岡村遼司の発言 (憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会)

⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。 詳細は利用規約をご確認ください。

○岡村参考人 こんにちは、岡村です。
 今、鳥居先生の方から、教育を受ける権利のかなり具体的な内容についてお話がありました。隣の先生が慶応で、僕は早稲田で、神宮球場じゃないんですけれども、きょうのこのテーマの内容を深めるという意味でいえば大変いい機会だろうというふうに思っています。
 個人的なことになりますけれども、僕は一応教育学をやっていることになっています、これは本人と余り関係ないところでそういうふうに言われているのですけれども。ただ、三十年を超えましたけれども、大学の教師をやっていて、この三十年間の学生たちの物の見方、考え方、あるいはそれに基づいた行動、随分変わってきたというふうに思います。もちろん、いい面でも悪い面でも変わってきているわけですけれども、一言であらわすことはできませんけれども、やはりどういう教育を若い人たちと実際に行うかによって、その人たちが持っている力が伸びたり伸びなかったりするという意味では、教育というのは大変難しい。これは実感です。
 もう一つは、僕は、卒業生が全国あるいは世界へ出かけて教師をやっています、その関係で呼ばれて、あちこちの学校で授業をすることが多いです。昨年は大体二十幾つやりました。ことしも、ことしは始まったばかりですけれども、来週また一つ二つ出かけることになっています。
 特に高等学校で授業をする機会がとても多いのですけれども、ここでも子供たちのある種のうめきというかあるいは叫びというか、本当は大学に行きたくないんだけれども周りが行けというような、そういうプレッシャーがかかっている。僕はそれも教育だとは思いますけれども、それ以上に、子供たちが本当のところで何を考え、何をしたい、どういうふうに生きようとしているのかということについて、十分に受けとめるだけの教育ということがほとんどなされてこなかったな。これは教育基本法が悪いからというわけじゃ決してないわけでして、むしろ実践に類するようなそういう問題であろうかというふうに思います。
 僕は、先ほど言いましたように、三十年教師をやっていて、余り大した仕事もやっていませんけれども、人に何か言うべき事柄があるとすれば、教育におぼれている。おぼれるにもいろいろなおぼれ方があるんだけれども、あるいはかけごとにおぼれるとかお酒におぼれるとかというのはあるんでしょうが、僕は、自分で言うのも非常におかしな話ですけれども、教育におぼれたな。おぼれた人間はどうしても何かわらをつかむんだけれども、僕にとってのわらというのは、これはわらと言うと大変失礼かもしれない、あるいは評価を落とすことになるかもしれないけれども、やはり教育基本法だったと思うんです。
 教育基本法にいろいろな問題点が生じてきたということは事実だと思うんですね、もう五十五年たっていますから。だから今日風にファッションを改めよう、そういう短絡的な考え方を僕は持たない。むしろ、教育基本法の理念として、何が実現されなくて、何が阻害要因になっているのかということを、現場に即して、一人一人の子供に寄り添って考えていくことが我々の責任だろうというふうに思っています。
 前置きはこれぐらいにしまして、レジュメにありませんけれども、ふだんと全く同じ、教室でやっているようなそういうことをきょうお話しできればと思って、ふだんどおりのレジュメにならないレジュメを書いてきました。
 僕は教育学部ですけれども、実際にこの人権問題あるいは人権論というようなことについて言えば全くの素人です。大学で二十年近く人権教育、これは僕流の人権教育なので、世間で言われるような啓発とかあるいは教育によって人権感覚を高めるというのとはちょっと意味合いは違いますけれども、そういう人権教育を実際に担当してやってきた。その中でいろいろな問題を教えられてきたんですね。
 つい最近のケースですと、昨年の十月に、今大変大きな問題で我々も関心を持っているんですけれども、拉致に遭ったその被害者の御家族が僕が担当している授業に来てくれました。そのときに、大学の教員もあるいは学生も、何で拉致被害者を大学に呼ぶことが人権問題なんだよ、人権教育なんだよ、こういう指摘を受けたんですね。だけれども、実際に二週にわたって授業を行い、そして生の声を伺って、学生たちの反応を見ていると、こういうところに生の人権の問題があるんだということを本当に素直に受けとめて驚いていた。
 人権については、この小委員会でもう既にかなりな議論の蓄積があるようです、憲法的な問題あるいは外国の問題を含めて。それから、前回は苅谷さんが来られて、人権ではありませんけれども、教育を受ける権利、基本的な権利としてのその問題を扱われています。僕は、少し違ったスタンスでお話をしてみたいというふうに思っています。
