憲法調査会
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会
会議録情報#0
平成十七年二月十日(木曜日)
午前九時四分開議
出席委員
会長 中山 太郎君
幹事 近藤 基彦君 幹事 福田 康夫君
幹事 船田 元君 幹事 古屋 圭司君
幹事 保岡 興治君 幹事 枝野 幸男君
幹事 中川 正春君 幹事 山花 郁夫君
幹事 赤松 正雄君
伊藤 公介君 石崎 岳君
大村 秀章君 加藤 勝信君
河野 太郎君 坂本 剛二君
柴山 昌彦君 渡海紀三朗君
中谷 元君 永岡 洋治君
野田 毅君 葉梨 康弘君
早川 忠孝君 平井 卓也君
平沼 赳夫君 二田 孝治君
保利 耕輔君 松野 博一君
松宮 勲君 三原 朝彦君
御法川信英君 森山 眞弓君
青木 愛君 稲見 哲男君
大出 彰君 鹿野 道彦君
小林千代美君 小宮山泰子君
鈴木 克昌君 園田 康博君
田中眞紀子君 高井 美穂君
辻 惠君 中根 康浩君
計屋 圭宏君 古川 元久君
松木 謙公君 松本 大輔君
笠 浩史君 和田 隆志君
若井 康彦君 渡部 恒三君
池坊 保子君 太田 昭宏君
高木 陽介君 福島 豊君
塩川 鉄也君 高橋千鶴子君
土井たか子君
…………………………………
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
—————————————
委員の異動
二月十日
辞任 補欠選任
坂本 剛二君 御法川信英君
柴山 昌彦君 石崎 岳君
渡辺 博道君 保利 耕輔君
園田 康博君 小林千代美君
辻 惠君 松木 謙公君
馬淵 澄夫君 若井 康彦君
太田 昭宏君 池坊 保子君
山口 富男君 高橋千鶴子君
同日
辞任 補欠選任
石崎 岳君 柴山 昌彦君
保利 耕輔君 渡辺 博道君
御法川信英君 坂本 剛二君
小林千代美君 松本 大輔君
松木 謙公君 小宮山泰子君
若井 康彦君 馬淵 澄夫君
池坊 保子君 太田 昭宏君
高橋千鶴子君 塩川 鉄也君
同日
辞任 補欠選任
小宮山泰子君 辻 惠君
松本 大輔君 高井 美穂君
塩川 鉄也君 山口 富男君
同日
辞任 補欠選任
高井 美穂君 園田 康博君
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本日の会議に付した案件
日本国憲法に関する件
————◇—————
この発言だけを見る →午前九時四分開議
出席委員
会長 中山 太郎君
幹事 近藤 基彦君 幹事 福田 康夫君
幹事 船田 元君 幹事 古屋 圭司君
幹事 保岡 興治君 幹事 枝野 幸男君
幹事 中川 正春君 幹事 山花 郁夫君
幹事 赤松 正雄君
伊藤 公介君 石崎 岳君
大村 秀章君 加藤 勝信君
河野 太郎君 坂本 剛二君
柴山 昌彦君 渡海紀三朗君
中谷 元君 永岡 洋治君
野田 毅君 葉梨 康弘君
早川 忠孝君 平井 卓也君
平沼 赳夫君 二田 孝治君
保利 耕輔君 松野 博一君
松宮 勲君 三原 朝彦君
御法川信英君 森山 眞弓君
青木 愛君 稲見 哲男君
大出 彰君 鹿野 道彦君
小林千代美君 小宮山泰子君
鈴木 克昌君 園田 康博君
田中眞紀子君 高井 美穂君
辻 惠君 中根 康浩君
計屋 圭宏君 古川 元久君
松木 謙公君 松本 大輔君
笠 浩史君 和田 隆志君
若井 康彦君 渡部 恒三君
池坊 保子君 太田 昭宏君
高木 陽介君 福島 豊君
塩川 鉄也君 高橋千鶴子君
土井たか子君
…………………………………
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
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委員の異動
二月十日
辞任 補欠選任
坂本 剛二君 御法川信英君
柴山 昌彦君 石崎 岳君
渡辺 博道君 保利 耕輔君
園田 康博君 小林千代美君
辻 惠君 松木 謙公君
馬淵 澄夫君 若井 康彦君
太田 昭宏君 池坊 保子君
山口 富男君 高橋千鶴子君
同日
辞任 補欠選任
石崎 岳君 柴山 昌彦君
保利 耕輔君 渡辺 博道君
御法川信英君 坂本 剛二君
小林千代美君 松本 大輔君
松木 謙公君 小宮山泰子君
若井 康彦君 馬淵 澄夫君
池坊 保子君 太田 昭宏君
高橋千鶴子君 塩川 鉄也君
同日
辞任 補欠選任
小宮山泰子君 辻 惠君
松本 大輔君 高井 美穂君
塩川 鉄也君 山口 富男君
同日
辞任 補欠選任
高井 美穂君 園田 康博君
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本日の会議に付した案件
日本国憲法に関する件
————◇—————
中
中山太郎#1
○中山会長 これより会議を開きます。
日本国憲法に関する件について調査を進めます。
本日の午前は、国民の権利及び義務について自由討議を行います。
議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。
発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。
それでは、まず、保利耕輔君。
この発言だけを見る →日本国憲法に関する件について調査を進めます。
本日の午前は、国民の権利及び義務について自由討議を行います。
議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。
発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。
それでは、まず、保利耕輔君。
保
保利耕輔#2
○保利委員 保利でございます。自由民主党の文教制度調査会長をやっております。
きょうは、権威ある憲法調査会で発言の機会をいただきまして、会長を初め、幹事の皆様方に厚く御礼を申し上げるものであります。
さて、きょうは、国民の権利及び義務ということでお話をさせていただくのでありますが、私は、立場上、きょうは教育の問題に限ってのお話をさせていただきたいと思います。時間が極めて限られておる十分という中でありますから、全部を語り尽くすことはできないと思いますけれども、一生懸命に努力をしたいと思います。
まず、憲法をさっと見てみますと、教育の条項については、憲法十三条、個人として尊重されるという趣旨のもの、それから憲法十四条、法のもとの平等、それから憲法十九条、思想及び良心の自由、それから憲法二十条、信教の自由、それから憲法二十三条、学問の自由等がございますが、何はおいてもやはりこの憲法の中で教育に関しての重要な事項は、憲法二十六条であると思います。
