暉峻淑子の発言 (憲法調査会公聴会)
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○暉峻公述人 暉峻でございます。
きょうは、お招きいただきまして、ありがとうございました。
実は、ここにお招きいただいたときに、私の研究仲間の人たちにもそのことを言ったんですけれども、その人たちは、やめなさいと。世間の評判によると、甚だふまじめで、議員の人たちが私語をしょっちゅうしたり、出たり入ったり、欠席も多くて、どうもまじめに聞いてくださらないという評判だ、そんなところに行っても仕方がないから、自分は頼まれたんだけれども断った、何でそんなところへ行くんですかと言われたんですけれども、私は、たとえそうであっても、私の意見を聞いてくださる方があるということで、きょうは喜んで伺いました。でも、きょうは、その評判に比べると、皆様とてもまじめに、欠席はありますけれども、聞いてくださっているので、とてもありがたいことだと思っています。
私は、次の二点に絞って意見を述べたいと思っております。
私の専門分野は国民生活に関する調査研究ですので、まず第一には、憲法九条が国民生活とどのようなかかわりを持っているか、九条がなし崩しになることによって国民生活にどのような変化が起こりつつあるかということについてお話しします。
第二点は、私が十三年間かかわっている、紛争下での難民、孤児、病人、貧困者を救援しているNGOの活動の中で、国際貢献について私がどのように考え続けているかということについてお話ししたいと思っています。
まず第一点について言えば、現在私たちが十分とは言えないにしても享受している人権も環境も福祉も民主主義も言論の自由も、平和憲法がなければあり得なかったということです。
憲法十条から四十条までの三十一カ条にわたる人権規定。憲法十一条の基本的人権、十九条の思想、良心の自由、二十四条の家庭生活における個人の尊厳と両性の平等、二十五条の国民の生存権など、私たちの日々の暮らしを支えている人権規定は、すべて九条の規範と表裏一体となっているものだと思います。
こう言うと、すぐに、それは一国平和主義だという声が聞こえてきそうですが、そのような御心配は要りません。国民の人権と福祉のレベルが高い国ほど、例えば北欧の国々の国際援助の国内総生産に占める割合は、日本よりもはるかに高く、公的な資料で、日本はGDP比〇・二三、デンマーク一・〇三、スウェーデン、ノルウェーともに〇・八一という状況で、NGOの活動も、私は国際的な舞台でNGOの人たちとよく会いますけれども、本当に質が高いです。北欧の政治家の国際紛争調停能力、これは政治家でも官僚でもそうですけれども、外交力の能力は国際的に高く評価されて、また信頼もされております。ブルントラントさんとかパルメさんとか、皆さん方もよく御存じだと思います。そういう能力は日本の比ではないでしょう。
私はむしろ、自分の国で平和と人権を尊重している国こそが、外国への本当の意味の人道援助ができる国であると思っています。
現在の日本社会のように、社会格差と差別思想がだんだん広がってきて、いわゆる勝ち組、負け組の世界に分裂し、国の政策も、税制や補助金やその他でそれを推し進める傾向にあります。労働の世界では、低賃金で不安定な労働。社会保険もつかないし社内研修による能力向上の機会も与えられないフリーターと正規社員との格差が広がっています。このフリーターが現在もう五百万人を超えているということは御存じですよね。政府の審議会や協議会の座長を務める財界のある方は、それを鉛筆のしんと周りの木に例えて、しんはエリート社員で大切にされるが、木はパートや使い捨てのフリーターだというふうに公に言っておられます。
政府の役割は、新自由主義の市場が生んだそれらの格差に自立援助をして、非人間的な格差や差別を是正していくことにあると思うのですけれども、失業者、不安定労働者、ホームレス、それから、もう三万四千に達するという自殺者の数、こういう傾向が固定化していっていることに対しても大変冷淡であると私は考えております。
生活の土台がこういうふうに破壊されていくことが実は経済の不況からの脱出を阻んでいるのですけれども、持続できない目先の利益を求めて、大きな損という対応しかとれていないのが日本の現状であると考えております。経済の長期的な発展も国際貢献も、すべての基礎は人権の尊重に由来しているのに、国内の人権意識が衰えていくのは、人権に逆行する軍事化路線が強くなっていっているからではないでしょうか。
