憲法調査会
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会
会議録情報#0
平成十六年二月二十五日(水曜日)
午後一時開会
─────────────
委員の異動
二月十八日
辞任 補欠選任
大脇 雅子君 江田 五月君
二月二十四日
辞任 補欠選任
大渕 絹子君 大脇 雅子君
角田 義一君 辻 泰弘君
─────────────
出席者は左のとおり。
会 長 上杉 光弘君
幹 事
武見 敬三君
保坂 三蔵君
吉田 博美君
若林 正俊君
鈴木 寛君
ツルネン マルテイ君
若林 秀樹君
魚住裕一郎君
小泉 親司君
委 員
阿南 一成君
岩井 國臣君
扇 千景君
亀井 郁夫君
桜井 新君
常田 享詳君
福島啓史郎君
藤野 公孝君
舛添 要一君
松田 岩夫君
松村 龍二君
松山 政司君
森田 次夫君
山崎 力君
江田 五月君
大脇 雅子君
小林 元君
辻 泰弘君
中島 章夫君
平野 貞夫君
堀 利和君
松井 孝治君
白浜 一良君
山口那津男君
山本 保君
井上 哲士君
吉岡 吉典君
吉川 春子君
田 英夫君
岩本 荘太君
事務局側
憲法調査会事務
局長 桐山 正敏君
参考人
関西学院大学法
学部教授 豊下 楢彦君
法政大学人間環
境学部教授 本間 浩君
拓殖大学国際開
発学部教授 森本 敏君
─────────────
本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
(平和主義と安全保障
—憲法と集団安全保障、集団的自衛権、日米安
保)
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この発言だけを見る →午後一時開会
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委員の異動
二月十八日
辞任 補欠選任
大脇 雅子君 江田 五月君
二月二十四日
辞任 補欠選任
大渕 絹子君 大脇 雅子君
角田 義一君 辻 泰弘君
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出席者は左のとおり。
会 長 上杉 光弘君
幹 事
武見 敬三君
保坂 三蔵君
吉田 博美君
若林 正俊君
鈴木 寛君
ツルネン マルテイ君
若林 秀樹君
魚住裕一郎君
小泉 親司君
委 員
阿南 一成君
岩井 國臣君
扇 千景君
亀井 郁夫君
桜井 新君
常田 享詳君
福島啓史郎君
藤野 公孝君
舛添 要一君
松田 岩夫君
松村 龍二君
松山 政司君
森田 次夫君
山崎 力君
江田 五月君
大脇 雅子君
小林 元君
辻 泰弘君
中島 章夫君
平野 貞夫君
堀 利和君
松井 孝治君
白浜 一良君
山口那津男君
山本 保君
井上 哲士君
吉岡 吉典君
吉川 春子君
田 英夫君
岩本 荘太君
事務局側
憲法調査会事務
局長 桐山 正敏君
参考人
関西学院大学法
学部教授 豊下 楢彦君
法政大学人間環
境学部教授 本間 浩君
拓殖大学国際開
発学部教授 森本 敏君
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本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
(平和主義と安全保障
—憲法と集団安全保障、集団的自衛権、日米安
保)
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上
上杉光弘#1
○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
日本国憲法に関する調査を議題といたします。
本日は、「平和主義と安全保障」のうち、「憲法と集団安全保障、集団的自衛権、日米安保」について、関西学院大学法学部教授の豊下楢彦参考人、法政大学人間環境学部教授の本間浩参考人及び拓殖大学国際開発学部教授の森本敏参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。
忌憚のない御意見を賜り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
議事の進め方でございますが、豊下参考人、本間参考人、森本参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、参考人、委員とも、御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず豊下参考人にお願いいたします。豊下参考人。
この発言だけを見る →日本国憲法に関する調査を議題といたします。
本日は、「平和主義と安全保障」のうち、「憲法と集団安全保障、集団的自衛権、日米安保」について、関西学院大学法学部教授の豊下楢彦参考人、法政大学人間環境学部教授の本間浩参考人及び拓殖大学国際開発学部教授の森本敏参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。
忌憚のない御意見を賜り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
議事の進め方でございますが、豊下参考人、本間参考人、森本参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、参考人、委員とも、御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず豊下参考人にお願いいたします。豊下参考人。
豊
豊下楢彦#2
○参考人(豊下楢彦君) 豊下でございます。このたびはお招きをいただきまして御礼を申し上げます。
本日、私お話ししたいことは、焦点となっております集団的自衛権でございます。趣旨は、今、集団的自衛権を論ずる意味ということでございます。
大変細かいレジュメで恐縮でございますが、まず最初に政府解釈の変遷でございますが、これはもう既に十分御議論されておるところでございますので、極めて大ざっぱにまとめておきますと、五四年、自衛隊が発足しました年に、集団的自衛権というものは交戦権の禁止に触れる、言わば九条二項ということで違憲であるという見解が出されました。六九年には、国際紛争を武力で解決することに至るのではないかということで、言わば九条一項で違憲であるという、そういう趣旨の見解が出されました。そして、七二年、八一年の政府答弁でございますけれども、これは今日まで続く有名な定義でございまして、自国が直接攻撃を受けていないのに密接な関係にある外国に対する武力攻撃を実力をもって阻止すること、そういうふうに定義をいたしまして、これは自衛権発動の要件である必要最小限度の範囲を超えるということで、言わば九条全体として違憲であるという見解が出されました。
ところが、八〇年代以降、日米軍事協力が急速に進みまして、ところが、それを政府は、言わば個別的自衛権の枠内で解釈しようとしまして、武力行使一体化であるかどうか、あるいは後方支援であるかどうか、あるいは非戦闘地域であるかどうか、そういった新しいタームを出すことによっていろいろ説明をしてきたわけでありますけれども、それに対しては、こそくであるとか欺瞞的であるといったふうな批判が噴出してきているというのが今日の状況だろうと思います。今や、そういう政府の解釈を根本的に改めるべきであるとか、あるいは明文改憲をして集団的自衛権を明記すべきであるといった議論が出てきているわけでございます。
そこでの議論の幾つかの点について考えてみたいと思います。
まず一つの議論は、旧安保条約前文の表現でございますが、そこに、「これらの権利の行使として、」という表現がございます。これは、前後の文脈からいたしますと、間違いなくこれは個別的、集団的自衛権の権利の行使としてというふうに読めるわけであります。そういたしますと、日本は一九五二年から集団的自衛権を行使していたということになるわけでございます。ただ、実は問題の核心は、ここの文章は米軍駐留のリーガルベーシス、法的根拠を問題にしたところでございまして、当時、実は外務省は、独立後の日本に米軍を駐留させるときに、九条の下でそれをいかに論理的、法的に正当化するかということに大変腐心いたしました。
当初、外務省は、国連の決議でもって日本に米軍を駐留させるといった、そういったやり方を取ろうとしましたけれども、もちろんそういうことは現実には無理でございます。そこで、何とか国連との関係を維持するために五十一条に着目いたしまして、日本は基地を提供する、その代わりにアメリカが日本を防衛すると、そういう意味での集団的自衛権の関係を設定しようとしたわけであります。
しかし、アメリカは、御承知のように防衛義務ということを拒否いたしました。したがいまして、当時の西村条約局長によりますと、集団的自衛の前の関係という単なる駐軍協定に終わってしまったということでございます。これがようやく六〇年の安保改定におきまして言わば双務的になりまして、これでようやくアメリカ軍は日本に駐留する法的根拠というものが一応説明が付くことになったということになりました。
そこで、当時、岸政権は、政府答弁の中で、基地提供も集団的自衛権である、経済援助も集団的自衛権であるといったような答弁を繰り返しておりましたけれども、それは、今申しましたように、五〇年以来の集団的自衛権の関係、つまり米軍との関係においてそのようなリーガルベーシスを作るということがようやく六〇年安保改定で一つ完結したんだということが前提になっているだろうと思います。
そのことはまた、言い換えますと、集団的自衛権というものを広義と狭義、狭い意味と広い意味で考えていた。その狭義といいますか、集団的自衛権の中核と申しますけれども、としましての他国防衛のための海外派兵、武力行使、これは五四年の参議院の決議以来一貫して禁止されているという、こういう立場ではないかというふうに思います。
さて、次の問題は、この間、集団的自衛権というものが自然権であるという議論が大変多く出されてきております。いろいろ調べてみますと、この自然権論というものはどこから出ているかといいますと、恐らくニカラグア事件の判決、国際司法裁判所にニカラグア事件がかかりました、これはたしか八六年の判決であります。
この国際司法裁判所におきまして集団的自衛権の問題が初めて審議されたということで大変注目されたわけでございますけれども、その判決文の中に、集団的自衛権というものは固有の権利であるとして、しかも、括弧して自然権であるというふうな規定がございます。恐らく、今の自然権論というのはそこから来ているのではないかというふうに思いますが、もし自然権というふうにとらえるとしますと、これは実定法を超えたホッブズ的な自己保存の権利というふうにまで行ってしまいまして、制約なき戦争の自由というところに行ってしまう危険性があるのではないかというふうに思います。
そこで、改めてこのニカラグア事件の判決を読んでみますと、今の自然権という規定の前に武力攻撃の発生という前提条件が書かれております。これはもちろん憲章五十一条の規定でございます。さらに、どのような場合に集団的自衛権が行使できるかといった場合に、被害国が自らが被害を受けたと宣言する、それからまた、その被害国が他の国に支援を要請する、こういった条件が必要だというふうに書かれております。それからもちろん、安保理が必要な措置を取るまでの間ということになっております。つまり、これだけ多くの要件を抱えておる場合に、これは自然権というふうには当たらないというふうに思います。
なぜそうなるかといいますと、結局、集団的自衛権というものは一九四五年のサンフランシスコ会議における当時の政治情勢を反映した言わば発明された新しい方式として打ち出されたものが集団的自衛権であるから、そのような様々な制約と申しますか要件が付されているんであろうというふうに思います。
ただ、重要なことは、この自然権という議論が今別の文脈で非常に重要な意味を持ってきているのではないかと思います。と申しますのは、今のイラクの戦争でございますけれども、アメリカがイラクに対して戦争をやる法的根拠の問題でございます。
確かに、当初、ブッシュ政権は、安保理決議一四四一等々、安保理決議によって戦争を行ったというふうに申しておりましたけれども、その後、ほとんどその問題に触れずに、例えば本年の年頭教書でも、あくまでこれはアメリカの安全を守るためであったんだという点をずっと強調しております。つまりは、個別的自衛権の発動としてのイラクへの戦争であるということになっている。
じゃ、その個別的自衛権の発動の根拠でございますけれども、今月上旬にNBCのテレビのインタビューに答えまして相当ブッシュ大統領詳しくそれを述べておりますが、その中でこういうことを言っております。つまり、アビリティー・ツー・メーク・ウエポンズ、つまり大量破壊兵器を作る能力があったということと、サダム・フセインはデンジャラスあるいはマッドマンであるということでございます。つまり、製造能力と指導者の本性、これがあれば自衛権が発動できるという、そういうことを主張しておるわけであります。
これは大量破壊兵器が見付からなかったからこういう弁明をしているのかということになりますけれども、実は御承知のように、二〇〇二年の有名なブッシュ・ドクトリン、つまり国家安全保障戦略で、その中で強調されておりますことは、これまでの国際法における自衛権概念というのはもう古いんだと、それでは新しい戦争を戦えないんだということを言いまして、そこでケーパビリティーズ・アンド・オブジェクティブズということが要件として書かれております。つまり、能力とたくらみといいますか、意図と申しますか、計画といいますか、これによって自衛権が発動できるんだと。つまり、従来の自衛権発動要件の概念の根本的な変更というものが打ち出されておるわけであります。
改めて憲章五十一条を読んでみますと、原文ではイフ・アン・アームド・アタック・オカーズ、これを日本語では武力行使が行われたと、発生したということで言っておりますけれども、これは国際法学者の大部分、それから日本の政府もそうでありますけれども、決してセコンドブローではないと、たたかれてからたたくんではなくて、相手が攻撃を開始した、あるいは着手した段階から対応できるんだというのが大体通説でございます。
しかし、今のブッシュ・ドクトリンはそれをはるかに超えたところの自衛権概念というのを展開している。こういうブッシュ・ドクトリンに似たような前例はあるかと考えてみますと、実は一九八一年、有名なイスラエルがイラクの原発を攻撃したときでございます。このときのイスラエルの論拠は、イラクは明らかにイスラエルに対して敵意を持っている、しかも原発は今や完成間近である、したがってイスラエルの行動は正当な自衛権の発動なんだと、そういうふうにイスラエルは主張したわけであります。
