憲法調査会公聴会
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会
会議録情報#0
平成十六年十一月十一日(木曜日)
午前九時二分開議
出席委員
会長 中山 太郎君
幹事 近藤 基彦君 幹事 福田 康夫君
幹事 船田 元君 幹事 古屋 圭司君
幹事 保岡 興治君 幹事 枝野 幸男君
幹事 中川 正春君 幹事 山花 郁夫君
幹事 赤松 正雄君
伊藤 公介君 大前 繁雄君
大村 秀章君 加藤 勝信君
河野 太郎君 坂本 剛二君
柴山 昌彦君 渡海紀三朗君
永岡 洋治君 野田 毅君
葉梨 康弘君 馳 浩君
平井 卓也君 平沼 赳夫君
二田 孝治君 松野 博一君
松宮 勲君 三原 朝彦君
森山 眞弓君 柳本 卓治君
渡辺 博道君 青木 愛君
稲見 哲男君 大出 彰君
鹿野 道彦君 鈴木 克昌君
園田 康博君 田中眞紀子君
辻 惠君 中根 康浩君
長島 昭久君 計屋 圭宏君
古川 元久君 馬淵 澄夫君
笠 浩史君 和田 隆志君
渡部 恒三君 河合 正智君
佐藤 茂樹君 福島 豊君
佐々木憲昭君 山口 富男君
土井たか子君 山本喜代宏君
…………………………………
公述人
(弁護士)
(気候ネットワーク代表) 浅岡 美恵君
公述人
(社団法人日本医師会会長) 植松 治雄君
公述人
(埼玉大学名誉教授) 暉峻 淑子君
公述人
(元内閣総理大臣) 中曽根康弘君
公述人
(元内閣総理大臣) 宮澤 喜一君
公述人
(元滋賀県知事)
(元大蔵大臣) 武村 正義君
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
—————————————
委員の異動
十一月十一日
辞任 補欠選任
坂本 剛二君 馳 浩君
永岡 洋治君 大前 繁雄君
平沼 赳夫君 柳本 卓治君
太田 昭宏君 河合 正智君
山口 富男君 佐々木憲昭君
土井たか子君 山本喜代宏君
同日
辞任 補欠選任
大前 繁雄君 永岡 洋治君
馳 浩君 坂本 剛二君
柳本 卓治君 平沼 赳夫君
河合 正智君 太田 昭宏君
佐々木憲昭君 山口 富男君
山本喜代宏君 土井たか子君
—————————————
本日の公聴会で意見を聞いた案件
日本国憲法に関する件
————◇—————
この発言だけを見る →午前九時二分開議
出席委員
会長 中山 太郎君
幹事 近藤 基彦君 幹事 福田 康夫君
幹事 船田 元君 幹事 古屋 圭司君
幹事 保岡 興治君 幹事 枝野 幸男君
幹事 中川 正春君 幹事 山花 郁夫君
幹事 赤松 正雄君
伊藤 公介君 大前 繁雄君
大村 秀章君 加藤 勝信君
河野 太郎君 坂本 剛二君
柴山 昌彦君 渡海紀三朗君
永岡 洋治君 野田 毅君
葉梨 康弘君 馳 浩君
平井 卓也君 平沼 赳夫君
二田 孝治君 松野 博一君
松宮 勲君 三原 朝彦君
森山 眞弓君 柳本 卓治君
渡辺 博道君 青木 愛君
稲見 哲男君 大出 彰君
鹿野 道彦君 鈴木 克昌君
園田 康博君 田中眞紀子君
辻 惠君 中根 康浩君
長島 昭久君 計屋 圭宏君
古川 元久君 馬淵 澄夫君
笠 浩史君 和田 隆志君
渡部 恒三君 河合 正智君
佐藤 茂樹君 福島 豊君
佐々木憲昭君 山口 富男君
土井たか子君 山本喜代宏君
…………………………………
公述人
(弁護士)
(気候ネットワーク代表) 浅岡 美恵君
公述人
(社団法人日本医師会会長) 植松 治雄君
公述人
(埼玉大学名誉教授) 暉峻 淑子君
公述人
(元内閣総理大臣) 中曽根康弘君
公述人
(元内閣総理大臣) 宮澤 喜一君
公述人
(元滋賀県知事)
(元大蔵大臣) 武村 正義君
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
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委員の異動
十一月十一日
辞任 補欠選任
坂本 剛二君 馳 浩君
永岡 洋治君 大前 繁雄君
平沼 赳夫君 柳本 卓治君
太田 昭宏君 河合 正智君
山口 富男君 佐々木憲昭君
土井たか子君 山本喜代宏君
同日
辞任 補欠選任
大前 繁雄君 永岡 洋治君
馳 浩君 坂本 剛二君
柳本 卓治君 平沼 赳夫君
河合 正智君 太田 昭宏君
佐々木憲昭君 山口 富男君
山本喜代宏君 土井たか子君
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本日の公聴会で意見を聞いた案件
日本国憲法に関する件
————◇—————
中
中山太郎#1
○中山会長 これより会議を開きます。
日本国憲法に関する件について公聴会を行います。
この際、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと存じます。
議事の順序について申し上げます。
まず、浅岡公述人、植松公述人、暉峻公述人の順に、お一人二十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、公述人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
御発言は着席のままでお願いいたします。
それでは、まず浅岡公述人、お願いいたします。
この発言だけを見る →日本国憲法に関する件について公聴会を行います。
この際、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと存じます。
議事の順序について申し上げます。
まず、浅岡公述人、植松公述人、暉峻公述人の順に、お一人二十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、公述人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
御発言は着席のままでお願いいたします。
それでは、まず浅岡公述人、お願いいたします。
浅
浅岡美恵#2
○浅岡公述人 本日は、憲法問題につきまして意見を述べる機会をお与えいただきまして、ありがとうございます。
私は、弁護士といたしまして、環境や消費者に係る被害者救済にかかわり、また、近年、地球温暖化の抑止に取り組むNGOの活動に関与してまいりました。その限られた経験からではございますが、特に基本的人権に関する部分を中心といたしまして、その実現と発展を願いまして、意見を申し上げたいと思います。
申し上げるまでもなく、憲法制定以降六十年の経過の中におきまして、我が国及び世界の社会経済状況は大きく変化してまいりました。その過程で、かつては社会的に十分認識されてこなかった幾多の人権問題が浮上いたしまして、権利として確定されてまいりました。
例えば、消費者の権利について見ますと、被害が多発しております中で、今年、十六年に通常国会で、安全が確保され、自主的かつ合理的な選択の機会が確保され、情報及び教育の機会が提供され、意見が消費者政策に反映され、被害が適切かつ迅速に救済されることということが、消費者の権利といたしまして基本法に明記されました。
こうした消費者の権利と申しますものは、米国のケネディ教書によります権利宣言を受けまして、我が国におきましても六〇年代後半から提唱されてまいったものでございますが、今回の基本法改正におきまして一部導入され、消費者団体を権利主体として位置づけていないことなど、なお若干の不十分な点を残しております。立法府におかれましては、これらの権利の具体化をさらにお願いしたいと思っております。
女性問題につきましても、九五年に北京で開かれました世界女性会議のテーマは、女性問題は人権問題であるということでございました。女性であることを理由とする不合理な差別問題は、今も我が国の重要な問題でありますけれども、特に九〇年来、人としての尊厳あるいは自己決定という観点から女性の人権が議論されまして、セクシュアルハラスメントが違法として定着するなど、立法措置がなされてきております。
また、知る権利の具体化としての意思決定に不可欠であります情報への自由なアクセス権が国民の権利として情報公開法に盛り込まれました。今年、その見直し中であります。
他方で、プライバシー権が判例上も認められ、また、このプライバシー権は、私生活をみだりに公開されない権利というものから、自己に関する情報をコントロールする権利ととらえられてきております。今日、高度情報化社会における個人情報保護の効果的な仕組みが懸案となっておるところでございます。
私が弁護士として仕事をしてまいりました三十年余のこの歳月は、社会経済の変化を受けまして、こうした新しい権利が法的に裁判所で整理され、あわせて立法及び行政上の対応がなされてきた時期でございまして、社会や経済のありようと法との関係というものを法律実務を通しまして感銘深く見てまいったところでございます。
時代の変化は加速的でありまして、国際化の影響もより大きくなってまいります。今後とも新たな人権問題が認識されてくることと思います。こうして見ますと、消費者の権利とか環境権やプライバシー、知る権利等々は、憲法に明文がないという意味では新しい人権と言えますけれども、日本の社会においては既に定着した人権、あるいはその途上にあると言えるのではないかと思います。このような立法ないし行政措置が憲法違反であるというような主張は聞いたことがございません。
これら新しい人権とも申すべき権利の憲法上の根拠と申しますと、主として憲法十三条に見出されております。すべて国民は、個人として尊重される、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とするという十三条は、新しい時代に対応した人権を具体化、深化させていくことができる包括的規定でございまして、国民にとっても希望の星であり、頼もしい規定と言えます。
また、憲法二十五条も、今後の国民生活の向上を憲法の上で担保する規定となっております。情報を自由に取得する権利としての知る権利も、明文規定のございます表現の自由の反対形相として根拠づけられております。こうした新しい人権規定を憲法に加える改正をいたしますとしても、これらの条項をなくしたり弱めたりするということは考えられないところでございます。
基本的人権が人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であり、侵すことのできない永久の権利として信託されたものであることを明記いたしました九十七条は、近代憲法の人権規定に共通する性質を言い当てておりますけれども、どの国の人権規定も、憲法が制定されました当時の社会状況を反映していることはやむを得ないところであります。
しかしながら、我が国の憲法規定と今日の憲法改正議論を踏まえて考えましても、これまで申しましたように、現在の憲法は大変先見性があり、時代先行性を有しておりまして、例えば、今環境権を実現するために憲法改正を行う必要があるというようなことではございませんで、むしろ具体的に法律の中でその権利の具体化をしていただきたい。憲法に加えるといたしましても、具体的権利を欠いておりますと、憲法への規定ぶりによりましては、かえって立法府や行政府の裁量を拡大することになりかねないことにも留意していただきたいと思います。
特に御留意いただきたいことは、国民投票への付議に関してでございます。
独占禁止法は、いわゆる抱き合わせ販売を不公正な取引方法の一つに掲げてこれを禁止しておりますところは御案内のとおりでございます。抱き合わせ販売によって、買い手は抱き合わせられた商品の購入を強制され、選択の自由が妨げられることになるからでございます。憲法に関しましても、このようなことに留意する必要があるのではないかと思っております。
憲法に定めます平和主義は、我が国にとりましても国際社会にとりましても大変意義深い規定であると思っております。世論調査におきましても、九条の改正をすることに反対の意見が多いと承知しております。
仮に幾つもの改正項目について国会で三分の二の多数が得られるということがあるといたしまして、そこに何らかの政治的妥協を伴うことがあることが想定されるところです。国会におかれましては、そうした妥協が必要な場面もあるかもしれません。しかしながら、国の基本法である憲法は、そのような政治的妥協によってゆがめられてはならないものだと思います。
憲法改正には国民投票が必要であるというところでありますけれども、そうした観点から、例えばこれから環境権を追加するということと、これに真っ向から矛盾すると思います九条改正問題とを抱き合わせた形で、一括して国民投票に付すというようなことは避けていただきたいと思っております。これは国民の選択の自由が妨げられることになると考えるからであります。
次に、例えば環境権についてどのような権利規定の措置が必要と考えているかについて申し上げたいと思います。
七二年六月、ストックホルムで国連人間環境会議が開かれまして、環境は人間の福祉と基本的人権の享受のために必要不可欠なものであると宣言されました。日本弁護士連合会は、その前の七〇年に、公害問題を環境問題としてとらえまして、公害の未然防止を目的に、人間環境を保全するための環境権を提唱しました。こうした環境に関する従来の法制度や考え方に対して、新しい問題提起をいたしました。その後三十年を経て、私たちが良好な環境を享有する権利を有しているとの認識は広く国民に既に共有されており、争いのないところではないかと思います。
人の生命、健康を保持し、あわせて人間らしい生活を営むことを求めるのは人として基本的な要求でありますけれども、憲法十三条は個の尊重、人格権、幸福追求権をもってこれを認め、社会的な総則的規定でございます二十五条が環境権の社会権的側面を保障するものであるということも、例えば大阪空港訴訟判決等に示されているところであります。
このように、環境権の憲法上の根拠というものは既にございます。むしろ、環境権として包摂される内容は大変広範かつ多様であり、その実現のための方策は、客体や課題によって特徴があること、抽象的権利規定としての憲法の性格を考えますと、良好な環境の保全をいたしますには、法律において権利の具体化、権利の行使方法、権利侵害の判定方法などの緻密化などの立法をお願いしたいところでございます。
例えば環境基本法は、持続可能性を基本理念といたしまして、環境に関する具体的立法の基本的枠組みを示しておりますが、以下に述べる問題点を残していると考えております。
第一に、環境基本法に個人の環境権が明記されていないわけでございます。そうした追加が必要であります。
少し時間が足りませんのではしょらせていただきます。
また、環境基本計画には、環境を、自然環境のみならず、歴史的、社会的、文化的なものととらえまして、景観の継承などを含めて、生産と生活を一体的にとらえていくという視点が盛り込まれておりますけれども、例えば、そのためには、今年制定されました景観法に、地域的、歴史的、文化的景観を享受する権利ということを明記していただくことが必要かと思います。
第二に、環境保全におきます私人の役割、個人の役割を明らかにする具体的な権利といたしまして、差しどめの権利を明記していただきたいと思います。
我が国は、産業優先の負の遺産ともいうべき激甚な公害を経験してまいりました。先般、水俣病に関する最高裁判決がございましたが、公式発見から五十年近く経過しても過去の被害の清算がなされていないということにも驚くべきでございますが、因果関係や過失等の立証責任が被害者に課されているというこの現在の法律制度のもとでは、これらの立証が事実上非常に困難であることから、被害の拡大を容認してきたということを反省しなければなりません。
こうしたことに対しまして、現在の基本法は、国民の責務として、環境への負荷低減への努力や公共自治体、国の施策への協力義務を述べておりますけれども、保全のための権利は書かれておりません。人の生命、健康に被害をもたらす場合だけでなく、生態系や環境の保全等につきましても、これらは社会的共有財産というべきでありますし、一たん破壊されますと取り返しがつかないものでありまして、まさに差しどめの権利を確立することがその保全のかぎであります。
第三に、情報開示請求権を盛り込んでいただきたいと思います。
今日、環境問題ほど透明性の確保と市民参加の必要性が指摘されている領域はないと思います。国民の情報へのアクセスを権利として保障することは、環境保全の政策決定、その実施における市民参加の基盤をなすものでございますが、現在の環境基本法では、国にその努力義務を課しているにすぎません。
情報公開法による情報の開示請求権のみならず、環境基本法や個別法におきまして、国民や環境団体の情報開示請求の権利を盛り込んでいただきたいと思います。例えば、今、京都議定書の目標達成のための政策強化といたしまして、排出量の把握、報告、公表の制度化が焦点となっておるところでございますけれども、このように、知る権利につきましても、具体的権利規定を法律上拡充していくことが立法府の役割と思うところでございます。
第四に、こうした差しどめや情報開示請求権につきましては、環境団体にその権利を付与する立法措置が急務と思います。
消費者政策におきましては、不当な契約条項や不公正な広告につきまして、一定の要件の消費者団体に差しどめを求める訴訟上の権利を付与するための立法措置が、消費者契約法の制定以来懸案となっておりましたけれども、ようやく次の通常国会にも提出されるのではないかと期待しているところでございます。
環境保全につきましても、その利益も破壊の影響も、広範な地域、人々に及び、個人的な対応や行政監視にも限界があります。そうした直接利害関係を持ちます住民や消費者の個別的な授権なくして、違法行為の差しどめや行政に対する積極的作為を求める訴訟を提起する権利、あるいは環境保全政策に対して意見を申し述べ、異議を申し立てる等の権利を法律上保障していくということは、これからの環境保全における実効性を確保していく上で不可欠と思います。
このような権利は、欧米等諸外国では既に定着いたしまして、十全に機能し、大いなる成果を上げているところでございます。
地球環境問題は、近時、新たな地球規模での安全保障問題として位置づけられております。ブッシュ政権が京都議定書から離脱を宣言いたしました直後に、我が国の衆参両院で批准に向けた決議をいただきました。これはその後の日本の批准、議定書の発効に大変重要な役割を果たしたと感謝申し上げております。
温暖化の要因や対策につきましては、公害問題に共通する問題、国民生活、両面がございますけれども、きょうはその詳細は割愛させていただきます。
何よりも、今日の憲法改正の最大の論点は憲法九条についてであると承知しております。現行憲法の解釈上も自衛のための武力行使は否定されておりませんので、侵略行為を意図しない限り改憲を必要としないのではないかと思います。国際協力のための憲法九条改正といいますところは、裏を返せば、自衛以上の武力を行使する、あるいは、侵略と隣り合わせあるいは区別がつかない武力行使をするための憲法改正ではないのかと考えるのが理論的かつ自然ではないかと思うのです。このような改正は慎重にお願いしたいと思います。
環境権は、九条の改正により非常に大きな影響を受けます。戦争は最悪の環境破壊をもたらし、また、私たちの生活環境が、自然環境、人工的環境を問わず、戦争によって乱されるおそれは多大であるからであります。他の人権も同様でございまして、いずれにしましても、問題は九条にとどまらないわけでございます。
このような九条問題と人権規定につきましての問題等を抱き合わせいたしまして、一括して改正案を策定し、国民投票に付すことはすべきでないと考えますということを重ねて申し上げまして、本日の私の意見陳述にかえたいと思います。拍手
この発言だけを見る →私は、弁護士といたしまして、環境や消費者に係る被害者救済にかかわり、また、近年、地球温暖化の抑止に取り組むNGOの活動に関与してまいりました。その限られた経験からではございますが、特に基本的人権に関する部分を中心といたしまして、その実現と発展を願いまして、意見を申し上げたいと思います。
申し上げるまでもなく、憲法制定以降六十年の経過の中におきまして、我が国及び世界の社会経済状況は大きく変化してまいりました。その過程で、かつては社会的に十分認識されてこなかった幾多の人権問題が浮上いたしまして、権利として確定されてまいりました。
例えば、消費者の権利について見ますと、被害が多発しております中で、今年、十六年に通常国会で、安全が確保され、自主的かつ合理的な選択の機会が確保され、情報及び教育の機会が提供され、意見が消費者政策に反映され、被害が適切かつ迅速に救済されることということが、消費者の権利といたしまして基本法に明記されました。
こうした消費者の権利と申しますものは、米国のケネディ教書によります権利宣言を受けまして、我が国におきましても六〇年代後半から提唱されてまいったものでございますが、今回の基本法改正におきまして一部導入され、消費者団体を権利主体として位置づけていないことなど、なお若干の不十分な点を残しております。立法府におかれましては、これらの権利の具体化をさらにお願いしたいと思っております。
