憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会
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会
会議録情報#0
本小委員会は平成十五年一月三十日(木曜日)憲法調査会において、設置することに決した。
一月三十日
本小委員は会長の指名で、次のとおり選任された。
倉田 雅年君 谷本 龍哉君
長勢 甚遠君 野田 聖子君
野田 毅君 葉梨 信行君
平林 鴻三君 大出 彰君
小林 憲司君 今野 東君
水島 広子君 太田 昭宏君
武山百合子君 春名 直章君
北川れん子君 井上 喜一君
一月三十日
大出彰君が会長の指名で、小委員長に選任された。
平成十五年二月十三日(木曜日)
午後二時一分開議
出席小委員
小委員長 大出 彰君
奥野 誠亮君 倉田 雅年君
谷本 龍哉君 長勢 甚遠君
野田 聖子君 葉梨 信行君
平林 鴻三君 小林 憲司君
今野 東君 水島 広子君
太田 昭宏君 武山百合子君
春名 直章君 山内 惠子君
井上 喜一君
…………………………………
憲法調査会会長 中山 太郎君
憲法調査会会長代理 仙谷 由人君
参考人
(慶應義塾学事顧問)
(日本私立学校振興・共済事業団理事長) 鳥居 泰彦君
参考人
(早稲田大学教授) 岡村 遼司君
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
—————————————
二月十三日
小委員井上喜一君同月六日委員辞任につき、その補欠として井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員北川れん子君同日委員辞任につき、その補欠として山内惠子君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員野田毅君同日小委員辞任につき、その補欠として奥野誠亮君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員山内惠子君同日委員辞任につき、その補欠として北川れん子君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員奥野誠亮君同日小委員辞任につき、その補欠として野田毅君が会長の指名で小委員に選任された。
—————————————
本日の会議に付した案件
基本的人権の保障に関する件(教育を受ける権利)
————◇—————
この発言だけを見る →一月三十日
本小委員は会長の指名で、次のとおり選任された。
倉田 雅年君 谷本 龍哉君
長勢 甚遠君 野田 聖子君
野田 毅君 葉梨 信行君
平林 鴻三君 大出 彰君
小林 憲司君 今野 東君
水島 広子君 太田 昭宏君
武山百合子君 春名 直章君
北川れん子君 井上 喜一君
一月三十日
大出彰君が会長の指名で、小委員長に選任された。
平成十五年二月十三日(木曜日)
午後二時一分開議
出席小委員
小委員長 大出 彰君
奥野 誠亮君 倉田 雅年君
谷本 龍哉君 長勢 甚遠君
野田 聖子君 葉梨 信行君
平林 鴻三君 小林 憲司君
今野 東君 水島 広子君
太田 昭宏君 武山百合子君
春名 直章君 山内 惠子君
井上 喜一君
…………………………………
憲法調査会会長 中山 太郎君
憲法調査会会長代理 仙谷 由人君
参考人
(慶應義塾学事顧問)
(日本私立学校振興・共済事業団理事長) 鳥居 泰彦君
参考人
(早稲田大学教授) 岡村 遼司君
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
—————————————
二月十三日
小委員井上喜一君同月六日委員辞任につき、その補欠として井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員北川れん子君同日委員辞任につき、その補欠として山内惠子君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員野田毅君同日小委員辞任につき、その補欠として奥野誠亮君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員山内惠子君同日委員辞任につき、その補欠として北川れん子君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員奥野誠亮君同日小委員辞任につき、その補欠として野田毅君が会長の指名で小委員に選任された。
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本日の会議に付した案件
基本的人権の保障に関する件(教育を受ける権利)
————◇—————
大
大出彰#1
○大出小委員長 これより会議を開きます。
この際、一言ごあいさつ申し上げます。
先般、小委員長に選任されました大出彰でございます。
小委員の皆様の御協力をいただきまして、公正円満な運営に努めてまいりたいと存じますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。
基本的人権の保障に関する件、特に教育を受ける権利について調査を進めます。
本日は、参考人として慶應義塾学事顧問、日本私立学校振興・共済事業団理事長鳥居泰彦君及び早稲田大学教授岡村遼司君に御出席をいただいております。
この際、両参考人に一言ごあいさつ申し上げます。
本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のそれぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
本日の議事の順序について申し上げます。
まず、鳥居参考人、岡村参考人の順序で、教育を受ける権利について、教育基本法の改正に関する議論も含めまして、お一人三十分以内で御意見をお述べいただき、その後、小委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。
なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
御発言は着席のままでお願いいたします。
それでは、まず鳥居参考人からお願いいたします。
この発言だけを見る →この際、一言ごあいさつ申し上げます。
先般、小委員長に選任されました大出彰でございます。
小委員の皆様の御協力をいただきまして、公正円満な運営に努めてまいりたいと存じますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。
基本的人権の保障に関する件、特に教育を受ける権利について調査を進めます。
本日は、参考人として慶應義塾学事顧問、日本私立学校振興・共済事業団理事長鳥居泰彦君及び早稲田大学教授岡村遼司君に御出席をいただいております。
この際、両参考人に一言ごあいさつ申し上げます。
本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のそれぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
本日の議事の順序について申し上げます。
まず、鳥居参考人、岡村参考人の順序で、教育を受ける権利について、教育基本法の改正に関する議論も含めまして、お一人三十分以内で御意見をお述べいただき、その後、小委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。
なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
御発言は着席のままでお願いいたします。
それでは、まず鳥居参考人からお願いいたします。
鳥
鳥居泰彦#2
○鳥居参考人 鳥居でございます。それでは失礼して着席のままお話をさせていただきます。
お手元に私の参考人意見陳述要旨をお配りしてございます。それをごらんいただきながらお聞き取りいただきたいと思います。二ページから成っておりまして、一ページ目は、一番、二番、教育というのはどういうことなのか、それが書いてあります。これをめぐりながら最初にお話をさせていただきまして、二枚目、三番、四番、五番から八番まで、いわゆる教育権と呼ばれるものは一体どういうことなのかについてお話を申し上げたいと思います。
まず一枚目の一番でございますが、日本で今教育というふうに私たちが呼んでいるものは、もともとはエデュケーションという英語の訳語でございます。エデュケーションを何という日本語にするかをめぐりまして、森有礼文部卿と福沢諭吉との間に意見の対立があったというふうに巷間言われておりますが、実際には意見の対立ではなくて、二人は非常に仲のいい議論をしておりました。余計なことですが、森有礼の仲人が福沢諭吉でありましたので、二人は大変仲がよかったと思います。
森有礼は、このエデュケーションの訳語として教育という言葉を最初から使っておりました。福沢諭吉は後に、明治二十二年に、時事新報の中で、教育という言葉もいいけれども、実はエデュケーションという言葉の中には人間が持っている能力を開発するという意味が含まれている、そのことをあらわす何らかの言葉が必要なのではないかということを言っております。御存じのとおり、森文部卿は明治二十二年に暗殺されておりますので、その直前に福沢が書いたものと思われます。
私、今このことを申し上げるのは、実は、私たちが教育権ということを考えるとき、教育とは何かということをまず考えなければいけない。そのときには、教え育てるという意味、いわゆる訓育という意味と同時に能力を開発するという意味と両方を大切にしなければならないということをこの二人の意見が示唆しているように思うからでございます。
この能力を開発するという言葉に対応する二文字のうまい日本語はないように思われます。でありますので、そのことにこだわらず、中身について少し考えてみたいのですが、今日、あえてこの能力を開発するという言葉を学習という言葉に置きかえてみますと比較的よくわかるのではないかと思います。学習をするというのは、自己、みずから学習をする自己開発という側面と、学習の仕方を教える、学習をさせてあげるという他律的な側面とがあるわけでございます。後ほどお話をいたしますが、フランスの教育基本法の中では、学習をする権利が国民にはあるということを述べ、同時に、国家には学習の仕方を教える義務があるということを述べています。そのような考え方はこれからの日本の教育を考える上で非常に重要なことではないかと思っています。
さて、二番目でございますが、教育という言葉の内容でございますが、(1)から(4)まで四つの側面を挙げておきました。まだこのほかにも教育に関しては考えなければならないことが多々ございますが、本日はこの四項目について少しくお話を申し上げたいと思います。
一番が人間形成、二番が基礎知識、専門知識の伝授、そして三番が学習、学習の方法、学習の支援といった側面、そして四番が成長の支援、人生設計の支援ということでございます。
まず、教育の第一の側面であります「人間形成」。
人は生まれてきたときには言葉を知りません。そして、次第に親から自然に言葉を習っていくというか、自然に覚えていくわけであります。しかし、美しい文字、美しい言葉を書くということは、家庭あるいは学校においていわゆる教育という営みによって初めてでき上がるものでありまして、今日いささかこのことが家庭においても学校においてもおろそかにされているように思いますが、我々はこれからの日本の教育の中で、改めてこの失われつつある美しい言語、美しい文字を書く、そういったことについての教育を重視しなければならないと思います。
それから、人間形成のもう一つの大事な次の側面は、習慣、社会規範、信仰あるいは感謝、そこに書いてございませんけれども道徳や作法、そういった事柄について、次第にみずから身につけていく、それが大切なことだと思います。
それから、三段目でございますが、最初、人はみずからの感情を制御することを知りませんが、成長するにつれて感情の自己統御ということを覚えていきます。そして、大人になるまでには何が罪であるかということもわかるようになるわけであります。
日本でも、刑法の最初の部分に、何をすれば罪であるかということが定義されています。各国の刑法を見てみますと、大体、罪というのが何であるかというのは共通しておりまして、人を殺すこと、物を盗むこと、うそをつくこと、つまり詐欺ですが、あるいは姦淫の罪といったようなことがほぼすべての国に共通の罪として定義されています。そして、非常に大切なことがある。各国の刑法に定義されているこの罪は、実はほとんどの宗教が戒律の中で述べていることと重なっています。そのようなことは、何らかの方法で子供のときから次第に教わっていく必要がある事柄だと思います。
それから、人間形成の四番目に大切な項目は、体力と身体能力、運動神経、そういったものを次第に身につけ、体そのものを錬磨していくということではないかと思います。
最後に、精神力、忍耐力、統率、そういったことを身につけていくことだと思います。
括弧の二番目でございますが、「基礎知識、専門知識」。これを教えるのも教育の大切な仕事でございまして、ここではあえて概念軸、時間軸、空間軸というふうにしておきましたが、物の考え方あるいは概念あるいは理論、その歴史といったようなものを、人文、社会あるいは科学、技術について、それぞれの分野で教わっていく、教えていく、それが教育だと思います。
それから、時間軸については、大昔から現代に至るまで、古典の世界から現代まで、神話の世界から現代まで、そういった流れの中で自分がどこにいるのかをわかるようにするのが大切なことだ。
それから、空間軸。世界には二百カ国近い国があり、六千近い民族がありまして、それぞれの文化や宗教や法律や制度を持っているわけです。それらについての知識を持つことによって、自分は何者なのかという位置づけができる、それが教育の大切な仕事だと思います。
三番目でございますが、学習、先ほど申しました学習、学習の方法です。教える、教わるに対して、みずから学習する、あるいは学習の方法を教わるということが大切なのですが、現在の日本の教育に関する法律制度の上では、陽表的にこの学習という権利がうたわれておりません。後ほど申し上げますが、潜在的にはかなり強くこのことが意識された上で日本の憲法を初めとする諸法律の中の教育権が規定されているというふうに法律の専門家の間では言われているようでございます。
また、この学習にはいろいろな方法がありますが、ここでは典型的な方法として、テキストや文献、教材あるいは辞書や事典、年表を初めとする情報検索、それからライブラリーやアーカイブスというものを挙げておきました。このほかにも学習の方法には、実験でありますとかフィールドワークでありますとか、いろいろなものがございまして、外国の教育の中では自然に取り入れられている国は多いのですが、日本の教育ではそれらが比較的なおざりにされているということがあると思います。
四番目でございますが、人間は生まれてから人生を終わるまで成長を続けるわけですけれども、その成長を支援する、あるいは人生設計の支援をするということが、教育、なかんずく家庭と学校にとっては大切な使命だと言われていますけれども、日本ではそのことを陽表的に法律に規定してはいないのです。
これも後ほど時間があれば御紹介いたしますけれども、フランスの教育法、イギリスの教育法あるいは韓国の教育法では、学校の大切な役割として人生設計を支援するというコンセプトが陽表的に書かれています。日本もこういったことを、学校のやることじゃない、教員のやることじゃないというふうに決めつけないで、新しい時代にふさわしい教育のもう一つの役割を見直す必要があるように思います。
以上申し上げました(1)から(4)までの事柄は、一体だれがやるのかということを考える必要がありまして、それに関しては、親兄弟がやるべきこと、コミュニティーがやるべきこと、そして学校が行うべきこと、それらの役割分担をもう一度改めて考え直す必要があるというふうに思います。
時間の関係で、この一ページについての御説明はこのぐらいにいたしまして、二ページに行かせていただきます。
二ページのまず三番でございますが、「旧憲法下における教育を受ける権利」。これにつきましては、私、ただいまここに到着してから、こういう資料があることを初めて教えていただいたのですが、皆様のお机の上に、委員室備えつけ用となっておりまして、日本国憲法及び国会関係法規等というのがございます。それから、もう一冊、その二つ手前の資料で、衆憲資第十五号、教育を受ける権利に関する基礎的資料というのがございます。ここにも幾つかの説明が既に用意されているようでございますので、私の説明はできるだけ簡単にさせていただきます。
まず、戦前における、旧憲法下における教育を受ける権利でございますが、明治二十二年発布の大日本帝国憲法は、第一章天皇に続きまして、第二章に臣民の権利及び義務として、日本国憲法の基本的人権に相当する内容の規定を置いておりましたが、その中に、実は教育に関する規定そのものがないのですね。これは、国が教育を軽視したのではなくて、警察、軍備に並んで、教育は非常に重要な役割を国家が期待していた事柄だと言われています。
