憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会
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会
会議録情報#0
平成十五年七月十日(木曜日)
午前九時五分開議
出席小委員
小委員長 大出 彰君
倉田 雅年君 谷本 龍哉君
長勢 甚遠君 野田 聖子君
野田 毅君 葉梨 信行君
平林 鴻三君 小林 憲司君
仙谷 由人君 水島 広子君
太田 昭宏君 武山百合子君
春名 直章君 北川れん子君
井上 喜一君
…………………………………
憲法調査会会長 中山 太郎君
憲法調査会会長代理 仙谷 由人君
参考人
(北海道大学長) 中村 睦男君
参考人
(東京学芸大学教育学部助
教授) 小塩 隆士君
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
—————————————
七月十日
小委員山谷えり子君六月十日委員辞任につき、その補欠として井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員今野東君同日小委員辞任につき、その補欠として仙谷由人君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員仙谷由人君同日小委員辞任につき、その補欠として今野東君が会長の指名で小委員に選任された。
—————————————
本日の会議に付した案件
基本的人権の保障に関する件(社会保障と憲法)
————◇—————
この発言だけを見る →午前九時五分開議
出席小委員
小委員長 大出 彰君
倉田 雅年君 谷本 龍哉君
長勢 甚遠君 野田 聖子君
野田 毅君 葉梨 信行君
平林 鴻三君 小林 憲司君
仙谷 由人君 水島 広子君
太田 昭宏君 武山百合子君
春名 直章君 北川れん子君
井上 喜一君
…………………………………
憲法調査会会長 中山 太郎君
憲法調査会会長代理 仙谷 由人君
参考人
(北海道大学長) 中村 睦男君
参考人
(東京学芸大学教育学部助
教授) 小塩 隆士君
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
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七月十日
小委員山谷えり子君六月十日委員辞任につき、その補欠として井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員今野東君同日小委員辞任につき、その補欠として仙谷由人君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員仙谷由人君同日小委員辞任につき、その補欠として今野東君が会長の指名で小委員に選任された。
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本日の会議に付した案件
基本的人権の保障に関する件(社会保障と憲法)
————◇—————
大
大出彰#1
○大出小委員長 これより会議を開きます。
基本的人権の保障に関する件、特に社会保障と憲法について調査を進めます。
本日は、参考人として北海道大学長中村睦男君及び東京学芸大学教育学部助教授小塩隆士君に御出席をいただいております。
この際、両参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のそれぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
本日の議事の順序について申し上げます。
まず、中村参考人、小塩参考人の順序で、社会保障と憲法について、お一人三十分以内で御意見をお述べいただき、その後、小委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。
なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
御発言は着席のままでお願いいたします。
それでは、まず中村参考人からお願いいたします。
この発言だけを見る →基本的人権の保障に関する件、特に社会保障と憲法について調査を進めます。
本日は、参考人として北海道大学長中村睦男君及び東京学芸大学教育学部助教授小塩隆士君に御出席をいただいております。
この際、両参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のそれぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
本日の議事の順序について申し上げます。
まず、中村参考人、小塩参考人の順序で、社会保障と憲法について、お一人三十分以内で御意見をお述べいただき、その後、小委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。
なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
御発言は着席のままでお願いいたします。
それでは、まず中村参考人からお願いいたします。
中
中村睦男#2
○中村参考人 ただいま御紹介いただきました中村でございます。
私は、長年にわたりまして憲法学者としまして、とりわけ憲法二十五条の生存権というのが私の主要な研究テーマの一つでございましたので、きょうは、こういう形で憲法調査会の小委員会で報告の機会を与えられまして、大変光栄に存じております。
お手元に一枚の簡単なレジュメをお配りしておりますので、このレジュメの順序に沿ってお話ししていきたいと思っております。
まず第一には、日本国憲法の制定と生存権でございます。
憲法二十五条は、御承知のように第一項で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という形で、国民の権利としての生存権を規定しております。第二項では、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定しまして、社会保障に対する国の責務を規定しているわけであります。
この二十五条一項の生存権の規定につきましては、日本国憲法制定に当たりましてマッカーサー草案にはなかったものを衆議院の修正によって加えられたものであります。とりわけ、衆議院の森戸辰男や鈴木義男が主張いたしまして、第一項の生存権の規定を憲法の中に入れることになったわけであります。
この第一項のもとになる規定は、日本国憲法制定に当たりまして民間の憲法草案の一つといたしまして高野岩三郎らの憲法研究会がありまして、その憲法研究会の憲法草案要綱の中で、「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」という規定があったわけでありますけれども、この規定をもとにして衆議院で修正されたということであります。
日本国憲法が押しつけられたかどうかということが一つのテーマとしてこの憲法調査会でも論議されたかと思いますけれども、この二十五条一項の規定は日本人の、日本の議会側の創意によって設けられた規定であります。そして、特にこの規定を制定するに当たって推進いたしました鈴木義男及び森戸辰男は、二十世紀の今日制定する新しい憲法の中においては最も重要な権利である、こういう主張をいたしまして、これが当時の憲法改正に関する委員会の小委員会、芦田小委員会の中でも非常に密度の高い憲法についての論議をされましたけれども、その中でも、生存権について小委員会のメンバーでも非常に密度の高い議論が展開されてこういう規定ができたということでございます。
そして、この生存権の規定は、その後の憲法の運用の中でも、国民の中にやはり意識として、人権の意識として定着していったと言うことができるかと思います。
これは、NHKの放送文化研究所では一九七〇年代から五年ごとに、同一の質問による「日本人の意識」という調査をしておりますけれども、その中でも、憲法上の権利はどれが重要か、こういう質問に対して、人間らしい暮らしをする生存権を選択する率が毎回の調査で最も高く安定しているのに対して、表現の自由とか団結権を選択する人の率が低くなっている。そういうことから、国民の意識の中にも、人権の中でも、生存権といいますか、人間らしい暮らしをする、そういう権利というのが非常に重要だという意識が定着しているということが言えるかと思います。
続きまして、第二の、生存権の法的性格の問題に入りたいと思います。
この生存権の規定が憲法の中に盛り込まれまして、一体、生存権というのは法的権利かどうかということが、当初、学説においても活発に論議されたわけであります。
その中でも、戦後初期の学説はプログラム規定説という学説でございます。これは、民法学者の我妻栄がこの説の創設者でありまして、自由権とは違って、生存権というのは生存権的基本権の一つであって、その特徴の一つは、これがプログラム規定である。すなわち、裁判上、法的に救済を受ける権利ではなくて、国の政治の目標あるいは国民にとっての道義的義務を課したそういう権利であるんだ、こういう考え方であります。
このプログラム規定説の考え方は、初期の判例におきましても、この最初にあります、昭和二十三年の最高裁の食糧管理法違反事件判決がありまして、これは、やみ米の販売購入を刑罰によって禁止する、その法律でありますけれども、ある人がやみ米を販売購入したために刑罰を科される。そういう事件において最高裁は、被告人の方では、やみ米を購入するということは自分の生存権を守る、そういう生存権を擁護する権利であるという主張に対して、いや、生存権というのは、国の政治的義務あるいは道義的義務を課したそういう規定であって、国民に具体的権利を保障したものではない、そういう判断をいたしまして被告人の生存権の主張を退けた。この事件の中でいわばプログラム規定説をとったわけであります。
しかし、その後、第二の、抽象的権利説というのが次に出てくるわけであります。
この代表的な判例は、生存権についても重要な判例といたしましては朝日訴訟判決というのがございます。朝日訴訟は、生活保護を受給していた方が、生活扶助、日用品費として六百円という公的扶助が健康で文化的な最低限度の生活に反するんだという主張をした事件でございます。
これは、昭和三十一年の時点で、生活扶助、特に日用品費、朝日さんは医療扶助を受けていましたので、日用品費は別に月額六百円であった。その当時は、生活扶助については、マーケットバスケット方式ですので、算定基準が決まっておりまして、それによれば、パンツが一枚である、肌着が二年に一着、それから重症の結核患者でありましたけれども補食費はない、これが健康で文化的な最低限度の生活に反するという主張をしたわけであります。
これに対して、朝日訴訟の第一審、東京地裁判決は、この日用品費六百円は低過ぎて、これは違法であるという判決を下したわけであります。これは、健康で文化的な最低限度の生活を営むその水準に至っていないんだという判決であります。
抽象的権利説というのはどういうことかと申しますと、憲法二十五条だけでは裁判上救済を受ける具体的権利ではないんだけれども、憲法を具体化する法律として生活保護法が制定される。そうしますと、生活保護法の規定と二十五条を一体として解釈することによって、直接には日用品費六百円の額は生活保護法に違反するんだけれども、それはひいては憲法二十五条に違反するんだ、こういう判決を下したわけでありまして、これがいわば抽象的権利説と言われている説でありまして、二十五条を具体化する法律があった場合には裁判上救済を受けることができるという判決を下したわけであります。
これは地裁判決ですので、東京高裁ではこの判決がひっくり返っておりまして、日用品費六百円は、これは安過ぎる、低過ぎるという、六百七十円程度が適当であるけれども、不当であるが違法ではないというのが東京高裁判決で、しかし、最高裁はさらに、原告の朝日さんが亡くなってしまったものですから、この訴訟は原告の死亡によって終了した、こういう二十五条の中身に入らない判決に終わったわけであります。
それからもう一つ、重要な判決といたしまして、堀木訴訟判決というのがあります。この判決は、最高裁で昭和五十七年七月七日に最高裁判決が出ておりまして、これは合憲という判決であります。しかし、この判決は、問題になったのは法律の規定でありまして、児童扶養手当法に基づく児童扶養手当と他の公的年金の併給禁止規定、児童扶養手当法上の併給禁止規定が憲法違反かどうかを争われたその事件におきまして、結論としては合憲でありますけれども、しかし同時に、これは二十五条にこの併給禁止が違反するかどうかを判断しておりますので、その意味では、裁判所の中で、二十五条によって具体的な法律の規定が合憲か違憲かということが問題になったということでありまして、これも抽象的権利説として位置づけることができるかと思います。