女性問題につきましても、九五年に北京で開かれました世界女性会議のテーマは、女性問題は人権問題であるということでございました。女性であることを理由とする不合理な差別問題は、今も我が国の重要な問題でありますけれども、特に九〇年来、人としての尊厳あるいは自己決定という観点から女性の人権が議論されまして、セクシュアルハラスメントが違法として定着するなど、立法措置がなされてきております。
また、知る権利の具体化としての意思決定に不可欠であります情報への自由なアクセス権が国民の権利として情報公開法に盛り込まれました。今年、その見直し中であります。
他方で、プライバシー権が判例上も認められ、また、このプライバシー権は、私生活をみだりに公開されない権利というものから、自己に関する情報をコントロールする権利ととらえられてきております。今日、高度情報化社会における個人情報保護の効果的な仕組みが懸案となっておるところでございます。
私が弁護士として仕事をしてまいりました三十年余のこの歳月は、社会経済の変化を受けまして、こうした新しい権利が法的に裁判所で整理され、あわせて立法及び行政上の対応がなされてきた時期でございまして、社会や経済のありようと法との関係というものを法律実務を通しまして感銘深く見てまいったところでございます。
時代の変化は加速的でありまして、国際化の影響もより大きくなってまいります。今後とも新たな人権問題が認識されてくることと思います。こうして見ますと、消費者の権利とか環境権やプライバシー、知る権利等々は、憲法に明文がないという意味では新しい人権と言えますけれども、日本の社会においては既に定着した人権、あるいはその途上にあると言えるのではないかと思います。このような立法ないし行政措置が憲法違反であるというような主張は聞いたことがございません。
これら新しい人権とも申すべき権利の憲法上の根拠と申しますと、主として憲法十三条に見出されております。すべて国民は、個人として尊重される、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とするという十三条は、新しい時代に対応した人権を具体化、深化させていくことができる包括的規定でございまして、国民にとっても希望の星であり、頼もしい規定と言えます。
また、憲法二十五条も、今後の国民生活の向上を憲法の上で担保する規定となっております。情報を自由に取得する権利としての知る権利も、明文規定のございます表現の自由の反対形相として根拠づけられております。こうした新しい人権規定を憲法に加える改正をいたしますとしても、これらの条項をなくしたり弱めたりするということは考えられないところでございます。
基本的人権が人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であり、侵すことのできない永久の権利として信託されたものであることを明記いたしました九十七条は、近代憲法の人権規定に共通する性質を言い当てておりますけれども、どの国の人権規定も、憲法が制定されました当時の社会状況を反映していることはやむを得ないところであります。
しかしながら、我が国の憲法規定と今日の憲法改正議論を踏まえて考えましても、これまで申しましたように、現在の憲法は大変先見性があり、時代先行性を有しておりまして、例えば、今環境権を実現するために憲法改正を行う必要があるというようなことではございませんで、むしろ具体的に法律の中でその権利の具体化をしていただきたい。憲法に加えるといたしましても、具体的権利を欠いておりますと、憲法への規定ぶりによりましては、かえって立法府や行政府の裁量を拡大することになりかねないことにも留意していただきたいと思います。
特に御留意いただきたいことは、国民投票への付議に関してでございます。
独占禁止法は、いわゆる抱き合わせ販売を不公正な取引方法の一つに掲げてこれを禁止しておりますところは御案内のとおりでございます。抱き合わせ販売によって、買い手は抱き合わせられた商品の購入を強制され、選択の自由が妨げられることになるからでございます。憲法に関しましても、このようなことに留意する必要があるのではないかと思っております。
憲法に定めます平和主義は、我が国にとりましても国際社会にとりましても大変意義深い規定であると思っております。世論調査におきましても、九条の改正をすることに反対の意見が多いと承知しております。
仮に幾つもの改正項目について国会で三分の二の多数が得られるということがあるといたしまして、そこに何らかの政治的妥協を伴うことがあることが想定されるところです。国会におかれましては、そうした妥協が必要な場面もあるかもしれません。しかしながら、国の基本法である憲法は、そのような政治的妥協によってゆがめられてはならないものだと思います。
憲法改正には国民投票が必要であるというところでありますけれども、そうした観点から、例えばこれから環境権を追加するということと、これに真っ向から矛盾すると思います九条改正問題とを抱き合わせた形で、一括して国民投票に付すというようなことは避けていただきたいと思っております。これは国民の選択の自由が妨げられることになると考えるからであります。
次に、例えば環境権についてどのような権利規定の措置が必要と考えているかについて申し上げたいと思います。
七二年六月、ストックホルムで国連人間環境会議が開かれまして、環境は人間の福祉と基本的人権の享受のために必要不可欠なものであると宣言されました。日本弁護士連合会は、その前の七〇年に、公害問題を環境問題としてとらえまして、公害の未然防止を目的に、人間環境を保全するための環境権を提唱しました。こうした環境に関する従来の法制度や考え方に対して、新しい問題提起をいたしました。その後三十年を経て、私たちが良好な環境を享有する権利を有しているとの認識は広く国民に既に共有されており、争いのないところではないかと思います。
人の生命、健康を保持し、あわせて人間らしい生活を営むことを求めるのは人として基本的な要求でありますけれども、憲法十三条は個の尊重、人格権、幸福追求権をもってこれを認め、社会的な総則的規定でございます二十五条が環境権の社会権的側面を保障するものであるということも、例えば大阪空港訴訟判決等に示されているところであります。
このように、環境権の憲法上の根拠というものは既にございます。むしろ、環境権として包摂される内容は大変広範かつ多様であり、その実現のための方策は、客体や課題によって特徴があること、抽象的権利規定としての憲法の性格を考えますと、良好な環境の保全をいたしますには、法律において権利の具体化、権利の行使方法、権利侵害の判定方法などの緻密化などの立法をお願いしたいところでございます。
例えば環境基本法は、持続可能性を基本理念といたしまして、環境に関する具体的立法の基本的枠組みを示しておりますが、以下に述べる問題点を残していると考えております。
第一に、環境基本法に個人の環境権が明記されていないわけでございます。そうした追加が必要であります。
少し時間が足りませんのではしょらせていただきます。
また、環境基本計画には、環境を、自然環境のみならず、歴史的、社会的、文化的なものととらえまして、景観の継承などを含めて、生産と生活を一体的にとらえていくという視点が盛り込まれておりますけれども、例えば、そのためには、今年制定されました景観法に、地域的、歴史的、文化的景観を享受する権利ということを明記していただくことが必要かと思います。
第二に、環境保全におきます私人の役割、個人の役割を明らかにする具体的な権利といたしまして、差しどめの権利を明記していただきたいと思います。
我が国は、産業優先の負の遺産ともいうべき激甚な公害を経験してまいりました。先般、水俣病に関する最高裁判決がございましたが、公式発見から五十年近く経過しても過去の被害の清算がなされていないということにも驚くべきでございますが、因果関係や過失等の立証責任が被害者に課されているというこの現在の法律制度のもとでは、これらの立証が事実上非常に困難であることから、被害の拡大を容認してきたということを反省しなければなりません。
こうしたことに対しまして、現在の基本法は、国民の責務として、環境への負荷低減への努力や公共自治体、国の施策への協力義務を述べておりますけれども、保全のための権利は書かれておりません。人の生命、健康に被害をもたらす場合だけでなく、生態系や環境の保全等につきましても、これらは社会的共有財産というべきでありますし、一たん破壊されますと取り返しがつかないものでありまして、まさに差しどめの権利を確立することがその保全のかぎであります。
第三に、情報開示請求権を盛り込んでいただきたいと思います。
今日、環境問題ほど透明性の確保と市民参加の必要性が指摘されている領域はないと思います。国民の情報へのアクセスを権利として保障することは、環境保全の政策決定、その実施における市民参加の基盤をなすものでございますが、現在の環境基本法では、国にその努力義務を課しているにすぎません。
情報公開法による情報の開示請求権のみならず、環境基本法や個別法におきまして、国民や環境団体の情報開示請求の権利を盛り込んでいただきたいと思います。例えば、今、京都議定書の目標達成のための政策強化といたしまして、排出量の把握、報告、公表の制度化が焦点となっておるところでございますけれども、このように、知る権利につきましても、具体的権利規定を法律上拡充していくことが立法府の役割と思うところでございます。
第四に、こうした差しどめや情報開示請求権につきましては、環境団体にその権利を付与する立法措置が急務と思います。
消費者政策におきましては、不当な契約条項や不公正な広告につきまして、一定の要件の消費者団体に差しどめを求める訴訟上の権利を付与するための立法措置が、消費者契約法の制定以来懸案となっておりましたけれども、ようやく次の通常国会にも提出されるのではないかと期待しているところでございます。
環境保全につきましても、その利益も破壊の影響も、広範な地域、人々に及び、個人的な対応や行政監視にも限界があります。そうした直接利害関係を持ちます住民や消費者の個別的な授権なくして、違法行為の差しどめや行政に対する積極的作為を求める訴訟を提起する権利、あるいは環境保全政策に対して意見を申し述べ、異議を申し立てる等の権利を法律上保障していくということは、これからの環境保全における実効性を確保していく上で不可欠と思います。
このような権利は、欧米等諸外国では既に定着いたしまして、十全に機能し、大いなる成果を上げているところでございます。
地球環境問題は、近時、新たな地球規模での安全保障問題として位置づけられております。ブッシュ政権が京都議定書から離脱を宣言いたしました直後に、我が国の衆参両院で批准に向けた決議をいただきました。これはその後の日本の批准、議定書の発効に大変重要な役割を果たしたと感謝申し上げております。
温暖化の要因や対策につきましては、公害問題に共通する問題、国民生活、両面がございますけれども、きょうはその詳細は割愛させていただきます。
何よりも、今日の憲法改正の最大の論点は憲法九条についてであると承知しております。現行憲法の解釈上も自衛のための武力行使は否定されておりませんので、侵略行為を意図しない限り改憲を必要としないのではないかと思います。国際協力のための憲法九条改正といいますところは、裏を返せば、自衛以上の武力を行使する、あるいは、侵略と隣り合わせあるいは区別がつかない武力行使をするための憲法改正ではないのかと考えるのが理論的かつ自然ではないかと思うのです。このような改正は慎重にお願いしたいと思います。
環境権は、九条の改正により非常に大きな影響を受けます。戦争は最悪の環境破壊をもたらし、また、私たちの生活環境が、自然環境、人工的環境を問わず、戦争によって乱されるおそれは多大であるからであります。他の人権も同様でございまして、いずれにしましても、問題は九条にとどまらないわけでございます。
このような九条問題と人権規定につきましての問題等を抱き合わせいたしまして、一括して改正案を策定し、国民投票に付すことはすべきでないと考えますということを重ねて申し上げまして、本日の私の意見陳述にかえたいと思います。拍手
中
植
植松治雄#4
○植松公述人 このような機会を与えていただきましたこと、厚く御礼を申し上げたいと思います。
私は、生命尊重の思想というものを中心に置きながらお話を申し上げたいと思います。
終戦から今日に至るまで、我が国がたどった道のりは決して平たんとは言えず、明暗さまざまな出来事が起こったわけでございますけれども、人々は衣食に不足することなく、一見、至って平和な日常を暮らせております。これは、大局的に見れば、我が国の政府及び国民がこれまでおおむね進むべき道の選択を誤らなかったことの証左であろうというふうに考えております。第二次大戦以来、一度も戦争の惨禍に巻き込まれなかったということ、すなわち、かたくなに平和憲法を守り通してきたことによるということは、大方の皆様方の認めるところでございましょう。
また一方では、戦争、武力行使に限らず、社会には人の生存を脅かすさまざまな要因が存在いたします。例えば、近年の自殺者数の著しい増加も、そのような深刻な社会問題の一つでございます。平成十年に突如として三万二千人台を記録し、その後も毎年三万人以上の方がみずから命を絶たれているという状況でありまして、極めて憂慮すべきでございます。
交通事故に関しましても、死亡者数こそは減少し続けておりますけれども、事故発生の件数、負傷者数に関しましては、毎年増加しつつございます。
また、医療の現場に目を転じましても、昨今、医療事故が深刻な社会問題となっておることは御承知のとおりでございます。医療事故に関しては、現在のところ、発生件数や死者数に関する正確な統計はございませんけれども、依然として医療事故がなくならない状況からは、まさに国民の生命が深刻な危機に直面していると認めざるを得ない側面もあるわけでございます。
民主主義の鉄則でございますが、個人が自己の信念に基づいて何かを主張し、権利を行使する際には、当然そこには義務が付随し、また、それらの主張は、社会全体の秩序を乱さない限りという条件つきで最大限尊重されるべきであるということでございます。憲法十三条を引き合いに出すまでもない原則でございます。
一方、昨今、気になりますのは、個人の自由とか自己決定の名のもとに、みずからの身体を傷つけたり生命を極端に短くすること、あるいは生命の誕生に際して、優生的な発想による選別などの人工的な操作を次々と認めてしまう風潮があるということでございます。生命尊重、人命尊重の思想こそが、日本の、いや世界のすべての分野における基本的な価値基準であるべきだとかたく信じております。
人の命と健康を預かる医師という立場からは、生命が何物にもかえがたく大切なものであるという当然の事柄を、すべての部面における価値基準、すなわち憲法の根底に流れる普遍的な思想として、いま一度強く訴えたいと思っております。
医療と憲法との関係を論ずる際に必ず触れられるのが、二十五条の生存権との関係でございます。
今や、我が国の医学、医療のレベルは、世界的にもトップクラスに位置することは間違いございません。そのような質の高い医療を、必要とあれば国民のだれもがひとしく受けることができるのは、言うまでもなく、我が国には世界に誇る国民皆保険制度が備わっているからでございます。そして、世界一の長寿国になった我が国の国民にとって、そのような良質な医療はもはや必要不可欠なものとなっております。したがいまして、国民皆保険の堅持は、国民の生存権を担保するためにも、決して後退することが許されない国の基本施策であると確信いたします。
この点に関連して、昨今、非常に気がかりな問題が起こっております。すなわち、外国人住民、とりわけ在留資格を持たない外国籍の方々の医療受診につき、特に診療報酬の支払いをめぐる問題でございます。
医師として地域医療を担当しておりますと、いろいろな事情を抱える患者さんが診察に来られます。そうした方の中には、いわゆる不法滞在と呼ばれる外国人の方もおられ、これらの方は医療保険に加入できませんので、高い診察料金を支払うこともできず、必要な医療を受けられないこともしばしばであります。また、けがや急病など、救急で担ぎ込まれた場合には、結局、医療機関が医療費を肩がわりするという実情もございます。生身の人間であれば、病気、けがは場所を選ばず発生いたします。不法滞在の問題は根本的な解決が必要かと思いますけれども、それはそれとして、現に我が国に居住している人々については、必要なときには安心して日本国民と同様の医療を受けられる環境を整えるべきではないでしょうか。
本年一月十五日、最高裁が、在留資格がないことを理由に一律に国民健康保険への加入を拒否することは違法であるとの判断を示したことは、御承知のとおりでございます。しかし、この判決が出された以後も、依然として国保加入を拒否された事例が報じられておりました。本年六月には、厚生労働省は、国民健康保険法施行規則の改正を行いまして、いわゆるオーバーステイの外国人の方々の国保加入を認めないことを明文化してしまいました。在留資格がないままに我が国に滞在していることは、それ自体早急に是正すべき問題ではありますが、現実に、そういう外国人の方々に憲法上の人権をどこまで保障するかという問題も、また実に解決困難な問題であります。しかし、そうであるからこそ、憲法調査会のような場において検討していただくことが適切であるように思っております。
医療サービスへのアクセスは、国民の生存権の一部として重要な位置を占めることを前提といたしますと、その医療提供がもとで逆に国民の生命が危険にさらされるということは、絶対にあってはならないことでございます。もちろん、医療というものは、個々に条件や体質の異なる個人個人の疾病を対象とするわけで、治療の効果に不確実さが伴うことは当然でございますけれども、ここで言いますのは、それ以前の、医療従事者のミス、組織の欠陥に起因するいわゆる医療事故被害についてでございます。
御承知のとおり、現在、医療界では、この医療事故被害を少しでもなくするように、一丸となって、あるいはそれぞれが競うように対策を打っているところでございます。残念ながら、現時点において、まだ医療提供の場面での危険が完全に取り払われたとは言えない状況が続いており、これは挙げて医療界の努力不足であると認めざるを得ません。
その上で、あえてこの憲法調査会の場で申し上げておきたいことは、現実に医療従事者は、勤務時間などの労働環境が極めて過酷な状態であるということでございます。これはすなわち、医療現場の労働者の過酷な労働による過労のために国民の安全が犠牲になる可能性があることを意味しており、特に医療現場での人材の不足には早急な手だてを打つべき必要がございます。また、個々の医療機関も、医療の安全、患者の安全のための十分な投資ができるよう政策誘導していただきたいと考えております。また、それこそが国民の生存権を裏から支える結果になると考えております。
いわゆるインフォームド・コンセントとか患者の自己決定といった問題がクローズアップされ、そしてそれが医療の現場で実践されるに従い、医療現場では、以前に比べて患者の人権が手厚く尊重されるようになってきたと実感しております。
しかし一方で、ごく一部ではございましょうが、精神科患者の不当な身体拘束や過剰な投薬、あるいは入院をめぐるずさんな手続などの実態が問題として取り上げられることも現実でございます。特に精神科医療では、患者さん御自身の判断能力が欠如している場合などもございまして、問題が起きてもそのことが表面化しにくい性質がございますので、特に透明性を確保することによって、患者さんの人権が侵害されることのない制度をつくり上げていくことが必要であろうと考えております。
また、新薬の治験や臨床研究の一部でも、被験者や患者の承諾、参加の意思を十分に確認しないまま実施されていた例が問題とされており、医療関係者、研究者の人権に対するモラルの向上が求められるところでございます。
これに関連して、昨今、医療以外のさまざまな業種で現実に発生しております個人情報の流出事故も、医療界として、その予防に十分意を払わなくてはならない問題でございます。特に、医療に関する個人情報、すなわち、カルテに書かれている情報や、近時目覚ましい進歩を遂げております遺伝子解析技術を用いて得られた人の遺伝子情報などは、極めてプライバシー性の高い情報と言われております。そういたしますと、これらの情報を本人の了解なく他人の手に渡すということは、それだけで重大な人権侵害となっていると言ってよいかと思います。これらの情報の保護については、人権尊重という視点からも、国を挙げて対策を講ずる必要がございます。
さらにつけ加えるならば、これらの個人情報を初め、人体から取り出された組織や臓器も、これは単なる情報や物ではなく、人体の一部として、特別の感情、すなわち礼意を持って取り扱われるべきものでなければなりません。これはモラルの問題とも言えましょうが、臓器売買やそれに類した行為は厳しく法律で罰すると同時に、人の身体に対する畏敬の念といった基本的な姿勢は、憲法であるか、あるいは生命基本理念構想、いろいろな法律、どのようなものがいいのかは別といたしまして、はっきりした宣言的な規定を設けるべきであると考えております。