では一体、教育というのはどのように扱われていたのかといいますと、旧憲法の第九条に「天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」という規定を根拠にいたしまして、憲法発布翌年に小学校令を制定いたしまして、以来、太平洋戦争の終結まで、教育関係法令は、議会の立法権の行使としての法律ではなく、天皇の行政権の行使としての勅令によって整備されることとなったというのが通説とされております。文献といたしましては、憲法学の泰斗でいらっしゃいました宮沢俊義先生の有斐閣「憲法II」、これは一九七四年版に基づいておりますけれども、それらを御参照いただければよろしいのではないかと思います。
それで、そのようなことで、天皇の勅令によって定められていたことではありますけれども、旧憲法下の日本におきましては、納税と兵役と教育というのは国民の三大義務と呼ばれておりまして、教育というのは非常に重要な義務と考えられていたと言うことができると思います。
次に、「新憲法下の教育権」の問題でございますが、これも憲法学の先生方の間での定説といたしまして、教育の権利性が法体系上出現するのは、戦後の日本国憲法、それから、それに先だって勅令主義を破って法律として制定された教育基本法以降であるというふうにされています。
この規定は、御存じのとおり、憲法二十六条に定められておりまして、憲法二十六条に定める教育を受ける権利が、日本国憲法によって保障された基本的人権の中における分類の上では社会権に位置づけられるというふうに憲法学者の間では言われているそうです。国民が人間に値する生活を営むことを保障するために、国民が国に対して一定の行為を要求する権利であるという点については、ほぼ憲法学者の意見は一致していると言われています。ただし、それがいかなる理由からいかなる性質のものとして保障されるかについては、若干学説の違いがあるようでございます。
そのことがレジュメの四番の真ん中辺に1、2、3というふうに書いてございます。
まず、1でございますが、「憲法学における古典的通説」。これは宮沢俊義先生の説を中心とする説でありますが、このように言っておられます。
「教育を受ける権利は、とりわけ高等教育に関して意味を有する。普通教育は、義務教育であり、しかも無償と定められているから、その点については、特に教育を受ける権利をいう実益は少ない。しかし、高等教育においては、義務制はみとめられず、また、無償制もみとめられないから、教育を受けることには、少なからぬ経済的負担を伴う。過去において、」これは戦前のことを言っていると思いますが、「高等教育が大はばに貧乏人に無縁だったのは、そのためである。教育を受ける権利は、この事情に着目し、貧乏人に対しても、高等教育を受ける可能性を保障しようとするものである。」というふうに、先ほど引用いたしました宮沢先生の著書に書いてございます。
そのようなわけで、このような考え方に基づきまして、この説は主として経済的な側面に注目して、憲法第二十五条に定める生存権の文化的側面を規定して、教育に伴う経済的負担への配慮を定めたものと解することができることから、生存権説あるいは経済的権利説とも言われております。
それに対しまして、二番目に、「教育内容要求権説」というふうに私、書いておきましたが、こんなふうに呼ばれているようでございますので、学説の言葉どおりをレジュメに書いておきました。
これは、教育を受ける権利の本質は、国家権力の政策ないし行政に対する積極的な教育内容までにわたる要求権を含むものであり、子供が真の主権者たり得るように、憲法の精神に即した内容の教育を国に対して要求する権利を含むという説だそうでございます。このことから、教育内容要求権説あるいは主権者教育説と称されておるようでございます。
実は、このような説はいろいろと批判がございまして、この説は、運動論としては意味があるかもしれないけれども法律論としては不適当であるとか、あるいは、主権者教育は確かに大切だけれども、教育の作用の中におのずから含まれるべきものであって、それが教育を受ける権利の主たる内容とまで位置づけられるべきではないという批判が広く行われています。
批判を論じておられる代表的な学者の名前を申し上げますと、有倉遼吉先生あるいは兼子仁先生などが挙げられます。
教育の自由はもちろん憲法の認めるところですけれども、義務教育に関する限り、その教育の内容はどこまでも日本憲法の精神に即するものでなくてはならないことは言うまでもないことです。例えば、民主主義を否定し人間性の尊重を否定するような内容を有する教育を受けることを日本国憲法が強制するなどということはナンセンスであるというふうに宮沢先生の著書では批判をしていらっしゃいます。
最後に、3でございますが、「学習権説」というのがございます。これは堀尾輝久先生によって説かれた説でありまして、すべての国民は、生まれながらにして、教育を受け学習することにより人間的に成長し発達していく権利、つまり学習権を有するものであり、それが、みずからの能力の全面的発達を可能とする教育が受けられるよう国に対して求める憲法第二十六条の権利に結実したという説でございます。これは、私が最初に御紹介いたしましたフランスの教育基本法あるいは韓国の教育基本法等にあらわれている学習権という考え方に非常に近いものだと言ってよろしいのではないかと思います。
なお、このことに関しましては、旭川学力テスト事件、最高裁の判決がございまして、判例となっています。その判決ではこんなふうに書いています。本条の規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子供は、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在しているという。これは判例となっておりますけれども、そのように論じています。
次に、私の要旨の五番でございますが、「「能力に応じて」をめぐる学説」が二つございまして、「憲法学における通説」と「教育学における通説」を簡単に御紹介いたします。
「憲法学における通説」は宮沢先生あるいは佐藤幸治先生の説でありまして、「その能力に応じて、」と憲法二十六条に書いてあるのは、これは教育を受けるに適するかどうかの能力に応じての意味である、したがって、各学校で入学試験を行い合格者だけを入学させるのは差し支えないが、教育を受ける能力と無関係な事情、財産、家庭などを理由に入学を拒否することは許されないというふうに書いています。
また、佐藤幸治先生は、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって教育上差別されないことを当然の前提とした上で、各人の能力の違いに応じて異なった内容の教育を可能ならしめるという趣旨だというふうに書いておられます。
ここで大切なことは、これらの先生方が列挙しておられる、また、憲法二十六条、十四条にも書いてあることに加えて、適性ですね。本人の適性ということをこれからどのように法律上扱っていくかということがこれからの新しい課題ではないかと思っております。これは私が思っております。
それから、5の(2)でございますが、「教育学における通説」。これは兼子仁先生の説でございますけれども、こんなふうに言っておられます。
すべての人がみずからの全面的発達を可能とするために有する学習権に基づき、この教育を受ける権利が、十分な教育を受けることを国家の積極的条件整備によって保障される国民の権利であることを踏まえ、「能力に応じて」と憲法に定めているのは、すべての子供が、その能力、発達の仕方に応じて、なるべく能力を発達できるような教育が提供されなければならないという意味であって、偏差値偏重や落ちこぼれ切り捨てを批判するのはこのような理由からである。その表裏一体として、例えば、戦前は教育を受けるに値しないとして教育制度から外されていた障害者についても、むしろ治療とあわせてすぐれた教育を受けることができるようにする必要があるということを述べておられます。
これが教育学における「能力に応じて」の通説というふうになっております。
なお、時間の関係もございますので、六番、七番は、もう皆様のお手元の資料にあるようでございますので、省略させていただきまして、「諸外国における教育権と学習権」について、最後に一言、触れさせていただきます。
私は、日本の教育基本法の改正に当たりまして大いに参考になると考えているのは、一九八〇年からイギリスのサッチャー首相が取り組まれた教育改革、そしてその中で結実された一九八八年英国教育法、これは非常に参考になると思っています。
それから、一九八九年新教育基本法、ジョスパン法と呼ばれるフランスの教育法、それから一九九七年だったと思いますが制定されました韓国の教育法、いずれも非常によくできた教育法でございます。それらの中では、先ほど冒頭に申し上げましたように、教育権ということだけに絞って申しますと、すべての国民は能力、適性に応じて教育を受ける権利を有し、生涯にわたって学習をする権利を有し、そして国はそれを支える責務があり、とりわけ韓国とフランスの場合には学習の仕方を教える責務があるという、日本では今まで存在しなかったコンセプトが書き込まれていることを重視するべきであるというふうに考えております。
時間がもうありませんので、まだ申し上げたいことはいろいろございますけれども、後ほどまた御質問に答える形でお話をさせていただきたいと思います。
委員長、ありがとうございました。拍手
この発言だけを見る →お手元に私の参考人意見陳述要旨をお配りしてございます。それをごらんいただきながらお聞き取りいただきたいと思います。二ページから成っておりまして、一ページ目は、一番、二番、教育というのはどういうことなのか、それが書いてあります。これをめぐりながら最初にお話をさせていただきまして、二枚目、三番、四番、五番から八番まで、いわゆる教育権と呼ばれるものは一体どういうことなのかについてお話を申し上げたいと思います。
まず一枚目の一番でございますが、日本で今教育というふうに私たちが呼んでいるものは、もともとはエデュケーションという英語の訳語でございます。エデュケーションを何という日本語にするかをめぐりまして、森有礼文部卿と福沢諭吉との間に意見の対立があったというふうに巷間言われておりますが、実際には意見の対立ではなくて、二人は非常に仲のいい議論をしておりました。余計なことですが、森有礼の仲人が福沢諭吉でありましたので、二人は大変仲がよかったと思います。
森有礼は、このエデュケーションの訳語として教育という言葉を最初から使っておりました。福沢諭吉は後に、明治二十二年に、時事新報の中で、教育という言葉もいいけれども、実はエデュケーションという言葉の中には人間が持っている能力を開発するという意味が含まれている、そのことをあらわす何らかの言葉が必要なのではないかということを言っております。御存じのとおり、森文部卿は明治二十二年に暗殺されておりますので、その直前に福沢が書いたものと思われます。
私、今このことを申し上げるのは、実は、私たちが教育権ということを考えるとき、教育とは何かということをまず考えなければいけない。そのときには、教え育てるという意味、いわゆる訓育という意味と同時に能力を開発するという意味と両方を大切にしなければならないということをこの二人の意見が示唆しているように思うからでございます。
この能力を開発するという言葉に対応する二文字のうまい日本語はないように思われます。でありますので、そのことにこだわらず、中身について少し考えてみたいのですが、今日、あえてこの能力を開発するという言葉を学習という言葉に置きかえてみますと比較的よくわかるのではないかと思います。学習をするというのは、自己、みずから学習をする自己開発という側面と、学習の仕方を教える、学習をさせてあげるという他律的な側面とがあるわけでございます。後ほどお話をいたしますが、フランスの教育基本法の中では、学習をする権利が国民にはあるということを述べ、同時に、国家には学習の仕方を教える義務があるということを述べています。そのような考え方はこれからの日本の教育を考える上で非常に重要なことではないかと思っています。
さて、二番目でございますが、教育という言葉の内容でございますが、(1)から(4)まで四つの側面を挙げておきました。まだこのほかにも教育に関しては考えなければならないことが多々ございますが、本日はこの四項目について少しくお話を申し上げたいと思います。
一番が人間形成、二番が基礎知識、専門知識の伝授、そして三番が学習、学習の方法、学習の支援といった側面、そして四番が成長の支援、人生設計の支援ということでございます。
まず、教育の第一の側面であります「人間形成」。
人は生まれてきたときには言葉を知りません。そして、次第に親から自然に言葉を習っていくというか、自然に覚えていくわけであります。しかし、美しい文字、美しい言葉を書くということは、家庭あるいは学校においていわゆる教育という営みによって初めてでき上がるものでありまして、今日いささかこのことが家庭においても学校においてもおろそかにされているように思いますが、我々はこれからの日本の教育の中で、改めてこの失われつつある美しい言語、美しい文字を書く、そういったことについての教育を重視しなければならないと思います。
それから、人間形成のもう一つの大事な次の側面は、習慣、社会規範、信仰あるいは感謝、そこに書いてございませんけれども道徳や作法、そういった事柄について、次第にみずから身につけていく、それが大切なことだと思います。
それから、三段目でございますが、最初、人はみずからの感情を制御することを知りませんが、成長するにつれて感情の自己統御ということを覚えていきます。そして、大人になるまでには何が罪であるかということもわかるようになるわけであります。
日本でも、刑法の最初の部分に、何をすれば罪であるかということが定義されています。各国の刑法を見てみますと、大体、罪というのが何であるかというのは共通しておりまして、人を殺すこと、物を盗むこと、うそをつくこと、つまり詐欺ですが、あるいは姦淫の罪といったようなことがほぼすべての国に共通の罪として定義されています。そして、非常に大切なことがある。各国の刑法に定義されているこの罪は、実はほとんどの宗教が戒律の中で述べていることと重なっています。そのようなことは、何らかの方法で子供のときから次第に教わっていく必要がある事柄だと思います。
それから、人間形成の四番目に大切な項目は、体力と身体能力、運動神経、そういったものを次第に身につけ、体そのものを錬磨していくということではないかと思います。
最後に、精神力、忍耐力、統率、そういったことを身につけていくことだと思います。
括弧の二番目でございますが、「基礎知識、専門知識」。これを教えるのも教育の大切な仕事でございまして、ここではあえて概念軸、時間軸、空間軸というふうにしておきましたが、物の考え方あるいは概念あるいは理論、その歴史といったようなものを、人文、社会あるいは科学、技術について、それぞれの分野で教わっていく、教えていく、それが教育だと思います。
それから、時間軸については、大昔から現代に至るまで、古典の世界から現代まで、神話の世界から現代まで、そういった流れの中で自分がどこにいるのかをわかるようにするのが大切なことだ。
それから、空間軸。世界には二百カ国近い国があり、六千近い民族がありまして、それぞれの文化や宗教や法律や制度を持っているわけです。それらについての知識を持つことによって、自分は何者なのかという位置づけができる、それが教育の大切な仕事だと思います。
三番目でございますが、学習、先ほど申しました学習、学習の方法です。教える、教わるに対して、みずから学習する、あるいは学習の方法を教わるということが大切なのですが、現在の日本の教育に関する法律制度の上では、陽表的にこの学習という権利がうたわれておりません。後ほど申し上げますが、潜在的にはかなり強くこのことが意識された上で日本の憲法を初めとする諸法律の中の教育権が規定されているというふうに法律の専門家の間では言われているようでございます。
また、この学習にはいろいろな方法がありますが、ここでは典型的な方法として、テキストや文献、教材あるいは辞書や事典、年表を初めとする情報検索、それからライブラリーやアーカイブスというものを挙げておきました。このほかにも学習の方法には、実験でありますとかフィールドワークでありますとか、いろいろなものがございまして、外国の教育の中では自然に取り入れられている国は多いのですが、日本の教育ではそれらが比較的なおざりにされているということがあると思います。
四番目でございますが、人間は生まれてから人生を終わるまで成長を続けるわけですけれども、その成長を支援する、あるいは人生設計の支援をするということが、教育、なかんずく家庭と学校にとっては大切な使命だと言われていますけれども、日本ではそのことを陽表的に法律に規定してはいないのです。
これも後ほど時間があれば御紹介いたしますけれども、フランスの教育法、イギリスの教育法あるいは韓国の教育法では、学校の大切な役割として人生設計を支援するというコンセプトが陽表的に書かれています。日本もこういったことを、学校のやることじゃない、教員のやることじゃないというふうに決めつけないで、新しい時代にふさわしい教育のもう一つの役割を見直す必要があるように思います。