それに対して安全保障理事会は、明確にそれは二条四項に違反している、つまり武力行使禁止の原則に違反している、したがって自衛権の発動の根拠は認められないというふうに安保理は決議をしたわけであります。日本ももちろんイスラエルの行為を非難いたしました。アメリカも賛成票を投じたのでありますけれども、その自衛権概念のところではイスラエルの議論に理解を示しておりました。そして、今やブッシュ大統領も言わば公然とこのイスラエルの主張をしておりました自衛権に近づいてきたといいますか、そこに至ったんではないかというふうに考えざるを得ないと思います。
そういたしますと、これはかつての予防戦争の論理に行き着いていくんではないかと。つまり、予防戦争と申しますのは、相手のパワーが増大化してきて、相対的に自分の、自らのパワーが弱体化する以前にたたくんだという、そういう戦争の論理でございますけれども、それこそ先ほどの自然権的自衛権論みたいな、そういうところに行ってしまうんではないかと。だからこそ、アナン国連事務総長が国連の原則への根本的な挑戦だというふうに指摘したのは、正にそういう問題がはらまれているからだと思います。したがって、もしこういう自衛権概念が、それこそインドもパキスタンも中国も台湾も取り出しますと、これは国際的なアナーキーの問題になってしまうんではないかと。
さて、問題は、以上のように考えていきますと、日本では今九条が時代後れであって、したがって五十一条の集団的自衛権を行使するようにすべきであるという議論になっているわけです。ところが、アメリカではその五十一条がもはや時代後れだということを言っておりまして、したがって先制攻撃や今申しました予防戦争ができるようにすべきであるということになっておるわけです。
そうしますと、今、日本は一体どこを目指すのかということになります。私たち今、集団的自衛権を議論する場合に、国会でもマスメディアもそうでありますけれども、何か自明のこととして、何か共通の見解がある、共通の認識があるという前提で話がされておるようでございますけれども、その場合に、集団的自衛権を論ずるときに、一体憲章五十一条に基づいた集団的自衛権なのか、あるいはアメリカ的、あるいはイスラエル的自衛権の概念に基づいた集団的自衛権なのか、この点をきっちりと峻別して議論する必要があるんじゃないかというふうに思います。
次に、集団的自衛権を主張される場合に、問題はその行使できる権利を獲得することであって、実際にそれを使うかどうかということは別問題なんだと。だから、集団的自衛権の権利を確保したからといって、それはしかしあくまで慎重に、主体的判断でもって対応するんだという議論が行われております。その前提にありますのは、集団的自衛権に入ることによって日本はアメリカとの間で対等のパートナーになれるんだという、そういう考え方、認識があるんではないかと思います。
しかし、改めて考えてみますと、七〇年代、八〇年代以来このような議論はずっとあったわけでありまして、日米関係において日本が軍事的役割を増大させるたびにこのようなイコールパートナー論というものが出てまいりました。しかし、私は、かつて「安保条約の論理」という本を出しましたときに、それはやはり自立幻想の論理、つまり軍事的役割を増大させたからあたかも一人前になったかのようなわけですけれども、実際はより一層アメリカの軍事戦略の中に包摂されていくんではないかというふうに思います。
そもそも、この間、集団的自衛権の議論が出てきましたのはアーミテージ報告であって、日米軍事共同作戦の障害を排除するためにということで強く主張されてきました。したがって、例えば、具体的に考えますと、仮にあしたでも小泉政権が解釈を変えて集団的自衛権が行使できるというふうになった場合には、直ちにアメリカは名実ともにアメリカの軍事作戦体制の中に自衛隊を組み込むだろうと思います。その段階で拒否をするということになりますと、いわゆる主体的判断するんだということになりますと、これはアメリカからすれば正に裏切りということになるんではないかと思います。
よく考えてみますと、周辺事態法のときに、当時の小渕首相は、アメリカから要請があれば、日米同盟の本旨からして、つまり安保条約の本旨からして拒否をすることはあり得ないというふうに申しました。これは誠に私は正直な御答弁だったと思います。つまり、戦後日本外交の路線そのままを小渕首相は言明されたんではないかと思います。つまり、ここの前提は、日本の国益とアメリカの国益、日本の政策目標とアメリカの政策目標が自動的に合致する、したがって拒否することはあり得ないという、そのようなお立場だろうと思います。
しかし、もし今、主体的判断あるいは歯止めを掛けるんだということがあれば、この小渕首相の論理というものを超える必要があると思います。それは恐らく、戦後日本外交総体を検討し直すところから出てくるんではないかというふうに思います。したがって、私は、主体的判断論が出てきたことはある意味で大変結構なことであって、戦後の外交全体をもう一遍洗い直す機会になるんではないかというふうに思います。
それで、戦後の日本外交を考えますときにしばしば言われますことは、日本外交の路線は何かと、それは日米基軸であるというふうに言われますが、私はそれ自体は実は何も言っていないに等しいんじゃないかと思います。と申しますのは、アメリカの政権は、政権が変わるたびごとに外交政策は百八十度変わったりします。今のクリントン政権からブッシュ政権、明らかであります。また、同じクリントン政権であれブッシュ政権であれ、当初とその中間、それから後半段階において大きく変わります。とりわけ、対中政策などということでは非常に大きな転換を示しました。そうしますと、日米基軸論でいきますと、アメリカの政権が変わり、また政権の内部で政策が変わるたびに日本が振り回されてしまうということになりかねないということであります。
したがって、大事なことは、まず日本の外交戦略の柱をきっちりと固めて、その上でアメリカと一致するところがあればそれで対応していくと、そういったふうな考え方に立たないと主体的判断の論理というのは出てこないんではないかと。つまり、問題は軍事の論理ではないと思います。軍事レベルの役割が増大したから主体的判断ができるというものではないんじゃないかというふうに思います。あくまで問題は外交戦略のレベルの問題である。
実は、日本の場合に、戦後日本のリアリズムというものがかなり不幸な前提を背負ってきたと思います。と申しますのは、日本のリアリズムというものは非武装中立といった理想主義に対するアンチとして出てきましたので、安保条約に、言わばひたすら安保条約の路線に乗っていくことがリアリズムというふうに理解されてしまったわけでありますけれども、本来のリアリズムというのはもっとダイナミズムのあったものだと思います。それは、安保条約というものを目的とせずにあくまで日本の国益のための手段として考えるという、それが本来のリアリズムであろうと思います。したがって、主体的判断論が出てきた場合に、そのような戦後の日本のリアリズムというのを根本的に検討し直す機会になればいいんではないかと思います。
例えば、今このような議論があります。つまり、北朝鮮問題を抱えているからイラク問題でアメリカのサポートをせざるを得ないんだ。しかし、よく考えてみますと、北朝鮮問題とのバーゲニングは実は日本の基地提供でございます。参議院は、沖縄の特措法のときに恐らく八割を超える方々が賛成されました。あのときの議論は、沖縄に対してこれ以上犠牲を押し付けるのは忍びないけれども、北朝鮮問題があるからだという論理だったと思います。そうとしますと、北朝鮮問題と沖縄の基地提供というのは、それこそがバーゲニングになっているんではないか。したがって、ダイナミックなリアリズムで問題を考えていきますと、そのようなアメリカとの関係におけるバーゲニングの在り方ということ自体ももっと別の観点から見ることができるのではないかというふうに思います。
あと、日本外交の在り方について、独自的視点についての外交戦略について書いてきたんではございますけれども、もう時間が来ましたので、また後の議論で機会があればお話をしたいと思います。
どうもありがとうございました。
この発言だけを見る →本日、私お話ししたいことは、焦点となっております集団的自衛権でございます。趣旨は、今、集団的自衛権を論ずる意味ということでございます。
大変細かいレジュメで恐縮でございますが、まず最初に政府解釈の変遷でございますが、これはもう既に十分御議論されておるところでございますので、極めて大ざっぱにまとめておきますと、五四年、自衛隊が発足しました年に、集団的自衛権というものは交戦権の禁止に触れる、言わば九条二項ということで違憲であるという見解が出されました。六九年には、国際紛争を武力で解決することに至るのではないかということで、言わば九条一項で違憲であるという、そういう趣旨の見解が出されました。そして、七二年、八一年の政府答弁でございますけれども、これは今日まで続く有名な定義でございまして、自国が直接攻撃を受けていないのに密接な関係にある外国に対する武力攻撃を実力をもって阻止すること、そういうふうに定義をいたしまして、これは自衛権発動の要件である必要最小限度の範囲を超えるということで、言わば九条全体として違憲であるという見解が出されました。
ところが、八〇年代以降、日米軍事協力が急速に進みまして、ところが、それを政府は、言わば個別的自衛権の枠内で解釈しようとしまして、武力行使一体化であるかどうか、あるいは後方支援であるかどうか、あるいは非戦闘地域であるかどうか、そういった新しいタームを出すことによっていろいろ説明をしてきたわけでありますけれども、それに対しては、こそくであるとか欺瞞的であるといったふうな批判が噴出してきているというのが今日の状況だろうと思います。今や、そういう政府の解釈を根本的に改めるべきであるとか、あるいは明文改憲をして集団的自衛権を明記すべきであるといった議論が出てきているわけでございます。
そこでの議論の幾つかの点について考えてみたいと思います。
まず一つの議論は、旧安保条約前文の表現でございますが、そこに、「これらの権利の行使として、」という表現がございます。これは、前後の文脈からいたしますと、間違いなくこれは個別的、集団的自衛権の権利の行使としてというふうに読めるわけであります。そういたしますと、日本は一九五二年から集団的自衛権を行使していたということになるわけでございます。ただ、実は問題の核心は、ここの文章は米軍駐留のリーガルベーシス、法的根拠を問題にしたところでございまして、当時、実は外務省は、独立後の日本に米軍を駐留させるときに、九条の下でそれをいかに論理的、法的に正当化するかということに大変腐心いたしました。
当初、外務省は、国連の決議でもって日本に米軍を駐留させるといった、そういったやり方を取ろうとしましたけれども、もちろんそういうことは現実には無理でございます。そこで、何とか国連との関係を維持するために五十一条に着目いたしまして、日本は基地を提供する、その代わりにアメリカが日本を防衛すると、そういう意味での集団的自衛権の関係を設定しようとしたわけであります。
しかし、アメリカは、御承知のように防衛義務ということを拒否いたしました。したがいまして、当時の西村条約局長によりますと、集団的自衛の前の関係という単なる駐軍協定に終わってしまったということでございます。これがようやく六〇年の安保改定におきまして言わば双務的になりまして、これでようやくアメリカ軍は日本に駐留する法的根拠というものが一応説明が付くことになったということになりました。
そこで、当時、岸政権は、政府答弁の中で、基地提供も集団的自衛権である、経済援助も集団的自衛権であるといったような答弁を繰り返しておりましたけれども、それは、今申しましたように、五〇年以来の集団的自衛権の関係、つまり米軍との関係においてそのようなリーガルベーシスを作るということがようやく六〇年安保改定で一つ完結したんだということが前提になっているだろうと思います。
そのことはまた、言い換えますと、集団的自衛権というものを広義と狭義、狭い意味と広い意味で考えていた。その狭義といいますか、集団的自衛権の中核と申しますけれども、としましての他国防衛のための海外派兵、武力行使、これは五四年の参議院の決議以来一貫して禁止されているという、こういう立場ではないかというふうに思います。
さて、次の問題は、この間、集団的自衛権というものが自然権であるという議論が大変多く出されてきております。いろいろ調べてみますと、この自然権論というものはどこから出ているかといいますと、恐らくニカラグア事件の判決、国際司法裁判所にニカラグア事件がかかりました、これはたしか八六年の判決であります。
この国際司法裁判所におきまして集団的自衛権の問題が初めて審議されたということで大変注目されたわけでございますけれども、その判決文の中に、集団的自衛権というものは固有の権利であるとして、しかも、括弧して自然権であるというふうな規定がございます。恐らく、今の自然権論というのはそこから来ているのではないかというふうに思いますが、もし自然権というふうにとらえるとしますと、これは実定法を超えたホッブズ的な自己保存の権利というふうにまで行ってしまいまして、制約なき戦争の自由というところに行ってしまう危険性があるのではないかというふうに思います。
そこで、改めてこのニカラグア事件の判決を読んでみますと、今の自然権という規定の前に武力攻撃の発生という前提条件が書かれております。これはもちろん憲章五十一条の規定でございます。さらに、どのような場合に集団的自衛権が行使できるかといった場合に、被害国が自らが被害を受けたと宣言する、それからまた、その被害国が他の国に支援を要請する、こういった条件が必要だというふうに書かれております。それからもちろん、安保理が必要な措置を取るまでの間ということになっております。つまり、これだけ多くの要件を抱えておる場合に、これは自然権というふうには当たらないというふうに思います。
なぜそうなるかといいますと、結局、集団的自衛権というものは一九四五年のサンフランシスコ会議における当時の政治情勢を反映した言わば発明された新しい方式として打ち出されたものが集団的自衛権であるから、そのような様々な制約と申しますか要件が付されているんであろうというふうに思います。
ただ、重要なことは、この自然権という議論が今別の文脈で非常に重要な意味を持ってきているのではないかと思います。と申しますのは、今のイラクの戦争でございますけれども、アメリカがイラクに対して戦争をやる法的根拠の問題でございます。
確かに、当初、ブッシュ政権は、安保理決議一四四一等々、安保理決議によって戦争を行ったというふうに申しておりましたけれども、その後、ほとんどその問題に触れずに、例えば本年の年頭教書でも、あくまでこれはアメリカの安全を守るためであったんだという点をずっと強調しております。つまりは、個別的自衛権の発動としてのイラクへの戦争であるということになっている。
