武者小路公秀の発言 (憲法調査会)
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○武者小路参考人 武者小路でございます。きょう、参考人としていろいろ発言させていただきますことを、とても名誉に存じております。
忌憚のない話をというお話なので、かなり忌憚のない、もしかするととげのある話をするかもしれませんが、その点はあらかじめお許しいただければと思います。そうはいっても、そんなに乱暴なことは申しません。ただ、尊敬する幾人かの先生方のお名前を出して、それでわかりやすい話にさせていただきたいと思います。
きょうは、人権保障についてお話をしろという御指摘でございますので、人権保障の問題で憲法のこととどういう関係が問題になるかというところをお話しさせていただきたいと思います。
一番先に、何を言おうとしているのかを先に申し上げた方が後の話がわかりやすいかと思いますので、種明かしをまずさせていただきたいと思います。
つまり、人権保障の問題については、いろいろ国連の人権委員会で取り上げられておりまして、ことしも三月に、人権委員会の中の人種差別撤廃委員会で日本政府の報告が審議されました。
その審議のときの委員会の最終所見がございまして、そこで幾つか相当厳しい日本の人権保障の問題についての問題点の指摘がございました。ちょっと手違いで、それをあらかじめお配りしてお話をさせていただきたいと思っていましたが、それが間に合いませんので、後で確かめていただければと存じます。
そのことをお話し申し上げまして、その後で、一つ一つの人権の問題は実はばらばらな問題ではなくて、一つの問題にみんな集約されているということについて、そこで森総理の神の国発言に触れさせていただきたいと思います。森総理の発言がけしからぬということでお話をするのではなくて、今のグローバル化の中で日本が一つにまとまっていくためにどうしたらいいか、非常に苦労なさっていらっしゃる、そういうことで申し上げたいと思います。
ただ、私がねらっておりますことは、日本だけで一つ固まっていくということはこれからとても難しい、むしろ日本人以外のいろいろな人たちがどんどん日本に入ってくる、そういうときの日本の国家理念というものをはっきり持つ必要がある。今までの国家理念というのは、日本が固まって一丸になるという国家理念だったけれども、それはもうこれからはなかなか使えないのではないか。そういう国家理念がもとになって人権法の法理念が出てきますから、そこの関係についてちょっと説明をさせていただきたいと思います。
それで、新しいグローバル化の時代の国家理念としてはどういうことが必要かということで、実は、かなり忌憚のないというか乱暴な話で、昔の話に戻りたいと思います。
つまり、聖徳太子の和の精神というものをどう解釈するかということに戻りまして、和というものを、日本人だけが集まって固まって和をとうとぶというのではなくて、日本の中にいろいろなエスニック集団がいて、その間の和をとうとぶというのが本来の聖徳太子の和であった。それが何か日本人だけで和をとうとぶという話になっちゃったところに問題があり、その問題を乗り越えようとして出てきたのが日本国憲法の前文にある平和的生存権ではないか。その生存権という言葉は使わないで、今、日本政府は国際的に非常に注目すべき理念を日本の国家の理念として売り出している。これは人間の安全保障という考え方です。
その人間の安全保障という理念は、世界の理念でもあり日本の国家の理念でもあるということができれば、日本の国家は開かれた国家になり、人種差別撤廃委員会で指摘されているような問題はかなり解消されるのではないか。そういう日本の中の人権問題を解消するためには、人間の安全保障、そして人間の安全保障の法理念として掲げている平和的生存権という、日本国憲法の前文の考え方を一つの理念としてはっきり確立することがとても大事なのではなかろうかということをお話しさせていただきたいと思います。細かい人権のそれぞれの問題よりも、そういう理念をお立ていただくということが、とりもなおさず憲法のことを考えるときに一番大事ではないかということです。