ところで、今申し上げましたような自己決定の尊重といった問題の延長線上には、冒頭に触れましたような生命の終末期の問題、すなわち、積極的な安楽死や医師による自殺幇助を適法なものとして認めるか否かという問題も浮かんでまいります。個人の自己決定を極端に推し進めていけば、そのような生命の終末のあり方を個人の自由として認める考え方もあるかもしれませんが、私どもといたしましては、これを無制限に認めてしまうことは反対でございます。
すなわち、生命がまだ生きておられるうちは、これを生かそうとするべきであり、それが公の秩序、社会の秩序というものであろうと考えます。ただし、人間が生きるということは、人間らしく、よく生きるということを意味しますから、その限りにおいて、例えば延命のみを目的とした治療を差し控える、いわゆる尊厳死については、極めて厳格な条件を付した上で、そのような選択をする立場も容認すべきであろうと考えております。すなわち、国民生活にとって極めて重要な問題、その中でもさらに重要な人の命の問題については、すべてを個人の自由にゆだねるべきではなく、個々人の価値観、倫理観といったものをどの程度まで許容するか、すなわち、社会全体の意思としてはどの程度までなら合意し得るかという問題としてとらえるべきでございます。
結論としては、現時点では、積極的な安楽死や医師による自殺幇助について、国民一般の納得はいまだ得られていないと考えております。
ここで述べましたように、人命あるいは人体の尊厳に最高の価値を置くという考え方は、従来の常識的な憲法の枠組みの中ではあらわしにくい内容であるかもしれませんが、科学技術が高度に発達し、また人々の考え方もますます多様化している新しい時代の憲法のありようとしては、そのような事柄を明文規定としておくことも、また十分に意味のあることではないかと思っております。
一方では、科学技術の進歩に合わせて、国民の側における人権教育も、憲法と深くかかわる問題として御検討いただきたいと思います。
先ほど申し上げましたが、ヒトゲノムの解析計画の成功などを受けて、遺伝子解析等に関する技術は目覚ましい進歩を遂げ、現在では、さまざまな遺伝性疾患と特定の遺伝子欠損との関係、あるいは特定の遺伝子型を持つ人に有効な医薬品の開発などが取り組まれておるところでございます。このような研究開発また治療には遺伝子解析に基づく個々の患者に関する個人情報を利用する場合が多く、当然、それらの情報の管理には細心の注意を払わなくてはなりません。
また、社会全体に目を向けてみると、そのような遺伝子解析に基づいて個人の体質や遺伝性疾患の有無に関して得られた情報は、結婚、雇用等に際しての差別、人の優劣の判断に用いられることのないよう、国民各層に対する人権教育が必要かと思います。人類に幸福をもたらすはずの高度な科学技術が新たな差別を生み出すことになっては本末転倒でございます。結局、差別とは、得られた情報を用いる人間のモラルの問題であり、これを正すには、法規制もある程度有効ではありましょうが、究極的には教育によって解決するしかございません。
この人権教育の根底には、人は生まれながらにしてそれぞれ異なった部分、多様性を持っており、その違いをお互いに認め合って生きていかなければならないという考えを徹底することが肝要でございます。今後ますます高度な科学技術が進歩、普及していくことを考えれば、このような人権教育は初等教育から段階的に継続していくことが重要だと考えております。
最後に、人の生命と健康を守る医師の立場から、武力行使に対しては断固反対の立場をとることを一言申し上げておきたいと思います。
武力によってみずからと異なる立場の者を抑え込むことが卑劣な行為であることは言うまでもございませんが、これに対してさらなる武力で応じることも、憎しみを増すばかりで何の解決にもなりません。今回のイラク戦争に関して、日本医師会では、昨年の開戦直後の三月三十日に、日本医師会代議員会の名において、イラク戦争の即時終結を求める決議を、また、その五日前の三月二十五日には、日本歯科医師会、日本薬剤師会、日本看護協会との連名で、イラク戦争の即時終結を求める声明を発表いたしております。戦争反対の考え方は、本日申し上げてまいりました人命尊重の立場とも整合いたしますし、また、他者との違いを認め合って差別のない社会を目指す考え方は、究極的には世界平和の根本原理であると確信いたしております。
医療機関は、いわゆる周辺事態が発生した場合に医療協力を要請されるものと理解いたしますが、これが今後拡大解釈され、医療従事者として、武力行使に加担することだけは断固反対の姿勢を表明させていただきます。
ここまで、医療者の立場から、憲法にまつわる幾つかの問題について発言させていただきました。
私は憲法解釈の専門家ではございませんので、今まで申しましたことをどのように憲法の体系に組み込んでいくかという点に関しては、憲法調査会の先生方を初め、法律学者の方々にお任せいたします。
ただ、あえて私見を申し述べるとすれば、まずは、現行の憲法の枠内で可能な限りの公正な解釈を目指すべきであり、その上で、現行憲法の解釈だけでは社会の実態に適合しない事態が明らかになったり、そのような事態が予測される場合には、憲法の部分的な修正も積極的に考えるというのが筋であろうと考えております。
先ほども触れましたように、高度な科学技術が発達し、人々の価値観も多様化している今日の社会では、あるいは、新しい考え方や新しい物事に対応できる表現を取り入れた新しい憲法をつくることも検討するべきときにあるのかもしれません。
例えば、本日の意見陳述の中で終始申し上げてまいりました、生命、人体の尊厳という概念は、これからの科学技術が高度に進歩した時代において、極めて重要な言葉になるだろうと考えております。フランスでは、人体の尊厳が人権の一つとして宣言され、これに基づいて民法典に新たな条文が加わったと聞いております。またドイツでは、基本法の中に、人間の尊厳、身体を害されない権利といった規定が存在するとのことでございます。国の基本原理として、人の肉体そのものの尊厳というものを我が国の憲法の中に書き込むことも検討されてはいかがかと思っております。
以上、簡単でございますけれども、意見を述べさせていただきました。拍手
この発言だけを見る →私は、生命尊重の思想というものを中心に置きながらお話を申し上げたいと思います。
終戦から今日に至るまで、我が国がたどった道のりは決して平たんとは言えず、明暗さまざまな出来事が起こったわけでございますけれども、人々は衣食に不足することなく、一見、至って平和な日常を暮らせております。これは、大局的に見れば、我が国の政府及び国民がこれまでおおむね進むべき道の選択を誤らなかったことの証左であろうというふうに考えております。第二次大戦以来、一度も戦争の惨禍に巻き込まれなかったということ、すなわち、かたくなに平和憲法を守り通してきたことによるということは、大方の皆様方の認めるところでございましょう。
また一方では、戦争、武力行使に限らず、社会には人の生存を脅かすさまざまな要因が存在いたします。例えば、近年の自殺者数の著しい増加も、そのような深刻な社会問題の一つでございます。平成十年に突如として三万二千人台を記録し、その後も毎年三万人以上の方がみずから命を絶たれているという状況でありまして、極めて憂慮すべきでございます。
交通事故に関しましても、死亡者数こそは減少し続けておりますけれども、事故発生の件数、負傷者数に関しましては、毎年増加しつつございます。
また、医療の現場に目を転じましても、昨今、医療事故が深刻な社会問題となっておることは御承知のとおりでございます。医療事故に関しては、現在のところ、発生件数や死者数に関する正確な統計はございませんけれども、依然として医療事故がなくならない状況からは、まさに国民の生命が深刻な危機に直面していると認めざるを得ない側面もあるわけでございます。
民主主義の鉄則でございますが、個人が自己の信念に基づいて何かを主張し、権利を行使する際には、当然そこには義務が付随し、また、それらの主張は、社会全体の秩序を乱さない限りという条件つきで最大限尊重されるべきであるということでございます。憲法十三条を引き合いに出すまでもない原則でございます。
一方、昨今、気になりますのは、個人の自由とか自己決定の名のもとに、みずからの身体を傷つけたり生命を極端に短くすること、あるいは生命の誕生に際して、優生的な発想による選別などの人工的な操作を次々と認めてしまう風潮があるということでございます。生命尊重、人命尊重の思想こそが、日本の、いや世界のすべての分野における基本的な価値基準であるべきだとかたく信じております。
人の命と健康を預かる医師という立場からは、生命が何物にもかえがたく大切なものであるという当然の事柄を、すべての部面における価値基準、すなわち憲法の根底に流れる普遍的な思想として、いま一度強く訴えたいと思っております。
医療と憲法との関係を論ずる際に必ず触れられるのが、二十五条の生存権との関係でございます。
今や、我が国の医学、医療のレベルは、世界的にもトップクラスに位置することは間違いございません。そのような質の高い医療を、必要とあれば国民のだれもがひとしく受けることができるのは、言うまでもなく、我が国には世界に誇る国民皆保険制度が備わっているからでございます。そして、世界一の長寿国になった我が国の国民にとって、そのような良質な医療はもはや必要不可欠なものとなっております。したがいまして、国民皆保険の堅持は、国民の生存権を担保するためにも、決して後退することが許されない国の基本施策であると確信いたします。
この点に関連して、昨今、非常に気がかりな問題が起こっております。すなわち、外国人住民、とりわけ在留資格を持たない外国籍の方々の医療受診につき、特に診療報酬の支払いをめぐる問題でございます。
医師として地域医療を担当しておりますと、いろいろな事情を抱える患者さんが診察に来られます。そうした方の中には、いわゆる不法滞在と呼ばれる外国人の方もおられ、これらの方は医療保険に加入できませんので、高い診察料金を支払うこともできず、必要な医療を受けられないこともしばしばであります。また、けがや急病など、救急で担ぎ込まれた場合には、結局、医療機関が医療費を肩がわりするという実情もございます。生身の人間であれば、病気、けがは場所を選ばず発生いたします。不法滞在の問題は根本的な解決が必要かと思いますけれども、それはそれとして、現に我が国に居住している人々については、必要なときには安心して日本国民と同様の医療を受けられる環境を整えるべきではないでしょうか。
本年一月十五日、最高裁が、在留資格がないことを理由に一律に国民健康保険への加入を拒否することは違法であるとの判断を示したことは、御承知のとおりでございます。しかし、この判決が出された以後も、依然として国保加入を拒否された事例が報じられておりました。本年六月には、厚生労働省は、国民健康保険法施行規則の改正を行いまして、いわゆるオーバーステイの外国人の方々の国保加入を認めないことを明文化してしまいました。在留資格がないままに我が国に滞在していることは、それ自体早急に是正すべき問題ではありますが、現実に、そういう外国人の方々に憲法上の人権をどこまで保障するかという問題も、また実に解決困難な問題であります。しかし、そうであるからこそ、憲法調査会のような場において検討していただくことが適切であるように思っております。
医療サービスへのアクセスは、国民の生存権の一部として重要な位置を占めることを前提といたしますと、その医療提供がもとで逆に国民の生命が危険にさらされるということは、絶対にあってはならないことでございます。もちろん、医療というものは、個々に条件や体質の異なる個人個人の疾病を対象とするわけで、治療の効果に不確実さが伴うことは当然でございますけれども、ここで言いますのは、それ以前の、医療従事者のミス、組織の欠陥に起因するいわゆる医療事故被害についてでございます。
御承知のとおり、現在、医療界では、この医療事故被害を少しでもなくするように、一丸となって、あるいはそれぞれが競うように対策を打っているところでございます。残念ながら、現時点において、まだ医療提供の場面での危険が完全に取り払われたとは言えない状況が続いており、これは挙げて医療界の努力不足であると認めざるを得ません。
その上で、あえてこの憲法調査会の場で申し上げておきたいことは、現実に医療従事者は、勤務時間などの労働環境が極めて過酷な状態であるということでございます。これはすなわち、医療現場の労働者の過酷な労働による過労のために国民の安全が犠牲になる可能性があることを意味しており、特に医療現場での人材の不足には早急な手だてを打つべき必要がございます。また、個々の医療機関も、医療の安全、患者の安全のための十分な投資ができるよう政策誘導していただきたいと考えております。また、それこそが国民の生存権を裏から支える結果になると考えております。
いわゆるインフォームド・コンセントとか患者の自己決定といった問題がクローズアップされ、そしてそれが医療の現場で実践されるに従い、医療現場では、以前に比べて患者の人権が手厚く尊重されるようになってきたと実感しております。
しかし一方で、ごく一部ではございましょうが、精神科患者の不当な身体拘束や過剰な投薬、あるいは入院をめぐるずさんな手続などの実態が問題として取り上げられることも現実でございます。特に精神科医療では、患者さん御自身の判断能力が欠如している場合などもございまして、問題が起きてもそのことが表面化しにくい性質がございますので、特に透明性を確保することによって、患者さんの人権が侵害されることのない制度をつくり上げていくことが必要であろうと考えております。
また、新薬の治験や臨床研究の一部でも、被験者や患者の承諾、参加の意思を十分に確認しないまま実施されていた例が問題とされており、医療関係者、研究者の人権に対するモラルの向上が求められるところでございます。
これに関連して、昨今、医療以外のさまざまな業種で現実に発生しております個人情報の流出事故も、医療界として、その予防に十分意を払わなくてはならない問題でございます。特に、医療に関する個人情報、すなわち、カルテに書かれている情報や、近時目覚ましい進歩を遂げております遺伝子解析技術を用いて得られた人の遺伝子情報などは、極めてプライバシー性の高い情報と言われております。そういたしますと、これらの情報を本人の了解なく他人の手に渡すということは、それだけで重大な人権侵害となっていると言ってよいかと思います。これらの情報の保護については、人権尊重という視点からも、国を挙げて対策を講ずる必要がございます。
さらにつけ加えるならば、これらの個人情報を初め、人体から取り出された組織や臓器も、これは単なる情報や物ではなく、人体の一部として、特別の感情、すなわち礼意を持って取り扱われるべきものでなければなりません。これはモラルの問題とも言えましょうが、臓器売買やそれに類した行為は厳しく法律で罰すると同時に、人の身体に対する畏敬の念といった基本的な姿勢は、憲法であるか、あるいは生命基本理念構想、いろいろな法律、どのようなものがいいのかは別といたしまして、はっきりした宣言的な規定を設けるべきであると考えております。
ところで、今申し上げましたような自己決定の尊重といった問題の延長線上には、冒頭に触れましたような生命の終末期の問題、すなわち、積極的な安楽死や医師による自殺幇助を適法なものとして認めるか否かという問題も浮かんでまいります。個人の自己決定を極端に推し進めていけば、そのような生命の終末のあり方を個人の自由として認める考え方もあるかもしれませんが、私どもといたしましては、これを無制限に認めてしまうことは反対でございます。
すなわち、生命がまだ生きておられるうちは、これを生かそうとするべきであり、それが公の秩序、社会の秩序というものであろうと考えます。ただし、人間が生きるということは、人間らしく、よく生きるということを意味しますから、その限りにおいて、例えば延命のみを目的とした治療を差し控える、いわゆる尊厳死については、極めて厳格な条件を付した上で、そのような選択をする立場も容認すべきであろうと考えております。すなわち、国民生活にとって極めて重要な問題、その中でもさらに重要な人の命の問題については、すべてを個人の自由にゆだねるべきではなく、個々人の価値観、倫理観といったものをどの程度まで許容するか、すなわち、社会全体の意思としてはどの程度までなら合意し得るかという問題としてとらえるべきでございます。
結論としては、現時点では、積極的な安楽死や医師による自殺幇助について、国民一般の納得はいまだ得られていないと考えております。
ここで述べましたように、人命あるいは人体の尊厳に最高の価値を置くという考え方は、従来の常識的な憲法の枠組みの中ではあらわしにくい内容であるかもしれませんが、科学技術が高度に発達し、また人々の考え方もますます多様化している新しい時代の憲法のありようとしては、そのような事柄を明文規定としておくことも、また十分に意味のあることではないかと思っております。
一方では、科学技術の進歩に合わせて、国民の側における人権教育も、憲法と深くかかわる問題として御検討いただきたいと思います。
先ほど申し上げましたが、ヒトゲノムの解析計画の成功などを受けて、遺伝子解析等に関する技術は目覚ましい進歩を遂げ、現在では、さまざまな遺伝性疾患と特定の遺伝子欠損との関係、あるいは特定の遺伝子型を持つ人に有効な医薬品の開発などが取り組まれておるところでございます。このような研究開発また治療には遺伝子解析に基づく個々の患者に関する個人情報を利用する場合が多く、当然、それらの情報の管理には細心の注意を払わなくてはなりません。
また、社会全体に目を向けてみると、そのような遺伝子解析に基づいて個人の体質や遺伝性疾患の有無に関して得られた情報は、結婚、雇用等に際しての差別、人の優劣の判断に用いられることのないよう、国民各層に対する人権教育が必要かと思います。人類に幸福をもたらすはずの高度な科学技術が新たな差別を生み出すことになっては本末転倒でございます。結局、差別とは、得られた情報を用いる人間のモラルの問題であり、これを正すには、法規制もある程度有効ではありましょうが、究極的には教育によって解決するしかございません。
この人権教育の根底には、人は生まれながらにしてそれぞれ異なった部分、多様性を持っており、その違いをお互いに認め合って生きていかなければならないという考えを徹底することが肝要でございます。今後ますます高度な科学技術が進歩、普及していくことを考えれば、このような人権教育は初等教育から段階的に継続していくことが重要だと考えております。
最後に、人の生命と健康を守る医師の立場から、武力行使に対しては断固反対の立場をとることを一言申し上げておきたいと思います。
武力によってみずからと異なる立場の者を抑え込むことが卑劣な行為であることは言うまでもございませんが、これに対してさらなる武力で応じることも、憎しみを増すばかりで何の解決にもなりません。今回のイラク戦争に関して、日本医師会では、昨年の開戦直後の三月三十日に、日本医師会代議員会の名において、イラク戦争の即時終結を求める決議を、また、その五日前の三月二十五日には、日本歯科医師会、日本薬剤師会、日本看護協会との連名で、イラク戦争の即時終結を求める声明を発表いたしております。戦争反対の考え方は、本日申し上げてまいりました人命尊重の立場とも整合いたしますし、また、他者との違いを認め合って差別のない社会を目指す考え方は、究極的には世界平和の根本原理であると確信いたしております。
医療機関は、いわゆる周辺事態が発生した場合に医療協力を要請されるものと理解いたしますが、これが今後拡大解釈され、医療従事者として、武力行使に加担することだけは断固反対の姿勢を表明させていただきます。
ここまで、医療者の立場から、憲法にまつわる幾つかの問題について発言させていただきました。
私は憲法解釈の専門家ではございませんので、今まで申しましたことをどのように憲法の体系に組み込んでいくかという点に関しては、憲法調査会の先生方を初め、法律学者の方々にお任せいたします。
ただ、あえて私見を申し述べるとすれば、まずは、現行の憲法の枠内で可能な限りの公正な解釈を目指すべきであり、その上で、現行憲法の解釈だけでは社会の実態に適合しない事態が明らかになったり、そのような事態が予測される場合には、憲法の部分的な修正も積極的に考えるというのが筋であろうと考えております。
先ほども触れましたように、高度な科学技術が発達し、人々の価値観も多様化している今日の社会では、あるいは、新しい考え方や新しい物事に対応できる表現を取り入れた新しい憲法をつくることも検討するべきときにあるのかもしれません。
