憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会

2002-05-23 衆議院 全87発言

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会議録情報#0
平成十四年五月二十三日(木曜日)
    午前九時開議
 出席小委員
   小委員長 高市 早苗君
      伊藤 達也君    奥野 誠亮君
      谷垣 禎一君    中曽根康弘君
      中山 正暉君    額賀福志郎君
      島   聡君    仙谷 由人君
      伴野  豊君    松沢 成文君
      斉藤 鉄夫君    藤島 正之君
      山口 富男君    金子 哲夫君
      井上 喜一君
    …………………………………
   憲法調査会会長代理    中野 寛成君
   参考人
   (大阪大学大学院法学研究
   科教授)         松井 茂記君
   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君
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五月二十三日
 小委員土井たか子君四月二十五日委員辞任につき、その補欠として金子哲夫君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員斉藤鉄夫君及び山口富男君同月十六日委員辞任につき、その補欠として斉藤鉄夫君及び山口富男君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員金子哲夫君同日小委員辞任につき、その補欠として土井たか子君が会長の指名で小委員に選任された。
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本日の会議に付した案件
 政治の基本機構のあり方に関する件

     ————◇—————
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高市早苗#1
○高市小委員長 これより会議を開きます。
 政治の基本機構のあり方に関する件について調査を進めます。
 本日、参考人として大阪大学大学院法学研究科教授松井茂記先生に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、大変お忙しい中、遠路お出ましいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきまして、私たち調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、松井参考人、お願いいたします。
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松井茂記#2
○松井参考人 大阪大学の松井と申します。お呼びいただきまして、どうもありがとうございます。
 私は、大学で日本国憲法を教えておりますが、比較の対象といたしましてアメリカの憲法を勉強してまいりまして、特に、アメリカの最高裁判所が法律の合憲性等を審査する権限を有しておりますが、この権限についてアメリカの建国以来闘わされてきました議論をずっと研究してまいりまして、それとの比較におきまして、日本の最高裁判所の同様の権限についていろいろと発言をさせていただいてまいりました。きょうは、そのような立場に基づきまして、少し意見を述べさせていただきたいと思います。
 日本国憲法の第八十一条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と定めております。この規定は、裁判所に司法審査の権限を付与したものと理解をされております。
 この司法審査という言葉ではなく、法令審査権とか憲法裁判権とか、いろいろな言葉が用いられますが、実は、この第八十一条の権限をどのように理解するのかによって、若干、この権限をどう呼ぶのか異なってまいります。後でお話しさせていただきますように、私は、この第八十一条の権限は、アメリカの最高裁判所が行使してきた権限、つまり司法審査の権限と同じものだと理解しておりますので、八十一条は司法審査の権限を最高裁判所に付与したものだと理解しております。
 これに関連いたしまして、きょうお話しさせていただきたいのは、この権限はどのような性質の権限なのかという点と、最高裁判所はこの権限を適切に行使してきたかという点と、この権限を行使するに当たって最高裁判所にふさわしい役割は何なのかという点と、そして最後に、憲法改正の必要性はあるのか、もしあるとすればどう改正すべきなのかという点の四点でございます。
 まず第一点でございますが、この権限は果たしてどのような性質の権限かという点に関しまして、日本の最高裁判所は非常に早くから、この規定は合衆国最高裁判所がマーベリー対マディソン事件判決で認めた司法審査の権限を明文の規定で確認したものだと理解してまいりました。
 レジュメに最高裁判所の判決を引いておきましたが、
 現今通常一般には、最高裁判所の違憲審査権は、憲法第八十一条によって定められていると説かれるが、一層根本的な考方からすれば、よしやかかる規定がなくとも、第九十八条の最高法規の規定又は第七十六条若しくは第九十九条の裁判官の憲法遵守義務の規定から、違憲審査権は十分に抽出され得るのである。米国憲法においては、前記第八十一条に該当すべき規定は全然存在しないのであるが、最高法規の規定と裁判官の憲法遵守義務から、一八〇三年のマーベリー対マディソン事件の判決以来幾多の判例をもって違憲審査権は解釈上確立された。日本国憲法第八十一条は、米国憲法の解釈として樹立せられた違憲審査権を、明文をもって規定したという点において特徴を有するのである。
と述べております。
 そして、一般にこの趣旨は、いわゆる警察予備隊違憲訴訟の判決で確立されたと理解をされております。ここで最高裁判所は、
 わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。我が裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予想して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。けだし最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲内において行使されるものであり、この点においては最高裁判所と下級裁判所との間に異るところはないのである。
このように述べております。
 この解釈に従いますと、憲法第八十一条の権限は司法権に内在する権限であって、裁判所は、最高裁判所と下級裁判所とを問わず、司法権行使に付随して当然この権限を行使することができる。しかし、逆に、司法権行使の要件を満たすような事件ないし争訟がなければ裁判所はこの司法審査権を行使することはできない、こういう結論になるはずでございます。それゆえ、この権限はしばしば付随的違憲審査権であるとも述べられているとおりでございます。
 ただ、この点につきまして、警察予備隊違憲訴訟判決が、「わが裁判所が現行の制度上与えられているのは」というふうに述べておりますため、この「現行の制度上」というのが、法律がないということを指すと解釈する学説も一部にございまして、この学説によりますと、警察予備隊違憲訴訟判決は、必ずしも先ほど述べたような趣旨を明確にとったものとは言いがたいと解釈されておられます。
