2002-05-23
衆議院
松井茂記
憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会
松井茂記の発言 (憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会)
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○松井参考人 大阪大学の松井と申します。お呼びいただきまして、どうもありがとうございます。
私は、大学で日本国憲法を教えておりますが、比較の対象といたしましてアメリカの憲法を勉強してまいりまして、特に、アメリカの最高裁判所が法律の合憲性等を審査する権限を有しておりますが、この権限についてアメリカの建国以来闘わされてきました議論をずっと研究してまいりまして、それとの比較におきまして、日本の最高裁判所の同様の権限についていろいろと発言をさせていただいてまいりました。きょうは、そのような立場に基づきまして、少し意見を述べさせていただきたいと思います。
日本国憲法の第八十一条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と定めております。この規定は、裁判所に司法審査の権限を付与したものと理解をされております。
この司法審査という言葉ではなく、法令審査権とか憲法裁判権とか、いろいろな言葉が用いられますが、実は、この第八十一条の権限をどのように理解するのかによって、若干、この権限をどう呼ぶのか異なってまいります。後でお話しさせていただきますように、私は、この第八十一条の権限は、アメリカの最高裁判所が行使してきた権限、つまり司法審査の権限と同じものだと理解しておりますので、八十一条は司法審査の権限を最高裁判所に付与したものだと理解しております。
これに関連いたしまして、きょうお話しさせていただきたいのは、この権限はどのような性質の権限なのかという点と、最高裁判所はこの権限を適切に行使してきたかという点と、この権限を行使するに当たって最高裁判所にふさわしい役割は何なのかという点と、そして最後に、憲法改正の必要性はあるのか、もしあるとすればどう改正すべきなのかという点の四点でございます。
まず第一点でございますが、この権限は果たしてどのような性質の権限かという点に関しまして、日本の最高裁判所は非常に早くから、この規定は合衆国最高裁判所がマーベリー対マディソン事件判決で認めた司法審査の権限を明文の規定で確認したものだと理解してまいりました。
レジュメに最高裁判所の判決を引いておきましたが、
現今通常一般には、最高裁判所の違憲審査権は、憲法第八十一条によって定められていると説かれるが、一層根本的な考方からすれば、よしやかかる規定がなくとも、第九十八条の最高法規の規定又は第七十六条若しくは第九十九条の裁判官の憲法遵守義務の規定から、違憲審査権は十分に抽出され得るのである。米国憲法においては、前記第八十一条に該当すべき規定は全然存在しないのであるが、最高法規の規定と裁判官の憲法遵守義務から、一八〇三年のマーベリー対マディソン事件の判決以来幾多の判例をもって違憲審査権は解釈上確立された。日本国憲法第八十一条は、米国憲法の解釈として樹立せられた違憲審査権を、明文をもって規定したという点において特徴を有するのである。
と述べております。
そして、一般にこの趣旨は、いわゆる警察予備隊違憲訴訟の判決で確立されたと理解をされております。ここで最高裁判所は、
わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。我が裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予想して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。けだし最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲内において行使されるものであり、この点においては最高裁判所と下級裁判所との間に異るところはないのである。
このように述べております。
この解釈に従いますと、憲法第八十一条の権限は司法権に内在する権限であって、裁判所は、最高裁判所と下級裁判所とを問わず、司法権行使に付随して当然この権限を行使することができる。しかし、逆に、司法権行使の要件を満たすような事件ないし争訟がなければ裁判所はこの司法審査権を行使することはできない、こういう結論になるはずでございます。それゆえ、この権限はしばしば付随的違憲審査権であるとも述べられているとおりでございます。