例えば、本日の意見陳述の中で終始申し上げてまいりました、生命、人体の尊厳という概念は、これからの科学技術が高度に進歩した時代において、極めて重要な言葉になるだろうと考えております。フランスでは、人体の尊厳が人権の一つとして宣言され、これに基づいて民法典に新たな条文が加わったと聞いております。またドイツでは、基本法の中に、人間の尊厳、身体を害されない権利といった規定が存在するとのことでございます。国の基本原理として、人の肉体そのものの尊厳というものを我が国の憲法の中に書き込むことも検討されてはいかがかと思っております。
以上、簡単でございますけれども、意見を述べさせていただきました。拍手
中
暉
暉峻淑子#6
○暉峻公述人 暉峻でございます。
きょうは、お招きいただきまして、ありがとうございました。
実は、ここにお招きいただいたときに、私の研究仲間の人たちにもそのことを言ったんですけれども、その人たちは、やめなさいと。世間の評判によると、甚だふまじめで、議員の人たちが私語をしょっちゅうしたり、出たり入ったり、欠席も多くて、どうもまじめに聞いてくださらないという評判だ、そんなところに行っても仕方がないから、自分は頼まれたんだけれども断った、何でそんなところへ行くんですかと言われたんですけれども、私は、たとえそうであっても、私の意見を聞いてくださる方があるということで、きょうは喜んで伺いました。でも、きょうは、その評判に比べると、皆様とてもまじめに、欠席はありますけれども、聞いてくださっているので、とてもありがたいことだと思っています。
私は、次の二点に絞って意見を述べたいと思っております。
私の専門分野は国民生活に関する調査研究ですので、まず第一には、憲法九条が国民生活とどのようなかかわりを持っているか、九条がなし崩しになることによって国民生活にどのような変化が起こりつつあるかということについてお話しします。
第二点は、私が十三年間かかわっている、紛争下での難民、孤児、病人、貧困者を救援しているNGOの活動の中で、国際貢献について私がどのように考え続けているかということについてお話ししたいと思っています。
まず第一点について言えば、現在私たちが十分とは言えないにしても享受している人権も環境も福祉も民主主義も言論の自由も、平和憲法がなければあり得なかったということです。
憲法十条から四十条までの三十一カ条にわたる人権規定。憲法十一条の基本的人権、十九条の思想、良心の自由、二十四条の家庭生活における個人の尊厳と両性の平等、二十五条の国民の生存権など、私たちの日々の暮らしを支えている人権規定は、すべて九条の規範と表裏一体となっているものだと思います。
こう言うと、すぐに、それは一国平和主義だという声が聞こえてきそうですが、そのような御心配は要りません。国民の人権と福祉のレベルが高い国ほど、例えば北欧の国々の国際援助の国内総生産に占める割合は、日本よりもはるかに高く、公的な資料で、日本はGDP比〇・二三、デンマーク一・〇三、スウェーデン、ノルウェーともに〇・八一という状況で、NGOの活動も、私は国際的な舞台でNGOの人たちとよく会いますけれども、本当に質が高いです。北欧の政治家の国際紛争調停能力、これは政治家でも官僚でもそうですけれども、外交力の能力は国際的に高く評価されて、また信頼もされております。ブルントラントさんとかパルメさんとか、皆さん方もよく御存じだと思います。そういう能力は日本の比ではないでしょう。
私はむしろ、自分の国で平和と人権を尊重している国こそが、外国への本当の意味の人道援助ができる国であると思っています。
現在の日本社会のように、社会格差と差別思想がだんだん広がってきて、いわゆる勝ち組、負け組の世界に分裂し、国の政策も、税制や補助金やその他でそれを推し進める傾向にあります。労働の世界では、低賃金で不安定な労働。社会保険もつかないし社内研修による能力向上の機会も与えられないフリーターと正規社員との格差が広がっています。このフリーターが現在もう五百万人を超えているということは御存じですよね。政府の審議会や協議会の座長を務める財界のある方は、それを鉛筆のしんと周りの木に例えて、しんはエリート社員で大切にされるが、木はパートや使い捨てのフリーターだというふうに公に言っておられます。
政府の役割は、新自由主義の市場が生んだそれらの格差に自立援助をして、非人間的な格差や差別を是正していくことにあると思うのですけれども、失業者、不安定労働者、ホームレス、それから、もう三万四千に達するという自殺者の数、こういう傾向が固定化していっていることに対しても大変冷淡であると私は考えております。
生活の土台がこういうふうに破壊されていくことが実は経済の不況からの脱出を阻んでいるのですけれども、持続できない目先の利益を求めて、大きな損という対応しかとれていないのが日本の現状であると考えております。経済の長期的な発展も国際貢献も、すべての基礎は人権の尊重に由来しているのに、国内の人権意識が衰えていくのは、人権に逆行する軍事化路線が強くなっていっているからではないでしょうか。
こういうことを言いますと、よく若い方が、もう戦前の人の話は結構というふうに言われるのですけれども、例えばマラリアにしても何にしても、一遍病気になった人は、その病気が再発するときには、あっ、また始まったとすごく敏感にわかるものです。私は戦前の経験も持っていますので、パターンこそ違いますけれども、やはり、あっ、また始まりつつあるなという感じを持っています。
以上述べたことだけでなくて、子供の人間としての自然で豊かな人格全体の発達を助ける教育の世界にまで短期的な市場の競争原理が持ち込まれ、子供の生活をゆとりのない苦しいものにしているだけでなく、バランスのとれた人格の円満な発達を妨げています。
今、子供たちも若者たちも人間関係をつくることがすごく苦手ですね。処理能力はあるんです。特にエリートと言われる人たちは、ばりばりと処理はします。しかし、考える力や創造性に欠ける子供が多いことは国際的にも知られているところです。これは、PISAという、十五歳の子供の国際比較のテストがありました。このときに、日本の子供は計算力もあるし法則も覚えているんだけれども、考える力、創造性というものがないということを、きちんと分析の結果、言われています。
それなのに、今は、学校間競争をあおったり、一斉テストをしてその結果を公表したりしようということが本当の子供の能力を開花させることではないのに、これも、もう目先の何か結果を求めるわけですね。この競争の息苦しさへの批判を封じ込めるように、管理主義的な道徳とか愛国心が上から押しつけられています。
私はもう四十年も教師をしておりますので、大学に入ってくる前の学校教育も常に見学をしたり教師の意見を聞いたり、親との集まりに出席しているわけですけれども、序列づけ、競争によって人間という一つの人格を順番づけにすると、子供は攻撃性を非常に強く持つようになります。
それから、おまえは成績が悪いと言われた子、例えば習熟度別学級の一番下のクラスに入れられた子、こういう子は早くから挫折感を持って、ああ、どうせ自分は頭が悪いんだ、もう何をしてもどうせだめなんだと、それでいよいよだめになっていくんですね。世界の教育者の会議で、子供のときにおまえはだめだと思わされた子供はもう一生取り返せないというのは、世界の教育者の認識です。まれに何かの体験で自信を取り戻すということはないとは言えないんですけれども、一般的には、だめ人間をつくっていってしまうんですね。
それなのに、今は、学校間競争があったり、あからさまに、例えばこれも文部省の教育課程審議会の会長もされたと思うんですけれども、ある文学者の有名な方が、できぬ者はできぬままで結構、戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた努力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける、百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます、限りなくできない非才、無才にはせめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんですというようなことを公言されておりますね。私は、教育者として、こういう社会になったらこれはもうおしまいだなというふうに思っています。
それと歩調を合わせるように、批判を逆に封じ込めて、愛国心の強制や、東京都の教育に見られるような上からの強権的な統制、これは民主主義や人権に反するだけでなく、何か軍国主義的な歩調を感じさせて、九条を邪魔者扱いにしている流れと改憲を声高に言われる方の思想と、どこかでつながっているんじゃないのかしらと私は思って見ております。
このようなことを述べるのは、実は、自民党の憲法改正プロジェクトチームの論点整理に見られますように、お上が決めて国民を従わせるという、何かそういう底流が非常に強く流れている、つまり、反国民主権の考えが流れているように思えるからです。もっとも、これは論点整理でありまして、自民党が結果的にそうするとおっしゃっているわけではないのですけれども、私は、率直に言わせていただければ、この論点整理を読んだとき、ええ、こういう考えの人たちが憲法改正、九条見直しを唱えているのという、本当に大きな驚きを感じました。これは私だけではない、広範囲な人たちが言っていることです。
私は、文学も音楽も、あるいは家計簿を研究する生活研究も教育者の集まりにも、非常に幅広くその中に参加している人間ですけれども、例えば一例を挙げますと、「見直すべき規定」として、「婚姻・家族における両性平等の規定」、憲法二十四条ですが、これは「家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。」とはっきり書かれております。両性の平等を見直すべきであるなんというのは、ちょっと、本気かなと思うくらいです。
日本は、既に国連の女子差別撤廃条約を一九八五年に批准して、国内法もこれに適合するように改めていますし、一九九九年、男女共同参画社会基本法によって、今、性差というものが歴史的、社会的にどんなふうにつくり上げられてきたのかわからない、これをきちんと研究しましょうという見直しですね、これも合意されています。
日本で憲法を改正して両性の平等をこれから見直しましょうなんということは、性差別のない社会、性差別だけでなくて、人種差別でもあらゆる差別がない方がいいということを願っている私たちにとっても、それから、国際人権法の最も重要な柱として、国際人権法の中でも根本的な地位を占めている女性差別撤廃、今度のような両性の平等を見直すなんということを言われると、国際人権法と根本的な衝突をすることになります。今や人権規定はグローバルなものとして国際的に認められていますので、このような両性の平等を見直すという提案そのものがもう時代錯誤的なのです。この提案は、最初、読売新聞が行ったものであったと私は記憶しております。
皆様方、日常の御生活の中でも、それぞれが愛情と信頼を持って家族をつくるからこそ、家族でしょう。ただ共同体という、家族は共同体だというその形だけを保存しておくために、例えば、今ドメスティック・バイオレンスという家庭内暴力の話なども出ていますけれども、そういうことは何か隠しておくというか、あるいは昔の家制度みたいに、ともかく女は、まあ女はとここには書いてありませんけれども、一方が一方に文句なく従う。
でも、時代を見てください。昔、妻は所得もなかったから、そうするより仕方がなかったかもしれません。あるいは、天皇制を頂点とする家制度というのがあったので、それにがんじがらめに縛られていた。今度、お札に樋口一葉さんが出ていますけれども、皆さん、昔のことを知りたかったら、樋口一葉の小説の一つや二つは読んでください。その当時のことが生々しく書かれています。
私は、やはり家族が大事、家族がいいというのは、そこにそれぞれの自立した人間、人権を保障された人間がいて、男も女も、その人たちが自分たちで本当に愛情と信頼を持っていい家族をつくっていきたいと思うからこそ家族なんですね。何かこの論点整理を見ていると、こんなことまで言わなきゃいけないのかという感じです。
この両性の平等の見直しと並んで提案されているのが、「公共の福祉」を「公共の利益」と言いかえるものです。これもたしか読売に出ていたような気がしますけれども。
公共の福祉というのは実は個人の福祉を増進させるものであって、両者は対立関係にあるものではありません。これは福祉の歴史をどうぞ、もう時間がありませんのでここでは言えませんけれども、ちょっと見てくださればわかるものです。何が公共の福祉であるかは、一般の市民が参加して、討議、話し合いによって決めていくものです。主導権は市民にあります。福祉は人権のもう一つの表現であり、たとえ利益がなくても、損になっても、例えば環境問題のように、守られるべきものなのです。公共の利益と言われると、短期的な視点から判断されるだけでなく、まあ利益というのは常に短期的になりがちなんですけれども、だれにとっての利益か、だれが何を公共の利益と決めるのか。権力に都合のいい判断で公共になって、強制立ち退きが命じられたり、軍事基地がつくられたり、幾らでも拡大解釈されることは、沖縄や成田の例が既に示していると思います。
これまでに挙げた例からもわかるように、自民党の論点整理が示しているのは、権力が決め、国民が従うという、国民主権の否定であるような気がします。
戦後、平和とともに国民が営々と築き上げてきた人権と民主主義は一体どうなっているの。二十四条の見直しなど絶対に許せないというのが、つい先週、私の地域で集まった、ある詩人をしのぶ会での男女を問わない発言でした。
自民党の中には、かつて婦人少年局長を務められて、女子差別撤廃の批准に努力された方もいらっしゃいますし、世界女性会議で女子差別撤廃を推進する発言をされた方もあります。世界女性会議のナイロビ会議に日本政府代表としてその女性の方は出席され、その後、法務大臣にもなられています。こういう方たちがこの論点整理に対してどんなお考えをお持ちなのか。これも私は、どうも不思議な気がしてなりません。
このような人権意識の後退は、改憲、つまり九条見直しの思想と深くつながっています。今、日本が世界有数の軍事力を持ち、しかもアメリカの軍事力と一体化されつつあるために、それを押しとどめるだけの規範力を日本の九条は発揮できていません。しかし、国民は、軍事的な価値が社会の最高の価値だとは認めておらず、平和、人権、民主主義の持つ基本的な価値を軍事的な価値よりも高度な価値として認めています。それは、九条が持つ価値観が国民の中にまだ根を張って残り続けているからでしょう。
九条が空洞化しているといっても、もし日本が九条を持っていなかったら、日本は好戦的なアイデンティティーを持つ強大な軍事国家とみなされて、反省のない国として、韓国を初めとする近隣諸国の日本に対する憎しみは解消できず、日米の産軍複合企業は武器の売買で利益を上げ、マスメディアは相変わらず不十分にしか批判的な意見を持ち得ず、独立性も持てないままになっただろうというのは、日本の憲法を研究しているアメリカの憲法学者の本に書いてあることです。
九条は空洞化したと言うけれども、本当に空洞化していたら、改憲論者はこんなに躍起になって憲法改正を叫んだでしょうか。九条は、アメリカと一緒にどこでも戦争できるということを阻止しているからこそ邪魔者扱いにされているのだと思います。
国民の生活の福祉を支える人権文化は、武力による軍事文化とは相入れません。
軍事文化は情報を秘匿しますが、民主主義は、公の持つ情報を公開させて、国民自身が判断し、自己決定権を持つことを国民主権だと考えています。軍事文化は、上からの命令を批判することを許さず、すべての決定権を上が握って、下に命令します。しかし、民主主義の人権文化は、個人の尊厳が認められ、相互に自由な討議や話し合いによって公共の場や共通規則をつくっていくという過程を大事にしています。個人が政治にも社会にも参加することを促進しています。軍事文化は、武力で勝つことによって、あるいは人を殺すことによって物事を解決しますが、人権文化は暴力を否定し、人の命を大切にする福祉社会をつくろうとしています。九条はその結実なのです。
民主主義は、平等に向けて絶えず努力して、差別を除く人間社会をつくろうとしています。力によって勝ち負けを決め、力によって物事を解決しようとする軍事文化と、競争の勝者が優位に立って支配権を握る弱肉強食の社会には、どこか共通性があるのじゃないでしょうか。
自分の子供が殺されるのは嫌、だけれども、イラクの子が殺されるのはやむを得ない。十万人の殺されたイラク人の七割が女性と子供です。いまだにイラク武力攻撃を支持する人が改憲を唱えているのを見ると、何か心配です。
自分が地雷で足を失うのは嫌、だけれども、地雷も武器の輸出もいい。国民には厳しく銃の取引を規制しているのに、何で大企業なら武器の商売をしてもいいのでしょうか。私の経験でも、地雷や銃が発見されるたびに、救援の現場では、国際的なNGOの人たちが、一体この武器はどこの国で生産されたのかといつも問題にし、記録していました。
アメリカが空爆を始めたときに、アメリカのジャーナリストたちはその説明をアメリカの当局者から聞いたわけですが、そのときに、ただ一人、初老の女性のヘレン・トーマスさんという女性記者が次のように質問しました。説明は伺いました、でも、なぜ罪もない子供が殺されなければならないのですかと。政府はだれもそれに答えられなかったと聞いています。この問いこそ、本当に根本的な人間としての問いであると私は思っています。
自衛隊にも、御苦労さまという言葉で言っていますけれども、自衛隊は死んでもいいんだ、私は死にたくない、だけれども、自衛隊の人は死傷者が出てもやむを得ない。これも差別意識ではないでしょうか。
私は、もうこれで時間がないので、あとは御質問のときにお答えしたいと思いますが、このような差別というものは、戦争、武力というものと必ずついて回るものです。それゆえに、私は、九条の改定にも反対ですし、こういう差別意識を持たれる武力というものがいずれシビリアンコントロールを抜け出して大きくなっていくのではないかという心配も非常に大きく持っております。
以上で私の話を終わります。拍手
この発言だけを見る →きょうは、お招きいただきまして、ありがとうございました。
実は、ここにお招きいただいたときに、私の研究仲間の人たちにもそのことを言ったんですけれども、その人たちは、やめなさいと。世間の評判によると、甚だふまじめで、議員の人たちが私語をしょっちゅうしたり、出たり入ったり、欠席も多くて、どうもまじめに聞いてくださらないという評判だ、そんなところに行っても仕方がないから、自分は頼まれたんだけれども断った、何でそんなところへ行くんですかと言われたんですけれども、私は、たとえそうであっても、私の意見を聞いてくださる方があるということで、きょうは喜んで伺いました。でも、きょうは、その評判に比べると、皆様とてもまじめに、欠席はありますけれども、聞いてくださっているので、とてもありがたいことだと思っています。
私は、次の二点に絞って意見を述べたいと思っております。
私の専門分野は国民生活に関する調査研究ですので、まず第一には、憲法九条が国民生活とどのようなかかわりを持っているか、九条がなし崩しになることによって国民生活にどのような変化が起こりつつあるかということについてお話しします。
第二点は、私が十三年間かかわっている、紛争下での難民、孤児、病人、貧困者を救援しているNGOの活動の中で、国際貢献について私がどのように考え続けているかということについてお話ししたいと思っています。
まず第一点について言えば、現在私たちが十分とは言えないにしても享受している人権も環境も福祉も民主主義も言論の自由も、平和憲法がなければあり得なかったということです。
憲法十条から四十条までの三十一カ条にわたる人権規定。憲法十一条の基本的人権、十九条の思想、良心の自由、二十四条の家庭生活における個人の尊厳と両性の平等、二十五条の国民の生存権など、私たちの日々の暮らしを支えている人権規定は、すべて九条の規範と表裏一体となっているものだと思います。
こう言うと、すぐに、それは一国平和主義だという声が聞こえてきそうですが、そのような御心配は要りません。国民の人権と福祉のレベルが高い国ほど、例えば北欧の国々の国際援助の国内総生産に占める割合は、日本よりもはるかに高く、公的な資料で、日本はGDP比〇・二三、デンマーク一・〇三、スウェーデン、ノルウェーともに〇・八一という状況で、NGOの活動も、私は国際的な舞台でNGOの人たちとよく会いますけれども、本当に質が高いです。北欧の政治家の国際紛争調停能力、これは政治家でも官僚でもそうですけれども、外交力の能力は国際的に高く評価されて、また信頼もされております。ブルントラントさんとかパルメさんとか、皆さん方もよく御存じだと思います。そういう能力は日本の比ではないでしょう。
私はむしろ、自分の国で平和と人権を尊重している国こそが、外国への本当の意味の人道援助ができる国であると思っています。