それからさらに、もう一つの学説として、具体的権利説というのがありまして、これは、二十五条によって直接憲法違反を争うことができるんだ、こういう学説でありました。
しかし、この説が主張していますのは、二十五条を具体化する立法が存在しない場合にどうするかという問題で、立法の不作為の違憲確認訴訟ができるというのが具体的権利説であったんですけれども、しかし、この学説に対しましては、やはり日本の現行法上、立法の不作為の違憲確認訴訟という形で争う訴訟類型はないということで、具体的権利説は少数説にとどまっておりました。
その次に、レジュメの(4)に出てきます、立法の不作為を含む立法行為と国家賠償請求訴訟という問題でありまして、最近は、その後、立法の不作為は国家賠償請求で争えるのだ、あるいは争うことができるのではないかという問題が出てきたわけであります。
この問題についての最初の最高裁判決は、このレジュメにあります、最高裁の昭和六十年の十一月二十一日判決であります。この事案は生存権ではありませんで、在宅投票制度の廃止の違憲訴訟でありまして、最高裁は、結論としては、これは違法ではないという、国家賠償請求訴訟は認めませんでしたけれども、その判決の中で、立法の不作為も一定の場合には違憲、そして、違憲というのは違法ということでありますけれども、違法になり得るんだ、そういう判示内容を示したわけであります。
このレジュメにありますように、どういう要件で立法の不作為が違法になるかというと、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定しがたいような例外的場合」、こういう例外的場合には立法の不作為も違憲になり得るんだ、しかし、在宅投票制度の廃止については、このような要件に当たらないから違法ではない、こういう判断だったわけであります。しかし、この判決の大事なのは、例外的な場合であれ、一定の場合に立法の不作為が国家賠償請求訴訟で争えるということを示した意味では非常に重要であったわけであります。
その後、選挙権以外の事案におきましても、立法の不作為の違憲を争う国家賠償請求訴訟が出されまして、下級審判決では立法の不作為の違法を認める判決が出され、注目されているわけであります。
一つが、元従軍慰安婦が争った訴訟でありまして、関釜元従軍慰安婦訴訟と言われております。その第一審判決の山口地裁下関支部判決でありますけれども、この事案は、戦後賠償ないし戦後補償をする立法が不作為だ、それがゆえに元従軍慰安婦が補償を受けられないということの国家賠償請求をした事案であります。
この判決は、先ほどの最高裁の出した立法不作為の認められる要件を緩和するという形でありまして、どういう要件であるかと申しますと、人権侵害の重大性とその救済の高度の必要性、このような場合にある場合には立法不作為が違法となり得るということを示しまして、この原告の請求を認めた、こういう判決であります。この判決は高裁ではひっくり返っておりますけれども、しかし、地裁判決として非常に注目されるのがこの判決であります。
もう一つがハンセン病に関します熊本地裁判決でありまして、これはらい予防法が違憲であるということによる国家賠償請求訴訟を起こしたという事案であります。熊本地裁の平成十三年五月十一日判決ですからごく最近の判決でありまして、これは御承知のように、熊本地裁で原告勝訴しまして、控訴しないということで、一審によって判決が確定されております。
この判決は、六十年の最高裁判決との関係についても述べまして、最高裁判決が、立法の内容が憲法の一義的文言に違反しているという要件についていえば、これは違法が極めて特殊な例外である場合に限るということの一つの例を示したものであって、これだけに限定されないんだ、こういう考え方に立ちまして、その要件としましては、人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性という要件で、ハンセン病に関する強制隔離政策をとった、そしてその後法律を改正しなかったという立法の不作為が違法であるという判決を出しまして、注目されたわけであります。
そうしますと、こういう判決はそれぞれ、生存権の事案ではありませんけれども、生存権でも同じような事案が出た場合には、やはり人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性ということから国家賠償請求訴訟で争う道は残っているという意味では、生存権については、さらにこれは、現在においては裁判上も一定の救済を受ける権利として、判例上も取り扱われているものと解することができるかと思います。
それに基づきまして、次に、レジュメの3の社会保障制度とその理念について述べていきたいと思います。
社会保障制度の理念に関しまして注目されますのは、社会保障制度審議会が一九九五年に出しました勧告、これは「社会保障体制の再構築」と題する勧告であります。この中で、一九九五年の勧告は次のように述べております。
第二次大戦後の社会保障の理念、課題が最低限度の生活を保障することであったに対して、二十一世紀における社会保障の基本理念は、「社会保障制度は、みんなのためにみんなでつくり、みんなで支えていくものとして、二十一世紀の社会連帯のあかしとしなければならない。」ということでありまして、戦後は最低限度の生活が生存権の理念であったのに対して、それにさらにプラスアルファとして、二十一世紀においては社会連帯という理念が大事であるということを指摘しているわけでございます。
その中での三つの課題といたしまして、第一は、日本の社会保障で取り残された大きな問題は社会福祉の問題で、心身に障害を持つ人々や高齢で介護を必要とする人々に対する生存権の保障は、従来最低限度の措置にとどまっていたのに対して、今後は、人間の尊厳の理念に立つ社会保障の体系の中に位置づけられなければならないということであります。
第二には、二十一世紀に向かってますます重大な問題になる高齢化に伴う身体及び生活にかかわる不安への対応は、社会保障が世代間にわたる連帯によって成立し、維持されることに関連することである。
第三に、社会保障制度は生存権を国家の責任で保障するものとして整備されてきたが、今後、生活水準の上昇に伴い生活保障のあり方が多様化し、生活保障の受け手の側に認めるべき選択権の問題が生じてくるので、その選択の幅は生存権の枠を超えて拡大していくことであるといたしまして、ここで、日本では社会連帯の理念を支える制度設計が今後必要であるという問題提起をしているということでありまして、これは私も妥当な見解であるかと思っております。
その結果、社会保障に関する構造改革として行われ、その後、政策が行われていくわけでありますけれども、その中でも大事な点として指摘されますことは、社会保障が単に公的扶助に終わらないで、これに対して社会保険あるいは生活の自立ということを観点として入れなければいけないんだ、こういうことを基本的な社会保障の構造改革の理念として具体化しようとしておりますし、さらには、社会福祉の次元におきましても、従来のような措置制度ではなくて、いわば介護保険という保険のテクニックを入れて自立を支える支給制度に持っていくという方向は、社会連帯への方向へと進んでいるものとして評価できるかと思っております。
このことから、社会保障において今後大事なのは、その負担をどうするかということを、一つはやはり税による負担ということも大事ですけれども、同時に、社会連帯のあかしとして応分の負担をそれぞれの受益者が負担する、そのことによって社会的な連帯を実現していくということが必要であるかと考えております。
私の結論になりますけれども、この高齢社会を我々が迎えまして、社会保障の新たな制度設計が今日必要とされております。そこで必要な視点は、社会保障と社会福祉の後退ではなくて、当事者たる国民ないし市民の参加と自治、さらには、当事者の応分の負担による社会保障と社会福祉の充実でなければならないと思っております。その中におきましても、二十五条の生存権の規定というのは、国民の人間らしい最低限度の生活を営む権利を有するということを確認して、その上に立って豊かな社会保障制度を構築することが、やはり今日の私どもの日本国憲法の生存権の理念を具体化する重要なことであると私は思っております。
以上で、私の陳述を終わらせていただきます。どうも御清聴ありがとうございました。拍手
この発言だけを見る →私は、長年にわたりまして憲法学者としまして、とりわけ憲法二十五条の生存権というのが私の主要な研究テーマの一つでございましたので、きょうは、こういう形で憲法調査会の小委員会で報告の機会を与えられまして、大変光栄に存じております。
お手元に一枚の簡単なレジュメをお配りしておりますので、このレジュメの順序に沿ってお話ししていきたいと思っております。
まず第一には、日本国憲法の制定と生存権でございます。
憲法二十五条は、御承知のように第一項で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という形で、国民の権利としての生存権を規定しております。第二項では、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定しまして、社会保障に対する国の責務を規定しているわけであります。
この二十五条一項の生存権の規定につきましては、日本国憲法制定に当たりましてマッカーサー草案にはなかったものを衆議院の修正によって加えられたものであります。とりわけ、衆議院の森戸辰男や鈴木義男が主張いたしまして、第一項の生存権の規定を憲法の中に入れることになったわけであります。
この第一項のもとになる規定は、日本国憲法制定に当たりまして民間の憲法草案の一つといたしまして高野岩三郎らの憲法研究会がありまして、その憲法研究会の憲法草案要綱の中で、「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」という規定があったわけでありますけれども、この規定をもとにして衆議院で修正されたということであります。
日本国憲法が押しつけられたかどうかということが一つのテーマとしてこの憲法調査会でも論議されたかと思いますけれども、この二十五条一項の規定は日本人の、日本の議会側の創意によって設けられた規定であります。そして、特にこの規定を制定するに当たって推進いたしました鈴木義男及び森戸辰男は、二十世紀の今日制定する新しい憲法の中においては最も重要な権利である、こういう主張をいたしまして、これが当時の憲法改正に関する委員会の小委員会、芦田小委員会の中でも非常に密度の高い憲法についての論議をされましたけれども、その中でも、生存権について小委員会のメンバーでも非常に密度の高い議論が展開されてこういう規定ができたということでございます。
そして、この生存権の規定は、その後の憲法の運用の中でも、国民の中にやはり意識として、人権の意識として定着していったと言うことができるかと思います。
これは、NHKの放送文化研究所では一九七〇年代から五年ごとに、同一の質問による「日本人の意識」という調査をしておりますけれども、その中でも、憲法上の権利はどれが重要か、こういう質問に対して、人間らしい暮らしをする生存権を選択する率が毎回の調査で最も高く安定しているのに対して、表現の自由とか団結権を選択する人の率が低くなっている。そういうことから、国民の意識の中にも、人権の中でも、生存権といいますか、人間らしい暮らしをする、そういう権利というのが非常に重要だという意識が定着しているということが言えるかと思います。
続きまして、第二の、生存権の法的性格の問題に入りたいと思います。
この生存権の規定が憲法の中に盛り込まれまして、一体、生存権というのは法的権利かどうかということが、当初、学説においても活発に論議されたわけであります。
その中でも、戦後初期の学説はプログラム規定説という学説でございます。これは、民法学者の我妻栄がこの説の創設者でありまして、自由権とは違って、生存権というのは生存権的基本権の一つであって、その特徴の一つは、これがプログラム規定である。すなわち、裁判上、法的に救済を受ける権利ではなくて、国の政治の目標あるいは国民にとっての道義的義務を課したそういう権利であるんだ、こういう考え方であります。
このプログラム規定説の考え方は、初期の判例におきましても、この最初にあります、昭和二十三年の最高裁の食糧管理法違反事件判決がありまして、これは、やみ米の販売購入を刑罰によって禁止する、その法律でありますけれども、ある人がやみ米を販売購入したために刑罰を科される。そういう事件において最高裁は、被告人の方では、やみ米を購入するということは自分の生存権を守る、そういう生存権を擁護する権利であるという主張に対して、いや、生存権というのは、国の政治的義務あるいは道義的義務を課したそういう規定であって、国民に具体的権利を保障したものではない、そういう判断をいたしまして被告人の生存権の主張を退けた。この事件の中でいわばプログラム規定説をとったわけであります。
しかし、その後、第二の、抽象的権利説というのが次に出てくるわけであります。
