中村睦男の発言 (憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会)
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○中村参考人 ただいま御紹介いただきました中村でございます。
私は、長年にわたりまして憲法学者としまして、とりわけ憲法二十五条の生存権というのが私の主要な研究テーマの一つでございましたので、きょうは、こういう形で憲法調査会の小委員会で報告の機会を与えられまして、大変光栄に存じております。
お手元に一枚の簡単なレジュメをお配りしておりますので、このレジュメの順序に沿ってお話ししていきたいと思っております。
まず第一には、日本国憲法の制定と生存権でございます。
憲法二十五条は、御承知のように第一項で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という形で、国民の権利としての生存権を規定しております。第二項では、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定しまして、社会保障に対する国の責務を規定しているわけであります。
この二十五条一項の生存権の規定につきましては、日本国憲法制定に当たりましてマッカーサー草案にはなかったものを衆議院の修正によって加えられたものであります。とりわけ、衆議院の森戸辰男や鈴木義男が主張いたしまして、第一項の生存権の規定を憲法の中に入れることになったわけであります。
この第一項のもとになる規定は、日本国憲法制定に当たりまして民間の憲法草案の一つといたしまして高野岩三郎らの憲法研究会がありまして、その憲法研究会の憲法草案要綱の中で、「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」という規定があったわけでありますけれども、この規定をもとにして衆議院で修正されたということであります。
日本国憲法が押しつけられたかどうかということが一つのテーマとしてこの憲法調査会でも論議されたかと思いますけれども、この二十五条一項の規定は日本人の、日本の議会側の創意によって設けられた規定であります。そして、特にこの規定を制定するに当たって推進いたしました鈴木義男及び森戸辰男は、二十世紀の今日制定する新しい憲法の中においては最も重要な権利である、こういう主張をいたしまして、これが当時の憲法改正に関する委員会の小委員会、芦田小委員会の中でも非常に密度の高い憲法についての論議をされましたけれども、その中でも、生存権について小委員会のメンバーでも非常に密度の高い議論が展開されてこういう規定ができたということでございます。
そして、この生存権の規定は、その後の憲法の運用の中でも、国民の中にやはり意識として、人権の意識として定着していったと言うことができるかと思います。
これは、NHKの放送文化研究所では一九七〇年代から五年ごとに、同一の質問による「日本人の意識」という調査をしておりますけれども、その中でも、憲法上の権利はどれが重要か、こういう質問に対して、人間らしい暮らしをする生存権を選択する率が毎回の調査で最も高く安定しているのに対して、表現の自由とか団結権を選択する人の率が低くなっている。そういうことから、国民の意識の中にも、人権の中でも、生存権といいますか、人間らしい暮らしをする、そういう権利というのが非常に重要だという意識が定着しているということが言えるかと思います。
続きまして、第二の、生存権の法的性格の問題に入りたいと思います。
この生存権の規定が憲法の中に盛り込まれまして、一体、生存権というのは法的権利かどうかということが、当初、学説においても活発に論議されたわけであります。
その中でも、戦後初期の学説はプログラム規定説という学説でございます。これは、民法学者の我妻栄がこの説の創設者でありまして、自由権とは違って、生存権というのは生存権的基本権の一つであって、その特徴の一つは、これがプログラム規定である。すなわち、裁判上、法的に救済を受ける権利ではなくて、国の政治の目標あるいは国民にとっての道義的義務を課したそういう権利であるんだ、こういう考え方であります。
このプログラム規定説の考え方は、初期の判例におきましても、この最初にあります、昭和二十三年の最高裁の食糧管理法違反事件判決がありまして、これは、やみ米の販売購入を刑罰によって禁止する、その法律でありますけれども、ある人がやみ米を販売購入したために刑罰を科される。そういう事件において最高裁は、被告人の方では、やみ米を購入するということは自分の生存権を守る、そういう生存権を擁護する権利であるという主張に対して、いや、生存権というのは、国の政治的義務あるいは道義的義務を課したそういう規定であって、国民に具体的権利を保障したものではない、そういう判断をいたしまして被告人の生存権の主張を退けた。この事件の中でいわばプログラム規定説をとったわけであります。
しかし、その後、第二の、抽象的権利説というのが次に出てくるわけであります。
この代表的な判例は、生存権についても重要な判例といたしましては朝日訴訟判決というのがございます。朝日訴訟は、生活保護を受給していた方が、生活扶助、日用品費として六百円という公的扶助が健康で文化的な最低限度の生活に反するんだという主張をした事件でございます。