現在の日本社会のように、社会格差と差別思想がだんだん広がってきて、いわゆる勝ち組、負け組の世界に分裂し、国の政策も、税制や補助金やその他でそれを推し進める傾向にあります。労働の世界では、低賃金で不安定な労働。社会保険もつかないし社内研修による能力向上の機会も与えられないフリーターと正規社員との格差が広がっています。このフリーターが現在もう五百万人を超えているということは御存じですよね。政府の審議会や協議会の座長を務める財界のある方は、それを鉛筆のしんと周りの木に例えて、しんはエリート社員で大切にされるが、木はパートや使い捨てのフリーターだというふうに公に言っておられます。
政府の役割は、新自由主義の市場が生んだそれらの格差に自立援助をして、非人間的な格差や差別を是正していくことにあると思うのですけれども、失業者、不安定労働者、ホームレス、それから、もう三万四千に達するという自殺者の数、こういう傾向が固定化していっていることに対しても大変冷淡であると私は考えております。
生活の土台がこういうふうに破壊されていくことが実は経済の不況からの脱出を阻んでいるのですけれども、持続できない目先の利益を求めて、大きな損という対応しかとれていないのが日本の現状であると考えております。経済の長期的な発展も国際貢献も、すべての基礎は人権の尊重に由来しているのに、国内の人権意識が衰えていくのは、人権に逆行する軍事化路線が強くなっていっているからではないでしょうか。
こういうことを言いますと、よく若い方が、もう戦前の人の話は結構というふうに言われるのですけれども、例えばマラリアにしても何にしても、一遍病気になった人は、その病気が再発するときには、あっ、また始まったとすごく敏感にわかるものです。私は戦前の経験も持っていますので、パターンこそ違いますけれども、やはり、あっ、また始まりつつあるなという感じを持っています。
以上述べたことだけでなくて、子供の人間としての自然で豊かな人格全体の発達を助ける教育の世界にまで短期的な市場の競争原理が持ち込まれ、子供の生活をゆとりのない苦しいものにしているだけでなく、バランスのとれた人格の円満な発達を妨げています。
今、子供たちも若者たちも人間関係をつくることがすごく苦手ですね。処理能力はあるんです。特にエリートと言われる人たちは、ばりばりと処理はします。しかし、考える力や創造性に欠ける子供が多いことは国際的にも知られているところです。これは、PISAという、十五歳の子供の国際比較のテストがありました。このときに、日本の子供は計算力もあるし法則も覚えているんだけれども、考える力、創造性というものがないということを、きちんと分析の結果、言われています。
それなのに、今は、学校間競争をあおったり、一斉テストをしてその結果を公表したりしようということが本当の子供の能力を開花させることではないのに、これも、もう目先の何か結果を求めるわけですね。この競争の息苦しさへの批判を封じ込めるように、管理主義的な道徳とか愛国心が上から押しつけられています。
私はもう四十年も教師をしておりますので、大学に入ってくる前の学校教育も常に見学をしたり教師の意見を聞いたり、親との集まりに出席しているわけですけれども、序列づけ、競争によって人間という一つの人格を順番づけにすると、子供は攻撃性を非常に強く持つようになります。
それから、おまえは成績が悪いと言われた子、例えば習熟度別学級の一番下のクラスに入れられた子、こういう子は早くから挫折感を持って、ああ、どうせ自分は頭が悪いんだ、もう何をしてもどうせだめなんだと、それでいよいよだめになっていくんですね。世界の教育者の会議で、子供のときにおまえはだめだと思わされた子供はもう一生取り返せないというのは、世界の教育者の認識です。まれに何かの体験で自信を取り戻すということはないとは言えないんですけれども、一般的には、だめ人間をつくっていってしまうんですね。
それなのに、今は、学校間競争があったり、あからさまに、例えばこれも文部省の教育課程審議会の会長もされたと思うんですけれども、ある文学者の有名な方が、できぬ者はできぬままで結構、戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた努力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける、百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます、限りなくできない非才、無才にはせめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんですというようなことを公言されておりますね。私は、教育者として、こういう社会になったらこれはもうおしまいだなというふうに思っています。
それと歩調を合わせるように、批判を逆に封じ込めて、愛国心の強制や、東京都の教育に見られるような上からの強権的な統制、これは民主主義や人権に反するだけでなく、何か軍国主義的な歩調を感じさせて、九条を邪魔者扱いにしている流れと改憲を声高に言われる方の思想と、どこかでつながっているんじゃないのかしらと私は思って見ております。
このようなことを述べるのは、実は、自民党の憲法改正プロジェクトチームの論点整理に見られますように、お上が決めて国民を従わせるという、何かそういう底流が非常に強く流れている、つまり、反国民主権の考えが流れているように思えるからです。もっとも、これは論点整理でありまして、自民党が結果的にそうするとおっしゃっているわけではないのですけれども、私は、率直に言わせていただければ、この論点整理を読んだとき、ええ、こういう考えの人たちが憲法改正、九条見直しを唱えているのという、本当に大きな驚きを感じました。これは私だけではない、広範囲な人たちが言っていることです。
私は、文学も音楽も、あるいは家計簿を研究する生活研究も教育者の集まりにも、非常に幅広くその中に参加している人間ですけれども、例えば一例を挙げますと、「見直すべき規定」として、「婚姻・家族における両性平等の規定」、憲法二十四条ですが、これは「家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。」とはっきり書かれております。両性の平等を見直すべきであるなんというのは、ちょっと、本気かなと思うくらいです。
日本は、既に国連の女子差別撤廃条約を一九八五年に批准して、国内法もこれに適合するように改めていますし、一九九九年、男女共同参画社会基本法によって、今、性差というものが歴史的、社会的にどんなふうにつくり上げられてきたのかわからない、これをきちんと研究しましょうという見直しですね、これも合意されています。
日本で憲法を改正して両性の平等をこれから見直しましょうなんということは、性差別のない社会、性差別だけでなくて、人種差別でもあらゆる差別がない方がいいということを願っている私たちにとっても、それから、国際人権法の最も重要な柱として、国際人権法の中でも根本的な地位を占めている女性差別撤廃、今度のような両性の平等を見直すなんということを言われると、国際人権法と根本的な衝突をすることになります。今や人権規定はグローバルなものとして国際的に認められていますので、このような両性の平等を見直すという提案そのものがもう時代錯誤的なのです。この提案は、最初、読売新聞が行ったものであったと私は記憶しております。
皆様方、日常の御生活の中でも、それぞれが愛情と信頼を持って家族をつくるからこそ、家族でしょう。ただ共同体という、家族は共同体だというその形だけを保存しておくために、例えば、今ドメスティック・バイオレンスという家庭内暴力の話なども出ていますけれども、そういうことは何か隠しておくというか、あるいは昔の家制度みたいに、ともかく女は、まあ女はとここには書いてありませんけれども、一方が一方に文句なく従う。
でも、時代を見てください。昔、妻は所得もなかったから、そうするより仕方がなかったかもしれません。あるいは、天皇制を頂点とする家制度というのがあったので、それにがんじがらめに縛られていた。今度、お札に樋口一葉さんが出ていますけれども、皆さん、昔のことを知りたかったら、樋口一葉の小説の一つや二つは読んでください。その当時のことが生々しく書かれています。
私は、やはり家族が大事、家族がいいというのは、そこにそれぞれの自立した人間、人権を保障された人間がいて、男も女も、その人たちが自分たちで本当に愛情と信頼を持っていい家族をつくっていきたいと思うからこそ家族なんですね。何かこの論点整理を見ていると、こんなことまで言わなきゃいけないのかという感じです。
この両性の平等の見直しと並んで提案されているのが、「公共の福祉」を「公共の利益」と言いかえるものです。これもたしか読売に出ていたような気がしますけれども。
公共の福祉というのは実は個人の福祉を増進させるものであって、両者は対立関係にあるものではありません。これは福祉の歴史をどうぞ、もう時間がありませんのでここでは言えませんけれども、ちょっと見てくださればわかるものです。何が公共の福祉であるかは、一般の市民が参加して、討議、話し合いによって決めていくものです。主導権は市民にあります。福祉は人権のもう一つの表現であり、たとえ利益がなくても、損になっても、例えば環境問題のように、守られるべきものなのです。公共の利益と言われると、短期的な視点から判断されるだけでなく、まあ利益というのは常に短期的になりがちなんですけれども、だれにとっての利益か、だれが何を公共の利益と決めるのか。権力に都合のいい判断で公共になって、強制立ち退きが命じられたり、軍事基地がつくられたり、幾らでも拡大解釈されることは、沖縄や成田の例が既に示していると思います。
これまでに挙げた例からもわかるように、自民党の論点整理が示しているのは、権力が決め、国民が従うという、国民主権の否定であるような気がします。
戦後、平和とともに国民が営々と築き上げてきた人権と民主主義は一体どうなっているの。二十四条の見直しなど絶対に許せないというのが、つい先週、私の地域で集まった、ある詩人をしのぶ会での男女を問わない発言でした。
自民党の中には、かつて婦人少年局長を務められて、女子差別撤廃の批准に努力された方もいらっしゃいますし、世界女性会議で女子差別撤廃を推進する発言をされた方もあります。世界女性会議のナイロビ会議に日本政府代表としてその女性の方は出席され、その後、法務大臣にもなられています。こういう方たちがこの論点整理に対してどんなお考えをお持ちなのか。これも私は、どうも不思議な気がしてなりません。
このような人権意識の後退は、改憲、つまり九条見直しの思想と深くつながっています。今、日本が世界有数の軍事力を持ち、しかもアメリカの軍事力と一体化されつつあるために、それを押しとどめるだけの規範力を日本の九条は発揮できていません。しかし、国民は、軍事的な価値が社会の最高の価値だとは認めておらず、平和、人権、民主主義の持つ基本的な価値を軍事的な価値よりも高度な価値として認めています。それは、九条が持つ価値観が国民の中にまだ根を張って残り続けているからでしょう。
九条が空洞化しているといっても、もし日本が九条を持っていなかったら、日本は好戦的なアイデンティティーを持つ強大な軍事国家とみなされて、反省のない国として、韓国を初めとする近隣諸国の日本に対する憎しみは解消できず、日米の産軍複合企業は武器の売買で利益を上げ、マスメディアは相変わらず不十分にしか批判的な意見を持ち得ず、独立性も持てないままになっただろうというのは、日本の憲法を研究しているアメリカの憲法学者の本に書いてあることです。
九条は空洞化したと言うけれども、本当に空洞化していたら、改憲論者はこんなに躍起になって憲法改正を叫んだでしょうか。九条は、アメリカと一緒にどこでも戦争できるということを阻止しているからこそ邪魔者扱いにされているのだと思います。
国民の生活の福祉を支える人権文化は、武力による軍事文化とは相入れません。
軍事文化は情報を秘匿しますが、民主主義は、公の持つ情報を公開させて、国民自身が判断し、自己決定権を持つことを国民主権だと考えています。軍事文化は、上からの命令を批判することを許さず、すべての決定権を上が握って、下に命令します。しかし、民主主義の人権文化は、個人の尊厳が認められ、相互に自由な討議や話し合いによって公共の場や共通規則をつくっていくという過程を大事にしています。個人が政治にも社会にも参加することを促進しています。軍事文化は、武力で勝つことによって、あるいは人を殺すことによって物事を解決しますが、人権文化は暴力を否定し、人の命を大切にする福祉社会をつくろうとしています。九条はその結実なのです。
民主主義は、平等に向けて絶えず努力して、差別を除く人間社会をつくろうとしています。力によって勝ち負けを決め、力によって物事を解決しようとする軍事文化と、競争の勝者が優位に立って支配権を握る弱肉強食の社会には、どこか共通性があるのじゃないでしょうか。
自分の子供が殺されるのは嫌、だけれども、イラクの子が殺されるのはやむを得ない。十万人の殺されたイラク人の七割が女性と子供です。いまだにイラク武力攻撃を支持する人が改憲を唱えているのを見ると、何か心配です。
自分が地雷で足を失うのは嫌、だけれども、地雷も武器の輸出もいい。国民には厳しく銃の取引を規制しているのに、何で大企業なら武器の商売をしてもいいのでしょうか。私の経験でも、地雷や銃が発見されるたびに、救援の現場では、国際的なNGOの人たちが、一体この武器はどこの国で生産されたのかといつも問題にし、記録していました。
アメリカが空爆を始めたときに、アメリカのジャーナリストたちはその説明をアメリカの当局者から聞いたわけですが、そのときに、ただ一人、初老の女性のヘレン・トーマスさんという女性記者が次のように質問しました。説明は伺いました、でも、なぜ罪もない子供が殺されなければならないのですかと。政府はだれもそれに答えられなかったと聞いています。この問いこそ、本当に根本的な人間としての問いであると私は思っています。
自衛隊にも、御苦労さまという言葉で言っていますけれども、自衛隊は死んでもいいんだ、私は死にたくない、だけれども、自衛隊の人は死傷者が出てもやむを得ない。これも差別意識ではないでしょうか。
私は、もうこれで時間がないので、あとは御質問のときにお答えしたいと思いますが、このような差別というものは、戦争、武力というものと必ずついて回るものです。それゆえに、私は、九条の改定にも反対ですし、こういう差別意識を持たれる武力というものがいずれシビリアンコントロールを抜け出して大きくなっていくのではないかという心配も非常に大きく持っております。
以上で私の話を終わります。拍手
中
中
加
加藤勝信#9
○加藤(勝)委員 自由民主党の加藤勝信でございます。
きょうは、公述人のお三人の方々には、大変お忙しい中にもかかわりませず御出席をいただきまして、また、それぞれのかかわってこられた分野から憲法についてのそれぞれの御意見をいただいて、本当にありがたく思っております。
それぞれの皆さんが活動されている分野が違うので、個々に、順番にお聞かせいただきたいと思います。
まず、植松公述人からお話をお聞かせいただきたいと思うのでありますけれども、公述人のお話の中で、やはり常に命のとうとさということがテーマにあったように思います。ある意味では行き過ぎた個人主義というんでしょうか、自分の命は自分のものなんだ、だから勝手にしようがいいじゃないかというような意見、特に若い方を中心にそんな意見も私どもも聞くわけであります。
私は、もちろん自分の命は自分のものであることは間違いないわけでありますけれども、同時に、私どもがこの社会に生まれて今日に至る間において、いろんな方から、ある意味では生かされているんだ、したがって、自分の命は自分のものであるとともに、どういう言い方をすればいいかわかりませんが、ある意味ではみんなのものである、そういう部分が大事じゃないのかなという気がするわけであります。
そういう中で、今、直接医療の現場におられて、長い御経験を持っておられると思うんですけれども、これまでの御経験の中で、例えば三十年、四十年ぐらい前と今日と、患者さんが来られて、また患者さんの生や死に対する思いというんでしょうか感覚というんでしょうか、そういうものにどういうようにこれまでの間に変化があったのか、現場におられた医師としてかかわってこられた、そういうお立場で少しお話をいただければと思います。
この発言だけを見る →きょうは、公述人のお三人の方々には、大変お忙しい中にもかかわりませず御出席をいただきまして、また、それぞれのかかわってこられた分野から憲法についてのそれぞれの御意見をいただいて、本当にありがたく思っております。
それぞれの皆さんが活動されている分野が違うので、個々に、順番にお聞かせいただきたいと思います。
まず、植松公述人からお話をお聞かせいただきたいと思うのでありますけれども、公述人のお話の中で、やはり常に命のとうとさということがテーマにあったように思います。ある意味では行き過ぎた個人主義というんでしょうか、自分の命は自分のものなんだ、だから勝手にしようがいいじゃないかというような意見、特に若い方を中心にそんな意見も私どもも聞くわけであります。
私は、もちろん自分の命は自分のものであることは間違いないわけでありますけれども、同時に、私どもがこの社会に生まれて今日に至る間において、いろんな方から、ある意味では生かされているんだ、したがって、自分の命は自分のものであるとともに、どういう言い方をすればいいかわかりませんが、ある意味ではみんなのものである、そういう部分が大事じゃないのかなという気がするわけであります。
そういう中で、今、直接医療の現場におられて、長い御経験を持っておられると思うんですけれども、これまでの御経験の中で、例えば三十年、四十年ぐらい前と今日と、患者さんが来られて、また患者さんの生や死に対する思いというんでしょうか感覚というんでしょうか、そういうものにどういうようにこれまでの間に変化があったのか、現場におられた医師としてかかわってこられた、そういうお立場で少しお話をいただければと思います。
植
植松治雄#10
○植松公述人 私が医師になりましたのは、昭和三十年に卒業しておりますから、もう来年で五十年になるわけでございますが、そのころといいますのは、やはり戦争というものの中で、現実に身近に命を失った人がたくさんあった、また、家庭におきましても、いわゆる病気で亡くなる場合もほとんどが家庭で亡くなっておったという中で、人間の死というものは、皆さんが目にし感じてきた中での命という考え方が、身をもって体験したというか、あったように思います。そういう中では、やはり死というものを見ながら、命の大切さというもの、生きていることの幸せということを感じておったと思います。
現在、特に若い人を含めまして、この人間の終末、死というものを目に見ることが少なくなった。多く見ておりますのは、テレビゲームその他、テレビもそうでございますけれども、バーチャルの世界で死というものがある。このバーチャルの死というものは必ず生き返るんですね。だから、そういう中で、死というものを現実に直面して考え体験することがない。もう一方でございます個人主義的な考え方という中で、命は自分のもの、ただ単にそこにある、だから私は私の命だというふうなことがあるわけでございますので、その辺のところは毎日の中で十分に感じておるわけでございます。
そういうことを考えますと、やはりそういうことも含めて、いわゆる命の尊厳、あるいは人間として存在することの意味というものをこれから教えるということは非常に大切なことでございますし、これこそが教育改革にもつながるのでございましょうけれども、大事な問題だというふうに思っております。
そして、自殺する人自体につきましても、本当に死というものを考えておるかというと、これが自分の中で、もう頭の中で既に自分の命、死というものをバーチャル化されているのではないかというふうに思っております。
だから、終末期医療も含めまして、今改めて、生、老、病、死、このものについてどう考えるかということをきっちりとやはりやっていかなければならぬというふうに思っております。
この発言だけを見る →現在、特に若い人を含めまして、この人間の終末、死というものを目に見ることが少なくなった。多く見ておりますのは、テレビゲームその他、テレビもそうでございますけれども、バーチャルの世界で死というものがある。このバーチャルの死というものは必ず生き返るんですね。だから、そういう中で、死というものを現実に直面して考え体験することがない。もう一方でございます個人主義的な考え方という中で、命は自分のもの、ただ単にそこにある、だから私は私の命だというふうなことがあるわけでございますので、その辺のところは毎日の中で十分に感じておるわけでございます。
そういうことを考えますと、やはりそういうことも含めて、いわゆる命の尊厳、あるいは人間として存在することの意味というものをこれから教えるということは非常に大切なことでございますし、これこそが教育改革にもつながるのでございましょうけれども、大事な問題だというふうに思っております。
そして、自殺する人自体につきましても、本当に死というものを考えておるかというと、これが自分の中で、もう頭の中で既に自分の命、死というものをバーチャル化されているのではないかというふうに思っております。