以上申し上げました(1)から(4)までの事柄は、一体だれがやるのかということを考える必要がありまして、それに関しては、親兄弟がやるべきこと、コミュニティーがやるべきこと、そして学校が行うべきこと、それらの役割分担をもう一度改めて考え直す必要があるというふうに思います。
時間の関係で、この一ページについての御説明はこのぐらいにいたしまして、二ページに行かせていただきます。
二ページのまず三番でございますが、「旧憲法下における教育を受ける権利」。これにつきましては、私、ただいまここに到着してから、こういう資料があることを初めて教えていただいたのですが、皆様のお机の上に、委員室備えつけ用となっておりまして、日本国憲法及び国会関係法規等というのがございます。それから、もう一冊、その二つ手前の資料で、衆憲資第十五号、教育を受ける権利に関する基礎的資料というのがございます。ここにも幾つかの説明が既に用意されているようでございますので、私の説明はできるだけ簡単にさせていただきます。
まず、戦前における、旧憲法下における教育を受ける権利でございますが、明治二十二年発布の大日本帝国憲法は、第一章天皇に続きまして、第二章に臣民の権利及び義務として、日本国憲法の基本的人権に相当する内容の規定を置いておりましたが、その中に、実は教育に関する規定そのものがないのですね。これは、国が教育を軽視したのではなくて、警察、軍備に並んで、教育は非常に重要な役割を国家が期待していた事柄だと言われています。
では一体、教育というのはどのように扱われていたのかといいますと、旧憲法の第九条に「天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」という規定を根拠にいたしまして、憲法発布翌年に小学校令を制定いたしまして、以来、太平洋戦争の終結まで、教育関係法令は、議会の立法権の行使としての法律ではなく、天皇の行政権の行使としての勅令によって整備されることとなったというのが通説とされております。文献といたしましては、憲法学の泰斗でいらっしゃいました宮沢俊義先生の有斐閣「憲法II」、これは一九七四年版に基づいておりますけれども、それらを御参照いただければよろしいのではないかと思います。
それで、そのようなことで、天皇の勅令によって定められていたことではありますけれども、旧憲法下の日本におきましては、納税と兵役と教育というのは国民の三大義務と呼ばれておりまして、教育というのは非常に重要な義務と考えられていたと言うことができると思います。
次に、「新憲法下の教育権」の問題でございますが、これも憲法学の先生方の間での定説といたしまして、教育の権利性が法体系上出現するのは、戦後の日本国憲法、それから、それに先だって勅令主義を破って法律として制定された教育基本法以降であるというふうにされています。
この規定は、御存じのとおり、憲法二十六条に定められておりまして、憲法二十六条に定める教育を受ける権利が、日本国憲法によって保障された基本的人権の中における分類の上では社会権に位置づけられるというふうに憲法学者の間では言われているそうです。国民が人間に値する生活を営むことを保障するために、国民が国に対して一定の行為を要求する権利であるという点については、ほぼ憲法学者の意見は一致していると言われています。ただし、それがいかなる理由からいかなる性質のものとして保障されるかについては、若干学説の違いがあるようでございます。
そのことがレジュメの四番の真ん中辺に1、2、3というふうに書いてございます。
まず、1でございますが、「憲法学における古典的通説」。これは宮沢俊義先生の説を中心とする説でありますが、このように言っておられます。
「教育を受ける権利は、とりわけ高等教育に関して意味を有する。普通教育は、義務教育であり、しかも無償と定められているから、その点については、特に教育を受ける権利をいう実益は少ない。しかし、高等教育においては、義務制はみとめられず、また、無償制もみとめられないから、教育を受けることには、少なからぬ経済的負担を伴う。過去において、」これは戦前のことを言っていると思いますが、「高等教育が大はばに貧乏人に無縁だったのは、そのためである。教育を受ける権利は、この事情に着目し、貧乏人に対しても、高等教育を受ける可能性を保障しようとするものである。」というふうに、先ほど引用いたしました宮沢先生の著書に書いてございます。
そのようなわけで、このような考え方に基づきまして、この説は主として経済的な側面に注目して、憲法第二十五条に定める生存権の文化的側面を規定して、教育に伴う経済的負担への配慮を定めたものと解することができることから、生存権説あるいは経済的権利説とも言われております。
それに対しまして、二番目に、「教育内容要求権説」というふうに私、書いておきましたが、こんなふうに呼ばれているようでございますので、学説の言葉どおりをレジュメに書いておきました。
これは、教育を受ける権利の本質は、国家権力の政策ないし行政に対する積極的な教育内容までにわたる要求権を含むものであり、子供が真の主権者たり得るように、憲法の精神に即した内容の教育を国に対して要求する権利を含むという説だそうでございます。このことから、教育内容要求権説あるいは主権者教育説と称されておるようでございます。
実は、このような説はいろいろと批判がございまして、この説は、運動論としては意味があるかもしれないけれども法律論としては不適当であるとか、あるいは、主権者教育は確かに大切だけれども、教育の作用の中におのずから含まれるべきものであって、それが教育を受ける権利の主たる内容とまで位置づけられるべきではないという批判が広く行われています。
批判を論じておられる代表的な学者の名前を申し上げますと、有倉遼吉先生あるいは兼子仁先生などが挙げられます。
教育の自由はもちろん憲法の認めるところですけれども、義務教育に関する限り、その教育の内容はどこまでも日本憲法の精神に即するものでなくてはならないことは言うまでもないことです。例えば、民主主義を否定し人間性の尊重を否定するような内容を有する教育を受けることを日本国憲法が強制するなどということはナンセンスであるというふうに宮沢先生の著書では批判をしていらっしゃいます。
最後に、3でございますが、「学習権説」というのがございます。これは堀尾輝久先生によって説かれた説でありまして、すべての国民は、生まれながらにして、教育を受け学習することにより人間的に成長し発達していく権利、つまり学習権を有するものであり、それが、みずからの能力の全面的発達を可能とする教育が受けられるよう国に対して求める憲法第二十六条の権利に結実したという説でございます。これは、私が最初に御紹介いたしましたフランスの教育基本法あるいは韓国の教育基本法等にあらわれている学習権という考え方に非常に近いものだと言ってよろしいのではないかと思います。
なお、このことに関しましては、旭川学力テスト事件、最高裁の判決がございまして、判例となっています。その判決ではこんなふうに書いています。本条の規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子供は、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在しているという。これは判例となっておりますけれども、そのように論じています。
次に、私の要旨の五番でございますが、「「能力に応じて」をめぐる学説」が二つございまして、「憲法学における通説」と「教育学における通説」を簡単に御紹介いたします。
「憲法学における通説」は宮沢先生あるいは佐藤幸治先生の説でありまして、「その能力に応じて、」と憲法二十六条に書いてあるのは、これは教育を受けるに適するかどうかの能力に応じての意味である、したがって、各学校で入学試験を行い合格者だけを入学させるのは差し支えないが、教育を受ける能力と無関係な事情、財産、家庭などを理由に入学を拒否することは許されないというふうに書いています。
また、佐藤幸治先生は、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって教育上差別されないことを当然の前提とした上で、各人の能力の違いに応じて異なった内容の教育を可能ならしめるという趣旨だというふうに書いておられます。
ここで大切なことは、これらの先生方が列挙しておられる、また、憲法二十六条、十四条にも書いてあることに加えて、適性ですね。本人の適性ということをこれからどのように法律上扱っていくかということがこれからの新しい課題ではないかと思っております。これは私が思っております。
それから、5の(2)でございますが、「教育学における通説」。これは兼子仁先生の説でございますけれども、こんなふうに言っておられます。
すべての人がみずからの全面的発達を可能とするために有する学習権に基づき、この教育を受ける権利が、十分な教育を受けることを国家の積極的条件整備によって保障される国民の権利であることを踏まえ、「能力に応じて」と憲法に定めているのは、すべての子供が、その能力、発達の仕方に応じて、なるべく能力を発達できるような教育が提供されなければならないという意味であって、偏差値偏重や落ちこぼれ切り捨てを批判するのはこのような理由からである。その表裏一体として、例えば、戦前は教育を受けるに値しないとして教育制度から外されていた障害者についても、むしろ治療とあわせてすぐれた教育を受けることができるようにする必要があるということを述べておられます。
これが教育学における「能力に応じて」の通説というふうになっております。
なお、時間の関係もございますので、六番、七番は、もう皆様のお手元の資料にあるようでございますので、省略させていただきまして、「諸外国における教育権と学習権」について、最後に一言、触れさせていただきます。
私は、日本の教育基本法の改正に当たりまして大いに参考になると考えているのは、一九八〇年からイギリスのサッチャー首相が取り組まれた教育改革、そしてその中で結実された一九八八年英国教育法、これは非常に参考になると思っています。
それから、一九八九年新教育基本法、ジョスパン法と呼ばれるフランスの教育法、それから一九九七年だったと思いますが制定されました韓国の教育法、いずれも非常によくできた教育法でございます。それらの中では、先ほど冒頭に申し上げましたように、教育権ということだけに絞って申しますと、すべての国民は能力、適性に応じて教育を受ける権利を有し、生涯にわたって学習をする権利を有し、そして国はそれを支える責務があり、とりわけ韓国とフランスの場合には学習の仕方を教える責務があるという、日本では今まで存在しなかったコンセプトが書き込まれていることを重視するべきであるというふうに考えております。
時間がもうありませんので、まだ申し上げたいことはいろいろございますけれども、後ほどまた御質問に答える形でお話をさせていただきたいと思います。
委員長、ありがとうございました。拍手
大
岡
岡村遼司#4
○岡村参考人 こんにちは、岡村です。
今、鳥居先生の方から、教育を受ける権利のかなり具体的な内容についてお話がありました。隣の先生が慶応で、僕は早稲田で、神宮球場じゃないんですけれども、きょうのこのテーマの内容を深めるという意味でいえば大変いい機会だろうというふうに思っています。
個人的なことになりますけれども、僕は一応教育学をやっていることになっています、これは本人と余り関係ないところでそういうふうに言われているのですけれども。ただ、三十年を超えましたけれども、大学の教師をやっていて、この三十年間の学生たちの物の見方、考え方、あるいはそれに基づいた行動、随分変わってきたというふうに思います。もちろん、いい面でも悪い面でも変わってきているわけですけれども、一言であらわすことはできませんけれども、やはりどういう教育を若い人たちと実際に行うかによって、その人たちが持っている力が伸びたり伸びなかったりするという意味では、教育というのは大変難しい。これは実感です。
もう一つは、僕は、卒業生が全国あるいは世界へ出かけて教師をやっています、その関係で呼ばれて、あちこちの学校で授業をすることが多いです。昨年は大体二十幾つやりました。ことしも、ことしは始まったばかりですけれども、来週また一つ二つ出かけることになっています。
特に高等学校で授業をする機会がとても多いのですけれども、ここでも子供たちのある種のうめきというかあるいは叫びというか、本当は大学に行きたくないんだけれども周りが行けというような、そういうプレッシャーがかかっている。僕はそれも教育だとは思いますけれども、それ以上に、子供たちが本当のところで何を考え、何をしたい、どういうふうに生きようとしているのかということについて、十分に受けとめるだけの教育ということがほとんどなされてこなかったな。これは教育基本法が悪いからというわけじゃ決してないわけでして、むしろ実践に類するようなそういう問題であろうかというふうに思います。
僕は、先ほど言いましたように、三十年教師をやっていて、余り大した仕事もやっていませんけれども、人に何か言うべき事柄があるとすれば、教育におぼれている。おぼれるにもいろいろなおぼれ方があるんだけれども、あるいはかけごとにおぼれるとかお酒におぼれるとかというのはあるんでしょうが、僕は、自分で言うのも非常におかしな話ですけれども、教育におぼれたな。おぼれた人間はどうしても何かわらをつかむんだけれども、僕にとってのわらというのは、これはわらと言うと大変失礼かもしれない、あるいは評価を落とすことになるかもしれないけれども、やはり教育基本法だったと思うんです。
教育基本法にいろいろな問題点が生じてきたということは事実だと思うんですね、もう五十五年たっていますから。だから今日風にファッションを改めよう、そういう短絡的な考え方を僕は持たない。むしろ、教育基本法の理念として、何が実現されなくて、何が阻害要因になっているのかということを、現場に即して、一人一人の子供に寄り添って考えていくことが我々の責任だろうというふうに思っています。
前置きはこれぐらいにしまして、レジュメにありませんけれども、ふだんと全く同じ、教室でやっているようなそういうことをきょうお話しできればと思って、ふだんどおりのレジュメにならないレジュメを書いてきました。
僕は教育学部ですけれども、実際にこの人権問題あるいは人権論というようなことについて言えば全くの素人です。大学で二十年近く人権教育、これは僕流の人権教育なので、世間で言われるような啓発とかあるいは教育によって人権感覚を高めるというのとはちょっと意味合いは違いますけれども、そういう人権教育を実際に担当してやってきた。その中でいろいろな問題を教えられてきたんですね。
つい最近のケースですと、昨年の十月に、今大変大きな問題で我々も関心を持っているんですけれども、拉致に遭ったその被害者の御家族が僕が担当している授業に来てくれました。そのときに、大学の教員もあるいは学生も、何で拉致被害者を大学に呼ぶことが人権問題なんだよ、人権教育なんだよ、こういう指摘を受けたんですね。だけれども、実際に二週にわたって授業を行い、そして生の声を伺って、学生たちの反応を見ていると、こういうところに生の人権の問題があるんだということを本当に素直に受けとめて驚いていた。
人権については、この小委員会でもう既にかなりな議論の蓄積があるようです、憲法的な問題あるいは外国の問題を含めて。それから、前回は苅谷さんが来られて、人権ではありませんけれども、教育を受ける権利、基本的な権利としてのその問題を扱われています。僕は、少し違ったスタンスでお話をしてみたいというふうに思っています。
ざっとですけれども、人権とは何だろうか、そういう人権についての一種の定義らしきものを考えてみたのですけれども、なかなか浮かばない。簡単に言いますと、僕は、人間は大変尊厳性を持っているとか、あるいは理性を持っているとか、あるいは生まれながらにして自由、平等であるという、その根拠をただしていくと、どうしても一つは自然法という考え方に到達しちゃうんですね。
自然法という考え方、これはロックあたりから出てきているのだろうと思いますけれども、人間は生まれながらにして自由であり平等である。そういう自然状態というのは一体どこにあったんだろう、これは素朴な疑問ですけれども。そういう自然法に基づいた人権根拠論、基礎づけ論というものを具現したのが、フランス革命によってつくられた人権宣言だというふうに言われています。あるいは、それより少し前に出たアメリカの独立宣言というふうに言われています。確かに、その中には、生まれながらにして自由であり、そして幸福を追求する権利を有するというふうに書かれているけれども、実際にその時代あるいはその社会における自然状態そのものが実は人権宣言なりあるいは独立宣言の中にはっきりとあらわれているというふうに見た方がわかるんですね。
例えば、フランスで、その当時、女性だとかあるいは子供だとか、それがどういう状況に置かれていたかというようなことは、だれだって少し考えればわかることです。フランス人権宣言のあの最初の表題にしても、人間と市民の権利というふうに書いてあるけれども、その人間は男であり、市民は男の市民であるということは、これも当たり前の話になっています。
