長谷部恭男の発言 (憲法調査会)
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○長谷部参考人 ただいま御紹介にあずかりました東京大学の長谷部恭男と申します。
本日はお招きにあずかりまして、大変光栄に感じております。非常に簡単なレジュメしか御用意しておりません。失礼をいたしますが、こちらに基づきまして話を進めさせていただきます。
事務局の方からあらかじめお話がございまして、首相公選制、それから衆議院と参議院の関係については必ず話をするようにという話がございましたので、その点からまず話を進めさせていただきます。
まず、首相公選制についてでありますが、この問題に関する私の意見は、さきにこちらの調査会、平成十二年の十一月九日の会議で、現在東京大学総長の佐々木毅教授、私の先輩ですが、佐々木参考人が発言した点と趣旨においてはほとんど同じであろうかと思います。
私が首相公選制と言うときに、主に念頭に置いておりますのは、最近までイスラエルで運用されていた首相公選制のことでございますが、ああいった形の首相公選制をとるとどういうことになるかと申しますと、レジュメの最初に書いておきましたとおり、首相の選択と議会選挙における政党の選択というものにずれを生ずる、そういう問題でございます。
本来、議院内閣制のもとでの政党の役割はどういうところにあるかと申しますと、これは、社会の中の多様な意見ですとか利害というものを吸い上げ、それを集約しまして、それを一貫した政策の形に組み立てる、さらにそれを首相の候補者とワンセットで有権者に提示するという点にあるかと思います。その結果、総選挙で勝利した政党ないし政党連合のリーダーが首相になる。そうして首相になったリーダーは、議会多数派の支持を既に得ているはずでありますから、その支持を基盤にして、総選挙で有権者に訴えかけた政策を実現していくということになるはずであります。
ところが、イスラエルにおいて実際に見られましたとおり、首相を直接公選にすることにいたしますと、こういう議院内閣制のもとでの政党の役割が機能不全を起こすことになります。つまり、有権者は、首相を選択する時点で既に国政の基本方針に関する選択を済ませたように感じる、そして、国会議員の選挙に際しましては、自分たちの属するより小さな、部分的な利益を代表する候補者に投票しようという行動に出ることになります。
また、政党の方も、実は、社会の多様な意見を吸い上げて集約し、それを首相候補者とワンセットで有権者に提示するという役割から解放されることになってしまいますので、そうなりますと、やはり個々の議員がそれぞれの部分利益を代表するという役割の方により偏っていくことになるはずであります。
そういたしますと、せっかく首相は選任されても、議会に首相を支持する安定した与党が存在しない。そのために、首相は、有権者に提示した政策を実行する手段を奪われてしまうということになるはずであります。そのために、首相公選制をとることによって首相の指導力を強化するというもくろみは外れることになったのだろうかと思います。
ただ、この点につきましては、イスラエルの選挙制度がかなり純粋な比例代表制をとっている、それがこうした首相の指導力の弱化ということにより貢献したのではないかという見方もあり得ようかと思います。
そういたしますと、例えば別のやり方、典型的には小選挙区制がそれになるかと思いますが、小選挙区制にすればもっとうまくいくのかという問題になります。私の予測では、余りうまくはいかないのではないかと感じております。
と申しますのも、小選挙区制という選挙制度は、それ自体の制度の論理といたしましては、実はローカルな特殊利益を代表する国会議員を選出する傾向を本来は持っているはずであります。
ただ、典型的に小選挙区制に基づく議院内閣制を運用しているイギリスはそうではないではないかという疑問が出てくるかもしれませんが、イギリスでそうした傾向が顕在化しないのはなぜかと申しますと、これは全国レベルで二大政党制が既に成立しておりまして、その全国レベルで首相の選択と結びついた国レベルの政策選択を行うという政治慣行ができているからであります。そのために、全国レベルの政策選択が地域レベルの利害の選択に優越するという状況があるからであります。
なぜそうなっているかといいますと、これは議院内閣制をとっていて、議会の多数派の指導者が首相になるという制度の論理がとられているからであります。これに対しまして、首相公選制をとる、首相は別建てで直接公選だということになりますと、やはり、こうしたイギリスで機能しているような選挙制度の論理というものも機能不全を起こすであろうと考えられるわけであります。
もう一つの制度の選択肢といたしまして、もう少しアメリカ型の純粋な大統領制にしたらどうなんだろうか、そういうアイデアも考えられるかと思いますが、ただ、この考え方もかなり大きなリスクを持っているというふうに私は考えております。
と申しますのも、アメリカ型のかなり厳格な権力分立の体制、そういう大統領制をとっている国家で、長期的に安定した民主政治を運営している国はほぼアメリカ合衆国一国に限られているというふうに言うことができるのではないかと思います。