まず、国連の問題指摘、人種差別撤廃委員会では、ことしの三月八日から九日にかけて、日本の政府が、人種差別撤廃条約を締結したときに約束をしている国としての報告、ナショナルリポートを提出しました。
それに対して、人種差別撤廃委員会でいろいろな委員からいろいろな質問が出まして、それに外務省、法務省、それから文部省その他幾つかの省庁からも出席されまして、それで、委員会を構成しているのは政府の委員ではなくて人権の専門家でありますが、その専門家のいろいろな質問に答えられました。その答えたことに対して、また専門家たちの方でいろいろ話し合って、そして最終的に自分たちはこう考えるということをまとめました。それが最終所見というもので、その最終所見を日本国政府は持ち帰りまして、それでそれに対する反論もちゃんとしております。その反論で、私が納得するところもあるし納得しないところもありますが、委員の方々は余り納得していないように聞いております。
この最終所見は、次の日本国による報告、これはあと二年後に提出しなければいけないのですが、そこで、最終所見でこういうことをやってくれと言われたことをやって報告書をまとめるということになっております。
この最終所見、皆さんの手元にまだ配っていないので、非常に簡単にざっと申し上げておきます。
まず第一に、最終所見は悪いことばかり言っているのではなくて、肯定的な側面があるということで、例えば、「委員会は、アイヌ民族をその独特の文化を享受する権利を有する少数民族であると認定した最近の判決を関心をもって留意する。」というように褒めているところがあります。
その後で、「懸念事項および勧告」ということで、まずこの報告書の中でもう少しいろいろな情報を、統計的な情報も含めて、韓国・朝鮮人のマイノリティー、部落民及び沖縄人集団を含む、条約の適用対象とするすべてのマイノリティーの状況を反映した経済的及び社会的指標の情報を置いてくれということがあります。これに対して、日本国政府は、沖縄民族はマイノリティーではない、でも委員の方では、固有の文化を持ったマイノリティーではないかということを言っております。
それから、部落民については、ディセントの問題、世系あるいは門地、門地差別ということが、日本政府としては、これが人種差別撤廃条約には入っていない、要するに人種主義ではない、問題は問題かもしれないけれども、何もそれを報告することはない。委員会の方では、人種差別撤廃条約でディセント、世系というのがちゃんと入っているから、部落差別もちゃんと報告しろというようなことを要求しております。
詳しいことは後でごらんいただければと思いますけれども、部落差別の問題、それからさっき言いました沖縄人差別の問題、在日朝鮮人・韓国人差別の問題、それから例えば、もっと一般的な、日本に居住する外国籍の子供に関する初等教育及び前期中等教育の義務教育となっていないことに留意する、だから、それを受ける権利を与えなければいかぬというようなこと、あるいは在日韓国人・朝鮮人の民族学校、朝鮮学校を含むインターナショナルスクールの卒業者が日本の大学に入れない、それから、アイヌ民族の権利についてもさらに努力をすべきであるというようなことがいろいろ出ております。
それで、そのことについて考えます場合に、二つのやり方がございます。
外務省は、当然、日本で今支配的な考え方になっています解釈法学に基づいて、どこどこの問題は、例えば部落問題はこれこれの理由で法的に条約に含まれていないとか、そういう細かいことで説明をしています。
ただ、私がきょう憲法調査会の先生方に御提案させていただきたいことは、この人権法、ほかのことでもそうだと思いますけれども、特に人権法の問題は、これは単なる解釈法学では取り上げ切れない問題ではないかということを問題提起させていただきたいと思います。
私が勉強したところでは、公法学は専門ではないのですけれども、公法学の考え方の中に、これはフランスの制度学派の考え方なのですが、法律を解釈するときには、法規範がどのように形成されたかというその形成過程を大事にする。法規範が形成されるその前提には、必ず何らかの法理念がある。だから、法理念をまず明らかにして、その法理念は幾つかの政治勢力が新しく出てきて、それが新しい法理念というものを提案する、その政治的な過程のこともちゃんと研究した上で、どういう形で、どんな法理念が提案されているのかということを調べた上で、それで法規範を解釈するということを行うのがその制度学派の考え方です。