それから、アメリカの独立宣言、一七七六年だったと思いますけれども、これが出されたときにアメリカは既に奴隷制というものを持っていました。黒人そのものを人間以下のものとして、あるいは人間以外のものとして扱っていた、そういう状況に乗っかって独立宣言が出された。
もちろん、その後の発展を見れば、そういう根本的なところでの人権というものの規定は大変大きな力を果たしたというふうには認めることはできると思うんですね。しかし、ある人間には人権はあるけれども、ある人間には人権は認めない。そして、その後の百年、二百年、人権を獲得するための歴史を人類は築いてきたというふうに僕は思っているんですね。
したがって、人権の根拠というのは自然法であるという考え方、あるいは理性的な動物だというふうに言ったカントのような基礎づけ論というのは、ある意味でいえば、非常に時代おくれになってしまったな。だから、二十一世紀にふさわしい人権の根拠論というふうに言えればいいのだけれども、そういうものを僕は持っているわけじゃありません。非常に単純に、常識的に言えば、人権というのは、これは根本的に生まれながらにあるんじゃなくて、それに値するだけの働きなり活動をすることによって自分のものにしていく権利であるというふうに考えたらどうだろう、そういうことを書いておきました。
人間がそれにふさわしい価値を獲得することによって権利は初めて生まれる。逆に言えば、義務というものが根底に含まれなければ、権利というのは身勝手なものだなというふうに思うわけですよね。したがって、その義務というものをどういう形で一人一人の持ち分に深めていくことができるかということが、これは一つは教育の力だろう、あるいは教育の仕事だろうというふうに思っています。
それからもう一つは、権利とよく比較される言葉で特権というのがあります、プリビリッジ。特権というのは特定の人間にのみ、ある意味でいえば、偏った権利というふうにもし言えるならば、権利というのはごくごく普通の人間に、それにふさわしい力を示すことによって獲得されるべきそういう価値だというふうに考えております。
わけのわからない言葉を使ったんだけれども、ノルマリスオブリージェという、ノーブレスオブリージェじゃないけれども、すぐれた人間、あるいは大変力を持った人間はそれにふさわしい義務を果たすべきだという考え方は、これは確かに一面の真理だろうと思うけれども、僕は、権利とかあるいは人権というのはそういうものではなくて、やはりそれに値するようなそういう生き方をした人間が自分のものにすることができる、そういうものとして権利というものを考えてみたい。
Iの「拡大・深化する人権の輪」という、これはもう言うことないわけで、どなたも言います。若干、僕流の勝手な書き方をしておきましたけれども、少なくとも自由権とかあるいは生存権とか社会権とか、そういうもろもろの権利というものは、少なくとも我々の社会では権利として万人に認められる必要があるという形では認められてきているだろう、認知されているだろう。
そのほかに、また新しい人権というものがさまざまなところで出てきていますね。僕、四つまで書いておきましたけれども、そのほかに、これは特にこの数年、目覚ましい形で進んできたことによって僕たちが挑戦を受けている人権論あるいは人権問題だと思うのですけれども、例えば、つい昨年の暮れから、あるいはことしの初めにかけて、生殖医療技術の特段の展開によってクローン人間というのが生まれてくる、あるいは、体外受精によって恐らく今日では二万とかあるいは三万のオーダーで新生児が誕生しています。
今、多分、厚生労働省の委員会の中で、親を知る権利をどういう形で認めるか、つまり、体外受精によって誕生した子供たちが一定の年齢に達して、自分の親はだれだというふうに聞かれたときに、どこまで親を情報公開するかというようなことが議論されて、国会で上程されるような話も伺っています。これは大変大きな問題だと思います。
我々の社会でも、二年ほど前だったでしょうか、クローン技術に関する規制法という法律ができました。その法律を読んでみますと、今までの人権論ではおよそ手に負えないような新しい人権論というものを僕たちは身につけなければどうにもいかないような状況に来ている。
僕はここでこういう書き方をしましたけれども、1から4あるいは5というふうに、どんどん人権の輪が広がっていくということはそれなりの必然性を持っていた、社会的な必然性あるいは政治的な、あるいは文化的な。1の次に2が来たから1がなくなるんではなくて、そういう意味でいえば、1の上に2が乗っかり、2の上に3が乗っかり、いつでも人権の層というのはそのままでありつつ広がっていく。
別の言い方をしますと、例えば、1の段階でいえば、国民にのみというのかな、言い過ぎだな、国民に関して保障されている人権、権利というのはそういう言われ方をしたと思いますけれども、でも、今、その国民の枠を超えたところでさまざまな社会的な活動というものが行われる時代になってきました。
例えば、市民というレベルでいえば、NPOだとかNGOだとか、そして、国家を超えて、ボーダーを超えてさまざまな問題にチャレンジしているという意味でいえば、社会という新しいステージが、国家の上にというのか、あるいは国家とともにというのか、そういうふうに用意されて、それにふさわしい形で実は人権というものを考えていく必要があるんじゃないかというふうに思っています。
二番目というか二枚目ですけれども、これもよくわからないんですけれども、ふだん考えていることをまとめるとこういうふうになるのかなと。教育を受ける権利を一つの例として、基本的な人権というものを考えてみたい。
一九四七年に成立を見た教育基本法というものは大変大きな働きをしたというふうに先ほど言いました。これは恐らく、いろいろな誤解があるようですけれども、少なくとも教育基本法に関して言えば、自前で、自力で、今後の文化国家というものをつくるために我々の先輩たちが大変苦労してつくったものだというふうに言えると思うんですね。教育を受ける、そういう権利がそれ以前には極めて限られた人間にしか認められていなかったということからいえば、六・三制の義務教育制というものを多くの国民にすべて開放したという意味では、大変大きな働きをした法律であったというふうに思っています。
教育に関して、そこに教育刷新委員会、資料の中にもあることですけれども、一九四六年の九月に設置を見た教育刷新委員会の議論、これはこれで、我々がもう一度丁寧に読んでみる、そういう値打ちがある審議会というか委員会であったと思うし、そこで議論されていたその内容たるや、隔世の感と言うと何か誤解を呼びそうですけれども、大変なものだったというふうに思っています。
その結果、教育を受ける権利という憲法二十六条を受けて基本法が出てきたのですけれども、刷新委員会は、その二十六条を根拠として、具体的に基本法の出自を語っています。教育立法の法律主義は、直接の根拠を第二十六条に置いている。それから一番下、アンダーラインですけれども、憲法上の要請に基づいて基本法は制定されたのだ。このことは忘れちゃいけないことだと思うのですね。
つまり、我々が今持っている憲法というもの、その憲法の理念を具体的に実現するために基本法というのはつくられたんだ。だから、憲法と切り離して、あるいは憲法がなかなか改正されそうにないから基本法だけ先にやっちゃえというのは、とても乱暴な議論だろうというふうに思っています。
こういう要請を受けた基本法は、先ほど言いましたように、教育の民主化であるとかあるいは義務教育の普及徹底、そういうレベルでは世界に誇っていいような働きをしたというふうに思っています。
これは、今の鳥居先生のお話にもありましたけれども、教育を受ける機会の均等というのは基本法の三条にあります。それから、二十六条は教育を受ける権利というふうになっています。教育を受けた、その結果の不平等とか不均衡に関しては、これはおかしいじゃないかという、先ほど学習権説というのがありましたけれども、これについて、もし時間があれば僕はちょっと触れてみたい。いずれにしても、基本的な権利として教育を受ける権利というものが根づいてきたというふうに考えてよろしいと思うのですね。
(2)ですけれども、基本的人権としてのひとしく教育を受ける権利というものをどういうふうに僕たちは実際面において実現していくかということで、たくさんの問題があるんだろうと思うけれども、二つばかり出しておきました。
これは多分、基本法の改正については、この部分は十分に議論してほしいと思うところです。言葉じりというか、あるいは言葉の問題だというふうに小さく問題をとらえられると非常に困ることだと思うので、あえてここに出しておきましたけれども、教育を受ける権利というものについて、受ける権利、これを、受ける側じゃなくて、その反対からいえば与える権利ということになっちゃうわけでして、それに比較の意味で出したんですけれども、第二十五条、二十六条の前の第二十五条で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と。
権利というのは、先ほど言いましたように、それを獲得するということだと思うのです。与えられるものじゃないんですね。与えられるものじゃない、自分で獲得するものだという意味では、実に適切に、健康で文化的な最低限度の、最低限度というのをちょっと括弧に入れたいけれども、生活を営む権利を持っている、この権利は侵害されないんだと。
ところが、同じ憲法の第二十六条で、「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と。これは、相当根本的なところで違うとらえ方だろうというふうに思っています。どういう文言がいいのか、僕に知恵があるわけじゃありませんけれども、少なくとも教育を営むというレベルで権利というものをとらえ直してほしいということをここでは述べておきたいというふうに思っています。
それからもう一つ、これも先ほど鳥居先生の話で出ましたけれども、ひとしく教育を受ける権利、こういう考え方、これを等しい教育を受ける権利というふうに読む、あるいは、そういう教育を実践しようとする現場の先生たちがたくさんいますね。
下に挙げておいた英文が、これはドラフトです。憲法のドラフトです。そこには、アン・イコール・エデュケーションというふうになっていますね。等しい教育を受ける、そういう権利を人間というか国民というか人々は持っているんだと。それぞれの能力にふさわしい等しい教育を。これは難しいです、ここは。
つまり、教育が難しいというのはこういう難しさがあるからだろうと僕は思うし、また、こうでなきゃ教育はおもしろくないなというふうに思うのですね。できる子供に難しいというか高い教育をして、できない子供に易しい教育なんというのは、こんなのは教育じゃないとは言わないけれども、大したものじゃない。むしろ、持っている力を伸ばせない子供たちにその持っている力を自分で発見させるような、そういう教育こそが実は等しい教育を受ける権利として保障されるんだろうというふうにあえて言いたいのです。
おまえ、そういうことをやっているかと言われると、いいえというふうに言わざるを得ないかもしれませんけれども、少なくともそういう理念であったと思うのですね、教育基本法の理念としては。それは、それ以前の学校体系あるいは実際に行われていた教育内容を見てみれば、おのずと明らかじゃありませんでしょうか。
そして三枚目ですけれども、あえて権利という言葉を人権という言葉に言いかえて、基本的な人権を一人一人が保障される、そういう状況、環境をつくるために、我々はもっともっと人権あるいは権利というものに関して丁寧な議論をする必要があるだろう。それを踏まえた上で、なぜ基本的な人権というものあるいは権利というものを擁護するのか、あるいは主張するのかということです。
これは、四つばかり挙げておきましたけれども、一番目ですね、切りのない経済的な富や効率の追求が国家国民にとって願わしいことだとしても、人権はそういった一方向に偏った生活に再考を促すだろうと。人間らしい生き方というふうに、人権は、豊かな経済性、あるいは物がふんだんにあるようなそういう環境に対して、自分の生活を振り返らせるという意味での力を持っているだろう。これは、我々の今の社会の現況にも大変大きな意味を持っているんじゃないかというふうに思っています。
それからもう一つ、これも特に我々の社会では大事だと思うんですけれども、とかくみんなが同じであることを強制しがちな社会集団のくびきを離れて、人権は自分にふさわしい生活感覚、僕の言葉で言えば生き方の流儀というものを個々人に与えてくれるだろう。
それから三番目、スティーブン・ルークスという、これはイギリスだったでしょうか学者ですけれども、すべて国民なら国民、集団の成員のすべての利害とか目的が一致することはまず考えられない以上、あらゆる個々人が、基礎的資源の分配、社会生活に関する法や規則の施行に際して不公正や専断からも公的に保護される必要があるだろうと。その理由は、人権という観点からだということになるだろうと思います。
それから、人権を尊重するというのは、決して、ある一人の生活そのものを、あるいは個人の尊厳ということで認めることではなくて、むしろもっともっとそういう個人が尊厳を尊厳として主張することができるような、その人の生活そのものをある意味でいえば保障するために我々は人権というものを尊重するんだ。
終わりになりますけれども、この基本的人権あるいは教育を受ける権利ということについてのきょうのテーマで、括弧の中に教育基本法改正を含むというふうになっていました。
先ほども一、二点、教育基本法のことについて愚見を述べましたけれども、僕は、憲法というものがまずできて、そしてその中で教育条項として二十六条がうたわれて、そこから法律によって教育を受ける権利というものが認められたということで基本法が出てきた。したがって、憲法そのものが十分に、今の段階で改正しなきゃいけないというような、そういう状況にあるのかどうかわかりませんけれども、少なくとも基本法だけを切り離して議論するということは、ある意味でいえば教育基本法の性格そのものをいびつなものにしてしまう。国を愛するとか家庭を大事にするとか、そういうことについてはもちろん僕も認めますけれども、そのことを基本法の中に入れるということが、どんなに基本法を、ある意味でいえば偏ったというか、あるいは窮屈なものにしてしまうか。
つまり、理念だとか原理だとか、あるいは理想と言っていいのかな、そういうものをまず我々は自分のものとしようじゃないかというところから教育基本法が始まったとすれば、今なぜ教育基本法を改正するんですかと。改正しないで、どんどん学校教育の中身は変えられてきたじゃないですかということも忘れたくないんですね。
したがって、いろいろな事項を我々は確かに議論して、教育基本法にふさわしいものにしていくだけの努力をする必要があると思うけれども、水と油を一緒にして、そして一つの器に入れてということが果たしていいことなのかどうかということ、それはやはり考えてみたいなというふうに思っています。
それからもう一つは、憲法の精神というものを丁寧に丁寧に受けとめれば、教育を受ける権利というのは、国家あるいは公共団体そのものが個人に、国民に保障するという、権利保障の規定だったと思うんですね。これは憲法の二十六条、一番代表的な例かもしれないけれども。したがって、例えば子供が教育を受ける、その権利を保障するとか、あるいは教師が教育実践をすること、その自由の保障ということを、実は二十六条あるいは教育基本法全体でうたっている。
それからもう一つは、とても大事なことだけれども、教育、つまり戦後のあの時代に、我々の社会のこれからの新しい理念というもの、あるいは民主的な国家社会を形成するための一つの生き方として、憲法に基づいて基本法が出てきたということ、これは重ねて強調しておきたいというふうに思っています。
最後になりますけれども、教育基本法の、これは通常、前文というか、前書きというふうに言っていますけれども、僕は、これは結論であり、ある意味でいえば本質だろうと思うんですね。この資料の中にもあるかというふうに思いますけれども、教育によって我々は国家社会をつくっていく。その中に、こういう文言がありましたね。普遍的でしかも個性豊かな文化の創造を可能にするような教育をつくっていこうじゃないか。普遍的でしかも個性豊かな文化。ここであえて伝統とか、あるいは歴史とかなんだとか、そういう難しいことを持ち出す必要はないんじゃないんでしょうか。
日本には独特の文化というものがある。これは僕も否定しない。しかし、そういう文化が今や危機に瀕しているから基本法を変えて、徹底的に学校教育の中で展開しようじゃないかというのであれば、これは僕の誤解かもしれないけれども、教育基本法そのものが泣くんじゃないかなと。
大変乱暴な意見を述べましたけれども、足りないところは後で、質問の段階で補わせていただきたいと思います。
ありがとうございました。拍手
この発言だけを見る →今、鳥居先生の方から、教育を受ける権利のかなり具体的な内容についてお話がありました。隣の先生が慶応で、僕は早稲田で、神宮球場じゃないんですけれども、きょうのこのテーマの内容を深めるという意味でいえば大変いい機会だろうというふうに思っています。