この代表的な判例は、生存権についても重要な判例といたしましては朝日訴訟判決というのがございます。朝日訴訟は、生活保護を受給していた方が、生活扶助、日用品費として六百円という公的扶助が健康で文化的な最低限度の生活に反するんだという主張をした事件でございます。
これは、昭和三十一年の時点で、生活扶助、特に日用品費、朝日さんは医療扶助を受けていましたので、日用品費は別に月額六百円であった。その当時は、生活扶助については、マーケットバスケット方式ですので、算定基準が決まっておりまして、それによれば、パンツが一枚である、肌着が二年に一着、それから重症の結核患者でありましたけれども補食費はない、これが健康で文化的な最低限度の生活に反するという主張をしたわけであります。
これに対して、朝日訴訟の第一審、東京地裁判決は、この日用品費六百円は低過ぎて、これは違法であるという判決を下したわけであります。これは、健康で文化的な最低限度の生活を営むその水準に至っていないんだという判決であります。
抽象的権利説というのはどういうことかと申しますと、憲法二十五条だけでは裁判上救済を受ける具体的権利ではないんだけれども、憲法を具体化する法律として生活保護法が制定される。そうしますと、生活保護法の規定と二十五条を一体として解釈することによって、直接には日用品費六百円の額は生活保護法に違反するんだけれども、それはひいては憲法二十五条に違反するんだ、こういう判決を下したわけでありまして、これがいわば抽象的権利説と言われている説でありまして、二十五条を具体化する法律があった場合には裁判上救済を受けることができるという判決を下したわけであります。
これは地裁判決ですので、東京高裁ではこの判決がひっくり返っておりまして、日用品費六百円は、これは安過ぎる、低過ぎるという、六百七十円程度が適当であるけれども、不当であるが違法ではないというのが東京高裁判決で、しかし、最高裁はさらに、原告の朝日さんが亡くなってしまったものですから、この訴訟は原告の死亡によって終了した、こういう二十五条の中身に入らない判決に終わったわけであります。
それからもう一つ、重要な判決といたしまして、堀木訴訟判決というのがあります。この判決は、最高裁で昭和五十七年七月七日に最高裁判決が出ておりまして、これは合憲という判決であります。しかし、この判決は、問題になったのは法律の規定でありまして、児童扶養手当法に基づく児童扶養手当と他の公的年金の併給禁止規定、児童扶養手当法上の併給禁止規定が憲法違反かどうかを争われたその事件におきまして、結論としては合憲でありますけれども、しかし同時に、これは二十五条にこの併給禁止が違反するかどうかを判断しておりますので、その意味では、裁判所の中で、二十五条によって具体的な法律の規定が合憲か違憲かということが問題になったということでありまして、これも抽象的権利説として位置づけることができるかと思います。
それからさらに、もう一つの学説として、具体的権利説というのがありまして、これは、二十五条によって直接憲法違反を争うことができるんだ、こういう学説でありました。
しかし、この説が主張していますのは、二十五条を具体化する立法が存在しない場合にどうするかという問題で、立法の不作為の違憲確認訴訟ができるというのが具体的権利説であったんですけれども、しかし、この学説に対しましては、やはり日本の現行法上、立法の不作為の違憲確認訴訟という形で争う訴訟類型はないということで、具体的権利説は少数説にとどまっておりました。
その次に、レジュメの(4)に出てきます、立法の不作為を含む立法行為と国家賠償請求訴訟という問題でありまして、最近は、その後、立法の不作為は国家賠償請求で争えるのだ、あるいは争うことができるのではないかという問題が出てきたわけであります。
この問題についての最初の最高裁判決は、このレジュメにあります、最高裁の昭和六十年の十一月二十一日判決であります。この事案は生存権ではありませんで、在宅投票制度の廃止の違憲訴訟でありまして、最高裁は、結論としては、これは違法ではないという、国家賠償請求訴訟は認めませんでしたけれども、その判決の中で、立法の不作為も一定の場合には違憲、そして、違憲というのは違法ということでありますけれども、違法になり得るんだ、そういう判示内容を示したわけであります。
このレジュメにありますように、どういう要件で立法の不作為が違法になるかというと、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定しがたいような例外的場合」、こういう例外的場合には立法の不作為も違憲になり得るんだ、しかし、在宅投票制度の廃止については、このような要件に当たらないから違法ではない、こういう判断だったわけであります。しかし、この判決の大事なのは、例外的な場合であれ、一定の場合に立法の不作為が国家賠償請求訴訟で争えるということを示した意味では非常に重要であったわけであります。
その後、選挙権以外の事案におきましても、立法の不作為の違憲を争う国家賠償請求訴訟が出されまして、下級審判決では立法の不作為の違法を認める判決が出され、注目されているわけであります。
一つが、元従軍慰安婦が争った訴訟でありまして、関釜元従軍慰安婦訴訟と言われております。その第一審判決の山口地裁下関支部判決でありますけれども、この事案は、戦後賠償ないし戦後補償をする立法が不作為だ、それがゆえに元従軍慰安婦が補償を受けられないということの国家賠償請求をした事案であります。
この判決は、先ほどの最高裁の出した立法不作為の認められる要件を緩和するという形でありまして、どういう要件であるかと申しますと、人権侵害の重大性とその救済の高度の必要性、このような場合にある場合には立法不作為が違法となり得るということを示しまして、この原告の請求を認めた、こういう判決であります。この判決は高裁ではひっくり返っておりますけれども、しかし、地裁判決として非常に注目されるのがこの判決であります。
もう一つがハンセン病に関します熊本地裁判決でありまして、これはらい予防法が違憲であるということによる国家賠償請求訴訟を起こしたという事案であります。熊本地裁の平成十三年五月十一日判決ですからごく最近の判決でありまして、これは御承知のように、熊本地裁で原告勝訴しまして、控訴しないということで、一審によって判決が確定されております。
この判決は、六十年の最高裁判決との関係についても述べまして、最高裁判決が、立法の内容が憲法の一義的文言に違反しているという要件についていえば、これは違法が極めて特殊な例外である場合に限るということの一つの例を示したものであって、これだけに限定されないんだ、こういう考え方に立ちまして、その要件としましては、人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性という要件で、ハンセン病に関する強制隔離政策をとった、そしてその後法律を改正しなかったという立法の不作為が違法であるという判決を出しまして、注目されたわけであります。
そうしますと、こういう判決はそれぞれ、生存権の事案ではありませんけれども、生存権でも同じような事案が出た場合には、やはり人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性ということから国家賠償請求訴訟で争う道は残っているという意味では、生存権については、さらにこれは、現在においては裁判上も一定の救済を受ける権利として、判例上も取り扱われているものと解することができるかと思います。
それに基づきまして、次に、レジュメの3の社会保障制度とその理念について述べていきたいと思います。
社会保障制度の理念に関しまして注目されますのは、社会保障制度審議会が一九九五年に出しました勧告、これは「社会保障体制の再構築」と題する勧告であります。この中で、一九九五年の勧告は次のように述べております。
第二次大戦後の社会保障の理念、課題が最低限度の生活を保障することであったに対して、二十一世紀における社会保障の基本理念は、「社会保障制度は、みんなのためにみんなでつくり、みんなで支えていくものとして、二十一世紀の社会連帯のあかしとしなければならない。」ということでありまして、戦後は最低限度の生活が生存権の理念であったのに対して、それにさらにプラスアルファとして、二十一世紀においては社会連帯という理念が大事であるということを指摘しているわけでございます。
その中での三つの課題といたしまして、第一は、日本の社会保障で取り残された大きな問題は社会福祉の問題で、心身に障害を持つ人々や高齢で介護を必要とする人々に対する生存権の保障は、従来最低限度の措置にとどまっていたのに対して、今後は、人間の尊厳の理念に立つ社会保障の体系の中に位置づけられなければならないということであります。
第二には、二十一世紀に向かってますます重大な問題になる高齢化に伴う身体及び生活にかかわる不安への対応は、社会保障が世代間にわたる連帯によって成立し、維持されることに関連することである。
第三に、社会保障制度は生存権を国家の責任で保障するものとして整備されてきたが、今後、生活水準の上昇に伴い生活保障のあり方が多様化し、生活保障の受け手の側に認めるべき選択権の問題が生じてくるので、その選択の幅は生存権の枠を超えて拡大していくことであるといたしまして、ここで、日本では社会連帯の理念を支える制度設計が今後必要であるという問題提起をしているということでありまして、これは私も妥当な見解であるかと思っております。
その結果、社会保障に関する構造改革として行われ、その後、政策が行われていくわけでありますけれども、その中でも大事な点として指摘されますことは、社会保障が単に公的扶助に終わらないで、これに対して社会保険あるいは生活の自立ということを観点として入れなければいけないんだ、こういうことを基本的な社会保障の構造改革の理念として具体化しようとしておりますし、さらには、社会福祉の次元におきましても、従来のような措置制度ではなくて、いわば介護保険という保険のテクニックを入れて自立を支える支給制度に持っていくという方向は、社会連帯への方向へと進んでいるものとして評価できるかと思っております。
このことから、社会保障において今後大事なのは、その負担をどうするかということを、一つはやはり税による負担ということも大事ですけれども、同時に、社会連帯のあかしとして応分の負担をそれぞれの受益者が負担する、そのことによって社会的な連帯を実現していくということが必要であるかと考えております。
私の結論になりますけれども、この高齢社会を我々が迎えまして、社会保障の新たな制度設計が今日必要とされております。そこで必要な視点は、社会保障と社会福祉の後退ではなくて、当事者たる国民ないし市民の参加と自治、さらには、当事者の応分の負担による社会保障と社会福祉の充実でなければならないと思っております。その中におきましても、二十五条の生存権の規定というのは、国民の人間らしい最低限度の生活を営む権利を有するということを確認して、その上に立って豊かな社会保障制度を構築することが、やはり今日の私どもの日本国憲法の生存権の理念を具体化する重要なことであると私は思っております。
以上で、私の陳述を終わらせていただきます。どうも御清聴ありがとうございました。拍手
大
小
小塩隆士#4
○小塩参考人 東京学芸大学の小塩と申します。よろしくお願いいたします。
私は、社会保障の中でも、その中核的な役割を担っております公的年金に議論を絞りまして、私の個人的なお話をさせていただきます。
御承知のように、公的年金は、老後における最低限度の所得を保障する非常に重要な仕組みであります。憲法二十五条で、すべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるというふうに定められておりますけれども、公的年金は、その権利を具体的に国民に保障するために設定された非常に重要な社会保障制度の一つというふうに言えます。
ところが、少子高齢化が進むにつれまして、この公的年金がこのまま維持できるのだろうか、ひょっとすると破綻するのではないかというふうな不安感、不信感が強まってきているというのも事実であります。これは非常にゆゆしき事態であるというふうに思います。
本日は、この公的年金が抱えている問題点と、私が個人的に考える改革の方向を、一部ちょっと極端な意見もありますけれども、述べさせていただきたいと思います。
私は、現行の公的年金につきましては、財政面あるいは経済面から見て、少なくとも二つの大きな問題点があるというふうに考えております。
一つは、年金財政が悪化し続けて、公的年金を制度として維持できなくなる可能性が強まっているということであります。