だから、終末期医療も含めまして、今改めて、生、老、病、死、このものについてどう考えるかということをきっちりとやはりやっていかなければならぬというふうに思っております。
加
加藤勝信#11
○加藤(勝)委員 今のお話の中で、特に死というものをどうとらえていくのか。特に、家族の中でもちろんおじいさん、おばあさんが亡くなるということもあるわけでありますけれども、どちらかというと今離れている、核家族という中、場合によっては施設に入っておられる、そういう中で、死というものが非常に遠いもの、ある意味でなかなか実感されなくなってきた。
そういうことを含めて、今ちょっとお話がありましたけれども、やはり死というものをしっかりと教育していく、そして、そこから生まれてくる生というものをどうとらえ直すか、そのことは大変重要だというふうに私は思っておりますし、ある意味では宗教的な宗教心というものに私はつながっていくのではないかと思うんですけれども、そういう、医療という立場と宗教心というものと、その辺をどのようにとらえておるのかお話しいただきたいと思います。
この発言だけを見る →そういうことを含めて、今ちょっとお話がありましたけれども、やはり死というものをしっかりと教育していく、そして、そこから生まれてくる生というものをどうとらえ直すか、そのことは大変重要だというふうに私は思っておりますし、ある意味では宗教的な宗教心というものに私はつながっていくのではないかと思うんですけれども、そういう、医療という立場と宗教心というものと、その辺をどのようにとらえておるのかお話しいただきたいと思います。
植
植松治雄#12
○植松公述人 これはもう中山会長が十分に御経験があると思うんですが、脳死臓器移植が問題になりましたときに、やはりこれで一番難しかったのは、臓器を移植するというよりも、脳死の状態をどのように判定するかということが大事であった。そのときに、いろいろな面での考え方がございました。
その中で、日本の宗教といいますものを、私どもは、自分のところは仏教だと思っておるわけでございますけれども、お盆が来たときにどうこうという、いろいろなことを見ますと、流れておりますのは、仏教といいますよりも、いわゆる儒教の精神というところがある。これがおのおのの生活の中のリズムの中で、信じているとか信じていないということとは別に、お盆になったら御先祖様の魂が帰ってくるというところ、このあたりは、宗教というよりも何となく生命観の中で息づいているのかなと。
だから、日本の中では、やはり今までから、脳死の問題も含めました中で、宗教というものが日本で、人間の生死の問題にかかわって深く主導性を持ったということもないですし、心の中に深く刻み込まれておったものでもない。日本の中では、いわゆるやおよろずの神というような感じで、どこにも神さんがおるというふうな感覚、こういうふうなもので、いわゆる宗教とは別のものであるのではなかろうか。
日本の中では、宗教というものは生死に関しましてもそう深く関与してこなかったのではないか、そこのところに今の難しさも少々あるのかなというふうに思っております。
この発言だけを見る →その中で、日本の宗教といいますものを、私どもは、自分のところは仏教だと思っておるわけでございますけれども、お盆が来たときにどうこうという、いろいろなことを見ますと、流れておりますのは、仏教といいますよりも、いわゆる儒教の精神というところがある。これがおのおのの生活の中のリズムの中で、信じているとか信じていないということとは別に、お盆になったら御先祖様の魂が帰ってくるというところ、このあたりは、宗教というよりも何となく生命観の中で息づいているのかなと。
だから、日本の中では、やはり今までから、脳死の問題も含めました中で、宗教というものが日本で、人間の生死の問題にかかわって深く主導性を持ったということもないですし、心の中に深く刻み込まれておったものでもない。日本の中では、いわゆるやおよろずの神というような感じで、どこにも神さんがおるというふうな感覚、こういうふうなもので、いわゆる宗教とは別のものであるのではなかろうか。
日本の中では、宗教というものは生死に関しましてもそう深く関与してこなかったのではないか、そこのところに今の難しさも少々あるのかなというふうに思っております。
加
加藤勝信#13
○加藤(勝)委員 今お話しいただきました、宗教という問題と、ある意味では倫理という問題、この辺をこれからどう日本の中でもう一度見つけ直していくのか、築き直していくのか、私は一つのポイントだと思うんです。
このお話ばかりしてもあれなんで、別途、憲法二十五条いわゆる生存権と医療のお話をしていただいたわけであります。
通常、この二十五条を受けて、医療保険制度を含めてさまざまな社会保障の制度、こういったものも創設をされているということになるわけであります。また、そういう中で、医療分野について言えば、ここにお書きになっている国民皆保険制度のお話、問題、あるいは先ほど少し触れていただきました終末医療というものをどうとらえるか等々出てきているわけであります。
植松公述人といたしまして、憲法二十五条が求めている医療における対応というんでしょうか、貢献といったものはどういうものなのか、そこを少し具体的にお話をいただきたいと思います。
この発言だけを見る →このお話ばかりしてもあれなんで、別途、憲法二十五条いわゆる生存権と医療のお話をしていただいたわけであります。
通常、この二十五条を受けて、医療保険制度を含めてさまざまな社会保障の制度、こういったものも創設をされているということになるわけであります。また、そういう中で、医療分野について言えば、ここにお書きになっている国民皆保険制度のお話、問題、あるいは先ほど少し触れていただきました終末医療というものをどうとらえるか等々出てきているわけであります。
植松公述人といたしまして、憲法二十五条が求めている医療における対応というんでしょうか、貢献といったものはどういうものなのか、そこを少し具体的にお話をいただきたいと思います。
植
植松治雄#14
○植松公述人 日本の医療といいますものは、今の位置づけでは国民皆保険制度ということでございますが、これがそもそもこういうふうな形になりましたのは、私は、戦後におきましての日本での社会保障というもののあり方、これの中で、いわゆる救貧措置ということで始まりました社会保障というものが今や全く普遍的なものになってきた。このように、社会保障という概念が変わりながらも大きくなってきたという中で、一番にこれを支える柱が医療であるというふうなことが十分あったというふうに思っております。
そして、医療というものが、皆保険制度は今のようになったわけでございますが、この間、昭和三十六年でございますから今から四十年余り前なんです。まだそれほどもたっていない。それにもかかわらず、この国民皆保険制度、医療制度というものが今や全く形を変えようとしている、危機的な状態になっておるということでございますので、私は、この医療保険というものはやはり、社会保障の中で最も重視すべき、これは命の問題でございます。
その中で、先ほども出ておりましたけれども、今の政策の中で、思想的には新自由主義的な考え方、そして市場経済原理こそが最高であるという流れの中で、医療の改革というのが進められつつあるわけでございますが、そもそも命というもの、健康というものは、市場経済に合わないということは十分に御理解がいただけると思います。
市場におきましての売り手、買い手ということでございますれば、売り手でございます医療機関と買い手である患者さん、この中で、売り手の失敗が起こらないように医療機関の資質の向上、サービスの向上は大事でございますが、買い手でございます患者さんがお金がないということで買えない、いわゆる市場の失敗を来したときには、命を失うか健康に大きな被害があるということになりますと、これは買い手に負けをつくってはならぬということでありますので、その一点からでも市場経済を導入する、考えを入れるということは間違いでございますし、そういう失敗が起こらないためにということで恐らく組み立てられていったのが国民皆保険制度でございます。
これは、お互いが個々の人のリスクをヘッジすると同時に、みんなで助け合ってみんなのリスクをヘッジしていこうというためにできたものでございますので、この互助の精神でできてきた、そして、今それが危機に瀕しております国民皆保険制度というものは、どうしても守らなければならないと思いますし、現在の日本が置かれております、WHOの報告でもございますように、健康度あるいは平均寿命、平均健康寿命ともに世界一でございますし、乳幼児死亡は一番低いというこの今の状況を守るというためには、国民皆保険制度というものがこれをなし遂げたということを考えれば、これをやはり守るということは基本に置くべきだというふうに思っております。
この発言だけを見る →そして、医療というものが、皆保険制度は今のようになったわけでございますが、この間、昭和三十六年でございますから今から四十年余り前なんです。まだそれほどもたっていない。それにもかかわらず、この国民皆保険制度、医療制度というものが今や全く形を変えようとしている、危機的な状態になっておるということでございますので、私は、この医療保険というものはやはり、社会保障の中で最も重視すべき、これは命の問題でございます。
その中で、先ほども出ておりましたけれども、今の政策の中で、思想的には新自由主義的な考え方、そして市場経済原理こそが最高であるという流れの中で、医療の改革というのが進められつつあるわけでございますが、そもそも命というもの、健康というものは、市場経済に合わないということは十分に御理解がいただけると思います。
市場におきましての売り手、買い手ということでございますれば、売り手でございます医療機関と買い手である患者さん、この中で、売り手の失敗が起こらないように医療機関の資質の向上、サービスの向上は大事でございますが、買い手でございます患者さんがお金がないということで買えない、いわゆる市場の失敗を来したときには、命を失うか健康に大きな被害があるということになりますと、これは買い手に負けをつくってはならぬということでありますので、その一点からでも市場経済を導入する、考えを入れるということは間違いでございますし、そういう失敗が起こらないためにということで恐らく組み立てられていったのが国民皆保険制度でございます。
これは、お互いが個々の人のリスクをヘッジすると同時に、みんなで助け合ってみんなのリスクをヘッジしていこうというためにできたものでございますので、この互助の精神でできてきた、そして、今それが危機に瀕しております国民皆保険制度というものは、どうしても守らなければならないと思いますし、現在の日本が置かれております、WHOの報告でもございますように、健康度あるいは平均寿命、平均健康寿命ともに世界一でございますし、乳幼児死亡は一番低いというこの今の状況を守るというためには、国民皆保険制度というものがこれをなし遂げたということを考えれば、これをやはり守るということは基本に置くべきだというふうに思っております。
加
加藤勝信#15
○加藤(勝)委員 ありがとうございます。
一方で、今アメリカ等では、さらにもっと市場主義を医療分野でも進めていこう、そんな動きも見られるというふうにも聞いているわけでありますし、いろいろ議論が出ている混合診療等の議論は、今おっしゃった懸念の対象になっているんではないかというふうに思うわけであります。
ただ、これまでの五十年間という中を見られても、多分昔はどうにか傷が治ればいい、病気が治ればいいというような状況から、次に、さらにもっと暮らしのクオリティーというんですか、そういうものも非常に追求される時代になってきて、医療に求められているニーズというものが非常に多様化してきている。昔だったら科学的にといいましょうかこの水準をクリアすればそれでいいんだというものから、かなり個々においても求めてきている水準にばらつきが出てきているというのが今の状況になってきている。
それは、ある意味では豊かさの反映ではないかと私は思うわけでありますけれども、そういう中において、まさに権利としての、あるいは国家からいえば義務としての、社会権としての医療と、そして今申し上げたいろいろな多様性に対応した部分、これはいろいろ分かれてくる部分もあるんではないかなという意見あるいは思いもするわけでありますけれども、その点はいかがでございましょうか。
この発言だけを見る →一方で、今アメリカ等では、さらにもっと市場主義を医療分野でも進めていこう、そんな動きも見られるというふうにも聞いているわけでありますし、いろいろ議論が出ている混合診療等の議論は、今おっしゃった懸念の対象になっているんではないかというふうに思うわけであります。
ただ、これまでの五十年間という中を見られても、多分昔はどうにか傷が治ればいい、病気が治ればいいというような状況から、次に、さらにもっと暮らしのクオリティーというんですか、そういうものも非常に追求される時代になってきて、医療に求められているニーズというものが非常に多様化してきている。昔だったら科学的にといいましょうかこの水準をクリアすればそれでいいんだというものから、かなり個々においても求めてきている水準にばらつきが出てきているというのが今の状況になってきている。
それは、ある意味では豊かさの反映ではないかと私は思うわけでありますけれども、そういう中において、まさに権利としての、あるいは国家からいえば義務としての、社会権としての医療と、そして今申し上げたいろいろな多様性に対応した部分、これはいろいろ分かれてくる部分もあるんではないかなという意見あるいは思いもするわけでありますけれども、その点はいかがでございましょうか。
植
植松治雄#16
○植松公述人 医療ということ全般で考えますれば、高度先進医療を初めといたしまして、いわゆる高度医療というものが非常に脚光を浴びておるわけでございますけれども、これの対象になります人と、いわゆるコモンディジーズというふうなもの、あるいは生活習慣に基づいたもの、このようなものとを比べますと、数からいいますと、一般的な疾患がはるかに多いわけでございます。その中には、治るものも治らないものもある、また加齢に伴うもの、いろいろあるわけでございます。
そういう意味からいいますと、今、我々医療を担当しております者に求められております最大のものは、病を持った人トータルをどういうふうにケアしていくかということで、病気を治すということは当然でございますけれども、病気を持った人、その人をどのようにクオリティーを高めていって幸せにするかということが一番なわけでございます。そういう意味では、私どもは全人的医療ということを進めておりますし、そういうものに対しまして、いわゆるかかりつけ医というものが対応できるように、プライマリーケアの重視ということで進めておるわけでございます。
ただ、今の選択権その他の問題もございますけれども、今、混合診療の話その他で出ておりますもののどの部分が本当に混合診療でなければならないかということが示されておりませんし、極めて希薄なものであります。
医療と福祉というものを考えましたときに、いわゆる生活保障としての例えば年金というものにつきましては、社会生活一般のときでもそうでございますけれども、それぞれのレベルの中で生活をしております。ただ、病になったときの疾病に対しましての医療保険、これに対応するものは、ミニマムではなくオプティマムのものを当然求めるべきだということがございます。
そういうことを考えますれば、医療、医学というものが進歩いたしますとともに、医療保険の守備範囲というものは当然に広がるべきであって、その当時の医学のレベルに応じたものを国民に当然に提供すべきでございますし、そのことが、混合診療というふうな形のように、もし混合診療でなければならないというならば、そういう部分にある者が、お金がないがためにその医療を受けられないというふうなこと、医療は私は平等に与えられるべきであるというふうに思っております。
ただ、現在の国家財政その他の問題を抱えて、医療費の問題も議論になるわけでございますけれども、今、日本の医療費、GDP比にいたしましてアメリカの半分でございます。世界の先進国の中でも低いところにございまして、十七番目というところでございます。日本の国力から考えて、これに〇・何%か上積みすることができるのかどうかということを考えますと、決してそんな状況ではないというふうに思っておりますし、国民もそういうふうに望んでおると思います。
ただ、日本の皆保険制度というものは、今までに十分に機能してまいりました。そういうことで、国民の皆さん方は、この皆保険制度というものを空気か水のように当然にあるものというふうに信じておられるわけでございまして、今私どもが皆保険制度の危機とかと言いましても、そんなものは決して来ないよというふうな感覚で受けとめられておると思います。
そのこと自体は決して悪いことではないと思いますし、国がそこまでやられたということについては私は敬意を払うわけでございますけれども、そういう国民をこれからさらに不幸にすることのないように、先ほど申し上げましたオプティマムな医療は提供できるようにすべきで、しかも平等でなければならない。あくまでも、税であれ保険料であれ、あるいは一部負担金であれ、すべて出ていくのは国民の懐から出るお金でございます。
それをどのように配分するかということは、政治の決定でございますけれども、温かさを持った施策の中で、しかも将来に向けてどのような国家像を示し、そしてそのためにはどうあるべきかということで、現在のように、医療というものを成長産業というふうに位置づけて、それによって国の経済を活性化し、そして雇用を促進するというこの今の政府の目標というものは、まだ一歩先がある。経済が安定をしたときに、果たしてそれから先はどうかというと、国民が健康で幸せになれるということであります。
そういうことを思うと、政府といたしましては、その先の、健康で幸せな安全な国をつくるんだということを目標に挙げて、そのために経済の発展が大事だというふうなことであり、その間に国民の健康を阻害するようなものをつくっていきながら経済を発展させたときには、最後の到着点のところでは必ず失敗になるだろうということでありますので、新しい国のあり方を示していただいて、それがこれからの医療の改革にどうあるべきかということをお考えいただきたいというふうに思います。
この発言だけを見る →そういう意味からいいますと、今、我々医療を担当しております者に求められております最大のものは、病を持った人トータルをどういうふうにケアしていくかということで、病気を治すということは当然でございますけれども、病気を持った人、その人をどのようにクオリティーを高めていって幸せにするかということが一番なわけでございます。そういう意味では、私どもは全人的医療ということを進めておりますし、そういうものに対しまして、いわゆるかかりつけ医というものが対応できるように、プライマリーケアの重視ということで進めておるわけでございます。
ただ、今の選択権その他の問題もございますけれども、今、混合診療の話その他で出ておりますもののどの部分が本当に混合診療でなければならないかということが示されておりませんし、極めて希薄なものであります。
医療と福祉というものを考えましたときに、いわゆる生活保障としての例えば年金というものにつきましては、社会生活一般のときでもそうでございますけれども、それぞれのレベルの中で生活をしております。ただ、病になったときの疾病に対しましての医療保険、これに対応するものは、ミニマムではなくオプティマムのものを当然求めるべきだということがございます。
そういうことを考えますれば、医療、医学というものが進歩いたしますとともに、医療保険の守備範囲というものは当然に広がるべきであって、その当時の医学のレベルに応じたものを国民に当然に提供すべきでございますし、そのことが、混合診療というふうな形のように、もし混合診療でなければならないというならば、そういう部分にある者が、お金がないがためにその医療を受けられないというふうなこと、医療は私は平等に与えられるべきであるというふうに思っております。
ただ、現在の国家財政その他の問題を抱えて、医療費の問題も議論になるわけでございますけれども、今、日本の医療費、GDP比にいたしましてアメリカの半分でございます。世界の先進国の中でも低いところにございまして、十七番目というところでございます。日本の国力から考えて、これに〇・何%か上積みすることができるのかどうかということを考えますと、決してそんな状況ではないというふうに思っておりますし、国民もそういうふうに望んでおると思います。
ただ、日本の皆保険制度というものは、今までに十分に機能してまいりました。そういうことで、国民の皆さん方は、この皆保険制度というものを空気か水のように当然にあるものというふうに信じておられるわけでございまして、今私どもが皆保険制度の危機とかと言いましても、そんなものは決して来ないよというふうな感覚で受けとめられておると思います。