そこで考えますと、人権法の問題につきましても、解釈法学的に、この法律はこういうことでやっているんだ、アイヌ民族についてはこういうふうなことで、こういう法的なことが基本にあってこうやっているんだという話をすることはよろしいわけです。
ですけれども、私が問題提起させていただきたいのは、いろいろ人種差別撤廃委員会で問題にされたことと、それから日本の人権保障についての実績というものとの関係を私なりに乱暴に整理したいと思います。乱暴に整理しますと、日本は人権法をちゃんと確立し、またかなりその人権を守っている国の一つではないかと思います。これは先生方も皆さんそうお思いになるでしょうし、当然のことを言っているとお思いになるかもしれません。
アメリカなんかではいろいろな人種差別の血なまぐさい事例も、殺されたり、焼き殺されたりということがかなりありますが、日本ではそういうことはない。そういう意味では、かなり日本は人権の面で誇るに足る成績を持っているということをまず確認できると思います。
ただ、それは裏の面の問題がありまして、日本の人権は、平均的な日本人の人権、そして平均的な日本人の生活の安全を保障するということ、そういう枠の中で、普通でない日本人の権利をいろいろ無視する場合がかなりあるという問題があるかと思います。
国連でも問題になっていますし、日本で仕事をしているNGOのアムネスティが一生懸命言っていることでありますけれども、死刑廃止の問題があります。死刑を廃止しろという主張がなぜ国連でも多数を占めているかと申しますと、これはすべての人の権利ということを考え、死刑で死ぬ人の人権ということを特に大事にいたします。
ですけれども、日本の場合に、死刑を廃止しないという考え方は、後ほど御叱責があれば甘受いたしますが、死刑廃止をなぜしないかというと、死刑を廃止したら、まともな普通の日本国民が、殺人とかいろいろ悪いことをしている例外的な日本人の犠牲になるではないか、だから、社会の秩序、社会の和、そういう治安の方が大事で、そのためには悪いことをしている非常に数の少ない人たちの人権というか、生命を絶つということもいいであろう、そういう判断ではないかと思います。
ですから、マイノリティーの問題だけではなくて、例外的な人たちの問題ということは案外、要するに、大の虫のために小の虫を殺すというようなところがあるのではないかと思います。
そこのところで、先ほど申しました人種差別撤廃委員会では、日本人以外の人たち、在日コリアン、在日朝鮮人・韓国人、あるいはニューカマーと呼ぶ場合もありますけれども、そのほかの日本に居住する外国籍の移住してきたいろいろな国の人々、あるいはその人々の中でも、子供たちの権利がうまく守られていないということを指摘しております。
この問題は、先ほどちょっと申しましたように、グローバル化が進みますと、どうしてもたくさんの日本人でない人たちが日本に入ってまいります。そこで、日本に入ってまいりますと、その人たちとどう仲よくするかという和の問題は、日本人だけの和の問題ではなくて、日本人でない人たちとどううまくすみ分けていくか、うまく共存共生していくのかという問題がかなり大事になります。
そういうことで、また乱暴なことを申しますが、ある私の友人は、二十一、二世紀は大丈夫だけれども、二十三世紀ぐらいになったら大和民族は日本列島での少数民族になってしまうおそれだってあるかもしれない。それだけ少子化の問題だとかいろいろなことが出てきているので、いつまでも日本人が日本列島に住む唯一の民族、単一国家を形成している単一言語の単一民族である、そういうことはこれからなかなかそのままやっていくことはできないのではないかということがあります。
ですから、これは人権保障の問題をもう少し広い社会の変化、グローバル化の中で取り上げて考える必要が出てくるということを指摘させていただきたいと思います。そういうことが、国際化とか国際国家日本をどうつくるか、そういう問題になるかと思います。
そこで、先ほど予告をしましたように、多少先生方に失礼なことを申させていただくことをお許しください。きょうお話をするつもりはございませんでしたが、ここに中曽根先生もいらっしゃいまして、中曽根先生は私は昔から非常に尊敬申し上げておりまして、随分昔、六五年ごろに、研究会でドゴールの外交の話をさせていただいたこともございます。