現行の公的年金は、それぞれの時点において、現役の世代が引退の世代の年金給付の財源を負担するという、いわゆる賦課方式、簡単に言ってしまうと自転車操業なんですけれども、賦課方式の仕組みになっております。この賦課方式の仕組みを維持するためには、少子高齢化が進んで高齢者の比率が高まりますと、現役世代の人たちの負担を高めていくしか方法がありません。ところが、負担を引き上げますと若い人たちの反発が出てまいりますし、逆に、年金の給付を削減しようとすると高齢者の人たちから反発が出てくるということになります。その結果何が起こるかと申しますと、政府が将来に向けて負担を先送りすることになってしまいます。これは日本だけでなくて、ほかの先進国でも共通して見られる現状であります。
お手元にレジュメが配られているかと思いますけれども、そこに具体的な数字をお示ししております。民間のサラリーマンが加入している厚生年金の場合ですが、二〇〇〇年度末時点におきまして、保険料を過去に少しでも払った人たち、あるいは既に年金生活に入っている人たちに対して、国は六百九十五兆円の年金給付を将来に向けて約束しております。そのうち財源が政府にある部分と申しますのは、いわゆる年金積立金という部分でして、この部分が百四十三兆円ということです。そういたしますと、今申し上げた六百九十五兆円の借金から資産としてあります百四十三兆円を差し引いた五百五十二兆円、この部分が将来に向けて先送りされた借金ということになります。この部分をしばしば年金純債務というふうに呼ぶ場合がございます。日本のGDP、国内総生産は大体五百兆円前後ですので、それをも上回るような借金を政府は将来に向けて抱えているということになります。
この年金純債務は、これから少子高齢化が進みますとさらにふえていくかもしれません。現に、先般、厚生年金の収支が二〇〇一年度に入りまして初めて赤字に転じたということが厚生労働省によって報告されたところです。そういうことで、年金財政はかなり深刻な状況にあると言わざるを得ません。そういうふうに財政的な基盤が揺らぐようですと、老後の所得を保障する非常に重要な仕組みである公的年金の持続可能性そのものが疑問視されるということになります。
それから、二番目の問題ですけれども、これは一番目の問題と密接に関係するんですが、公的年金をめぐりまして世代間の格差が広がっているということであります。
私たちは、現役時に保険料を支払って、引退時に年金を受け取るわけですけれども、その受け取りと支払いの差し引きがどういうふうになるかというのは人情として気になるわけです。私が個人的に行いました試算の結果を申し上げますと、厚生年金の場合ですが、平均的な夫婦を想定いたしますと、一九五〇年生まれ、つまり昭和二十五年生まれの人たちですと、生涯賃金の大体一〇%程度、支払った保険料よりも受け取る年金の方が多くなるということに対しまして、一九九〇年生まれ、平成二年生まれですと、逆に、生涯賃金の一一%程度、保険料の方が年金を上回るという状況になります。
こういう公的年金をめぐる世代間格差の問題は、少子高齢化が進むとどうしても出てくる問題なんですけれども、世代が離れれば離れるほど格差が広がっているという問題がございます。財政学の教科書を見ますと、所得の高い人から低い人にというふうな所得再分配が政府による財政政策の重要な役割として指摘されるわけですけれども、若い人から高齢世代に一方的に所得再分配を行うという仕組みについては、それを正当化する理論的な根拠というのはなかなかはっきりしておりません。年金の問題を考える場合も、この世代間の公平性という点については、私たちはある程度の配慮をする必要があるだろうというふうに思っております。
もちろん、公的年金を、加入するとどれだけ得をするか、損になるかというふうな損得勘定ですべて議論するということは適切ではありません。中村先生が先ほど御指摘されましたように、公的年金には、社会連帯あるいは世代間の助け合いという非常に重要な役割があります。ただ、余りに世代間で格差が広がりますと問題が出てまいります。若い人たちに多くの負担を強いるようになりますと、制度そのものが維持できなくなって、元も子もなくなってしまうという危険性も出てくるのではないでしょうか。
こういうふうなことを申し上げますと、若い人たちだけに依存するのではなくて、国庫負担を引き上げて、国が財源を投入すべきであるというふうな意見が出てくるわけです。ところが、これは、経済学的にいいますと、すべて正しいということは言えないのではないかというふうに思います。と申しますのは、国庫負担というのは、最終的には私たち国民の税金あるいは保険料、あるいは将来世代の人たちの負担になるからというわけであります。もちろん、むだな経費を削って、その分を社会保障に回すべきだというふうな意見は正論ですし、私も個人的にはそういう意見に全面的に賛成いたします。
ただ、年金をめぐりましては、毎年数十兆円のお金が政府の懐を出入りしますので、一般財源の細かなやりくりだけで解決できるような、そのような小さな問題ではないというふうな認識も必要ではないかと思います。
以上、二つの問題点、つまり、年金財政が悪化するのではないかという危険性、それから、世代間格差が拡大するのではないかという危険性を指摘させていただきました。こういう二つの問題点を念頭に置いたときに、政府が現在検討しているとされる二〇〇四年改正、今度の年金制度改革はどういうふうに評価すべきかという問題が出てまいります。いろいろな論点があるんですけれども、私がここで特に取り上げさせていただきたいのは、政府が導入を検討しているとされる保険料固定方式という仕組みであります。
この保険料固定方式というのは、現在、年収の一三・五八%となっている厚生年金の保険料率の上限を二〇%として法律で定めて、それ以上の保険料は徴収しない。それから、保険料がその上限に達した以降は、基本的に保険料収入の範囲内で給付水準を自動的に調整していく、そういう仕組みであります。これまでの年金改革というのは、年金の給付水準をまず設定して、それを達成するように保険料を調整するというパターンの繰り返しでした。ところが、御存じのとおり、出生率は政府の予想を下回り続けて、そのために、政府はこれまで保険料を引き上げ続けてきたわけであります。
今回の改革は、こういうこれまでの改革のパターンを改めて、保険料の上限を設定してしまおうというふうに考えているわけです。それから、保険料が上限に達した後は、政府に入ってくるお金の範囲内でしか年金を基本的には給付しないという考え方になっております。
これをどういうふうに評価するかということなんですけれども、立場によってその評価の仕方が違ってくるかと思いますけれども、先ほど説明いたしました年金純債務が雪だるま式に膨らんで、あるいは将来への負担の先送りがどんどんと続いて、それで制度が破綻するという危険性はとりあえず回避できるのではないかというふうに思います。そういう観点からすると、一応プラスに評価できる面はないことはないというふうに私は考えます。
ただ、その一方で、世代間の格差というもう一つの問題点がどこまで是正されたかといいますと、必ずしも政府によって数字で明らかにされてはおりません。保険料率は、上限は二〇%という形で設定されたわけですけれども、これからどんどん引き上げられてまいります。その一方で、給付水準は、最終的には現行制度よりも一二%程度引き下げられるということになっています。そういたしますと、これから保険料を長い間支払っていく若い世代にとって、今回予定されている制度改革で状況がどこまで改善されるのかと言われると、非常に不透明な部分がございます。実際、私の試算によりますと、世代間格差というのは、それほど現行制度に比べて是正されないというふうなことになっております。
それではどうすればいいのかという問題になるわけなんですけれども、私は、年金という非常に重要な制度の持続可能性を高める、それから、世代間格差を是正するためには、保険料水準をなるべく低く抑えて、それと連動して給付水準も低目にすべきだというふうに考えております。もちろん、給付の水準を抑えるということは、それだけを取り出すと非常に残念なことであります。しかし、その一方で、若いころに支払う保険料の負担が低くなりますと、自分自身で老後に備える余地が出てくるということもまた否定できません。
もちろん、公的年金をどんどんスリムにしてなくしてしまえというのは、極論以外の何物でもありませんし、そんなことを主張する経済学者はまずいません。公的年金というのは、老後の所得保障という非常に重要な役割を期待されております。したがいまして、私も含めてですけれども、年金を勉強している経済学者の中では、公的年金というのは老後の最低限の所得を保障する基礎年金の部分に限定して、それを上回る部分は国民それぞれが老後に備えて貯蓄をしていく。そして、政府はそうした個人による老後の備えを税制等の面で支援していくというふうな形に制度を変えるべきだというふうな主張をする者が少なくありません。
こういう発想をする背景には、少子高齢化の進む中では、政府が余りに多くの年金の給付を国民に約束してしまいますと、現役世代が支え切れなくなって、年金の仕組みそのものが根こそぎ崩壊してしまうのではないかという差し迫った危機意識があるからであります。そういうふうに制度が根こそぎなくなってしまうよりはむしろ、政府が責任を持って運営できる、そして現役の世代の人たちが無理なく支えられる部分に公的年金の範囲を限定して、その部分を今まで以上に強固な仕組みにしていくというふうな考え方をするわけであります。
もちろん、年金を削減するというふうな改革案につきましては、厳しい批判が寄せられるということは十分予想しておりますし、それから、個人的に考えても、老後は充実した年金生活を送れればよいなというふうには考えているわけなんですが、少子高齢化がこれから急速に進展するという非常に重い人口動態の圧力の中では、日本国憲法第二十五条の精神を貫くためには、公的年金についてもぎりぎりの選択を我々は迫られているというふうに言わざるを得ません。
ここでちょっと具体的な数字を申し上げますと、現在の公的年金は、厚生年金の場合ですけれども、夫婦二人のモデルケースの場合、給付が大体二十万円台前半になっております。この水準は、世界的に見てもそれほど低くない、平均より上のような水準でありまして、給付面に限って申し上げますと、充実したものと言えます。ただ、正直申し上げて、こういうふうな高い給付水準、これは現在の大卒の初任給を上回るわけですけれども、こういう給付水準を維持できるだけの経済的な力を、これから頭数の先細っていくような若い世代の人たちが果たして維持できるのだろうか、負担に耐えられるのだろうかというふうなことを考えますと、私は、残念ながら悲観的な見方をせざるを得ないというふうに思っております。
繰り返しますけれども、私は、年金という非常に重要な仕組みを維持するためにも、政府が最低限責任を持って支えるべき部分はどこまでかということをきちんと検討すべき時点に来ているのではないかというふうに思います。そして、政府が運営すべき公的年金は、個人的にも基礎年金に限定するしかないのではないか。そして、基礎年金を超える部分は別の方法で制度をつくりかえるというふうな方法が必要ではないかというふうに私は考えております。
そういうふうに改革をした場合も、解決すべき多くの問題が残されているということも事実であります。
全部で三つほど申し上げますけれども、一つ目の問題点といたしましては、仮に公的年金を基礎年金の部分に限定するといたしましても、その水準をどういうふうに設定するかという点については、議論が大きく分かれるところであろうというふうに思います。経済学の分野から見ても、最低限度の生活、最低限度の所得という水準をどういうふうに設定するかという点について、具体的に幾らですよというふうな回答を導き出すことはできません。
私自身、基礎年金の給付水準につきまして、この程度が望ましいというふうな具体的な数字を自信を持って申し上げることはできません。ただ、判断のための一つの目安としては、生活保護の基準額というものがございます。この額は、居住する地域によって違いますけれども、老夫婦二人の場合、住宅扶助等も合わせますと、大体十一万円ぐらいから十五万円ぐらいというふうになっております。現在、基礎年金は一人当たり月額六万七千円ですので、老夫婦二人ですと、合わせて十三万四千円ということになります。ですから、結果的なことなんですけれども、生活保護の基準額と現在の基礎年金というのは大体見合っているというふうに考えてよろしいかと思います。
したがいまして、現行の基礎年金の水準は、今後も政府が維持すべき一応の目安として考えてよろしいのではないかというようなことを、とりあえずの私の考えとして述べさせていただきます。もちろん、具体的な水準、適切な水準については専門家の議論が必要になるというふうに思います。
二番目の問題点は、給付水準を所得に応じて調整すべきなのか、あるいは、もう一つの所得保障の仕組みである生活保護との関係をどう見るのかという問題があります。