憲法二十六条は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」という旨の第二十六条というのが、非常に重い条項であると私は考えております。
大日本帝国憲法は七十六条ありますが、この中には教育の条項は盛られていないというのが私の観察でありまして、この帝国憲法、明治二十二年二月の十一日、百余年前のあしたでございますが、に発布をされておるということであります。その中には教育の条項がない。
しかし、明治二十三年十月三十日、一年ちょっとおくれて教育勅語というのが出ておりまして、その中には、教育の問題については、表現として、「学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ」という言葉が入っているのが教育に関する事項であると思っております。
明治憲法下ではそういう状態であったわけでありますが、戦後、新憲法ができましたときにこの二十六条を入れた意味あるいは重みというのは非常に大きいと私は考えておりまして、今後もこの二十六条、若干の修正は考えられますけれども、存続をしていただきたいというのが私の念願であります。
ただ、つぶさに見てまいりますと、いろいろな問題がこの二十六条については指摘がなされます。
極めて素人の議論でありますけれども、子供には権利が与えられている、しかし親に義務がかけられている、こういう構成になっておりまして、子供には義務をかけていないわけであります。これは当然、法学上の問題として、子供に義務を課すということが妥当なのかどうかという問題があろうかと思いますが、これは学者の議論にまたなければならないかと思います。しかし、子供は学校へ行かなければいけないんだよということが易しく言えるようにするためには、子供にも義務をかける必要があるなと。
しかし、この子供に対する義務というのは、罰則規定というのをつけるわけにはいきません。したがって、これはいわゆる訓示規定のようになるんではないかと思います。これはもう私限りの自分の独断でございますが、これがいいとは申しませんが、こういうことが考えられる。「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有し、義務を負う。」訓示規定としてそういう義務条項が入ればわかりやすいのかなという感じを私的に持っております。
ただ、親に対しては義務が課せられておることは御承知のとおりでありますし、学校教育法の第九十一条には、親がこの義務に違反した場合には十万円以下の罰金を科するという条項がございまして、親に対する義務については、非常に厳しい規定が学校教育法の中にあることを申し述べたいと思います。
さて、これを読んでまいりまして、今の権利義務のほかに、これは小さい問題かもしれませんが、子女という言葉が使われております。「国民は、その保護する子女に」ということでありますが、子女という言葉が現代的なのかどうかということについてはいろいろ議論のあるところでありまして、教育基本法を検討してまいります場合に、「その保護する子に」ということでいいのではないかという議論が非常に有力であります。しかしこれは、憲法に子女と使われておるので、子女という言葉をそのまま使った方がいいだろうというのが法制局の考え方のようであります。これは憲法のところでよく御議論をいただきたいと思う次第でございます。
また、その中に普通教育という言葉が入っております。「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」ということを言っておりますが、この普通教育というのは一体何であろうかということを考察いたしてみますと、物の本で調べてみますと、国民として必要な基礎的教育というのを普通教育の定義にしている本がございますが、妥当な定義ではなかろうかと思うわけでございます。
ところが、現行は普通教育というのを三段階に分けておりまして、小学校においては初等普通教育を授けるところ、それから、中学校においては中等普通教育を授けるところ、そして、高等学校では高等普通教育を授けるところということが学校教育法の中に規定をしてあるわけであります。したがいまして、これを見る限りにおいては、普通教育というのは義務教育段階では終了しないのかという疑念が出てくるわけであります。
つまり、国民として必要な基礎的な教育というのは、義務教育の中で完結させるというのが一番わかりやすいのではないか。そうすると、高校段階での高等普通教育というのは一体何であるかということが疑問として出てくるわけでございまして、これは、教育基本法を検討してまいります中で非常に大きな議論になっております。
当然、高等学校のあり方と関連をするわけでございますが、私どもとしては、やはり中学段階で普通教育は完結させるのが一番すっきりしているんではないか、国民として必要な素養それから基礎的な教育というのは義務教育段階で完結させるという方がいいのではないかと思うわけであります。この辺は、現行の高等学校の性格というのが一体何であるかということの議論に発展をしてまいりまして、今非常に複雑な議論をしております。
それから、初等普通教育あるいは中等普通教育というのは一体何だ、どこにこの区分けがあるんだということも疑念として起こってくるわけであります。
さらにもう一つ、義務教育につきましては、教育に対する国家の任務というのは一体何かという議論が出てまいりまして、教育に対する国家の干渉をできるだけ排除するという側面と、教育に対する国家の配慮を求めるという側面と、矛盾したことが国家には要請をされているというふうに考えられるわけでありまして、この辺は非常に難しい議論であります。教育基本法の中での議論ということになりますが、憲法についてもどこへはね返ってくるのか、私どもとしても研究をしてまいりたいと思っております。
なお、中教審が言っております、国を愛する心あるいは公共の精神というのが提言されておりますけれども、それにつきましては、憲法の前文の中でどういう考え方が示されるのかということに大きな影響が出てくるものだと考えておりまして、憲法前文の検討状況というのを十分に考えていかなければならないと思います。
時間が参りましたので、ここで一たん区切らせていただきます。
この発言だけを見る →きょうは、権威ある憲法調査会で発言の機会をいただきまして、会長を初め、幹事の皆様方に厚く御礼を申し上げるものであります。
さて、きょうは、国民の権利及び義務ということでお話をさせていただくのでありますが、私は、立場上、きょうは教育の問題に限ってのお話をさせていただきたいと思います。時間が極めて限られておる十分という中でありますから、全部を語り尽くすことはできないと思いますけれども、一生懸命に努力をしたいと思います。
