坂本義和の発言 (憲法調査会)
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○参考人(坂本義和君) 本日は参考人として意見を述べる機会を与えていただきまして、ありがとうございます。
私の申し上げることはレジュメに大体書いてございますので、少し早口になるかもしれません、お聞き苦しいかもしれませんが、私の考えを述べさせていただきたいと思います。
過去半世紀の平和憲法についての論議は、それぞれの時点での国際政治状況と密接に連関しながら政府と国民の切実な願いと厳しい選択として行われてきたのでありまして、憲法の文言の解釈や立法者の意思の解釈、憲法制定過程の歴史の解釈はそれぞれに重要でありますが、そうした解釈論は真空の中で行われてきたのではありません。
この当然のことを申しますのは、今日、平和憲法をどう考えるかは今日の国際状況と切り離して議論することはできないと私は考えるからでございます。そのことを明らかにするために、まず、この半世紀余りの憲法論議の国際政治的文脈を極めて圧縮して述べさせていただきたいと思います。
第一期は、一九四六年から始まる憲法制定期でありまして、ここで、第一に、侵略戦争の否定としての平和主義、特に自衛戦争を含めた戦争の放棄と一切の軍備の不所持、第二に、軍部主導の軍国主義の否定としての民主主義、主権在民、特に基本的人権の確立という基本原則が政府と国民のほぼコンセンサスとして打ち出されたと思います。
第二期は、一九五〇年の朝鮮戦争の前後から約四十年続く東西冷戦の時期でありまして、ここで、第一に、全面核戦争の危機の高まりは戦争観の革命をもたらし、核時代の第三次大戦は防衛戦争、侵略戦争を問わず人類の破滅を意味する、その意味で一切の戦争を放棄するという憲法の原点が極めて現実的であるという、そういう認識が深められ、また広く共有されました。
他方、米ソ二極間の戦争に巻き込まれることを拒否あるいはちゅうちょする国民の意思は、ほぼ三つの相互に対立する選択肢という形を取ることになりました。
一つは、非武装中立と護憲と国連中心という議論。二つは、自主憲法と再武装という議論です。前者は国際主義、後者は民族主義の違いがありますが、米国とは距離を置いて別個の道を探るという点では類似している点がございます。三つ目は、日米安保、軽武装、憲法も自衛隊もという選択で、国民の過半数を占めました。この三つの立場が様々な状況の中で三つどもえをなして冷戦下の日本の憲法論議の土俵を設定してきたと思います。
これに対して、一九九〇年前後の冷戦の終結は、それまでの議論の前提そのものを崩すことになりました。
第一に、全面核戦争のおそれが激減し、第二には、二極構造が米国の一極優位へと激変いたしました。その反面で、日本地域ではなくて、日本と離れた地域での局地戦争である湾岸戦争や様々な民族紛争、そこにおける大量虐殺などに日本はどう対応するのか、そして冷戦期にほとんど機能しなかった国連安保理事会が活性化する中で憲法と国連憲章をどう関連させるのかという、それまでの憲法論議ではほとんど想定されなかった事態に当面しまして、PKOとか多国籍軍をめぐる議論が混乱を見せたと思います。
ところが、この議論が次第に整理されていく方向に動いていたときに、さらに国際状況は一転しまして、同時多発テロ以後の第四期となります。第三期には、米国は国連を利用し、その反射的効果として国連が活性化したのに対し、今日では、米国は国連に対立して単独行動主義を取り、国権の発動としての戦争を肯定し、先制攻撃戦略を公言し、戦争違法化への国際法の長年の積み重ねを無視するという、日本国憲法の平和主義、戦争放棄、国際主義とは正面から対立する方針を採用しております。
また、これと対決するテロリズムは、これは非対称的な戦術などと言われますが、国際的な正統性を欠くという点では単独行動主義もテロリズムも共通しております。さらに、この二つはどちらも各国の一国単位の対応だけでは対処できない問題であるという意味でも共通しております。