ただ、中曽根先生もやはり失言を昔されたことがございまして、日本みたいにアメリカがなかなか経済が伸びないのは、もしかしたら不正確な引用になって申しわけございませんが、アメリカの場合には、アングロ・サクソンだけが住んでいればいい国になるのに、教育のない、あるいは麻薬をやる、そういうアフリカ系の人たちとかいろいろなマイノリティーがいるから大変なんだ、日本はそれがないから、これだけ頑張ってこれだけいい国になったという御発言を前になさったことがありまして、これは人権保障の立場からするとかなり問題があるということがございます。その流れで、最近問題になりましたのが森総理の神の国発言でございました。
私がこれからお話し申し上げたいのは、それがいけないんだということを申し上げたいわけではありません。人権法の立場、法理念の立場からすると、これはとても困る考え方だということになります。なぜ困るかというと、これはゼノフォビアという、外国人嫌いあるいは自国中心主義の考え方ということになります。
それで、この八月から九月にかけて南アフリカのダーバンで国連が開きました反人種主義の会議は、人種主義に反対をし、人種差別に反対をし、それからゼノフォビアに反対をする、自国中心主義に反対をするということが一つちゃんと入っております。
実は、日本中心主義というものがやはり神の国という考え方の基礎にあるということは、かなり私には明らかでございます。違うということがありましたら後で教えていただければ、そのことは勉強させていただきたいと思います。
しかし、私が申し上げたいのは、ゼノフォビアがけしからぬということを言おうとしているんじゃなくて、実は、日本中心主義、ゼノフォビアというものは、それがなかったら日本は国家として成り立たなかった、そういう歴史を日本が持っているということは、やはり研究者として確認をしたいと思います。
つまり、明治の開国以来、日本が近代国家の仲間入りをしたときには四面楚歌で、要するに、先進工業諸国は北からも南からも東からも西からも日本に対して圧力をかけて、そういう植民地化の波が押し寄せてきていた。そこのところで日本民族が一丸となって、そして国家を形成する。それこそ、先ほど申しました和をもってとうとしとなす。それまで藩に分かれて争っていた日本が一つの国にまとまったということは、それがなかったら日本は独立国家として成り立たなかったということがあります。
そういうことで、それ以来、日本の公教育、教育も、そういう国民を育てるということに一生懸命になりました。その結果、周りの国に対して迷惑をかけるような侵略をしたということも、実はそういう、日本を打って一丸とするということのとても残念な結果としてそういうことも出てきました。
しかし、それを乗り越えて、第二次大戦後の日本が独立を回復して、そしてこれだけ平和な国になった。今いろいろ問題はありますけれども、しかしそれでも、昔に比べれば非常に豊かな国になったということは確認しなければいけないと思います。
そして、その場合に、世界の中でも貧富の格差が最も少ない国の一つに日本はなっているということは、やはり日本が神の国であるおかげだというふうに考えることは無理もないことかと思います。ちょっと皮肉なことを申し上げて申しわけないのですが、要するに、日本が、一緒に日本人としてみんなで固まるということができるような、そういうイデオロギーがちゃんと天皇のもとで行われてきました。
そして、そのイデオロギーを支えるものとして部落差別というものがうまく使われてきたという側面も同時に申し上げる必要があるかと思います。つまり、すべての日本人は、部落差別があるおかげで、一番下積みではないという安心感を持つことができます。そういうことで、部落差別というものは悪いと思いますが、しかし、日本国家をまとめるためには、そういう差別を一つ下敷きにして、そして普通の日本人はみんな中産階級であるということで安心できる、そういうイデオロギー的な基礎が実はあったということが、私は一つの大きな問題だと思います。