まず、憲法をさっと見てみますと、教育の条項については、憲法十三条、個人として尊重されるという趣旨のもの、それから憲法十四条、法のもとの平等、それから憲法十九条、思想及び良心の自由、それから憲法二十条、信教の自由、それから憲法二十三条、学問の自由等がございますが、何はおいてもやはりこの憲法の中で教育に関しての重要な事項は、憲法二十六条であると思います。
憲法二十六条は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」という旨の第二十六条というのが、非常に重い条項であると私は考えております。
大日本帝国憲法は七十六条ありますが、この中には教育の条項は盛られていないというのが私の観察でありまして、この帝国憲法、明治二十二年二月の十一日、百余年前のあしたでございますが、に発布をされておるということであります。その中には教育の条項がない。
しかし、明治二十三年十月三十日、一年ちょっとおくれて教育勅語というのが出ておりまして、その中には、教育の問題については、表現として、「学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ」という言葉が入っているのが教育に関する事項であると思っております。
明治憲法下ではそういう状態であったわけでありますが、戦後、新憲法ができましたときにこの二十六条を入れた意味あるいは重みというのは非常に大きいと私は考えておりまして、今後もこの二十六条、若干の修正は考えられますけれども、存続をしていただきたいというのが私の念願であります。
ただ、つぶさに見てまいりますと、いろいろな問題がこの二十六条については指摘がなされます。
極めて素人の議論でありますけれども、子供には権利が与えられている、しかし親に義務がかけられている、こういう構成になっておりまして、子供には義務をかけていないわけであります。これは当然、法学上の問題として、子供に義務を課すということが妥当なのかどうかという問題があろうかと思いますが、これは学者の議論にまたなければならないかと思います。しかし、子供は学校へ行かなければいけないんだよということが易しく言えるようにするためには、子供にも義務をかける必要があるなと。
しかし、この子供に対する義務というのは、罰則規定というのをつけるわけにはいきません。したがって、これはいわゆる訓示規定のようになるんではないかと思います。これはもう私限りの自分の独断でございますが、これがいいとは申しませんが、こういうことが考えられる。「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有し、義務を負う。」訓示規定としてそういう義務条項が入ればわかりやすいのかなという感じを私的に持っております。
ただ、親に対しては義務が課せられておることは御承知のとおりでありますし、学校教育法の第九十一条には、親がこの義務に違反した場合には十万円以下の罰金を科するという条項がございまして、親に対する義務については、非常に厳しい規定が学校教育法の中にあることを申し述べたいと思います。
さて、これを読んでまいりまして、今の権利義務のほかに、これは小さい問題かもしれませんが、子女という言葉が使われております。「国民は、その保護する子女に」ということでありますが、子女という言葉が現代的なのかどうかということについてはいろいろ議論のあるところでありまして、教育基本法を検討してまいります場合に、「その保護する子に」ということでいいのではないかという議論が非常に有力であります。しかしこれは、憲法に子女と使われておるので、子女という言葉をそのまま使った方がいいだろうというのが法制局の考え方のようであります。これは憲法のところでよく御議論をいただきたいと思う次第でございます。
また、その中に普通教育という言葉が入っております。「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」ということを言っておりますが、この普通教育というのは一体何であろうかということを考察いたしてみますと、物の本で調べてみますと、国民として必要な基礎的教育というのを普通教育の定義にしている本がございますが、妥当な定義ではなかろうかと思うわけでございます。
ところが、現行は普通教育というのを三段階に分けておりまして、小学校においては初等普通教育を授けるところ、それから、中学校においては中等普通教育を授けるところ、そして、高等学校では高等普通教育を授けるところということが学校教育法の中に規定をしてあるわけであります。したがいまして、これを見る限りにおいては、普通教育というのは義務教育段階では終了しないのかという疑念が出てくるわけであります。
つまり、国民として必要な基礎的な教育というのは、義務教育の中で完結させるというのが一番わかりやすいのではないか。そうすると、高校段階での高等普通教育というのは一体何であるかということが疑問として出てくるわけでございまして、これは、教育基本法を検討してまいります中で非常に大きな議論になっております。
当然、高等学校のあり方と関連をするわけでございますが、私どもとしては、やはり中学段階で普通教育は完結させるのが一番すっきりしているんではないか、国民として必要な素養それから基礎的な教育というのは義務教育段階で完結させるという方がいいのではないかと思うわけであります。この辺は、現行の高等学校の性格というのが一体何であるかということの議論に発展をしてまいりまして、今非常に複雑な議論をしております。
それから、初等普通教育あるいは中等普通教育というのは一体何だ、どこにこの区分けがあるんだということも疑念として起こってくるわけであります。
さらにもう一つ、義務教育につきましては、教育に対する国家の任務というのは一体何かという議論が出てまいりまして、教育に対する国家の干渉をできるだけ排除するという側面と、教育に対する国家の配慮を求めるという側面と、矛盾したことが国家には要請をされているというふうに考えられるわけでありまして、この辺は非常に難しい議論であります。教育基本法の中での議論ということになりますが、憲法についてもどこへはね返ってくるのか、私どもとしても研究をしてまいりたいと思っております。
なお、中教審が言っております、国を愛する心あるいは公共の精神というのが提言されておりますけれども、それにつきましては、憲法の前文の中でどういう考え方が示されるのかということに大きな影響が出てくるものだと考えておりまして、憲法前文の検討状況というのを十分に考えていかなければならないと思います。
時間が参りましたので、ここで一たん区切らせていただきます。
中
園
園田康博#4
○園田(康)委員 民主党・無所属クラブの園田康博でございます。