ただ、この点につきまして、警察予備隊違憲訴訟判決が、「わが裁判所が現行の制度上与えられているのは」というふうに述べておりますため、この「現行の制度上」というのが、法律がないということを指すと解釈する学説も一部にございまして、この学説によりますと、警察予備隊違憲訴訟判決は、必ずしも先ほど述べたような趣旨を明確にとったものとは言いがたいと解釈されておられます。
ただし、この警察予備隊違憲訴訟の判決だけを見ると確かにそのような若干不明確な点がございますが、さきの判決と照らし合わせて解釈いたしますと、最高裁判所としましては、先ほども述べましたように、憲法上、司法権に付随して司法審査権を行使することができるという考え方を早くからとっていたと考えることができるのではないかと思います。学説の多くは、この最高裁判所の解釈を支持してまいりました。
これに対しまして、学説の中には有力な反対説もございます。それによりますと、憲法第八十一条は、通常の司法権に内在する司法審査権を超えて、特別な憲法裁判権を最高裁判所に付与しているとされます。反対説のAというふうに呼んでおきたいと思いますが、この立場は、ドイツにおきまして連邦憲法裁判所がございますが、その連邦憲法裁判所の権限を念頭に置きまして、事件や争訟が存在しなくても、最高裁判所は法律、命令等の憲法適合性を審査、決定できるというふうに主張されるわけです。
ただし、同じように、憲法第八十一条は、通常の司法権に内在する司法審査権を超えて、特別な憲法裁判権を最高裁判所に付与しているとしながらも、現状ではこのような憲法裁判権を行使する手続を定める法律が制定されていないため、最高裁判所が実際にこの権限を行使することはできないという立場もございます。反対説Bと私は呼んでおきたいと思います。
この立場は、結果的に言いますと、憲法第八十一条は、その権限の性質について特定の立場をとっておらず、国会が裁量によって最高裁判所に憲法裁判権を付与することは妨げられないという立場、反対説のCと呼んでおきたいと思いますが、これと変わらないのではないかと思います。
この後者二つの立場によりますと、国会が例えば憲法裁判権を行使する手続を定める憲法訴訟法というような法律を制定すれば、現行の日本国憲法のもとでも、最高裁判所はそのような憲法裁判権を行使することができるということになります。
私はどのように考えるのかという点でございますが、やはり憲法第七十六条は、最高裁判所を含む裁判所に司法権しか付与しておりません。そして、言われるような司法権行使の枠を超える憲法裁判というものについて、憲法上、手続等何ら規定は置かれておりません。したがいまして、私は、最高裁判所の立場と同様、憲法第八十一条は、合衆国最高裁判所が行使してまいりました司法審査の権限を明文の規定で確認したものだと解釈すべきではないかというふうに考えております。
この解釈によりますと、最高裁判所を含めすべての裁判所は司法権行使に付随して司法審査権を行使できますが、逆に、司法権行使の要件を満たすような事件や争訟がなければ司法審査権を行使することはできないということになります。そして、裁判所は、司法権を行使する際に付随して、つまり具体的事件の解決に付随いたしまして、その具体的事件に適用された限りで法律の憲法適合性を審査、判断することになります。それゆえ、ドイツの連邦憲法裁判所のように、提訴に基づき、事件、争訟がなくても法律の憲法適合性を審査し、しかも具体的事件を離れておよそ法律の憲法適合性を審査、判断するということはできないと考えております。
ただし、一般にはアメリカの司法審査制度とドイツの憲法裁判制度というものが対比されるわけでございますが、実際には両者の間の違いはそれほど大きくはございません。しばしば憲法学者が、合一化の傾向があるというふうに指摘しておりますように、両者の間は極めて接近しております。
それはどうしてかと申しますと、アメリカにおきましても、裁判所は司法権行使に付随してしか司法審査権を行使することができないと考えられておりますが、連邦議会や州の議会が法律を制定したときには、国民がその憲法適合性を争う道がかなり広く認められております。そのため、アメリカにおきましては、法律ができますとほとんど常に裁判所がその法律の憲法適合性を審査することが可能になっております。
また、アメリカにおきましても、裁判所は、当該具体的事件に適用された限りで法律の憲法適合性について審査、判断するんだと言われておりますが、実際には、場合によっては、法律そのものの憲法適合性を審査し、そして法律そのものが憲法違反だと判断することもしばしばございます。
したがいまして、アメリカはかなりドイツに近いというふうに言うこともできます。
さて、二番目の点でございますが、最高裁判所は、果たしてこの権限を適切に行使してきたのかという点です。
この点、日本国憲法制定後、この半世紀ぐらいの間に、最高裁判所はこの司法審査権を極めて消極的に行使してきたと言うことができるのではないかと思います。最高裁判所が法律、命令等を違憲と判断した事例は極めて少のうございます。