ですから、日本中心主義といっても、日本の中でもだれかを差別しておかないとみんなは安心できない。これは、小学校でやっているいじめの構造とまさに同じで、だれかいじめられるような子がいてくれるから、いじめる側のクラスがまとまる、そういうことが実はいじめの構造のもとにある。部落差別の構造のもとも同じことではないかと思います。ですから、神の国ということで、みんなが神様の子供になればいいんですが、必ずしもそうでないというところもあるかと思います。
ということで、和をもってとうとしとなすということで、日本人が一丸となって、部落以外の日本人が一緒になって一生懸命日本をつくった。これはとてもよかったんですけれども、それが成功したおかげで、例えば、いろいろな国の不法入国労働者がたくさん出てくるという問題が出てまいりました。そして、このことに非常に心配をされました石原東京都知事が三国人発言をなさいまして、三国人が災害のときに蜂起するおそれがあるから、それを鎮圧するために自衛隊が常日ごろから準備をする必要があるということを御指摘になりました。
これは、日本国民の安全を守るという配慮から、日本人以外を警戒して、そしてやっつける必要がある、そういう考え方です。日本がグローバル化してきますとどうしても外国人が入ってきて、その外国人が悪いことをするという、実は悪いことをするのは普通の外国人じゃなくて、国際犯罪組織がやっているんですけれども、それも外国人ですから、その問題がクローズアップされる。そうなりますと、グローバル化が進めば進むほど、どうしても、外国人、あるいは外国から昔入ってきた三国人、あえて差別語を使いますが、在日朝鮮人・韓国人が警戒の相手になる。そういう形で、日本人だけの和を固めようという動きがかなり出てきているのではないかと思います。
そして、森総理は、非常に熱心にIT、情報技術の問題を進められ、例えばインドからもITの専門家を呼びたいという努力をしておられました。このことは、要するに、都合のいい外国人は入れる、だけれども、日本の神の国としての結束は破らないような形で入れるんだ、そういう形のグローバル化を期待しておられましたが、実際には、そうではないグローバル化が今進んできているのではないかと思います。これが、東京の新宿歌舞伎町の問題がまさにそういうことです。
実は、その問題を解決するために、多文化探検隊というNGOが歌舞伎町で防災訓練をやりました。歌舞伎町でやった防災訓練というのは、戦車を繰り出しての防災訓練ではなくて、むしろ、そこに奴隷働きをしているいろいろな国からのセックスワーカーがいます、タイとかビルマとかコロンビアとかポーランドとか。その人たちが、震災のときに、日本語がわからないと情報が伝わらないということで、どういうふうにしてその情報を伝えるかという訓練をして、タイ語ができる人とかいろいろな人を集めて、タイ人の多いところにはタイ語ができる人をつけるとか、そういう訓練をしました。
この二つの例は、実は、和をもってとうとしとなすということの二つの考え方のあらわれ、両方とも和をもってとうとしとなす考えです。けれども、石原都知事がやったのは、和をもってとうとしとし、日本人の安全を守る。多文化探検隊は、日本というのは、単一文化だと言っているけれども、実はいろいろな文化がある、それが一番典型的にすばらしい多文化の基地になっているのが歌舞伎町である、そこで、その多文化を大事にし、入ってきている人たちの生命を大事にしよう、そういうこと。これは、まさに和をもってとうとしとなす。つまり、和の中に日本人だけではなくて、そこに入ってきている、あるいは人身売買で連れてこられたタイの人とかフィリピンの女性とか、いろいろな国の人たちも入れて、そしてみんなで和をとうとぶ、そういうことではないかと思います。
実を申しますと、その意味で、この和をもってとうとしとなすということが二つの解釈がどうもあって、日本人だけでとうとぶ場合には、国連で非難されるような、マイノリティーに対する配慮が足りないという形で、和が日本の国家理念、日本の法理念としてマイナスに働く。ところが、グローバル化したところではそれでは困るので、やはり和というものは、日本人だけの和ではなくて、日本国籍を持っていない人たち、あるいは日本国籍を持っても大和民族でない人たちも含めての和ということを考える必要があるのではないかと思います。