 ただし、この警察予備隊違憲訴訟の判決だけを見ると確かにそのような若干不明確な点がございますが、さきの判決と照らし合わせて解釈いたしますと、最高裁判所としましては、先ほども述べましたように、憲法上、司法権に付随して司法審査権を行使することができるという考え方を早くからとっていたと考えることができるのではないかと思います。学説の多くは、この最高裁判所の解釈を支持してまいりました。
 これに対しまして、学説の中には有力な反対説もございます。それによりますと、憲法第八十一条は、通常の司法権に内在する司法審査権を超えて、特別な憲法裁判権を最高裁判所に付与しているとされます。反対説のAというふうに呼んでおきたいと思いますが、この立場は、ドイツにおきまして連邦憲法裁判所がございますが、その連邦憲法裁判所の権限を念頭に置きまして、事件や争訟が存在しなくても、最高裁判所は法律、命令等の憲法適合性を審査、決定できるというふうに主張されるわけです。
 ただし、同じように、憲法第八十一条は、通常の司法権に内在する司法審査権を超えて、特別な憲法裁判権を最高裁判所に付与しているとしながらも、現状ではこのような憲法裁判権を行使する手続を定める法律が制定されていないため、最高裁判所が実際にこの権限を行使することはできないという立場もございます。反対説Bと私は呼んでおきたいと思います。
 この立場は、結果的に言いますと、憲法第八十一条は、その権限の性質について特定の立場をとっておらず、国会が裁量によって最高裁判所に憲法裁判権を付与することは妨げられないという立場、反対説のCと呼んでおきたいと思いますが、これと変わらないのではないかと思います。
 この後者二つの立場によりますと、国会が例えば憲法裁判権を行使する手続を定める憲法訴訟法というような法律を制定すれば、現行の日本国憲法のもとでも、最高裁判所はそのような憲法裁判権を行使することができるということになります。
 私はどのように考えるのかという点でございますが、やはり憲法第七十六条は、最高裁判所を含む裁判所に司法権しか付与しておりません。そして、言われるような司法権行使の枠を超える憲法裁判というものについて、憲法上、手続等何ら規定は置かれておりません。したがいまして、私は、最高裁判所の立場と同様、憲法第八十一条は、合衆国最高裁判所が行使してまいりました司法審査の権限を明文の規定で確認したものだと解釈すべきではないかというふうに考えております。
 この解釈によりますと、最高裁判所を含めすべての裁判所は司法権行使に付随して司法審査権を行使できますが、逆に、司法権行使の要件を満たすような事件や争訟がなければ司法審査権を行使することはできないということになります。そして、裁判所は、司法権を行使する際に付随して、つまり具体的事件の解決に付随いたしまして、その具体的事件に適用された限りで法律の憲法適合性を審査、判断することになります。それゆえ、ドイツの連邦憲法裁判所のように、提訴に基づき、事件、争訟がなくても法律の憲法適合性を審査し、しかも具体的事件を離れておよそ法律の憲法適合性を審査、判断するということはできないと考えております。
 ただし、一般にはアメリカの司法審査制度とドイツの憲法裁判制度というものが対比されるわけでございますが、実際には両者の間の違いはそれほど大きくはございません。しばしば憲法学者が、合一化の傾向があるというふうに指摘しておりますように、両者の間は極めて接近しております。
 それはどうしてかと申しますと、アメリカにおきましても、裁判所は司法権行使に付随してしか司法審査権を行使することができないと考えられておりますが、連邦議会や州の議会が法律を制定したときには、国民がその憲法適合性を争う道がかなり広く認められております。そのため、アメリカにおきましては、法律ができますとほとんど常に裁判所がその法律の憲法適合性を審査することが可能になっております。
 また、アメリカにおきましても、裁判所は、当該具体的事件に適用された限りで法律の憲法適合性について審査、判断するんだと言われておりますが、実際には、場合によっては、法律そのものの憲法適合性を審査し、そして法律そのものが憲法違反だと判断することもしばしばございます。
 したがいまして、アメリカはかなりドイツに近いというふうに言うこともできます。
 さて、二番目の点でございますが、最高裁判所は、果たしてこの権限を適切に行使してきたのかという点です。
 この点、日本国憲法制定後、この半世紀ぐらいの間に、最高裁判所はこの司法審査権を極めて消極的に行使してきたと言うことができるのではないかと思います。最高裁判所が法律、命令等を違憲と判断した事例は極めて少のうございます。
 この点につきましては、既に衆議院のこの会合におきましても最高裁判所の方から御説明があったというふうに承知しておりますので、それぞれの事件について詳しくお話をするのは避けさせていただきたいと思いますが、大まかに申しますと、平等権に関して言いますと、刑法の尊属殺の規定を違憲だと判断いたしました尊属殺事件判決と、それから、公職選挙法の議員定数の不均衡が著しく平等権に違反していると判断いたしました二件の議員定数不均衡訴訟判決。
 それから、政教分離原則について申しますと、愛媛県知事が靖国神社に参拝して玉ぐし料等を公金で支出したことが政教分離原則違反だと判断いたしました愛媛玉ぐし料訴訟判決。
 それから、経済的自由に関して言いますと、薬事法の定めておりました薬局開設の距離制限規定を違憲だと判断いたしました薬事法訴訟判決と、森林法にありました共有林の分割制限規定を憲法違反だと判断いたしました森林法訴訟判決。
 それから、裁判を受ける権利に関して言いますと、金銭債務臨時調停法に基づく強制調停の制度を違憲だと判決をしたもの。
 それから、適正手続の権利に関して言いますと、第三者所有物の没収を、告知、弁解の機会を与えることなく没収を命じている点で違憲だとした判決等、こういったものが重立ったものでございます。
 これ以外にも、訴訟手続上の権利につきまして憲法違反の判決が幾つかございますが、実際に法律が違憲だと判決をされた事例は、尊属殺の事件、二件の議員定数不均衡訴訟判決、薬事法判決、森林法判決の五件でございまして、それ以外は、法律に基づく具体的な行為、あるいは公金の支出等の具体的な行為を違憲だと判断したにとどまります。したがいまして、この半世紀の間に、法律を違憲だと判決をした例は、恐らく五件だというふうに言ってもいいのではないかと思います。
 果たして最高裁判所は、法律、命令等の憲法適合性をきちんと審査し、司法審査権を適切に行使してきたのかと問われますと、最高裁判所は、当然その権限を適切に行使してきたと答えております。したがいまして、最高裁判所の立場では、きちんとその権限を行使してきたということになります。しかし、憲法の学説の多くは、最高裁判所は余りにも消極的ではないかと批判的でありまして、同じように批判的な考え方を持つ市民の数は少なくないと考えております。
 では、どこに問題があったのかという点なんですが、第一点はやはり、先ほど触れましたように、違憲判決が非常に少ない。どうも最高裁判所は、法律、命令等の合憲性が問題となったときに、しっかりと審査をしていないのではないかという点が批判の対象になっているわけです。
 それからもう一点、この点も重要な点であると思いますが、そもそも最高裁判所が憲法事件を審査することが極めてまれでございまして、逆に言えば、国民の側が法律、命令等の憲法適合性を争うことが著しく困難だと言うことができます。
 つまり、日本では、国会が法律を制定しても、国民はその憲法適合性を争う道がございません。国民がその法律に違反をして逮捕、起訴され、刑事事件になり、法律の違憲性を主張するか、あるいは、その法律が具体的に行政機関によって適用され、その処分の適法性を争う行政訴訟を提起するか、あるいは、法律等によりまして権利を侵害されて、国民が国家賠償を求める国家賠償訴訟を提起するか、こういった形でないと法律の合憲性等を争うことができないわけです。
