豊下楢彦の発言 (憲法調査会)

⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。 詳細は利用規約をご確認ください。

○参考人(豊下楢彦君) 豊下でございます。このたびはお招きをいただきまして御礼を申し上げます。
 本日、私お話ししたいことは、焦点となっております集団的自衛権でございます。趣旨は、今、集団的自衛権を論ずる意味ということでございます。
 大変細かいレジュメで恐縮でございますが、まず最初に政府解釈の変遷でございますが、これはもう既に十分御議論されておるところでございますので、極めて大ざっぱにまとめておきますと、五四年、自衛隊が発足しました年に、集団的自衛権というものは交戦権の禁止に触れる、言わば九条二項ということで違憲であるという見解が出されました。六九年には、国際紛争を武力で解決することに至るのではないかということで、言わば九条一項で違憲であるという、そういう趣旨の見解が出されました。そして、七二年、八一年の政府答弁でございますけれども、これは今日まで続く有名な定義でございまして、自国が直接攻撃を受けていないのに密接な関係にある外国に対する武力攻撃を実力をもって阻止すること、そういうふうに定義をいたしまして、これは自衛権発動の要件である必要最小限度の範囲を超えるということで、言わば九条全体として違憲であるという見解が出されました。
 ところが、八〇年代以降、日米軍事協力が急速に進みまして、ところが、それを政府は、言わば個別的自衛権の枠内で解釈しようとしまして、武力行使一体化であるかどうか、あるいは後方支援であるかどうか、あるいは非戦闘地域であるかどうか、そういった新しいタームを出すことによっていろいろ説明をしてきたわけでありますけれども、それに対しては、こそくであるとか欺瞞的であるといったふうな批判が噴出してきているというのが今日の状況だろうと思います。今や、そういう政府の解釈を根本的に改めるべきであるとか、あるいは明文改憲をして集団的自衛権を明記すべきであるといった議論が出てきているわけでございます。
 そこでの議論の幾つかの点について考えてみたいと思います。
 まず一つの議論は、旧安保条約前文の表現でございますが、そこに、「これらの権利の行使として、」という表現がございます。これは、前後の文脈からいたしますと、間違いなくこれは個別的、集団的自衛権の権利の行使としてというふうに読めるわけであります。そういたしますと、日本は一九五二年から集団的自衛権を行使していたということになるわけでございます。ただ、実は問題の核心は、ここの文章は米軍駐留のリーガルベーシス、法的根拠を問題にしたところでございまして、当時、実は外務省は、独立後の日本に米軍を駐留させるときに、九条の下でそれをいかに論理的、法的に正当化するかということに大変腐心いたしました。
 当初、外務省は、国連の決議でもって日本に米軍を駐留させるといった、そういったやり方を取ろうとしましたけれども、もちろんそういうことは現実には無理でございます。そこで、何とか国連との関係を維持するために五十一条に着目いたしまして、日本は基地を提供する、その代わりにアメリカが日本を防衛すると、そういう意味での集団的自衛権の関係を設定しようとしたわけであります。
 しかし、アメリカは、御承知のように防衛義務ということを拒否いたしました。したがいまして、当時の西村条約局長によりますと、集団的自衛の前の関係という単なる駐軍協定に終わってしまったということでございます。これがようやく六〇年の安保改定におきまして言わば双務的になりまして、これでようやくアメリカ軍は日本に駐留する法的根拠というものが一応説明が付くことになったということになりました。
 そこで、当時、岸政権は、政府答弁の中で、基地提供も集団的自衛権である、経済援助も集団的自衛権であるといったような答弁を繰り返しておりましたけれども、それは、今申しましたように、五〇年以来の集団的自衛権の関係、つまり米軍との関係においてそのようなリーガルベーシスを作るということがようやく六〇年安保改定で一つ完結したんだということが前提になっているだろうと思います。
 そのことはまた、言い換えますと、集団的自衛権というものを広義と狭義、狭い意味と広い意味で考えていた。その狭義といいますか、集団的自衛権の中核と申しますけれども、としましての他国防衛のための海外派兵、武力行使、これは五四年の参議院の決議以来一貫して禁止されているという、こういう立場ではないかというふうに思います。