しかし、他面で、冷戦終結後、この第四期を含めて、世界には国境を越えたもう一つの重要な動きがあります。それは、国際面と国内面、双方で民主主義あるいは平等の権利の主張がこれまでの歴史にないほど普遍化し、世界化しつつあるという現実であります。それが今日の世界世論の広範な対米批判の素地となっております。したがって、米国も国連中心あるいは国連重視は拒否しましても、国連無視はできないし、またそれは不利益でもあるという現状があると思います。
さらに、今日の国連は、世界的、地球的な問題解決のために、これまでになく市民社会、国際市民組織の重要性を認め、それとの分業と協力を重視しております。したがって、米国の単独行動主義とテロリズムという厳しい現実と取り組むためには、国際政府組織と国際市民組織とを強化すること、つまりその両者の正統性と実効性を強化するということが緊急の課題であり、今日、我々が日本の憲法について議論する際にも、この課題と、そして今日の厳しい国際政治状況とに照らして、日本はどうあるべきか、何をなし得るかという視点が極めて重要であると私は考えます。
以上述べましたことから明らかなように、憲法を考える場合に、不変の、つまり変わらない、また変えるべきでない基本原理と、具体的な国際、国内の状況認識との双方を踏まえる必要がありますが、そうした観点に立って、以下に憲法について私見を八点ほど述べたいと思います。
一、個人の自衛権は自然権であり、したがって個人の自衛権の集合としての国の自衛権も条文以前の自然権であると私は考えます。
憲法十三条は、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と述べております。言うまでもなく、基本的人権は憲法が認めたから存在するのではなくて、憲法に先行して存在するがゆえに、政府がこれを尊重、保障する義務を負うことを規定するのが憲法であります。十三条のモデルである米国の独立宣言の一句は、生命、自由及び幸福追求は奪い難い天賦の権利であるということは自明の真理であると信ずるとうたっておりますが、この天賦とかあるいは自明の真理という言葉は人による立法に先行する自然権であることを意味しております。同時に、国の自衛権が個人の自然権に基づくということは、その反面で、政府が提示し決定する自衛の行動や政策への協力を拒否するのも個人の自然権であることを意味します。特に、日本国憲法はその前文で、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し、ここに主権が国民に存在することを宣言し、この憲法を確定すると述べております。軍事主導の否定としての主権在民と基本的人権と冒頭で憲法制定期について述べましたが、それに当たると思います。
したがって、国の軍事政策への非協力は、個人の自然権としての基本的人権であり、自然権としての国の自衛権と裏腹を成すものとして認めなければならないと思います。それを許容するのが自由民主主義の下での公共性であり、公共の福祉であると私は考えます。
二、私は、こうした意味での自衛権とは、国の領土、領海、領空の防衛目的に限った自衛力を持つ権利を認めるのが当然だというふうに考えております。自衛力とは、言わば壁あるいは万里の長城でありまして、領域を越えて攻撃や侵略を行う、そういう能力はありませんが、領域を侵犯する者が簡単にそれを排除、破壊できないような障害を作る能力を指しております。
三、九条二項は、「前項の目的を達するため、」の戦力不保持を言っているのであって、厳密な防衛目的の自衛力の保持や行使を禁じておりませんので、私はこの点で改憲の必要はないと思っております。
四、戦力保持を憲法上可能にするために二項を削除するという改憲論がありますが、二項を削除するだけでは戦力の性格が無限定になりますので、もし二項を改めるのであれば、保持する戦力は厳密に専守防衛の目的と能力に限られることを明文で規定すべきであると思います。
冷戦のさなかの一九七〇年代、八〇年代のヨーロッパで、国家間の軍備競争を防止し、平和共存を促進するために取るべき防衛政策として各国が防衛的防衛、ちょっと変な言い方なんですが、これはディフェンシブディフェンスと言っておりましたが、あるいは非挑発的防衛、ノンプロバカティブディフェンス、つまり日本語で言えば専守防衛の政策を取るべきだという議論がなされました。それは、東西緊張の緩和を目的とするだけではなくて、ヨーロッパ内部の国々の、ヨーロッパ統合を促進する方策としても議論されたのであります。