 しかし、現実には、刑事事件におきまして被告人が法律の違憲性を主張しましても、裁判所は極めて冷たく、また行政訴訟の提起は極めて困難であります。しかも、実際にはその数は極めて少ないわけです。また、国家賠償を得るためには、国家賠償法上違法な行為であったと認められないと賠償は認められませんし、公務員に故意、過失がないと賠償は認められません。しかも、たとえ賠償が認められたといたしましても、賠償というのは金銭的な償いですので、実効的な救済とは言えないわけでございます。
 この点、日本と同じく付随的違憲審査制をとっておりますアメリカでは、先ほども触れましたように、議会が法律を制定したとき、その法律が適用されて不利益を受けるおそれのある人は、その法律の違憲性の確認と執行の差しとめを求めて当然訴訟を提起することができると考えられておりまして、裁判所はそのような訴訟で法律の憲法適合性について司法審査権を行使しております。
 したがいまして、日本の司法審査制度は、アメリカ型と言われながら、実はそのアメリカから大きく隔たっているのが現状でございます。
 最高裁判所がその権限を適切に行使してきたのかどうか、その評価は、最高裁判所が日本国憲法のもとでどのような役割を果たすことが期待されているのかについての考え方によって異なり得ます。したがいまして、先ほどの問いに答えるためには、その前提といたしまして、最高裁判所にふさわしい役割は何かということを考える必要がございます。この点が三番目の点でございますが、最高裁判所はどのような役割を果たすべきか、みずからの哲学と申しますか、立場を明確にはしておりません。
 これに対しまして、先ほど触れましたように、学説の多くは、最高裁判所の立場を批判してまいりましたが、従来は、必ずしも最高裁判所にふさわしい役割が何であるのかということを明確にすることなく議論してきたように思います。
 基本的人権は、憲法に先立って存在する自然権でありまして、この人権を守るということが最高裁判所の役割だととらえられてまいりました。最高裁判所は、しばしば憲法の番人だとも呼ばれております。そして、多数者あるいは多数決の手続によりますと少数者の権利が侵害されるおそれがあるので、多数者の決定を常に監視する必要性があるというふうに言われ、いわば人権は多ければ多いほどよく、裁判所の役割は広ければ広いほどいいというような発想方法が暗黙のうちにとられていたのではないかと思います。
 その根底には、民主主義よりも自由というものを非常に重視する考え方があったのではないかと思います。もちろん、後でも触れさせていただきますように、自由が保護されることが民主主義だという考え方に立てば、両者の間に矛盾はないということになりますが、従来の憲法学の支配的な考え方はやはり自由中心の考え方であったというふうに言うことができると思います。この考え方によりますと、最高裁判所の違憲判決が非常に少ないということは、人権保障の役割を怠ってきたことだとされまして、最高裁判所は司法審査権を十分適切には行使してこなかったという批判が出てくるわけでございます。
 しかし、その後、このような漠然とした批判にかわりまして、アメリカにおきます司法審査をめぐるさまざまな議論を契機にいたしまして、より緻密な憲法理論を展開する動きが見られるようになってまいりました。
 これがいわゆる二重の基準論と呼ばれる考え方でございまして、それによりますと、民主主義原理のもとで、国会は国民の選挙によって選出された全国民の代表によって構成されておりますので、裁判所は、原則としてその判断を尊重し、国会の制定した法律は憲法に適合すると推定をいたしまして、それが合理的かどうかを審査すべきであると考えます。いわゆる合憲性の推定と言われるものでございます。
 ただ、一定の権利につきましては、それは民主政過程に不可欠な権利であるため、その権利を国会にゆだねておくことができない、それゆえ、裁判所がそれを擁護する最終的な責任を持っているはずだと考えられます。そこで、このような権利については裁判所の厳格な審査が正当化されると考えられました。
 この立場におきましては、裁判所が積極的に司法審査権を行使できるのは、基本的人権すべてではなく、そのうちの一部に限られるということになります。特に、表現の自由等の民主政過程に不可欠な権利については、裁判所は積極的に司法審査権を行使すべきであるが、それ以外については国会の判断を尊重すべきだ、こういう考え方になるわけでございます。
 ただ、このように、この学説は、民主政過程に不可欠な権利についてだけ固有の裁判所の役割を認めたわけでございますが、実際には、民主政過程に不可欠な権利とは言いがたいのではないかと思われる経済的自由につきましても、最高裁判所はある程度厳しい審査をすべきだと考えております。また、人格的自律ないし人格的生存に不可欠な権利だといたしまして、生存権等につきましてもやや厳格な審査が正当化されると考えてまいりました。その結果、憲法の保障する基本的人権につきまして、裁判所の司法審査権はかなり積極的に行使することができるという結論が結果的に擁護されたのではないかというふうに思います。
 この点、私は、現在の憲法学の支配的な考え方とは若干異なった意見を持っておりまして、確かに、憲法の保障している基本的人権のほとんどは国民が政治参加するために必要不可欠な権利でありますので、これらの権利については、民主政過程に不可欠な権利であるとしてそれを保護することは裁判所の固有の権限だと考えるべきではないかと思っております。また、それが裁判所にふさわしい役割でもあると考えております。
 しかし、この立場を貫きますと、逆に、このような意味で民主政過程に不可欠とは言えない権利については国会の判断を尊重し、緩やかな審査をすることが妥当なのではないかと思っております。国会の判断あるいは多数者の判断を常に裁判所が監視すべきだという考え方は、私は妥当ではないと考えております。と申しますのは、国民がもし選択を誤り、国会が国民の利益を害するような結果になった場合には、国民は次の選挙でその意思を示すことができるはずであり、また示すべきではないかと考えるからです。
 民主主義の原則のもとでは、国民の権利を守るということも国民あるいは国民の代表者の責任でありまして、裁判所が常にこのような役割を担うべきだと考えるのは、裁判所に余りにも多くのものを期待し過ぎなのではないかと思います。また、裁判所にそのような役割を期待することは、裁判所にかなり困難な課題を負わすことになり、実際、期待可能以上のものを期待することによって、逆に裁判所が身動きできなくなってしまうのではないかというふうに考えるからです。
 私は、このような考え方をプロセス的な司法審査理論と呼んでおります。この考え方では、裁判所の役割は、民主主義プロセスの擁護者であって、それに尽きると考えるべきではないかと考えております。この立場の前提は、現在の支配的な憲法学の考え方は、憲法は実体的な目標ないし価値を定めたものだと考えておりますが、それとは異なり、憲法というのは、あくまで統治の手続を定めた手続的ないしプロセス的な文書だと考えるプロセス的な憲法観でございます。
 現在の支配的な考え方は、憲法の目的は人権の保障で、民主主義を含む統治の原理はすべて人権保障のための手段だと考えておりますが、私は、統治の原理と人権の保障はコインの裏表の関係で、表裏一体ではないかと考えております。基本的人権というのは、政治が手を出してはならない実体的な価値だと考えるのが支配的な考え方で、私はこれを実体的な価値の基本的人権観と呼んでおりますが、これに対し、私は、憲法の保障している人権というのは、守らなければいけない手続的なルールだと考えるべきではないかと思っております。これを私はプロセス的な基本的人権観と呼んでおります。