じゃ、その個別的自衛権の発動の根拠でございますけれども、今月上旬にNBCのテレビのインタビューに答えまして相当ブッシュ大統領詳しくそれを述べておりますが、その中でこういうことを言っております。つまり、アビリティー・ツー・メーク・ウエポンズ、つまり大量破壊兵器を作る能力があったということと、サダム・フセインはデンジャラスあるいはマッドマンであるということでございます。つまり、製造能力と指導者の本性、これがあれば自衛権が発動できるという、そういうことを主張しておるわけであります。
これは大量破壊兵器が見付からなかったからこういう弁明をしているのかということになりますけれども、実は御承知のように、二〇〇二年の有名なブッシュ・ドクトリン、つまり国家安全保障戦略で、その中で強調されておりますことは、これまでの国際法における自衛権概念というのはもう古いんだと、それでは新しい戦争を戦えないんだということを言いまして、そこでケーパビリティーズ・アンド・オブジェクティブズということが要件として書かれております。つまり、能力とたくらみといいますか、意図と申しますか、計画といいますか、これによって自衛権が発動できるんだと。つまり、従来の自衛権発動要件の概念の根本的な変更というものが打ち出されておるわけであります。
改めて憲章五十一条を読んでみますと、原文ではイフ・アン・アームド・アタック・オカーズ、これを日本語では武力行使が行われたと、発生したということで言っておりますけれども、これは国際法学者の大部分、それから日本の政府もそうでありますけれども、決してセコンドブローではないと、たたかれてからたたくんではなくて、相手が攻撃を開始した、あるいは着手した段階から対応できるんだというのが大体通説でございます。
しかし、今のブッシュ・ドクトリンはそれをはるかに超えたところの自衛権概念というのを展開している。こういうブッシュ・ドクトリンに似たような前例はあるかと考えてみますと、実は一九八一年、有名なイスラエルがイラクの原発を攻撃したときでございます。このときのイスラエルの論拠は、イラクは明らかにイスラエルに対して敵意を持っている、しかも原発は今や完成間近である、したがってイスラエルの行動は正当な自衛権の発動なんだと、そういうふうにイスラエルは主張したわけであります。
それに対して安全保障理事会は、明確にそれは二条四項に違反している、つまり武力行使禁止の原則に違反している、したがって自衛権の発動の根拠は認められないというふうに安保理は決議をしたわけであります。日本ももちろんイスラエルの行為を非難いたしました。アメリカも賛成票を投じたのでありますけれども、その自衛権概念のところではイスラエルの議論に理解を示しておりました。そして、今やブッシュ大統領も言わば公然とこのイスラエルの主張をしておりました自衛権に近づいてきたといいますか、そこに至ったんではないかというふうに考えざるを得ないと思います。
そういたしますと、これはかつての予防戦争の論理に行き着いていくんではないかと。つまり、予防戦争と申しますのは、相手のパワーが増大化してきて、相対的に自分の、自らのパワーが弱体化する以前にたたくんだという、そういう戦争の論理でございますけれども、それこそ先ほどの自然権的自衛権論みたいな、そういうところに行ってしまうんではないかと。だからこそ、アナン国連事務総長が国連の原則への根本的な挑戦だというふうに指摘したのは、正にそういう問題がはらまれているからだと思います。したがって、もしこういう自衛権概念が、それこそインドもパキスタンも中国も台湾も取り出しますと、これは国際的なアナーキーの問題になってしまうんではないかと。
さて、問題は、以上のように考えていきますと、日本では今九条が時代後れであって、したがって五十一条の集団的自衛権を行使するようにすべきであるという議論になっているわけです。ところが、アメリカではその五十一条がもはや時代後れだということを言っておりまして、したがって先制攻撃や今申しました予防戦争ができるようにすべきであるということになっておるわけです。
そうしますと、今、日本は一体どこを目指すのかということになります。私たち今、集団的自衛権を議論する場合に、国会でもマスメディアもそうでありますけれども、何か自明のこととして、何か共通の見解がある、共通の認識があるという前提で話がされておるようでございますけれども、その場合に、集団的自衛権を論ずるときに、一体憲章五十一条に基づいた集団的自衛権なのか、あるいはアメリカ的、あるいはイスラエル的自衛権の概念に基づいた集団的自衛権なのか、この点をきっちりと峻別して議論する必要があるんじゃないかというふうに思います。
次に、集団的自衛権を主張される場合に、問題はその行使できる権利を獲得することであって、実際にそれを使うかどうかということは別問題なんだと。だから、集団的自衛権の権利を確保したからといって、それはしかしあくまで慎重に、主体的判断でもって対応するんだという議論が行われております。その前提にありますのは、集団的自衛権に入ることによって日本はアメリカとの間で対等のパートナーになれるんだという、そういう考え方、認識があるんではないかと思います。
しかし、改めて考えてみますと、七〇年代、八〇年代以来このような議論はずっとあったわけでありまして、日米関係において日本が軍事的役割を増大させるたびにこのようなイコールパートナー論というものが出てまいりました。しかし、私は、かつて「安保条約の論理」という本を出しましたときに、それはやはり自立幻想の論理、つまり軍事的役割を増大させたからあたかも一人前になったかのようなわけですけれども、実際はより一層アメリカの軍事戦略の中に包摂されていくんではないかというふうに思います。
そもそも、この間、集団的自衛権の議論が出てきましたのはアーミテージ報告であって、日米軍事共同作戦の障害を排除するためにということで強く主張されてきました。したがって、例えば、具体的に考えますと、仮にあしたでも小泉政権が解釈を変えて集団的自衛権が行使できるというふうになった場合には、直ちにアメリカは名実ともにアメリカの軍事作戦体制の中に自衛隊を組み込むだろうと思います。その段階で拒否をするということになりますと、いわゆる主体的判断するんだということになりますと、これはアメリカからすれば正に裏切りということになるんではないかと思います。
よく考えてみますと、周辺事態法のときに、当時の小渕首相は、アメリカから要請があれば、日米同盟の本旨からして、つまり安保条約の本旨からして拒否をすることはあり得ないというふうに申しました。これは誠に私は正直な御答弁だったと思います。つまり、戦後日本外交の路線そのままを小渕首相は言明されたんではないかと思います。つまり、ここの前提は、日本の国益とアメリカの国益、日本の政策目標とアメリカの政策目標が自動的に合致する、したがって拒否することはあり得ないという、そのようなお立場だろうと思います。
しかし、もし今、主体的判断あるいは歯止めを掛けるんだということがあれば、この小渕首相の論理というものを超える必要があると思います。それは恐らく、戦後日本外交総体を検討し直すところから出てくるんではないかというふうに思います。したがって、私は、主体的判断論が出てきたことはある意味で大変結構なことであって、戦後の外交全体をもう一遍洗い直す機会になるんではないかというふうに思います。
それで、戦後の日本外交を考えますときにしばしば言われますことは、日本外交の路線は何かと、それは日米基軸であるというふうに言われますが、私はそれ自体は実は何も言っていないに等しいんじゃないかと思います。と申しますのは、アメリカの政権は、政権が変わるたびごとに外交政策は百八十度変わったりします。今のクリントン政権からブッシュ政権、明らかであります。また、同じクリントン政権であれブッシュ政権であれ、当初とその中間、それから後半段階において大きく変わります。とりわけ、対中政策などということでは非常に大きな転換を示しました。そうしますと、日米基軸論でいきますと、アメリカの政権が変わり、また政権の内部で政策が変わるたびに日本が振り回されてしまうということになりかねないということであります。
したがって、大事なことは、まず日本の外交戦略の柱をきっちりと固めて、その上でアメリカと一致するところがあればそれで対応していくと、そういったふうな考え方に立たないと主体的判断の論理というのは出てこないんではないかと。つまり、問題は軍事の論理ではないと思います。軍事レベルの役割が増大したから主体的判断ができるというものではないんじゃないかというふうに思います。あくまで問題は外交戦略のレベルの問題である。
実は、日本の場合に、戦後日本のリアリズムというものがかなり不幸な前提を背負ってきたと思います。と申しますのは、日本のリアリズムというものは非武装中立といった理想主義に対するアンチとして出てきましたので、安保条約に、言わばひたすら安保条約の路線に乗っていくことがリアリズムというふうに理解されてしまったわけでありますけれども、本来のリアリズムというのはもっとダイナミズムのあったものだと思います。それは、安保条約というものを目的とせずにあくまで日本の国益のための手段として考えるという、それが本来のリアリズムであろうと思います。したがって、主体的判断論が出てきた場合に、そのような戦後の日本のリアリズムというのを根本的に検討し直す機会になればいいんではないかと思います。
例えば、今このような議論があります。つまり、北朝鮮問題を抱えているからイラク問題でアメリカのサポートをせざるを得ないんだ。しかし、よく考えてみますと、北朝鮮問題とのバーゲニングは実は日本の基地提供でございます。参議院は、沖縄の特措法のときに恐らく八割を超える方々が賛成されました。あのときの議論は、沖縄に対してこれ以上犠牲を押し付けるのは忍びないけれども、北朝鮮問題があるからだという論理だったと思います。そうとしますと、北朝鮮問題と沖縄の基地提供というのは、それこそがバーゲニングになっているんではないか。したがって、ダイナミックなリアリズムで問題を考えていきますと、そのようなアメリカとの関係におけるバーゲニングの在り方ということ自体ももっと別の観点から見ることができるのではないかというふうに思います。
あと、日本外交の在り方について、独自的視点についての外交戦略について書いてきたんではございますけれども、もう時間が来ましたので、また後の議論で機会があればお話をしたいと思います。
どうもありがとうございました。
上
本
本間浩#4
○参考人(本間浩君) 法政大学の本間でございます。このように私の意見をお聞きいただく機会を設けていただきまして感謝いたします。
初めに、本院憲法調査会の先週行われました憲法と日米安保条約に関する第一回会合における参考人の方々の御意見を速記録を介して拝読し、それについて国際法学を研究する立場から一言申し述べたいと思います。
条約についてにしろ憲法についてにしろ、その法文に忠実に従って解釈することは大切であります。それと同時に、法文の背後にある真意、歴史的経験を酌み取り、それを参照しながら現在において求められている解釈を確定することも同じ程度に大切であります。
本論に入ります。
国連憲章における集団的自衛権の意味ということについて、まずお話ししたいと思います。
国連憲章五十一条に定める集団的自衛権を個別的自衛権と一体的に見る見方がございます。したがいまして、個別的自衛権を有するということは当然に集団的自衛権を有することである、それの証拠として個別的自衛権も集団的自衛権もともに固有の権利である、あるいは自然権であると、こういうふうに明示されているということであります。
それに対して私は、こういう違った考え方を取っております。
集団的自衛権は個別的自衛権とは異質な概念である。集団的自衛権の本質は、武力行使の一般的かつ原則的な禁止原則、これは国連憲章の二条四項、それから安全保障理事会による武力行使の事前許可原則、これは五十一条に定めてありますが、これに対して、軍事同盟に基づく事前許可なしの武力行使の違法性を阻却すること、このことに集団的自衛権の本質があると私は考えております。
国連憲章の作成過程においては、その草案には集団的自衛権という概念はありませんでした。それが審議の過程において集団的自衛権という概念が挿入されたわけであります。そこで固有の権利という言葉が付け加えられましたけれども、これは個別的自衛権と並べることによって新しい概念に正当性を与えるための法的粉飾であると、こういうふうに見ることができます。そして、この挿入の政治的意味というのは、集団的安全保障体制という、国連の集団的安全保障体制という理想と軍事同盟による対抗的安全の確保というこの現実の要請とを妥協せしめることにあると思います。
集団的自衛権が権利であって義務ではないからそれを行使するもしないも自由だという、こういう議論もありましたけれども、これは軍事同盟の実質から見ると日米安保条約の存在意味を無力化するものであると言わざるを得ません。これは権利という言葉じりをとらえた見方なんだと思います。実態的には、権利という表現によって事前許可を必要とするというその原則に対する違法性、それを阻却した上に軍事同盟条約により防衛義務関係を構築すること、集団的自衛権概念はその構築の足掛かりであるということであります。
それでは、その憲法九条下の自衛権ということについてどう考えるかということですが、政府の伝統的解釈、先ほど豊下参考人から紹介がありましたけれども、その政府の伝統的解釈というのは自衛隊の設置及び維持を合憲化するための論理であると、そこからこの他国防衛のための集団的自衛権行使の合憲性を引き出すことはできない、こういうことになってくると思います。
ただ、この政府の伝統的解釈は、次第に増大化するアメリカの防衛協力要求を拒否する根拠になり得たという意味において、この限りでは効用があったと私は評価しております。しかし、この伝統的解釈では、アメリカの増殖する軍事協力要求をかわし切れないこと、それから自衛隊の戦力増強要請を制約することができないという、こういう意味で限界又は矛盾を含んでいたというふうに見ます。
これに対する、これに対するというのは政府の伝統的解釈に対する非武装論についてですが、非武装論の真意は、日本の軍事力自己増殖に対する懸念、それにあったんだと思います。この懸念にこたえるというのは、これは日本国民の要請であると思います。ただ、この非武装論というのは、現実のこの安全保障をどうするかと、そういう問い掛けに対して具体的な答えを用意できなかった。それから、この非武装論は、実は米軍の沖縄駐留条件ということを前提にしていた。つまり、沖縄に米軍が駐留するということなしには非武装論が成り立たないという、こういう矛盾を抱えていたということも言えると思います。