発言の機会をいただきまして、ありがとうございます。
本日のテーマであります国民の権利及び義務につきまして、与えられた時間で民主党の考えとそして私の若干の考え方を申し上げまして、あわせて、幾つかの問題提起をさせていただきたいと思います。
まず、民主党は、昨年の党の憲法調査会の中間報告の中で次のように指摘をさせていただいております。
今日、人権の実現と保障は国際社会の共通の利益と認識されており、日本における人権もまた、憲法とともに国際法規範によって支えられています。国連憲章は、人権と基本的自由を尊重するよう助長奨励することを国際連合の目的として掲げています。また、この目的の実現のために加盟国が国連と協力して共同及び個別の行動をとることを義務づけています。また、その下に人権委員会を設置して、世界人権宣言を起草し、国際人権規約を作成いたしました。これらは、今日では確立された国際法規範の一つに数えられています。
憲法九十七条は、憲法の最高法規性の根拠が、個人の尊厳を中核とする基本的人権を現在及び将来に及ぶ侵すことのできない永久の権利として継承することにあることを示しています。また、続く九十八条の二項で、国際法の誠実な遵守を明記しています。この条項は、条約及び確立された国際法に対する遵守義務を課すことによって、憲法前文の国際協調主義を具体化するものであり、国際法として確立された国際人権もこの最高法規性に基づいて保障されることがここに明示されていると理解をされます。
しかし、日本におきましては、国際人権法を詳細な検討なしに、国内法の条文解釈で十分だとする根強い法意識が存在していて、総じて国際人権法の活用について消極的な傾向が少なくありません。この現状を克服するために次の点に取り組むといたしております。
第一に、司法の項に国際人権法の尊重を記述するべきであります。
第二に、国際人権保障に係る動向を追跡し、必要な事項について国に対し勧告する権能を有する国内機関の設置を検討するべきであります。
第三に、憲法第九十八条二項に、国際条約の尊重・遵守義務に加えて、そのための適切な措置を講ずることを記述する必要があります。
第四に、憲法第九十七条に国際人権法の支配を認める表現を書き入れるべきであります。
以上述べましたことは、昨年、民主党憲法調査会が発表いたしました、創憲に向けて、中間提言の、人権保障における民主党の基本的な考え方でございます。
すなわち、社会の国際化や時代の変化に対応し得る、いわば生きた憲法を確立する、しなければいけないという姿勢で、もう一度現憲法を見詰め直し、二十一世紀の新しい時代にこたえる創造的な憲法論議を行う必要性を改めてここに提起したいと思います。
そこで、私の指針といたしまして、次の三点につきまして述べさせていただきたいと思います。
人間がその人生の目的であります幸福に暮らすため、心身の健康が不可欠でありますが、良好な自然環境、その健康の不可欠な前提であります。したがって、より便利な生活を実現するために、科学技術の進歩を無限に追求し続けてきた現代文明は、いわばその副作用として今環境破壊に直面しつつあります。そこで、その流れをせきとめるために、環境権、これを憲法典の中に明記しておくことが必要だと考えます。
とりわけ、環境権というものは、その環境侵害の被害者と加害者がともに同一の環境の中に住み、かつ、実際に問題が生じた場合には、その対象となります環境の範囲が特定しにくいものであるだけに、きちんと国民的な議論をした上で、その権利の主体、内容、そして範囲について決めておく必要があると思います。
また、その内容と関連して、その救済も、単なる妨害の予防あるいは排除で済む場合もあれば、さらに積極的な原状回復措置までをも必要とする場合があります。
それだけに、この環境権につきましては、これまでのように、条文上の根拠があいまいなままに解釈論を展開しているだけではその保障は不十分でありまして、まず何よりも憲法典の中に明文上の根拠を与えて、その上で、より具体的にその行使の条件を詰めて、できる限りそれらの点も明確に条文化しておく必要があるのではないでしょうか。
さらに、現代の高度科学技術社会におきましては、各人の私生活上の秘密といえども、極めて容易に暴露されやすいわけであります。すなわち、現在では、私事を探知する技術、盗聴技術でありますとか、また、それを瞬時に広範囲に伝達する技術、マスメディア、インターネットなど、高度に発達をしております。
しかし、だからといいまして私事の暴露を放任しておいたのでは、私たちの人格的生存、すなわち各人の名誉感情が保護された生活が不可能になってしまいます。これがプライバシー権の問題でありますが、すなわち、私事に関する情報をみずから排他的に管理する権利も私たちの幸福追求には不可欠であります。それだけに、このプライバシーの権利も、これまでのように、条文上の根拠がないままにしておいてよいはずがありません。
特に、このプライバシーの権利は、その性質上、他者の表現の自由と衝突するために、両者の合理的な調整が必要となってまいります。したがいまして、プライバシーの権利を条文に明記する場合には、その一環として、公人のプライバシーは原則として保護されないということも同時に明記すべきであると考えております。
つまり、一般には必ずしも正確に理解されていないようでありますが、公人、つまり、狭くは公権力を担当している者だけを指しまして、広くはそれに加えていわゆる有名人をも含みますが、それは世間一般に対して大きな影響力を有しているために、たとえ私事といっても、それは公衆の正当な関心事となります。
つまり、まず権力担当者は、権力の行使により自分の他の多数の国民の幸福と不幸に直接かかわることになりますので、その権力者の人格の判断材料となるその私事は有権者に対して開示されてしかるべきであると考えます。また、芸能人などのいわゆる有名人は、そのイメージが、世間、とりわけ青少年に多大に影響力を持つために、その人格を判断する材料である私事も公正に大衆に知らされるべきものと考えます。
このように、現代社会において極めて重要であると同時に、その取り扱いが微妙なプライバシーの権利も、これまでのように条文上の根拠があいまいな解釈論で処理し続けるのではなくて、その内容と限界については、ある程度具体的に憲法の中に明記しておく必要があると考えております。
また、国民の知る権利も憲法典の中に明文化しておくべきだと考えております。
まず、現代社会は福祉国家という名の行政国家でありますが、それだけに、多くの任務を担わされている行政府が国家権力の中で最も優位に立つようになっています。しかしながら、それに対して、国民の代表であります国会による行政権に対する統制は、皆さんも承知のように、必ずしも十分には機能しておりません。そこで、主権者国民が、私たち国民がそれぞれの立場で個人として行政権力に対して統制というものを直接試みることが考えられてきました。これが国民のいわゆる知る権利と言われるものでありますが、これを具体的に保障する情報公開法制がございます。