この点につきましては、既に衆議院のこの会合におきましても最高裁判所の方から御説明があったというふうに承知しておりますので、それぞれの事件について詳しくお話をするのは避けさせていただきたいと思いますが、大まかに申しますと、平等権に関して言いますと、刑法の尊属殺の規定を違憲だと判断いたしました尊属殺事件判決と、それから、公職選挙法の議員定数の不均衡が著しく平等権に違反していると判断いたしました二件の議員定数不均衡訴訟判決。
それから、政教分離原則について申しますと、愛媛県知事が靖国神社に参拝して玉ぐし料等を公金で支出したことが政教分離原則違反だと判断いたしました愛媛玉ぐし料訴訟判決。
それから、経済的自由に関して言いますと、薬事法の定めておりました薬局開設の距離制限規定を違憲だと判断いたしました薬事法訴訟判決と、森林法にありました共有林の分割制限規定を憲法違反だと判断いたしました森林法訴訟判決。
それから、裁判を受ける権利に関して言いますと、金銭債務臨時調停法に基づく強制調停の制度を違憲だと判決をしたもの。
それから、適正手続の権利に関して言いますと、第三者所有物の没収を、告知、弁解の機会を与えることなく没収を命じている点で違憲だとした判決等、こういったものが重立ったものでございます。
これ以外にも、訴訟手続上の権利につきまして憲法違反の判決が幾つかございますが、実際に法律が違憲だと判決をされた事例は、尊属殺の事件、二件の議員定数不均衡訴訟判決、薬事法判決、森林法判決の五件でございまして、それ以外は、法律に基づく具体的な行為、あるいは公金の支出等の具体的な行為を違憲だと判断したにとどまります。したがいまして、この半世紀の間に、法律を違憲だと判決をした例は、恐らく五件だというふうに言ってもいいのではないかと思います。
果たして最高裁判所は、法律、命令等の憲法適合性をきちんと審査し、司法審査権を適切に行使してきたのかと問われますと、最高裁判所は、当然その権限を適切に行使してきたと答えております。したがいまして、最高裁判所の立場では、きちんとその権限を行使してきたということになります。しかし、憲法の学説の多くは、最高裁判所は余りにも消極的ではないかと批判的でありまして、同じように批判的な考え方を持つ市民の数は少なくないと考えております。
では、どこに問題があったのかという点なんですが、第一点はやはり、先ほど触れましたように、違憲判決が非常に少ない。どうも最高裁判所は、法律、命令等の合憲性が問題となったときに、しっかりと審査をしていないのではないかという点が批判の対象になっているわけです。
それからもう一点、この点も重要な点であると思いますが、そもそも最高裁判所が憲法事件を審査することが極めてまれでございまして、逆に言えば、国民の側が法律、命令等の憲法適合性を争うことが著しく困難だと言うことができます。
つまり、日本では、国会が法律を制定しても、国民はその憲法適合性を争う道がございません。国民がその法律に違反をして逮捕、起訴され、刑事事件になり、法律の違憲性を主張するか、あるいは、その法律が具体的に行政機関によって適用され、その処分の適法性を争う行政訴訟を提起するか、あるいは、法律等によりまして権利を侵害されて、国民が国家賠償を求める国家賠償訴訟を提起するか、こういった形でないと法律の合憲性等を争うことができないわけです。
しかし、現実には、刑事事件におきまして被告人が法律の違憲性を主張しましても、裁判所は極めて冷たく、また行政訴訟の提起は極めて困難であります。しかも、実際にはその数は極めて少ないわけです。また、国家賠償を得るためには、国家賠償法上違法な行為であったと認められないと賠償は認められませんし、公務員に故意、過失がないと賠償は認められません。しかも、たとえ賠償が認められたといたしましても、賠償というのは金銭的な償いですので、実効的な救済とは言えないわけでございます。
この点、日本と同じく付随的違憲審査制をとっておりますアメリカでは、先ほども触れましたように、議会が法律を制定したとき、その法律が適用されて不利益を受けるおそれのある人は、その法律の違憲性の確認と執行の差しとめを求めて当然訴訟を提起することができると考えられておりまして、裁判所はそのような訴訟で法律の憲法適合性について司法審査権を行使しております。
したがいまして、日本の司法審査制度は、アメリカ型と言われながら、実はそのアメリカから大きく隔たっているのが現状でございます。
最高裁判所がその権限を適切に行使してきたのかどうか、その評価は、最高裁判所が日本国憲法のもとでどのような役割を果たすことが期待されているのかについての考え方によって異なり得ます。したがいまして、先ほどの問いに答えるためには、その前提といたしまして、最高裁判所にふさわしい役割は何かということを考える必要がございます。この点が三番目の点でございますが、最高裁判所はどのような役割を果たすべきか、みずからの哲学と申しますか、立場を明確にはしておりません。