したがいまして、私の論理からすると、現状ではある程度の自己防衛能力、これを持たざるを得ませんし、それから他国による防衛協力への依存ということもこれもまた認めざるを得ない。これはやむを得ない選択であると言わざるを得ないと思います。
問題は、自衛隊の自己増殖しようとする内的な力をどういう、それにどういうような歯止めを掛けるか、それからアメリカの増殖化する軍事協力要請をどのように制約するか、場合によってはノーと言えるようにするかということであります。
駐留米軍の目的の変更ということについては、特に一九九七年のガイドラインに示されておりますように、駐留米軍というのは日本以外の地域の防衛に当たるんだと、日本施政下領域の防衛は主として日本独自でやるんだと、こういうことが明示されております。それから、駐留米軍が軍事的に対応する地域的範囲も極東からアジア、更に中近東に広がっている、対応すべき紛争も国家間紛争から他国の内戦、更には国際テロリストの軍事行動、こういったものも対象にするようになってきたと。こうなってくると、そういう対応の必要性ということについて考えなければならないんですけれども、少なくとも現行安保条約上の要件との整合性ということには疑義を生ぜざるを得ないと思います。
ただ、一層重大な問題となるのは、在日基地から出動する米軍の軍事行動が国連憲章など国際法に対する違反を生じた場合、又はその疑義を生じた場合に、その行動にどのような制約ができるかということであります。例えば、米軍の軍事行動が国連決議を根拠にしていると、こう主張するわけですけれども、その主張に疑義がある場合とか、それから国際社会で認められていない先制的自衛権という概念に基づいて軍事行動を起こしたような場合ということです。それからもう一つは、日本国憲法上許されない行為、措置、つまりこういう新しい措置のために立法しても、その立法が違憲の疑いを生ずるようなそういう措置、そういう措置をアメリカが軍事協力として日本側に求めてきた場合にそれを拒否できるのかと、こういう問題が残っているということであります。
そこで、次の日米安保体制の効用と矛盾ということについてお話ししたいと思います。
アメリカの日本防衛の根拠は、日米安保条約に基づく防衛協力義務としてこの集団的自衛権行使、すなわち違法性を阻却される武力行使を行うことにあるということであります。で、日本の施政下にある領域で日米共同の軍事行動が行われる場合に、自衛隊の軍事行動の根拠を日本の集団的自衛権行使に置くという見方については、これは論理的に一種の清涼剤になり得ても、逆にアメリカの増殖する軍事協力要求の主張を誘発する要因になりかねないという意味において危うい一面があると言わざるを得ないと思います。
それから、またアジア諸国が日米安保条約の維持に期待しているわけですけれども、その期待の真意は日本の軍事力増大化に対する警戒感にあります。そうすると、自衛隊の戦力増強を抑え込むためには日米安保体制が必要だということになる。つまり、瓶のふた論ということが言われているわけですが、それと、この日本の憲法では、これは建前ということになりますが、憲法の前文を見ますと、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というこの文言は何を意味するかというと、日本の安全保障、これを国連軍にゆだねるという発想であります。しかし、国連軍は存在しません。将来、形ばかりの国連軍が結成されたとしても、日本の安全保障に効果的な措置が取れるという可能性が生まれるのかどうかということについて、現在の状況ではなお疑義があると言わざるを得ません。
こういうことになってきますと、総括的に申し上げますと、いわゆる政府の伝統的解釈はそれなりに私は評価すべきであると思います。その集団的自衛権についても、日本はその自衛権の行使、これはそういう考え方を取るべきではないということになると思います。つまり、対米協力、これは日本の個別的自衛権の一つの戦術技術的な面の問題として対応できると、私はそう考えます。
それから、米軍の駐留に伴う諸問題と地位協定の問題について触れておきたいと思います。
駐留米軍は、基地周辺住民を始め、日本国民の理解を欠かせないはずであります。それにもかかわらず、とりわけ沖縄県民に大きな負担を負わせておりまして、皆さん御存じのように、全国の米軍専用基地の七五%が沖縄に集中しているという状況があります。日本の安全保障上、米軍の日本駐留を認めることがやむを得ない選択であるとしても、住民、国民の負担を少しでも軽減していかなければならない。また、現行のその地位協定の改定に国会はもっと強い関心を寄せていただきたい、こうお願いするわけであります。
そういう要請に対して、アメリカの軍事力に依存している以上、安保条約、地位協定の見直しに日本側から言い出しにくいという、こういう見方があります。それに対して私はこういうふうに反論をします。
地位協定の改定問題には緻密な対応が必要であって、また可能である。というのは、地位協定というのは米軍、米軍関係者の法的地位に関する協定の側面と基地協定の側面と両方持っているということであります。住民の立場から地位協定の改定を求めることは、これはアメリカ側はしばしば、これはナショナリズムの問題だというふうにとらえるわけですけれども、そうではなくて、人間らしい生活を求める国民の声の、あるいは住民の声の叫びであると見なければならないと思います。
そこで、若干の具体的な問題を取り上げたいと思いますけれども、まず基地の整理、縮小問題に関しては、冷戦構造崩壊後も対ソ戦略に対応する規模、機能が維持されております。とりわけ沖縄基地の場合、本土ではもう当然問題になるであろうと思われるんですが、住民の福祉に重大な影響を及ぼしている地域にその基地が置かれている、こういう基地を迅速に整理しなければならない、整理、縮小しなければならないと、こう考えるわけであります。
それから、二番目には、米軍の基地使用についても、原則的に日本の国内法上の基準が適用されると解釈すべきであります。ボン協定、つまりドイツ駐留NATO軍の地位に関する補足協定でありますが、この協定は一九九三年に大改正になりまして、この協定では、ドイツの国内法が原則的に適用されるということが一層明確にそこに定められたわけであります。
それから、イタリアに駐留する米軍についても、基地使用に関する実施取決めというそういう条約が一九九五年に締結されまして、この条約においてもイタリアの国内法が原則的に適用されるんだというんです。
これはどういう法的意味を持っているのかというと、今の外務省の解釈ですと、地位協定に定めのない限り日本国の国内法は適用されない。だから、逆に言いますと、日本国の国内法に定めていないことについてはアメリカは何でもできるんだと、こういう解釈になっていくわけであります。これが日本国の国内法が原則的に適用されるということになれば、その地位協定に定められていないものについては、米軍はその基地の使用権、これがないんだと、こういうふうになるわけであります。
それから、次の刑事手続問題でありますが、これについては、とりわけ米軍人の被疑者引渡問題ということで大変問題になっているところでありますが、これについてもこの十七条の五項、引渡しについては十七条の五項ということが扱っているわけですが、この(a)項では、引渡しについて相互協力、相互援助するんだということが定められている、そして(c)項において日本の公訴提起まで米軍当局がその被疑者の身柄を拘禁すると、こういうことになっているわけであります。
日本の外務省は、内々には(a)の原則、つまり引渡しについて相互援助するという原則を日本に当然に引渡しがなされるものだと、こう理解していたように思われます。ところが、現実には、公訴提起、日本側の公訴提起まで米軍当局が拘禁すると。つまり、例外が原則化されているということであります。
それから、次の経費負担問題についても、これはNATOでもこれは大変な問題になっているわけでありますが、これは前回の会議において田岡参考人が指摘したことでありますが、日本がこの、何といいますか、経費負担についてルーズなやり方をするということによって、NATO諸国に実は、アメリカ以外のNATO諸国に迷惑を掛ける可能性があると言わざるを得ないと思います。
時間になりましたので、あと、結びに代えてというところがあるんですが、そこでは私、前回のこの会議において平和主義ということについても述べられましたので、それについてお話ししようかと思ったんですが、時間になりましたので、また御質問があったときにお答えしたいと思います。
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条約についてにしろ憲法についてにしろ、その法文に忠実に従って解釈することは大切であります。それと同時に、法文の背後にある真意、歴史的経験を酌み取り、それを参照しながら現在において求められている解釈を確定することも同じ程度に大切であります。
本論に入ります。
国連憲章における集団的自衛権の意味ということについて、まずお話ししたいと思います。
国連憲章五十一条に定める集団的自衛権を個別的自衛権と一体的に見る見方がございます。したがいまして、個別的自衛権を有するということは当然に集団的自衛権を有することである、それの証拠として個別的自衛権も集団的自衛権もともに固有の権利である、あるいは自然権であると、こういうふうに明示されているということであります。
それに対して私は、こういう違った考え方を取っております。
集団的自衛権は個別的自衛権とは異質な概念である。集団的自衛権の本質は、武力行使の一般的かつ原則的な禁止原則、これは国連憲章の二条四項、それから安全保障理事会による武力行使の事前許可原則、これは五十一条に定めてありますが、これに対して、軍事同盟に基づく事前許可なしの武力行使の違法性を阻却すること、このことに集団的自衛権の本質があると私は考えております。
国連憲章の作成過程においては、その草案には集団的自衛権という概念はありませんでした。それが審議の過程において集団的自衛権という概念が挿入されたわけであります。そこで固有の権利という言葉が付け加えられましたけれども、これは個別的自衛権と並べることによって新しい概念に正当性を与えるための法的粉飾であると、こういうふうに見ることができます。そして、この挿入の政治的意味というのは、集団的安全保障体制という、国連の集団的安全保障体制という理想と軍事同盟による対抗的安全の確保というこの現実の要請とを妥協せしめることにあると思います。
集団的自衛権が権利であって義務ではないからそれを行使するもしないも自由だという、こういう議論もありましたけれども、これは軍事同盟の実質から見ると日米安保条約の存在意味を無力化するものであると言わざるを得ません。これは権利という言葉じりをとらえた見方なんだと思います。実態的には、権利という表現によって事前許可を必要とするというその原則に対する違法性、それを阻却した上に軍事同盟条約により防衛義務関係を構築すること、集団的自衛権概念はその構築の足掛かりであるということであります。
それでは、その憲法九条下の自衛権ということについてどう考えるかということですが、政府の伝統的解釈、先ほど豊下参考人から紹介がありましたけれども、その政府の伝統的解釈というのは自衛隊の設置及び維持を合憲化するための論理であると、そこからこの他国防衛のための集団的自衛権行使の合憲性を引き出すことはできない、こういうことになってくると思います。
ただ、この政府の伝統的解釈は、次第に増大化するアメリカの防衛協力要求を拒否する根拠になり得たという意味において、この限りでは効用があったと私は評価しております。しかし、この伝統的解釈では、アメリカの増殖する軍事協力要求をかわし切れないこと、それから自衛隊の戦力増強要請を制約することができないという、こういう意味で限界又は矛盾を含んでいたというふうに見ます。
これに対する、これに対するというのは政府の伝統的解釈に対する非武装論についてですが、非武装論の真意は、日本の軍事力自己増殖に対する懸念、それにあったんだと思います。この懸念にこたえるというのは、これは日本国民の要請であると思います。ただ、この非武装論というのは、現実のこの安全保障をどうするかと、そういう問い掛けに対して具体的な答えを用意できなかった。それから、この非武装論は、実は米軍の沖縄駐留条件ということを前提にしていた。つまり、沖縄に米軍が駐留するということなしには非武装論が成り立たないという、こういう矛盾を抱えていたということも言えると思います。
したがいまして、私の論理からすると、現状ではある程度の自己防衛能力、これを持たざるを得ませんし、それから他国による防衛協力への依存ということもこれもまた認めざるを得ない。これはやむを得ない選択であると言わざるを得ないと思います。
問題は、自衛隊の自己増殖しようとする内的な力をどういう、それにどういうような歯止めを掛けるか、それからアメリカの増殖化する軍事協力要請をどのように制約するか、場合によってはノーと言えるようにするかということであります。
駐留米軍の目的の変更ということについては、特に一九九七年のガイドラインに示されておりますように、駐留米軍というのは日本以外の地域の防衛に当たるんだと、日本施政下領域の防衛は主として日本独自でやるんだと、こういうことが明示されております。それから、駐留米軍が軍事的に対応する地域的範囲も極東からアジア、更に中近東に広がっている、対応すべき紛争も国家間紛争から他国の内戦、更には国際テロリストの軍事行動、こういったものも対象にするようになってきたと。こうなってくると、そういう対応の必要性ということについて考えなければならないんですけれども、少なくとも現行安保条約上の要件との整合性ということには疑義を生ぜざるを得ないと思います。
ただ、一層重大な問題となるのは、在日基地から出動する米軍の軍事行動が国連憲章など国際法に対する違反を生じた場合、又はその疑義を生じた場合に、その行動にどのような制約ができるかということであります。例えば、米軍の軍事行動が国連決議を根拠にしていると、こう主張するわけですけれども、その主張に疑義がある場合とか、それから国際社会で認められていない先制的自衛権という概念に基づいて軍事行動を起こしたような場合ということです。それからもう一つは、日本国憲法上許されない行為、措置、つまりこういう新しい措置のために立法しても、その立法が違憲の疑いを生ずるようなそういう措置、そういう措置をアメリカが軍事協力として日本側に求めてきた場合にそれを拒否できるのかと、こういう問題が残っているということであります。
そこで、次の日米安保体制の効用と矛盾ということについてお話ししたいと思います。