 ざっとですけれども、人権とは何だろうか、そういう人権についての一種の定義らしきものを考えてみたのですけれども、なかなか浮かばない。簡単に言いますと、僕は、人間は大変尊厳性を持っているとか、あるいは理性を持っているとか、あるいは生まれながらにして自由、平等であるという、その根拠をただしていくと、どうしても一つは自然法という考え方に到達しちゃうんですね。
 自然法という考え方、これはロックあたりから出てきているのだろうと思いますけれども、人間は生まれながらにして自由であり平等である。そういう自然状態というのは一体どこにあったんだろう、これは素朴な疑問ですけれども。そういう自然法に基づいた人権根拠論、基礎づけ論というものを具現したのが、フランス革命によってつくられた人権宣言だというふうに言われています。あるいは、それより少し前に出たアメリカの独立宣言というふうに言われています。確かに、その中には、生まれながらにして自由であり、そして幸福を追求する権利を有するというふうに書かれているけれども、実際にその時代あるいはその社会における自然状態そのものが実は人権宣言なりあるいは独立宣言の中にはっきりとあらわれているというふうに見た方がわかるんですね。
 例えば、フランスで、その当時、女性だとかあるいは子供だとか、それがどういう状況に置かれていたかというようなことは、だれだって少し考えればわかることです。フランス人権宣言のあの最初の表題にしても、人間と市民の権利というふうに書いてあるけれども、その人間は男であり、市民は男の市民であるということは、これも当たり前の話になっています。
 それから、アメリカの独立宣言、一七七六年だったと思いますけれども、これが出されたときにアメリカは既に奴隷制というものを持っていました。黒人そのものを人間以下のものとして、あるいは人間以外のものとして扱っていた、そういう状況に乗っかって独立宣言が出された。
 もちろん、その後の発展を見れば、そういう根本的なところでの人権というものの規定は大変大きな力を果たしたというふうには認めることはできると思うんですね。しかし、ある人間には人権はあるけれども、ある人間には人権は認めない。そして、その後の百年、二百年、人権を獲得するための歴史を人類は築いてきたというふうに僕は思っているんですね。
 したがって、人権の根拠というのは自然法であるという考え方、あるいは理性的な動物だというふうに言ったカントのような基礎づけ論というのは、ある意味でいえば、非常に時代おくれになってしまったな。だから、二十一世紀にふさわしい人権の根拠論というふうに言えればいいのだけれども、そういうものを僕は持っているわけじゃありません。非常に単純に、常識的に言えば、人権というのは、これは根本的に生まれながらにあるんじゃなくて、それに値するだけの働きなり活動をすることによって自分のものにしていく権利であるというふうに考えたらどうだろう、そういうことを書いておきました。
 人間がそれにふさわしい価値を獲得することによって権利は初めて生まれる。逆に言えば、義務というものが根底に含まれなければ、権利というのは身勝手なものだなというふうに思うわけですよね。したがって、その義務というものをどういう形で一人一人の持ち分に深めていくことができるかということが、これは一つは教育の力だろう、あるいは教育の仕事だろうというふうに思っています。
 それからもう一つは、権利とよく比較される言葉で特権というのがあります、プリビリッジ。特権というのは特定の人間にのみ、ある意味でいえば、偏った権利というふうにもし言えるならば、権利というのはごくごく普通の人間に、それにふさわしい力を示すことによって獲得されるべきそういう価値だというふうに考えております。
 わけのわからない言葉を使ったんだけれども、ノルマリスオブリージェという、ノーブレスオブリージェじゃないけれども、すぐれた人間、あるいは大変力を持った人間はそれにふさわしい義務を果たすべきだという考え方は、これは確かに一面の真理だろうと思うけれども、僕は、権利とかあるいは人権というのはそういうものではなくて、やはりそれに値するようなそういう生き方をした人間が自分のものにすることができる、そういうものとして権利というものを考えてみたい。
 Iの「拡大・深化する人権の輪」という、これはもう言うことないわけで、どなたも言います。若干、僕流の勝手な書き方をしておきましたけれども、少なくとも自由権とかあるいは生存権とか社会権とか、そういうもろもろの権利というものは、少なくとも我々の社会では権利として万人に認められる必要があるという形では認められてきているだろう、認知されているだろう。