これに対しまして、先ほど触れましたように、学説の多くは、最高裁判所の立場を批判してまいりましたが、従来は、必ずしも最高裁判所にふさわしい役割が何であるのかということを明確にすることなく議論してきたように思います。
基本的人権は、憲法に先立って存在する自然権でありまして、この人権を守るということが最高裁判所の役割だととらえられてまいりました。最高裁判所は、しばしば憲法の番人だとも呼ばれております。そして、多数者あるいは多数決の手続によりますと少数者の権利が侵害されるおそれがあるので、多数者の決定を常に監視する必要性があるというふうに言われ、いわば人権は多ければ多いほどよく、裁判所の役割は広ければ広いほどいいというような発想方法が暗黙のうちにとられていたのではないかと思います。
その根底には、民主主義よりも自由というものを非常に重視する考え方があったのではないかと思います。もちろん、後でも触れさせていただきますように、自由が保護されることが民主主義だという考え方に立てば、両者の間に矛盾はないということになりますが、従来の憲法学の支配的な考え方はやはり自由中心の考え方であったというふうに言うことができると思います。この考え方によりますと、最高裁判所の違憲判決が非常に少ないということは、人権保障の役割を怠ってきたことだとされまして、最高裁判所は司法審査権を十分適切には行使してこなかったという批判が出てくるわけでございます。
しかし、その後、このような漠然とした批判にかわりまして、アメリカにおきます司法審査をめぐるさまざまな議論を契機にいたしまして、より緻密な憲法理論を展開する動きが見られるようになってまいりました。
これがいわゆる二重の基準論と呼ばれる考え方でございまして、それによりますと、民主主義原理のもとで、国会は国民の選挙によって選出された全国民の代表によって構成されておりますので、裁判所は、原則としてその判断を尊重し、国会の制定した法律は憲法に適合すると推定をいたしまして、それが合理的かどうかを審査すべきであると考えます。いわゆる合憲性の推定と言われるものでございます。
ただ、一定の権利につきましては、それは民主政過程に不可欠な権利であるため、その権利を国会にゆだねておくことができない、それゆえ、裁判所がそれを擁護する最終的な責任を持っているはずだと考えられます。そこで、このような権利については裁判所の厳格な審査が正当化されると考えられました。
この立場におきましては、裁判所が積極的に司法審査権を行使できるのは、基本的人権すべてではなく、そのうちの一部に限られるということになります。特に、表現の自由等の民主政過程に不可欠な権利については、裁判所は積極的に司法審査権を行使すべきであるが、それ以外については国会の判断を尊重すべきだ、こういう考え方になるわけでございます。
ただ、このように、この学説は、民主政過程に不可欠な権利についてだけ固有の裁判所の役割を認めたわけでございますが、実際には、民主政過程に不可欠な権利とは言いがたいのではないかと思われる経済的自由につきましても、最高裁判所はある程度厳しい審査をすべきだと考えております。また、人格的自律ないし人格的生存に不可欠な権利だといたしまして、生存権等につきましてもやや厳格な審査が正当化されると考えてまいりました。その結果、憲法の保障する基本的人権につきまして、裁判所の司法審査権はかなり積極的に行使することができるという結論が結果的に擁護されたのではないかというふうに思います。
この点、私は、現在の憲法学の支配的な考え方とは若干異なった意見を持っておりまして、確かに、憲法の保障している基本的人権のほとんどは国民が政治参加するために必要不可欠な権利でありますので、これらの権利については、民主政過程に不可欠な権利であるとしてそれを保護することは裁判所の固有の権限だと考えるべきではないかと思っております。また、それが裁判所にふさわしい役割でもあると考えております。
しかし、この立場を貫きますと、逆に、このような意味で民主政過程に不可欠とは言えない権利については国会の判断を尊重し、緩やかな審査をすることが妥当なのではないかと思っております。国会の判断あるいは多数者の判断を常に裁判所が監視すべきだという考え方は、私は妥当ではないと考えております。と申しますのは、国民がもし選択を誤り、国会が国民の利益を害するような結果になった場合には、国民は次の選挙でその意思を示すことができるはずであり、また示すべきではないかと考えるからです。
