長谷川孝の発言 (文教科学委員会)
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○参考人(長谷川孝君) 長谷川でございます。
私は元新聞記者で現在教育評論等をやっておりますので、取材者として感じてきたことを中心に自分で授業をした経験で感じたことも踏まえて話をさせていただきたいと思っています。
結論から言いますと、学級定員の標準を四十人に据え置いたままで教員などの加配によって対応するというやり方は、ほころびに継ぎ当てをする対策だという感が大変強い。それで、学校教育の改革のためには、学級の人員を三十人程度に抑えるということがやはり極めて大事だというふうに感じております。これは、これから挙げるような事例から実感してきたことです。私が取材で出会っている先生方というのは大変力量のある先生方ですが、そういう先生方の声などからの実感です。
普通、演説をしたり講演をしたりするときには、どんなに聞き手が多くても聴衆は石だと思えとよく言います。ここでは票だと思えと言った方がいいのかもしれませんけれども。当然のことながら、授業においては子供や学生を石だと思うわけにはいかない、このことをどこか念頭に置いて聞いていただければいいかなと思います。票だとすれば、子供たちは個々に意思を持った主権者として教室にいるということだと思います。
先生たちから聞いた声ですが、例えば人数が多いと、子供たちが帰った後に、あれ、きょう、あの子どんな様子だったのかなとふと思い出せないことがあると言います。これは大変困ったことなわけですね。その子の表情とか様子とか記憶に残っていれば、その日に手当てできなくても翌日フォローできる。だけれども、記憶に残っていないことがあると言うんですね。これはとても困る、また恐ろしいことだというふうに言っています。
それから、これはある授業に出かけたときですが、理科の実験ではないんですが、実験的な授業をしていたときに、一人の子がみんながやっているのと違う方法でその実験をやっていたんですね。担任の先生は全くそれに気がついていない。後で聞いたら、本当に気がついていないんです。あの人数では無理かなというふうに思いましたけれども、もしその一人のみんなと違うやり方にその先生が気がついていれば、恐らくあの授業はもっと内容の豊かなおもしろいものになっただろうな、膨らませることができただろうなというふうに思ったことがあります。あれが何かほかの実験であれば、種類によってはそういうことに気づかないというのは安全性の問題になってくるというふうにそのときに思いました。
それから、こういうふうに言っている先生がいました。三十数人の学級を担任していて、一人ふえると、そのときのふえた重さというか、それは一人がふえたんじゃなくて、それこそ人数が倍になったような重さを感じるというふうにあるベテランの先生が言っていました。これは授業だけじゃなくて、後のいろんな点検も含めて、一人一人に大変時間をかけて心を砕いて接しているということなんですね。ですから、その一人の重さというのが、三十数人から一人ふえるとどっと重さを感じる、これはやっぱり学級の人数の意味というものを示しているというふうに思います。
次に、これは三十数人の一年生の学級を担任した四十代後半のある先生の例ですが、子供たちが帰った後に教室の床にしばらく横になったと言っていました。子供たちときっちりかかわろうとすれば、しかもそれが一年生であれば、どれほど体力的、精神的な負担が大きいかということを示していると思います。
また、あるベテランの先生は、経験からいえば三十人以下が教師の立場からも子供の立場からも最もやりやすい、加配による対策は学校現場に混乱を招くこともあり、現場を知らない行政のやり方だという感じが非常に強いというふうに言っていました。また、別のベテランの先生は、やっぱり学級の人員が三十数人ぐらいまではそれほど気にしないけれども、これまでに経験した中では二十八人のクラスの人数のときがベストだったというふうに実感を語っていました。現場の先生たちの実感としては、二十七、八人が一番学級規模としては適正であるという実感が多いのではないかという気がします。