これは、昭和三十一年の時点で、生活扶助、特に日用品費、朝日さんは医療扶助を受けていましたので、日用品費は別に月額六百円であった。その当時は、生活扶助については、マーケットバスケット方式ですので、算定基準が決まっておりまして、それによれば、パンツが一枚である、肌着が二年に一着、それから重症の結核患者でありましたけれども補食費はない、これが健康で文化的な最低限度の生活に反するという主張をしたわけであります。
これに対して、朝日訴訟の第一審、東京地裁判決は、この日用品費六百円は低過ぎて、これは違法であるという判決を下したわけであります。これは、健康で文化的な最低限度の生活を営むその水準に至っていないんだという判決であります。
抽象的権利説というのはどういうことかと申しますと、憲法二十五条だけでは裁判上救済を受ける具体的権利ではないんだけれども、憲法を具体化する法律として生活保護法が制定される。そうしますと、生活保護法の規定と二十五条を一体として解釈することによって、直接には日用品費六百円の額は生活保護法に違反するんだけれども、それはひいては憲法二十五条に違反するんだ、こういう判決を下したわけでありまして、これがいわば抽象的権利説と言われている説でありまして、二十五条を具体化する法律があった場合には裁判上救済を受けることができるという判決を下したわけであります。
これは地裁判決ですので、東京高裁ではこの判決がひっくり返っておりまして、日用品費六百円は、これは安過ぎる、低過ぎるという、六百七十円程度が適当であるけれども、不当であるが違法ではないというのが東京高裁判決で、しかし、最高裁はさらに、原告の朝日さんが亡くなってしまったものですから、この訴訟は原告の死亡によって終了した、こういう二十五条の中身に入らない判決に終わったわけであります。
それからもう一つ、重要な判決といたしまして、堀木訴訟判決というのがあります。この判決は、最高裁で昭和五十七年七月七日に最高裁判決が出ておりまして、これは合憲という判決であります。しかし、この判決は、問題になったのは法律の規定でありまして、児童扶養手当法に基づく児童扶養手当と他の公的年金の併給禁止規定、児童扶養手当法上の併給禁止規定が憲法違反かどうかを争われたその事件におきまして、結論としては合憲でありますけれども、しかし同時に、これは二十五条にこの併給禁止が違反するかどうかを判断しておりますので、その意味では、裁判所の中で、二十五条によって具体的な法律の規定が合憲か違憲かということが問題になったということでありまして、これも抽象的権利説として位置づけることができるかと思います。
それからさらに、もう一つの学説として、具体的権利説というのがありまして、これは、二十五条によって直接憲法違反を争うことができるんだ、こういう学説でありました。
しかし、この説が主張していますのは、二十五条を具体化する立法が存在しない場合にどうするかという問題で、立法の不作為の違憲確認訴訟ができるというのが具体的権利説であったんですけれども、しかし、この学説に対しましては、やはり日本の現行法上、立法の不作為の違憲確認訴訟という形で争う訴訟類型はないということで、具体的権利説は少数説にとどまっておりました。
その次に、レジュメの(4)に出てきます、立法の不作為を含む立法行為と国家賠償請求訴訟という問題でありまして、最近は、その後、立法の不作為は国家賠償請求で争えるのだ、あるいは争うことができるのではないかという問題が出てきたわけであります。
この問題についての最初の最高裁判決は、このレジュメにあります、最高裁の昭和六十年の十一月二十一日判決であります。この事案は生存権ではありませんで、在宅投票制度の廃止の違憲訴訟でありまして、最高裁は、結論としては、これは違法ではないという、国家賠償請求訴訟は認めませんでしたけれども、その判決の中で、立法の不作為も一定の場合には違憲、そして、違憲というのは違法ということでありますけれども、違法になり得るんだ、そういう判示内容を示したわけであります。
このレジュメにありますように、どういう要件で立法の不作為が違法になるかというと、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定しがたいような例外的場合」、こういう例外的場合には立法の不作為も違憲になり得るんだ、しかし、在宅投票制度の廃止については、このような要件に当たらないから違法ではない、こういう判断だったわけであります。しかし、この判決の大事なのは、例外的な場合であれ、一定の場合に立法の不作為が国家賠償請求訴訟で争えるということを示した意味では非常に重要であったわけであります。
その後、選挙権以外の事案におきましても、立法の不作為の違憲を争う国家賠償請求訴訟が出されまして、下級審判決では立法の不作為の違法を認める判決が出され、注目されているわけであります。
一つが、元従軍慰安婦が争った訴訟でありまして、関釜元従軍慰安婦訴訟と言われております。その第一審判決の山口地裁下関支部判決でありますけれども、この事案は、戦後賠償ないし戦後補償をする立法が不作為だ、それがゆえに元従軍慰安婦が補償を受けられないということの国家賠償請求をした事案であります。
この判決は、先ほどの最高裁の出した立法不作為の認められる要件を緩和するという形でありまして、どういう要件であるかと申しますと、人権侵害の重大性とその救済の高度の必要性、このような場合にある場合には立法不作為が違法となり得るということを示しまして、この原告の請求を認めた、こういう判決であります。この判決は高裁ではひっくり返っておりますけれども、しかし、地裁判決として非常に注目されるのがこの判決であります。