そのこと自体は決して悪いことではないと思いますし、国がそこまでやられたということについては私は敬意を払うわけでございますけれども、そういう国民をこれからさらに不幸にすることのないように、先ほど申し上げましたオプティマムな医療は提供できるようにすべきで、しかも平等でなければならない。あくまでも、税であれ保険料であれ、あるいは一部負担金であれ、すべて出ていくのは国民の懐から出るお金でございます。
それをどのように配分するかということは、政治の決定でございますけれども、温かさを持った施策の中で、しかも将来に向けてどのような国家像を示し、そしてそのためにはどうあるべきかということで、現在のように、医療というものを成長産業というふうに位置づけて、それによって国の経済を活性化し、そして雇用を促進するというこの今の政府の目標というものは、まだ一歩先がある。経済が安定をしたときに、果たしてそれから先はどうかというと、国民が健康で幸せになれるということであります。
そういうことを思うと、政府といたしましては、その先の、健康で幸せな安全な国をつくるんだということを目標に挙げて、そのために経済の発展が大事だというふうなことであり、その間に国民の健康を阻害するようなものをつくっていきながら経済を発展させたときには、最後の到着点のところでは必ず失敗になるだろうということでありますので、新しい国のあり方を示していただいて、それがこれからの医療の改革にどうあるべきかということをお考えいただきたいというふうに思います。
加
加藤勝信#17
○加藤(勝)委員 最後に、遺伝子操作等の話をおっしゃっておられて、これはこれからの大変大きな問題だろうというふうに思います。
私も子供が今四人おりますけれども、生まれてくる瞬間に、元気な子であれば、またそれぞれ頭がちょっとよければな、運動神経がということで、どんどん要望というのは高くなっていってしまう。あるいは、自分で見ても、一歳でも長生きしていきたいなという、ある意味では欲望というものは際限のない部分があって、それがだんだん何かかなうかのような、ある意味では幻想の部分もあるのかもしれませんけれども、そんなような形で技術が進んでいく、その辺をどこで調整していくのか。そして一方で、科学技術という意味ではどんどん進化させていかなければいけない、しかし、その応用というものをどこかで抑えていかなければいけない部分もある。
そこをどう調整していけばいいのかなという流れの中の一つのお考えが、最後に出てこられた生命と人体の尊厳という文言ではないかと思うのでありますけれども、今の遺伝子の部分、操作等も含めて、その辺をちょっとかいつまんで御意見を開陳していただければと思います。
この発言だけを見る →私も子供が今四人おりますけれども、生まれてくる瞬間に、元気な子であれば、またそれぞれ頭がちょっとよければな、運動神経がということで、どんどん要望というのは高くなっていってしまう。あるいは、自分で見ても、一歳でも長生きしていきたいなという、ある意味では欲望というものは際限のない部分があって、それがだんだん何かかなうかのような、ある意味では幻想の部分もあるのかもしれませんけれども、そんなような形で技術が進んでいく、その辺をどこで調整していくのか。そして一方で、科学技術という意味ではどんどん進化させていかなければいけない、しかし、その応用というものをどこかで抑えていかなければいけない部分もある。
そこをどう調整していけばいいのかなという流れの中の一つのお考えが、最後に出てこられた生命と人体の尊厳という文言ではないかと思うのでありますけれども、今の遺伝子の部分、操作等も含めて、その辺をちょっとかいつまんで御意見を開陳していただければと思います。
植
植松治雄#18
○植松公述人 医学と申しますのは、これは科学でございますので、科学はそれ自身どんどんと発展させようということで進むのは当然の話でございます。だから、今言う遺伝子の解析から、いろいろな問題に広がっていくということは当然でございます。
これは、昔の日本医師会会長であります武見太郎さんが言った言葉でございますが、医療は医学の社会的な適用であるというふうに言われております。医学は、今申し上げましたように、どんどんと進むわけでございます。これは科学として当然なことでございますが、これを医療という形に持っていきますためには、社会との関連ということになるわけでございます。その社会との関連ということになりますと、社会がどういう社会で、そこがどういうふうに倫理面を含めて認められるかという話になってくるだろうと思います。
そのためには、先ほど脳死の問題で申し上げましたように、社会になかなか御理解をいただけなくて進まなかったというこの現実も踏まえながら、医学の進歩をどこまで医療に適用できるかということについては、やはり今の時代でございますから、十分に情報を開示しながら、国民の皆様方、社会がどこまで受け入れられるかということを十分に御説明しながら進まなければならない。
ただ、やはりその中に基本といたしまして、人間としてどうあるべきか、どこまでできるか、いわゆる生命の倫理はどこにあるかということが大事でございます。その生命倫理につきましては、各国で考えましたときに、これはやはり歴史、文化、宗教というものが大きなかかわりがございます。だから、同じようなものであっても、許される国と許されない国がある。その中で、日本という国、社会の中でどこまでこれが認められていくかということについては、非常に大きな問題でございます。
科学の進歩と宗教、哲学あるいは倫理学の進歩というものが相伴っていくということが望ましいわけでございますけれども、この倫理観その他につきましては、科学の進歩と必ずしも並行しておらない、そちらの方がややおくれてついてきているという中で混乱が起こっておる。特に生殖医療におきまして出ている問題、これはやはり倫理面で大きな問題がある。しかも、社会の皆さん方の御理解がまだ十分でないということでありますので、科学をいたします学者と、医療を行います私どもの立場とを考えますと、我々が国民にお話を申し上げながら、どこまでやれるかということを慎重にやらなければならぬという問題で、これからますます深刻な問題が出てくるだろうと思っております。
この発言だけを見る →これは、昔の日本医師会会長であります武見太郎さんが言った言葉でございますが、医療は医学の社会的な適用であるというふうに言われております。医学は、今申し上げましたように、どんどんと進むわけでございます。これは科学として当然なことでございますが、これを医療という形に持っていきますためには、社会との関連ということになるわけでございます。その社会との関連ということになりますと、社会がどういう社会で、そこがどういうふうに倫理面を含めて認められるかという話になってくるだろうと思います。
そのためには、先ほど脳死の問題で申し上げましたように、社会になかなか御理解をいただけなくて進まなかったというこの現実も踏まえながら、医学の進歩をどこまで医療に適用できるかということについては、やはり今の時代でございますから、十分に情報を開示しながら、国民の皆様方、社会がどこまで受け入れられるかということを十分に御説明しながら進まなければならない。
ただ、やはりその中に基本といたしまして、人間としてどうあるべきか、どこまでできるか、いわゆる生命の倫理はどこにあるかということが大事でございます。その生命倫理につきましては、各国で考えましたときに、これはやはり歴史、文化、宗教というものが大きなかかわりがございます。だから、同じようなものであっても、許される国と許されない国がある。その中で、日本という国、社会の中でどこまでこれが認められていくかということについては、非常に大きな問題でございます。
科学の進歩と宗教、哲学あるいは倫理学の進歩というものが相伴っていくということが望ましいわけでございますけれども、この倫理観その他につきましては、科学の進歩と必ずしも並行しておらない、そちらの方がややおくれてついてきているという中で混乱が起こっておる。特に生殖医療におきまして出ている問題、これはやはり倫理面で大きな問題がある。しかも、社会の皆さん方の御理解がまだ十分でないということでありますので、科学をいたします学者と、医療を行います私どもの立場とを考えますと、我々が国民にお話を申し上げながら、どこまでやれるかということを慎重にやらなければならぬという問題で、これからますます深刻な問題が出てくるだろうと思っております。
加
加藤勝信#19
○加藤(勝)委員 ありがとうございます。
続いて、浅岡公述人にお話を聞かせていただきたいと思います。
環境についていろいろ御活動されている中で、環境権のお話がございました。憲法の中に環境権を新しい権利として盛り込むかどうかということにつながるのでありますが、ある意味で、環境権というのは、自由な経済活動の結果として生まれてきている部分というのも多分にあるのではないか。逆に言うと、自由な経済活動と、ある意味では公共の福祉といいましょうか公の部分、その辺を調整していくという部分も環境権ということに入ってきている。一般的に、ほかの権利はどちらかというと個人に非常に帰着をする部分が多いのに対して、この環境権というのは、どちらかというと公共的な利益、自分だけではなくて周辺にも全体に及ぶ、その辺がちょっと違う部分もある意味ではあるのかな、私はそんな思いがするわけであります。
そういう視点も含めて、他の新しい権利と一緒という部分ももちろんありますけれども、今申し上げたような違いということも含めて考えたときに、憲法の中に盛り込んでいくということも考えてもいいんじゃないのかなという気も私は持っているのでありますけれども、公述人は、そこまでしなくても、あえてそれを奇貨として憲法改正をしなくてもというお話だったように思います。逆に言うと、憲法改正をいろいろ議論していく中で、もし盛り込んでいくとするならば、どういう形で環境権というものを盛り込んでいけばいいのか、その辺についてのお考えをお示しいただきたいというふうに思います。
この発言だけを見る →続いて、浅岡公述人にお話を聞かせていただきたいと思います。
環境についていろいろ御活動されている中で、環境権のお話がございました。憲法の中に環境権を新しい権利として盛り込むかどうかということにつながるのでありますが、ある意味で、環境権というのは、自由な経済活動の結果として生まれてきている部分というのも多分にあるのではないか。逆に言うと、自由な経済活動と、ある意味では公共の福祉といいましょうか公の部分、その辺を調整していくという部分も環境権ということに入ってきている。一般的に、ほかの権利はどちらかというと個人に非常に帰着をする部分が多いのに対して、この環境権というのは、どちらかというと公共的な利益、自分だけではなくて周辺にも全体に及ぶ、その辺がちょっと違う部分もある意味ではあるのかな、私はそんな思いがするわけであります。
そういう視点も含めて、他の新しい権利と一緒という部分ももちろんありますけれども、今申し上げたような違いということも含めて考えたときに、憲法の中に盛り込んでいくということも考えてもいいんじゃないのかなという気も私は持っているのでありますけれども、公述人は、そこまでしなくても、あえてそれを奇貨として憲法改正をしなくてもというお話だったように思います。逆に言うと、憲法改正をいろいろ議論していく中で、もし盛り込んでいくとするならば、どういう形で環境権というものを盛り込んでいけばいいのか、その辺についてのお考えをお示しいただきたいというふうに思います。
浅
浅岡美恵#20
○浅岡公述人 ただいま御指摘いただきましたように、環境についての社会的認識が広がりましたのは、日本におきましてはとりわけ公害問題を端緒としておりまして、水俣病の問題の発生、そして今日に至るまでの経緯が大変そのことを物語っているわけであります。
今私が特にかかわっております地球環境問題につきましても、きょうお示しの資料の中に若干つけてございますけれども、二酸化炭素の排出増加が温暖化をもたらしている主たる大きな要因になっておりますが、日本の排出量の実態を見ますと、総排出量の八割までが企業の活動に由来するものでありまして、国民の家庭生活におけるものといいますのは、マイカーを含めましても二割程度である、こういう状況を見ますと、自由な企業の経済活動あるいは公共的な活動が環境への負荷を大きく拡大してきた要因であるところは、御案内のとおりであります。
あわせて、国民一人一人が豊かさを求めるという中で、それも大きく言いますれば経済の発展というものを反映する形で起こってきておりますし、さまざまな面で御指摘のところが出てまいります。
確かに、他の権利と比べまして、一人で自分の生活の中で完結するものという側面は非常に限られてまいりまして、地球環境まで含めまして、そうした環境の中に私たちが生かされている、また、そうした環境が遠い遠い先の将来世代にも影響を及ぼし、そうした将来世代からの預かり物としてのこの環境を我々が享受するとともに、またよいものとしてつくり上げていかなければいけない、そうした認識も非常に高まっておりますし、そうした議論もなされてきております。
おっしゃるとおり、確かに、そうした新しい問題というものを包括的に見ますと含んでまいりますし、それは、発想といたしまして、地球規模でも、国といたしましても、企業といたしましても、また人の命というところからとりましても、その持続可能性というところから問題提起をするということがなされているわけであります。
ただ、私が申し上げたいのは、こうした問題を具体的に解決していきますために、多くの立法的措置が七〇年代の公害国会以降なされてまいりましたけれども、私も、日弁連の委員等で、あるいは環境団体といたしまして、国会の先生方にいろいろな立法の要請をしてまいりました。今、消費者につきましてもあるいは司法改革につきましても要請しているところでございますけれども、先生御指摘のような形でよい環境を法的に担保していく、そして、それを法的にしっかりした仕組みで担保していくための制度づくりに御熱心な先生方がこの憲法改正議論を御主張しているといいますよりも、むしろ、そうしたことには余り御熱心でないといいますか、それよりも自由な経済活動を優先することの方が重要だ、そうした御指摘を強くされる方の方に見受けるわけであります。
そこが一つ現実でありまして、そのために、一つ一つの立法におきましてなかなかそこが進まない。この国会でと思いましたものが次に、また次にと延長されましたり、今日におきましてもまだ進んでいない。まだまだ国民がそんなことを要求するのは早いよというようなことを言われる先生方の方に多いということが、今日の議論を複雑にいたしているかと思います。
今、環境にせよ、個人の権利にせよ、立法府にお仕事をお願いしたいと求めている部分は、むしろ、一つ一つの立法をもっと国民の権利の観点からあるいは環境保全の観点からしっかりしたものにしていただきたいというところができないまま環境権というものが憲法上入るということは、一体何を意味するのだろうか、そういう疑念をもたらしているのではないかと思うところでございます。
この発言だけを見る →今私が特にかかわっております地球環境問題につきましても、きょうお示しの資料の中に若干つけてございますけれども、二酸化炭素の排出増加が温暖化をもたらしている主たる大きな要因になっておりますが、日本の排出量の実態を見ますと、総排出量の八割までが企業の活動に由来するものでありまして、国民の家庭生活におけるものといいますのは、マイカーを含めましても二割程度である、こういう状況を見ますと、自由な企業の経済活動あるいは公共的な活動が環境への負荷を大きく拡大してきた要因であるところは、御案内のとおりであります。
あわせて、国民一人一人が豊かさを求めるという中で、それも大きく言いますれば経済の発展というものを反映する形で起こってきておりますし、さまざまな面で御指摘のところが出てまいります。
確かに、他の権利と比べまして、一人で自分の生活の中で完結するものという側面は非常に限られてまいりまして、地球環境まで含めまして、そうした環境の中に私たちが生かされている、また、そうした環境が遠い遠い先の将来世代にも影響を及ぼし、そうした将来世代からの預かり物としてのこの環境を我々が享受するとともに、またよいものとしてつくり上げていかなければいけない、そうした認識も非常に高まっておりますし、そうした議論もなされてきております。
おっしゃるとおり、確かに、そうした新しい問題というものを包括的に見ますと含んでまいりますし、それは、発想といたしまして、地球規模でも、国といたしましても、企業といたしましても、また人の命というところからとりましても、その持続可能性というところから問題提起をするということがなされているわけであります。
ただ、私が申し上げたいのは、こうした問題を具体的に解決していきますために、多くの立法的措置が七〇年代の公害国会以降なされてまいりましたけれども、私も、日弁連の委員等で、あるいは環境団体といたしまして、国会の先生方にいろいろな立法の要請をしてまいりました。今、消費者につきましてもあるいは司法改革につきましても要請しているところでございますけれども、先生御指摘のような形でよい環境を法的に担保していく、そして、それを法的にしっかりした仕組みで担保していくための制度づくりに御熱心な先生方がこの憲法改正議論を御主張しているといいますよりも、むしろ、そうしたことには余り御熱心でないといいますか、それよりも自由な経済活動を優先することの方が重要だ、そうした御指摘を強くされる方の方に見受けるわけであります。
そこが一つ現実でありまして、そのために、一つ一つの立法におきましてなかなかそこが進まない。この国会でと思いましたものが次に、また次にと延長されましたり、今日におきましてもまだ進んでいない。まだまだ国民がそんなことを要求するのは早いよというようなことを言われる先生方の方に多いということが、今日の議論を複雑にいたしているかと思います。
今、環境にせよ、個人の権利にせよ、立法府にお仕事をお願いしたいと求めている部分は、むしろ、一つ一つの立法をもっと国民の権利の観点からあるいは環境保全の観点からしっかりしたものにしていただきたいというところができないまま環境権というものが憲法上入るということは、一体何を意味するのだろうか、そういう疑念をもたらしているのではないかと思うところでございます。
加
加藤勝信#21
○加藤(勝)委員 中途半端な形で盛り込むということがここにもたしか書いてありましたように、逆に言うと、ある種の乱用みたいなことのおそれがあるという指摘も確かにあります。しかし、同じく書かれておりますように、住民の参加という形の中で、またその環境の基準というのも、地域、文化や歴史等によっても随分求められているものも違うと。本当に、そういう意味では、新しい権利というものを、ここにお書きになっている行政手続的なという意味での権利ということを含めて盛り込んでいくというのも一つの考え方ではないかなというふうに私は思っております。
それとは別に、国民投票のお話をしていただきましたので、ちょっとそれに触れさせていただきたいと思うんです。
確かに、この調査会等での議論あるいは外国へ行かれた話を聞いても、仮に国民投票をするときに、この条文を全文出して、果たしてそれで、しかも多岐にわたる改正があった場合に国民が判断できるんだろうか、そういうような議論もありました。そういう中で、きょうのお話は、一括してという話でございます。
ただ、これとこれとが結びつくから、あるいはこれとこれと理念が反するというのも、そこに一つの価値観があっての話になると思いますので、逆に言うと、おっしゃる趣旨は、逐条的に国民投票に付した方がいいというようなお話というふうに承ればいいのか、たまたま九条と環境権はお考えの中では相反するものだから、それを出すからだということなのか、その辺をちょっと教えていただきたいと思います。
この発言だけを見る →それとは別に、国民投票のお話をしていただきましたので、ちょっとそれに触れさせていただきたいと思うんです。
確かに、この調査会等での議論あるいは外国へ行かれた話を聞いても、仮に国民投票をするときに、この条文を全文出して、果たしてそれで、しかも多岐にわたる改正があった場合に国民が判断できるんだろうか、そういうような議論もありました。そういう中で、きょうのお話は、一括してという話でございます。
ただ、これとこれとが結びつくから、あるいはこれとこれと理念が反するというのも、そこに一つの価値観があっての話になると思いますので、逆に言うと、おっしゃる趣旨は、逐条的に国民投票に付した方がいいというようなお話というふうに承ればいいのか、たまたま九条と環境権はお考えの中では相反するものだから、それを出すからだということなのか、その辺をちょっと教えていただきたいと思います。
浅
浅岡美恵#22
○浅岡公述人 先ほどの話に少し付言をいたしますと、先生御指摘のように、行政手続的なことも含めて環境権という形にすればよろしいのではないかという御意見でございますが、それもあり得ることですけれども、憲法の規定というもの自身が、そのように余り細かく踏み込んだ規定をつくることが難しいものでありますので、どうしても抽象的なものにならざるを得ない、そこが一番の問題であります。