すなわち、行政機関が有する情報は、結局は国家の持ち主であります主権者国民自身のものであるという原理のもとに、行政機関の保有する情報を個々の国民の要求に応じて自由に開示させようとする制度であります。そして、このような考え方は、行政国家化現象のもとで議会や司法部による行政部に対する統制が必ずしも有効に機能していないと思われる現在におきましては、正当かつ有益なものであるというふうに言えるでしょう。
しかし、そのような発想そのものは正当であるといたしましても、実際にそれを実現させるためにはさまざまな難点がございます。
つまり、この知る権利を自由権、つまり、自分のしたいことを国家に邪魔されない権利という形として位置づけた場合、国民ならだれでも自由に行政庁に立ち入って情報を閲覧できることになります。その結果、行政庁は事実上機能し得なくなってしまうということで、そこで、知る権利は受益権、つまり、特定のサービスを国から与えてもらう権利という形として位置づけられることになります。
しかし、まず、条文上このことをはっきりさせておく必要があります。つまりそれは、国家に対する知る権利は、立法裁量に服し、法律が定めた一定の条件のもとで国民が享受できるものだということを明確にするということであります。
また、知る権利が無制限に行使された場合には、それは、行政庁が保有している多数の国民のプライバシーや知的所有権などを不当に流出させてしまうことにもなりかねず、かえって国内の不幸と混乱を招きかねません。したがいまして、この知る権利には、他の人権以上に合理的な制約が必要となります。
現代国家におきましては、極めて正当かつ重要であると同時に、他の利害との調整が不可避で、その取り扱いに慎重を要する知る権利も、これまでのように、条文上根拠があいまいな解釈論で処理し続けるのではなく、その意義と本質、限界について明確に規定し、正しく用いるべきだと考えております。
以上、代表的な新しい人権につきまして述べてまいりましたけれども、このほかにも、外国人、障害者、在監者、そして公務員、そして、論点といたしましては、政教分離原則、大学の自治など、人権分野においては幅広い議論がございます。
この憲法の理念が個人の尊厳であり、そして、中心的な原理が基本的人権の尊重であるということをもう一度再確認いたしまして、さらに憲法論議を進めていくことを期待いたしまして、発言を終わりたいと思います。
ありがとうございました。
この発言だけを見る →発言の機会をいただきまして、ありがとうございます。
本日のテーマであります国民の権利及び義務につきまして、与えられた時間で民主党の考えとそして私の若干の考え方を申し上げまして、あわせて、幾つかの問題提起をさせていただきたいと思います。
まず、民主党は、昨年の党の憲法調査会の中間報告の中で次のように指摘をさせていただいております。
今日、人権の実現と保障は国際社会の共通の利益と認識されており、日本における人権もまた、憲法とともに国際法規範によって支えられています。国連憲章は、人権と基本的自由を尊重するよう助長奨励することを国際連合の目的として掲げています。また、この目的の実現のために加盟国が国連と協力して共同及び個別の行動をとることを義務づけています。また、その下に人権委員会を設置して、世界人権宣言を起草し、国際人権規約を作成いたしました。これらは、今日では確立された国際法規範の一つに数えられています。
憲法九十七条は、憲法の最高法規性の根拠が、個人の尊厳を中核とする基本的人権を現在及び将来に及ぶ侵すことのできない永久の権利として継承することにあることを示しています。また、続く九十八条の二項で、国際法の誠実な遵守を明記しています。この条項は、条約及び確立された国際法に対する遵守義務を課すことによって、憲法前文の国際協調主義を具体化するものであり、国際法として確立された国際人権もこの最高法規性に基づいて保障されることがここに明示されていると理解をされます。
しかし、日本におきましては、国際人権法を詳細な検討なしに、国内法の条文解釈で十分だとする根強い法意識が存在していて、総じて国際人権法の活用について消極的な傾向が少なくありません。この現状を克服するために次の点に取り組むといたしております。
第一に、司法の項に国際人権法の尊重を記述するべきであります。
第二に、国際人権保障に係る動向を追跡し、必要な事項について国に対し勧告する権能を有する国内機関の設置を検討するべきであります。
第三に、憲法第九十八条二項に、国際条約の尊重・遵守義務に加えて、そのための適切な措置を講ずることを記述する必要があります。
第四に、憲法第九十七条に国際人権法の支配を認める表現を書き入れるべきであります。
以上述べましたことは、昨年、民主党憲法調査会が発表いたしました、創憲に向けて、中間提言の、人権保障における民主党の基本的な考え方でございます。
すなわち、社会の国際化や時代の変化に対応し得る、いわば生きた憲法を確立する、しなければいけないという姿勢で、もう一度現憲法を見詰め直し、二十一世紀の新しい時代にこたえる創造的な憲法論議を行う必要性を改めてここに提起したいと思います。
そこで、私の指針といたしまして、次の三点につきまして述べさせていただきたいと思います。
人間がその人生の目的であります幸福に暮らすため、心身の健康が不可欠でありますが、良好な自然環境、その健康の不可欠な前提であります。したがって、より便利な生活を実現するために、科学技術の進歩を無限に追求し続けてきた現代文明は、いわばその副作用として今環境破壊に直面しつつあります。そこで、その流れをせきとめるために、環境権、これを憲法典の中に明記しておくことが必要だと考えます。
とりわけ、環境権というものは、その環境侵害の被害者と加害者がともに同一の環境の中に住み、かつ、実際に問題が生じた場合には、その対象となります環境の範囲が特定しにくいものであるだけに、きちんと国民的な議論をした上で、その権利の主体、内容、そして範囲について決めておく必要があると思います。
また、その内容と関連して、その救済も、単なる妨害の予防あるいは排除で済む場合もあれば、さらに積極的な原状回復措置までをも必要とする場合があります。
それだけに、この環境権につきましては、これまでのように、条文上の根拠があいまいなままに解釈論を展開しているだけではその保障は不十分でありまして、まず何よりも憲法典の中に明文上の根拠を与えて、その上で、より具体的にその行使の条件を詰めて、できる限りそれらの点も明確に条文化しておく必要があるのではないでしょうか。
