鳥居泰彦の発言 (憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会)

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○鳥居参考人 鳥居でございます。それでは失礼して着席のままお話をさせていただきます。
 お手元に私の参考人意見陳述要旨をお配りしてございます。それをごらんいただきながらお聞き取りいただきたいと思います。二ページから成っておりまして、一ページ目は、一番、二番、教育というのはどういうことなのか、それが書いてあります。これをめぐりながら最初にお話をさせていただきまして、二枚目、三番、四番、五番から八番まで、いわゆる教育権と呼ばれるものは一体どういうことなのかについてお話を申し上げたいと思います。
 まず一枚目の一番でございますが、日本で今教育というふうに私たちが呼んでいるものは、もともとはエデュケーションという英語の訳語でございます。エデュケーションを何という日本語にするかをめぐりまして、森有礼文部卿と福沢諭吉との間に意見の対立があったというふうに巷間言われておりますが、実際には意見の対立ではなくて、二人は非常に仲のいい議論をしておりました。余計なことですが、森有礼の仲人が福沢諭吉でありましたので、二人は大変仲がよかったと思います。
 森有礼は、このエデュケーションの訳語として教育という言葉を最初から使っておりました。福沢諭吉は後に、明治二十二年に、時事新報の中で、教育という言葉もいいけれども、実はエデュケーションという言葉の中には人間が持っている能力を開発するという意味が含まれている、そのことをあらわす何らかの言葉が必要なのではないかということを言っております。御存じのとおり、森文部卿は明治二十二年に暗殺されておりますので、その直前に福沢が書いたものと思われます。
 私、今このことを申し上げるのは、実は、私たちが教育権ということを考えるとき、教育とは何かということをまず考えなければいけない。そのときには、教え育てるという意味、いわゆる訓育という意味と同時に能力を開発するという意味と両方を大切にしなければならないということをこの二人の意見が示唆しているように思うからでございます。
 この能力を開発するという言葉に対応する二文字のうまい日本語はないように思われます。でありますので、そのことにこだわらず、中身について少し考えてみたいのですが、今日、あえてこの能力を開発するという言葉を学習という言葉に置きかえてみますと比較的よくわかるのではないかと思います。学習をするというのは、自己、みずから学習をする自己開発という側面と、学習の仕方を教える、学習をさせてあげるという他律的な側面とがあるわけでございます。後ほどお話をいたしますが、フランスの教育基本法の中では、学習をする権利が国民にはあるということを述べ、同時に、国家には学習の仕方を教える義務があるということを述べています。そのような考え方はこれからの日本の教育を考える上で非常に重要なことではないかと思っています。
 さて、二番目でございますが、教育という言葉の内容でございますが、(1)から(4)まで四つの側面を挙げておきました。まだこのほかにも教育に関しては考えなければならないことが多々ございますが、本日はこの四項目について少しくお話を申し上げたいと思います。
 一番が人間形成、二番が基礎知識、専門知識の伝授、そして三番が学習、学習の方法、学習の支援といった側面、そして四番が成長の支援、人生設計の支援ということでございます。
 まず、教育の第一の側面であります「人間形成」。
 人は生まれてきたときには言葉を知りません。そして、次第に親から自然に言葉を習っていくというか、自然に覚えていくわけであります。しかし、美しい文字、美しい言葉を書くということは、家庭あるいは学校においていわゆる教育という営みによって初めてでき上がるものでありまして、今日いささかこのことが家庭においても学校においてもおろそかにされているように思いますが、我々はこれからの日本の教育の中で、改めてこの失われつつある美しい言語、美しい文字を書く、そういったことについての教育を重視しなければならないと思います。
 それから、人間形成のもう一つの大事な次の側面は、習慣、社会規範、信仰あるいは感謝、そこに書いてございませんけれども道徳や作法、そういった事柄について、次第にみずから身につけていく、それが大切なことだと思います。
 それから、三段目でございますが、最初、人はみずからの感情を制御することを知りませんが、成長するにつれて感情の自己統御ということを覚えていきます。そして、大人になるまでには何が罪であるかということもわかるようになるわけであります。
