2002-02-14
衆議院
高橋和之
憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会
高橋和之の発言 (憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○高橋参考人 ただいま紹介いただきました高橋でございます。
きょうは、日本国憲法が定めている議院内閣制の運用のあり方について、「議院内閣制の国民内閣制的運用」というタイトルでお話しさせていただきたいと思います。
お話の御依頼をいただいたときには、議院内閣制の運用を職務とされておられます議員の皆様に、その運用がどうあるべきかなどということをお話しするのは釈迦に説法ではないかと思いましたが、木を見て森を見ずという言葉もあることでもあり、現場から離れたところで議院内閣制の運用を観察している者に、そのありようがどのように見えているかということをお話しすることも、あるいは何らかのお役に立つかもしれないと思い直しまして、ここにやってまいりました。そういうわけで、話の内容は、遠くから見た議院内閣制というものがどういうふうに見えているかといったことになるかと思います。
日本国憲法が採用した議院内閣制の構造は、御承知のように、次のようなものであります。
まず、内閣総理大臣は、国会議員の中から国会が指名いたします。国会といいましても、衆議院に優越性が与えられておりますから、実際には衆議院の意向が重きをなすことになります。
総理大臣が決まりますと、他の国務大臣は総理大臣が任命いたします。任命のみならず、自由な罷免権も与えられておりまして、この点で、日本国憲法の総理大臣は、御承知のように、戦前と異なり、内閣の首長としての地位を明確に与えられているわけであります。
このように、首相を中心に一体性、連帯性を確立した内閣は、その行政について、国会に責任を負います。国会が内閣の責任を問う方法の核心にあるのは、言うまでもなく、内閣の不信任を行うことでありますけれども、憲法は、その権限を衆議院にのみ与え、参議院には与えておりません。
さて、衆議院は内閣を不信任する権限を持ちますが、それに対抗して、内閣は衆議院を解散する権限を与えられております。
内閣が解散権を行使し得るのは、衆議院が不信任をした場合に限定されるのか、それとも、それに限定されず、いつでも必要と判断したときには解散権を行使し得るのかという点につきましては、学説上は解釈の対立がありますが、実務においては初期のころから後者の理解が確立しておりまして、今では通説もそれを支持しておりますから、日本の議院内閣制は、衆議院の自由な不信任権と内閣の自由な解散権が対抗する、いわゆる均衡型の議院内閣制だということになります。
以上は、国会と内閣の関係にのみ着目した場合の議院内閣制の姿でありますが、日本国憲法は、国民主権を政治の基本原理として採用しております。したがって、議院内閣制は、主権者たる国民の求める政治を行うためのメカニズムとして理解する必要があります。
国民主権といいましても、代表制を基本としておりますから、国民が行うのは通常は代表者を選挙することに限られます。国民は、代表者の選挙を通じて、間接的に自分たちの求める政策意思を表明するわけであります。したがって、議院内閣制というのは、国民が選挙で間接的に表明した意思を基礎にして、代表者が国民のための政治を行っていくメカニズムということになります。
ここで、国民が選挙で間接的に政策意思を表明するという点と、国民のための政治を行うというこの二点に注目しておきたいと思います。
よく民主政治のことを、リンカーンの言葉を引用いたしまして、国民の国民による国民のための政治と言われますが、国民によるというところが、仮に直接制であれば、国民のためのということは不要になることでありましょう。国民が直接意思表明をすれば、それが国民のためにならないと主張することは困難であります。何が国民のためかは国民が最もよく知っているというのがデモクラシーの前提でありますから、国民が直接意思表明した以上、それは国民のためであると判断する以外にないということになります。
しかし、代表制においては、国民が直接意思表明をしませんから、その分、代表者の裁量が拡大し、代表者による国民のための政治に期待されることになります。代表制においては、国民による政治と国民のための政治が微妙なバランスに置かれているということであります。
そこで、議院内閣制の運用を考える場合、この国民による政治と国民のための政治のどちらに重点を置いて運用を行うべきかという問題が出てくることになるわけであります。