公的年金を仮に最低限度の所得保障の仕組みとして考えますと、例えば、若いときにどんどんお金を稼いで貯蓄がたくさんある人、あるいは高齢時にもどんどん働いて勤労所得が高い人、あるいは資産所得が高い人にとっては、あなたは最低限度の所得以上の所得を稼いでいるから年金は給付する必要はないでしょうというふうに言うことができるかもしれませんし、あるいは、少なくとも所得の高い高齢者には給付を減らすべきだというふうな考え方が出てきてもおかしくありません。現に、生活保護を受けようといたしますと、所得や資産の状況をかなり細かく尋ねられるというふうなことになっております。これを資力審査あるいはミーンズテストというふうに申します。
しかし、公的年金の給付の際にもそうした資力審査を厳格に行って、所得に応じて給付水準を調整するというのは、実際にはかなり大変なことだろうというふうに思います。私は、これは議論の分かれるところだろうと思いますけれども、公的年金の給付は、所得とは無関係に一律にしてよいのではないかというふうに思います。そういたしますと、所得の高い高齢者ほど得をするわけでありますので、最終的には、年金所得も含めてすべての所得を合算した上で、所得税制で所得の再分配を行うべきではないかというふうに考えます。その場合、高齢者向けの生活保護の仕組みは、公的年金の仕組みに最終的に吸収されるということになるのではないかというふうに考えております。
最後は、財源をどうするかという問題であります。
実は、公的年金を基礎年金に限定すべきだという立場をとる場合、財源として消費税を用いるべきだという意見が有力になっております。ただ、年金の財源につきましては、保険料か税かという議論が昔から繰り返されておりまして、専門家の間でも意見が大きく分かれております。
私は、財源を税にするにしても保険料にするにしても、負担は所得、つまり負担できる能力にできるだけ連動させるようにすべきだというふうに考えております。
実は、社会保障という仕組みに、所得再分配という機能をどこまで期待すればいいかという点につきましては、日本だけではなくて、欧米の専門家の間でも意見が分かれております。中には、社会保障というのは社会的なリスクを社会の構成員で分散するだけの機能を果たすのでよくて、高所得者層から低所得者層への所得の再分配というのは税制やそのほかの財政の仕組みで担当すればいいというふうな意見もあります。
ただ、私は、社会保障という仕組みにも、経済的に余裕のある人ほど多くの負担をしてもらっていいのではないかというふうに考えております。先ほど、公的年金のあり方につきましては、世代間の公平性が重要だというふうなことを申し上げましたけれども、それと同時に、同じ世代の中での公平性というふうな、世代内の公平性という観点も重要ではないかと考えております。
そういうふうな観点から申し上げますと、現在のように、自営業は月額一万三千三百円という定額の保険料を払う、それからサラリーマンや公務員は所得に比例する形で保険料を払うという仕組みは、仮に保険料方式を今のまま維持するとしても、なかなか正当化するのは難しいのではないかというふうに考えております。理想的には、すべての人々が、業種や職種に関係なく、所得に連動する形で年金の財源を負担すべきだろうというふうに考えております。
その場合、所得の捕捉という非常に重要な問題が出てまいります。現在、消費税を福祉目的税化して、基礎年金の財源に充てようというふうな議論がしばしば聞かれるわけです。もちろん、消費税には、御存じのように、低所得者層ほど相対的に税負担が重くなるという、いわゆる逆進的な側面があります。にもかかわらず、消費税の導入を主張する声がなかなか消えないのは、所得税で財源調達をしようとしますと、所得がほぼ一〇〇%捕捉できるサラリーマンや公務員が一方的に不利になるのではないかというふうな危惧があるからだと思います。
私は、所得の捕捉さえしっかりとできて、しかも所得と連動する形で年金の財源が徴収できるのであれば、税か保険料かという論争はある程度解決できるのではないかと思っております。
これに対して、消費税による財源調達というのは、所得の捕捉という問題に手をつけない、言い方をかえますと、一種の現実的な方策といいますか、次善の策であるかというふうに思います。
ところが、消費税で基礎年金を全額負担するとなりますと、二〇二五年時点で一〇%台前半の税率が必要になってしまうというふうな試算もあります。それから、基礎年金だけではなくて、高齢者医療それから介護保険も消費税で全部賄ってしまうということになりますと、一つの試算では四〇%ぐらいの非常に高い消費税率が必要になるというふうなことにもなっております。そこまで高い消費税率を国民が受け入れるかどうかというのは全く不透明なんですけれども、少なくとも、消費税で財源を調達しようというふうに考える場合は、品目ごとに税率を調整するとか、あるいは消費税以外のところで所得再分配の仕組みを整備するというふうな政策が別途必要になるかと思います。
そろそろ予定の時刻が近づいてまいりましたので、私の主張したい点をまとめさせていただきます。
日本国憲法二十五条で定められている最低限度の生活保障、そしてその中核に位置していると思います公的年金の仕組みというのは、これからも私たちが堅持すべき最も重要な制度の一つだろうというふうに思います。ただ、少子高齢化が進む中でこの重要な制度を堅持するためには、財政面から見た持続可能性、それから世代間の公平性、それから世代内の公平性といったさまざまな観点から、現行制度のあり方を見直す必要があるのではないかというふうに思います。
その場合、私の考えている理想的な公的年金の姿、これについては反論があるのは承知しておりますけれども、その理想的な姿をあえて申し上げさせていただきますと、賦課方式で、これまでと同様、運営すべき年金というのは、できれば基礎年金部分に限定していいのではないか。それから、その基礎年金の財源は、職種に関係なく、所得と連動した形で調達すべきではないか。それから、基礎年金を超える部分は、国民それぞれによる老後への備えをする仕組みとして設定し直して、そこに政府が職種とは関係なく、統一した形で人々の老後への備えをサポートする、そういうふうな仕組みに改めるべきではないかというふうに考えております。
以上で、私の意見を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。拍手
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御承知のように、公的年金は、老後における最低限度の所得を保障する非常に重要な仕組みであります。憲法二十五条で、すべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるというふうに定められておりますけれども、公的年金は、その権利を具体的に国民に保障するために設定された非常に重要な社会保障制度の一つというふうに言えます。
ところが、少子高齢化が進むにつれまして、この公的年金がこのまま維持できるのだろうか、ひょっとすると破綻するのではないかというふうな不安感、不信感が強まってきているというのも事実であります。これは非常にゆゆしき事態であるというふうに思います。
本日は、この公的年金が抱えている問題点と、私が個人的に考える改革の方向を、一部ちょっと極端な意見もありますけれども、述べさせていただきたいと思います。
私は、現行の公的年金につきましては、財政面あるいは経済面から見て、少なくとも二つの大きな問題点があるというふうに考えております。
一つは、年金財政が悪化し続けて、公的年金を制度として維持できなくなる可能性が強まっているということであります。
現行の公的年金は、それぞれの時点において、現役の世代が引退の世代の年金給付の財源を負担するという、いわゆる賦課方式、簡単に言ってしまうと自転車操業なんですけれども、賦課方式の仕組みになっております。この賦課方式の仕組みを維持するためには、少子高齢化が進んで高齢者の比率が高まりますと、現役世代の人たちの負担を高めていくしか方法がありません。ところが、負担を引き上げますと若い人たちの反発が出てまいりますし、逆に、年金の給付を削減しようとすると高齢者の人たちから反発が出てくるということになります。その結果何が起こるかと申しますと、政府が将来に向けて負担を先送りすることになってしまいます。これは日本だけでなくて、ほかの先進国でも共通して見られる現状であります。
お手元にレジュメが配られているかと思いますけれども、そこに具体的な数字をお示ししております。民間のサラリーマンが加入している厚生年金の場合ですが、二〇〇〇年度末時点におきまして、保険料を過去に少しでも払った人たち、あるいは既に年金生活に入っている人たちに対して、国は六百九十五兆円の年金給付を将来に向けて約束しております。そのうち財源が政府にある部分と申しますのは、いわゆる年金積立金という部分でして、この部分が百四十三兆円ということです。そういたしますと、今申し上げた六百九十五兆円の借金から資産としてあります百四十三兆円を差し引いた五百五十二兆円、この部分が将来に向けて先送りされた借金ということになります。この部分をしばしば年金純債務というふうに呼ぶ場合がございます。日本のGDP、国内総生産は大体五百兆円前後ですので、それをも上回るような借金を政府は将来に向けて抱えているということになります。
この年金純債務は、これから少子高齢化が進みますとさらにふえていくかもしれません。現に、先般、厚生年金の収支が二〇〇一年度に入りまして初めて赤字に転じたということが厚生労働省によって報告されたところです。そういうことで、年金財政はかなり深刻な状況にあると言わざるを得ません。そういうふうに財政的な基盤が揺らぐようですと、老後の所得を保障する非常に重要な仕組みである公的年金の持続可能性そのものが疑問視されるということになります。
それから、二番目の問題ですけれども、これは一番目の問題と密接に関係するんですが、公的年金をめぐりまして世代間の格差が広がっているということであります。
私たちは、現役時に保険料を支払って、引退時に年金を受け取るわけですけれども、その受け取りと支払いの差し引きがどういうふうになるかというのは人情として気になるわけです。私が個人的に行いました試算の結果を申し上げますと、厚生年金の場合ですが、平均的な夫婦を想定いたしますと、一九五〇年生まれ、つまり昭和二十五年生まれの人たちですと、生涯賃金の大体一〇%程度、支払った保険料よりも受け取る年金の方が多くなるということに対しまして、一九九〇年生まれ、平成二年生まれですと、逆に、生涯賃金の一一%程度、保険料の方が年金を上回るという状況になります。
こういう公的年金をめぐる世代間格差の問題は、少子高齢化が進むとどうしても出てくる問題なんですけれども、世代が離れれば離れるほど格差が広がっているという問題がございます。財政学の教科書を見ますと、所得の高い人から低い人にというふうな所得再分配が政府による財政政策の重要な役割として指摘されるわけですけれども、若い人から高齢世代に一方的に所得再分配を行うという仕組みについては、それを正当化する理論的な根拠というのはなかなかはっきりしておりません。年金の問題を考える場合も、この世代間の公平性という点については、私たちはある程度の配慮をする必要があるだろうというふうに思っております。
もちろん、公的年金を、加入するとどれだけ得をするか、損になるかというふうな損得勘定ですべて議論するということは適切ではありません。中村先生が先ほど御指摘されましたように、公的年金には、社会連帯あるいは世代間の助け合いという非常に重要な役割があります。ただ、余りに世代間で格差が広がりますと問題が出てまいります。若い人たちに多くの負担を強いるようになりますと、制度そのものが維持できなくなって、元も子もなくなってしまうという危険性も出てくるのではないでしょうか。
こういうふうなことを申し上げますと、若い人たちだけに依存するのではなくて、国庫負担を引き上げて、国が財源を投入すべきであるというふうな意見が出てくるわけです。ところが、これは、経済学的にいいますと、すべて正しいということは言えないのではないかというふうに思います。と申しますのは、国庫負担というのは、最終的には私たち国民の税金あるいは保険料、あるいは将来世代の人たちの負担になるからというわけであります。もちろん、むだな経費を削って、その分を社会保障に回すべきだというふうな意見は正論ですし、私も個人的にはそういう意見に全面的に賛成いたします。
ただ、年金をめぐりましては、毎年数十兆円のお金が政府の懐を出入りしますので、一般財源の細かなやりくりだけで解決できるような、そのような小さな問題ではないというふうな認識も必要ではないかと思います。
以上、二つの問題点、つまり、年金財政が悪化するのではないかという危険性、それから、世代間格差が拡大するのではないかという危険性を指摘させていただきました。こういう二つの問題点を念頭に置いたときに、政府が現在検討しているとされる二〇〇四年改正、今度の年金制度改革はどういうふうに評価すべきかという問題が出てまいります。いろいろな論点があるんですけれども、私がここで特に取り上げさせていただきたいのは、政府が導入を検討しているとされる保険料固定方式という仕組みであります。