アメリカの日本防衛の根拠は、日米安保条約に基づく防衛協力義務としてこの集団的自衛権行使、すなわち違法性を阻却される武力行使を行うことにあるということであります。で、日本の施政下にある領域で日米共同の軍事行動が行われる場合に、自衛隊の軍事行動の根拠を日本の集団的自衛権行使に置くという見方については、これは論理的に一種の清涼剤になり得ても、逆にアメリカの増殖する軍事協力要求の主張を誘発する要因になりかねないという意味において危うい一面があると言わざるを得ないと思います。
それから、またアジア諸国が日米安保条約の維持に期待しているわけですけれども、その期待の真意は日本の軍事力増大化に対する警戒感にあります。そうすると、自衛隊の戦力増強を抑え込むためには日米安保体制が必要だということになる。つまり、瓶のふた論ということが言われているわけですが、それと、この日本の憲法では、これは建前ということになりますが、憲法の前文を見ますと、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というこの文言は何を意味するかというと、日本の安全保障、これを国連軍にゆだねるという発想であります。しかし、国連軍は存在しません。将来、形ばかりの国連軍が結成されたとしても、日本の安全保障に効果的な措置が取れるという可能性が生まれるのかどうかということについて、現在の状況ではなお疑義があると言わざるを得ません。
こういうことになってきますと、総括的に申し上げますと、いわゆる政府の伝統的解釈はそれなりに私は評価すべきであると思います。その集団的自衛権についても、日本はその自衛権の行使、これはそういう考え方を取るべきではないということになると思います。つまり、対米協力、これは日本の個別的自衛権の一つの戦術技術的な面の問題として対応できると、私はそう考えます。
それから、米軍の駐留に伴う諸問題と地位協定の問題について触れておきたいと思います。
駐留米軍は、基地周辺住民を始め、日本国民の理解を欠かせないはずであります。それにもかかわらず、とりわけ沖縄県民に大きな負担を負わせておりまして、皆さん御存じのように、全国の米軍専用基地の七五%が沖縄に集中しているという状況があります。日本の安全保障上、米軍の日本駐留を認めることがやむを得ない選択であるとしても、住民、国民の負担を少しでも軽減していかなければならない。また、現行のその地位協定の改定に国会はもっと強い関心を寄せていただきたい、こうお願いするわけであります。
そういう要請に対して、アメリカの軍事力に依存している以上、安保条約、地位協定の見直しに日本側から言い出しにくいという、こういう見方があります。それに対して私はこういうふうに反論をします。
地位協定の改定問題には緻密な対応が必要であって、また可能である。というのは、地位協定というのは米軍、米軍関係者の法的地位に関する協定の側面と基地協定の側面と両方持っているということであります。住民の立場から地位協定の改定を求めることは、これはアメリカ側はしばしば、これはナショナリズムの問題だというふうにとらえるわけですけれども、そうではなくて、人間らしい生活を求める国民の声の、あるいは住民の声の叫びであると見なければならないと思います。
そこで、若干の具体的な問題を取り上げたいと思いますけれども、まず基地の整理、縮小問題に関しては、冷戦構造崩壊後も対ソ戦略に対応する規模、機能が維持されております。とりわけ沖縄基地の場合、本土ではもう当然問題になるであろうと思われるんですが、住民の福祉に重大な影響を及ぼしている地域にその基地が置かれている、こういう基地を迅速に整理しなければならない、整理、縮小しなければならないと、こう考えるわけであります。
それから、二番目には、米軍の基地使用についても、原則的に日本の国内法上の基準が適用されると解釈すべきであります。ボン協定、つまりドイツ駐留NATO軍の地位に関する補足協定でありますが、この協定は一九九三年に大改正になりまして、この協定では、ドイツの国内法が原則的に適用されるということが一層明確にそこに定められたわけであります。
それから、イタリアに駐留する米軍についても、基地使用に関する実施取決めというそういう条約が一九九五年に締結されまして、この条約においてもイタリアの国内法が原則的に適用されるんだというんです。
これはどういう法的意味を持っているのかというと、今の外務省の解釈ですと、地位協定に定めのない限り日本国の国内法は適用されない。だから、逆に言いますと、日本国の国内法に定めていないことについてはアメリカは何でもできるんだと、こういう解釈になっていくわけであります。これが日本国の国内法が原則的に適用されるということになれば、その地位協定に定められていないものについては、米軍はその基地の使用権、これがないんだと、こういうふうになるわけであります。
それから、次の刑事手続問題でありますが、これについては、とりわけ米軍人の被疑者引渡問題ということで大変問題になっているところでありますが、これについてもこの十七条の五項、引渡しについては十七条の五項ということが扱っているわけですが、この(a)項では、引渡しについて相互協力、相互援助するんだということが定められている、そして(c)項において日本の公訴提起まで米軍当局がその被疑者の身柄を拘禁すると、こういうことになっているわけであります。
日本の外務省は、内々には(a)の原則、つまり引渡しについて相互援助するという原則を日本に当然に引渡しがなされるものだと、こう理解していたように思われます。ところが、現実には、公訴提起、日本側の公訴提起まで米軍当局が拘禁すると。つまり、例外が原則化されているということであります。
それから、次の経費負担問題についても、これはNATOでもこれは大変な問題になっているわけでありますが、これは前回の会議において田岡参考人が指摘したことでありますが、日本がこの、何といいますか、経費負担についてルーズなやり方をするということによって、NATO諸国に実は、アメリカ以外のNATO諸国に迷惑を掛ける可能性があると言わざるを得ないと思います。
時間になりましたので、あと、結びに代えてというところがあるんですが、そこでは私、前回のこの会議において平和主義ということについても述べられましたので、それについてお話ししようかと思ったんですが、時間になりましたので、また御質問があったときにお答えしたいと思います。
上
森
森本敏#6
○参考人(森本敏君) 本日、当憲法調査会において参考人として所見の一端を述べる機会が与えられたことを光栄なことと存じ上げます。私は、主として安全保障の政策並びに実務を政府の人間として長く担当してきましたので、私は法の専門家ではありませんが、安全保障の政策を専門とする立場から意見を申し上げたいと思います。
自分の立場、ポジションを明らかにするために、まず基本的なことについて二つだけお話をすると、私は、現在の憲法は国家の自然権としての自衛権を禁止しているものではないと、したがって個別的及び集団的自衛の権利をともに国としては持っており、これを国家の権利として行使できることは当然であると考えています。
しかしながら、現在の憲法の前文並びに憲法条文はこの点について国内のみならず諸外国にも疑義を与えるような表現となっており、憲法解釈についていろいろな議論を国内に引き起こしてきたわけで、その意味において、本来、憲法とは国の在り方を表現する基本的な法規である以上、条文について解釈が国の中で分かれる、あるいは諸外国に誤解を与えるというようなものであってはならず、したがって、憲法を疑義なく解釈できるよう明確かつ正確な表現とすることは我々の当面する義務であると考えます。したがって、私は、繰り返しになりますが、現在の憲法は国家の自衛権を禁止しているものではなく、当然集団的自衛権を行使できるが、しかし今の条文を疑義なく正しい表現に変えることが必要であると。
その際、どのように変えるかということについては、憲法の前文及び憲法第九条の条文を改正し、少なくとも、憲法第九条一項についてはこれは不戦条約の趣旨に従って書かれたもので、この点について改正の必要はないと考えますが、第二項については、我が国が国家として自衛権を有していること、この自衛権を行使するため国家の防衛軍を保有すること、その防衛軍は主として我が国の防衛に任ずるとともに、必要に応じて国際社会の平和と安定のために国際貢献その他の活動に参加、協力ができること、さらに、国家の緊急事態に際して、内閣総理大臣が法の定めるところにより内閣を代表し国家及び国民を統括することができることなどを明記する必要があるのではないかと考えます。
以上が、私が今から申し述べる基本的な立場についてでございます。
集団的自衛権につきましては、お二人の参考人が過去の経緯についてお触れいただきましたので細かく触れませんが、私は、過去、日本政府の集団的自衛権の有権解釈なるものは、その当時日本が置かれた国際情勢における立場と、戦後の日本の国内社会の世論の中で、自衛権を領域外において、仮に同盟国を助けるあるいは行動をともにするとはいえ、日本の防衛力を領域外において武力行使に当たるような活動をすることができるという説明にすることは、昭和二十九年に創設された自衛隊というものの国内政治的な論拠というものを危うくする。裏返して言うと、この自衛隊というものを、あくまで領域の中における個別自衛権を行使するためのいわゆる集団であるという認知を国内的にも国際社会でも与えるというために行った政治的な判断に基づく解釈であって、文章を解釈した条文解釈ではないと、このように考えます。
しかしながら、その後の国際社会の現実は、日本が他の国と並んで国際社会の中で必要な貢献を行い、それを行うに必要な日本の国家の地位というものが向上するに従って、湾岸戦争後にいろいろな領域外の活動が始まるにつれて、現在の憲法解釈の中で、特に武力行使という問題と集団的自衛権という二つの問題の制約要因がかえって自衛隊の活動を阻害し、かつ隊員の身の安全を危うくするという事態が発生する可能性が高く、この二つの問題、すなわち武力行使、領域外における武力行使を禁止しているという解釈、集団的自衛権を行使できないというこの解釈は、日米同盟というものを片務的なものにするだけではなく、我が国の領域外における活動をむしろ阻害するという状況が現実問題として出ている限り、この二つの問題についての解釈をよりすっきりとした形にする必要があるのではないかと考えます。
特に、日本の領域内及び日米安保条約の範囲の中で行われる日米協力については、今後国会で審議が行われる予定の有事関連法案がすべて成立すると、おおむね法的整備が完了するということになると思いますが、しかし、それを超える領域での活動については、従来特別措置法あるいはPKO法などで対処しておりますけれども、その活動内容が、今申し上げた武力行使あるいは武器の使用などの面について不合理な点が多く、現在の法律は憲法の枠の中で行い得る最大の限界に来ているのではないかと。裏返して言うと、これ以上の活動を、新しい法的枠組みの中で領域外において活動することには現行憲法上にもはや無理があるという考え方に立っております。
しからば、どのような活動を今後領域外で行う必要があるのかと。アメリカを始めとする同盟国あるいはその他のアジアの国々が日本にどのような協力を求めてくる可能性があるのかということについては、一つは米軍に対する支援、後方支援の活動を、現在の周辺事態法の中に規定されている支援活動をより広げたものにする必要が将来出てくると思われること。それからさらに、これは米軍の活動に対する直接の支援や協力あるいは参加活動が必要に応じて広がっていくと考えられること、それから、米国だけではなく、例えばアジア太平洋その他の国々が安保理決議に基づいて多国籍軍型の活動を行い、これによって国際の平和と安全を維持回復するための活動が行われる場合、日本として必要な協力をする場合に、現在の法律の枠の中ではもはや憲法解釈上無理があると思われることであります。
その際、集団的自衛権問題の取扱いを考慮するに当たっては、憲法解釈上いかなる活動が法的に可能であるかという観点から従来は政策論議が行われてきたわけで、必ずしも日本の国が国益を追求するためにどのような活動をすべきかということより、むしろ憲法の枠の中で何ができるかという観点に立って政策議論が行われてきたのではないかと考えます。
我々としては、憲法の枠の中で何ができるか、憲法がどこまで認めているかではなく、日本の安全保障と日本が追求すべき国益とどのような関係になるのか、どこまで国益を追求し、そのために負うリスクとの兼ね合いを我々はどのように考えるべきなのかということが、むしろ基本的な評価基準として日本の領域外における活動を我々は議論をし、そのための法的枠組みを考えるという必要があるのではないかと考えます。
その際、実は集団的自衛権という問題と並んで領域外における武力行使の一体化という議論があり、この問題は必ずしも集団的自衛権問題とイコールではない。多くの部分がオーバーラップしていますけれども、例えば今イラクの中にいる自衛隊が武器を使用できる条件は、御承知のとおり、イラク特別措置法で、自己並びに自己の管理下にある者を守るために武器が使用することができるが、裏返して言うと、それ以外の場合に武器を使用することができないということであります。これは集団的自衛権の問題ではなく、領域外における武力行使がどこまで認められるのかという、従来伝統的な一体化の議論であります。
集団的自衛権の問題という問題と、この一体化議論を混同して議論する向きがありますが、日本の安全保障にとってみれば、この二つを同時に解決しなければならず、集団的自衛権問題が解決できても、領域外における武力行使という問題が解決できなければ集団的自衛権は当然行使できないわけであって、したがってこの二つの問題を同時に解決するという必要があるのではないかと思います。むしろ、現実の領域外活動を行うに際し、武力行使の一体化問題の方が個々の隊員の活動について制約要因が多く、この問題を解決するということが我が国の領域外における活動の幅を広げるということになるのではないかと考えます。
以上のことを考えた場合、我々として当面対応すべき点は、以下の五つの点であります。
まず、当然のことながら、当参議院を含め、国会並びに政党で憲法論議を一層進め、国内世論を起こし、憲法及びその根底にある国のあるべき姿あるいは国益などについて幅広く議論を国内に起こし浸透させるということが必要であると考えます。
第二は、憲法改正のための手続法を審議すると同時に、この手続法を実施するための国内の体制を整備するという必要があると思います。さらに、憲法改正ということになった場合、憲法改正だけでは問題はとどまらず、この憲法改正に伴って既存の国内法並びに条約や協定の改正についても、この際、総合的に検討しておくという必要があるのではないかと思います。この中に安保条約や地位協定をどのように扱うかという根本的な問題があるのではないかと考えます。