国民による国民のための政治を議院内閣制を介して行っていく場合に、その政治プロセスは、有権者が議員の選挙を通じて自分たちの求める政策についての意思を表明し、それを受けて、議員が現実に実施する政策とその担当者、首相を決定するという展開をたどります。
ここで重要なことは、まず第一に、国民あるいは有権者の間には望ましいと考える政策についての多様な考えが存在するということであります。しかし、第二に、政治によって実現し得るのはただ一つの政策プログラムだということであります。
もちろん、多様なプログラムのうち、中には相互に両立可能なものもあるでしょう。そういうものは一つに統合すればよいわけであります。しかし、統合の努力を行っても、どうしても両立させ得ないプログラムが最後には幾つか残るはずであります。そのうちのどれか一つしか政治のプログラムとはなり得ないということであります。
つまり、この政治のプロセスの課題は、多様な政策プログラムを統合し選択していって、最終的に一つのプログラムに絞り込むということであります。
そこで、問題は、この絞り込みをどのようなリズムといいますか、段階、区分で行うのがよいかということになります。
制度的には、憲法は、第一段階を議員の選挙、第二段階を首相の指名、第三段階を国務大臣の任命という形で設定しておりますが、その制度的な各段階でどの程度の絞り込みを期待するかということであります。ここでは技術的な選択の性格が強くなります第三段階は省略して考えますと、問題は、選挙前に国民の間に存在する多様な政策プログラムをまず選挙を通じてどの程度に絞り込むのが適切なのか、次いで、第二段階での絞り込みのあり方をどういうふうに考えるのかということになります。
この点について、私は、二つのモデルを区別して考えるのがよいかと考えております。
一つは、基本政策への絞り込みを選挙のプロセスで行ってしまうというものであります。このモデルでは、選挙の結果、国民の多数派が支持する政策プログラムが確定いたします。もちろん、政策プログラムと同時にそれを担う者、つまり首相も事実上決定されるということになります。この場合、第二段階、首相の指名というのは形式的なものになります。憲法上の手続としては国会が首相を指名しますが、だれが首相となるべきかは選挙の結果事実上決まっておりますから、それに法的な効果を与える手続にすぎなくなります。ここでは、内閣とその政策は選挙を通じて国民が直接的に選択いたしますから、これを国民内閣制モデルと呼んでおくことにいたします。
これに対し、もう一つのモデルは、選挙において絞り込むことは避けて、選挙では国民の間に存在する多様なプログラムをできる限り忠実に国会の構成に反映させ、一つの政策への絞り込みは首相の指名という第二段階にゆだねようというものであります。つまり、ここでは、内閣とその政策の決定は選挙後に議員によって行われるということになります。国民が直接行うのではなくて、議員の媒介を通じて行われますので、これをここでは媒介内閣制モデルと呼んでおくことにいたします。
この議院内閣制の二つの運用モデル、国民内閣制モデルと媒介内閣制モデルというのは、理念型的なものでありまして、現実の運用がどちらか一方だけで行われているということではありません。実際には、国民の間に存在する多様性をその立体的構造まで含めて完全、正確に国会に反映させ得るような、そういう選挙制度は存在いたしませんから。どんな選挙制度においてもある程度の絞り込みがなされますし、また最大限の絞り込みを目指したとしても、常に多数派に支持された唯一の政策プログラムがそこであらわれるという保証はありません。選挙のプロセスで多数派形成に失敗すれば、その限りで議員による多数派形成が必要になります。
しかし、重要なことは、この二つのモデルは、考え方としては明確な対照、コントラストをなすものでありますから、両者を折衷して考えるというわけにはまいりません。どちらかを運用モデルとして選択する必要があります。
では、どちらがよいのか。
どちらがよいのかという問いに対しては、一般的に正解を出すということは困難であります。どちらも十分可能なモデルであり、それぞれが長所、短所を持っております。実際、イギリスは国民内閣制モデルを代表しておりますし、オランダとか北欧諸国、こういった国は媒介内閣制モデルに属する国だと言われておりますが、民主政治のあり方としてどちらがよりよい政治を行っているかなどということは簡単に言い得ることではありません。
確かに、国民内閣制モデルの方が、国民が政治に対してより強い発言権を持つことになりますから、より民主的だと言えないわけではありません。特に、国民による政治を強調すればするほどそういうことになるでありましょう。