 日本でも、刑法の最初の部分に、何をすれば罪であるかということが定義されています。各国の刑法を見てみますと、大体、罪というのが何であるかというのは共通しておりまして、人を殺すこと、物を盗むこと、うそをつくこと、つまり詐欺ですが、あるいは姦淫の罪といったようなことがほぼすべての国に共通の罪として定義されています。そして、非常に大切なことがある。各国の刑法に定義されているこの罪は、実はほとんどの宗教が戒律の中で述べていることと重なっています。そのようなことは、何らかの方法で子供のときから次第に教わっていく必要がある事柄だと思います。
 それから、人間形成の四番目に大切な項目は、体力と身体能力、運動神経、そういったものを次第に身につけ、体そのものを錬磨していくということではないかと思います。
 最後に、精神力、忍耐力、統率、そういったことを身につけていくことだと思います。
 括弧の二番目でございますが、「基礎知識、専門知識」。これを教えるのも教育の大切な仕事でございまして、ここではあえて概念軸、時間軸、空間軸というふうにしておきましたが、物の考え方あるいは概念あるいは理論、その歴史といったようなものを、人文、社会あるいは科学、技術について、それぞれの分野で教わっていく、教えていく、それが教育だと思います。
 それから、時間軸については、大昔から現代に至るまで、古典の世界から現代まで、神話の世界から現代まで、そういった流れの中で自分がどこにいるのかをわかるようにするのが大切なことだ。
 それから、空間軸。世界には二百カ国近い国があり、六千近い民族がありまして、それぞれの文化や宗教や法律や制度を持っているわけです。それらについての知識を持つことによって、自分は何者なのかという位置づけができる、それが教育の大切な仕事だと思います。
 三番目でございますが、学習、先ほど申しました学習、学習の方法です。教える、教わるに対して、みずから学習する、あるいは学習の方法を教わるということが大切なのですが、現在の日本の教育に関する法律制度の上では、陽表的にこの学習という権利がうたわれておりません。後ほど申し上げますが、潜在的にはかなり強くこのことが意識された上で日本の憲法を初めとする諸法律の中の教育権が規定されているというふうに法律の専門家の間では言われているようでございます。
 また、この学習にはいろいろな方法がありますが、ここでは典型的な方法として、テキストや文献、教材あるいは辞書や事典、年表を初めとする情報検索、それからライブラリーやアーカイブスというものを挙げておきました。このほかにも学習の方法には、実験でありますとかフィールドワークでありますとか、いろいろなものがございまして、外国の教育の中では自然に取り入れられている国は多いのですが、日本の教育ではそれらが比較的なおざりにされているということがあると思います。
 四番目でございますが、人間は生まれてから人生を終わるまで成長を続けるわけですけれども、その成長を支援する、あるいは人生設計の支援をするということが、教育、なかんずく家庭と学校にとっては大切な使命だと言われていますけれども、日本ではそのことを陽表的に法律に規定してはいないのです。
 これも後ほど時間があれば御紹介いたしますけれども、フランスの教育法、イギリスの教育法あるいは韓国の教育法では、学校の大切な役割として人生設計を支援するというコンセプトが陽表的に書かれています。日本もこういったことを、学校のやることじゃない、教員のやることじゃないというふうに決めつけないで、新しい時代にふさわしい教育のもう一つの役割を見直す必要があるように思います。
 以上申し上げました(1)から(4)までの事柄は、一体だれがやるのかということを考える必要がありまして、それに関しては、親兄弟がやるべきこと、コミュニティーがやるべきこと、そして学校が行うべきこと、それらの役割分担をもう一度改めて考え直す必要があるというふうに思います。
 時間の関係で、この一ページについての御説明はこのぐらいにいたしまして、二ページに行かせていただきます。
 二ページのまず三番でございますが、「旧憲法下における教育を受ける権利」。これにつきましては、私、ただいまここに到着してから、こういう資料があることを初めて教えていただいたのですが、皆様のお机の上に、委員室備えつけ用となっておりまして、日本国憲法及び国会関係法規等というのがございます。それから、もう一冊、その二つ手前の資料で、衆憲資第十五号、教育を受ける権利に関する基礎的資料というのがございます。ここにも幾つかの説明が既に用意されているようでございますので、私の説明はできるだけ簡単にさせていただきます。
 まず、戦前における、旧憲法下における教育を受ける権利でございますが、明治二十二年発布の大日本帝国憲法は、第一章天皇に続きまして、第二章に臣民の権利及び義務として、日本国憲法の基本的人権に相当する内容の規定を置いておりましたが、その中に、実は教育に関する規定そのものがないのですね。これは、国が教育を軽視したのではなくて、警察、軍備に並んで、教育は非常に重要な役割を国家が期待していた事柄だと言われています。