さらに、現代の高度科学技術社会におきましては、各人の私生活上の秘密といえども、極めて容易に暴露されやすいわけであります。すなわち、現在では、私事を探知する技術、盗聴技術でありますとか、また、それを瞬時に広範囲に伝達する技術、マスメディア、インターネットなど、高度に発達をしております。
しかし、だからといいまして私事の暴露を放任しておいたのでは、私たちの人格的生存、すなわち各人の名誉感情が保護された生活が不可能になってしまいます。これがプライバシー権の問題でありますが、すなわち、私事に関する情報をみずから排他的に管理する権利も私たちの幸福追求には不可欠であります。それだけに、このプライバシーの権利も、これまでのように、条文上の根拠がないままにしておいてよいはずがありません。
特に、このプライバシーの権利は、その性質上、他者の表現の自由と衝突するために、両者の合理的な調整が必要となってまいります。したがいまして、プライバシーの権利を条文に明記する場合には、その一環として、公人のプライバシーは原則として保護されないということも同時に明記すべきであると考えております。
つまり、一般には必ずしも正確に理解されていないようでありますが、公人、つまり、狭くは公権力を担当している者だけを指しまして、広くはそれに加えていわゆる有名人をも含みますが、それは世間一般に対して大きな影響力を有しているために、たとえ私事といっても、それは公衆の正当な関心事となります。
つまり、まず権力担当者は、権力の行使により自分の他の多数の国民の幸福と不幸に直接かかわることになりますので、その権力者の人格の判断材料となるその私事は有権者に対して開示されてしかるべきであると考えます。また、芸能人などのいわゆる有名人は、そのイメージが、世間、とりわけ青少年に多大に影響力を持つために、その人格を判断する材料である私事も公正に大衆に知らされるべきものと考えます。
このように、現代社会において極めて重要であると同時に、その取り扱いが微妙なプライバシーの権利も、これまでのように条文上の根拠があいまいな解釈論で処理し続けるのではなくて、その内容と限界については、ある程度具体的に憲法の中に明記しておく必要があると考えております。
また、国民の知る権利も憲法典の中に明文化しておくべきだと考えております。
まず、現代社会は福祉国家という名の行政国家でありますが、それだけに、多くの任務を担わされている行政府が国家権力の中で最も優位に立つようになっています。しかしながら、それに対して、国民の代表であります国会による行政権に対する統制は、皆さんも承知のように、必ずしも十分には機能しておりません。そこで、主権者国民が、私たち国民がそれぞれの立場で個人として行政権力に対して統制というものを直接試みることが考えられてきました。これが国民のいわゆる知る権利と言われるものでありますが、これを具体的に保障する情報公開法制がございます。
すなわち、行政機関が有する情報は、結局は国家の持ち主であります主権者国民自身のものであるという原理のもとに、行政機関の保有する情報を個々の国民の要求に応じて自由に開示させようとする制度であります。そして、このような考え方は、行政国家化現象のもとで議会や司法部による行政部に対する統制が必ずしも有効に機能していないと思われる現在におきましては、正当かつ有益なものであるというふうに言えるでしょう。
しかし、そのような発想そのものは正当であるといたしましても、実際にそれを実現させるためにはさまざまな難点がございます。
つまり、この知る権利を自由権、つまり、自分のしたいことを国家に邪魔されない権利という形として位置づけた場合、国民ならだれでも自由に行政庁に立ち入って情報を閲覧できることになります。その結果、行政庁は事実上機能し得なくなってしまうということで、そこで、知る権利は受益権、つまり、特定のサービスを国から与えてもらう権利という形として位置づけられることになります。
しかし、まず、条文上このことをはっきりさせておく必要があります。つまりそれは、国家に対する知る権利は、立法裁量に服し、法律が定めた一定の条件のもとで国民が享受できるものだということを明確にするということであります。
また、知る権利が無制限に行使された場合には、それは、行政庁が保有している多数の国民のプライバシーや知的所有権などを不当に流出させてしまうことにもなりかねず、かえって国内の不幸と混乱を招きかねません。したがいまして、この知る権利には、他の人権以上に合理的な制約が必要となります。
現代国家におきましては、極めて正当かつ重要であると同時に、他の利害との調整が不可避で、その取り扱いに慎重を要する知る権利も、これまでのように、条文上根拠があいまいな解釈論で処理し続けるのではなく、その意義と本質、限界について明確に規定し、正しく用いるべきだと考えております。
以上、代表的な新しい人権につきまして述べてまいりましたけれども、このほかにも、外国人、障害者、在監者、そして公務員、そして、論点といたしましては、政教分離原則、大学の自治など、人権分野においては幅広い議論がございます。
この憲法の理念が個人の尊厳であり、そして、中心的な原理が基本的人権の尊重であるということをもう一度再確認いたしまして、さらに憲法論議を進めていくことを期待いたしまして、発言を終わりたいと思います。
ありがとうございました。
中
福
福島豊#6
○福島委員 国民の権利及び義務に関してさまざまな論点が存在をいたしますが、簡潔に意見を申し上げたいと思います。
まず初めに、新しい人権についてでありますが、二十一世紀の日本のあり方、また人間文明の方向性というものを考えて、環境立国を明確にすべきであるというふうに考えております。諸外国でも、一九八〇年代以降、複数の国で憲法に環境権が規定されております。既に、十三条や二十五条を根拠にこれを認めることができるという考え方もありますけれども、憲法に規定するという政治的な意義を考えた場合、解釈ではなく、明確に規定すべきではないかと思います。もちろん、何をどのように規定するのか、その概念の外延と内包を明確にすることが必要であります。
知る権利、またプライバシー権といった情報に関する権利については、現在のIT社会の急速な進行、そしてまた国家行政システムの巨大化、複雑化を踏まえた場合に、やはり、十三条や二十五条に根拠を求めることができても、より明確な規定を置くべきであると思います。ただいまも園田委員から種々御指摘がありましたように、これをどのように定めるのかということは、さまざまな議論があることは当然であります。環境権と同様に、何をどのように規定するのか、その概念の外延と内包についてより充実した議論を行うべきであると考えております。