こういうことを言いますと、よく若い方が、もう戦前の人の話は結構というふうに言われるのですけれども、例えばマラリアにしても何にしても、一遍病気になった人は、その病気が再発するときには、あっ、また始まったとすごく敏感にわかるものです。私は戦前の経験も持っていますので、パターンこそ違いますけれども、やはり、あっ、また始まりつつあるなという感じを持っています。
以上述べたことだけでなくて、子供の人間としての自然で豊かな人格全体の発達を助ける教育の世界にまで短期的な市場の競争原理が持ち込まれ、子供の生活をゆとりのない苦しいものにしているだけでなく、バランスのとれた人格の円満な発達を妨げています。
今、子供たちも若者たちも人間関係をつくることがすごく苦手ですね。処理能力はあるんです。特にエリートと言われる人たちは、ばりばりと処理はします。しかし、考える力や創造性に欠ける子供が多いことは国際的にも知られているところです。これは、PISAという、十五歳の子供の国際比較のテストがありました。このときに、日本の子供は計算力もあるし法則も覚えているんだけれども、考える力、創造性というものがないということを、きちんと分析の結果、言われています。
それなのに、今は、学校間競争をあおったり、一斉テストをしてその結果を公表したりしようということが本当の子供の能力を開花させることではないのに、これも、もう目先の何か結果を求めるわけですね。この競争の息苦しさへの批判を封じ込めるように、管理主義的な道徳とか愛国心が上から押しつけられています。
私はもう四十年も教師をしておりますので、大学に入ってくる前の学校教育も常に見学をしたり教師の意見を聞いたり、親との集まりに出席しているわけですけれども、序列づけ、競争によって人間という一つの人格を順番づけにすると、子供は攻撃性を非常に強く持つようになります。
それから、おまえは成績が悪いと言われた子、例えば習熟度別学級の一番下のクラスに入れられた子、こういう子は早くから挫折感を持って、ああ、どうせ自分は頭が悪いんだ、もう何をしてもどうせだめなんだと、それでいよいよだめになっていくんですね。世界の教育者の会議で、子供のときにおまえはだめだと思わされた子供はもう一生取り返せないというのは、世界の教育者の認識です。まれに何かの体験で自信を取り戻すということはないとは言えないんですけれども、一般的には、だめ人間をつくっていってしまうんですね。
それなのに、今は、学校間競争があったり、あからさまに、例えばこれも文部省の教育課程審議会の会長もされたと思うんですけれども、ある文学者の有名な方が、できぬ者はできぬままで結構、戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた努力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける、百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます、限りなくできない非才、無才にはせめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんですというようなことを公言されておりますね。私は、教育者として、こういう社会になったらこれはもうおしまいだなというふうに思っています。
それと歩調を合わせるように、批判を逆に封じ込めて、愛国心の強制や、東京都の教育に見られるような上からの強権的な統制、これは民主主義や人権に反するだけでなく、何か軍国主義的な歩調を感じさせて、九条を邪魔者扱いにしている流れと改憲を声高に言われる方の思想と、どこかでつながっているんじゃないのかしらと私は思って見ております。
このようなことを述べるのは、実は、自民党の憲法改正プロジェクトチームの論点整理に見られますように、お上が決めて国民を従わせるという、何かそういう底流が非常に強く流れている、つまり、反国民主権の考えが流れているように思えるからです。もっとも、これは論点整理でありまして、自民党が結果的にそうするとおっしゃっているわけではないのですけれども、私は、率直に言わせていただければ、この論点整理を読んだとき、ええ、こういう考えの人たちが憲法改正、九条見直しを唱えているのという、本当に大きな驚きを感じました。これは私だけではない、広範囲な人たちが言っていることです。