第三に、日米間で集団的自衛権の問題に関する協議を行い、双方がいかなる意図を持っておるのか、特にアメリカが日本に何を期待するのか、日本が集団的自衛権を行使するということが真にアメリカの意図なのか、あるいは日米間が、日本が集団的自衛権を行使できることによってどのような役割分担に発展するのかということを突き詰めて考えると、これは日米同盟のあるべき姿を模索するということにほかならないと思います。このような問題はまだ日米間で真剣に討議をされている形跡はありませんが、集団的自衛権というのは国家のありようを、将来の姿を決めるということになるわけで、国際社会の中で日本が集団的自衛権という問題をクリアすることがアメリカと日本の将来にわたる同盟関係にどういう影響を与えるかということは率直に討議をしておく必要があるのではないかと思います。
私が最も重視すべき点は、第四の点です。
それは、憲法改正手続というものが完了するまでの間、国としてはいついかなる危機に見舞われるかもしらず、したがって、あらゆる事態に対応するために、当面、国家緊急事態対処法を整備するとともに、日本の特に自衛隊の海外活動の基準に関する法体系を整備するという必要があるのではないかと考えます。その際、当然のことながら、領域外における武力行使及び武器使用に関する基準を他国と同様の基準を適用できるよう配慮し、この一連の法整備を進めていくという必要があるのではないかと思います。
最後に、立法府並びに政党間で、できれば党派を超えて国益とは何かということを審議し、国益という言葉ですべてを済ませるのではなく、国益とはいかなるものであるかということを個別具体的に内容を考え、これに優先順位を付けるという作業をする必要があるのではないかと考えます。
御承知のとおり、アメリカには超党派で国益委員会というものができ、具体的な国益が幾つかのカテゴリーで具体的に規定をされていることにかんがみれば、我が国において国益とリスク、あるいは日本の防衛の在り方というものをともに併せて今後の法整備の基礎として検討するという必要があるのではないかと思います。
以上が所見の一端でございます。ありがとうございます。
この発言だけを見る →自分の立場、ポジションを明らかにするために、まず基本的なことについて二つだけお話をすると、私は、現在の憲法は国家の自然権としての自衛権を禁止しているものではないと、したがって個別的及び集団的自衛の権利をともに国としては持っており、これを国家の権利として行使できることは当然であると考えています。
しかしながら、現在の憲法の前文並びに憲法条文はこの点について国内のみならず諸外国にも疑義を与えるような表現となっており、憲法解釈についていろいろな議論を国内に引き起こしてきたわけで、その意味において、本来、憲法とは国の在り方を表現する基本的な法規である以上、条文について解釈が国の中で分かれる、あるいは諸外国に誤解を与えるというようなものであってはならず、したがって、憲法を疑義なく解釈できるよう明確かつ正確な表現とすることは我々の当面する義務であると考えます。したがって、私は、繰り返しになりますが、現在の憲法は国家の自衛権を禁止しているものではなく、当然集団的自衛権を行使できるが、しかし今の条文を疑義なく正しい表現に変えることが必要であると。
その際、どのように変えるかということについては、憲法の前文及び憲法第九条の条文を改正し、少なくとも、憲法第九条一項についてはこれは不戦条約の趣旨に従って書かれたもので、この点について改正の必要はないと考えますが、第二項については、我が国が国家として自衛権を有していること、この自衛権を行使するため国家の防衛軍を保有すること、その防衛軍は主として我が国の防衛に任ずるとともに、必要に応じて国際社会の平和と安定のために国際貢献その他の活動に参加、協力ができること、さらに、国家の緊急事態に際して、内閣総理大臣が法の定めるところにより内閣を代表し国家及び国民を統括することができることなどを明記する必要があるのではないかと考えます。
以上が、私が今から申し述べる基本的な立場についてでございます。
集団的自衛権につきましては、お二人の参考人が過去の経緯についてお触れいただきましたので細かく触れませんが、私は、過去、日本政府の集団的自衛権の有権解釈なるものは、その当時日本が置かれた国際情勢における立場と、戦後の日本の国内社会の世論の中で、自衛権を領域外において、仮に同盟国を助けるあるいは行動をともにするとはいえ、日本の防衛力を領域外において武力行使に当たるような活動をすることができるという説明にすることは、昭和二十九年に創設された自衛隊というものの国内政治的な論拠というものを危うくする。裏返して言うと、この自衛隊というものを、あくまで領域の中における個別自衛権を行使するためのいわゆる集団であるという認知を国内的にも国際社会でも与えるというために行った政治的な判断に基づく解釈であって、文章を解釈した条文解釈ではないと、このように考えます。
しかしながら、その後の国際社会の現実は、日本が他の国と並んで国際社会の中で必要な貢献を行い、それを行うに必要な日本の国家の地位というものが向上するに従って、湾岸戦争後にいろいろな領域外の活動が始まるにつれて、現在の憲法解釈の中で、特に武力行使という問題と集団的自衛権という二つの問題の制約要因がかえって自衛隊の活動を阻害し、かつ隊員の身の安全を危うくするという事態が発生する可能性が高く、この二つの問題、すなわち武力行使、領域外における武力行使を禁止しているという解釈、集団的自衛権を行使できないというこの解釈は、日米同盟というものを片務的なものにするだけではなく、我が国の領域外における活動をむしろ阻害するという状況が現実問題として出ている限り、この二つの問題についての解釈をよりすっきりとした形にする必要があるのではないかと考えます。
特に、日本の領域内及び日米安保条約の範囲の中で行われる日米協力については、今後国会で審議が行われる予定の有事関連法案がすべて成立すると、おおむね法的整備が完了するということになると思いますが、しかし、それを超える領域での活動については、従来特別措置法あるいはPKO法などで対処しておりますけれども、その活動内容が、今申し上げた武力行使あるいは武器の使用などの面について不合理な点が多く、現在の法律は憲法の枠の中で行い得る最大の限界に来ているのではないかと。裏返して言うと、これ以上の活動を、新しい法的枠組みの中で領域外において活動することには現行憲法上にもはや無理があるという考え方に立っております。
しからば、どのような活動を今後領域外で行う必要があるのかと。アメリカを始めとする同盟国あるいはその他のアジアの国々が日本にどのような協力を求めてくる可能性があるのかということについては、一つは米軍に対する支援、後方支援の活動を、現在の周辺事態法の中に規定されている支援活動をより広げたものにする必要が将来出てくると思われること。それからさらに、これは米軍の活動に対する直接の支援や協力あるいは参加活動が必要に応じて広がっていくと考えられること、それから、米国だけではなく、例えばアジア太平洋その他の国々が安保理決議に基づいて多国籍軍型の活動を行い、これによって国際の平和と安全を維持回復するための活動が行われる場合、日本として必要な協力をする場合に、現在の法律の枠の中ではもはや憲法解釈上無理があると思われることであります。
その際、集団的自衛権問題の取扱いを考慮するに当たっては、憲法解釈上いかなる活動が法的に可能であるかという観点から従来は政策論議が行われてきたわけで、必ずしも日本の国が国益を追求するためにどのような活動をすべきかということより、むしろ憲法の枠の中で何ができるかという観点に立って政策議論が行われてきたのではないかと考えます。
我々としては、憲法の枠の中で何ができるか、憲法がどこまで認めているかではなく、日本の安全保障と日本が追求すべき国益とどのような関係になるのか、どこまで国益を追求し、そのために負うリスクとの兼ね合いを我々はどのように考えるべきなのかということが、むしろ基本的な評価基準として日本の領域外における活動を我々は議論をし、そのための法的枠組みを考えるという必要があるのではないかと考えます。
その際、実は集団的自衛権という問題と並んで領域外における武力行使の一体化という議論があり、この問題は必ずしも集団的自衛権問題とイコールではない。多くの部分がオーバーラップしていますけれども、例えば今イラクの中にいる自衛隊が武器を使用できる条件は、御承知のとおり、イラク特別措置法で、自己並びに自己の管理下にある者を守るために武器が使用することができるが、裏返して言うと、それ以外の場合に武器を使用することができないということであります。これは集団的自衛権の問題ではなく、領域外における武力行使がどこまで認められるのかという、従来伝統的な一体化の議論であります。
集団的自衛権の問題という問題と、この一体化議論を混同して議論する向きがありますが、日本の安全保障にとってみれば、この二つを同時に解決しなければならず、集団的自衛権問題が解決できても、領域外における武力行使という問題が解決できなければ集団的自衛権は当然行使できないわけであって、したがってこの二つの問題を同時に解決するという必要があるのではないかと思います。むしろ、現実の領域外活動を行うに際し、武力行使の一体化問題の方が個々の隊員の活動について制約要因が多く、この問題を解決するということが我が国の領域外における活動の幅を広げるということになるのではないかと考えます。
以上のことを考えた場合、我々として当面対応すべき点は、以下の五つの点であります。
まず、当然のことながら、当参議院を含め、国会並びに政党で憲法論議を一層進め、国内世論を起こし、憲法及びその根底にある国のあるべき姿あるいは国益などについて幅広く議論を国内に起こし浸透させるということが必要であると考えます。
第二は、憲法改正のための手続法を審議すると同時に、この手続法を実施するための国内の体制を整備するという必要があると思います。さらに、憲法改正ということになった場合、憲法改正だけでは問題はとどまらず、この憲法改正に伴って既存の国内法並びに条約や協定の改正についても、この際、総合的に検討しておくという必要があるのではないかと思います。この中に安保条約や地位協定をどのように扱うかという根本的な問題があるのではないかと考えます。
第三に、日米間で集団的自衛権の問題に関する協議を行い、双方がいかなる意図を持っておるのか、特にアメリカが日本に何を期待するのか、日本が集団的自衛権を行使するということが真にアメリカの意図なのか、あるいは日米間が、日本が集団的自衛権を行使できることによってどのような役割分担に発展するのかということを突き詰めて考えると、これは日米同盟のあるべき姿を模索するということにほかならないと思います。このような問題はまだ日米間で真剣に討議をされている形跡はありませんが、集団的自衛権というのは国家のありようを、将来の姿を決めるということになるわけで、国際社会の中で日本が集団的自衛権という問題をクリアすることがアメリカと日本の将来にわたる同盟関係にどういう影響を与えるかということは率直に討議をしておく必要があるのではないかと思います。
私が最も重視すべき点は、第四の点です。
それは、憲法改正手続というものが完了するまでの間、国としてはいついかなる危機に見舞われるかもしらず、したがって、あらゆる事態に対応するために、当面、国家緊急事態対処法を整備するとともに、日本の特に自衛隊の海外活動の基準に関する法体系を整備するという必要があるのではないかと考えます。その際、当然のことながら、領域外における武力行使及び武器使用に関する基準を他国と同様の基準を適用できるよう配慮し、この一連の法整備を進めていくという必要があるのではないかと思います。
最後に、立法府並びに政党間で、できれば党派を超えて国益とは何かということを審議し、国益という言葉ですべてを済ませるのではなく、国益とはいかなるものであるかということを個別具体的に内容を考え、これに優先順位を付けるという作業をする必要があるのではないかと考えます。
御承知のとおり、アメリカには超党派で国益委員会というものができ、具体的な国益が幾つかのカテゴリーで具体的に規定をされていることにかんがみれば、我が国において国益とリスク、あるいは日本の防衛の在り方というものをともに併せて今後の法整備の基礎として検討するという必要があるのではないかと思います。
以上が所見の一端でございます。ありがとうございます。
上
上杉光弘#7
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
これより参考人に対する質疑に入ります。
質疑のある方は順次御発言願います。
なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いいたします。
舛添要一君。
この発言だけを見る →以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
これより参考人に対する質疑に入ります。
質疑のある方は順次御発言願います。
なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いいたします。
舛添要一君。
舛
舛添要一#8
○舛添要一君 どうもお三方ありがとうございました。
これはお三方に共通した質問でございますけれども、私もずっと国際関係の歴史を勉強してきた者として、先ほど本間参考人おっしゃったように、この集団的自衛権という概念はたかだか五、六十年のもので、つまり国連憲章五十一条以外にはなかった。例えば一九二五年のロカルノ条約なんというのは、これを議論したときに、英語で言うとコレクティブセキュリティーということは言っていました、集団的な安全保障。しかし、コレクティブセルフディフェンスということですね。セルフディフェンスって、セルフというのはインディビジュアルであることが言葉の本来の意味なんで、コレクティブなセルフディフェンスというのは言葉からいっても非常に矛盾である。しかし、これは御指摘のとおり、五十二条の地域的取決めがあって、その地域的取決めが五十三条で発動させるためには国連の安保理事会の許可を得ないといけない。しかし、あの冷戦下においては拒否権が発動されるということで違法性阻却ということでなったと思うんですけれども。ただ、それから五、六十年たったときに、これは豊下参考人おっしゃったように、ニカラグアの事件の国際司法裁判所の判決で、五十一条の国連憲章で決めたこと、それがその後の国連総会の諸決議に基づいて国際慣習法として成立している、こういう判決が下されていますけれども、そこで問題は、国家の固有の、これは森本参考人、これはもうあらゆる国家も個別的、集団的な自衛権というのは固有のものとして、もう自然権として持っているんだと、こういうことをおっしゃったんですけれども、これはもう全くお三方で考え方異なると思いますので、集団的自衛権というのは国家の固有の権利としてもう確立したと見るのか、そうじゃないのか。これ、豊下、本間、森本三参考人、順次お答えください。