 さて、次の問題は、この間、集団的自衛権というものが自然権であるという議論が大変多く出されてきております。いろいろ調べてみますと、この自然権論というものはどこから出ているかといいますと、恐らくニカラグア事件の判決、国際司法裁判所にニカラグア事件がかかりました、これはたしか八六年の判決であります。
 この国際司法裁判所におきまして集団的自衛権の問題が初めて審議されたということで大変注目されたわけでございますけれども、その判決文の中に、集団的自衛権というものは固有の権利であるとして、しかも、括弧して自然権であるというふうな規定がございます。恐らく、今の自然権論というのはそこから来ているのではないかというふうに思いますが、もし自然権というふうにとらえるとしますと、これは実定法を超えたホッブズ的な自己保存の権利というふうにまで行ってしまいまして、制約なき戦争の自由というところに行ってしまう危険性があるのではないかというふうに思います。
 そこで、改めてこのニカラグア事件の判決を読んでみますと、今の自然権という規定の前に武力攻撃の発生という前提条件が書かれております。これはもちろん憲章五十一条の規定でございます。さらに、どのような場合に集団的自衛権が行使できるかといった場合に、被害国が自らが被害を受けたと宣言する、それからまた、その被害国が他の国に支援を要請する、こういった条件が必要だというふうに書かれております。それからもちろん、安保理が必要な措置を取るまでの間ということになっております。つまり、これだけ多くの要件を抱えておる場合に、これは自然権というふうには当たらないというふうに思います。
 なぜそうなるかといいますと、結局、集団的自衛権というものは一九四五年のサンフランシスコ会議における当時の政治情勢を反映した言わば発明された新しい方式として打ち出されたものが集団的自衛権であるから、そのような様々な制約と申しますか要件が付されているんであろうというふうに思います。
 ただ、重要なことは、この自然権という議論が今別の文脈で非常に重要な意味を持ってきているのではないかと思います。と申しますのは、今のイラクの戦争でございますけれども、アメリカがイラクに対して戦争をやる法的根拠の問題でございます。
 確かに、当初、ブッシュ政権は、安保理決議一四四一等々、安保理決議によって戦争を行ったというふうに申しておりましたけれども、その後、ほとんどその問題に触れずに、例えば本年の年頭教書でも、あくまでこれはアメリカの安全を守るためであったんだという点をずっと強調しております。つまりは、個別的自衛権の発動としてのイラクへの戦争であるということになっている。
 じゃ、その個別的自衛権の発動の根拠でございますけれども、今月上旬にNBCのテレビのインタビューに答えまして相当ブッシュ大統領詳しくそれを述べておりますが、その中でこういうことを言っております。つまり、アビリティー・ツー・メーク・ウエポンズ、つまり大量破壊兵器を作る能力があったということと、サダム・フセインはデンジャラスあるいはマッドマンであるということでございます。つまり、製造能力と指導者の本性、これがあれば自衛権が発動できるという、そういうことを主張しておるわけであります。
 これは大量破壊兵器が見付からなかったからこういう弁明をしているのかということになりますけれども、実は御承知のように、二〇〇二年の有名なブッシュ・ドクトリン、つまり国家安全保障戦略で、その中で強調されておりますことは、これまでの国際法における自衛権概念というのはもう古いんだと、それでは新しい戦争を戦えないんだということを言いまして、そこでケーパビリティーズ・アンド・オブジェクティブズということが要件として書かれております。つまり、能力とたくらみといいますか、意図と申しますか、計画といいますか、これによって自衛権が発動できるんだと。つまり、従来の自衛権発動要件の概念の根本的な変更というものが打ち出されておるわけであります。
 改めて憲章五十一条を読んでみますと、原文ではイフ・アン・アームド・アタック・オカーズ、これを日本語では武力行使が行われたと、発生したということで言っておりますけれども、これは国際法学者の大部分、それから日本の政府もそうでありますけれども、決してセコンドブローではないと、たたかれてからたたくんではなくて、相手が攻撃を開始した、あるいは着手した段階から対応できるんだというのが大体通説でございます。