しかし、どんな領域でも、その道のプロ、専門家というものは存在するものであります。素人が謙虚になって専門家を尊重するということは、非難すべきことではないと思います。国民のための政治ということを強調すれば、その方がよい場合もあるのではないかと思います。私自身、政治的な争点について、自信を持ってどちらかを選択することができるものもありますが、しかし、この問題の選択を私にさせてくれるなと願いたいような争点もたくさんあります。そういうものについては、専門家の判断を尊重したいと考えております。
したがって、どちらがよいかは、現在の日本の政治のあり方、そこにどういう問題があるのか、今政治に何が求められているのかといったこととの関連で考えるべきことだと考えております。
私の理解では、戦後長期にわたって、日本の議院内閣制は媒介内閣制モデルに従って運用されてまいりました。それが、一九九〇年代に入ってさまざまな困難に直面し、その運用のあり方がここで模索され始めているというのが現状ではないかと理解しております。
現代の政治は、積極的なリーダーシップを必要としております。社会を運営していくためには、だれかが率先して必要な活動、アクションをとらなければなりません。消極国家と言われる考え方においては、アクションは社会にゆだねておくのが最善であって、そうすれば基本的には神の見えざる手により調和的発展が実現されるんだ、国家は社会の行き過ぎをコントロールしていればいいんだと説かれました。しかし、今日では、積極国家、福祉国家という考え方のもとで、一定の人為的プログラムにより、神の見えざる手ではなくて、人為的プログラムによって国家が社会の調和的発展のかじ取りを行っていくことが必要だと考えられるようになっております。
そのプログラムに広範なコンセンサスがあれば、政治の課題はそれだけ軽減されますし、ましてや、それにより社会が順調に発展していたときには、政治が果たすべき役割はさらに限定されるということになりました。しかし、御承知のように、そのような時代は、仮に存在していたといたしましても、今ではもう失われてしまったのであります。
今では、政府が積極的な活動を展開するには、まず政治プロセスを通じて、そのためのアクションプログラムを決めなければなりません。それは、デモクラシーを掲げる国である以上、国民の過半数に支持されたものであることが求められます。また、そうであってこそ、政府は時代の要請する政策を強力に推進することが可能となるのであります。
この観点から、内閣とその政策に対する国民の多数派の支持が明確である方がよいということになるのではないでしょうか。この点で、国民内閣制と媒介内閣制のどちらが明確な支持を確立し得るかといえば、明らかに国民内閣制ではないでしょうか。
もっとも、媒介内閣制でも、人口規模の小さな国家で国民の支持の動向が比較的把握しやすいなどの特別な条件があれば、明確に国民の多数派の支持する内閣を媒介内閣制モデルでも形成することは可能でありましょう。しかし、日本のように人口の大きな国になると、国民の多数派と議会の多数派を一致させるということは、媒介モデルでは相対的に困難となるように思われます。ですから、今、日本が目指すべき運用のあり方は国民内閣制ではないかと私は考えております。
したがって、一九九〇年代以降、政治改革の一環として衆議院の選挙制度改革がなされましたが、それが成功しているかどうかは別にいたしまして、基本的な方向としては支持し得るものではないかと考えておりますし、また、行政改革の一環として内閣機能の強化のための制度改革がなされましたが、内閣の積極的なアクション、イニシアチブを促進するものとして、これも基本的には支持できるものと考えております。しかし、その全体が国民内閣制的に機能しているかといえば、まだまだ不十分な点が多いのではないかというのが私の率直な実感であります。
その不十分な点、さまざまありますが、その中で特にここで私が強調しておきたいのは、内閣のコントロールという問題であります。
内閣が国民の多数の支持を受けてその政策を強力に推進する、このような政治のあり方を実現するのが課題だと申し上げましたが、これは課題の半面にすぎません。これだけがひとり歩きするとかえって危険であります。アクションには常にコントロールが必要であります。アクションがなければ政治は動きませんが、コントロールなしではどこに行くか不安になります。ですから、アクションとコントロールは常にセットとして考える必要があります。
内閣をコントロールする主体は、言うまでもなく国会であります。より具体的には野党ということになります。ですから、アクションとコントロールのバランスのためには、内閣にアクションの手段を与えるだけではなく、野党にコントロールの手段を与えることが必要であります。