 そこから、司法審査の目的は、実体的価値として理解された基本的人権の価値の実現と見る支配的な考え方、これを私は実体的価値の司法審査理論と呼んでおりますが、これと異なり、司法審査はあくまで憲法の定めている手続の保障だというプロセス的な司法審査理論が導かれるのではないかと考えているわけです。
 もちろん、このような考え方の違いには、日本国憲法が前提としている個人あるいは政治のシステムについての理解の違いがございまして、支配的な考え方が前提としている個人の考え方というのは、私は、好きなことをさせておいてくれ、ほっておいてくれと主張する個人ではないかと考えておりますが、憲法は実はそうではなく、他の人とともに政治共同体を組織し、互いに他を尊重しながら一緒にやっていくことを求める市民としての個人ではないかと考えております。
 そして、憲法の目標あるいは目的は人権の保障だと考えるリベラリズムの考え方とは異なりまして、政治に参加をする市民が、政治の中でさまざまな意見を調整し、望ましい政治のあり方を決定していく、その政治のプロセスを憲法は保障したものだととらえ、そのプロセスをプリュラリズム、いわゆる多元主義と理解すべきではないのかと考えております。したがいまして、この政治のプロセスを超えた問題は、憲法の問題ではなく政治の問題だと考えるべきではないかと考えております。
 したがいまして、私は、憲法学の支配的な考え方よりも裁判所にふさわしい役割をやや限定的にとらえておりまして、余りたくさんのことを裁判所に期待するよりか、裁判所にふさわしいことだけをしっかりと裁判所にしてもらいたいという考え方をとっております。
 この立場によりますと、最高裁判所は基本的に、経済的事由に関する事例では国会の判断を尊重すべきであったと思われます。したがいまして、国会の判断を幾つかの判決で覆しておりますけれども、このような事例には疑問があるのではないかと思っております。他方、逆に、表現の自由など市民の政治参加に不可欠な権利につきましては、このような権利を擁護することが裁判所の固有の役割だと私は考えておりますので、国会の判断を裁判所がしっかりと見きわめることなくこれらの権利の制約を非常に簡単に認めてきたことは、やはり疑問なのではないかと思っております。
 したがいまして、私も、最高裁判所は適切に司法審査権を行使してきたとは言いがたいと考えております。
 また、先ほども触れましたように、日本の司法審査制度がアメリカ型だと言われながらも、司法権行使の要件を、アメリカとは異なり、非常に狭く理解いたしまして、事実上法律、命令等の憲法適合性を争う道が閉ざされてまいりましたが、このような理解も妥当ではなかったのではないかと考えております。特に、日本国憲法は第三十二条で国民に裁判を受ける権利を保障しておりますが、現在のような運用の仕方は、国民の裁判を受ける権利を無意味にするものであって、極めて疑問だと言わないといけないのではないかと考えております。
 では最後に、憲法改正の必要性はあるか、あるとすればどのように改正すべきかという点でございますが、このような現状を打開するために、憲法裁判所の構想がいろいろな形で打ち出されております。例えば、伊藤正己元最高裁判事もそのような提言をしておりますし、読売新聞社等の憲法改正案などでも憲法裁判所の構想が出されております。
 このような構想につきましては、先ほどの最高裁判所の立場に関する解釈を前提としますと、これは現行の憲法の趣旨に反することになりますので、このような憲法裁判所の設置には憲法の改正が必要だと私は考えております。
 では、そのような改正は必要なのか、あるいは望ましいのかどうかという点でございますが、私は、このような憲法裁判所の設置が問題の解決となるかどうか疑問ではないかと考えております。
 既に諸先生方も御承知のように、伊藤正己元最高裁判所判事は、日本の最高裁判所が司法審査権行使に消極的な理由につきましていろいろな要素を指摘しておられます。裁判官の中に和の尊重の意識が存在して、なかなか個々の裁判官の意見を言うことが難しいとか、あるいは、他の政府の機関との間でも正面的な対立を避けたいという和の気持ちがあることとか、あるいは、最高裁判所が非常に多くの事件を抱えていて、その中で憲法事件について十分考える余裕がないこととか、あるいは、大法廷と小法廷の区別によって憲法判断が非常に難しくなっている、等々の要素を指摘しているところでございます。
 経験に裏づけられた指摘として非常に重く受けとめるべき必要性があるのではないかと思うのですが、伊藤正己元最高裁判所判事が提言をされる解決策としての憲法裁判所の設置がこれらの問題点の解決につながるかどうか疑問ではないかと思います。また、憲法裁判所を設置すれば、果たしてその憲法裁判所が急に法律、命令等の合憲性を厳しく審査するようになるだろうかと考えますと、そのように考える理由はどうもないのではないかと思います。
 そして、事件、争訟性の要件があるから裁判所が法律、命令等の憲法適合性を審査することが非常に困難なのだと一般に言われますが、実際には、先ほど申しましたように、事件、争訟性の要件そのものは極めて柔軟でありまして、アメリカにおきましては、非常に簡単に法律、命令等の憲法適合性が争われております。したがいまして、問題点はどこか別のところにあるのではないかという気がいたします。しかも、事件、争訟性の要件を満たさないと司法権を行使することができないという考え方にはそれなりの理由がございまして、それをすべて否定してしまうことが妥当かどうか、疑問ではないかというふうに思っております。
 ではどのようにすればいいのか、私もまだ決まったこれという意見を持っているわけではありませんが、当面のところ必要なのは、憲法改正ではなく、意識改革と制度改革ではないかというふうに私は考えております。
 先ほども触れましたように、裁判所の司法権は憲法第七十六条によって憲法上付与されたものであって、法律によって付与されたものではありません。したがいまして、裁判所は、その憲法上の固有の司法権を行使して、もっと積極的に司法権を行使することができるはずでございます。事件、争訟性の要件もアメリカでは極めて緩やかに解釈されておりますので、日本でももっと柔軟に解釈をすれば、国会が法律を制定すれば、それが適用されて不利益を受けるおそれのある人は、だれでも法律の違憲性の確認とその執行の差しとめを求める訴訟を当然提起することができるんだと考えることが可能ではないかと思いますし、また、そのような解釈の方が日本国憲法に適合的なのではないかと思います。
 その上で、国民の政治参加に不可欠な権利につきましては、裁判所が憲法上固有の権限と責任を負っているのだということをしっかりと自覚をしていただければ、もっと積極的に司法審査権を行使していただけるのではないかと思います。
 ただ、そのためにはやはり、いろいろな形で制度改革が必要なのではないかと考えております。最高裁判所の裁判官の任命等につきましては、現在実質的に、下級裁判所や検察官、弁護士等の名誉職的な最終ポスト的な扱いがされておりますが、このような人事を根本的に改めるとともに、もっと若い人を積極的に登用する等の新たな改革が必要になるのではないかというふうに思います。
 また、現状では訴訟の提起が極めて困難であって、憲法事件を争うことも困難な状況でございますので、訴訟の上でも憲法事件を争うことができるように、さまざまな形で制度を改革することは十分考えてもよいのではないかと思っております。
 したがいまして、私は、基本的には、憲法裁判所の設置ではなく、憲法の付与している司法権あるいは司法審査権についての考え方を改めること、そして、もっと裁判所が司法権あるいは司法審査権を行使しやすいようにする制度改革、そして、そのような制度改革を実質的に意味のあるものとするためには、裁判官の増員や訴訟手続の改正による訴訟の提起の要件の緩和化、そしてさらに、憲法訴訟を支えることができるような大幅な弁護士の増員等、根本的な司法制度改革なのではないかというふうに考えております。