この保険料固定方式というのは、現在、年収の一三・五八%となっている厚生年金の保険料率の上限を二〇%として法律で定めて、それ以上の保険料は徴収しない。それから、保険料がその上限に達した以降は、基本的に保険料収入の範囲内で給付水準を自動的に調整していく、そういう仕組みであります。これまでの年金改革というのは、年金の給付水準をまず設定して、それを達成するように保険料を調整するというパターンの繰り返しでした。ところが、御存じのとおり、出生率は政府の予想を下回り続けて、そのために、政府はこれまで保険料を引き上げ続けてきたわけであります。
今回の改革は、こういうこれまでの改革のパターンを改めて、保険料の上限を設定してしまおうというふうに考えているわけです。それから、保険料が上限に達した後は、政府に入ってくるお金の範囲内でしか年金を基本的には給付しないという考え方になっております。
これをどういうふうに評価するかということなんですけれども、立場によってその評価の仕方が違ってくるかと思いますけれども、先ほど説明いたしました年金純債務が雪だるま式に膨らんで、あるいは将来への負担の先送りがどんどんと続いて、それで制度が破綻するという危険性はとりあえず回避できるのではないかというふうに思います。そういう観点からすると、一応プラスに評価できる面はないことはないというふうに私は考えます。
ただ、その一方で、世代間の格差というもう一つの問題点がどこまで是正されたかといいますと、必ずしも政府によって数字で明らかにされてはおりません。保険料率は、上限は二〇%という形で設定されたわけですけれども、これからどんどん引き上げられてまいります。その一方で、給付水準は、最終的には現行制度よりも一二%程度引き下げられるということになっています。そういたしますと、これから保険料を長い間支払っていく若い世代にとって、今回予定されている制度改革で状況がどこまで改善されるのかと言われると、非常に不透明な部分がございます。実際、私の試算によりますと、世代間格差というのは、それほど現行制度に比べて是正されないというふうなことになっております。
それではどうすればいいのかという問題になるわけなんですけれども、私は、年金という非常に重要な制度の持続可能性を高める、それから、世代間格差を是正するためには、保険料水準をなるべく低く抑えて、それと連動して給付水準も低目にすべきだというふうに考えております。もちろん、給付の水準を抑えるということは、それだけを取り出すと非常に残念なことであります。しかし、その一方で、若いころに支払う保険料の負担が低くなりますと、自分自身で老後に備える余地が出てくるということもまた否定できません。
もちろん、公的年金をどんどんスリムにしてなくしてしまえというのは、極論以外の何物でもありませんし、そんなことを主張する経済学者はまずいません。公的年金というのは、老後の所得保障という非常に重要な役割を期待されております。したがいまして、私も含めてですけれども、年金を勉強している経済学者の中では、公的年金というのは老後の最低限の所得を保障する基礎年金の部分に限定して、それを上回る部分は国民それぞれが老後に備えて貯蓄をしていく。そして、政府はそうした個人による老後の備えを税制等の面で支援していくというふうな形に制度を変えるべきだというふうな主張をする者が少なくありません。
こういう発想をする背景には、少子高齢化の進む中では、政府が余りに多くの年金の給付を国民に約束してしまいますと、現役世代が支え切れなくなって、年金の仕組みそのものが根こそぎ崩壊してしまうのではないかという差し迫った危機意識があるからであります。そういうふうに制度が根こそぎなくなってしまうよりはむしろ、政府が責任を持って運営できる、そして現役の世代の人たちが無理なく支えられる部分に公的年金の範囲を限定して、その部分を今まで以上に強固な仕組みにしていくというふうな考え方をするわけであります。
もちろん、年金を削減するというふうな改革案につきましては、厳しい批判が寄せられるということは十分予想しておりますし、それから、個人的に考えても、老後は充実した年金生活を送れればよいなというふうには考えているわけなんですが、少子高齢化がこれから急速に進展するという非常に重い人口動態の圧力の中では、日本国憲法第二十五条の精神を貫くためには、公的年金についてもぎりぎりの選択を我々は迫られているというふうに言わざるを得ません。
ここでちょっと具体的な数字を申し上げますと、現在の公的年金は、厚生年金の場合ですけれども、夫婦二人のモデルケースの場合、給付が大体二十万円台前半になっております。この水準は、世界的に見てもそれほど低くない、平均より上のような水準でありまして、給付面に限って申し上げますと、充実したものと言えます。ただ、正直申し上げて、こういうふうな高い給付水準、これは現在の大卒の初任給を上回るわけですけれども、こういう給付水準を維持できるだけの経済的な力を、これから頭数の先細っていくような若い世代の人たちが果たして維持できるのだろうか、負担に耐えられるのだろうかというふうなことを考えますと、私は、残念ながら悲観的な見方をせざるを得ないというふうに思っております。
繰り返しますけれども、私は、年金という非常に重要な仕組みを維持するためにも、政府が最低限責任を持って支えるべき部分はどこまでかということをきちんと検討すべき時点に来ているのではないかというふうに思います。そして、政府が運営すべき公的年金は、個人的にも基礎年金に限定するしかないのではないか。そして、基礎年金を超える部分は別の方法で制度をつくりかえるというふうな方法が必要ではないかというふうに私は考えております。
そういうふうに改革をした場合も、解決すべき多くの問題が残されているということも事実であります。
全部で三つほど申し上げますけれども、一つ目の問題点といたしましては、仮に公的年金を基礎年金の部分に限定するといたしましても、その水準をどういうふうに設定するかという点については、議論が大きく分かれるところであろうというふうに思います。経済学の分野から見ても、最低限度の生活、最低限度の所得という水準をどういうふうに設定するかという点について、具体的に幾らですよというふうな回答を導き出すことはできません。
私自身、基礎年金の給付水準につきまして、この程度が望ましいというふうな具体的な数字を自信を持って申し上げることはできません。ただ、判断のための一つの目安としては、生活保護の基準額というものがございます。この額は、居住する地域によって違いますけれども、老夫婦二人の場合、住宅扶助等も合わせますと、大体十一万円ぐらいから十五万円ぐらいというふうになっております。現在、基礎年金は一人当たり月額六万七千円ですので、老夫婦二人ですと、合わせて十三万四千円ということになります。ですから、結果的なことなんですけれども、生活保護の基準額と現在の基礎年金というのは大体見合っているというふうに考えてよろしいかと思います。
したがいまして、現行の基礎年金の水準は、今後も政府が維持すべき一応の目安として考えてよろしいのではないかというようなことを、とりあえずの私の考えとして述べさせていただきます。もちろん、具体的な水準、適切な水準については専門家の議論が必要になるというふうに思います。
二番目の問題点は、給付水準を所得に応じて調整すべきなのか、あるいは、もう一つの所得保障の仕組みである生活保護との関係をどう見るのかという問題があります。
公的年金を仮に最低限度の所得保障の仕組みとして考えますと、例えば、若いときにどんどんお金を稼いで貯蓄がたくさんある人、あるいは高齢時にもどんどん働いて勤労所得が高い人、あるいは資産所得が高い人にとっては、あなたは最低限度の所得以上の所得を稼いでいるから年金は給付する必要はないでしょうというふうに言うことができるかもしれませんし、あるいは、少なくとも所得の高い高齢者には給付を減らすべきだというふうな考え方が出てきてもおかしくありません。現に、生活保護を受けようといたしますと、所得や資産の状況をかなり細かく尋ねられるというふうなことになっております。これを資力審査あるいはミーンズテストというふうに申します。
しかし、公的年金の給付の際にもそうした資力審査を厳格に行って、所得に応じて給付水準を調整するというのは、実際にはかなり大変なことだろうというふうに思います。私は、これは議論の分かれるところだろうと思いますけれども、公的年金の給付は、所得とは無関係に一律にしてよいのではないかというふうに思います。そういたしますと、所得の高い高齢者ほど得をするわけでありますので、最終的には、年金所得も含めてすべての所得を合算した上で、所得税制で所得の再分配を行うべきではないかというふうに考えます。その場合、高齢者向けの生活保護の仕組みは、公的年金の仕組みに最終的に吸収されるということになるのではないかというふうに考えております。
最後は、財源をどうするかという問題であります。
実は、公的年金を基礎年金に限定すべきだという立場をとる場合、財源として消費税を用いるべきだという意見が有力になっております。ただ、年金の財源につきましては、保険料か税かという議論が昔から繰り返されておりまして、専門家の間でも意見が大きく分かれております。
私は、財源を税にするにしても保険料にするにしても、負担は所得、つまり負担できる能力にできるだけ連動させるようにすべきだというふうに考えております。
実は、社会保障という仕組みに、所得再分配という機能をどこまで期待すればいいかという点につきましては、日本だけではなくて、欧米の専門家の間でも意見が分かれております。中には、社会保障というのは社会的なリスクを社会の構成員で分散するだけの機能を果たすのでよくて、高所得者層から低所得者層への所得の再分配というのは税制やそのほかの財政の仕組みで担当すればいいというふうな意見もあります。
ただ、私は、社会保障という仕組みにも、経済的に余裕のある人ほど多くの負担をしてもらっていいのではないかというふうに考えております。先ほど、公的年金のあり方につきましては、世代間の公平性が重要だというふうなことを申し上げましたけれども、それと同時に、同じ世代の中での公平性というふうな、世代内の公平性という観点も重要ではないかと考えております。
そういうふうな観点から申し上げますと、現在のように、自営業は月額一万三千三百円という定額の保険料を払う、それからサラリーマンや公務員は所得に比例する形で保険料を払うという仕組みは、仮に保険料方式を今のまま維持するとしても、なかなか正当化するのは難しいのではないかというふうに考えております。理想的には、すべての人々が、業種や職種に関係なく、所得に連動する形で年金の財源を負担すべきだろうというふうに考えております。
その場合、所得の捕捉という非常に重要な問題が出てまいります。現在、消費税を福祉目的税化して、基礎年金の財源に充てようというふうな議論がしばしば聞かれるわけです。もちろん、消費税には、御存じのように、低所得者層ほど相対的に税負担が重くなるという、いわゆる逆進的な側面があります。にもかかわらず、消費税の導入を主張する声がなかなか消えないのは、所得税で財源調達をしようとしますと、所得がほぼ一〇〇%捕捉できるサラリーマンや公務員が一方的に不利になるのではないかというふうな危惧があるからだと思います。
私は、所得の捕捉さえしっかりとできて、しかも所得と連動する形で年金の財源が徴収できるのであれば、税か保険料かという論争はある程度解決できるのではないかと思っております。
これに対して、消費税による財源調達というのは、所得の捕捉という問題に手をつけない、言い方をかえますと、一種の現実的な方策といいますか、次善の策であるかというふうに思います。
ところが、消費税で基礎年金を全額負担するとなりますと、二〇二五年時点で一〇%台前半の税率が必要になってしまうというふうな試算もあります。それから、基礎年金だけではなくて、高齢者医療それから介護保険も消費税で全部賄ってしまうということになりますと、一つの試算では四〇%ぐらいの非常に高い消費税率が必要になるというふうなことにもなっております。そこまで高い消費税率を国民が受け入れるかどうかというのは全く不透明なんですけれども、少なくとも、消費税で財源を調達しようというふうに考える場合は、品目ごとに税率を調整するとか、あるいは消費税以外のところで所得再分配の仕組みを整備するというふうな政策が別途必要になるかと思います。
そろそろ予定の時刻が近づいてまいりましたので、私の主張したい点をまとめさせていただきます。
日本国憲法二十五条で定められている最低限度の生活保障、そしてその中核に位置していると思います公的年金の仕組みというのは、これからも私たちが堅持すべき最も重要な制度の一つだろうというふうに思います。ただ、少子高齢化が進む中でこの重要な制度を堅持するためには、財政面から見た持続可能性、それから世代間の公平性、それから世代内の公平性といったさまざまな観点から、現行制度のあり方を見直す必要があるのではないかというふうに思います。