現代国家と申しますのは、政府が社会経済の隅々にまでいろいろな形で干渉していく、介入していく、そういう必要がある国家であります。そういった国家で、立法と行政を厳格に分立するという体制をとって、うまくいく方がむしろ不思議であります。
そうすると、アメリカではなぜそれがうまくいっているのかという方向に疑問が進んでいくのだろうかと思います。
これはやはり、アメリカ独特の政治風土や政治慣行というものを考慮に入れなくてはいけないわけでありまして、これは先生方の方が御案内かと思いますけれども、アメリカでは議員立法が行われているというふうに言われてはおりますけれども、実は、少なくとも重要法案の大部分につきましては、行政府の側で法律案を用意しまして、それを議会の議員に提案して、そして議員立法として議会に提案してもらうという慣行がございます。そういう意味では、実際の立法活動では、行政府と立法府とが互いに協働する、協力して働いていくという慣行ができ上がっております。
また、投票の規律というものがかなり緩やかでありまして、大統領と議会の多数派の間にたとえ食い違いが起こっても、それがそれほど政治運営のデッドロックを生じない、そういう状況。あるいは、外交防衛上の大きな問題が起こったときには、いろいろな政治的な立場を超えて一致する、国内でコンセンサスをつくり上げよう、こういう強い伝統があるということもあります。
こういったアメリカ特有の政治風土なり政治慣行なりをほかの国に移植するということは、これはなかなか難しいのではないか。つまり、制度の枠組みを輸入することはできても、その制度をうまく運用させていく背景の風土なり慣行なりを一緒に輸入することができるのかどうか、そういう問題があるかと思います。
したがいまして、このような形の制度の改革にもかなり大きなリスクがあるというのが私の考えであります。
レジュメで次の問題で、衆議院と参議院の関係について話を進めさせていただきます。
これまたよく言われることでございまして、特に物珍しいことを申し上げるわけではないんですが、二院制の妙味を生かすには両院の構成が異なっている必要があるというふうによく言われることでありますし、そのとおりであるかなと思います。
ところが、日本国憲法下の両院制というのは、なかなかこの両院の構成を異ならせるためには不都合なところがございます。と申しますのが、参議院の権限が、第二院といたしましては比較制度的に見ても相当に強い権限を持っているということであります。つまり、衆議院と参議院とで法律案の議決が異なっておりますときには、衆議院がその最終的な結論を決めるためには三分の二以上の多数が必要であるということになっておりますので、そうなりますと、衆議院の多数を支配している与党・政府は、参議院の多数派をも同時にコントロールしなくてはその政策の執行に必要な法律を得られないという状況、これは憲法の論理から必然的に出てくる結論だということになります。つまり、衆議院の多数派は参議院の多数派をもコントロールせざるを得ないようになっているわけであります。
そういたしますと、両院の構成を異ならせて二院制の妙味を生かそうといたしますと、非常に簡単な結論は参議院の権限を縮小するということになるはずでありますが、ただ、参議院の権限を縮小するということになりますと、これは憲法改正ということになりまして、憲法上、参議院議員の三分の二の賛成を得る必要がございますので、現実論といたしましては、かなり難しい問題になるかなと思います。
そういたしますと、とりあえず考えられますのが、参議院がその権限を自主的に抑制して行使するような慣例、すなわち憲法習律の形成が必要なのではないか、そういうアイデアが考えられるわけであります。例えば、地方自治や司法の独立の保障といったかなり国政上の基本的な問題、あるいは国の長期的な政策構想にかかわる問題に限って衆議院と異なる機能なり発言なりをする、そういった形で権限の行使をみずから抑える、あるいは参議院議員からは閣僚、副大臣など政府の構成員を出さないといった慣行の形成等がとりあえずは考えられます。
このように自主的に謙抑的に権限を行使するという慣行ができてしまいますと、実は、憲法改正の必要も逆になくなってくることになるのかなということであります。
次に、レジュメの3と4の問題に入っていきたいと思います。
レジュメの3と4でお話ししようと思っておりますのは、つまり、今までのような例えば首相公選制という形のアイデアが出てまいりますのは、やはりその背景には、現在の議院内閣制の制度の枠組みなり運用の仕方なりにつきまして、これを改善する余地があるのではないか、そういう問題意識があるからではないかと思うからであります。
そこで、では、議院内閣制、あるいはもう少し広くとりまして、議会制民主主義というものは、本来どのように動くのが正しい姿なんだろうか、そういういかにも学者らしい問題につきましてお話をさせていただこうというわけであります。