個人的なことになりますけれども、僕は一応教育学をやっていることになっています、これは本人と余り関係ないところでそういうふうに言われているのですけれども。ただ、三十年を超えましたけれども、大学の教師をやっていて、この三十年間の学生たちの物の見方、考え方、あるいはそれに基づいた行動、随分変わってきたというふうに思います。もちろん、いい面でも悪い面でも変わってきているわけですけれども、一言であらわすことはできませんけれども、やはりどういう教育を若い人たちと実際に行うかによって、その人たちが持っている力が伸びたり伸びなかったりするという意味では、教育というのは大変難しい。これは実感です。
もう一つは、僕は、卒業生が全国あるいは世界へ出かけて教師をやっています、その関係で呼ばれて、あちこちの学校で授業をすることが多いです。昨年は大体二十幾つやりました。ことしも、ことしは始まったばかりですけれども、来週また一つ二つ出かけることになっています。
特に高等学校で授業をする機会がとても多いのですけれども、ここでも子供たちのある種のうめきというかあるいは叫びというか、本当は大学に行きたくないんだけれども周りが行けというような、そういうプレッシャーがかかっている。僕はそれも教育だとは思いますけれども、それ以上に、子供たちが本当のところで何を考え、何をしたい、どういうふうに生きようとしているのかということについて、十分に受けとめるだけの教育ということがほとんどなされてこなかったな。これは教育基本法が悪いからというわけじゃ決してないわけでして、むしろ実践に類するようなそういう問題であろうかというふうに思います。
僕は、先ほど言いましたように、三十年教師をやっていて、余り大した仕事もやっていませんけれども、人に何か言うべき事柄があるとすれば、教育におぼれている。おぼれるにもいろいろなおぼれ方があるんだけれども、あるいはかけごとにおぼれるとかお酒におぼれるとかというのはあるんでしょうが、僕は、自分で言うのも非常におかしな話ですけれども、教育におぼれたな。おぼれた人間はどうしても何かわらをつかむんだけれども、僕にとってのわらというのは、これはわらと言うと大変失礼かもしれない、あるいは評価を落とすことになるかもしれないけれども、やはり教育基本法だったと思うんです。
教育基本法にいろいろな問題点が生じてきたということは事実だと思うんですね、もう五十五年たっていますから。だから今日風にファッションを改めよう、そういう短絡的な考え方を僕は持たない。むしろ、教育基本法の理念として、何が実現されなくて、何が阻害要因になっているのかということを、現場に即して、一人一人の子供に寄り添って考えていくことが我々の責任だろうというふうに思っています。
前置きはこれぐらいにしまして、レジュメにありませんけれども、ふだんと全く同じ、教室でやっているようなそういうことをきょうお話しできればと思って、ふだんどおりのレジュメにならないレジュメを書いてきました。
僕は教育学部ですけれども、実際にこの人権問題あるいは人権論というようなことについて言えば全くの素人です。大学で二十年近く人権教育、これは僕流の人権教育なので、世間で言われるような啓発とかあるいは教育によって人権感覚を高めるというのとはちょっと意味合いは違いますけれども、そういう人権教育を実際に担当してやってきた。その中でいろいろな問題を教えられてきたんですね。
つい最近のケースですと、昨年の十月に、今大変大きな問題で我々も関心を持っているんですけれども、拉致に遭ったその被害者の御家族が僕が担当している授業に来てくれました。そのときに、大学の教員もあるいは学生も、何で拉致被害者を大学に呼ぶことが人権問題なんだよ、人権教育なんだよ、こういう指摘を受けたんですね。だけれども、実際に二週にわたって授業を行い、そして生の声を伺って、学生たちの反応を見ていると、こういうところに生の人権の問題があるんだということを本当に素直に受けとめて驚いていた。
人権については、この小委員会でもう既にかなりな議論の蓄積があるようです、憲法的な問題あるいは外国の問題を含めて。それから、前回は苅谷さんが来られて、人権ではありませんけれども、教育を受ける権利、基本的な権利としてのその問題を扱われています。僕は、少し違ったスタンスでお話をしてみたいというふうに思っています。
ざっとですけれども、人権とは何だろうか、そういう人権についての一種の定義らしきものを考えてみたのですけれども、なかなか浮かばない。簡単に言いますと、僕は、人間は大変尊厳性を持っているとか、あるいは理性を持っているとか、あるいは生まれながらにして自由、平等であるという、その根拠をただしていくと、どうしても一つは自然法という考え方に到達しちゃうんですね。
自然法という考え方、これはロックあたりから出てきているのだろうと思いますけれども、人間は生まれながらにして自由であり平等である。そういう自然状態というのは一体どこにあったんだろう、これは素朴な疑問ですけれども。そういう自然法に基づいた人権根拠論、基礎づけ論というものを具現したのが、フランス革命によってつくられた人権宣言だというふうに言われています。あるいは、それより少し前に出たアメリカの独立宣言というふうに言われています。確かに、その中には、生まれながらにして自由であり、そして幸福を追求する権利を有するというふうに書かれているけれども、実際にその時代あるいはその社会における自然状態そのものが実は人権宣言なりあるいは独立宣言の中にはっきりとあらわれているというふうに見た方がわかるんですね。
例えば、フランスで、その当時、女性だとかあるいは子供だとか、それがどういう状況に置かれていたかというようなことは、だれだって少し考えればわかることです。フランス人権宣言のあの最初の表題にしても、人間と市民の権利というふうに書いてあるけれども、その人間は男であり、市民は男の市民であるということは、これも当たり前の話になっています。
それから、アメリカの独立宣言、一七七六年だったと思いますけれども、これが出されたときにアメリカは既に奴隷制というものを持っていました。黒人そのものを人間以下のものとして、あるいは人間以外のものとして扱っていた、そういう状況に乗っかって独立宣言が出された。
もちろん、その後の発展を見れば、そういう根本的なところでの人権というものの規定は大変大きな力を果たしたというふうには認めることはできると思うんですね。しかし、ある人間には人権はあるけれども、ある人間には人権は認めない。そして、その後の百年、二百年、人権を獲得するための歴史を人類は築いてきたというふうに僕は思っているんですね。
したがって、人権の根拠というのは自然法であるという考え方、あるいは理性的な動物だというふうに言ったカントのような基礎づけ論というのは、ある意味でいえば、非常に時代おくれになってしまったな。だから、二十一世紀にふさわしい人権の根拠論というふうに言えればいいのだけれども、そういうものを僕は持っているわけじゃありません。非常に単純に、常識的に言えば、人権というのは、これは根本的に生まれながらにあるんじゃなくて、それに値するだけの働きなり活動をすることによって自分のものにしていく権利であるというふうに考えたらどうだろう、そういうことを書いておきました。
人間がそれにふさわしい価値を獲得することによって権利は初めて生まれる。逆に言えば、義務というものが根底に含まれなければ、権利というのは身勝手なものだなというふうに思うわけですよね。したがって、その義務というものをどういう形で一人一人の持ち分に深めていくことができるかということが、これは一つは教育の力だろう、あるいは教育の仕事だろうというふうに思っています。
それからもう一つは、権利とよく比較される言葉で特権というのがあります、プリビリッジ。特権というのは特定の人間にのみ、ある意味でいえば、偏った権利というふうにもし言えるならば、権利というのはごくごく普通の人間に、それにふさわしい力を示すことによって獲得されるべきそういう価値だというふうに考えております。
わけのわからない言葉を使ったんだけれども、ノルマリスオブリージェという、ノーブレスオブリージェじゃないけれども、すぐれた人間、あるいは大変力を持った人間はそれにふさわしい義務を果たすべきだという考え方は、これは確かに一面の真理だろうと思うけれども、僕は、権利とかあるいは人権というのはそういうものではなくて、やはりそれに値するようなそういう生き方をした人間が自分のものにすることができる、そういうものとして権利というものを考えてみたい。
Iの「拡大・深化する人権の輪」という、これはもう言うことないわけで、どなたも言います。若干、僕流の勝手な書き方をしておきましたけれども、少なくとも自由権とかあるいは生存権とか社会権とか、そういうもろもろの権利というものは、少なくとも我々の社会では権利として万人に認められる必要があるという形では認められてきているだろう、認知されているだろう。
そのほかに、また新しい人権というものがさまざまなところで出てきていますね。僕、四つまで書いておきましたけれども、そのほかに、これは特にこの数年、目覚ましい形で進んできたことによって僕たちが挑戦を受けている人権論あるいは人権問題だと思うのですけれども、例えば、つい昨年の暮れから、あるいはことしの初めにかけて、生殖医療技術の特段の展開によってクローン人間というのが生まれてくる、あるいは、体外受精によって恐らく今日では二万とかあるいは三万のオーダーで新生児が誕生しています。
今、多分、厚生労働省の委員会の中で、親を知る権利をどういう形で認めるか、つまり、体外受精によって誕生した子供たちが一定の年齢に達して、自分の親はだれだというふうに聞かれたときに、どこまで親を情報公開するかというようなことが議論されて、国会で上程されるような話も伺っています。これは大変大きな問題だと思います。
我々の社会でも、二年ほど前だったでしょうか、クローン技術に関する規制法という法律ができました。その法律を読んでみますと、今までの人権論ではおよそ手に負えないような新しい人権論というものを僕たちは身につけなければどうにもいかないような状況に来ている。
僕はここでこういう書き方をしましたけれども、1から4あるいは5というふうに、どんどん人権の輪が広がっていくということはそれなりの必然性を持っていた、社会的な必然性あるいは政治的な、あるいは文化的な。1の次に2が来たから1がなくなるんではなくて、そういう意味でいえば、1の上に2が乗っかり、2の上に3が乗っかり、いつでも人権の層というのはそのままでありつつ広がっていく。
別の言い方をしますと、例えば、1の段階でいえば、国民にのみというのかな、言い過ぎだな、国民に関して保障されている人権、権利というのはそういう言われ方をしたと思いますけれども、でも、今、その国民の枠を超えたところでさまざまな社会的な活動というものが行われる時代になってきました。
例えば、市民というレベルでいえば、NPOだとかNGOだとか、そして、国家を超えて、ボーダーを超えてさまざまな問題にチャレンジしているという意味でいえば、社会という新しいステージが、国家の上にというのか、あるいは国家とともにというのか、そういうふうに用意されて、それにふさわしい形で実は人権というものを考えていく必要があるんじゃないかというふうに思っています。
二番目というか二枚目ですけれども、これもよくわからないんですけれども、ふだん考えていることをまとめるとこういうふうになるのかなと。教育を受ける権利を一つの例として、基本的な人権というものを考えてみたい。
一九四七年に成立を見た教育基本法というものは大変大きな働きをしたというふうに先ほど言いました。これは恐らく、いろいろな誤解があるようですけれども、少なくとも教育基本法に関して言えば、自前で、自力で、今後の文化国家というものをつくるために我々の先輩たちが大変苦労してつくったものだというふうに言えると思うんですね。教育を受ける、そういう権利がそれ以前には極めて限られた人間にしか認められていなかったということからいえば、六・三制の義務教育制というものを多くの国民にすべて開放したという意味では、大変大きな働きをした法律であったというふうに思っています。
教育に関して、そこに教育刷新委員会、資料の中にもあることですけれども、一九四六年の九月に設置を見た教育刷新委員会の議論、これはこれで、我々がもう一度丁寧に読んでみる、そういう値打ちがある審議会というか委員会であったと思うし、そこで議論されていたその内容たるや、隔世の感と言うと何か誤解を呼びそうですけれども、大変なものだったというふうに思っています。
その結果、教育を受ける権利という憲法二十六条を受けて基本法が出てきたのですけれども、刷新委員会は、その二十六条を根拠として、具体的に基本法の出自を語っています。教育立法の法律主義は、直接の根拠を第二十六条に置いている。それから一番下、アンダーラインですけれども、憲法上の要請に基づいて基本法は制定されたのだ。このことは忘れちゃいけないことだと思うのですね。
つまり、我々が今持っている憲法というもの、その憲法の理念を具体的に実現するために基本法というのはつくられたんだ。だから、憲法と切り離して、あるいは憲法がなかなか改正されそうにないから基本法だけ先にやっちゃえというのは、とても乱暴な議論だろうというふうに思っています。
こういう要請を受けた基本法は、先ほど言いましたように、教育の民主化であるとかあるいは義務教育の普及徹底、そういうレベルでは世界に誇っていいような働きをしたというふうに思っています。
これは、今の鳥居先生のお話にもありましたけれども、教育を受ける機会の均等というのは基本法の三条にあります。それから、二十六条は教育を受ける権利というふうになっています。教育を受けた、その結果の不平等とか不均衡に関しては、これはおかしいじゃないかという、先ほど学習権説というのがありましたけれども、これについて、もし時間があれば僕はちょっと触れてみたい。いずれにしても、基本的な権利として教育を受ける権利というものが根づいてきたというふうに考えてよろしいと思うのですね。
(2)ですけれども、基本的人権としてのひとしく教育を受ける権利というものをどういうふうに僕たちは実際面において実現していくかということで、たくさんの問題があるんだろうと思うけれども、二つばかり出しておきました。
これは多分、基本法の改正については、この部分は十分に議論してほしいと思うところです。言葉じりというか、あるいは言葉の問題だというふうに小さく問題をとらえられると非常に困ることだと思うので、あえてここに出しておきましたけれども、教育を受ける権利というものについて、受ける権利、これを、受ける側じゃなくて、その反対からいえば与える権利ということになっちゃうわけでして、それに比較の意味で出したんですけれども、第二十五条、二十六条の前の第二十五条で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と。
権利というのは、先ほど言いましたように、それを獲得するということだと思うのです。与えられるものじゃないんですね。与えられるものじゃない、自分で獲得するものだという意味では、実に適切に、健康で文化的な最低限度の、最低限度というのをちょっと括弧に入れたいけれども、生活を営む権利を持っている、この権利は侵害されないんだと。
ところが、同じ憲法の第二十六条で、「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と。これは、相当根本的なところで違うとらえ方だろうというふうに思っています。どういう文言がいいのか、僕に知恵があるわけじゃありませんけれども、少なくとも教育を営むというレベルで権利というものをとらえ直してほしいということをここでは述べておきたいというふうに思っています。
それからもう一つ、これも先ほど鳥居先生の話で出ましたけれども、ひとしく教育を受ける権利、こういう考え方、これを等しい教育を受ける権利というふうに読む、あるいは、そういう教育を実践しようとする現場の先生たちがたくさんいますね。
下に挙げておいた英文が、これはドラフトです。憲法のドラフトです。そこには、アン・イコール・エデュケーションというふうになっていますね。等しい教育を受ける、そういう権利を人間というか国民というか人々は持っているんだと。それぞれの能力にふさわしい等しい教育を。これは難しいです、ここは。
つまり、教育が難しいというのはこういう難しさがあるからだろうと僕は思うし、また、こうでなきゃ教育はおもしろくないなというふうに思うのですね。できる子供に難しいというか高い教育をして、できない子供に易しい教育なんというのは、こんなのは教育じゃないとは言わないけれども、大したものじゃない。むしろ、持っている力を伸ばせない子供たちにその持っている力を自分で発見させるような、そういう教育こそが実は等しい教育を受ける権利として保障されるんだろうというふうにあえて言いたいのです。
おまえ、そういうことをやっているかと言われると、いいえというふうに言わざるを得ないかもしれませんけれども、少なくともそういう理念であったと思うのですね、教育基本法の理念としては。それは、それ以前の学校体系あるいは実際に行われていた教育内容を見てみれば、おのずと明らかじゃありませんでしょうか。
そして三枚目ですけれども、あえて権利という言葉を人権という言葉に言いかえて、基本的な人権を一人一人が保障される、そういう状況、環境をつくるために、我々はもっともっと人権あるいは権利というものに関して丁寧な議論をする必要があるだろう。それを踏まえた上で、なぜ基本的な人権というものあるいは権利というものを擁護するのか、あるいは主張するのかということです。