その場合、私の考えている理想的な公的年金の姿、これについては反論があるのは承知しておりますけれども、その理想的な姿をあえて申し上げさせていただきますと、賦課方式で、これまでと同様、運営すべき年金というのは、できれば基礎年金部分に限定していいのではないか。それから、その基礎年金の財源は、職種に関係なく、所得と連動した形で調達すべきではないか。それから、基礎年金を超える部分は、国民それぞれによる老後への備えをする仕組みとして設定し直して、そこに政府が職種とは関係なく、統一した形で人々の老後への備えをサポートする、そういうふうな仕組みに改めるべきではないかというふうに考えております。
以上で、私の意見を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。拍手
大
大
倉
倉田雅年#7
○倉田小委員 では、質問させていただきます。中村先生からお願いをしたいと思います。自由民主党の倉田雅年でございます。
私も先生が冒頭おっしゃいました憲法研究会の憲法草案要綱、これにいささか興味を持っておるわけでございます。これは、先生もお書きになっていますとおり、一九四五年の十二月二十六日に発表されておる。それで、実際の現行憲法の原案は、GHQの民政局がつくったということですが、突貫工事でつくったと言われていますが、これは、この草案要綱が発表されたよりも後のことでしょうね、憲法原案の作成されているのは。いかがでしょうか。
この発言だけを見る →私も先生が冒頭おっしゃいました憲法研究会の憲法草案要綱、これにいささか興味を持っておるわけでございます。これは、先生もお書きになっていますとおり、一九四五年の十二月二十六日に発表されておる。それで、実際の現行憲法の原案は、GHQの民政局がつくったということですが、突貫工事でつくったと言われていますが、これは、この草案要綱が発表されたよりも後のことでしょうね、憲法原案の作成されているのは。いかがでしょうか。
中
倉
倉田雅年#9
○倉田小委員 そうですね。
それで、私、生存権のこととは関係ない、生存権は衆議院での修正段階で二十五条が取り入れられた。これは今言った民間草案とそっくりだ、こういうことでございますね。
一方、民間草案の冒頭の方の「根本原則」のところで、「統治権ハ」「国民ヨリ発ス」、こうしてありまして、これは国民主権の原理を言っているわけですが、一方、天皇については「国家的儀礼ヲ司ル」、こういうことで天皇制も認めておる。この点がGHQの原案に影響しているのではないかなと思いますが、いかがでございましょうか。
この発言だけを見る →それで、私、生存権のこととは関係ない、生存権は衆議院での修正段階で二十五条が取り入れられた。これは今言った民間草案とそっくりだ、こういうことでございますね。
一方、民間草案の冒頭の方の「根本原則」のところで、「統治権ハ」「国民ヨリ発ス」、こうしてありまして、これは国民主権の原理を言っているわけですが、一方、天皇については「国家的儀礼ヲ司ル」、こういうことで天皇制も認めておる。この点がGHQの原案に影響しているのではないかなと思いますが、いかがでございましょうか。
中
倉
倉田雅年#11
○倉田小委員 わかりました。ありがとうございます。
次に、小塩先生の方にお伺いをしたいと思います。よろしくお願いいたします。
先生が、少子高齢化に向かって世代間格差の拡大を防ぐ、あるいは同時に、同世代内での公平も目指そう、こういうことから八通りの計算をなさっていますね。客観的に物事をとらえようということは大変正しいと思うんですが、先生の結論といたしましては、公的年金は基礎年金の部分に限定する、しかも、その財源については所得によるんだ、こういうぐあいに結論されたわけですが、現在のままの状況でいけば、財政的に破綻してしまうだろうという切迫したことから、やはり基礎年金だけにしようじゃないかということはわかるんですが、思想的な観点からして、北欧型の、税金と社会保障の保険金とを合わせた国民負担率が七〇%を超えてしまうような社会ではなくて、やはり一部は公的なものによるけれども、基本的には自己管理といいますか、自己責任の世界、こちらの方でいこう、こういう考え方でしょうか、どうでしょうか。
この発言だけを見る →次に、小塩先生の方にお伺いをしたいと思います。よろしくお願いいたします。
先生が、少子高齢化に向かって世代間格差の拡大を防ぐ、あるいは同時に、同世代内での公平も目指そう、こういうことから八通りの計算をなさっていますね。客観的に物事をとらえようということは大変正しいと思うんですが、先生の結論といたしましては、公的年金は基礎年金の部分に限定する、しかも、その財源については所得によるんだ、こういうぐあいに結論されたわけですが、現在のままの状況でいけば、財政的に破綻してしまうだろうという切迫したことから、やはり基礎年金だけにしようじゃないかということはわかるんですが、思想的な観点からして、北欧型の、税金と社会保障の保険金とを合わせた国民負担率が七〇%を超えてしまうような社会ではなくて、やはり一部は公的なものによるけれども、基本的には自己管理といいますか、自己責任の世界、こちらの方でいこう、こういう考え方でしょうか、どうでしょうか。
小
小塩隆士#12
○小塩参考人 負担と給付の関係をどういうふうに考えるかという点では、国民の間でいろいろ意見がありますし、それから国によっても意見が分かれていると思います。
北欧型は高負担・高福祉ということで、それで北欧の人たちは満足しているというふうに思います。その一方で、なるべく低負担・低福祉でいきましょうというふうな考え方もあるわけですね。それをどういうふうに、どれが望ましいかということについて、経済学の方から、これがいいですよというふうな結論は導き出すことはできません。
ただ、私が個人的に考えますのは、負担という場合は、世代をまたがる形をとらざるを得ないというふうに思います。社会保障の負担は、どちらかというと若い世代の人たちが負担をするという形になるわけですね。
そういうふうなことを考えますと、高負担となりますと、そうなればなるほど世代間の格差というのが広がってくるんじゃないか。その仕組みは、少子高齢化が進んでいくと、なかなか維持が難しいのではないかというふうに考えざるを得ません。そういたしますと、余りに高目の負担で制度を動かしていくというのは、ちょっと難しいんじゃないかというふうに考えております。
この発言だけを見る →北欧型は高負担・高福祉ということで、それで北欧の人たちは満足しているというふうに思います。その一方で、なるべく低負担・低福祉でいきましょうというふうな考え方もあるわけですね。それをどういうふうに、どれが望ましいかということについて、経済学の方から、これがいいですよというふうな結論は導き出すことはできません。
ただ、私が個人的に考えますのは、負担という場合は、世代をまたがる形をとらざるを得ないというふうに思います。社会保障の負担は、どちらかというと若い世代の人たちが負担をするという形になるわけですね。
そういうふうなことを考えますと、高負担となりますと、そうなればなるほど世代間の格差というのが広がってくるんじゃないか。その仕組みは、少子高齢化が進んでいくと、なかなか維持が難しいのではないかというふうに考えざるを得ません。そういたしますと、余りに高目の負担で制度を動かしていくというのは、ちょっと難しいんじゃないかというふうに考えております。
倉
倉田雅年#13
○倉田小委員 わかりました。
経済学の方で、国の経済成長率というものは、労働生産人口、つまり十五歳から六十五歳までの人口の伸び率とあとは生産性、これが経済成長率と連動するんだという原理があると言われています。これは、日本の合計出産率といいましたか、女性の合計特殊出産率、現在一・三%台まで下がっちゃっていますので、そういうことを考えると、今の原理と少子化が進んでいくということを、非常に日本の将来にとっては恐ろしいような事態が予想されると私は考えているんですね。
そうした中で、先生のおっしゃるような、低負担で自己責任主義でいくというのも一つでしょうが、デンマークの例をとってみますと、国民負担率は七三・九%なんですね。だけれども、制度が安定しているといいますか、しっかりしている、国民からの信頼があるということが前提ですが、なんと人口もふえていますし、高齢化率も下がってきている、こういう現実があるんですね。まあ、日本人がどっちを選択したらいいのかというのは国民が決めることですが。
仮に国民負担率がかなり高くても、制度に信頼性があり、安定性があり、かつ、先生がおっしゃったような世代間格差というようなもの、こういうものが何らかの形で上手に解消された場合には、国民負担率が仮に高くてもいけるのかな、いや、やはりだめだ、やはり負担率は低くて自由な方がいいのかなと、大きくいつも私の頭の中で揺れるんですが、先生、やはり基本的には、負担率は小さくて自己責任主義でいくべきだ、こういうお考えなんでしょうか。
この発言だけを見る →経済学の方で、国の経済成長率というものは、労働生産人口、つまり十五歳から六十五歳までの人口の伸び率とあとは生産性、これが経済成長率と連動するんだという原理があると言われています。これは、日本の合計出産率といいましたか、女性の合計特殊出産率、現在一・三%台まで下がっちゃっていますので、そういうことを考えると、今の原理と少子化が進んでいくということを、非常に日本の将来にとっては恐ろしいような事態が予想されると私は考えているんですね。
そうした中で、先生のおっしゃるような、低負担で自己責任主義でいくというのも一つでしょうが、デンマークの例をとってみますと、国民負担率は七三・九%なんですね。だけれども、制度が安定しているといいますか、しっかりしている、国民からの信頼があるということが前提ですが、なんと人口もふえていますし、高齢化率も下がってきている、こういう現実があるんですね。まあ、日本人がどっちを選択したらいいのかというのは国民が決めることですが。
仮に国民負担率がかなり高くても、制度に信頼性があり、安定性があり、かつ、先生がおっしゃったような世代間格差というようなもの、こういうものが何らかの形で上手に解消された場合には、国民負担率が仮に高くてもいけるのかな、いや、やはりだめだ、やはり負担率は低くて自由な方がいいのかなと、大きくいつも私の頭の中で揺れるんですが、先生、やはり基本的には、負担率は小さくて自己責任主義でいくべきだ、こういうお考えなんでしょうか。
小
小塩隆士#14
○小塩参考人 負担率の高さとそれから経済的なパフォーマンスあるいは出生率の間には、それほど明確な関係はございません。
それから、北欧あるいはヨーロッパの一部の国々で、日本に比べて少し高目の出生率が観測されますけれども、これも、社会保障とどれだけ関係があるのかと言われると、十分分析が進んでいないところであります。
ただ、そうはいいましても、やはり重要なのは制度の安定性というふうな面だろうと思います。制度が安定していると、国民生活もあるいは経済の仕組みも安定するということで、出生率の回復につながるとか、あるいは生産性の上昇につながるという面は、確かにあろうかというふうに思います。
この発言だけを見る →それから、北欧あるいはヨーロッパの一部の国々で、日本に比べて少し高目の出生率が観測されますけれども、これも、社会保障とどれだけ関係があるのかと言われると、十分分析が進んでいないところであります。
ただ、そうはいいましても、やはり重要なのは制度の安定性というふうな面だろうと思います。制度が安定していると、国民生活もあるいは経済の仕組みも安定するということで、出生率の回復につながるとか、あるいは生産性の上昇につながるという面は、確かにあろうかというふうに思います。
倉
大
倉
倉田雅年#17
○倉田小委員 小塩先生は、消費税よりも所得税に財源を頼るべきだとおっしゃられるんですが、所得税も、最近、累進性が強過ぎるということで、緩和されているという傾向があります。
つまり、余りに応能主義が過度になりますと、やはりここでも逆な不公平感が出るということで、私は、やはり消費税の逆進性というのは程度の問題といいますか、余り高くしちゃうとそういうことが起こりますが、やはり財源としては消費税の方に少し重きを置かざるを得ないんではないかなと考えますけれども、いかがでしょうか。
この発言だけを見る →つまり、余りに応能主義が過度になりますと、やはりここでも逆な不公平感が出るということで、私は、やはり消費税の逆進性というのは程度の問題といいますか、余り高くしちゃうとそういうことが起こりますが、やはり財源としては消費税の方に少し重きを置かざるを得ないんではないかなと考えますけれども、いかがでしょうか。
小
小塩隆士#18
○小塩参考人 消費税の方が、逆進性という面がありますけれども、例えば、先ほど申し上げました所得の捕捉の問題を解決しないまま導入できるという問題もありますし、それから、きょうは十分説明できませんでしたけれども、いわゆる第三号被保険者問題をなし崩し的に解決できるというふうなメリットもあるわけです。
