福島豊の発言 (憲法調査会)

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○福島委員 国民の権利及び義務に関してさまざまな論点が存在をいたしますが、簡潔に意見を申し上げたいと思います。
 まず初めに、新しい人権についてでありますが、二十一世紀の日本のあり方、また人間文明の方向性というものを考えて、環境立国を明確にすべきであるというふうに考えております。諸外国でも、一九八〇年代以降、複数の国で憲法に環境権が規定されております。既に、十三条や二十五条を根拠にこれを認めることができるという考え方もありますけれども、憲法に規定するという政治的な意義を考えた場合、解釈ではなく、明確に規定すべきではないかと思います。もちろん、何をどのように規定するのか、その概念の外延と内包を明確にすることが必要であります。
 知る権利、またプライバシー権といった情報に関する権利については、現在のIT社会の急速な進行、そしてまた国家行政システムの巨大化、複雑化を踏まえた場合に、やはり、十三条や二十五条に根拠を求めることができても、より明確な規定を置くべきであると思います。ただいまも園田委員から種々御指摘がありましたように、これをどのように定めるのかということは、さまざまな議論があることは当然であります。環境権と同様に、何をどのように規定するのか、その概念の外延と内包についてより充実した議論を行うべきであると考えております。
 二番目は、平等についてであります。
 十四条の規定について、私は障害者をここに入れるべきではないかと考えております。障害者の差別禁止の規定を盛り込むべきである。平等の概念には、個人をその事実上の違いにかかわらず一律に同等に扱うべきことを求める形式的平等と、事実上の劣位者をより有利に扱うことにより、結果を平等なものに近づけようとする実質的な平等がありますが、十四条において障害者の差別禁止の条項を求め、そしてまた、その下位法として障害者差別禁止法等の法整備により、実質的な平等を確保する方向を目指すべきではないかと考えております。
 三番目に、生命倫理の問題について触れたいと思います。
 生命倫理につきましては、当調査会におきましてもさまざまな形で議論がなされました。憲法の制定当時、今日のように生命を操作する技術は開発されておりませんでした。また、個人の遺伝的情報についてこれをつまびらかにする技術も存在していなかったわけであります。クローン人間のような存在をどのように考えるのか、我が国では個別にこれを禁止する法律が制定されましたけれども、より普遍的な生命の尊厳と、尊厳を侵害する生命の操作の禁止、また、遺伝情報へのアクセスの規制などを導く根拠となる条文を設けるべきではないかというふうに考えております。
 個別法による規制で十分であるという見解もありますけれども、個別法は、変化する科学技術への対応で適宜適切な規制を行うべきであって、一貫して、変化する技術に対応し、いかなる原則にのっとりこの規制を行うのか、その立場を明らかにするための規定を置くべきではないかと考えております。
 二十五条の生存権について申し上げたいと思います。
 この点については過去に調査会でも私も発言をさせていただきまして、議論の取りまとめにも収載をしていただきました。二十五条の一項については、ナショナルミニマムとしての公的扶助制度の根拠規定としてとらえ、二項を、共助による社会保障制度としての年金、医療、介護制度の根拠規定として整理をすべきと考えております。
 そしてまた、社会福祉また公衆衛生、これは、憲法制定当時のこの言葉の持つ意味と現在の意味と私はやはり変わってきているのではないかという思いがいたします。そういう意味からは、別の規定としてその内容について見直しを行ってもいいのではないかと考えております。
 次に、定住外国人の地方参政権の問題についても当調査会でも議論が行われました。
 住民自治の観点から、外国人も地域の住民として権利と義務を行使することは国際社会の慣例になりつつあるのではないかと考えております。国政への関与とは明確に区別をして、その上でこれを認めるべきであると考えております。また、将来において日本がグローバル社会の中で今日の活力を維持するためには、私は、第三の開国ともいうべき開かれた社会を構築する必要がある、そのように考えております。人口減少社会の中でいかに我が国の活力を引き出していくのか、中期的に明確な戦略が必要であります。
 そうしたグローバル化を進めるためにも、地方参政権の問題について、国政への参画とどのように区別するのかという概念の整理も当然あるわけでありますけれども、その是非を含め、率直な議論をさらに進めるべきではないかと私は考えております。
 次に、義務規定の強化。例えば、家族や共同体、伝統、文化の尊重などさまざまなことを規定すべきではないかという御指摘もありました。
 憲法が、本来、国家権力の乱用から国民の基本的人権を守るということをその目的とするという自然権思想、社会契約論に端を発する近代立憲主義思想に基づいた場合、人権保障については、国家からの自由というものを基調とすべきであると考えております。我が国が西欧社会と異なる社会学的な構造を有してきたとしても、その変化は急速であり、かつての共同体的社会は既に過去のものとなっているというような指摘もあるわけであります。
 そうした意味で、我が国による歴史的、文化的独自性を踏まえたとしても、このような国家からの自由を基調とする憲法であるべきである、そういうとらえ方は妥当なものではないかと思います。
 そして、家族や共同体、伝統や文化の尊重などの道徳的な規定を置くこと、また義務規定を増設すること、これは、近代立憲主義の流れから外れ、人権を変質させるという観点から適切ではない、こういう指摘に耳を傾けるべきだと私は思っております。
 そしてまた、次に、これは余りまとまって論じられておりませんが、次世代育成の規定ということを考えるべきではないかというふうに考えております。
 社会が持つ重要な役割は、次世代を健全にはぐくみ、社会の継続性を維持することであります。今日、日本が人口減少社会に突入したことは、そうした社会の基本的な機能に変化を来していることの一つのあらわれではないかと私は思っております。こうした次世代の育成に対する規定、子供のための憲法の規定を設けることも、今日の人口減少社会の中では必要ではないかと考えております。
 家族や共同体、また伝統や文化、こういったものは、次世代をいかに健全にはぐくむのか、そういう概念の中に包摂されて規定をされるということであれば、賛同したいというふうに私は思っております。
 そして次に、教育についてでありますが、二十六条の規定は妥当なもので、変更を要しないと考えております。
 今日の日本の教育が抱える諸問題についていかに対処するのかということは、このような根拠規定をどのように改変するのかという点ではなく、システムとしての日本社会また日本の教育が、さまざまな可能性を持つとともに、一定の規範を与えることが必要であるところの子供に対して何をどのように与えているのか、これを体系的な評価をする、総合的な評価をするというところから始めるべきではないかと私は思っております。
 これほどの物質的または情報において過剰な社会システム、これは人類が初めて経験するところのものであると思います。そうした過剰に包まれた中で子供の健全な成長というものはどのように確保されるのか、全く違った視点で改めて考えるべきではないか、そのような思いがあるわけであります。
 伝統または文化の協調も大変大切であります。しかしながら、情報量として圧倒的に違った情報がある中で伝統や文化というものをどのように根づかせるのかということを考えるときには、この過剰をコントロールするというところから始めるべきではないか、そのように私は個人的に思っております。そういう意味では、単に根拠規定ということではなくて、総合的な教育システムの評価そしてまた改革が必要である、そのように思います。
 そのほかにも、精神的自由、表現の自由、経済的自由など多くの論点がありますが、以上の八項目について簡単に申し上げさせていただきました。
 残余の点については、同僚委員からまた発言があると思います。
 以上であります。

発言情報

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発言者: 福島豊

speaker_id: 32718

日付: 2005-02-10

院: 衆議院

会議名: 憲法調査会