野党によるコントロールは、内閣の政策及びその執行の問題点を指摘し、国民に知らせるということが中心になりますが、それを行うためには行政についての正確な情報を入手する必要があります。その手段として、国会にとっての最も重要な手段は国政調査権であります。そこで、この権限の行使を野党の主導で行い得るようにする必要があるのではないでしょうか。
この点、例えばドイツでは、議員の四分の一の要求で調査委員会を設置し得ると憲法上規定されておりますが、日本国憲法にはそのような明示の規定はありません。しかし、憲法はそれを禁止しているわけではありませんから、法律でそのような制度をつくることは十分可能であります。これはほんの一例でありますが、野党によるコントロールが十分に可能になるような制度設計が望まれるところであります。
要するに、「議院内閣制の国民内閣制的運用」とは、政治におけるアクションとコントロールをめり張りある形で行っていくということであります。
もちろん、かかる運用が可能となるためにはさまざまな条件が必要でありますが、その点について、選挙制度のあり方、政党の役割、国民の心構えといった観点から若干のコメントをさせていただきたいと思います。
まず、選挙制度のあり方との関連でありますが、国民内閣制モデルで考えるか、媒介内閣制モデルで考えるかによって、選挙の見方は大きく変わります。選挙制度にはさまざまなものがありますが、比較的多くの国で採用されているものは小選挙区制と比例代表制、これにも具体的にはさまざまな内容がありますけれども、基本的な考え方としてはこの二つが代表的であります。そして、単純化して図式的に申し上げれば、小選挙区制は国民内閣制に適合的であり、比例代表制は媒介内閣制に適合的だと言うことができます。
国民内閣制は選挙で国民の多数意思が明確に表明されることを要求しますが、それが可能となるためには、国民自身がそのような投票行動を行う必要があります。つまり、国民一人一人が多数派形成を考えて投票する必要があるわけであります。小選挙区制こそそれに適した制度ではないかと考えております。
なぜなら、小選挙区制で自分の意見を最大限反映させようとすれば、最初から当選する見込みのない候補者に投票してもだめでありまして、当選する見込みのある候補者の中で自分の考えに近い人を選ぶということが必要になります。こうして、有権者はみずから多数派形成を考えて投票することになります。また、政党の方でも、他の政党と協定を結ぶなどして、当選可能な候補者を立てようとすることになります。
少なくとも、小選挙区制というのは、投票者や政党に対してそのような行動をとるインセンティブを与える制度であります。ですから、結果としても、国民の多数に支持された内閣と政策を生み出す可能性が高いと言えるのではないでしょうか。
これに対して、比例代表制は、国民の多様な考えをできるだけ忠実に国会に反映させようという制度であります。有権者も、候補者の中で最も自分の考えに近い人を選ぶという投票行動をとります。その結果、たまたま国民の中に明確な多数派が存在すれば、その意思に従った内閣と政策が選択されるということになりますが、通常はそうはならないでありましょう。比例代表制は、多数派形成とは逆のインセンティブを与えるからであります。
というのは、比例代表制のもとでは、できるだけ多くの票を得るためには、自分に近い政党との差別化を図ることが重要だからであります。多数派形成のためには政策の類似性を強調することが必要になりますが、比例代表制のもとではそれとは逆のインセンティブが働くわけであります。勢い、ほっておけば、差別化によりどんどん政党が細分化されるということにもなりかねません。
ですから、選挙の結果、明確な多数派が出現するということはまれでありまして、多数派形成は、首相の指名という第二段階の議員の役割ということになり、まさに媒介内閣制的に機能することになるわけであります。
よく、小選挙区制は少数意見を切り捨てるものだということが批判として言われます。選挙とは国民が自分の意見に最も近い代表者を選ぶ手続であるべきだという理解で問題を考える限り、全くそのとおりだと私も考えます。
しかし、小選挙区制は、実はそのような目的の制度ではないのでありますから、この批判は、言ってみれば、ない物ねだりの批判と言わざるを得ません。全く異なる目的の制度に対して、自己の欲する目的を実現していないから間違っていると批判しても、それは本当の批判にはならないと思います。