私は、文学も音楽も、あるいは家計簿を研究する生活研究も教育者の集まりにも、非常に幅広くその中に参加している人間ですけれども、例えば一例を挙げますと、「見直すべき規定」として、「婚姻・家族における両性平等の規定」、憲法二十四条ですが、これは「家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。」とはっきり書かれております。両性の平等を見直すべきであるなんというのは、ちょっと、本気かなと思うくらいです。
日本は、既に国連の女子差別撤廃条約を一九八五年に批准して、国内法もこれに適合するように改めていますし、一九九九年、男女共同参画社会基本法によって、今、性差というものが歴史的、社会的にどんなふうにつくり上げられてきたのかわからない、これをきちんと研究しましょうという見直しですね、これも合意されています。
日本で憲法を改正して両性の平等をこれから見直しましょうなんということは、性差別のない社会、性差別だけでなくて、人種差別でもあらゆる差別がない方がいいということを願っている私たちにとっても、それから、国際人権法の最も重要な柱として、国際人権法の中でも根本的な地位を占めている女性差別撤廃、今度のような両性の平等を見直すなんということを言われると、国際人権法と根本的な衝突をすることになります。今や人権規定はグローバルなものとして国際的に認められていますので、このような両性の平等を見直すという提案そのものがもう時代錯誤的なのです。この提案は、最初、読売新聞が行ったものであったと私は記憶しております。
皆様方、日常の御生活の中でも、それぞれが愛情と信頼を持って家族をつくるからこそ、家族でしょう。ただ共同体という、家族は共同体だというその形だけを保存しておくために、例えば、今ドメスティック・バイオレンスという家庭内暴力の話なども出ていますけれども、そういうことは何か隠しておくというか、あるいは昔の家制度みたいに、ともかく女は、まあ女はとここには書いてありませんけれども、一方が一方に文句なく従う。
でも、時代を見てください。昔、妻は所得もなかったから、そうするより仕方がなかったかもしれません。あるいは、天皇制を頂点とする家制度というのがあったので、それにがんじがらめに縛られていた。今度、お札に樋口一葉さんが出ていますけれども、皆さん、昔のことを知りたかったら、樋口一葉の小説の一つや二つは読んでください。その当時のことが生々しく書かれています。
私は、やはり家族が大事、家族がいいというのは、そこにそれぞれの自立した人間、人権を保障された人間がいて、男も女も、その人たちが自分たちで本当に愛情と信頼を持っていい家族をつくっていきたいと思うからこそ家族なんですね。何かこの論点整理を見ていると、こんなことまで言わなきゃいけないのかという感じです。
この両性の平等の見直しと並んで提案されているのが、「公共の福祉」を「公共の利益」と言いかえるものです。これもたしか読売に出ていたような気がしますけれども。
公共の福祉というのは実は個人の福祉を増進させるものであって、両者は対立関係にあるものではありません。これは福祉の歴史をどうぞ、もう時間がありませんのでここでは言えませんけれども、ちょっと見てくださればわかるものです。何が公共の福祉であるかは、一般の市民が参加して、討議、話し合いによって決めていくものです。主導権は市民にあります。福祉は人権のもう一つの表現であり、たとえ利益がなくても、損になっても、例えば環境問題のように、守られるべきものなのです。公共の利益と言われると、短期的な視点から判断されるだけでなく、まあ利益というのは常に短期的になりがちなんですけれども、だれにとっての利益か、だれが何を公共の利益と決めるのか。権力に都合のいい判断で公共になって、強制立ち退きが命じられたり、軍事基地がつくられたり、幾らでも拡大解釈されることは、沖縄や成田の例が既に示していると思います。
これまでに挙げた例からもわかるように、自民党の論点整理が示しているのは、権力が決め、国民が従うという、国民主権の否定であるような気がします。
戦後、平和とともに国民が営々と築き上げてきた人権と民主主義は一体どうなっているの。二十四条の見直しなど絶対に許せないというのが、つい先週、私の地域で集まった、ある詩人をしのぶ会での男女を問わない発言でした。