この発言だけを見る →これはお三方に共通した質問でございますけれども、私もずっと国際関係の歴史を勉強してきた者として、先ほど本間参考人おっしゃったように、この集団的自衛権という概念はたかだか五、六十年のもので、つまり国連憲章五十一条以外にはなかった。例えば一九二五年のロカルノ条約なんというのは、これを議論したときに、英語で言うとコレクティブセキュリティーということは言っていました、集団的な安全保障。しかし、コレクティブセルフディフェンスということですね。セルフディフェンスって、セルフというのはインディビジュアルであることが言葉の本来の意味なんで、コレクティブなセルフディフェンスというのは言葉からいっても非常に矛盾である。しかし、これは御指摘のとおり、五十二条の地域的取決めがあって、その地域的取決めが五十三条で発動させるためには国連の安保理事会の許可を得ないといけない。しかし、あの冷戦下においては拒否権が発動されるということで違法性阻却ということでなったと思うんですけれども。ただ、それから五、六十年たったときに、これは豊下参考人おっしゃったように、ニカラグアの事件の国際司法裁判所の判決で、五十一条の国連憲章で決めたこと、それがその後の国連総会の諸決議に基づいて国際慣習法として成立している、こういう判決が下されていますけれども、そこで問題は、国家の固有の、これは森本参考人、これはもうあらゆる国家も個別的、集団的な自衛権というのは固有のものとして、もう自然権として持っているんだと、こういうことをおっしゃったんですけれども、これはもう全くお三方で考え方異なると思いますので、集団的自衛権というのは国家の固有の権利としてもう確立したと見るのか、そうじゃないのか。これ、豊下、本間、森本三参考人、順次お答えください。
上
舛
豊
豊下楢彦#11
○参考人(豊下楢彦君) この問題はコスタリカの場合を考えると分かりやすいと思うんですけれども、御承知のように、コスタリカは憲法第十二条で軍備を禁止しておりますけれども、場合によったら再軍備できるという可能性を残しています。したがって、個別的自衛権は当然持っている。また、コスタリカはリオ条約に入っておりますので、集団的自衛権を持っていると。しかも、行使しているといっています。その行使の内容につきましては、リオ条約に入るときにコスタリカは海外派兵はしないという前提でリオ条約に入っているわけであって、したがって行使の内容は、例えば加害国に対して外交関係を断絶するとか、被害国に対して経済援助をするとか、そういったことで行使しているということになっております。したがって、コスタリカの場合、今申しましたように集団的自衛権を保持しており行使しておるけれども、海外派兵という行使はしないんだという形で対処しているんではないかと。
だから、日本の場合に、先ほど言いましたように、従来の政府解釈が集団的自衛権イコール海外派兵ということで限定してきている。そのことがいろいろ議論を呼んできている。なぜなら、基地提供自体集団的自衛権だということはもうはっきり言えるわけですから、その狭義と広義の辺が非常にあいまいな形で進んできたのが問題じゃないかというように思いますけれども。
この発言だけを見る →だから、日本の場合に、先ほど言いましたように、従来の政府解釈が集団的自衛権イコール海外派兵ということで限定してきている。そのことがいろいろ議論を呼んできている。なぜなら、基地提供自体集団的自衛権だということはもうはっきり言えるわけですから、その狭義と広義の辺が非常にあいまいな形で進んできたのが問題じゃないかというように思いますけれども。
本
本間浩#12
○参考人(本間浩君) 集団的自衛権が国際慣習法として確立されているかどうかという問題についてお話ししたいと思います。
私は、先ほど御説明申し上げましたように、集団的自衛権という観念そのものが国連憲章によって作られた概念であると。したがいまして、集団的自衛権という概念は国連憲章を離れては存在し得ないんだと。つまり、その意味では国連憲章の下の国家の活動を、それを国際慣習法の成立を認めるものというふうに見れば、ある意味で国際慣習法の成立を認める可能性というのが集団的自衛権の場合にもないではないと思うんですけれども、しかし、現実的に言えば国連憲章も条約であります。条約の枠組みを超えたところで、この国際慣習法としての集団的自衛権というのは私は存在し得ないと、そう考えます。
ただ、アメリカがこの自衛権ということについて非常に広義に理解していて、いわゆる自己保存権的な自衛権、それをアメリカの伝統的な自衛権の解釈の根拠にしております。したがいまして、アメリカは、自国民が他国にいるときにいろいろな不利益を受ける、それを武力をもって救済に出掛ける際も、これも自衛権行使と言っているわけです。それに対して、先ほど豊下参考人から御説明がありましたように、国連憲章では、武力攻撃が発生したときに、これは日本語訳ですけれども、発生したときに自衛権を行使できるんだと、こうなっているわけですね。これは集団的自衛権の場合であっても、国連憲章の定める集団的自衛権であっても条件は同じである。こうなってくると、アメリカの主張する自衛権、これが集団的自衛権というものをアメリカがその中に含めて考えるんだとすれば、これはアメリカだけがそういう解釈をしているということであって、他の国連加盟国ではこれは受け入れられないと、そういうふうに見ております。
以上です。
この発言だけを見る →私は、先ほど御説明申し上げましたように、集団的自衛権という観念そのものが国連憲章によって作られた概念であると。したがいまして、集団的自衛権という概念は国連憲章を離れては存在し得ないんだと。つまり、その意味では国連憲章の下の国家の活動を、それを国際慣習法の成立を認めるものというふうに見れば、ある意味で国際慣習法の成立を認める可能性というのが集団的自衛権の場合にもないではないと思うんですけれども、しかし、現実的に言えば国連憲章も条約であります。条約の枠組みを超えたところで、この国際慣習法としての集団的自衛権というのは私は存在し得ないと、そう考えます。
ただ、アメリカがこの自衛権ということについて非常に広義に理解していて、いわゆる自己保存権的な自衛権、それをアメリカの伝統的な自衛権の解釈の根拠にしております。したがいまして、アメリカは、自国民が他国にいるときにいろいろな不利益を受ける、それを武力をもって救済に出掛ける際も、これも自衛権行使と言っているわけです。それに対して、先ほど豊下参考人から御説明がありましたように、国連憲章では、武力攻撃が発生したときに、これは日本語訳ですけれども、発生したときに自衛権を行使できるんだと、こうなっているわけですね。これは集団的自衛権の場合であっても、国連憲章の定める集団的自衛権であっても条件は同じである。こうなってくると、アメリカの主張する自衛権、これが集団的自衛権というものをアメリカがその中に含めて考えるんだとすれば、これはアメリカだけがそういう解釈をしているということであって、他の国連加盟国ではこれは受け入れられないと、そういうふうに見ております。
以上です。
森
森本敏#13
○参考人(森本敏君) 現在の国連憲章の中で、憲章五十一条に言う個別的及び集団的自衛の固有の権利をすべての締約国にともに認めているこの経緯は、そもそも国連憲章起草のプロセス、段階の中ではこのように区別されて、当初は区別されていなかったわけで、それが最終段階で、この国連憲章採決の後、中米諸国が同盟条約を結ぶということが内々分かっていたので、同盟条約を結ぶ中米諸国の権利を認めるために個別的な自衛権とともに集団的自衛の固有の権利を憲章で認めるという最後の文章になったわけです。
したがって、本来、自衛権と一言書けばそれでよかったのですが、当時の同盟条約の国際法上の根拠を作るために「集団的自衛の固有の権利を」と書いたということであって、この経緯にかんがみれば、すべての国がともに国家として持っておる自然権と当時はみんな考えていたのではないかと思います。
さらに、今、本間参考人のお話ですけれども、私がこの集団的自衛権と個別的自衛権というものを考えた場合に、実はその二つを区別し、これがどちらかを行使できるできないという議論をし、そのような扱い方を有権解釈としてしているのは世界の中で日本だけだと思います。
例えば、アフガニスタン戦争というのは、御承知だと思いますが、これは、アメリカは国連憲章第五十一条に言う個別的自衛権を行使してアフガニスタン戦争を行い、国連安保理決議はありません。一方、NATO諸国は、同盟国アメリカが個別的自衛権を行使することを容認して、同盟国として集団的自衛権を行使してこの活動に同調したわけであって、その場合、アメリカが個別的自衛権を行使してアフガニスタン戦争をやるということをNATO諸国はすべて認めて集団的自衛権を行使して参加したわけで、その意味において、本間参考人のお言葉のように、アメリカだけがこの個別自衛権をこういう形で行使、解釈しているということは、必ずしもそうであるかどうか、私には少し分からないところです。
私は国際法の専門家ではないんですが、明らかに、世界の中で双方を区別して議論している国は多いのですが、どちらかだけを行使できないという区別をしているのは日本だけだと、このように解釈しています。そして、それは国際法上の解釈として不自然ではないかと考えます。
この発言だけを見る →したがって、本来、自衛権と一言書けばそれでよかったのですが、当時の同盟条約の国際法上の根拠を作るために「集団的自衛の固有の権利を」と書いたということであって、この経緯にかんがみれば、すべての国がともに国家として持っておる自然権と当時はみんな考えていたのではないかと思います。
さらに、今、本間参考人のお話ですけれども、私がこの集団的自衛権と個別的自衛権というものを考えた場合に、実はその二つを区別し、これがどちらかを行使できるできないという議論をし、そのような扱い方を有権解釈としてしているのは世界の中で日本だけだと思います。
例えば、アフガニスタン戦争というのは、御承知だと思いますが、これは、アメリカは国連憲章第五十一条に言う個別的自衛権を行使してアフガニスタン戦争を行い、国連安保理決議はありません。一方、NATO諸国は、同盟国アメリカが個別的自衛権を行使することを容認して、同盟国として集団的自衛権を行使してこの活動に同調したわけであって、その場合、アメリカが個別的自衛権を行使してアフガニスタン戦争をやるということをNATO諸国はすべて認めて集団的自衛権を行使して参加したわけで、その意味において、本間参考人のお言葉のように、アメリカだけがこの個別自衛権をこういう形で行使、解釈しているということは、必ずしもそうであるかどうか、私には少し分からないところです。
私は国際法の専門家ではないんですが、明らかに、世界の中で双方を区別して議論している国は多いのですが、どちらかだけを行使できないという区別をしているのは日本だけだと、このように解釈しています。そして、それは国際法上の解釈として不自然ではないかと考えます。
舛
舛添要一#14
○舛添要一君 今、本間参考人の意見との比較が出ましたけれども、本間参考人にお伺いしますけれども、そうすると、今の森本参考人おっしゃったようなアフガンの例なんかを見ましても、冷戦は終わったんですけれども、国連憲章第五十三条のこの地域的取決めと強制行動、これ事実上、有名無実って、これなくても何でもやれると、集団的自衛権という概念を持ってくればということになりますね。それ、どうお考えですか。
この発言だけを見る →本
本間浩#15
○参考人(本間浩君) それは先生がおっしゃるとおりだと思います。
その意味で、国連憲章五十三条のその地域的取決めが、国連の許可の下に活動できる、行動できるというこの原則について、十分まだ分析が行われていない、そしてプラクティスも重ねられていない、そういう状況にあるんだと思います。
そのことは、これまで、特にアメリカが国連の許可を受けない形で武力を行使するということをずっとこれまで続けてきた、そういう状況の中でその五十三条を持ち出すということは、アメリカにとって自分で自分を制約することになりかねない。そういう点があるから、これまでこの五十三条についてなかなか議論になってこなかったんだと思います。
これからは、特に冷戦後の国際社会を考える場合に、この五十三条をどういうふうに活用していくかということは、これからの国連の存在意義を高めるという意味でも一層重要な問題になってくると思います。
この発言だけを見る →その意味で、国連憲章五十三条のその地域的取決めが、国連の許可の下に活動できる、行動できるというこの原則について、十分まだ分析が行われていない、そしてプラクティスも重ねられていない、そういう状況にあるんだと思います。
そのことは、これまで、特にアメリカが国連の許可を受けない形で武力を行使するということをずっとこれまで続けてきた、そういう状況の中でその五十三条を持ち出すということは、アメリカにとって自分で自分を制約することになりかねない。そういう点があるから、これまでこの五十三条についてなかなか議論になってこなかったんだと思います。
これからは、特に冷戦後の国際社会を考える場合に、この五十三条をどういうふうに活用していくかということは、これからの国連の存在意義を高めるという意味でも一層重要な問題になってくると思います。
舛
舛添要一#16
○舛添要一君 続けて本間参考人にお伺いしますけれども、やっぱりそこで、そのアライアンスというか同盟とは大体何だろうかということが問題になってくると思いますけれども、五十一条、五十二条、五十三条、国連憲章、この辺りはリージョナルアレンジメント、地域的取決めということを言っているわけですけれども、要するに、国連軍、最終的なアルティマレシオを持った国連軍というのはあればいいわけです。それができていない。そのときに、リージョナルアレンジメントも働かない、そうすると、同盟しかないじゃないかと。
それで、先ほど本間参考人おっしゃったように、今のような状況では日米同盟に頼るしかないということをおっしゃいましたけれども、これはもう純理論的に言うと、それならば現実的に日米安保を認めるんならばそれでいいんですけれども、本間参考人のずっと解釈でいくと、要するに日米安保というのは憲法違反になりませんか、純法理的に言うと。
この発言だけを見る →それで、先ほど本間参考人おっしゃったように、今のような状況では日米同盟に頼るしかないということをおっしゃいましたけれども、これはもう純理論的に言うと、それならば現実的に日米安保を認めるんならばそれでいいんですけれども、本間参考人のずっと解釈でいくと、要するに日米安保というのは憲法違反になりませんか、純法理的に言うと。
本
本間浩#17
○参考人(本間浩君) 確かに憲法違反の可能性ないではないと思います。