二番目は、平等についてであります。
十四条の規定について、私は障害者をここに入れるべきではないかと考えております。障害者の差別禁止の規定を盛り込むべきである。平等の概念には、個人をその事実上の違いにかかわらず一律に同等に扱うべきことを求める形式的平等と、事実上の劣位者をより有利に扱うことにより、結果を平等なものに近づけようとする実質的な平等がありますが、十四条において障害者の差別禁止の条項を求め、そしてまた、その下位法として障害者差別禁止法等の法整備により、実質的な平等を確保する方向を目指すべきではないかと考えております。
三番目に、生命倫理の問題について触れたいと思います。
生命倫理につきましては、当調査会におきましてもさまざまな形で議論がなされました。憲法の制定当時、今日のように生命を操作する技術は開発されておりませんでした。また、個人の遺伝的情報についてこれをつまびらかにする技術も存在していなかったわけであります。クローン人間のような存在をどのように考えるのか、我が国では個別にこれを禁止する法律が制定されましたけれども、より普遍的な生命の尊厳と、尊厳を侵害する生命の操作の禁止、また、遺伝情報へのアクセスの規制などを導く根拠となる条文を設けるべきではないかというふうに考えております。
個別法による規制で十分であるという見解もありますけれども、個別法は、変化する科学技術への対応で適宜適切な規制を行うべきであって、一貫して、変化する技術に対応し、いかなる原則にのっとりこの規制を行うのか、その立場を明らかにするための規定を置くべきではないかと考えております。
二十五条の生存権について申し上げたいと思います。
この点については過去に調査会でも私も発言をさせていただきまして、議論の取りまとめにも収載をしていただきました。二十五条の一項については、ナショナルミニマムとしての公的扶助制度の根拠規定としてとらえ、二項を、共助による社会保障制度としての年金、医療、介護制度の根拠規定として整理をすべきと考えております。
そしてまた、社会福祉また公衆衛生、これは、憲法制定当時のこの言葉の持つ意味と現在の意味と私はやはり変わってきているのではないかという思いがいたします。そういう意味からは、別の規定としてその内容について見直しを行ってもいいのではないかと考えております。
次に、定住外国人の地方参政権の問題についても当調査会でも議論が行われました。
住民自治の観点から、外国人も地域の住民として権利と義務を行使することは国際社会の慣例になりつつあるのではないかと考えております。国政への関与とは明確に区別をして、その上でこれを認めるべきであると考えております。また、将来において日本がグローバル社会の中で今日の活力を維持するためには、私は、第三の開国ともいうべき開かれた社会を構築する必要がある、そのように考えております。人口減少社会の中でいかに我が国の活力を引き出していくのか、中期的に明確な戦略が必要であります。
そうしたグローバル化を進めるためにも、地方参政権の問題について、国政への参画とどのように区別するのかという概念の整理も当然あるわけでありますけれども、その是非を含め、率直な議論をさらに進めるべきではないかと私は考えております。
次に、義務規定の強化。例えば、家族や共同体、伝統、文化の尊重などさまざまなことを規定すべきではないかという御指摘もありました。
憲法が、本来、国家権力の乱用から国民の基本的人権を守るということをその目的とするという自然権思想、社会契約論に端を発する近代立憲主義思想に基づいた場合、人権保障については、国家からの自由というものを基調とすべきであると考えております。我が国が西欧社会と異なる社会学的な構造を有してきたとしても、その変化は急速であり、かつての共同体的社会は既に過去のものとなっているというような指摘もあるわけであります。
そうした意味で、我が国による歴史的、文化的独自性を踏まえたとしても、このような国家からの自由を基調とする憲法であるべきである、そういうとらえ方は妥当なものではないかと思います。
そして、家族や共同体、伝統や文化の尊重などの道徳的な規定を置くこと、また義務規定を増設すること、これは、近代立憲主義の流れから外れ、人権を変質させるという観点から適切ではない、こういう指摘に耳を傾けるべきだと私は思っております。
そしてまた、次に、これは余りまとまって論じられておりませんが、次世代育成の規定ということを考えるべきではないかというふうに考えております。
社会が持つ重要な役割は、次世代を健全にはぐくみ、社会の継続性を維持することであります。今日、日本が人口減少社会に突入したことは、そうした社会の基本的な機能に変化を来していることの一つのあらわれではないかと私は思っております。こうした次世代の育成に対する規定、子供のための憲法の規定を設けることも、今日の人口減少社会の中では必要ではないかと考えております。
家族や共同体、また伝統や文化、こういったものは、次世代をいかに健全にはぐくむのか、そういう概念の中に包摂されて規定をされるということであれば、賛同したいというふうに私は思っております。
そして次に、教育についてでありますが、二十六条の規定は妥当なもので、変更を要しないと考えております。
今日の日本の教育が抱える諸問題についていかに対処するのかということは、このような根拠規定をどのように改変するのかという点ではなく、システムとしての日本社会また日本の教育が、さまざまな可能性を持つとともに、一定の規範を与えることが必要であるところの子供に対して何をどのように与えているのか、これを体系的な評価をする、総合的な評価をするというところから始めるべきではないかと私は思っております。
これほどの物質的または情報において過剰な社会システム、これは人類が初めて経験するところのものであると思います。そうした過剰に包まれた中で子供の健全な成長というものはどのように確保されるのか、全く違った視点で改めて考えるべきではないか、そのような思いがあるわけであります。
伝統または文化の協調も大変大切であります。しかしながら、情報量として圧倒的に違った情報がある中で伝統や文化というものをどのように根づかせるのかということを考えるときには、この過剰をコントロールするというところから始めるべきではないか、そのように私は個人的に思っております。そういう意味では、単に根拠規定ということではなくて、総合的な教育システムの評価そしてまた改革が必要である、そのように思います。
そのほかにも、精神的自由、表現の自由、経済的自由など多くの論点がありますが、以上の八項目について簡単に申し上げさせていただきました。
残余の点については、同僚委員からまた発言があると思います。
以上であります。