専守防衛の概念を、例えば武器の性能などに即して明確に定義して線を引くのは容易でないのは当然でありますが、テクニカルにはあいまいな境界、領域を残しながらも、専守防衛を基本的な政策の指針として、その方向に努力を積み重ねること自体が国際緊張緩和の上で持つ政治的効果は大きいと思います。
五、専守防衛を憲法に規定することは、本来は憲法は集団的自衛になじまないのでありますけれども、仮に日米安保条約のような集団的自衛体制を認めるにしても、専守防衛の規定というものは、その集団的自衛体制の実際の適用について日本の個別的自衛と不可分の限度にとどめる憲法上及び外交政策上の歯止めになると思います。このことは、前述しましたように、今日の米国の単独行動主義や先制攻撃容認にかんがみて特に留意すべき点であると思います。
またさらに、靖国神社参拝問題、歴史教科書問題、従軍慰安婦問題などを契機にアジア諸国民の日本不信は、表には口には出さなくても繰り返し再燃してきている感情でありまして、この事実は軽視できないと思います。
この点からも、日本が、単なる言葉ではなくて専守防衛を憲法上の原則とするならば、そうした行為そのものが日本への信頼を築くのに寄与すると思います。
六、日本国憲法がいわゆる一国平和主義ではなくて国際平和への責務を負うことは、これは自国のことのみに専念してはならないという前文に明らかであると思います。
七、その場合、何が国際的責務であるか、いかなる責務を負うべきかという問題を生じますが、特にそれが専守防衛の域を超える場合には、国連決議と国際法に基づいて判断し、国際的な正統性と合法性を満たすことが不可欠であります。
言うまでもなく、およそ政治的決定には正統性と実効性が欠かせないのでありますけれども、国連は固有の強制力も経済力も持っておりませんから実効性に欠けるのはやむを得ないのであって、国連が果たし得る、また果たしている機能は何よりも正統化機能であると私は考えております。実に多様な利害や価値観あるいは国際認識を持った政府代表が折衝や討論を重ねてたどり着く決議は、ある問題についての国際社会の大方の一致点を示すものでありまして、それは国内で折衝や討論を通じて最終的には多数決で行う決定とほぼ似た正統性を持ちます。国連の決議は常に正しいとは言えないとしても、また決議をどう実行するかについては日本の自主的な判断が認められるにしても、国連の決議がない、国連の決議となり得ない、あるいは国連決議に反する政策は正統性を欠くと考えなければならず、その意味で国連決議による正統化は不可欠の必要条件であると思います。
こうした意味で、日本が負う国際的責務は、国連の狭義、広義の平和維持活動への国際基準の武装部隊参加を含みます。ただ、それには戦闘目的とは異なる任務と技能を持ついわゆる別組織の充実が必要であると思います。それは、一部自衛隊と重なるでしょうが、民生の復興目的に適した警察、医療、社会経済的インフラの建設、開発や教育の支援などの役割を担う人材のプールと訓練の組織であります。
八、一九九〇年代から国連で唱道され、今日では世界に妥当する判断基準として広く受け入れられており、小渕内閣でも採用されました人間の安全保障というこの目標の実現のための人道支援は、開発、人権、環境を含む平和の構築に不可欠でありますが、今申しました別組織は、こうした広義の平和に寄与する組織でもあります。と同時に、いわゆるNGOはこの分野で政府とは違った形で大きな役割を果たしておりますが、日本のNGOは、欧米に比べて財政的基盤が弱く、国際的支援能力の点で劣っております。そこで、その自律性を損なわない方式で政府の財政的な支援で基金を創設し、また別組織とNGOの役割分担と協力の体制を強めることを私は国民的なプロジェクトとしてもっと本腰を入れて実行すべきであると思っております。
日の丸を世界各地でデモンストレートする、そして日本の存在を示すということが目的ではなくて、平和構築と人道支援というこの普遍的な価値の実現のイニシアチブを取ることを通じて日本の国際的なプレゼンスを高め、日本のアイデンティティーを確立していくというのが日本国憲法の精神を生かす道であると私は考えておりまして、最後に付言した次第でございます。
以上でございます。