 以上、簡単ではございますが、現行の憲法第八十一条の定めております司法審査の権限について、私の考えているところを述べさせていただきました。御拝聴ありがとうございます。拍手
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高市早苗#3
○高市小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
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高市早苗#4
○高市小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がございますので、順次これを許します。伊藤達也君。
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伊藤達也#5
○伊藤(達)小委員 伊藤達也でございます。どうもおはようございます。
 本日は、先生から大変貴重なお話を伺うことができまして、本当にありがとうございます。
 私からは、まず最初に、先生がお話しになられた司法審査権の活性化についてさらにお話をお伺いさせていただきたいと思います。
 先生は、今のお話の中で、基本的に国会の判断を尊重しつつも、国民の政治参加のプロセスに不可欠な諸権利の保護について、裁判所が司法審査権というものをもっと積極的に行使していくべきだというお話があったと思います。これを積極的に行使していくために、憲法の改正ではなくて、意識の改革と制度改革にというお話をいただいたわけでありますが、この二点についてもう少し具体的にお話をお伺いしたいと思うんです。
 まず、意識改革のところでありますけれども、私たちが考えていかなければいけない裁判官の理想像というのはどういうところにあるのか。ともすると、私たちからすると、どうも裁判官というのは、顔が見えなくて没個性で画一的であるのがいい裁判官なのかどうかというところがあるんだと思うんです。そういう意味で、先生の裁判官としての理想像はどういうところにあるのか。
 それと、私どもは、司法の裁判所の現場がよくわからないんですが、本当に最高裁の判事の方々は、憲法に対する感覚がどれぐらい鋭いのかというところがよくわからないところがあるんですね。その感度を高めていくというのも意識改革の一つだというふうに思うんですが、その点について、どのように考えておられるのかお伺いしたいと思います。
 それから、制度改革について幾つか例示がございましたけれども、やはり根本的に、訴訟制度でありますとか、裁判官、裁判所全体を変えていかなければいけないということで、先生から少し訴訟の要件の緩和等々のお話がございましたが、さらに具体的に変えていかなければいけない御提案がありましたら、ぜひお聞かせいただきたいと思います。
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松井茂記#6
○松井参考人 順番にお答えさせていただきます。
 まず、どのような裁判官が望ましいのかということでございますが、この点につきましては、伊藤正己元最高裁判所判事も、現在の裁判所制度のもとでは、顔のない裁判官が理想的とされ、個性的な方はどちらかというと好感を持って受けとめられないということを指摘しております。
 これは、やはり司法制度全体の一つの問題点ではないかと思いますが、もっと個性のある裁判官がいろいろとおられるということの方が望ましいのではないかと思いますし、最高裁判所の裁判官につきましても、穏当な方ばかりではなく、いろいろな意見の方が入ってこられるのが望ましいのではないかというふうに思っております。その上で、いろいろな形で議論を行って、そして、法律の憲法適合性について異なった考え方を持たれる方がお互いに議論を闘わすというのが、やはり憲法訴訟の活性化にとっては望ましいのではないかと考えております。
 それから、第二点でございますが、裁判官の憲法に対する感覚がどの程度鋭いものなのかという点でございますが、現在の裁判所の中におきましては、私のように外から見ている者の感覚といたしまして、憲法というのは、どちらかというと、余り触れたくない問題だととらえられているのではないかという気がいたします。特に、刑事事件等におきまして憲法問題が提起されましても、多くの裁判官の方は、ほかに争うことはないのかというふうな意識で対応されているのではないかとしか思われないようなところがございます。
 私は、どうも現在の裁判官の方たちの憲法に関する意識というのは、民法や刑法というような目に見える法律と違いまして、憲法というのは非常に抽象的であって、しかも、根本原則を定めているものなので、具体的な内容のある法律とは言えないのではないかと思っておられるのではないかと思っています。
 実際には、先ほど触れましたマーベリー対マディソン判決でアメリカの最高裁判所が一番重視したのは、憲法が一番最高位の法律であって、法が何であるのかを確認することができるのは裁判所の固有の権限だという考え方でございますので、日本で司法審査制度が定着するためには、憲法が最高位の法律であるということを確立することではないのか。そのような意識を裁判官の方に幅広く持っていただくということが必要なのではないかと考えております。
 それから、三番目につきましては、さまざまな司法制度改革が必要ではないかと思いますが、アメリカを一例に申し上げますと、憲法事件は、先ほども触れましたように、ほとんどが法律の違憲の確認と執行の差しとめを求める予防訴訟として提起されております。しかも、その際には、クラスアクションと申しますが、多くの方が集団として訴訟当事者に加わるという制度が幅広く利用されております。
 また、違憲の確認と法律の執行の差しとめを求める訴訟でございますので、現在の日本の訴訟制度のもとで要求されるような裁判費用等につきましても、アメリカの場合には、訴訟提起が非常に容易になっております。さらに、アメリカにおきましては、弁護士さんが勝訴したときにだけ弁護士費用を受け取るということを約束して訴訟の代理を引き受けておりますので、勝ち目のある訴訟かどうかということを考えて弁護士さんが憲法訴訟を引き受けるという制度になっております。これは、訴訟を起こしたいと考えております国民の立場からは非常に便利な制度でございます。
 このようなさまざまな仕組みにつきましては、日本でも導入を検討する余地は十分あるのではないかというふうに考えております。
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伊藤達也#7
○伊藤(達)小委員 先生のきょうのお話が大変興味深いものがあったものですから、少し広く憲法のお話をお伺いさせていただきたいというふうに思います。
 先生のきょうのお話、そして先生の資料を見ておりますと、「「ほっといてくれ」の憲法学から「みんなで一緒にやろうよ」の憲法学へ」という御提言もされておりまして、こうした先生の御提言を伺っておりますと、私なりに解釈しますと、ほっておいてくれという先生の御主張は、みんなで一緒にやっていこうよという形にパラダイム転換をしていく中で、憲法において個人の社会参加のプロセスというものをもっと明確にしていく、よって、憲法の要諦は、統治の目的ではなくて、統治のプロセスを定めるところにあるということを大変強調されているように思うんです。