自民党の中には、かつて婦人少年局長を務められて、女子差別撤廃の批准に努力された方もいらっしゃいますし、世界女性会議で女子差別撤廃を推進する発言をされた方もあります。世界女性会議のナイロビ会議に日本政府代表としてその女性の方は出席され、その後、法務大臣にもなられています。こういう方たちがこの論点整理に対してどんなお考えをお持ちなのか。これも私は、どうも不思議な気がしてなりません。
このような人権意識の後退は、改憲、つまり九条見直しの思想と深くつながっています。今、日本が世界有数の軍事力を持ち、しかもアメリカの軍事力と一体化されつつあるために、それを押しとどめるだけの規範力を日本の九条は発揮できていません。しかし、国民は、軍事的な価値が社会の最高の価値だとは認めておらず、平和、人権、民主主義の持つ基本的な価値を軍事的な価値よりも高度な価値として認めています。それは、九条が持つ価値観が国民の中にまだ根を張って残り続けているからでしょう。
九条が空洞化しているといっても、もし日本が九条を持っていなかったら、日本は好戦的なアイデンティティーを持つ強大な軍事国家とみなされて、反省のない国として、韓国を初めとする近隣諸国の日本に対する憎しみは解消できず、日米の産軍複合企業は武器の売買で利益を上げ、マスメディアは相変わらず不十分にしか批判的な意見を持ち得ず、独立性も持てないままになっただろうというのは、日本の憲法を研究しているアメリカの憲法学者の本に書いてあることです。
九条は空洞化したと言うけれども、本当に空洞化していたら、改憲論者はこんなに躍起になって憲法改正を叫んだでしょうか。九条は、アメリカと一緒にどこでも戦争できるということを阻止しているからこそ邪魔者扱いにされているのだと思います。
国民の生活の福祉を支える人権文化は、武力による軍事文化とは相入れません。
軍事文化は情報を秘匿しますが、民主主義は、公の持つ情報を公開させて、国民自身が判断し、自己決定権を持つことを国民主権だと考えています。軍事文化は、上からの命令を批判することを許さず、すべての決定権を上が握って、下に命令します。しかし、民主主義の人権文化は、個人の尊厳が認められ、相互に自由な討議や話し合いによって公共の場や共通規則をつくっていくという過程を大事にしています。個人が政治にも社会にも参加することを促進しています。軍事文化は、武力で勝つことによって、あるいは人を殺すことによって物事を解決しますが、人権文化は暴力を否定し、人の命を大切にする福祉社会をつくろうとしています。九条はその結実なのです。
民主主義は、平等に向けて絶えず努力して、差別を除く人間社会をつくろうとしています。力によって勝ち負けを決め、力によって物事を解決しようとする軍事文化と、競争の勝者が優位に立って支配権を握る弱肉強食の社会には、どこか共通性があるのじゃないでしょうか。
自分の子供が殺されるのは嫌、だけれども、イラクの子が殺されるのはやむを得ない。十万人の殺されたイラク人の七割が女性と子供です。いまだにイラク武力攻撃を支持する人が改憲を唱えているのを見ると、何か心配です。
自分が地雷で足を失うのは嫌、だけれども、地雷も武器の輸出もいい。国民には厳しく銃の取引を規制しているのに、何で大企業なら武器の商売をしてもいいのでしょうか。私の経験でも、地雷や銃が発見されるたびに、救援の現場では、国際的なNGOの人たちが、一体この武器はどこの国で生産されたのかといつも問題にし、記録していました。
アメリカが空爆を始めたときに、アメリカのジャーナリストたちはその説明をアメリカの当局者から聞いたわけですが、そのときに、ただ一人、初老の女性のヘレン・トーマスさんという女性記者が次のように質問しました。説明は伺いました、でも、なぜ罪もない子供が殺されなければならないのですかと。政府はだれもそれに答えられなかったと聞いています。この問いこそ、本当に根本的な人間としての問いであると私は思っています。
自衛隊にも、御苦労さまという言葉で言っていますけれども、自衛隊は死んでもいいんだ、私は死にたくない、だけれども、自衛隊の人は死傷者が出てもやむを得ない。これも差別意識ではないでしょうか。
私は、もうこれで時間がないので、あとは御質問のときにお答えしたいと思いますが、このような差別というものは、戦争、武力というものと必ずついて回るものです。それゆえに、私は、九条の改定にも反対ですし、こういう差別意識を持たれる武力というものがいずれシビリアンコントロールを抜け出して大きくなっていくのではないかという心配も非常に大きく持っております。
以上で私の話を終わります。(拍手)