これは、四つばかり挙げておきましたけれども、一番目ですね、切りのない経済的な富や効率の追求が国家国民にとって願わしいことだとしても、人権はそういった一方向に偏った生活に再考を促すだろうと。人間らしい生き方というふうに、人権は、豊かな経済性、あるいは物がふんだんにあるようなそういう環境に対して、自分の生活を振り返らせるという意味での力を持っているだろう。これは、我々の今の社会の現況にも大変大きな意味を持っているんじゃないかというふうに思っています。
それからもう一つ、これも特に我々の社会では大事だと思うんですけれども、とかくみんなが同じであることを強制しがちな社会集団のくびきを離れて、人権は自分にふさわしい生活感覚、僕の言葉で言えば生き方の流儀というものを個々人に与えてくれるだろう。
それから三番目、スティーブン・ルークスという、これはイギリスだったでしょうか学者ですけれども、すべて国民なら国民、集団の成員のすべての利害とか目的が一致することはまず考えられない以上、あらゆる個々人が、基礎的資源の分配、社会生活に関する法や規則の施行に際して不公正や専断からも公的に保護される必要があるだろうと。その理由は、人権という観点からだということになるだろうと思います。
それから、人権を尊重するというのは、決して、ある一人の生活そのものを、あるいは個人の尊厳ということで認めることではなくて、むしろもっともっとそういう個人が尊厳を尊厳として主張することができるような、その人の生活そのものをある意味でいえば保障するために我々は人権というものを尊重するんだ。
終わりになりますけれども、この基本的人権あるいは教育を受ける権利ということについてのきょうのテーマで、括弧の中に教育基本法改正を含むというふうになっていました。
先ほども一、二点、教育基本法のことについて愚見を述べましたけれども、僕は、憲法というものがまずできて、そしてその中で教育条項として二十六条がうたわれて、そこから法律によって教育を受ける権利というものが認められたということで基本法が出てきた。したがって、憲法そのものが十分に、今の段階で改正しなきゃいけないというような、そういう状況にあるのかどうかわかりませんけれども、少なくとも基本法だけを切り離して議論するということは、ある意味でいえば教育基本法の性格そのものをいびつなものにしてしまう。国を愛するとか家庭を大事にするとか、そういうことについてはもちろん僕も認めますけれども、そのことを基本法の中に入れるということが、どんなに基本法を、ある意味でいえば偏ったというか、あるいは窮屈なものにしてしまうか。
つまり、理念だとか原理だとか、あるいは理想と言っていいのかな、そういうものをまず我々は自分のものとしようじゃないかというところから教育基本法が始まったとすれば、今なぜ教育基本法を改正するんですかと。改正しないで、どんどん学校教育の中身は変えられてきたじゃないですかということも忘れたくないんですね。
したがって、いろいろな事項を我々は確かに議論して、教育基本法にふさわしいものにしていくだけの努力をする必要があると思うけれども、水と油を一緒にして、そして一つの器に入れてということが果たしていいことなのかどうかということ、それはやはり考えてみたいなというふうに思っています。
それからもう一つは、憲法の精神というものを丁寧に丁寧に受けとめれば、教育を受ける権利というのは、国家あるいは公共団体そのものが個人に、国民に保障するという、権利保障の規定だったと思うんですね。これは憲法の二十六条、一番代表的な例かもしれないけれども。したがって、例えば子供が教育を受ける、その権利を保障するとか、あるいは教師が教育実践をすること、その自由の保障ということを、実は二十六条あるいは教育基本法全体でうたっている。
それからもう一つは、とても大事なことだけれども、教育、つまり戦後のあの時代に、我々の社会のこれからの新しい理念というもの、あるいは民主的な国家社会を形成するための一つの生き方として、憲法に基づいて基本法が出てきたということ、これは重ねて強調しておきたいというふうに思っています。
最後になりますけれども、教育基本法の、これは通常、前文というか、前書きというふうに言っていますけれども、僕は、これは結論であり、ある意味でいえば本質だろうと思うんですね。この資料の中にもあるかというふうに思いますけれども、教育によって我々は国家社会をつくっていく。その中に、こういう文言がありましたね。普遍的でしかも個性豊かな文化の創造を可能にするような教育をつくっていこうじゃないか。普遍的でしかも個性豊かな文化。ここであえて伝統とか、あるいは歴史とかなんだとか、そういう難しいことを持ち出す必要はないんじゃないんでしょうか。
日本には独特の文化というものがある。これは僕も否定しない。しかし、そういう文化が今や危機に瀕しているから基本法を変えて、徹底的に学校教育の中で展開しようじゃないかというのであれば、これは僕の誤解かもしれないけれども、教育基本法そのものが泣くんじゃないかなと。
大変乱暴な意見を述べましたけれども、足りないところは後で、質問の段階で補わせていただきたいと思います。
ありがとうございました。拍手
大
大
倉
倉田雅年#7
○倉田小委員 自由民主党の倉田雅年でございます。
両先生に大変高い見地からのお話を伺いまして、すっかり聞きほれておったと言ってはなんですが、改めて教育というものの重要性を感じさせられたわけでございます。
もう御承知のとおり、教育基本法をこれからどうしましょうかということの議論が各所で始められておるわけでございます。そうした中で、いろいろな誤解といいますか、つまらない誤解、つまらない間違いというようなものもあるものだなと思って、実はけさ、新聞の資料を見せていただきまして思ったんです。
けさの産経新聞の十五面に高崎経済大学助教授の八木さんという方が書いておられるんですが、現行の教育基本法の起草者は教育勅語を普遍的な教育理念として肯定していた。勅語と基本法との両立を考えておって、道徳教育の理念は勅語に任せ、新憲法との関係で勅語には足りない理念を基本法に入れたんだ、こんなことを書いておりますね。つまり、それだものだから、教育基本法に書いてある徳目だけでは足りなくなっちゃったんだと。
といいますのは、教育基本法ができてから、後に一年余してから、御承知のとおり、教育勅語が廃止されたという、その事実からこういうとらえ方をしたんじゃないか思うんですが、私は、この歴史的な経過の見方自体がこの先生は間違っているんじゃないかと思うんですね。
つまり、教育基本法は、確かに勅語の方が後から廃止はされましたが、教育基本法自体をつくられている段階で、勅語がもう廃止されるものという前提で、勅語にかわるものとして基本法ができたんじゃないかと考えますが、両先生、その点、私の認識が間違いなのか、この八木先生の方が正しいのか、ちょっとお教え願いたいと思う。
では、鳥居先生からお願いできますか。
この発言だけを見る →両先生に大変高い見地からのお話を伺いまして、すっかり聞きほれておったと言ってはなんですが、改めて教育というものの重要性を感じさせられたわけでございます。
もう御承知のとおり、教育基本法をこれからどうしましょうかということの議論が各所で始められておるわけでございます。そうした中で、いろいろな誤解といいますか、つまらない誤解、つまらない間違いというようなものもあるものだなと思って、実はけさ、新聞の資料を見せていただきまして思ったんです。
けさの産経新聞の十五面に高崎経済大学助教授の八木さんという方が書いておられるんですが、現行の教育基本法の起草者は教育勅語を普遍的な教育理念として肯定していた。勅語と基本法との両立を考えておって、道徳教育の理念は勅語に任せ、新憲法との関係で勅語には足りない理念を基本法に入れたんだ、こんなことを書いておりますね。つまり、それだものだから、教育基本法に書いてある徳目だけでは足りなくなっちゃったんだと。
といいますのは、教育基本法ができてから、後に一年余してから、御承知のとおり、教育勅語が廃止されたという、その事実からこういうとらえ方をしたんじゃないか思うんですが、私は、この歴史的な経過の見方自体がこの先生は間違っているんじゃないかと思うんですね。
つまり、教育基本法は、確かに勅語の方が後から廃止はされましたが、教育基本法自体をつくられている段階で、勅語がもう廃止されるものという前提で、勅語にかわるものとして基本法ができたんじゃないかと考えますが、両先生、その点、私の認識が間違いなのか、この八木先生の方が正しいのか、ちょっとお教え願いたいと思う。
では、鳥居先生からお願いできますか。
鳥
鳥居泰彦#8
○鳥居参考人 私も、けさの記事は読んでおりませんのでよくわかりませんが、事実として教育勅語というものが、教育基本法の約一年後にまず参議院で、それから続いて衆議院で効力を失ったわけですね。
これはちょっと言い過ぎかもしれませんが、私は、教育勅語は法律でも何でもなかった。極端な市民的な言葉を使えば、天皇様の独白であった。しかし、それは非常に重要な独白としての役割を戦前は持っていて、それが国民に対して実効力を持っていた。その実効力を持っていた徳目に対して、それを廃止してしまうことが、日本の文化に対するどういう影響を持つかについて、どこまで衆参両院で議論されたかは、私は不勉強でわかりません。わかりませんが、教育勅語に書かれている徳目、これは、中には随分大事なことが書かれています。しかし、それを今、それにかわって、国民、特に若い青少年にこれが大事な徳目なんですということを語って聞かせるものがだれの言葉としてもないということは事実だと思います。
ですから、私はそれにかわるものが必要だとは思いますが、それにかわるものが教育基本法であるという考えは私はとらないんです。
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ですから、私はそれにかわるものが必要だとは思いますが、それにかわるものが教育基本法であるという考えは私はとらないんです。
倉
岡
岡村遼司#10
○岡村参考人 先ほどの御質問で、四八年の六月に両院で失効確認されましたね。実際に勅語というのは天皇のお言葉ですから、だから、それはもう廃止しますよというのは御本人がやる事柄だったんだろうと思うんですね。したがって、教育基本法が制定を見た段階で効力を失った、そういう形でとらえた。したがって、二つ同時に一年三カ月併存していた、これは歴史的な事実。だけれども、実際にはその段階では教育勅語を奉読するというようなことは行われていないんですね。それから、法的にも、その時代の文部省が学校にある意味では配付したところの勅語の写しそのものも回収するというような。
それからもう一つは、GHQのその段階での配慮があったと思うんですね。教育基本法をつくるんだから、当然それをなくするという形で国会で決めればよかったことかもしれませんけれども、実は教育勅語そのものが持っていた大変大きな力というものに対して、GHQはある意味でいえばある種の敬意を表したんだろうと思いますよ。先ほど鳥居先生は天皇の独白と言われましたけれども、独白どころじゃない。そのことによってどんなことになったかということは、今小学校の子供はどうかと思うけれども、わかると思うんですね。
したがって、それを片一方に置いて、本当に集中的に約半年かけて、先ほど紹介しました刷新委員会が議論した上で基本法をつくったということ、この事実は大変尊重する必要があるんじゃないかというふうに思います。
この発言だけを見る →それからもう一つは、GHQのその段階での配慮があったと思うんですね。教育基本法をつくるんだから、当然それをなくするという形で国会で決めればよかったことかもしれませんけれども、実は教育勅語そのものが持っていた大変大きな力というものに対して、GHQはある意味でいえばある種の敬意を表したんだろうと思いますよ。先ほど鳥居先生は天皇の独白と言われましたけれども、独白どころじゃない。そのことによってどんなことになったかということは、今小学校の子供はどうかと思うけれども、わかると思うんですね。
したがって、それを片一方に置いて、本当に集中的に約半年かけて、先ほど紹介しました刷新委員会が議論した上で基本法をつくったということ、この事実は大変尊重する必要があるんじゃないかというふうに思います。
倉
倉田雅年#11
○倉田小委員 ありがとうございました。
ちなみに、田中耕太郎さん、これはもう御存じの、二十一年にこの基本法をつくった大臣でございますが、この方の「教育基本法の理論」、これの十五ページにこういうことが書いてあります。
「私は個人的には、国家が法律を以て間然するところのない教育の目的を明示することは不可能にちかいことと考える」と。しかしながら、実際には、教育基本法の前文、一条、二条にいろいろな徳目を挙げてしまっているわけです。その理由として、「法が教育の目的やその方針に立ち入ったのは、過去において教育勅語が教育の目的を宣明する法規範の性質を帯びていた結果として、それに代るべきものを制定し以て教育者に拠りどころを与える趣旨に出ていたのである。」こう書いてあるわけで、つまり、本当は基本法は徳目なんか挙げるべきじゃないと個人的には考えていたけれども、しかしながら、教育勅語というものがあって、それがなくなっちゃうと空白ができます、したがって、自分の個人的な意思には反するけれども、徳目を幾つか挙げましたと。こんなぐあいに書いてあること、御承知と思いますが、御披露しておきます。
時間はまだあるんですかね、もっとたくさん聞きたいことがあるんですが。
何かお答えがありましたら、岡村さん。
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「私は個人的には、国家が法律を以て間然するところのない教育の目的を明示することは不可能にちかいことと考える」と。しかしながら、実際には、教育基本法の前文、一条、二条にいろいろな徳目を挙げてしまっているわけです。その理由として、「法が教育の目的やその方針に立ち入ったのは、過去において教育勅語が教育の目的を宣明する法規範の性質を帯びていた結果として、それに代るべきものを制定し以て教育者に拠りどころを与える趣旨に出ていたのである。」こう書いてあるわけで、つまり、本当は基本法は徳目なんか挙げるべきじゃないと個人的には考えていたけれども、しかしながら、教育勅語というものがあって、それがなくなっちゃうと空白ができます、したがって、自分の個人的な意思には反するけれども、徳目を幾つか挙げましたと。こんなぐあいに書いてあること、御承知と思いますが、御披露しておきます。
時間はまだあるんですかね、もっとたくさん聞きたいことがあるんですが。
何かお答えがありましたら、岡村さん。
岡
岡村遼司#12
○岡村参考人 今の田中先生のその著作の中の文章だったと思いますが、一部僕は資料として四枚目に引っ張ってきました。資料2です。
一九六一年ですから、田中さんはもう既に文部大臣をおやめになって相当たった段階です。したがって、一九四六年、七年のこの段階の田中さんの考え方と、それから文部省を去られた後の考え方とでは、やはり変わりましたね、変わりました。これはどっちの考え方がいいか、そういうレベルの問題じゃありませんけれども、ここで引用しておいたこの部分は、僕は教育という問題を考えるときに非常に大事な一つの視点であろうというふうに思います。
つまり、教育というのは一般文化現象と同じく私的なものだ、そういうとらえ方をされていますね。もちろん、その私的というのは、ある意味で言えば全くもって勝手放題の個人の自由ということじゃなくて、社会に、あるいは国家に所属する個人の問題としてという意味でいえば、教育は私的な領域だ、この考え方を僕はとりたいんです。
もう一つは、田中先生だけではありませんけれども、その一九四五年、戦前と戦後の境目と、それから二十年、三十年たった段階での我々の先輩たちの物の見方、考え方というのは相当変わりましたね。名前を出すとよくないのかもしれませんけれども、例えば中教審の会長を長くやられた森戸辰男先生がおられました。森戸先生は戦前、幾つかの事件でおやめになられました、東京大学助教授を。でも、憲法を新しくつくるというか改正する段階での国会でのあの答弁というのは、大変すぐれた見地を示されたと思っているんです。
したがって、この人はこの当時はこういうことを言っていた、だけれども、またそれを伏せて、この段階ではこう言っていたというのじゃなくて、やはり一人の人間の中での意見とか考え方の深まりなり、あるいは変更というものを我々はとらえ直してみる必要があるのかなと。これは自戒の念を持って、そういうふうに言います。
この発言だけを見る →一九六一年ですから、田中さんはもう既に文部大臣をおやめになって相当たった段階です。したがって、一九四六年、七年のこの段階の田中さんの考え方と、それから文部省を去られた後の考え方とでは、やはり変わりましたね、変わりました。これはどっちの考え方がいいか、そういうレベルの問題じゃありませんけれども、ここで引用しておいたこの部分は、僕は教育という問題を考えるときに非常に大事な一つの視点であろうというふうに思います。
つまり、教育というのは一般文化現象と同じく私的なものだ、そういうとらえ方をされていますね。もちろん、その私的というのは、ある意味で言えば全くもって勝手放題の個人の自由ということじゃなくて、社会に、あるいは国家に所属する個人の問題としてという意味でいえば、教育は私的な領域だ、この考え方を僕はとりたいんです。