それから、今施行中の総合学習に関して考えてみますと、現在の校舎などの施設や設備、それから図書館などの資料といったものが極めて不備です。びっくりするほど不備です。その中での取り組みということは、教師たちに大きな努力を要請せざるを得なくなっている。つまり、総合学習が少しでもうまくいくためには、教師の負担が大変大きいというふうになっていると思います。総合学習というのは、一人一人の課題とか学習の状況などをきちんと把握しながら進めていかないととんでもないマイナスになりかねない。学級の人数が多いと、こういう総合的な学習というものを取り入れた目的の実現にとってはむしろ大きな困難があるというふうに言えるような気がします。
本気で総合的な学習を成果のあるものにしようというふうに考えるのであれば、施設、設備などの充実というのも図らなければいけないと思いますけれども、同時に学級の子供数を三十人以下に減らすということは不可欠だと思います。三十人以下にするということは、TTとかそれから専科制とかそのほかのいろんな教職員の増員の問題とは別個の問題だという気がします。
それから、今の四十人の標準というのを会計検査院の指摘で厳格に適用するようになってから、四月の始業式の直前まで学級が決まらないとか、教師の異動が急に起こるとかというようなケースをよく聞くようになりました。これは学校現場が大変困るだけでなく、子供と保護者にとっても大変な迷惑です。子供にとっての最善よりも行政の標準を優先しているというふうに言わざるを得ない。これはやっぱり悪政じゃないかなという気がします。
それから、私自身が小学校でも時々授業をしたりしますし、大学で授業をやるんですが、大学の授業でいいますと、四月当初、百数十人とか数十人の学生が受講します。五月の連休を過ぎるとほぼ三分の二に減ります。出席者が減ることは好ましいことじゃないんですけれども、実は正直言ってほっとします。ですから、四月にすごい人数の学生を目の前にしながら、連休が過ぎれば少し減るよなというふうにやっぱり心の中で思ってしまいます。もちろん資料の準備だとか提出物の整理などの大変さもあるんですけれども、受講生が多いということ自体の精神的、肉体的な疲れというのがやっぱりあります。これは、さっき言ったように学生を石だと思って接するわけにいかないからで、日常的に子供とかかわっている小中学校の先生たちの場合というのは、僕みたいな大学講師の立場とは比べものにならないだろうというふうに思います。
以上のことをもう一回まとめてみますと、以前、何年か前ですが、たしかオランダで学級定員を二十人にするということが議論になって、そのときにオランダで、二十人じゃクラスの中でもってサッカーの試合もできないじゃないかという意見が出たということが話題として報道されたことがあります。議論のレベルが違うんですよね。四十人をどうするかというのと二十人じゃ困るよという話と随分レベルが違う。
最近、ベンチャー企業の育成のためにあちこちでインキュベーターの設置なんということが広がってきていますけれども、学校教育というのは社会を受け継いでいく人たちを育てるためのまさに社会のインキュベーターなわけで、そういう意味では子供のためにもっと優先的に予算が回されていいと思いますし、破れ目を継ぎはぎするような対応というのは選ぶべきではないというふうに私は思います。
先ほども取り上げた新指導要領の総合的な学習の時間の目的の中でも挙げられていますけれども、指導要領というのは余り読まれていないんですけれども、ここにいらっしゃる皆さんは当然指導要領をお読みだと思いますが、子供たちがみずから学ぶ力を発揮して自分の考えをプレゼンテーションできる、そういう力を育てることが求められていると思います。
これまでの学校教育というのは、これは私が言っている物の言い方ですけれども、専ら教えられ上手の学び下手を育ててきたと言ってきました。本当に教えられたことを覚えたりするのは上手です。だけれども、自分で学ぶことが大変下手になってきている。これからは主体的に学べる子供、学び上手を育てていく必要があると思います。
それには、日々、子供たち一人一人の様子や表情や学びの状況を教師たちがきっちりつかんでいくことが大変大事なことになってきます。その上で、例えば、きのうどうだったというふうに教師が声をかけたり、それから、けさは何か元気なかったねとかと言って声をかける、そういうフォローをするということができれば子供が救われることは大変多いと思います。特に不登校の子など、さまざまな問題を抱えている子の場合にはその意味は大変大きい。それには学級の子供数が恐らく二十七、八人であることが極めて望ましいのではないかというふうに考えています。
以上、私が取材等で出会ってきたことから意見を申し上げました。どうもありがとうございました。