実はそこで、平和のうちに生存する権利ということが出てまいります。
日本国憲法の前文でこの平和的生存権が出ているんですけれども、私なりの勝手な解釈をさせていただきたいと思いますけれども、日本は「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」名誉ある地位を占めたいということのその次に、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」だから、平和に生存するのは、全世界の国民、いろいろな国民がみんな平和のうちに生存する権利を持っている。それは、日本が国際社会において名誉ある地位を得るということと関係がある。
つまり、日本だけが単一国家の平和主義とかそういうものでは全くなくて、平和というものは全世界のいろいろな国民が一緒に楽しむことにしなければいけないのだということで、ある意味では、和という考え方は、私は今西錦司先生のすみ分けという考え方とつながると思うんですが、それを世界的に押し広げようとしている。
これを今の日本政府は、人間安全保障という名前で、一つの平和の理念として人間の安全保障ということを国際的に主張しておられる。それを国際的に主張するのなら日本の中でも主張すべきで、日本の中の人間の安全を保障するというときには、東京都民の安全も保障しなければいけないけれども、同時に、日本にあるいは東京に人身売買で連れてこられたタイの女性の安全も保障しないといけない。両方、共通の安全であるということを確認することが、和をもってとうとしとなすという聖徳太子の言われたことだったと思います。
聖徳太子が言われた和というのは、当時は日本の中でいろいろな氏族が戦い、その氏族の中には、大和系の氏族もいれば、朝鮮系の氏族もいれば、中国系の氏族もいれば、蝦夷もいればあるいは隼人もいれば、いろいろな氏族がある。その間の平和共存ということ、平和に一緒に生きるということを和として教えられたので、江戸時代以来のように一つの国がみんな同じだから、均質だから和というのではない、むしろ異質だから和というものをとうとしとなすということだと思います。
これを考えていただければ、人権保障を考えるときにも、日本の平均的な日本人だけではなく、ほかの国の人たちも、それから日本人の中で、殺人をしたり特別な境遇の人たちも同じ人間であるということでとうとぶ。それは別に人権という形ではなくて、和という日本の伝統的な価値をもとにした国家理念がもしもそこにあれば、人権を守るということを日本側の方から言うことができます。
最後にもう一つだけつけ加えさせていただきたいと思いますけれども、実は、一九九八年に日本の隣の韓国のクァンジュ、光州で、一つの人権の集まりがありまして、そこでアジア人権憲章というものが発表されました。これは、アジアのいろいろな国、南アジア、東アジア、東南アジア、太平洋、いろいろなところの人権の運動家、専門家、研究者あるいは弁護士、そういう人たちが何回も集まって、ですから民間の人権憲章ですけれども、それをまとめました。
そこのところで、この一番中心にあるのは、西欧的な人権の、例えば社会、経済、文化権と政治権、市民的自由、そういう区別ではなくて、むしろ生命から始まっています。生命の権利、次に平和の権利として、あらゆる人は、いかなる種類の暴力の標的になることもなく、肉体的、知的、道義的及び精神的能力を含むすべての能力を完全に発展させることができるよう、平和に生きる権利を有するということで、平和的生存権をアジアの一つの価値として、一番中心が生命、生命の次が平和に生きるという形で取り上げています。
その意味で、もしも日本が、日本国憲法のこの価値を人間の安全保障ということで確立すれば、これは国家理念としても、あるいは人権保障のための法理念としてもとても大事だし、単に外から押しつけられたものとか舶来の人権とかということでは全くない、日本の、つまり和をもってとうとしとなすということを中心とする人権保障ができるし、すべきではないかということを提案させていただきまして、私の参考人としての問題提起を終わらせていただきます。
どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)