 そのほかに、また新しい人権というものがさまざまなところで出てきていますね。僕、四つまで書いておきましたけれども、そのほかに、これは特にこの数年、目覚ましい形で進んできたことによって僕たちが挑戦を受けている人権論あるいは人権問題だと思うのですけれども、例えば、つい昨年の暮れから、あるいはことしの初めにかけて、生殖医療技術の特段の展開によってクローン人間というのが生まれてくる、あるいは、体外受精によって恐らく今日では二万とかあるいは三万のオーダーで新生児が誕生しています。
 今、多分、厚生労働省の委員会の中で、親を知る権利をどういう形で認めるか、つまり、体外受精によって誕生した子供たちが一定の年齢に達して、自分の親はだれだというふうに聞かれたときに、どこまで親を情報公開するかというようなことが議論されて、国会で上程されるような話も伺っています。これは大変大きな問題だと思います。
 我々の社会でも、二年ほど前だったでしょうか、クローン技術に関する規制法という法律ができました。その法律を読んでみますと、今までの人権論ではおよそ手に負えないような新しい人権論というものを僕たちは身につけなければどうにもいかないような状況に来ている。
 僕はここでこういう書き方をしましたけれども、1から4あるいは5というふうに、どんどん人権の輪が広がっていくということはそれなりの必然性を持っていた、社会的な必然性あるいは政治的な、あるいは文化的な。1の次に2が来たから1がなくなるんではなくて、そういう意味でいえば、1の上に2が乗っかり、2の上に3が乗っかり、いつでも人権の層というのはそのままでありつつ広がっていく。
 別の言い方をしますと、例えば、1の段階でいえば、国民にのみというのかな、言い過ぎだな、国民に関して保障されている人権、権利というのはそういう言われ方をしたと思いますけれども、でも、今、その国民の枠を超えたところでさまざまな社会的な活動というものが行われる時代になってきました。
 例えば、市民というレベルでいえば、NPOだとかNGOだとか、そして、国家を超えて、ボーダーを超えてさまざまな問題にチャレンジしているという意味でいえば、社会という新しいステージが、国家の上にというのか、あるいは国家とともにというのか、そういうふうに用意されて、それにふさわしい形で実は人権というものを考えていく必要があるんじゃないかというふうに思っています。
 二番目というか二枚目ですけれども、これもよくわからないんですけれども、ふだん考えていることをまとめるとこういうふうになるのかなと。教育を受ける権利を一つの例として、基本的な人権というものを考えてみたい。
 一九四七年に成立を見た教育基本法というものは大変大きな働きをしたというふうに先ほど言いました。これは恐らく、いろいろな誤解があるようですけれども、少なくとも教育基本法に関して言えば、自前で、自力で、今後の文化国家というものをつくるために我々の先輩たちが大変苦労してつくったものだというふうに言えると思うんですね。教育を受ける、そういう権利がそれ以前には極めて限られた人間にしか認められていなかったということからいえば、六・三制の義務教育制というものを多くの国民にすべて開放したという意味では、大変大きな働きをした法律であったというふうに思っています。
 教育に関して、そこに教育刷新委員会、資料の中にもあることですけれども、一九四六年の九月に設置を見た教育刷新委員会の議論、これはこれで、我々がもう一度丁寧に読んでみる、そういう値打ちがある審議会というか委員会であったと思うし、そこで議論されていたその内容たるや、隔世の感と言うと何か誤解を呼びそうですけれども、大変なものだったというふうに思っています。
 その結果、教育を受ける権利という憲法二十六条を受けて基本法が出てきたのですけれども、刷新委員会は、その二十六条を根拠として、具体的に基本法の出自を語っています。教育立法の法律主義は、直接の根拠を第二十六条に置いている。それから一番下、アンダーラインですけれども、憲法上の要請に基づいて基本法は制定されたのだ。このことは忘れちゃいけないことだと思うのですね。
 つまり、我々が今持っている憲法というもの、その憲法の理念を具体的に実現するために基本法というのはつくられたんだ。だから、憲法と切り離して、あるいは憲法がなかなか改正されそうにないから基本法だけ先にやっちゃえというのは、とても乱暴な議論だろうというふうに思っています。
 こういう要請を受けた基本法は、先ほど言いましたように、教育の民主化であるとかあるいは義務教育の普及徹底、そういうレベルでは世界に誇っていいような働きをしたというふうに思っています。