 しかし、今のブッシュ・ドクトリンはそれをはるかに超えたところの自衛権概念というのを展開している。こういうブッシュ・ドクトリンに似たような前例はあるかと考えてみますと、実は一九八一年、有名なイスラエルがイラクの原発を攻撃したときでございます。このときのイスラエルの論拠は、イラクは明らかにイスラエルに対して敵意を持っている、しかも原発は今や完成間近である、したがってイスラエルの行動は正当な自衛権の発動なんだと、そういうふうにイスラエルは主張したわけであります。
 それに対して安全保障理事会は、明確にそれは二条四項に違反している、つまり武力行使禁止の原則に違反している、したがって自衛権の発動の根拠は認められないというふうに安保理は決議をしたわけであります。日本ももちろんイスラエルの行為を非難いたしました。アメリカも賛成票を投じたのでありますけれども、その自衛権概念のところではイスラエルの議論に理解を示しておりました。そして、今やブッシュ大統領も言わば公然とこのイスラエルの主張をしておりました自衛権に近づいてきたといいますか、そこに至ったんではないかというふうに考えざるを得ないと思います。
 そういたしますと、これはかつての予防戦争の論理に行き着いていくんではないかと。つまり、予防戦争と申しますのは、相手のパワーが増大化してきて、相対的に自分の、自らのパワーが弱体化する以前にたたくんだという、そういう戦争の論理でございますけれども、それこそ先ほどの自然権的自衛権論みたいな、そういうところに行ってしまうんではないかと。だからこそ、アナン国連事務総長が国連の原則への根本的な挑戦だというふうに指摘したのは、正にそういう問題がはらまれているからだと思います。したがって、もしこういう自衛権概念が、それこそインドもパキスタンも中国も台湾も取り出しますと、これは国際的なアナーキーの問題になってしまうんではないかと。
 さて、問題は、以上のように考えていきますと、日本では今九条が時代後れであって、したがって五十一条の集団的自衛権を行使するようにすべきであるという議論になっているわけです。ところが、アメリカではその五十一条がもはや時代後れだということを言っておりまして、したがって先制攻撃や今申しました予防戦争ができるようにすべきであるということになっておるわけです。
 そうしますと、今、日本は一体どこを目指すのかということになります。私たち今、集団的自衛権を議論する場合に、国会でもマスメディアもそうでありますけれども、何か自明のこととして、何か共通の見解がある、共通の認識があるという前提で話がされておるようでございますけれども、その場合に、集団的自衛権を論ずるときに、一体憲章五十一条に基づいた集団的自衛権なのか、あるいはアメリカ的、あるいはイスラエル的自衛権の概念に基づいた集団的自衛権なのか、この点をきっちりと峻別して議論する必要があるんじゃないかというふうに思います。
 次に、集団的自衛権を主張される場合に、問題はその行使できる権利を獲得することであって、実際にそれを使うかどうかということは別問題なんだと。だから、集団的自衛権の権利を確保したからといって、それはしかしあくまで慎重に、主体的判断でもって対応するんだという議論が行われております。その前提にありますのは、集団的自衛権に入ることによって日本はアメリカとの間で対等のパートナーになれるんだという、そういう考え方、認識があるんではないかと思います。
 しかし、改めて考えてみますと、七〇年代、八〇年代以来このような議論はずっとあったわけでありまして、日米関係において日本が軍事的役割を増大させるたびにこのようなイコールパートナー論というものが出てまいりました。しかし、私は、かつて「安保条約の論理」という本を出しましたときに、それはやはり自立幻想の論理、つまり軍事的役割を増大させたからあたかも一人前になったかのようなわけですけれども、実際はより一層アメリカの軍事戦略の中に包摂されていくんではないかというふうに思います。
 そもそも、この間、集団的自衛権の議論が出てきましたのはアーミテージ報告であって、日米軍事共同作戦の障害を排除するためにということで強く主張されてきました。したがって、例えば、具体的に考えますと、仮にあしたでも小泉政権が解釈を変えて集団的自衛権が行使できるというふうになった場合には、直ちにアメリカは名実ともにアメリカの軍事作戦体制の中に自衛隊を組み込むだろうと思います。その段階で拒否をするということになりますと、いわゆる主体的判断するんだということになりますと、これはアメリカからすれば正に裏切りということになるんではないかと思います。