 では一体、教育というのはどのように扱われていたのかといいますと、旧憲法の第九条に「天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」という規定を根拠にいたしまして、憲法発布翌年に小学校令を制定いたしまして、以来、太平洋戦争の終結まで、教育関係法令は、議会の立法権の行使としての法律ではなく、天皇の行政権の行使としての勅令によって整備されることとなったというのが通説とされております。文献といたしましては、憲法学の泰斗でいらっしゃいました宮沢俊義先生の有斐閣「憲法II」、これは一九七四年版に基づいておりますけれども、それらを御参照いただければよろしいのではないかと思います。
 それで、そのようなことで、天皇の勅令によって定められていたことではありますけれども、旧憲法下の日本におきましては、納税と兵役と教育というのは国民の三大義務と呼ばれておりまして、教育というのは非常に重要な義務と考えられていたと言うことができると思います。
 次に、「新憲法下の教育権」の問題でございますが、これも憲法学の先生方の間での定説といたしまして、教育の権利性が法体系上出現するのは、戦後の日本国憲法、それから、それに先だって勅令主義を破って法律として制定された教育基本法以降であるというふうにされています。
 この規定は、御存じのとおり、憲法二十六条に定められておりまして、憲法二十六条に定める教育を受ける権利が、日本国憲法によって保障された基本的人権の中における分類の上では社会権に位置づけられるというふうに憲法学者の間では言われているそうです。国民が人間に値する生活を営むことを保障するために、国民が国に対して一定の行為を要求する権利であるという点については、ほぼ憲法学者の意見は一致していると言われています。ただし、それがいかなる理由からいかなる性質のものとして保障されるかについては、若干学説の違いがあるようでございます。
 そのことがレジュメの四番の真ん中辺に1、2、3というふうに書いてございます。
 まず、1でございますが、「憲法学における古典的通説」。これは宮沢俊義先生の説を中心とする説でありますが、このように言っておられます。
 「教育を受ける権利は、とりわけ高等教育に関して意味を有する。普通教育は、義務教育であり、しかも無償と定められているから、その点については、特に教育を受ける権利をいう実益は少ない。しかし、高等教育においては、義務制はみとめられず、また、無償制もみとめられないから、教育を受けることには、少なからぬ経済的負担を伴う。過去において、」これは戦前のことを言っていると思いますが、「高等教育が大はばに貧乏人に無縁だったのは、そのためである。教育を受ける権利は、この事情に着目し、貧乏人に対しても、高等教育を受ける可能性を保障しようとするものである。」というふうに、先ほど引用いたしました宮沢先生の著書に書いてございます。
 そのようなわけで、このような考え方に基づきまして、この説は主として経済的な側面に注目して、憲法第二十五条に定める生存権の文化的側面を規定して、教育に伴う経済的負担への配慮を定めたものと解することができることから、生存権説あるいは経済的権利説とも言われております。
 それに対しまして、二番目に、「教育内容要求権説」というふうに私、書いておきましたが、こんなふうに呼ばれているようでございますので、学説の言葉どおりをレジュメに書いておきました。
 これは、教育を受ける権利の本質は、国家権力の政策ないし行政に対する積極的な教育内容までにわたる要求権を含むものであり、子供が真の主権者たり得るように、憲法の精神に即した内容の教育を国に対して要求する権利を含むという説だそうでございます。このことから、教育内容要求権説あるいは主権者教育説と称されておるようでございます。
 実は、このような説はいろいろと批判がございまして、この説は、運動論としては意味があるかもしれないけれども法律論としては不適当であるとか、あるいは、主権者教育は確かに大切だけれども、教育の作用の中におのずから含まれるべきものであって、それが教育を受ける権利の主たる内容とまで位置づけられるべきではないという批判が広く行われています。
 批判を論じておられる代表的な学者の名前を申し上げますと、有倉遼吉先生あるいは兼子仁先生などが挙げられます。
 教育の自由はもちろん憲法の認めるところですけれども、義務教育に関する限り、その教育の内容はどこまでも日本憲法の精神に即するものでなくてはならないことは言うまでもないことです。例えば、民主主義を否定し人間性の尊重を否定するような内容を有する教育を受けることを日本国憲法が強制するなどということはナンセンスであるというふうに宮沢先生の著書では批判をしていらっしゃいます。