それが、さらに幾つかの論点が重なり合ってまいりますと、より幅のあるものがよりまた重なってくるということでありまして、解釈を明確にするために法律改正をしたつもりのものが、かえって幅をさらに大きくいたしてしまいまして、本来の趣旨と反することになるということも考えられるところであります。
特に、憲法を改正していくことがありましたときに、国民がそれを判断していくということから見ますと、非常に十分な情報が提供されること、そして判断するために十分な議論がまず提供されること、そして自分たち自身の頭でも考えていけることということは、地域の住民投票におきましてももちろん重要なことでありますけれども、憲法というような全くの根本的な基本法の改正におきましてはとりわけ重要なことになろうかと思うんです。複雑な項目が重なり合うということ、それ自身はやはり本来的に無理があると思いますので、議論するとすれば、本当に逐条的なことというのは原則的なことではないかと思います。
とりわけ、今回の憲法改正の議論で私どもが報道に接して見ておりますところでは、九条問題というのがどちらかといえば改正の主たる動機として浮上いたしまして、環境とか人権に係る運動や関心を持っているものから特に出ているとは言いがたいようなところがつけ加わっている、こういう状況もございますので、とりわけそうした要因が、問題点が大きくなってまいるということではないかと思います。
この発言だけを見る →それが、さらに幾つかの論点が重なり合ってまいりますと、より幅のあるものがよりまた重なってくるということでありまして、解釈を明確にするために法律改正をしたつもりのものが、かえって幅をさらに大きくいたしてしまいまして、本来の趣旨と反することになるということも考えられるところであります。
特に、憲法を改正していくことがありましたときに、国民がそれを判断していくということから見ますと、非常に十分な情報が提供されること、そして判断するために十分な議論がまず提供されること、そして自分たち自身の頭でも考えていけることということは、地域の住民投票におきましてももちろん重要なことでありますけれども、憲法というような全くの根本的な基本法の改正におきましてはとりわけ重要なことになろうかと思うんです。複雑な項目が重なり合うということ、それ自身はやはり本来的に無理があると思いますので、議論するとすれば、本当に逐条的なことというのは原則的なことではないかと思います。
とりわけ、今回の憲法改正の議論で私どもが報道に接して見ておりますところでは、九条問題というのがどちらかといえば改正の主たる動機として浮上いたしまして、環境とか人権に係る運動や関心を持っているものから特に出ているとは言いがたいようなところがつけ加わっている、こういう状況もございますので、とりわけそうした要因が、問題点が大きくなってまいるということではないかと思います。
加
加藤勝信#23
○加藤(勝)委員 国民投票のお話をもう少し後で足していただければと思うのでありますけれども、今たしかそこまでお答えいただいていなかったように思います。
それからもう一点、レジュメの方にお書きいただいているのでありますけれども、憲法改正要件自体のお話であります。
今、逆に言うと、憲法というものが、私なんかのとらえ方としては、改正する、議論することすらもというところがこれまでやや強くあり過ぎて、逆にそれが憲法と国民の距離を離してしまったのではないかな。そういう気がする立場から申し上げると、この憲法というものを、逆に言えば、国民の声が反映するという意味で、改正をもう少ししやすくしていくということも、一つ憲法そのものの価値を高めていくということで必要ではないかな。
ただ、議会だけで決めるとかいうのはいささか過ぎていることかもしれませんけれども、もう少しこの改正を容易にしていき、逆に言えば、頻繁にとは言いませんけれども、適切に憲法の中身を吟味していく、またそれが国民的な議論に付されていくということが、私は、大変重要なことではないかなというふうに思うのであります。
その辺を含めて、憲法の改正というものを国民の方々にどう受けとめていただくかというか、あるいは先ほどの投票と絡みもするわけでありますけれども、どう変更しやすく、変更しやすくという言い方は変ですが、国民にとって身近なものにしていくという観点から考えて、改正の要件あるいは投票の仕組み、その辺について御意見をいただきたいと思います。
この発言だけを見る →それからもう一点、レジュメの方にお書きいただいているのでありますけれども、憲法改正要件自体のお話であります。
今、逆に言うと、憲法というものが、私なんかのとらえ方としては、改正する、議論することすらもというところがこれまでやや強くあり過ぎて、逆にそれが憲法と国民の距離を離してしまったのではないかな。そういう気がする立場から申し上げると、この憲法というものを、逆に言えば、国民の声が反映するという意味で、改正をもう少ししやすくしていくということも、一つ憲法そのものの価値を高めていくということで必要ではないかな。
ただ、議会だけで決めるとかいうのはいささか過ぎていることかもしれませんけれども、もう少しこの改正を容易にしていき、逆に言えば、頻繁にとは言いませんけれども、適切に憲法の中身を吟味していく、またそれが国民的な議論に付されていくということが、私は、大変重要なことではないかなというふうに思うのであります。
その辺を含めて、憲法の改正というものを国民の方々にどう受けとめていただくかというか、あるいは先ほどの投票と絡みもするわけでありますけれども、どう変更しやすく、変更しやすくという言い方は変ですが、国民にとって身近なものにしていくという観点から考えて、改正の要件あるいは投票の仕組み、その辺について御意見をいただきたいと思います。
浅
浅岡美恵#24
○浅岡公述人 憲法を身近なものにしていくという観点は、それを改正しようということよりも、この憲法をどのように我々の生活の中に位置づけていくか、生かしていくかという観点の方が、まだ我が国においては重要ではないかと思います。
私も、法律家といいますか弁護士として日々の訴訟活動等をしているわけでありますけれども、まだまだそうした現実のあるべき法の支配といいますか、執行がなされているとは言いがたいわけでありまして、それが、今あなたのこうした不合理に思う問題は、憲法の中にこのように本来は目指している問題であって、それを実現していくようにいたしましょうということを、もっともっと認識を広げていくべき段階、そういう社会状況にある。そういう意味で、私どもが今有しております憲法は、完全ではないかもしれませんけれども、なかなかによくできていると思うわけであります。
ということで、改正をするということは、改正をすること自身が価値があるわけではございませんで、改正をする必要性がどこにどのように立法事実としてあって、そうしたことを国民が理解するかというところからまず出発するものと思いますので、改正しやすくするということを今しなければいけないという気持ちは持っておりません。
むしろ、憲法を国会におかれましても行政におかれましても尊重していこうと定めましたところ、我々もそこをよく理解し、充実させていくというためには、そう軽々に改正されるのではなく、これをしっかり実現していこうという方向で国民の気持ちはあるのではないかというふうに私は今思っております。
この発言だけを見る →私も、法律家といいますか弁護士として日々の訴訟活動等をしているわけでありますけれども、まだまだそうした現実のあるべき法の支配といいますか、執行がなされているとは言いがたいわけでありまして、それが、今あなたのこうした不合理に思う問題は、憲法の中にこのように本来は目指している問題であって、それを実現していくようにいたしましょうということを、もっともっと認識を広げていくべき段階、そういう社会状況にある。そういう意味で、私どもが今有しております憲法は、完全ではないかもしれませんけれども、なかなかによくできていると思うわけであります。
ということで、改正をするということは、改正をすること自身が価値があるわけではございませんで、改正をする必要性がどこにどのように立法事実としてあって、そうしたことを国民が理解するかというところからまず出発するものと思いますので、改正しやすくするということを今しなければいけないという気持ちは持っておりません。
むしろ、憲法を国会におかれましても行政におかれましても尊重していこうと定めましたところ、我々もそこをよく理解し、充実させていくというためには、そう軽々に改正されるのではなく、これをしっかり実現していこうという方向で国民の気持ちはあるのではないかというふうに私は今思っております。
加
加藤勝信#25
○加藤(勝)委員 最後になって申しわけございません。暉峻公述人にお話をお聞かせいただきたいと思います。
その前に、私どもの自民党で、憲法改正プロジェクトチーム論点整理についてお話がありました。ただ、これは私よりも、きょうおいでになっておられます保岡委員の方がもちろん会長として御精通されていると思いますが、必ずしも今の中でいろいろな御意見、こういう面を変えていったらいいんじゃないか。そして前提としては今、いろいろな意味での問題意識が、公述人からも教育の問題を含めてお話がありました。そういった中で、どこが問題なんだろうか、どこを変えていけばいいんだろうかという中での議論ということであります。
確かに、議論をしていく中で言葉の問題というのは非常にありまして、ただ、両性の部分というのもありましたけれども、言葉ではなくて中身を我々は一生懸命議論していかなければいけない。そして、その中でお互い、党の中にもいろいろな立場がある、意見がある、それを自由濶達にぶつけ合いながら、今の現状、そしてあるべき日本の姿を築いていこう、そういう作業の途中であるということは御認識をいただきたいというふうに思うわけであります。
そして、そういう中で、きょうは憲法九条のお話もありました。少なくとも私とは随分立場が違うということを前提にお話をさせていただきたいと思うのでありますけれども、同時に、国家としての役割だけで現在の例えば安全保障あるいは多国間との関係というものを維持できるものではなくて、御活躍いただいているNGOあるいはODA等、さまざまな手段によって初めて各国間内でもうまくやっていける、私はそのように思っておりますし、北欧においても、必ずしも軍事的なものがなくてNGOだけでやっているかということでもないのではないかなと。
その辺のバランスをどうとっていくかということが大事なことであり、そして、お話があるように、憲法九条も、そういう意味での国家のありよう、あるいはこれからどういう国家になっていくんだということにおいて、はっきりさせるべきところは、私は、きちんと書き込んでいかなければいけないのではないかなという立場でございます。
そういう中でもう一つ、きょうはせっかくおいでいただいて、いただいた資料も読ませていただいて、NGOで、特にコソボですか、あちらの方での活躍、活動のお話がありまして、そういう中で一つありますのは、報道によってつくられたイメージというのは今非常に大きい。特に、国際世論、国民世論というのは非常に大きく政治を動かしていくと思うのでありますけれども、そういうものと、実際にその場に行かれて受けられたものとの違いが書いてあったと思いますけれども、その辺を少しお話しいただきたいと思うんです。
この発言だけを見る →その前に、私どもの自民党で、憲法改正プロジェクトチーム論点整理についてお話がありました。ただ、これは私よりも、きょうおいでになっておられます保岡委員の方がもちろん会長として御精通されていると思いますが、必ずしも今の中でいろいろな御意見、こういう面を変えていったらいいんじゃないか。そして前提としては今、いろいろな意味での問題意識が、公述人からも教育の問題を含めてお話がありました。そういった中で、どこが問題なんだろうか、どこを変えていけばいいんだろうかという中での議論ということであります。
確かに、議論をしていく中で言葉の問題というのは非常にありまして、ただ、両性の部分というのもありましたけれども、言葉ではなくて中身を我々は一生懸命議論していかなければいけない。そして、その中でお互い、党の中にもいろいろな立場がある、意見がある、それを自由濶達にぶつけ合いながら、今の現状、そしてあるべき日本の姿を築いていこう、そういう作業の途中であるということは御認識をいただきたいというふうに思うわけであります。
そして、そういう中で、きょうは憲法九条のお話もありました。少なくとも私とは随分立場が違うということを前提にお話をさせていただきたいと思うのでありますけれども、同時に、国家としての役割だけで現在の例えば安全保障あるいは多国間との関係というものを維持できるものではなくて、御活躍いただいているNGOあるいはODA等、さまざまな手段によって初めて各国間内でもうまくやっていける、私はそのように思っておりますし、北欧においても、必ずしも軍事的なものがなくてNGOだけでやっているかということでもないのではないかなと。
その辺のバランスをどうとっていくかということが大事なことであり、そして、お話があるように、憲法九条も、そういう意味での国家のありよう、あるいはこれからどういう国家になっていくんだということにおいて、はっきりさせるべきところは、私は、きちんと書き込んでいかなければいけないのではないかなという立場でございます。
そういう中でもう一つ、きょうはせっかくおいでいただいて、いただいた資料も読ませていただいて、NGOで、特にコソボですか、あちらの方での活躍、活動のお話がありまして、そういう中で一つありますのは、報道によってつくられたイメージというのは今非常に大きい。特に、国際世論、国民世論というのは非常に大きく政治を動かしていくと思うのでありますけれども、そういうものと、実際にその場に行かれて受けられたものとの違いが書いてあったと思いますけれども、その辺を少しお話しいただきたいと思うんです。
暉
暉峻淑子#26
○暉峻公述人 その点だけに絞って言えば、例えば、ユーゴは民族紛争だということになっていますけれども、実はユーゴというのは、南スラブという同じ民族なんですね、クロアチアもスロベニアもセルビアも。ですから、言葉は皆同じです、同じ言葉を使っています。それが歴史の中である国に支配されてこうなった。ボスニアなどはイスラムの影響が強いですし、クロアチアはドイツの影響が強い、セルビアはトルコに非常に影響を受けている。いろいろな歴史的な経過の中で違いは出てきていますけれども、チトーの時代にあれは全部ユーゴスラビアとして統一されたのを見てもわかるように、これは民族紛争とは言えないんです。
ただ、私は大変いい記事が出たと思いますけれども、例の戦犯法廷に日本から判事として出られた女性の方がいらっしゃいますね、多谷千香子さんという。この方はユーゴ国際戦犯法廷に判事として出られているわけですけれども、彼女もそう言っていて、結局どこが悪かった。つまり、報道では、今ヨーロッパの報道はかなり変わっていますけれども、セルビアが悪人でいろいろな虐殺をしたというふうに報道されているのだけれども、彼女は、そうではない、どこの国でも政治家が自分の利益、利権と権力欲のために国民、住民をあおったと。あおったがために、さっきおっしゃったそういう宣伝に、世論操作などに乗せられてそういういさかいというか紛争があったということを彼女ははっきりと述べていて、戦犯法廷のいいところは、そういうことをもう一遍洗い直して見られるというところがこの法廷の大変いいところだということを言っています。
それで、私は、ユーゴの救援にかかわって、例えば病院とかいろいろなところの職場で、あなたは何人なんですかとしょっちゅう聞きました。大体ユーゴ人と答える人が非常に多くて、私はクロアチア人です、セルビア人です、何人ですというような答え方をする人はそんなに多くないんですね。そして、職場でも同じように仕事をして、学校でも机を横に並べてその人たちは皆勉強しているわけだから、一般市民の間では、今聞いても、何でそんな紛争をしなきゃいけなかったのか全然わからないと言う人が大多数です。それはトップの政治家の人はまた違うことを言うかもしれませんが、そういう人たちは亡くなられたりもう政権の座にはいないわけで、ですから、民族紛争とあれをわいわい言ったということは、私は、間違っていたと思うんですね。
結局、経済の格差もあったし、それから、あの紛争を起こしたのは、結局周りの、かつて自分たちが支配した国に自分の国の利権とか権益を及ぼしたいと思っていた、そういう国々があおったんですね。
あのとき、東ヨーロッパでは皆、社会主義政権は崩れていきましたけれども、ユーゴは一応中立、非同盟中立に入っていたので、社会主義政権が最後まで崩れずに残っていました。これを崩してしまうには民族紛争という形をとった方がいい、そういう思惑もあって、その資料は今いっぱいあるんですけれども、あれを一概に民族紛争と言うのは、私は、ちょっと間違いであると思っています。
それから……
この発言だけを見る →ただ、私は大変いい記事が出たと思いますけれども、例の戦犯法廷に日本から判事として出られた女性の方がいらっしゃいますね、多谷千香子さんという。この方はユーゴ国際戦犯法廷に判事として出られているわけですけれども、彼女もそう言っていて、結局どこが悪かった。つまり、報道では、今ヨーロッパの報道はかなり変わっていますけれども、セルビアが悪人でいろいろな虐殺をしたというふうに報道されているのだけれども、彼女は、そうではない、どこの国でも政治家が自分の利益、利権と権力欲のために国民、住民をあおったと。あおったがために、さっきおっしゃったそういう宣伝に、世論操作などに乗せられてそういういさかいというか紛争があったということを彼女ははっきりと述べていて、戦犯法廷のいいところは、そういうことをもう一遍洗い直して見られるというところがこの法廷の大変いいところだということを言っています。
それで、私は、ユーゴの救援にかかわって、例えば病院とかいろいろなところの職場で、あなたは何人なんですかとしょっちゅう聞きました。大体ユーゴ人と答える人が非常に多くて、私はクロアチア人です、セルビア人です、何人ですというような答え方をする人はそんなに多くないんですね。そして、職場でも同じように仕事をして、学校でも机を横に並べてその人たちは皆勉強しているわけだから、一般市民の間では、今聞いても、何でそんな紛争をしなきゃいけなかったのか全然わからないと言う人が大多数です。それはトップの政治家の人はまた違うことを言うかもしれませんが、そういう人たちは亡くなられたりもう政権の座にはいないわけで、ですから、民族紛争とあれをわいわい言ったということは、私は、間違っていたと思うんですね。
結局、経済の格差もあったし、それから、あの紛争を起こしたのは、結局周りの、かつて自分たちが支配した国に自分の国の利権とか権益を及ぼしたいと思っていた、そういう国々があおったんですね。
あのとき、東ヨーロッパでは皆、社会主義政権は崩れていきましたけれども、ユーゴは一応中立、非同盟中立に入っていたので、社会主義政権が最後まで崩れずに残っていました。これを崩してしまうには民族紛争という形をとった方がいい、そういう思惑もあって、その資料は今いっぱいあるんですけれども、あれを一概に民族紛争と言うのは、私は、ちょっと間違いであると思っています。
それから……
中
暉
暉峻淑子#28
○暉峻公述人 はい、わかりました。
コソボについては、おっしゃるように、メディアが全部あおりました。イバル川という川でアルバニア人の子供が水死したんですけれども、これはセルビア人が水死させたんだということをテレビとメディアが一斉に報じたんですね。それで三月の大事件が起こった。ところが、UNMIK、国連関係の調査では、そういうことは一切なかったという。今も理由はわからない。
だから、私は、そういうとき、メディアが、証拠もきちんとしないのに、特に人間の命にかかわるような紛争をあおるということは本当に自粛しなきゃいけない。今でも、日本も尖閣諸島の問題とかガスの問題とかいろいろありますけれども、常に冷静に、メディアは事実に基づいて報道してほしいというのは私の願いでもあります。
この発言だけを見る →コソボについては、おっしゃるように、メディアが全部あおりました。イバル川という川でアルバニア人の子供が水死したんですけれども、これはセルビア人が水死させたんだということをテレビとメディアが一斉に報じたんですね。それで三月の大事件が起こった。ところが、UNMIK、国連関係の調査では、そういうことは一切なかったという。今も理由はわからない。
だから、私は、そういうとき、メディアが、証拠もきちんとしないのに、特に人間の命にかかわるような紛争をあおるということは本当に自粛しなきゃいけない。今でも、日本も尖閣諸島の問題とかガスの問題とかいろいろありますけれども、常に冷静に、メディアは事実に基づいて報道してほしいというのは私の願いでもあります。
加