ただ、憲法違反かどうかということを議論している間にも日本が武力攻撃を受けるかもしれない、特に新しい形の武力行使として国際テロリストの活動がこの日本に及ぶかもしれない、そういう状況においては、一種の自衛行為として日米安保の存在を、その意味で、その限られた意味で暫定的に認めていくという現実的な選択を取らざるを得ない、私はそういうふうに考えます。
この発言だけを見る →ただ、憲法違反かどうかということを議論している間にも日本が武力攻撃を受けるかもしれない、特に新しい形の武力行使として国際テロリストの活動がこの日本に及ぶかもしれない、そういう状況においては、一種の自衛行為として日米安保の存在を、その意味で、その限られた意味で暫定的に認めていくという現実的な選択を取らざるを得ない、私はそういうふうに考えます。
舛
舛添要一#18
○舛添要一君 そうしますと、結局は、歴史的考察、法理論的考察はあるんですけれども、現実的な政策判断でいろんなことを、新しい政策や同盟関係を結ぶことはできるということになるわけで、そうしますと、例えばそれを憲法改正という方向に持っていくときのハードルが高いのか低いのか非常に分かりにくくなると思うんですけれども、改めて本間参考人、そこはどういうふうにお考えですか。
この発言だけを見る →本
本間浩#19
○参考人(本間浩君) 私は、憲法九条、そしてその憲法九条についての政府の伝統的解釈、これが、日米安保条約を現実的選択として認める際にどの範囲で認めるか、逆に言うとどの範囲から認めないのか、そういうことを考える上の基準を確定する上で効用を持っていると、そういうふうに思います。ですから、その意味で、憲法九条を改正する必要はありませんし、そして、この政府の伝統的解釈、これにも問題があるんですけれども、原則的には維持すべきであると、私はそう考えます。
この発言だけを見る →舛
舛添要一#20
○舛添要一君 森本参考人にお伺いいたしますけれども、仮に憲法改正をしなくても、解釈を、政府の解釈を変えて、日本国が集団的自衛権を保有しかつそれを行使する権利があるというふうに変えた上で、要するに、これまでPKOとか周辺事態法、それからイラク特措法と次々と個別的な法律で対応してきましたけれども、恒久的な法律を体系的に作るべきであると、私は例えばそういうふうに考えるんですけれども、その意見に対していかがお考えでしょうか。
この発言だけを見る →森
森本敏#21
○参考人(森本敏君) 御指摘のように、冷戦が終わった後の各種の危険とかリスクに対応するために、従来、日本の領域の中、それから安保条約で認められた領域、すなわち具体的に言うと安保条約第六条の考えている領域以外の、つまりそれを超える地域での国際的な協力については日米安保条約では対応できないわけですから、したがってその領域の外に自衛隊を活動させるためには国内法上の根拠が要ることは明らかで、したがっていろいろな国内法、例えば、PKOについてはPKO法、あるいは国際援助隊法等いろんな法律ができ、それからさらに、二〇〇一年のテロ特措法によってインド洋に、そして昨年のイラク特別措置法によってイラク及びその周辺に自衛隊をこうやって活動させている。
この法律を、事態が起こるたびにその都度立法の措置をするということになると二つの問題が起きます。
一つは、それだけ時間が遅れ、対応が遅れる。それからもう一つは、法律そのものの制定のたびに手続その他、部隊の任務、あるいは持っていくべきいろいろな装備、指揮関係等をその都度法律の中で新しく決めなければならないということになり、もしその基準となる法体系ができており、政府が政策判断をすれば一つの法律の枠組みの中で派遣させることができるのであれば、むしろ時間的には直ちに対応するという即応の体制が取れるということのみならず、自衛隊がその法に従って日ごろから訓練を行い、装備を整え、いろいろな体系が取れるという利便性があるのではないか考えます。
したがって、一般に言われているような恒久法その他の基準となる法律を作る必要があると考えますが、その際二つのことを考えないといけないと思います。一体その基準となる対象は何かということです。自衛隊を単に領域外において活動させるための基準を作るのであれば、一体現在の自衛隊法を改正するという手段によってなぜできないのかという問題が出ます。したがって、これは恒久法というより自衛隊法改正、抜本的な改正、つまり任務を含む抜本的な改正という問題でなぜ処理できないのかと。そうではなく、自衛隊の領域外における活動を含む国としてのトータルな国際協力、国際貢献の基準を作るための法というのであればそれは自衛隊法の改正ではできないわけで、もう少し広い範囲と広い領域を持つ基準法ということになりましょうから、その場合は恐らく何らかの基準となる法律というものが必要なんだろうと思います。
いずれにしても、その法律を制定するときに我々が考えないといけないことは、一つは、そのようなリスクを負って領域外に自衛隊を出すことに係る日本が追求すべき国益とは何かということが明確でなければならず、第二に、自衛隊をこのように海外に展開させるということが日本の防衛の在り方との関係においてどういう意味を持っているかということです。
我が国憲法の中で、日本を守るため必要最小限度の防衛力を我が国は持っていて、それを今やゴラン高原、東チモール、そしてインド洋、イラク、それでとどまらないと私は思いますが、このように領域外で活動する自衛隊のありようとその防衛力は、現在の防衛大綱の中では予期せぬ事態だと思います。このような防衛力というものを現在の大綱はそもそも予定し、予想し、防衛力を整備してきたのかというと、私は必ずしもそうではないんだろうと思うんです。したがって、我が国の防衛の在り方とは一体何なのかと。この二つを追求し、その基準を明確にした上で法整備を進めていくという必要があるのではないかと考えます。
以上でございます。
この発言だけを見る →この法律を、事態が起こるたびにその都度立法の措置をするということになると二つの問題が起きます。
一つは、それだけ時間が遅れ、対応が遅れる。それからもう一つは、法律そのものの制定のたびに手続その他、部隊の任務、あるいは持っていくべきいろいろな装備、指揮関係等をその都度法律の中で新しく決めなければならないということになり、もしその基準となる法体系ができており、政府が政策判断をすれば一つの法律の枠組みの中で派遣させることができるのであれば、むしろ時間的には直ちに対応するという即応の体制が取れるということのみならず、自衛隊がその法に従って日ごろから訓練を行い、装備を整え、いろいろな体系が取れるという利便性があるのではないか考えます。
したがって、一般に言われているような恒久法その他の基準となる法律を作る必要があると考えますが、その際二つのことを考えないといけないと思います。一体その基準となる対象は何かということです。自衛隊を単に領域外において活動させるための基準を作るのであれば、一体現在の自衛隊法を改正するという手段によってなぜできないのかという問題が出ます。したがって、これは恒久法というより自衛隊法改正、抜本的な改正、つまり任務を含む抜本的な改正という問題でなぜ処理できないのかと。そうではなく、自衛隊の領域外における活動を含む国としてのトータルな国際協力、国際貢献の基準を作るための法というのであればそれは自衛隊法の改正ではできないわけで、もう少し広い範囲と広い領域を持つ基準法ということになりましょうから、その場合は恐らく何らかの基準となる法律というものが必要なんだろうと思います。
いずれにしても、その法律を制定するときに我々が考えないといけないことは、一つは、そのようなリスクを負って領域外に自衛隊を出すことに係る日本が追求すべき国益とは何かということが明確でなければならず、第二に、自衛隊をこのように海外に展開させるということが日本の防衛の在り方との関係においてどういう意味を持っているかということです。
我が国憲法の中で、日本を守るため必要最小限度の防衛力を我が国は持っていて、それを今やゴラン高原、東チモール、そしてインド洋、イラク、それでとどまらないと私は思いますが、このように領域外で活動する自衛隊のありようとその防衛力は、現在の防衛大綱の中では予期せぬ事態だと思います。このような防衛力というものを現在の大綱はそもそも予定し、予想し、防衛力を整備してきたのかというと、私は必ずしもそうではないんだろうと思うんです。したがって、我が国の防衛の在り方とは一体何なのかと。この二つを追求し、その基準を明確にした上で法整備を進めていくという必要があるのではないかと考えます。
以上でございます。
舛
舛添要一#22
○舛添要一君 最後に、豊下参考人にお伺いいたします。
先ほど予防戦争論を、予防戦争的になっているんじゃないかと、自衛権がブッシュ・ドクトリンで非常に拡大されたんじゃないかとおっしゃった。八一年のイスラエルのイラク原発攻撃の例も出されましたけれども、やっぱりこれは二〇〇一年の九月十一日の同時テロ、多発テロへの影響が非常に大きくて、いわゆるローインテンシティー・ウオーフェアというか、テロリズムというか、こういう現実の変化で、ある意味で自衛権の拡大解釈みたいなところにいったんだろうと思います。
そういう意味で、原則的なことはありながら、現実の国際情勢の変化というものにかなり影響されざるを得ない、どっかでそこは妥協点を求めざるを得ないのかなと、そういう感じがしていますけれども、いかがでしょうか。
この発言だけを見る →先ほど予防戦争論を、予防戦争的になっているんじゃないかと、自衛権がブッシュ・ドクトリンで非常に拡大されたんじゃないかとおっしゃった。八一年のイスラエルのイラク原発攻撃の例も出されましたけれども、やっぱりこれは二〇〇一年の九月十一日の同時テロ、多発テロへの影響が非常に大きくて、いわゆるローインテンシティー・ウオーフェアというか、テロリズムというか、こういう現実の変化で、ある意味で自衛権の拡大解釈みたいなところにいったんだろうと思います。
そういう意味で、原則的なことはありながら、現実の国際情勢の変化というものにかなり影響されざるを得ない、どっかでそこは妥協点を求めざるを得ないのかなと、そういう感じがしていますけれども、いかがでしょうか。
豊
豊下楢彦#23
○参考人(豊下楢彦君) おっしゃることは分かりますけれども、先ほど申しましたように、国連加盟国全体がその論理を取っていけば国際的アナーキーになると思うんですね。それから、今よろしいですか、二十分ですけれども。
それで、私は、九月十一日の場合は非国家的アクターによる攻撃なものですから、自衛権の発動についてもいろいろ国際法学者で議論ありました。しかし、いずれにしましても、私は今、集団的自衛権を論じる今日的意味はないんじゃないかと思う。
というのは、集団的自衛権というのは国家と国家の間の戦争を前提にしてきたわけであって、だから、AがBに対して攻撃を加え、そしてBと密接な関係にあるCがBを助けるためにAと戦う、Bをアメリカとし、Cを日本とした場合に、今果たしてAという国家があるのかということなんですね。アメリカに対して国家として武力攻撃を掛ける国家が今あるならばリアリティーありますけれども、現実にはない。しかも、今仮に九月十一日のようなことが再び起こったとしても、当時はタリバンの支配するアフガニスタンという国家がありましたけれども、今は存在しません。そうしますと、アメリカは攻撃しようにもどこも攻撃しようがない。そうしますと、あり得るのはアメリカによる予防戦争だと。
したがって、私は原理的な意味において、今、集団的自衛権を論じるリアリティーは実はないんだというふうに考えております。
この発言だけを見る →それで、私は、九月十一日の場合は非国家的アクターによる攻撃なものですから、自衛権の発動についてもいろいろ国際法学者で議論ありました。しかし、いずれにしましても、私は今、集団的自衛権を論じる今日的意味はないんじゃないかと思う。
というのは、集団的自衛権というのは国家と国家の間の戦争を前提にしてきたわけであって、だから、AがBに対して攻撃を加え、そしてBと密接な関係にあるCがBを助けるためにAと戦う、Bをアメリカとし、Cを日本とした場合に、今果たしてAという国家があるのかということなんですね。アメリカに対して国家として武力攻撃を掛ける国家が今あるならばリアリティーありますけれども、現実にはない。しかも、今仮に九月十一日のようなことが再び起こったとしても、当時はタリバンの支配するアフガニスタンという国家がありましたけれども、今は存在しません。そうしますと、アメリカは攻撃しようにもどこも攻撃しようがない。そうしますと、あり得るのはアメリカによる予防戦争だと。
したがって、私は原理的な意味において、今、集団的自衛権を論じるリアリティーは実はないんだというふうに考えております。
舛
上
松
松井孝治#26
○松井孝治君 民主党の松井孝治でございます。
三人の先生方、大変興味深いお話をありがとうございました。
まず、基本的なことを伺いたいと思いますが、豊下参考人と本間参考人に伺いたいんですが、現在の自衛隊の存在あるいはその活動実態を踏まえて、これは森本参考人は既に御発言がございましたが、憲法第九条第二項というものと現実の自衛隊の存在及び活動というのは整合的であると考えられますか。あるいは、質問を変えれば、憲法第九条二項違反の実態が現実に起こっているとは考えられませんか。
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まず、基本的なことを伺いたいと思いますが、豊下参考人と本間参考人に伺いたいんですが、現在の自衛隊の存在あるいはその活動実態を踏まえて、これは森本参考人は既に御発言がございましたが、憲法第九条第二項というものと現実の自衛隊の存在及び活動というのは整合的であると考えられますか。あるいは、質問を変えれば、憲法第九条二項違反の実態が現実に起こっているとは考えられませんか。
上
松
豊
豊下楢彦#29
○参考人(豊下楢彦君) 自衛隊がいわゆる合憲か違憲かという議論でございますけれども、私は、いわゆる芦田修正によって解釈としては合憲という解釈が取れるかもしれませんけれども、私は、先ほども出ておりましたように、疑義を残さないために、個別的自衛権ということのために軍隊を持つというふうな修正はあってもいいと思いますけれども。その際は、前提条件として、それこそ侵略戦争をやらないとか、核を含めた大量破壊兵器を持たないとか、非常に明確な歯止めを持った憲法を定める必要があるんじゃないかと。
その際に、じゃ集団的自衛権をどうするかと。先ほど言いましたように、集団的自衛権の根拠、リアリティーというものは私はなくなっているという判断ですから、それは必要ないということでございます。
この発言だけを見る →その際に、じゃ集団的自衛権をどうするかと。先ほど言いましたように、集団的自衛権の根拠、リアリティーというものは私はなくなっているという判断ですから、それは必要ないということでございます。