もう一つは、田中先生だけではありませんけれども、その一九四五年、戦前と戦後の境目と、それから二十年、三十年たった段階での我々の先輩たちの物の見方、考え方というのは相当変わりましたね。名前を出すとよくないのかもしれませんけれども、例えば中教審の会長を長くやられた森戸辰男先生がおられました。森戸先生は戦前、幾つかの事件でおやめになられました、東京大学助教授を。でも、憲法を新しくつくるというか改正する段階での国会でのあの答弁というのは、大変すぐれた見地を示されたと思っているんです。
したがって、この人はこの当時はこういうことを言っていた、だけれども、またそれを伏せて、この段階ではこう言っていたというのじゃなくて、やはり一人の人間の中での意見とか考え方の深まりなり、あるいは変更というものを我々はとらえ直してみる必要があるのかなと。これは自戒の念を持って、そういうふうに言います。
倉
倉田雅年#13
○倉田小委員 時間が終わっちゃいましたけれども、私は、田中耕太郎さんが、普遍的と認められるものだけは挙げてもいいけれども、まだ普遍的でない価値観まではこういう基本法には書くべきではないというようなことを言っていらっしゃるような気がするんです。
私は実は法律家でもございます、弁護士でございまして、そんなふうに、国を愛する心とか伝統とか、載せるか載せないかということを考えるときに、田中先生のお考えも非常に参考になるんじゃないかと思って申し述べた次第でございます。
ありがとうございました。
この発言だけを見る →私は実は法律家でもございます、弁護士でございまして、そんなふうに、国を愛する心とか伝統とか、載せるか載せないかということを考えるときに、田中先生のお考えも非常に参考になるんじゃないかと思って申し述べた次第でございます。
ありがとうございました。
大
水
水島広子#15
○水島小委員 水島広子でございます。
本日はお忙しい中、鳥居先生、岡村先生、本当にありがとうございます。限られた十分という時間ですので、現状の教育の中での問題と教育を受ける権利との関係について、何点かお伺いをしたいと思っております。
まず第一点は、これは国連の子どもの権利委員会からも指摘されていることですけれども、今の日本における不登校の問題がございます。
これは、国連の子どもの権利委員会も、学校忌避の事例が相当数に上ることを懸念するものである、そのように表明しているわけでございますけれども、まず、今の日本にこれだけ不登校の子供たちが多いという現実と、その子供たちにとっての教育を受ける権利との関係、両先生がどのようにとらえられているかということをお伺いしたいんですが、鳥居先生からよろしくお願いいたします。
この発言だけを見る →本日はお忙しい中、鳥居先生、岡村先生、本当にありがとうございます。限られた十分という時間ですので、現状の教育の中での問題と教育を受ける権利との関係について、何点かお伺いをしたいと思っております。
まず第一点は、これは国連の子どもの権利委員会からも指摘されていることですけれども、今の日本における不登校の問題がございます。
これは、国連の子どもの権利委員会も、学校忌避の事例が相当数に上ることを懸念するものである、そのように表明しているわけでございますけれども、まず、今の日本にこれだけ不登校の子供たちが多いという現実と、その子供たちにとっての教育を受ける権利との関係、両先生がどのようにとらえられているかということをお伺いしたいんですが、鳥居先生からよろしくお願いいたします。
鳥
鳥居泰彦#16
○鳥居参考人 はい、ありがとうございます。
今資料を出しますので、ちょっとお待ちください。
先ほど御紹介いたしました、一九七九年にサッチャーさんが総理に就任されて、八〇年から取り組まれた教育改革でサッチャー首相が訴えられた中に、実は不登校の問題が取り上げられています。
サッチャーさんはなぜ不登校が起こるかの直接的な原因をいきなり述べたわけではありませんが、したがって、不登校という現象とこれから申し上げるサッチャーさんが指摘した問題との間の関係が直接つながっているかどうかははっきりしないのですけれども、サッチャーが取り上げた問題は、一九八〇年のイギリスというのは、一九四四年法に基づいてずっと教育というものをやってきた、つまり一九八〇年に至ってもなお根拠法は一九四四年法だった、法律が古過ぎる、その法律が古過ぎることがどこにあらわれてきたかを彼女は列挙したわけです。
その中で、例えば教育委員会が、地方教育委員会が中心の制度になっておりまして、地方教育委員会が何でもかんでも決めるために、中央政府がこういう方向で教育の方向を決めたいと考えたときに、それが国の隅々まで浸透しないという問題がまず第一にあります。
二番目には、労働組合が非常に波の激しい時代をずっと経過してきておりますので、教員組合がもっと学校の教育に集中してほしいということを言っています。
それから三番目は、子供の自由ということをイギリスは言い過ぎたのではないか。子供たちが好きなように学ぶ時間というのを、実はイギリスでは当時やっていたんですね。それが子供たちの教室における不統一性を生んだのではないかということを言っています。
まだほかにも幾つかあるんですけれども、そういった一連のことを挙げた上で、サッチャーさんは、たくさんの諮問委員会をつくりまして、検討を命じています。例えば、ガールズ・アンド・ガールズ・オンリー・スクールズという委員会ができました。何でもかんでも男女共学ではなくて、女子高等学校、女子中学校というものの存在意義をもう一度見直してはどうかというふうなこともその委員会で諮問を受けて審議が行われているんです。
そういったようなたくさんの改革を実行する中で、彼女はその問題に取り組みました。私は、これは日本の今の問題を考える上で非常に参考になるものをたくさん含んでいると思っています。
この発言だけを見る →今資料を出しますので、ちょっとお待ちください。
先ほど御紹介いたしました、一九七九年にサッチャーさんが総理に就任されて、八〇年から取り組まれた教育改革でサッチャー首相が訴えられた中に、実は不登校の問題が取り上げられています。
サッチャーさんはなぜ不登校が起こるかの直接的な原因をいきなり述べたわけではありませんが、したがって、不登校という現象とこれから申し上げるサッチャーさんが指摘した問題との間の関係が直接つながっているかどうかははっきりしないのですけれども、サッチャーが取り上げた問題は、一九八〇年のイギリスというのは、一九四四年法に基づいてずっと教育というものをやってきた、つまり一九八〇年に至ってもなお根拠法は一九四四年法だった、法律が古過ぎる、その法律が古過ぎることがどこにあらわれてきたかを彼女は列挙したわけです。
その中で、例えば教育委員会が、地方教育委員会が中心の制度になっておりまして、地方教育委員会が何でもかんでも決めるために、中央政府がこういう方向で教育の方向を決めたいと考えたときに、それが国の隅々まで浸透しないという問題がまず第一にあります。
二番目には、労働組合が非常に波の激しい時代をずっと経過してきておりますので、教員組合がもっと学校の教育に集中してほしいということを言っています。
それから三番目は、子供の自由ということをイギリスは言い過ぎたのではないか。子供たちが好きなように学ぶ時間というのを、実はイギリスでは当時やっていたんですね。それが子供たちの教室における不統一性を生んだのではないかということを言っています。
まだほかにも幾つかあるんですけれども、そういった一連のことを挙げた上で、サッチャーさんは、たくさんの諮問委員会をつくりまして、検討を命じています。例えば、ガールズ・アンド・ガールズ・オンリー・スクールズという委員会ができました。何でもかんでも男女共学ではなくて、女子高等学校、女子中学校というものの存在意義をもう一度見直してはどうかというふうなこともその委員会で諮問を受けて審議が行われているんです。
そういったようなたくさんの改革を実行する中で、彼女はその問題に取り組みました。私は、これは日本の今の問題を考える上で非常に参考になるものをたくさん含んでいると思っています。
岡
岡村遼司#17
○岡村参考人 不登校がなぜ起こるかということについては、多分、人それぞれの理由があって、一般化してというか、まとめて言うことはできないと思うんですね。ただ、およそのことは大体理由があり、見当がつくんだろうというふうに思うんです。
きょうの資料、せっかくつくってきた、資料にもならないんですが、一番最後の英文です。五枚目です。教育を受ける権利を行使するというのはどういうことだろう。その一、ある人の文章をそこに紹介しておきましたけれども、学校というのは、次のような、無前提の格率みたいなものですね、公理によってつくられた制度なんだ。どういう公理かというと、教えられたその結果が学習なんだ。つまり、教師がしゃべったことを受け入れることがラーニングだ、そういう考え方です。これが一つ。
それからもう一つは、そういう学校教育を長い間受けていくと、いろいろな知恵がつきます。つまり、学校で、ある意味でいえば、つくったところの知恵のことをインスティチューショナル・ウイズダムというふうに言うんだろうと思うんですけれども、ある意味では学校を受け入れた子供たちというのは、学校そのもののあり方そのものを受け入れてしまうという。だけれども、実際には、学校に行かなければ世の中で困るかどうかということについて言えば、例外はいっぱいあるわけですよね。大変卑近な例かもしれないけれども、学力は低いけれども計算力は高いとか、計算高いかな、何かそういうのは随分あるから。
もう一つだけです。三番目、見てください。学校というところは私たちに、教授、先生がしゃべるそのこと、インストラクション、そのことが子供たちの学ぶという学習を生み出すんだ。それから、学校があるということが、学校教育の必要性、あるいは要求というものを生み出しているんだ。そして僕たちは、あるいは我々が一たん学校というものの必要性を学んでしまえば、我々は社会に出ても、ある意味でいえば、ここはおもしろい言い方だと思うんですけれども、シェープ・オブ・クライアント・リレーションシップ、つまり、医者と患者の関係でいえば、いつでも患者のような形でその力を持っている人たちに対して態度を示すというか、つまり、そういう意味でいえば、学校というのは大変子供たちにとって窮屈だったということだろうと思うんですね。
もちろんずるで休む子供もいるかもしれないけれども、僕はかなり個人的にもそういう子供たちとつき合っていて、それから定時制の大変ワルと言われる子供たちともつき合ってみて、やはり僕も余り行きたくなかった、そういう思いがあったから、だから逆に言えば、学校へどんどん喜んで行くという状況に今我々の社会はないということの一つのあらわれだ。だから、逆に言えば、基本を変えてじゃなくて、本当に子供たちが行きたくなるような、そういう教育実践というものをある意味では実現していくことが僕たちに課されている。自由にならないことかもしれませんけれども。
実は、これは来年度ですか、東京都の八王子は、登校拒否なり不登校を起こしている子供たちだけを集めた学校をつくるというような、そういう政策、難しい学校だなと思いますけれども、やっています。したがって、みんな金太郎あめのような、そういう一律の性格を持った学校でない学校があちこちにできれば、こういう子供たちは違ったところで自分の力を発揮する可能性を見つけるんじゃないでしょうか。
この発言だけを見る →きょうの資料、せっかくつくってきた、資料にもならないんですが、一番最後の英文です。五枚目です。教育を受ける権利を行使するというのはどういうことだろう。その一、ある人の文章をそこに紹介しておきましたけれども、学校というのは、次のような、無前提の格率みたいなものですね、公理によってつくられた制度なんだ。どういう公理かというと、教えられたその結果が学習なんだ。つまり、教師がしゃべったことを受け入れることがラーニングだ、そういう考え方です。これが一つ。
それからもう一つは、そういう学校教育を長い間受けていくと、いろいろな知恵がつきます。つまり、学校で、ある意味でいえば、つくったところの知恵のことをインスティチューショナル・ウイズダムというふうに言うんだろうと思うんですけれども、ある意味では学校を受け入れた子供たちというのは、学校そのもののあり方そのものを受け入れてしまうという。だけれども、実際には、学校に行かなければ世の中で困るかどうかということについて言えば、例外はいっぱいあるわけですよね。大変卑近な例かもしれないけれども、学力は低いけれども計算力は高いとか、計算高いかな、何かそういうのは随分あるから。
もう一つだけです。三番目、見てください。学校というところは私たちに、教授、先生がしゃべるそのこと、インストラクション、そのことが子供たちの学ぶという学習を生み出すんだ。それから、学校があるということが、学校教育の必要性、あるいは要求というものを生み出しているんだ。そして僕たちは、あるいは我々が一たん学校というものの必要性を学んでしまえば、我々は社会に出ても、ある意味でいえば、ここはおもしろい言い方だと思うんですけれども、シェープ・オブ・クライアント・リレーションシップ、つまり、医者と患者の関係でいえば、いつでも患者のような形でその力を持っている人たちに対して態度を示すというか、つまり、そういう意味でいえば、学校というのは大変子供たちにとって窮屈だったということだろうと思うんですね。
もちろんずるで休む子供もいるかもしれないけれども、僕はかなり個人的にもそういう子供たちとつき合っていて、それから定時制の大変ワルと言われる子供たちともつき合ってみて、やはり僕も余り行きたくなかった、そういう思いがあったから、だから逆に言えば、学校へどんどん喜んで行くという状況に今我々の社会はないということの一つのあらわれだ。だから、逆に言えば、基本を変えてじゃなくて、本当に子供たちが行きたくなるような、そういう教育実践というものをある意味では実現していくことが僕たちに課されている。自由にならないことかもしれませんけれども。
実は、これは来年度ですか、東京都の八王子は、登校拒否なり不登校を起こしている子供たちだけを集めた学校をつくるというような、そういう政策、難しい学校だなと思いますけれども、やっています。したがって、みんな金太郎あめのような、そういう一律の性格を持った学校でない学校があちこちにできれば、こういう子供たちは違ったところで自分の力を発揮する可能性を見つけるんじゃないでしょうか。
水
水島広子#18
○水島小委員 はい、ありがとうございます。
また、次にお伺いしたいんですけれども、今よく日本人のモラルの低下ということが言われておりまして、そのモラル教育とかそういうことが話題になっているわけでございます。
ただ、このモラルが低下するというのは、私は、やはり他者の権利の軽視であって、他者の権利について学ぶ機会が与えられていない、他者の権利についての教育を受ける権利が与えられていない、そのようにも解釈できると思うんですが、そんな中で、人間が多様であることをちゃんと尊重できるような教育、あるいは、先ほど岡村先生がおっしゃったように、拉致被害者の当事者を連れてきて、その現場を知らせるような、そういう教育、あるいは、日本の法律の中で、例えば、非嫡出子の差別によって生まれながらにして差別されてきた子供がどういうふうに感じてきたかということをその子の声を通して聞く教育、そのように現場感覚のある人権教育というのも非常に重要だと思って、この人権教育についても国連からも懸念が表明されていたと思いますけれども、このモラルの低下と、他者の権利を学ぶ機会が非常に今の教育の中で少ないということについて両先生がどうお考えになるか。また、モラルの低下を防いでいく、モラルの高い子供たちを育てていくために他者の権利というものをどうやって教えていくか、それぞれの先生のお考えをお知らせいただければと思います。
この発言だけを見る →また、次にお伺いしたいんですけれども、今よく日本人のモラルの低下ということが言われておりまして、そのモラル教育とかそういうことが話題になっているわけでございます。
ただ、このモラルが低下するというのは、私は、やはり他者の権利の軽視であって、他者の権利について学ぶ機会が与えられていない、他者の権利についての教育を受ける権利が与えられていない、そのようにも解釈できると思うんですが、そんな中で、人間が多様であることをちゃんと尊重できるような教育、あるいは、先ほど岡村先生がおっしゃったように、拉致被害者の当事者を連れてきて、その現場を知らせるような、そういう教育、あるいは、日本の法律の中で、例えば、非嫡出子の差別によって生まれながらにして差別されてきた子供がどういうふうに感じてきたかということをその子の声を通して聞く教育、そのように現場感覚のある人権教育というのも非常に重要だと思って、この人権教育についても国連からも懸念が表明されていたと思いますけれども、このモラルの低下と、他者の権利を学ぶ機会が非常に今の教育の中で少ないということについて両先生がどうお考えになるか。また、モラルの低下を防いでいく、モラルの高い子供たちを育てていくために他者の権利というものをどうやって教えていくか、それぞれの先生のお考えをお知らせいただければと思います。