 これは、今の鳥居先生のお話にもありましたけれども、教育を受ける機会の均等というのは基本法の三条にあります。それから、二十六条は教育を受ける権利というふうになっています。教育を受けた、その結果の不平等とか不均衡に関しては、これはおかしいじゃないかという、先ほど学習権説というのがありましたけれども、これについて、もし時間があれば僕はちょっと触れてみたい。いずれにしても、基本的な権利として教育を受ける権利というものが根づいてきたというふうに考えてよろしいと思うのですね。
 (2)ですけれども、基本的人権としてのひとしく教育を受ける権利というものをどういうふうに僕たちは実際面において実現していくかということで、たくさんの問題があるんだろうと思うけれども、二つばかり出しておきました。
 これは多分、基本法の改正については、この部分は十分に議論してほしいと思うところです。言葉じりというか、あるいは言葉の問題だというふうに小さく問題をとらえられると非常に困ることだと思うので、あえてここに出しておきましたけれども、教育を受ける権利というものについて、受ける権利、これを、受ける側じゃなくて、その反対からいえば与える権利ということになっちゃうわけでして、それに比較の意味で出したんですけれども、第二十五条、二十六条の前の第二十五条で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と。
 権利というのは、先ほど言いましたように、それを獲得するということだと思うのです。与えられるものじゃないんですね。与えられるものじゃない、自分で獲得するものだという意味では、実に適切に、健康で文化的な最低限度の、最低限度というのをちょっと括弧に入れたいけれども、生活を営む権利を持っている、この権利は侵害されないんだと。
 ところが、同じ憲法の第二十六条で、「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と。これは、相当根本的なところで違うとらえ方だろうというふうに思っています。どういう文言がいいのか、僕に知恵があるわけじゃありませんけれども、少なくとも教育を営むというレベルで権利というものをとらえ直してほしいということをここでは述べておきたいというふうに思っています。
 それからもう一つ、これも先ほど鳥居先生の話で出ましたけれども、ひとしく教育を受ける権利、こういう考え方、これを等しい教育を受ける権利というふうに読む、あるいは、そういう教育を実践しようとする現場の先生たちがたくさんいますね。
 下に挙げておいた英文が、これはドラフトです。憲法のドラフトです。そこには、アン・イコール・エデュケーションというふうになっていますね。等しい教育を受ける、そういう権利を人間というか国民というか人々は持っているんだと。それぞれの能力にふさわしい等しい教育を。これは難しいです、ここは。
 つまり、教育が難しいというのはこういう難しさがあるからだろうと僕は思うし、また、こうでなきゃ教育はおもしろくないなというふうに思うのですね。できる子供に難しいというか高い教育をして、できない子供に易しい教育なんというのは、こんなのは教育じゃないとは言わないけれども、大したものじゃない。むしろ、持っている力を伸ばせない子供たちにその持っている力を自分で発見させるような、そういう教育こそが実は等しい教育を受ける権利として保障されるんだろうというふうにあえて言いたいのです。
 おまえ、そういうことをやっているかと言われると、いいえというふうに言わざるを得ないかもしれませんけれども、少なくともそういう理念であったと思うのですね、教育基本法の理念としては。それは、それ以前の学校体系あるいは実際に行われていた教育内容を見てみれば、おのずと明らかじゃありませんでしょうか。
 そして三枚目ですけれども、あえて権利という言葉を人権という言葉に言いかえて、基本的な人権を一人一人が保障される、そういう状況、環境をつくるために、我々はもっともっと人権あるいは権利というものに関して丁寧な議論をする必要があるだろう。それを踏まえた上で、なぜ基本的な人権というものあるいは権利というものを擁護するのか、あるいは主張するのかということです。
 これは、四つばかり挙げておきましたけれども、一番目ですね、切りのない経済的な富や効率の追求が国家国民にとって願わしいことだとしても、人権はそういった一方向に偏った生活に再考を促すだろうと。人間らしい生き方というふうに、人権は、豊かな経済性、あるいは物がふんだんにあるようなそういう環境に対して、自分の生活を振り返らせるという意味での力を持っているだろう。これは、我々の今の社会の現況にも大変大きな意味を持っているんじゃないかというふうに思っています。
 それからもう一つ、これも特に我々の社会では大事だと思うんですけれども、とかくみんなが同じであることを強制しがちな社会集団のくびきを離れて、人権は自分にふさわしい生活感覚、僕の言葉で言えば生き方の流儀というものを個々人に与えてくれるだろう。