議会制民主主義につきましても、その正しい運用のあり方についての古典的なイメージというものがあります。これは十九世紀のイギリスにおける政治のあり方がモデルになっておりまして、そこでの古典的なイメージと申しますのは、言論、出版の自由が保障されて、社会の中に多様な見解が行き渡る。そして、そういった多様な見解を吸い上げる形で議会での公開の審議と決定が行われる。もちろん、結論は多数決で決まるわけですが、多数派もみずからの決定を説得力のある形で公開の議論の場で正当化する必要があるわけですし、そういった議論の過程を通じまして、少数派もあしたの多数派になる可能性を持っている。こうして、公開の場での審議と決定を通じまして、次第に、政治プロセス全体としては、客観的に存在する公益、社会全体の利益へと近づいていくことができるという、かなりユートピア的なイメージであります。
ただ、こういった議会制民主主義の古典的な像というものは、もはや現代国家ではそのままでは動かなくなっているのではないかという非常に強い批判が、これはかなり昔から、二十世紀の初めのころからございます。
よく知られておりますのは、ワイマール共和国の時期に行われましたカール・シュミットという憲法学者の批判であります。
彼に言わせますと、大衆が政治の舞台にあらわれ、その大衆の支持を調達するために組織政党というものが発達してまいりますと、こういった組織政党というものは、政治活動のためのリソースとして特定の利益集団に依拠するようになる。そして、そういう特定の利益集団を代表する組織政党というものは、かたい投票規律でもって、メンバーが公開の場で話す議論の内容あるいは多数決で示す投票の結果につきましても、あらかじめ結論を決めてしまっている。このように、あらかじめ所属する組織によって結論が決まっているのであるといたしますと、公開の場での審議には意味はない、相手方の議論を聞いて結論を変えるわけではないからであります。そういたしますと、あり得るのは密室における特殊利益の取引と妥協だけではないか。これがシュミットの批判の概要でございます。
こういった批判に基づきまして、シュミットが、ではどうするべきかと言ったかと申しますと、直接民主制だと。つまり、そういう秘密投票による、間接民主制での、結果としての密室での特殊利益の取引と妥協ではなくて、公開の場での喝采によって治者と被治者の自同性を直接に明らかにしよう、そういう提案であります。ただ、こういったシュミットの提案がどのような結末をもたらしたかということは、これも広く知られているところであります。
このシュミットの批判についての対応の仕方でありますが、いろいろな対応の仕方が考えられます。
一つの対応の仕方が、レジュメのその次に書いている受けとめ方でありまして、これは、シュミットの描くような現代の議会制民主主義のあり方というのが、議会制民主主義の、本来現代議会制として運用されるべき姿なのだ、そういうことであります。これは一種の価値相対主義に立脚している考え方でありまして、要するに、この世には客観的な公益などというものは存在しないという割り切りの上に成り立っております。実際には、多様な価値観や利害が存在しているだけであると。
そういたしますと、残るところはどういうことかと申しますと、組織政党というパイプを通じまして、それを議会に代表する、多数決で結論を出すということだけであります。ただ、多数決で結論を出すプロセスでは、いろいろな妥協もあって、少数派の意見も取り入れられていく。したがって、すべての立場がそれ相応に満足を得ることができるではないか、そのことが重要なのだ、そういう立場であります。
こういった見地からいたしますと、実は、間接的な民主主義をとるということにもそれほど大きな意味はないわけでありまして、いずれにいたしましても、客観的な公益は存在しない、個々のばらばらの利害や価値観があるだけでありますので、そういった個々の意見や利害というものを直接に政治的な取引の場に参加させるということが、むしろより本来の姿に近いということにもなるわけであります。
こういった割り切り方も一つの立場ではありますが、ただ、政治の役割というのは本当にそういったことだけなのか、そういう疑問が当然のように出てくるわけであります。
こういった価値相対主義の立場からいたしますと、公開の場におきまして国政について討議をすることにはほとんど何の意味もないということになりかねないことになります。
そこで出てくる局面を打開する考え方が、レジュメで申しますと次に書いてある「討議民主主義」という考え方であります。これはデリバレーティブデモクラシーという英語を翻訳したものでありますが、議会制民主主義というのはやはり客観的な公益の実現を目指すべき討議の場でなくてはいけないのだ、そういう考え方であります。この考え方からいたしますと、いわゆる民主的な討議と多数決による決定というのは、実は、客観的にも正しい決定に至るからこそ、あるいは至る蓋然性が高いからこそ、これを設営することに意味がある、そういう考え方であります。
これを基礎づける物の考え方というのもいろいろなアイデアがあります。例えば、よく引き合いに出される考え方といたしまして、これはパズルのような話なんですが、コンドルセの定理という考え方があります。コンドルセというのは、フランス革命当時に活躍したフランスの数学者ですが、彼に言わせますと、ある社会のメンバーが、平均して考えたときに、二分の一を超える確率、つまり五〇%を超える確率で正しい選択をする、そういう条件が満たされていますと、多数決で正しい選択がなされる確率は参加する人数がふえればふえるほど高まる、そういう定理であります。