鳥
鳥居泰彦#19
○鳥居参考人 モラルの低下のかなりの部分が、今水島先生のおっしゃる他者の権利ということを考えることができなくなっているということだということについては、私も全く同感であります。
ただ、その前に、モラルの低下という現象全体を眺めてみますと、他者の権利の問題だけではなくて、その他さまざまの問題があるように思うんです。少し言い過ぎかもしれませんけれども、モラルの教育の原点は、子供が母の胎内にいるときから始まると言われています。そして、これも有名な、「人生で一番大切なことは、幼稚園の砂場で教わった」という題の本がありますけれども、あの本の冒頭に書かれていることをずっと読んでみますと、ほとんど我々がモラルという言葉であらわしている事柄が全部出てきます。そして、それらは幼稚園で教わったということが強調されています。
私たちは、改めて今、水島先生のおっしゃる、モラルというのが一体どの範囲であるかということについての社会のコンセンサスをもう一回再構築すべきではないかと思っています。その再構築すべきモラルの範囲というのは相当広いものであって、その中に今おっしゃる他者の権利も含まれているというふうに思います。
今、他者の権利についてのみ限定してお答えを申し上げますと、私たちは、他者の権利ということは、自分自身が他者とのかかわりにおいて感ずる喜びということもまた含まなければならないというふうに思いまして、そのことを教える場は、まず何といっても家庭と、普通の成長過程における、子供それぞれの世代における社会的生活であるというふうに思うんです。
そのようなことを実現する場は、したがって家庭、それから幼稚園、電車の中、バスの中、あらゆる場所だと思います。そういうところでは、学校では絶対にできないモラル教育を私たちはできるんです。それをやる場所をやはり私たちは社会全体として構築する、その雰囲気をつくる。その雰囲気をつくる場としては学校の先生も重要な役割を果たすと思いますけれども、何といっても、繰り返しになりますが、家庭であり社会であるというふうに思っています。最後に、同時に、それをさらに学校が補強するという役割を果たすんだと思っています。
この発言だけを見る →ただ、その前に、モラルの低下という現象全体を眺めてみますと、他者の権利の問題だけではなくて、その他さまざまの問題があるように思うんです。少し言い過ぎかもしれませんけれども、モラルの教育の原点は、子供が母の胎内にいるときから始まると言われています。そして、これも有名な、「人生で一番大切なことは、幼稚園の砂場で教わった」という題の本がありますけれども、あの本の冒頭に書かれていることをずっと読んでみますと、ほとんど我々がモラルという言葉であらわしている事柄が全部出てきます。そして、それらは幼稚園で教わったということが強調されています。
私たちは、改めて今、水島先生のおっしゃる、モラルというのが一体どの範囲であるかということについての社会のコンセンサスをもう一回再構築すべきではないかと思っています。その再構築すべきモラルの範囲というのは相当広いものであって、その中に今おっしゃる他者の権利も含まれているというふうに思います。
今、他者の権利についてのみ限定してお答えを申し上げますと、私たちは、他者の権利ということは、自分自身が他者とのかかわりにおいて感ずる喜びということもまた含まなければならないというふうに思いまして、そのことを教える場は、まず何といっても家庭と、普通の成長過程における、子供それぞれの世代における社会的生活であるというふうに思うんです。
そのようなことを実現する場は、したがって家庭、それから幼稚園、電車の中、バスの中、あらゆる場所だと思います。そういうところでは、学校では絶対にできないモラル教育を私たちはできるんです。それをやる場所をやはり私たちは社会全体として構築する、その雰囲気をつくる。その雰囲気をつくる場としては学校の先生も重要な役割を果たすと思いますけれども、何といっても、繰り返しになりますが、家庭であり社会であるというふうに思っています。最後に、同時に、それをさらに学校が補強するという役割を果たすんだと思っています。
大
岡
岡村遼司#21
○岡村参考人 はい、一言で。
最近というか、この五年ぐらいですが、僕はあちこちで一人称で語るということを盛んに言ってきました。一人称で語るというのは、私はこう思うということだろうと思うんですけれども、でも、どんな人でも一人称で語る能力は持っているんですよ。だけれども、その能力がイコール権利にならない。つまり、おまえ黙ってろと学校で徹底的に言われちゃう。
そうすると、一人称で語る能力を権利として行使するということがどんなところでも行われる必要があるだろう。その場合に、僕はこう思うよ、僕はそうは思わないよという物の言い方の片一方には必ずあなたがいるんですね、もう一人の一人称がいるんですね。だけれども、家でも、お父さんとかお母さんが、あなたまだ子供でしょう、黙っていなさいというようなことで、一人称で語る権利そのものを育てようとしないということだろうと思います。
これは、学校教育全体にもかかわるような、そういう問題だと思いますけれども、一人一人が自分で物を言えるということです。そういう力をつくるという、それに尽きるような気がします。失礼しました。
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そうすると、一人称で語る能力を権利として行使するということがどんなところでも行われる必要があるだろう。その場合に、僕はこう思うよ、僕はそうは思わないよという物の言い方の片一方には必ずあなたがいるんですね、もう一人の一人称がいるんですね。だけれども、家でも、お父さんとかお母さんが、あなたまだ子供でしょう、黙っていなさいというようなことで、一人称で語る権利そのものを育てようとしないということだろうと思います。
これは、学校教育全体にもかかわるような、そういう問題だと思いますけれども、一人一人が自分で物を言えるということです。そういう力をつくるという、それに尽きるような気がします。失礼しました。
水
大
太
太田昭宏#24
○太田(昭)小委員 公明党の太田です。
憲法二十六条を読みますと、御指摘いただいたように、私は、教育というのがある意味では二十一世紀の大事な、それこそ本当に大事なテーマであるということをもう少し強く打ち出すという表現とか考え方があっていいなというふうに思っておりまして、その意味では、きょうお話をいただいた、一部の特権の者が教育を受けるということの時代という背景の中から現憲法が書かれている、もう少し積極的にという岡村先生のお話や、あるいは鳥居先生がおっしゃいました学習というようなことや方法論ということも、実は教育基本法の前に、憲法二十六条ということにもう少し膨らみをつけて二十一世紀の憲法ということの表現ぶりを考えるということは一つの考え方ではないのかな、こういうふうに思っているんですが、まず、いかがでしょうか。簡単で結構です。
この発言だけを見る →憲法二十六条を読みますと、御指摘いただいたように、私は、教育というのがある意味では二十一世紀の大事な、それこそ本当に大事なテーマであるということをもう少し強く打ち出すという表現とか考え方があっていいなというふうに思っておりまして、その意味では、きょうお話をいただいた、一部の特権の者が教育を受けるということの時代という背景の中から現憲法が書かれている、もう少し積極的にという岡村先生のお話や、あるいは鳥居先生がおっしゃいました学習というようなことや方法論ということも、実は教育基本法の前に、憲法二十六条ということにもう少し膨らみをつけて二十一世紀の憲法ということの表現ぶりを考えるということは一つの考え方ではないのかな、こういうふうに思っているんですが、まず、いかがでしょうか。簡単で結構です。
鳥
鳥居泰彦#25
○鳥居参考人 今の太田先生の御質問に、私は、ここでお答えするのは非常に難しいと思います。
私が憲法二十六条について初めて勉強したのは、文部省著作教科書「民主主義 上」「民主主義 下」という教科書でありまして、昭和二十四年から二十七年にかけて使われた、中学校の上級生と新制高等学校の下級生に対して使われた教科書です。あそこで教わった民主主義のコンセプトに基づいて私は育ってきて生きてきましたので、この二十六条に書かれていることでほとんど大事なことは語り尽くされているというふうに私は思い込んでいたんですが、今、太田先生の御質問という形でのお話を伺って、若干、ああそういう考え方もあるのかというように目を覚まされた思いではありますが、それ以上のお答えのしようがございません。
この発言だけを見る →私が憲法二十六条について初めて勉強したのは、文部省著作教科書「民主主義 上」「民主主義 下」という教科書でありまして、昭和二十四年から二十七年にかけて使われた、中学校の上級生と新制高等学校の下級生に対して使われた教科書です。あそこで教わった民主主義のコンセプトに基づいて私は育ってきて生きてきましたので、この二十六条に書かれていることでほとんど大事なことは語り尽くされているというふうに私は思い込んでいたんですが、今、太田先生の御質問という形でのお話を伺って、若干、ああそういう考え方もあるのかというように目を覚まされた思いではありますが、それ以上のお答えのしようがございません。
岡
岡村遼司#26
○岡村参考人 僕先ほど言いましたけれども、受けるということは、その前の段階で受けることができなかったという状況から、これは当然こういう条文になった、それは大変意味があったと思うんですね。だけれども、それから半世紀以上たって、先ほどの水島さんの不登校の問題もありますけれども、受けるというのは与える、つまり教育というのは教えることと育つことだ、あるいは育てることだというふうに鳥居先生言われましたけれども、教えることが余りにも勝ち過ぎていますと、もう教えてほしくないよ、受けたくないよという、これは人情として出てくるんじゃないでしょうか。
だから、僕は、今教育特区の構想がさまざま出ていて、幾つか実現しそうで期待しているんですけれども、例えば学校を選ぶ、あるいは教師を選ぶ、教育をつくる、あるいは教育を営む、言葉は丁寧に考えなきゃいけないですけれども、積極的に権利を行使する、そういう主体であることをあらわすような、そういう条文というのは絶対欲しいですね。
この発言だけを見る →だから、僕は、今教育特区の構想がさまざま出ていて、幾つか実現しそうで期待しているんですけれども、例えば学校を選ぶ、あるいは教師を選ぶ、教育をつくる、あるいは教育を営む、言葉は丁寧に考えなきゃいけないですけれども、積極的に権利を行使する、そういう主体であることをあらわすような、そういう条文というのは絶対欲しいですね。
太
太田昭宏#27
○太田(昭)小委員 教育基本法は要らないという考え方の方も何人かいらっしゃると思います。その内閣、内閣それぞれがこういう教育をしたい、そしてこういう人たちを育てたいというようなことを法律で書くというよりは、教育の中身で書くというよりは、むしろその内閣の方針とかさまざまな具体的な法律ということの中で表現をするということは一つの考え方ではないかというふうに私は思っております。
先ほど倉田先生のお話の中にもありましたが、国家が教育のどの部分にどの程度どういうふうにかかわっていくのかということにも関係するわけですが、教育基本法はむしろ要らないということ、これにはいろいろな理由があるわけですが、そういう論調に対してはどうお考えでしょうか。
この発言だけを見る →先ほど倉田先生のお話の中にもありましたが、国家が教育のどの部分にどの程度どういうふうにかかわっていくのかということにも関係するわけですが、教育基本法はむしろ要らないということ、これにはいろいろな理由があるわけですが、そういう論調に対してはどうお考えでしょうか。
鳥
鳥居泰彦#28
○鳥居参考人 私は、現行の教育基本法は、一部の改正、それから欠けているところを補う形でやはり維持した方がよろしいと考えています。
要らないという御意見の方々が、いろいろな論拠をお持ちだろうと思いますが、恐らく、要らないということに仮になりますと、この中に、現行の教育基本法に書かれている事柄のうちの一部は憲法で述べられているからもう不要である、それからまた、一部は学校教育法で述べればいい、したがって、その間に挟まっている、憲法と学校教育法の間に挟まっている基本法は不要であるということになるんだろうと思います。
しかし、私は、憲法で述べた基本理念、それをもう一度教育の法体系の一番頂点に立つものとして再定義する、その上で、そこのところでは若干理念法的な性格も帯びますが、同時に、この下に、つまり教育基本法の下に今度は連なっていくであろう学校教育法を初めとする諸法体系の中で述べられるさまざまの大事な事柄の大枠をここで決めておくという意味で、教育基本法はあった方がよろしいと考えています。
この発言だけを見る →要らないという御意見の方々が、いろいろな論拠をお持ちだろうと思いますが、恐らく、要らないということに仮になりますと、この中に、現行の教育基本法に書かれている事柄のうちの一部は憲法で述べられているからもう不要である、それからまた、一部は学校教育法で述べればいい、したがって、その間に挟まっている、憲法と学校教育法の間に挟まっている基本法は不要であるということになるんだろうと思います。
しかし、私は、憲法で述べた基本理念、それをもう一度教育の法体系の一番頂点に立つものとして再定義する、その上で、そこのところでは若干理念法的な性格も帯びますが、同時に、この下に、つまり教育基本法の下に今度は連なっていくであろう学校教育法を初めとする諸法体系の中で述べられるさまざまの大事な事柄の大枠をここで決めておくという意味で、教育基本法はあった方がよろしいと考えています。
岡
岡村遼司#29
○岡村参考人 要らないという人に、何か聞きたいですね。
先ほどから僕、まずい言葉でしゃべっているんですけれども、少なくとも、憲法の中に教育条項を丁寧に書くということはとても難しかった。したがって、二十六条で代表させて、その教育の実現は、法律によってと書かれています、教育基本法によって。したがって、その教育基本法は要らないということは、二十六条を含めて憲法そのものは要らないという話じゃないでしょうか。それで、とても乱暴な考え方を持つこと、そのことは僕は認めるんですね。だけれども、それを、ある意味でいえば正論のように言われることは、とてもまずいんだろうというふうに思います。
それからもう一つは、基本法を一部変えれば、確かに結果的に一部変わるということはあるかもしれないけれども、この部分、足りないからつけ加えようという形での改正もまずいだろうと思うんですね。それは、なぜならば、憲法そのものをある意味ではないがしろにすることになる、非常に、言い過ぎかもしれないけれども、僕は、それぐらいに基本法というのは大きな意味を持ってきたと。もしあれがなければ、我々の社会における学校教育あるいは社会教育を含めて、どういうことになってきたかというふうに考えると、ぞっとするような部分もあります。
僕自身は、レジュメの一番最後に書いておきましたけれども、教育基本法を変えちゃいけないという考え方を持っていません。変える必要があるだろうというふうに思っています。ただし、変えるのならばいいものに変えようじゃないか、そのためには時間をかけて議論して、憲法調査会は五年間ですね、したがって教育基本法も一年とかあるいは二年の議論ではなくて、もっともっと、こういう形での意見を述べ合って、それこそ一人称で語る人たちを集めて、意見を集約する努力が必要じゃないでしょうか。
この発言だけを見る →先ほどから僕、まずい言葉でしゃべっているんですけれども、少なくとも、憲法の中に教育条項を丁寧に書くということはとても難しかった。したがって、二十六条で代表させて、その教育の実現は、法律によってと書かれています、教育基本法によって。したがって、その教育基本法は要らないということは、二十六条を含めて憲法そのものは要らないという話じゃないでしょうか。それで、とても乱暴な考え方を持つこと、そのことは僕は認めるんですね。だけれども、それを、ある意味でいえば正論のように言われることは、とてもまずいんだろうというふうに思います。
それからもう一つは、基本法を一部変えれば、確かに結果的に一部変わるということはあるかもしれないけれども、この部分、足りないからつけ加えようという形での改正もまずいだろうと思うんですね。それは、なぜならば、憲法そのものをある意味ではないがしろにすることになる、非常に、言い過ぎかもしれないけれども、僕は、それぐらいに基本法というのは大きな意味を持ってきたと。もしあれがなければ、我々の社会における学校教育あるいは社会教育を含めて、どういうことになってきたかというふうに考えると、ぞっとするような部分もあります。
僕自身は、レジュメの一番最後に書いておきましたけれども、教育基本法を変えちゃいけないという考え方を持っていません。変える必要があるだろうというふうに思っています。ただし、変えるのならばいいものに変えようじゃないか、そのためには時間をかけて議論して、憲法調査会は五年間ですね、したがって教育基本法も一年とかあるいは二年の議論ではなくて、もっともっと、こういう形での意見を述べ合って、それこそ一人称で語る人たちを集めて、意見を集約する努力が必要じゃないでしょうか。