民主主義の原則のもとでは、国民の権利を守るということも国民あるいは国民の代表者の責任でありまして、裁判所が常にこのような役割を担うべきだと考えるのは、裁判所に余りにも多くのものを期待し過ぎなのではないかと思います。また、裁判所にそのような役割を期待することは、裁判所にかなり困難な課題を負わすことになり、実際、期待可能以上のものを期待することによって、逆に裁判所が身動きできなくなってしまうのではないかというふうに考えるからです。
私は、このような考え方をプロセス的な司法審査理論と呼んでおります。この考え方では、裁判所の役割は、民主主義プロセスの擁護者であって、それに尽きると考えるべきではないかと考えております。この立場の前提は、現在の支配的な憲法学の考え方は、憲法は実体的な目標ないし価値を定めたものだと考えておりますが、それとは異なり、憲法というのは、あくまで統治の手続を定めた手続的ないしプロセス的な文書だと考えるプロセス的な憲法観でございます。
現在の支配的な考え方は、憲法の目的は人権の保障で、民主主義を含む統治の原理はすべて人権保障のための手段だと考えておりますが、私は、統治の原理と人権の保障はコインの裏表の関係で、表裏一体ではないかと考えております。基本的人権というのは、政治が手を出してはならない実体的な価値だと考えるのが支配的な考え方で、私はこれを実体的な価値の基本的人権観と呼んでおりますが、これに対し、私は、憲法の保障している人権というのは、守らなければいけない手続的なルールだと考えるべきではないかと思っております。これを私はプロセス的な基本的人権観と呼んでおります。
そこから、司法審査の目的は、実体的価値として理解された基本的人権の価値の実現と見る支配的な考え方、これを私は実体的価値の司法審査理論と呼んでおりますが、これと異なり、司法審査はあくまで憲法の定めている手続の保障だというプロセス的な司法審査理論が導かれるのではないかと考えているわけです。
もちろん、このような考え方の違いには、日本国憲法が前提としている個人あるいは政治のシステムについての理解の違いがございまして、支配的な考え方が前提としている個人の考え方というのは、私は、好きなことをさせておいてくれ、ほっておいてくれと主張する個人ではないかと考えておりますが、憲法は実はそうではなく、他の人とともに政治共同体を組織し、互いに他を尊重しながら一緒にやっていくことを求める市民としての個人ではないかと考えております。
そして、憲法の目標あるいは目的は人権の保障だと考えるリベラリズムの考え方とは異なりまして、政治に参加をする市民が、政治の中でさまざまな意見を調整し、望ましい政治のあり方を決定していく、その政治のプロセスを憲法は保障したものだととらえ、そのプロセスをプリュラリズム、いわゆる多元主義と理解すべきではないのかと考えております。したがいまして、この政治のプロセスを超えた問題は、憲法の問題ではなく政治の問題だと考えるべきではないかと考えております。
したがいまして、私は、憲法学の支配的な考え方よりも裁判所にふさわしい役割をやや限定的にとらえておりまして、余りたくさんのことを裁判所に期待するよりか、裁判所にふさわしいことだけをしっかりと裁判所にしてもらいたいという考え方をとっております。
この立場によりますと、最高裁判所は基本的に、経済的事由に関する事例では国会の判断を尊重すべきであったと思われます。したがいまして、国会の判断を幾つかの判決で覆しておりますけれども、このような事例には疑問があるのではないかと思っております。他方、逆に、表現の自由など市民の政治参加に不可欠な権利につきましては、このような権利を擁護することが裁判所の固有の役割だと私は考えておりますので、国会の判断を裁判所がしっかりと見きわめることなくこれらの権利の制約を非常に簡単に認めてきたことは、やはり疑問なのではないかと思っております。
したがいまして、私も、最高裁判所は適切に司法審査権を行使してきたとは言いがたいと考えております。
また、先ほども触れましたように、日本の司法審査制度がアメリカ型だと言われながらも、司法権行使の要件を、アメリカとは異なり、非常に狭く理解いたしまして、事実上法律、命令等の憲法適合性を争う道が閉ざされてまいりましたが、このような理解も妥当ではなかったのではないかと考えております。特に、日本国憲法は第三十二条で国民に裁判を受ける権利を保障しておりますが、現在のような運用の仕方は、国民の裁判を受ける権利を無意味にするものであって、極めて疑問だと言わないといけないのではないかと考えております。
では最後に、憲法改正の必要性はあるか、あるとすればどのように改正すべきかという点でございますが、このような現状を打開するために、憲法裁判所の構想がいろいろな形で打ち出されております。例えば、伊藤正己元最高裁判事もそのような提言をしておりますし、読売新聞社等の憲法改正案などでも憲法裁判所の構想が出されております。
