。これは神の場合でしたら問題ないんですね。神は全知全能で絶対の善の存在ということになっていますから、これは神の意思というものは、たとえどんなことを欲しようとも究極的には善であるという教義になっております。ところが、国民というのは要するに人間なわけですから、人間というものは過ちも犯し、また邪悪な心を持つということもあり得る。ここで、「国民が欲するということだけで十分なのだ。」ということは、これは大変危険なものを含んでいるわけです。
 実は、このシェイエスの少し先輩に当たりますジャン・ジャック・ルソーという思想家がいるんですが、彼がこれに非常に近い、シェイエスがここで国民の共同意思という言葉を使うんですが、それに非常に近い考え方を一般意思という形でジャン・ジャック・ルソーは論じております。ただし、そこではルソーは一般意思というのは何でも人民が望めばそれが一般意思なんではないんだ、人間自身が理性でもって自分の欲望を抑える、そういうことがあって初めて一般意思というものが可能になり、そして人民主権が可能になるんだということをはっきり言っているんです。ところが、それに対してこのシェイエスは、そういう道徳的なお説教はたくさんだということをはっきり言っているんですね。もう国民が欲するということ、それを多数決で決める、それが直ちに国民の意思になるんだということを断言しているんです。
 ここで我々は考えてみなければならないのは、こういう歴史的性格というものが現在の我々の考えている国民主権というものの中でどの程度きれいに修正されているのか。つまり、こういう単に非常にある意味で乱暴なシェイエスのような、国民が欲するということだけで十分なのだという議論になっているのか、それともルソーが語るように、国民人民の一人一人が理性で自分の意思をコントロールする、それが前提になるのだということが本当にきちんと国民主権の理念の中に入り込んでいるのか、そういったことをきちんと吟味することなしに日本国憲法の柱は国民主権であると、ただそれだけを言って済ましていたのではやはり無責任な憲法論議ということになってしまうんではないかという気がいたします。
 そんなところで私の問題提起を終わらせていただきます。

発言情報

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発言者: 長谷川三千子

speaker_id: 18007

日付: 2001-04-18

院: 参議院

会議名: 憲法調査会