 その場合の理念は多元主義。つまり、各個人から、みずからの福祉と考えるもの、つまり公益の実現ということを考えておられて、そして共同体形成へ向かう運動哲学というものがそこにあるような気がいたすんですが、そうなった場合に、先生は、主権とは自己決定権であり、それを論拠に各人が共同体を形成するということをお考えになられているわけですが、一方で、現在の主権の概念が、個人ではなく総体として主権が観念されているという憲法解釈があるわけでありまして、こうしたことをどのようにお考えになられているのかというのをぜひお伺いしたい。
 それと、先生のお考えの中でもう一つ、きょうのテーマから外れてしまいますが、地方自治というものをどうとらえておられるのか。先生のお考えを敷衍していくと、やはり分権思想というものが出てくると思うんですが、この分権を進めていく中に、中央集権と対立する概念として分権、そこに地方自治体があるという考え方と、もう一つ、NPOの運動や民というものを大切にして、そこから地方自治をつくり上げていくという考え方も成立すると思うんですが、そうしたことも踏まえて、残された時間、わずかでありますけれども、先生のお考えを伺えれば、よろしくお願いいたします。
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松井茂記#8
○松井参考人 国民主権につきましては、実は憲法学の中でも非常に意見が分かれているところでございますが、私は、基本的には、国民主権というのは、日本国憲法を制定したのが日本国民であるということの趣旨だというふうに理解をしております。したがいまして、日本国憲法という憲法を制定し、現在の国の統治の基本を定めたのは国民でございます。では、その憲法のもとで具体的な日々の統治をどのように行っていくのか、これが問題になるわけなんですけれども、従来の憲法学では、この日常的な統治のあり方の問題が十分議論されてこなかったのではないかと考えております。
 私は先ほど、日本国憲法は民主政原理あるいは民主主義原理に立っているということを前提にしてお話をさせていただきましたが、実は私は、日本国憲法は、国民主権を宣言するとともに、日々の日常的な統治のあり方としましては、代表民主政原理をとっているということを基本にいたしまして、そのことを前提として、その代表民主政原理に根本的に背反しないような司法審査制度のあり方というものを考えてきた次第でございます。先ほど私がお話しさせていただきました民主主義プロセスの擁護者としての司法審査というのは、まさに代表民主政原理と調整のつくような司法審査のあり方として考えているものでございます。
 また、このような私の考え方から申しますと、国政に関しましては、憲法は国会を中心といたします代表民主政をとっておりますが、地方におきましてはもっと積極的な住民の参加というものを考えておりますし、また、政治のあり方につきましては、人々が市民として政治に参加するということを当然前提にしておりますので、さまざまな市民運動やあるいは公益団体等を通して政治に参加するということをもっと積極的に評価し、それが政治の中に反映されることをぜひ期待したいというふうに考えております。
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伊藤達也#9
○伊藤(達)小委員 どうもありがとうございました。
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高市早苗#10
○高市小委員長 次に、島聡君。
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島聡#11
○島小委員 民主党の島聡でございます。
 憲法裁判所構想につきまして、伊藤正己元最高裁判所判事の提言、読売新聞社の憲法改正案が取り上げられておりますが、我が党、民主党の憲法調査会の中間報告でも憲法裁判所構想を出していますので、ぜひ御記憶にとどめていただきたいと思います。
 その観点から質問させていただくんですが、私は、現在の司法消極主義というのは、今の日本の憲法をうまく機能させるために非常に問題ではないかというふうに思っています。それは私の意見でありますが、現実の国会でやりますと、内閣法制局についてお聞きしたいんですけれども、具体的に憲法解釈、これは違憲か合憲かというのは、国会審議というのは内閣法制局が権威を持っているんですよ。不思議なことでは、例えばテロ防止特別委員会で、私も委員でしたが、これはどこまで憲法で可能か、内閣が法律を提出してくるわけですから、内閣法制局を通るわけですから、合憲と言うに決まっているわけですよ。政府の一機関にすぎない内閣法制局が憲法解釈をする、これは、権力分立のあり方としては非常に問題が大きいんじゃないかと私は思います。
 もちろん私は、現在のテロ特もあるいは事態対処法も、本当に合わなくなったら憲法自身見直すべきだという判断のもとに申し上げているんですが、閣法で提出してきて、内閣法制局がやって、答弁を聞いたら合憲と言うに決まっているわけであります。これは権力分立のあり方として問題が大きいと私は思うんですが、先生のお考えの中では、例えば司法消極主義と内閣法制局のあり方ということに関連してはどういうふうにお考えですか。
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松井茂記#12
○松井参考人 まず、前提問題として、現在の日本国憲法のもとで内閣に法案提出権があるのかどうかにつきまして、現状ではそれを肯定する考え方が支配的ですし、実務もそのようになっておりますが、憲法学の中にはそれに異論を唱える考え方もございまして、私は、どちらかというとそれに反対する立場をとっております。国会というのは唯一の立法機関でございますので、私は、法律案を提出することができるのは国会議員だけだと考えるべきではないかというふうに思っております。
 それはおいておきまして、現行の制度を前提にして考えますと、内閣法制局というのはあくまで行政権の中の組織でございますので、内閣法制局が憲法問題について合憲だと言ったかどうかというのは、裁判所にとっては本質的な問題ではないはずでございまして、伊藤正己元最高裁判事が、日本には内閣法制局があるのでその解釈が非常に重きを置かれるということを、裁判所が司法審査権行使に消極的になる理由の一つとして挙げておられますけれども、これはやはり本末転倒ではないかと考えます。裁判所が憲法上の権限に基づいて法律の憲法適合性について審査をするので、内閣法制局がどのような解釈をとっていたのかということは、一つの参考にはなるかもしれませんけれども、それが決定的なものではございません。
 したがいまして、私は、最高裁判所を初め裁判官は、裁判官としての立場で法律の憲法適合性について判断すべきではないかと考えております。
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島聡#13
○島小委員 基本的な枠組みについてちょっとお尋ねしたいんですが、例えば、司法がこの法律は違憲であるとする。立法府は、これはもう出したと。今、先生のお話でいくと、意識改革があって、司法審査要求をして、これは差しとめだという意見が出たとする。それがどんどん続いていった場合、具体的に言うと、例えば安全保障上の問題なんかにおいて、これは必要であると言う。でも、これは違憲だ、違憲だ、違憲だと司法が出てくる。とはいうものの、統治的な問題においては必要だと言う。そういうような状況になった場合にはどのように考えればいいんでしょうか。
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松井茂記#14