 それから三番目、スティーブン・ルークスという、これはイギリスだったでしょうか学者ですけれども、すべて国民なら国民、集団の成員のすべての利害とか目的が一致することはまず考えられない以上、あらゆる個々人が、基礎的資源の分配、社会生活に関する法や規則の施行に際して不公正や専断からも公的に保護される必要があるだろうと。その理由は、人権という観点からだということになるだろうと思います。
 それから、人権を尊重するというのは、決して、ある一人の生活そのものを、あるいは個人の尊厳ということで認めることではなくて、むしろもっともっとそういう個人が尊厳を尊厳として主張することができるような、その人の生活そのものをある意味でいえば保障するために我々は人権というものを尊重するんだ。
 終わりになりますけれども、この基本的人権あるいは教育を受ける権利ということについてのきょうのテーマで、括弧の中に教育基本法改正を含むというふうになっていました。
 先ほども一、二点、教育基本法のことについて愚見を述べましたけれども、僕は、憲法というものがまずできて、そしてその中で教育条項として二十六条がうたわれて、そこから法律によって教育を受ける権利というものが認められたということで基本法が出てきた。したがって、憲法そのものが十分に、今の段階で改正しなきゃいけないというような、そういう状況にあるのかどうかわかりませんけれども、少なくとも基本法だけを切り離して議論するということは、ある意味でいえば教育基本法の性格そのものをいびつなものにしてしまう。国を愛するとか家庭を大事にするとか、そういうことについてはもちろん僕も認めますけれども、そのことを基本法の中に入れるということが、どんなに基本法を、ある意味でいえば偏ったというか、あるいは窮屈なものにしてしまうか。
 つまり、理念だとか原理だとか、あるいは理想と言っていいのかな、そういうものをまず我々は自分のものとしようじゃないかというところから教育基本法が始まったとすれば、今なぜ教育基本法を改正するんですかと。改正しないで、どんどん学校教育の中身は変えられてきたじゃないですかということも忘れたくないんですね。
 したがって、いろいろな事項を我々は確かに議論して、教育基本法にふさわしいものにしていくだけの努力をする必要があると思うけれども、水と油を一緒にして、そして一つの器に入れてということが果たしていいことなのかどうかということ、それはやはり考えてみたいなというふうに思っています。
 それからもう一つは、憲法の精神というものを丁寧に丁寧に受けとめれば、教育を受ける権利というのは、国家あるいは公共団体そのものが個人に、国民に保障するという、権利保障の規定だったと思うんですね。これは憲法の二十六条、一番代表的な例かもしれないけれども。したがって、例えば子供が教育を受ける、その権利を保障するとか、あるいは教師が教育実践をすること、その自由の保障ということを、実は二十六条あるいは教育基本法全体でうたっている。
 それからもう一つは、とても大事なことだけれども、教育、つまり戦後のあの時代に、我々の社会のこれからの新しい理念というもの、あるいは民主的な国家社会を形成するための一つの生き方として、憲法に基づいて基本法が出てきたということ、これは重ねて強調しておきたいというふうに思っています。
 最後になりますけれども、教育基本法の、これは通常、前文というか、前書きというふうに言っていますけれども、僕は、これは結論であり、ある意味でいえば本質だろうと思うんですね。この資料の中にもあるかというふうに思いますけれども、教育によって我々は国家社会をつくっていく。その中に、こういう文言がありましたね。普遍的でしかも個性豊かな文化の創造を可能にするような教育をつくっていこうじゃないか。普遍的でしかも個性豊かな文化。ここであえて伝統とか、あるいは歴史とかなんだとか、そういう難しいことを持ち出す必要はないんじゃないんでしょうか。
 日本には独特の文化というものがある。これは僕も否定しない。しかし、そういう文化が今や危機に瀕しているから基本法を変えて、徹底的に学校教育の中で展開しようじゃないかというのであれば、これは僕の誤解かもしれないけれども、教育基本法そのものが泣くんじゃないかなと。
 大変乱暴な意見を述べましたけれども、足りないところは後で、質問の段階で補わせていただきたいと思います。
 ありがとうございました。(拍手)

発言情報

speech_id: 115604186X00120030213_004

発言者: 岡村遼司

speaker_id: 18582

日付: 2003-02-13

院: 衆議院

会議名: 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会