 よく考えてみますと、周辺事態法のときに、当時の小渕首相は、アメリカから要請があれば、日米同盟の本旨からして、つまり安保条約の本旨からして拒否をすることはあり得ないというふうに申しました。これは誠に私は正直な御答弁だったと思います。つまり、戦後日本外交の路線そのままを小渕首相は言明されたんではないかと思います。つまり、ここの前提は、日本の国益とアメリカの国益、日本の政策目標とアメリカの政策目標が自動的に合致する、したがって拒否することはあり得ないという、そのようなお立場だろうと思います。
 しかし、もし今、主体的判断あるいは歯止めを掛けるんだということがあれば、この小渕首相の論理というものを超える必要があると思います。それは恐らく、戦後日本外交総体を検討し直すところから出てくるんではないかというふうに思います。したがって、私は、主体的判断論が出てきたことはある意味で大変結構なことであって、戦後の外交全体をもう一遍洗い直す機会になるんではないかというふうに思います。
 それで、戦後の日本外交を考えますときにしばしば言われますことは、日本外交の路線は何かと、それは日米基軸であるというふうに言われますが、私はそれ自体は実は何も言っていないに等しいんじゃないかと思います。と申しますのは、アメリカの政権は、政権が変わるたびごとに外交政策は百八十度変わったりします。今のクリントン政権からブッシュ政権、明らかであります。また、同じクリントン政権であれブッシュ政権であれ、当初とその中間、それから後半段階において大きく変わります。とりわけ、対中政策などということでは非常に大きな転換を示しました。そうしますと、日米基軸論でいきますと、アメリカの政権が変わり、また政権の内部で政策が変わるたびに日本が振り回されてしまうということになりかねないということであります。
 したがって、大事なことは、まず日本の外交戦略の柱をきっちりと固めて、その上でアメリカと一致するところがあればそれで対応していくと、そういったふうな考え方に立たないと主体的判断の論理というのは出てこないんではないかと。つまり、問題は軍事の論理ではないと思います。軍事レベルの役割が増大したから主体的判断ができるというものではないんじゃないかというふうに思います。あくまで問題は外交戦略のレベルの問題である。
 実は、日本の場合に、戦後日本のリアリズムというものがかなり不幸な前提を背負ってきたと思います。と申しますのは、日本のリアリズムというものは非武装中立といった理想主義に対するアンチとして出てきましたので、安保条約に、言わばひたすら安保条約の路線に乗っていくことがリアリズムというふうに理解されてしまったわけでありますけれども、本来のリアリズムというのはもっとダイナミズムのあったものだと思います。それは、安保条約というものを目的とせずにあくまで日本の国益のための手段として考えるという、それが本来のリアリズムであろうと思います。したがって、主体的判断論が出てきた場合に、そのような戦後の日本のリアリズムというのを根本的に検討し直す機会になればいいんではないかと思います。
 例えば、今このような議論があります。つまり、北朝鮮問題を抱えているからイラク問題でアメリカのサポートをせざるを得ないんだ。しかし、よく考えてみますと、北朝鮮問題とのバーゲニングは実は日本の基地提供でございます。参議院は、沖縄の特措法のときに恐らく八割を超える方々が賛成されました。あのときの議論は、沖縄に対してこれ以上犠牲を押し付けるのは忍びないけれども、北朝鮮問題があるからだという論理だったと思います。そうとしますと、北朝鮮問題と沖縄の基地提供というのは、それこそがバーゲニングになっているんではないか。したがって、ダイナミックなリアリズムで問題を考えていきますと、そのようなアメリカとの関係におけるバーゲニングの在り方ということ自体ももっと別の観点から見ることができるのではないかというふうに思います。
 あと、日本外交の在り方について、独自的視点についての外交戦略について書いてきたんではございますけれども、もう時間が来ましたので、また後の議論で機会があればお話をしたいと思います。
 どうもありがとうございました。

発言情報

speech_id: 115914184X00220040225_002

発言者: 豊下楢彦

speaker_id: 33190

日付: 2004-02-25

院: 参議院

会議名: 憲法調査会