同じ論法を使うならば、逆に、小選挙区制の立場からは、比例代表制こそ国民の多数意思をゆがめるものだということになりましょう。選挙の役割は国民の多数意思の探索でありますから、そうであるのに、比例代表制は、その多数意思を分散させてしまい、議員の多数意思をもって国民の多数意思に代替させるものではないかということになるからであります。
こういった相互の批判は、いずれも、選挙の役割についての自己の観念を前提にして、その前提を受け入れていない相手の制度を批判しているわけでありまして、かみ合った議論ではありません。真の対立は、選挙の役割として何を求めるかなのであり、この対立は、国民内閣制モデルか媒介内閣制モデルかの対立に対応しているのであります。
同じような批判で、小選挙区制では死に票が多く出るというのがあります。しかし、死に票が国政に反映されない票という意味でなら、そのような死に票は、選挙制度のいかんにかかわらず、不可避であります。一つのプログラムしか国政に反映させることはできない、少数派のプログラムは当面国政には反映されないというのがデモクラシーの論理のはずであるからであります。
もっとも、死に票が議会の議席に反映されない票だという意味であるならば、全くそのとおりだと思います。小選挙区制は、国民の多様な意思を忠実に議席に反映させることを目的にした制度ではありませんから、それは当然のことであります。
もっとも、私自身は小選挙区制で当選に貢献しなかった票が死に票だという理解には少なからず疑問を持ちます。その票の重みというのは、当選者も含めて、ここにいらっしゃる議員の方々を含めて、無言の影響力を持ち続けているのではないかと考えているからであります。当選された方も、自分の競争相手に投じられた票の大きさ、性格、意味、これは絶えずプレッシャーとなって作用し続けているのではないかと思っております。
次に、政党の役割との関連でありますが、政治が国民のためのものとすれば、政党の役割は、政治が国民のために、国民の意思に従ってなされることを手助けするということにあると言えると思います。
どのように助けるかといえば、まず第一に、国民にとって最もよいと考える政策プログラムを提案することであります。それが国民が政策選択を行う助けになるわけであります。さまざまな政党がさまざまなプログラムを提案すれば、国民はその中から自己の支持する政策を選択する可能性が広がります。
しかし、国民にみずから多数派形成を行うことを求めるということであれば、政党は、自己の政策を提案しただけでは務めを果たしたということにはなりません。国民の支持のぐあいを見ながら、多数の国民が支持し得るような政策に修正していく必要があります。この国民と政党との意見のフィードバックを通じて、国民の多数が支持する政策プログラムを見つけ出し形成していくということになります。
その過程で、政党は、他の政党と話し合い、連携し、共同の政策を形成して国民に再提案するということも必要になるはずであります。政党が多数の支持を受ける可能性もない政策にしがみついているとしたならば、国民内閣制モデルからは失格だと言わざるを得ません。媒介内閣制モデルの場合は、政党間の話し合い、妥協というのは、選挙の終わった後に議員が責任を持って行う、議員に任せてくださいという論理に立ちますが、国民内閣制はそれとは異なる論理に立っているわけであります。
これに関連して、政党に二つのタイプを区別するのがわかりやすいかもしれません。
政党とは、一定の理念を掲げその実現を目指して運動する団体でありますが、その理念を詳細な理論体系につくり上げ、それに厳格にコミットしているいわゆるイデオロギー政党と、理念を緩やかにとらえ、国民の現実の要求に柔軟に対応するプラグマティズム政党に区別できます。
政党が自己のイデオロギーの純粋性に重きを置き過ぎますと、国民の多数派形成に協力し、それを手助けするということが困難になりますから、国民内閣制のためにはプラグマティズム政党が好ましいということになります。
プラグマティズム政党が国民の多数の支持を獲得し得る政策を探索する真摯な努力をするならば、政策プログラムは基本的には二つに収れんしていくのではないでしょうか。場合によっては、どうしても妥協し得ない争点が複数あって、プログラムが三つ以上並立するということも起こり得ないではありませんが、国民の多数派の支持を獲得し得る政策ということを考えれば、通常は、おのずと二つに収れんする傾向を持ち、二つの間の選択という形になるように私は考えております。
また、小選挙区制においては、選挙で勝つためには選挙区の多数が支持してくれる政策と候補者が必要でありましょう。選挙戦略としても、政党は協力し合う方向に動くことになるのではないでしょうか。