選択肢が二つしかない場合に、正しい方を人が選ぶ確率というのは、当てずっぽうで選んでも五〇%でありますから、公開の審議の場でいろいろな情報を聞いた上で各自が判断をして、五〇%を超える確率で正しい選択をする、そういう条件はそれほど非現実的なものとは言えないかなと思います。
それからさらに、これはアリストテレス以来ある考え方でございますけれども、多数者の知恵、そういうアイデアがあります。これは、多様な経験や知識を持った人々が集まって討議を交わすことで、そのうちの最もすぐれた個人が独力でたどり着くよりもなおすぐれた判断というものができるはずだということでございまして、個人が独力で集められる知識や経験にはおのずと限りがございますので、多様な人々が集まって議論をすることは、そういった個人個人の能力の限界を超える意味がある、そういう考え方であります。
ただ、こういったコンドルセの定理ですとか多数者の知恵というのは、話としてはなかなかおもしろいけれども、それが現代の議会制でそのまま通用するとは言えないのではないかという疑問が当然出てくるはずであります。
これは、先ほど御紹介しましたシュミットの描いておりますとおり、現代の議会制民主主義というのは組織政党が主なプレーヤーでありますので、だれが何を語りいかに投票するかというのは所属する政党によってあらかじめ決まっている、公開の場での討議を通じて議員が見解を変えるということはそれほど期待はできないわけであります。したがいまして、多数者の知恵というアリストテレスのアイデアが働く余地もかなり限られているだろう。また、投票規律によって実質的な意味での投票者の数は減ってくるわけでありますから、先ほど御紹介いたしましたコンドルセの定理というのもそのままの形ではうまく働かないはずであります。
ただ、この点で、あきらめてしまうのは実はまだ早い、そういう話がございまして、現代ドイツの社会哲学者でハバーマスという有名な人がいます。これは彼の提案でありますけれども、彼の提案では、現代の議会制民主主義というのはもう少し広がりを持った形で理解しなくてはいけない。つまり、現代の議会制民主主義では、公開の場での討議と決定を経て公益へと至るプロセスというのは、時間的にも空間的にもより広がりを持った形で実は行われているのだ、そういう話であります。
つまり、議会での討論というのは、実は反対政党に対して行われているのではなく、むしろ世論一般に向けて語りかけられているのであるという形でありまして、世論一般では、それを受けて社会全体での討議というものが進んでいく、そういった社会全体での討議の結果というのは、引き続く選挙を通じて議会の構成へと反映されていくはずだという話であります。そう言って、時間的にも空間的にもより広がりを持った形で、公開の場での討議と決定というのは本当は進んでいるのだ、そういう見方であります。
ただ、このハバーマスの見方につきましても、さらに本当にそのとおりなのかという疑問を出すことができるわけでありまして、これまたシュミットの指摘にさかのぼってまいりますけれども、議会で行われている討論というのは、本当は、客観的な公益を目指しているわけではなくて、特定の利益集団の主張を反映しているだけではないか、そういうかなりシニカルな指摘であります。
これに対してどういうふうに答えるのかということでありますが、確かにそういったことはあり得るとは思います。ただ、こういった特殊利益なり部分利益を追求しようという立場からいたしましても、公開の場でそれをあからさまに示すということは、実はその目的自体に反しております。つまり、そういう特殊利益を追求しようという目的からいたしましても、公開の場におきましては、それがあたかも一般公共の利益になるかのように筋の通った議論を組み立てていく必要があるわけであります。ただ、そういった大義名分を立てた以上は、結論におきましても特殊利益や部分利益を丸出しにすることはできないはずでありまして、そういった大義名分に対する一定の譲歩は迫られるはずであります。
これは非常に常識的な議論に戻っていってしまうわけでありますが、つまり、世の中では大義名分も大事でありますが、具体的に制度や仕組みを動かしていく人々の利害というものもやはり重要でありまして、いずれが欠けても制度や仕組みというのはうまく動いていかないものであります。今まで申し上げた話は、公開の場における討議と決定というものにはこの二つを近づけて両方の実現を図る効用がある、そういう話であります。
したがいまして、結論といたしましては、非常に凡俗な話にはなりますけれども、一般公共の利益を目指す筋の通った議論というものを公開の場で展開するのが現代民主政治における政治家のあるべき役割だ、そういう結論になるかと存じます。
以上で私の話を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)