ただ、余りに高い水準に消費税率を上げるということになりますと、やはり逆進性の問題を無視できないということが出てまいります。さらに、先ほど申し上げましたように、仮に社会保障の財源を全部消費税にするといたしますと二けたの税率はもう避けて通れないということになりますから、逆進性という消費税の持っている非常に大きな問題が今まで以上に出てくるというふうに思いますので、できれば所得税の方がよろしいかと言える部分もあるんじゃないかというふうに私は考えております。
この発言だけを見る →ただ、余りに高い水準に消費税率を上げるということになりますと、やはり逆進性の問題を無視できないということが出てまいります。さらに、先ほど申し上げましたように、仮に社会保障の財源を全部消費税にするといたしますと二けたの税率はもう避けて通れないということになりますから、逆進性という消費税の持っている非常に大きな問題が今まで以上に出てくるというふうに思いますので、できれば所得税の方がよろしいかと言える部分もあるんじゃないかというふうに私は考えております。
倉
大
水
水島広子#21
○水島小委員 民主党の水島広子でございます。
本日は、中村参考人、小塩参考人、お忙しい中、貴重なお話をいただきましてありがとうございます。私からも早速質問をさせていただきたいと思います。
まず、原則的なことについてちょっとお伺いしたいんですけれども、憲法二十五条に規定をしております生存権、これは本当に、これからいよいよ貧富の格差が広がっていきそうな日本の中で、日本がきちんと守っていかなければいけない重要な条項ではないかと私は思っているわけでございますけれども、先日も、たしか森喜朗さんが、何だか、子供も産んでいない女性が後で税金でお世話になろうとは何だとか、そういう発言をされたとも聞いておりますし、また、人によっては、子供も産んでいない人が介護保険のことを論じる資格などないと言ってみたりとか、時々そういう政治家の方による暴言のようなものが耳に入ってくるわけでございます。
これらの発言は、やはり憲法第二十五条の生存権ということを考えますと、基本的に憲法に違反する発言と考えてよろしいんでしょうか。中村参考人、小塩参考人、両参考人に確認させていただきたいと思います。
この発言だけを見る →本日は、中村参考人、小塩参考人、お忙しい中、貴重なお話をいただきましてありがとうございます。私からも早速質問をさせていただきたいと思います。
まず、原則的なことについてちょっとお伺いしたいんですけれども、憲法二十五条に規定をしております生存権、これは本当に、これからいよいよ貧富の格差が広がっていきそうな日本の中で、日本がきちんと守っていかなければいけない重要な条項ではないかと私は思っているわけでございますけれども、先日も、たしか森喜朗さんが、何だか、子供も産んでいない女性が後で税金でお世話になろうとは何だとか、そういう発言をされたとも聞いておりますし、また、人によっては、子供も産んでいない人が介護保険のことを論じる資格などないと言ってみたりとか、時々そういう政治家の方による暴言のようなものが耳に入ってくるわけでございます。
これらの発言は、やはり憲法第二十五条の生存権ということを考えますと、基本的に憲法に違反する発言と考えてよろしいんでしょうか。中村参考人、小塩参考人、両参考人に確認させていただきたいと思います。
中
水
水島広子#23
○水島小委員 別に森さんの発言が云々、そういうことではなくて、やはり子供を産んでいる人、産んでいない人、いろいろな人がいるわけですけれども、そういう人たちが、結局、老後、自分がどんな健康状態になろうと経済状態になろうと、それはきちんと税金なりなんなりで公的に最低限の生活を保障される権利を持っているというのが日本国憲法の考え方であって、子供を産んでいない人は税金でお世話になっていけないというのはこれに反するものだという、その一般的なところだけ確認したいんです。
この発言だけを見る →中
中村睦男#24
○中村参考人 二十五条は、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営むということでございますので、これは全く……。
それから同時に、二十五条の規定は、十四条の法のもとの平等の規定がありまして、当然、生存権というのは同時に法のもとの平等というのと密接不可分な関係がありますので、おっしゃった趣旨はそのとおりだと思います。
この発言だけを見る →それから同時に、二十五条の規定は、十四条の法のもとの平等の規定がありまして、当然、生存権というのは同時に法のもとの平等というのと密接不可分な関係がありますので、おっしゃった趣旨はそのとおりだと思います。
小
小塩隆士#25
○小塩参考人 私は経済の専門家ですので法律のことはよくわからないんですけれども、一般的なことを申し上げますと、女性もそうです、男性もそうなんですけれども、子供をどれだけ産み育てるか、あるいは結婚をするしない、そういうのを全部含めてライフスタイルをどういうふうに選択するかというのは完全に個人の自由ですので、そこに公的な制度がバイアスをかけるというのは問題ではないかと思います。
ただ、子供を産み育てるということに対して社会全体で支援していきましょうというのは、結果的に見ると子供を産み育てるという行動にバイアスをかけますけれども、それは是認していい、もっと積極的に進めていい方向ではないかというふうに考えております。
この発言だけを見る →ただ、子供を産み育てるということに対して社会全体で支援していきましょうというのは、結果的に見ると子供を産み育てるという行動にバイアスをかけますけれども、それは是認していい、もっと積極的に進めていい方向ではないかというふうに考えております。
水
水島広子#26
○水島小委員 答えにくい質問だったと思いますけれども、ありがとうございました。
次に、二十五条、どうしてもやはり生存権ということになりますと、生活保護を初めとした制度との関係が深くなるということは中村参考人もるるお話しになったとおりなんですけれども、私自身も精神科医をやっておりましたので、病気を機に家族から縁を切られてしまった患者さん、生活保護からまた社会復帰へと、そのようなプロセスを一緒にたどった経験を持っております。
生活保護を受けるというのはやはりまだまだ偏見もございますし、また役所の窓口での対応というのも非常に厳しいものがありまして、本当にもうぎりぎりのところまで身をはがれてやっと生活保護が受けられる。その時点では、人間としての尊厳も奪われるような、そんな発言を聞かされることもあるわけでございます。私は、生活保護を受ける際に嫌みを言うエネルギーがあるのであれば、そのエネルギーをもっと就労支援とか自立支援に向けていくべきだと思っておりまして、この生存権という権利はもう権利としてきちんと確保した上で、そのほかに例えば働く権利であるとかいろいろな権利があるわけですから、それらをもっとプラスの方向に発揮していくべきだと思っております。
そうやって考えてみると、非常に現行の制度にはまだまだいろいろな制度間の隔たりがあるなと感じておりまして、例えば母子家庭の方たちに対する児童扶養手当の問題を見ましても、これから削減される方向に行く。今どうにか働いていて、勤労収入と児童扶養手当で何とかぎりぎりの生活をしている母子家庭の方たちが、児童扶養手当を失うことによってそのトータルの収入を確保できなくなって結局生活保護世帯になっていくというふうに、そこの間にはかなり生活の大きな隔たりがあって、その制度間を非常に弱い立場の方たちが右往左往しながら振り回されているというような印象を持っているわけです。
やはりそのあたり、もう少しこの二十五条の精神を前向きに生かして、憲法二十五条だけではなくて勤労の権利もあるわけですけれども、そのようないろいろな権利をきちんと享受できるように現行制度をもう少しスムーズなものに変える必要があるのではないかと立法府として感じているわけですけれども、そのあたりは中村参考人はいかがお考えでいらっしゃいますでしょうか。
この発言だけを見る →次に、二十五条、どうしてもやはり生存権ということになりますと、生活保護を初めとした制度との関係が深くなるということは中村参考人もるるお話しになったとおりなんですけれども、私自身も精神科医をやっておりましたので、病気を機に家族から縁を切られてしまった患者さん、生活保護からまた社会復帰へと、そのようなプロセスを一緒にたどった経験を持っております。
生活保護を受けるというのはやはりまだまだ偏見もございますし、また役所の窓口での対応というのも非常に厳しいものがありまして、本当にもうぎりぎりのところまで身をはがれてやっと生活保護が受けられる。その時点では、人間としての尊厳も奪われるような、そんな発言を聞かされることもあるわけでございます。私は、生活保護を受ける際に嫌みを言うエネルギーがあるのであれば、そのエネルギーをもっと就労支援とか自立支援に向けていくべきだと思っておりまして、この生存権という権利はもう権利としてきちんと確保した上で、そのほかに例えば働く権利であるとかいろいろな権利があるわけですから、それらをもっとプラスの方向に発揮していくべきだと思っております。
そうやって考えてみると、非常に現行の制度にはまだまだいろいろな制度間の隔たりがあるなと感じておりまして、例えば母子家庭の方たちに対する児童扶養手当の問題を見ましても、これから削減される方向に行く。今どうにか働いていて、勤労収入と児童扶養手当で何とかぎりぎりの生活をしている母子家庭の方たちが、児童扶養手当を失うことによってそのトータルの収入を確保できなくなって結局生活保護世帯になっていくというふうに、そこの間にはかなり生活の大きな隔たりがあって、その制度間を非常に弱い立場の方たちが右往左往しながら振り回されているというような印象を持っているわけです。
やはりそのあたり、もう少しこの二十五条の精神を前向きに生かして、憲法二十五条だけではなくて勤労の権利もあるわけですけれども、そのようないろいろな権利をきちんと享受できるように現行制度をもう少しスムーズなものに変える必要があるのではないかと立法府として感じているわけですけれども、そのあたりは中村参考人はいかがお考えでいらっしゃいますでしょうか。
中
中村睦男#27
○中村参考人 今おっしゃったことは私も基本的に賛成でありまして、二十五条の生存権を具体化するに当たって、戦後はやはり生活保護から出発したという、これは他の社会保障制度が未成熟であったということからそうだったと思うんです。その後、社会保険制度が公的年金、健康保険を含めて充実し、さらに社会福祉の領域というのは最近特にまた充実させてきておりますので、やはり社会福祉なり社会保険が充実することによって、生活保護というのはやはり最後の手段であると思いますので、できるだけその生活保護の最後の手段というのはもう最後の手段として使われるということで、他の社会保障制度をやはり豊かにしていくということが基本的な考えとして必要だと思います。
それから、同時に、二十七条の勤労権と申しますか労働権といいますか、やはり仕事をまず各人が持てるようにするということが大事、まず第一で、もともと生活保護も勤労できる場合には勤労するということが前提になっておりますので、まずは勤労権を保障するという視点がやはり大事だと私も思っております。
この発言だけを見る →それから、同時に、二十七条の勤労権と申しますか労働権といいますか、やはり仕事をまず各人が持てるようにするということが大事、まず第一で、もともと生活保護も勤労できる場合には勤労するということが前提になっておりますので、まずは勤労権を保障するという視点がやはり大事だと私も思っております。
水
水島広子#28
○水島小委員 次に小塩参考人にお伺いしたいと思います。
年金と生存権の関係ということでお話をいただいたわけでございます。先ほど最低保障、先生のお言葉で言うと、今度それを基礎年金でということなんですが、とにかく最低保障年金に当たるものと生活保護との関係で大体目安をお話しになったわけです。先ほど先生、基礎年金の水準、一人六万七千円、これは老夫婦二人で生活保護だとこのくらいということで大体一致するとおっしゃったんですけれども、ちょっと細かい質問になりますが、単身の場合はどのようにお考えでいらっしゃいますでしょうか。
この発言だけを見る →年金と生存権の関係ということでお話をいただいたわけでございます。先ほど最低保障、先生のお言葉で言うと、今度それを基礎年金でということなんですが、とにかく最低保障年金に当たるものと生活保護との関係で大体目安をお話しになったわけです。先ほど先生、基礎年金の水準、一人六万七千円、これは老夫婦二人で生活保護だとこのくらいということで大体一致するとおっしゃったんですけれども、ちょっと細かい質問になりますが、単身の場合はどのようにお考えでいらっしゃいますでしょうか。
小
小塩隆士#29
○小塩参考人 これはあくまでも二人のケースでして、単身になりますと、単純に二で割るというわけではなくて、もう少し高目になる水準を基礎年金として与えるべきじゃないかという議論は出てきて当然だろうというふうに思います。
この発言だけを見る →