○松井参考人 アメリカでも、先ほど申しましたように、裁判所が司法審査権を行使するほとんどの事例は、法律の執行に先立ちまして法律の違憲の確認と執行の差しとめを求める訴訟でございますけれども、裁判所にそのような訴訟が起こされますと、当事者の方は、仮処分といたしまして、暫定的に、裁判所の判決がおりるまでの間、法律の執行を仮に差しとめることを裁判所に求めるのが通例でございます。
 その際に、裁判所は、執行の差しとめを認めないとどのような不都合が生じるのかということを一方で検討し、さらに、この訴訟にどの程度勝訴の見込みがあるのかということを検討し、その上で、執行の差しとめを認める必要性があると考えた場合にのみ、裁判所の判決がおりるまでの間の仮の差しとめを認めるわけでございます。したがいまして、当事者が執行の差しとめを求めれば常に法律の執行が差しとめられるというわけではございません。
 また、アメリカの場合には、このように法律の執行の仮の差しとめが認められた後も、極めて迅速に審査をすることが可能でございます。アメリカの裁判所は、先般のアメリカ大統領選挙のときの訴訟にも見られますように、わずか数日間で判決を下すことも行っております。したがいまして、極めて重要な案件であれば、裁判所がそのような柔軟な形で処理をすれば極めて短期間の間に事件は処理されますので、御指摘のような弊害というものはそんなに起きないはずでございまして、そのことを考えれば、日本でも、差しとめ等の救済を認めるということは妨げにはならないのではないかと考えております。
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島聡#15
○島小委員 先生は表現の自由の専門家でもあるというふうに承っております。例えば、個人情報保護法というのが今議論されています。これは憲法二十一条で問題がある、だれかが請求するとする。今おっしゃったように、アメリカは迅速に結論が出ますけれども、日本は、司法制度改革をしなくちゃいけないのも迅速なものだという話になっている。そういう場合にでも問題がないと思われますか。
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松井茂記#16
○松井参考人 現在、訴訟を通常の手続に従って処理しますと、やはりかなり時間がかかるということは否めないと思います。私は、訴訟の処理等は裁判所の固有の権限であると考えておりますので、裁判所が憲法上の権限に基づき裁量で判断をすればいいのではないかというふうに考えておりますが、先ほど意見を述べさせていただきましたように、現行の司法制度はかなり窮屈にできておりますので、そういう差しとめ等の救済を認めるに伴いまして、やはり法律等を改正して、裁判所がもっと柔軟に訴訟手続を行うことができるような整備をするということは十分考えてもいいのではないかと思っております。
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島聡#17
○島小委員 きょうは憲法調査会にお越しいただいているんですが、この憲法調査会は発議権がない調査会となっておるんです。例えば、今、日本において憲法と法律というものがぎりぎりどうかという判断をするときに、司法消極主義で、裁判も今のところはなかなか難しい。
 例えばですけれども、この憲法調査会を常任委員会にして、そこに、立法と憲法、いろいろな問題が出てきますが、その意味で本当に憲法を調査するというような権限をこの憲法調査会に付与するようなことを考えた場合、いわゆる三権分立の考え方からすると何か問題が出てくるでしょうか。
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松井茂記#18
○松井参考人 国会が憲法改正につきまして発議をする権限がございますので、そのために必要な調査を行うということは、私は国会の権限内だと考えておりますけれども、そのことと、常時憲法問題について調査をするような会議が必要かどうかというのはまた別問題ではないかと思います。
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島聡#19
○島小委員 ありがとうございました。
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高市早苗#20
○高市小委員長 次は、斉藤鉄夫君。
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斉藤鉄夫#21
○斉藤(鉄)小委員 きょうは大変ありがとうございました。
 ちょっと、ある意味では非常に幼稚な質問からさせていただきたいと思いますが、三権分立の中で、例えば立法と行政については正当性の根拠が非常に我々理解しやすい。例えば国会は、国民から直接選挙で選ばれた、それから行政については、その選挙で選ばれた議員で内閣を組織するということなんですが、いわゆる司法がよって立つところの正当性の根拠というのはどこにあるんだろうかな、こう考えますと時々わからなくなるんですけれども、この点について、学校の授業の質問のようですけれども、教えていただきたいと思います。
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松井茂記#22
○松井参考人 もともと、司法というのは法をつかさどる作用ということでございますけれども、一般的な理解によりますと、司法というのは法の支配と呼ばれる考え方を制度化したものだととらえることができるんではないかと思います。
 国民主権原理に基づきまして、国民が憲法を制定し、その憲法のもとで国民が政治に参加をして、代表民主政に基づき統治を行うわけでございますが、憲法というのは、その国民によって制定をされ、みんなが守らなければいけない法として定められたものでございます。裁判官は、その法が遵守されるように確保する役割を担っているわけでございまして、国民の選挙に対比されるところの法が司法のすべての正当性の根拠を提供していたというふうに言うことができるだろうと思います。
 ただ、昔は、法を解釈し、適用する司法の制度というものは、客観的に存在する法の意味を探り、それを裁判官は法律的な訓練によって身につけた特別な技術で確認し、そしてそれをそのまま具体的な事件に適用するものだと考えられておりましたが、その後、現在に至るまで、実際には、裁判というのはそのような単純なプロセスではなく、裁判官の考え方ですとかいろいろなものによって影響を受ける、複雑な複合的なプロセスであるということが認められるようになってまいりました。
 その結果といたしまして、裁判官が、例えば国会の制定いたしました法律を憲法違反だと考えたときに、なぜそれは憲法違反なのかと問われたとき、昔は憲法にそう書いてあるからだと答えることができたんですけれども、今は、憲法にはそう書かれているとは限らない、私の考えではそう言ってはいないというふうに言われますので、従来のような考え方で司法権の行使を正当化することは難しいのではないかと考えております。
 現在の支配的な考え方は、憲法はそれぞれ具体的な実体的価値を定めておりますので、裁判官はその実体的な価値を擁護する役割を担っているととらえられておりまして、その実体的な価値によって司法権の行使が正当化されるという構図になっておりますが、私は、司法と立法の間には違いがあって、その違いのゆえに司法というものが正当化されるのではないかと考えております。
 その違いはどこにあるのかと申しますと、立法の手続というのは、国会議員の先生方がそれぞれ集まって国会の場で議論をして、そして最終的には多数決によって法律を制定するわけですが、裁判の手続というのは、原告、被告という相対立する二人の当事者がそれぞれ自分の利益あるいは自分の主張を掲げて対立している、その対立している手続の中で、裁判官がいわば第三者的な立場から法のあり方を考えて具体的な事件を解決する。このような裁判という手続の特殊性と申しますか、そのような特殊性のゆえに裁判には独自の存在価値があり、そしてその裁判の独自の手続のゆえに司法権の行使が正当化されるのではないかと私は考えております。