もう一つがハンセン病に関します熊本地裁判決でありまして、これはらい予防法が違憲であるということによる国家賠償請求訴訟を起こしたという事案であります。熊本地裁の平成十三年五月十一日判決ですからごく最近の判決でありまして、これは御承知のように、熊本地裁で原告勝訴しまして、控訴しないということで、一審によって判決が確定されております。
この判決は、六十年の最高裁判決との関係についても述べまして、最高裁判決が、立法の内容が憲法の一義的文言に違反しているという要件についていえば、これは違法が極めて特殊な例外である場合に限るということの一つの例を示したものであって、これだけに限定されないんだ、こういう考え方に立ちまして、その要件としましては、人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性という要件で、ハンセン病に関する強制隔離政策をとった、そしてその後法律を改正しなかったという立法の不作為が違法であるという判決を出しまして、注目されたわけであります。
そうしますと、こういう判決はそれぞれ、生存権の事案ではありませんけれども、生存権でも同じような事案が出た場合には、やはり人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性ということから国家賠償請求訴訟で争う道は残っているという意味では、生存権については、さらにこれは、現在においては裁判上も一定の救済を受ける権利として、判例上も取り扱われているものと解することができるかと思います。
それに基づきまして、次に、レジュメの3の社会保障制度とその理念について述べていきたいと思います。
社会保障制度の理念に関しまして注目されますのは、社会保障制度審議会が一九九五年に出しました勧告、これは「社会保障体制の再構築」と題する勧告であります。この中で、一九九五年の勧告は次のように述べております。
第二次大戦後の社会保障の理念、課題が最低限度の生活を保障することであったに対して、二十一世紀における社会保障の基本理念は、「社会保障制度は、みんなのためにみんなでつくり、みんなで支えていくものとして、二十一世紀の社会連帯のあかしとしなければならない。」ということでありまして、戦後は最低限度の生活が生存権の理念であったのに対して、それにさらにプラスアルファとして、二十一世紀においては社会連帯という理念が大事であるということを指摘しているわけでございます。
その中での三つの課題といたしまして、第一は、日本の社会保障で取り残された大きな問題は社会福祉の問題で、心身に障害を持つ人々や高齢で介護を必要とする人々に対する生存権の保障は、従来最低限度の措置にとどまっていたのに対して、今後は、人間の尊厳の理念に立つ社会保障の体系の中に位置づけられなければならないということであります。
第二には、二十一世紀に向かってますます重大な問題になる高齢化に伴う身体及び生活にかかわる不安への対応は、社会保障が世代間にわたる連帯によって成立し、維持されることに関連することである。
第三に、社会保障制度は生存権を国家の責任で保障するものとして整備されてきたが、今後、生活水準の上昇に伴い生活保障のあり方が多様化し、生活保障の受け手の側に認めるべき選択権の問題が生じてくるので、その選択の幅は生存権の枠を超えて拡大していくことであるといたしまして、ここで、日本では社会連帯の理念を支える制度設計が今後必要であるという問題提起をしているということでありまして、これは私も妥当な見解であるかと思っております。
その結果、社会保障に関する構造改革として行われ、その後、政策が行われていくわけでありますけれども、その中でも大事な点として指摘されますことは、社会保障が単に公的扶助に終わらないで、これに対して社会保険あるいは生活の自立ということを観点として入れなければいけないんだ、こういうことを基本的な社会保障の構造改革の理念として具体化しようとしておりますし、さらには、社会福祉の次元におきましても、従来のような措置制度ではなくて、いわば介護保険という保険のテクニックを入れて自立を支える支給制度に持っていくという方向は、社会連帯への方向へと進んでいるものとして評価できるかと思っております。
このことから、社会保障において今後大事なのは、その負担をどうするかということを、一つはやはり税による負担ということも大事ですけれども、同時に、社会連帯のあかしとして応分の負担をそれぞれの受益者が負担する、そのことによって社会的な連帯を実現していくということが必要であるかと考えております。
私の結論になりますけれども、この高齢社会を我々が迎えまして、社会保障の新たな制度設計が今日必要とされております。そこで必要な視点は、社会保障と社会福祉の後退ではなくて、当事者たる国民ないし市民の参加と自治、さらには、当事者の応分の負担による社会保障と社会福祉の充実でなければならないと思っております。その中におきましても、二十五条の生存権の規定というのは、国民の人間らしい最低限度の生活を営む権利を有するということを確認して、その上に立って豊かな社会保障制度を構築することが、やはり今日の私どもの日本国憲法の生存権の理念を具体化する重要なことであると私は思っております。
以上で、私の陳述を終わらせていただきます。どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)