このような構想につきましては、先ほどの最高裁判所の立場に関する解釈を前提としますと、これは現行の憲法の趣旨に反することになりますので、このような憲法裁判所の設置には憲法の改正が必要だと私は考えております。
では、そのような改正は必要なのか、あるいは望ましいのかどうかという点でございますが、私は、このような憲法裁判所の設置が問題の解決となるかどうか疑問ではないかと考えております。
既に諸先生方も御承知のように、伊藤正己元最高裁判所判事は、日本の最高裁判所が司法審査権行使に消極的な理由につきましていろいろな要素を指摘しておられます。裁判官の中に和の尊重の意識が存在して、なかなか個々の裁判官の意見を言うことが難しいとか、あるいは、他の政府の機関との間でも正面的な対立を避けたいという和の気持ちがあることとか、あるいは、最高裁判所が非常に多くの事件を抱えていて、その中で憲法事件について十分考える余裕がないこととか、あるいは、大法廷と小法廷の区別によって憲法判断が非常に難しくなっている、等々の要素を指摘しているところでございます。
経験に裏づけられた指摘として非常に重く受けとめるべき必要性があるのではないかと思うのですが、伊藤正己元最高裁判所判事が提言をされる解決策としての憲法裁判所の設置がこれらの問題点の解決につながるかどうか疑問ではないかと思います。また、憲法裁判所を設置すれば、果たしてその憲法裁判所が急に法律、命令等の合憲性を厳しく審査するようになるだろうかと考えますと、そのように考える理由はどうもないのではないかと思います。
そして、事件、争訟性の要件があるから裁判所が法律、命令等の憲法適合性を審査することが非常に困難なのだと一般に言われますが、実際には、先ほど申しましたように、事件、争訟性の要件そのものは極めて柔軟でありまして、アメリカにおきましては、非常に簡単に法律、命令等の憲法適合性が争われております。したがいまして、問題点はどこか別のところにあるのではないかという気がいたします。しかも、事件、争訟性の要件を満たさないと司法権を行使することができないという考え方にはそれなりの理由がございまして、それをすべて否定してしまうことが妥当かどうか、疑問ではないかというふうに思っております。
ではどのようにすればいいのか、私もまだ決まったこれという意見を持っているわけではありませんが、当面のところ必要なのは、憲法改正ではなく、意識改革と制度改革ではないかというふうに私は考えております。
先ほども触れましたように、裁判所の司法権は憲法第七十六条によって憲法上付与されたものであって、法律によって付与されたものではありません。したがいまして、裁判所は、その憲法上の固有の司法権を行使して、もっと積極的に司法権を行使することができるはずでございます。事件、争訟性の要件もアメリカでは極めて緩やかに解釈されておりますので、日本でももっと柔軟に解釈をすれば、国会が法律を制定すれば、それが適用されて不利益を受けるおそれのある人は、だれでも法律の違憲性の確認とその執行の差しとめを求める訴訟を当然提起することができるんだと考えることが可能ではないかと思いますし、また、そのような解釈の方が日本国憲法に適合的なのではないかと思います。
その上で、国民の政治参加に不可欠な権利につきましては、裁判所が憲法上固有の権限と責任を負っているのだということをしっかりと自覚をしていただければ、もっと積極的に司法審査権を行使していただけるのではないかと思います。
ただ、そのためにはやはり、いろいろな形で制度改革が必要なのではないかと考えております。最高裁判所の裁判官の任命等につきましては、現在実質的に、下級裁判所や検察官、弁護士等の名誉職的な最終ポスト的な扱いがされておりますが、このような人事を根本的に改めるとともに、もっと若い人を積極的に登用する等の新たな改革が必要になるのではないかというふうに思います。
また、現状では訴訟の提起が極めて困難であって、憲法事件を争うことも困難な状況でございますので、訴訟の上でも憲法事件を争うことができるように、さまざまな形で制度を改革することは十分考えてもよいのではないかと思っております。
したがいまして、私は、基本的には、憲法裁判所の設置ではなく、憲法の付与している司法権あるいは司法審査権についての考え方を改めること、そして、もっと裁判所が司法権あるいは司法審査権を行使しやすいようにする制度改革、そして、そのような制度改革を実質的に意味のあるものとするためには、裁判官の増員や訴訟手続の改正による訴訟の提起の要件の緩和化、そしてさらに、憲法訴訟を支えることができるような大幅な弁護士の増員等、根本的な司法制度改革なのではないかというふうに考えております。
以上、簡単ではございますが、現行の憲法第八十一条の定めております司法審査の権限について、私の考えているところを述べさせていただきました。御拝聴ありがとうございます。(拍手)