 最後に、3でございますが、「学習権説」というのがございます。これは堀尾輝久先生によって説かれた説でありまして、すべての国民は、生まれながらにして、教育を受け学習することにより人間的に成長し発達していく権利、つまり学習権を有するものであり、それが、みずからの能力の全面的発達を可能とする教育が受けられるよう国に対して求める憲法第二十六条の権利に結実したという説でございます。これは、私が最初に御紹介いたしましたフランスの教育基本法あるいは韓国の教育基本法等にあらわれている学習権という考え方に非常に近いものだと言ってよろしいのではないかと思います。
 なお、このことに関しましては、旭川学力テスト事件、最高裁の判決がございまして、判例となっています。その判決ではこんなふうに書いています。本条の規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子供は、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在しているという。これは判例となっておりますけれども、そのように論じています。
 次に、私の要旨の五番でございますが、「「能力に応じて」をめぐる学説」が二つございまして、「憲法学における通説」と「教育学における通説」を簡単に御紹介いたします。
 「憲法学における通説」は宮沢先生あるいは佐藤幸治先生の説でありまして、「その能力に応じて、」と憲法二十六条に書いてあるのは、これは教育を受けるに適するかどうかの能力に応じての意味である、したがって、各学校で入学試験を行い合格者だけを入学させるのは差し支えないが、教育を受ける能力と無関係な事情、財産、家庭などを理由に入学を拒否することは許されないというふうに書いています。
 また、佐藤幸治先生は、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって教育上差別されないことを当然の前提とした上で、各人の能力の違いに応じて異なった内容の教育を可能ならしめるという趣旨だというふうに書いておられます。
 ここで大切なことは、これらの先生方が列挙しておられる、また、憲法二十六条、十四条にも書いてあることに加えて、適性ですね。本人の適性ということをこれからどのように法律上扱っていくかということがこれからの新しい課題ではないかと思っております。これは私が思っております。
 それから、5の(2)でございますが、「教育学における通説」。これは兼子仁先生の説でございますけれども、こんなふうに言っておられます。
 すべての人がみずからの全面的発達を可能とするために有する学習権に基づき、この教育を受ける権利が、十分な教育を受けることを国家の積極的条件整備によって保障される国民の権利であることを踏まえ、「能力に応じて」と憲法に定めているのは、すべての子供が、その能力、発達の仕方に応じて、なるべく能力を発達できるような教育が提供されなければならないという意味であって、偏差値偏重や落ちこぼれ切り捨てを批判するのはこのような理由からである。その表裏一体として、例えば、戦前は教育を受けるに値しないとして教育制度から外されていた障害者についても、むしろ治療とあわせてすぐれた教育を受けることができるようにする必要があるということを述べておられます。
 これが教育学における「能力に応じて」の通説というふうになっております。
 なお、時間の関係もございますので、六番、七番は、もう皆様のお手元の資料にあるようでございますので、省略させていただきまして、「諸外国における教育権と学習権」について、最後に一言、触れさせていただきます。
 私は、日本の教育基本法の改正に当たりまして大いに参考になると考えているのは、一九八〇年からイギリスのサッチャー首相が取り組まれた教育改革、そしてその中で結実された一九八八年英国教育法、これは非常に参考になると思っています。
 それから、一九八九年新教育基本法、ジョスパン法と呼ばれるフランスの教育法、それから一九九七年だったと思いますが制定されました韓国の教育法、いずれも非常によくできた教育法でございます。それらの中では、先ほど冒頭に申し上げましたように、教育権ということだけに絞って申しますと、すべての国民は能力、適性に応じて教育を受ける権利を有し、生涯にわたって学習をする権利を有し、そして国はそれを支える責務があり、とりわけ韓国とフランスの場合には学習の仕方を教える責務があるという、日本では今まで存在しなかったコンセプトが書き込まれていることを重視するべきであるというふうに考えております。
 時間がもうありませんので、まだ申し上げたいことはいろいろございますけれども、後ほどまた御質問に答える形でお話をさせていただきたいと思います。
 委員長、ありがとうございました。(拍手)

発言情報

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発言者: 鳥居泰彦

speaker_id: 26748

日付: 2003-02-13

院: 衆議院

会議名: 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会