重要なことは、政党が自己保全の発想を捨てて、国民のための政治に何が必要か、どう貢献できるかを考えることではないでしょうか。しかし、現実にはこれが非常に困難なのかもしれません。それだけに、国民の側から見れば、政党や候補者が自己保全的行動をとれば不利になるような制度設計が必要だということであり、小選挙区制の一つのメリットはそこにあるのではないかと私は考えております。
次に、国民の心構えということでありますが、以上お話ししたところから、国民内閣制的運用を行うためには、政党も議員の皆様方も国民内閣制の精神を理解して、それに即した思考と行動のパターンを採用していただくことが必要になりますが、同様のことは我々国民にも言えます。
制度というものは、その理念、精神をどう理解して運用するかにより、全く異なったものとなってあらわれます。ですから、議院内閣制を国民内閣制的に運用したいというのであれば、その精神を理解して行動する必要があります。
例えば、国民が小選挙区制で投票するときに、自分の考えに最も近い候補者を探して投票しようとするならば、政党が選挙協力で候補者を一本化してきたというような場合、恐らく自分の投票したいような候補者がだれもいないと言って嘆く国民が多く出ることになるに違いありませんし、また投票したい候補者がいても、今度はその候補者は当選する見込みがなくて、私の声が反映されないとか、死に票がふえると文句を言うことになるわけであります。
国民が選挙で自己に最も近い考えの候補者に投票し、後は代表者に任せたいというのであるならば、国民内閣制ではなくて媒介内閣制モデルを選択し、それを主張していくべきであります。それとは異なる論理に立つ小選挙区制を採用した以上は、それに合った行動パターンをとらなければ制度はうまく機能しないということになるわけであります。
さて、以上の議論は日本国憲法を前提にして、その運用をどうするかというものでありました。私は、国民内閣制的運用をするのに憲法の改正は必要ないと考えております。日本国憲法は国民内閣制的運用も媒介内閣制的運用も許容しております。しかし、憲法の条文の中には、多少気になるものもないではありません。それを最後に一つ指摘して終わりにしたいと思います。
それは、議院内閣制と参議院の関係という問題であります。
議院内閣制の核心的メカニズムは、内閣と衆議院の間に設定されております。参議院には内閣を不信任するという権限は与えられておりません。しかし、参議院は法律の制定につき非常に強い権限を与えられております。これによって事実上内閣の責任を問うことが可能になります。内閣は、自己の政策を遂行するために法律がどうしても必要であります。しかし、法律を制定するには、原則として参議院の同意が必要であります。もし衆議院で与党が三分の二の多数を占めていれば、参議院で少数派になっても法律を制定することが可能になりますが、現状では、与党が参議院で少数派になるというような状況のときに、衆議院では三分の二を確保するというようなことはちょっと考えることはできません。したがって、内閣は、衆参両院で多数を形成し得るような政党間の提携を基礎にしなければ存立が困難だということになっております。
逆に言えば、参議院は不信任権はないが、内閣の重要法案を否決するという形で事実上不信任を行うことが可能であり、それに対して、内閣は参議院の解散権を持っておりません。こういう不均衡が生ずることになります。つまり、日本の議院内閣制は参議院との関係で機能不全を起こす危険性を持っているわけであります。
そこで、運用上、参議院が議院内閣制の正常な機能を阻害しないようにするための方法を考えていく必要が出てまいります。
直近の衆議院選挙で国民の多数の支持を得た政策を遂行するための法律が提案されたときに、参議院がそれを否決するとすれば、これは、アクションに対するコントロールというよりは、アクション自体を否定するものではないでしょうか。ですから、参議院がこのような行為に出ることは自制すべきではないかと考えます。自制するという慣行を形成していく必要があるだろうと思います。そのためには、参議院を真に良識の府、理性の府となるように政党規律を緩和するなどの措置が必要でありましょう。ただし、自制することと引きかえに、別途コントロールの手段は与えなければならないと思います。
要は、議院内閣制を民主的に機能させるには何が必要かということを良識に従ってプラグマティックに考えていけば、必要なルールは、ちょうどイギリスの憲法習律と言われるものが慣習的に形成されていったように、日本においても形成していくことができるのではないかと考えております。その意味で、議員の皆様方に大いに期待しているところであります。
以上で、とりあえず私の話は終わらせていただきたいと思います。(拍手)