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斉藤鉄夫#23
○斉藤(鉄)小委員 法そのもの、そして手続そのものに正当性の根拠があるということなんですが、非常に率直に申し上げまして、例えば、法に細かく具体的なことが書いてあれば、それに基づいて裁判官に我々判断してもらう、これはよくわかるような気がするんです。ところが、先ほども先生おっしゃっておりましたけれども、憲法というふうに、ある意味では非常に広い概念のことが抽象的に書いてある場合について、その正当性だけを根拠に判断を司法にゆだねることについて心配する向きがないでもない。
 国会の場合は、ある意味では開かれた、今ワイドショー政治とかいろいろ言われておりますけれども、かなりオープンになってきて、いろいろな議論が国民に見えます。また、使っている言葉も国民にわかりやすい言葉なわけですけれども、司法の場合、なかなか見えにくい、また使われている言葉も大変難しい。まあ、それは当然なのかもしれませんが。そういう中で、限られた人の、また先ほどの根拠によっての判断にすべてがゆだねられるということについて多少の危惧があるということについて、先生の御意見をお伺いできればと思います。
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松井茂記#24
○松井参考人 憲法の規定は抽象的で、憲法の規定だけから見ると具体的な結論がなかなか出てこないのではないかということは、よく指摘されるところでございます。
 私は、そのような指摘がなされたときには、憲法の規定も、先ほど触れました民法や刑法の規定と本質的には変わらないではないかというふうに答えることにしております。例えば、私がよく挙げるのは、民法七百九条の不法行為の規定でございます。他人の権利、利益を侵害しまして損害を与えた場合には、その損害を賠償しなければならないということを定めている規定でございますが、これは、生命の侵害から、名誉毀損から、プライバシーの侵害から、交通事故から、すべての事例をカバーしておりまして、しかも、法律上に書かれている言葉はほんのわずかですので、極めて抽象的なんですね。この規定と憲法二十一条の規定とどちらが抽象的かと言われれば、私は変わりはないんじゃないかと思うんです。ということは、法を解釈するという点で、特段憲法だけが特別だと考える必要性はないのではないかというふうに思います。
 ただ、その上で、御指摘のように、やはり国民主権原理に基づきまして、日々の統治は代表民主政原理に基づいて行われるべきだと考える私の立場から申しますと、国会というのは、国民が選挙で選出した国民の代表者によって構成されておりますので、国会の行為というのは、いわば選挙、国民の選択というものによって正当性を経ております。これに対して、裁判官の方は、法を適用し、法という正当性だけでその判断を覆すことになるわけでございますので、先ほど申しましたように、やはり裁判所が常に政治を監視すべきだとか、国会の判断はすべて一応おいておいて、裁判所が独自に法を解釈すべきであるというのは、ちょっと危険性が高いのではないかと考えております。
 そのために、先ほど申しましたように、私は、裁判所の固有の役割というのを考え、その役割のところでだけしっかりと権限を行使してほしい。それは、民主主義のプロセスがしっかりと作動するように保障することだ。そのように考えれば、裁判所が司法審査権を行使するということは、民主主義のプロセスが作動するように確保することですので、おっしゃられるような危険性は比較的少なくて済むのではないかという感じがします。
 また、そのような観点からいきますと、憲法の解釈につきましては、固有の裁判官だけの問題ではなく、もっと広い視野と申しますか感覚が当然要求されることになると思いますので、固有の意味での裁判官だけが憲法事件を扱うというのはやはり適切さを欠くのではないかな。そういう観点からいけば、最高裁判所の裁判官等にはもっと幅広い知識を持ったいろいろな人が入っている方が望ましいのではないかというふうに考えております。
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斉藤鉄夫#25
○斉藤(鉄)小委員 ありがとうございました。
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高市早苗#26
○高市小委員長 次に、藤島正之君。
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藤島正之#27
○藤島小委員 自由党の藤島正之でございます。
 先生のおっしゃっている、民主政過程に不可欠な権利については厳しく、それから経済的自由については緩やかに違憲審査をすべきである、これは私も大変賛成なんですけれども、それはそれとしまして、統治行為論というのがあったわけですけれども、これについてはどういうふうにお考えになりますか。
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松井茂記#28
○松井参考人 一般に、国の統治の基本にかかわるような根幹的な問題については、裁判所が司法権あるいは司法審査権を行使すべきではないというのが統治行為論と呼ばれるもので、政治問題の法理というふうに呼ばれることもございます。御承知のとおり、日本の最高裁判所は苫米地事件と砂川事件等でこのような考え方をしております。学界におきまして、このような法理を認めるのかどうかをめぐって意見が分かれているところでございます。
 私自身は、統治行為論と呼ばれるものが極めて不明確であるということと、何かいろいろなものが統治行為論という言葉で語られているために、非常に適切でない状況を招いているのではないかというふうに考えております。
 司法権が憲法によって裁判所に付与されておりますが、日本国憲法は、裁判所以外の機関に一定の事件の紛争の解決を明文の規定でゆだねております。また、明文の規定がなくても、憲法の規定を読んでおりますと、そこから暗黙のうちに裁判所以外の機関に対して一定の事件の処理をゆだねていると考えることができるような事例がございます。私は、例えば衆議院の解散などはそういう事例ではないかと考えております。したがいまして、このような事例では、やはり裁判所の司法権行使には限界があると思っております。
 ただ、それを超えて、高度に政治的であるとか、あるいは統治の根幹にかかわるような問題だからであるという、ただそれだけの理由で司法権の範囲から外れると考えるのは妥当ではないんじゃないかと私は思っております。
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藤島正之#29
○藤島小委員 それから、憲法裁判所の問題です。
 先ほど先生、説明あったんですけれども、伊藤元判事のおっしゃっている和の問題だとか、他の行政機関との融和の問題だとか、あるいは熟慮している時間がないとか、人事だとか、いろいろな問題があるということなんですけれども、そうであればあるほど、私は、独立した憲法裁判所をつくって専門にこれを審議する、こういう方がいいんじゃないかと思うんです。この点、先生は、余り詳しい御説明がないまま、憲法裁判所には賛成できない、こうおっしゃっているんですけれども、もう少し詳しく教えていただけますか。
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