この発言だけを見る →まず初めに、新しい人権についてでありますが、二十一世紀の日本のあり方、また人間文明の方向性というものを考えて、環境立国を明確にすべきであるというふうに考えております。諸外国でも、一九八〇年代以降、複数の国で憲法に環境権が規定されております。既に、十三条や二十五条を根拠にこれを認めることができるという考え方もありますけれども、憲法に規定するという政治的な意義を考えた場合、解釈ではなく、明確に規定すべきではないかと思います。もちろん、何をどのように規定するのか、その概念の外延と内包を明確にすることが必要であります。
知る権利、またプライバシー権といった情報に関する権利については、現在のIT社会の急速な進行、そしてまた国家行政システムの巨大化、複雑化を踏まえた場合に、やはり、十三条や二十五条に根拠を求めることができても、より明確な規定を置くべきであると思います。ただいまも園田委員から種々御指摘がありましたように、これをどのように定めるのかということは、さまざまな議論があることは当然であります。環境権と同様に、何をどのように規定するのか、その概念の外延と内包についてより充実した議論を行うべきであると考えております。
二番目は、平等についてであります。
十四条の規定について、私は障害者をここに入れるべきではないかと考えております。障害者の差別禁止の規定を盛り込むべきである。平等の概念には、個人をその事実上の違いにかかわらず一律に同等に扱うべきことを求める形式的平等と、事実上の劣位者をより有利に扱うことにより、結果を平等なものに近づけようとする実質的な平等がありますが、十四条において障害者の差別禁止の条項を求め、そしてまた、その下位法として障害者差別禁止法等の法整備により、実質的な平等を確保する方向を目指すべきではないかと考えております。
三番目に、生命倫理の問題について触れたいと思います。
生命倫理につきましては、当調査会におきましてもさまざまな形で議論がなされました。憲法の制定当時、今日のように生命を操作する技術は開発されておりませんでした。また、個人の遺伝的情報についてこれをつまびらかにする技術も存在していなかったわけであります。クローン人間のような存在をどのように考えるのか、我が国では個別にこれを禁止する法律が制定されましたけれども、より普遍的な生命の尊厳と、尊厳を侵害する生命の操作の禁止、また、遺伝情報へのアクセスの規制などを導く根拠となる条文を設けるべきではないかというふうに考えております。
個別法による規制で十分であるという見解もありますけれども、個別法は、変化する科学技術への対応で適宜適切な規制を行うべきであって、一貫して、変化する技術に対応し、いかなる原則にのっとりこの規制を行うのか、その立場を明らかにするための規定を置くべきではないかと考えております。
二十五条の生存権について申し上げたいと思います。
この点については過去に調査会でも私も発言をさせていただきまして、議論の取りまとめにも収載をしていただきました。二十五条の一項については、ナショナルミニマムとしての公的扶助制度の根拠規定としてとらえ、二項を、共助による社会保障制度としての年金、医療、介護制度の根拠規定として整理をすべきと考えております。
そしてまた、社会福祉また公衆衛生、これは、憲法制定当時のこの言葉の持つ意味と現在の意味と私はやはり変わってきているのではないかという思いがいたします。そういう意味からは、別の規定としてその内容について見直しを行ってもいいのではないかと考えております。
次に、定住外国人の地方参政権の問題についても当調査会でも議論が行われました。
住民自治の観点から、外国人も地域の住民として権利と義務を行使することは国際社会の慣例になりつつあるのではないかと考えております。国政への関与とは明確に区別をして、その上でこれを認めるべきであると考えております。また、将来において日本がグローバル社会の中で今日の活力を維持するためには、私は、第三の開国ともいうべき開かれた社会を構築する必要がある、そのように考えております。人口減少社会の中でいかに我が国の活力を引き出していくのか、中期的に明確な戦略が必要であります。
そうしたグローバル化を進めるためにも、地方参政権の問題について、国政への参画とどのように区別するのかという概念の整理も当然あるわけでありますけれども、その是非を含め、率直な議論をさらに進めるべきではないかと私は考えております。
次に、義務規定の強化。例えば、家族や共同体、伝統、文化の尊重などさまざまなことを規定すべきではないかという御指摘もありました。
憲法が、本来、国家権力の乱用から国民の基本的人権を守るということをその目的とするという自然権思想、社会契約論に端を発する近代立憲主義思想に基づいた場合、人権保障については、国家からの自由というものを基調とすべきであると考えております。我が国が西欧社会と異なる社会学的な構造を有してきたとしても、その変化は急速であり、かつての共同体的社会は既に過去のものとなっているというような指摘もあるわけであります。
そうした意味で、我が国による歴史的、文化的独自性を踏まえたとしても、このような国家からの自由を基調とする憲法であるべきである、そういうとらえ方は妥当なものではないかと思います。
そして、家族や共同体、伝統や文化の尊重などの道徳的な規定を置くこと、また義務規定を増設すること、これは、近代立憲主義の流れから外れ、人権を変質させるという観点から適切ではない、こういう指摘に耳を傾けるべきだと私は思っております。
そしてまた、次に、これは余りまとまって論じられておりませんが、次世代育成の規定ということを考えるべきではないかというふうに考えております。
社会が持つ重要な役割は、次世代を健全にはぐくみ、社会の継続性を維持することであります。今日、日本が人口減少社会に突入したことは、そうした社会の基本的な機能に変化を来していることの一つのあらわれではないかと私は思っております。こうした次世代の育成に対する規定、子供のための憲法の規定を設けることも、今日の人口減少社会の中では必要ではないかと考えております。
家族や共同体、また伝統や文化、こういったものは、次世代をいかに健全にはぐくむのか、そういう概念の中に包摂されて規定をされるということであれば、賛同したいというふうに私は思っております。
そして次に、教育についてでありますが、二十六条の規定は妥当なもので、変更を要しないと考えております。
今日の日本の教育が抱える諸問題についていかに対処するのかということは、このような根拠規定をどのように改変するのかという点ではなく、システムとしての日本社会また日本の教育が、さまざまな可能性を持つとともに、一定の規範を与えることが必要であるところの子供に対して何をどのように与えているのか、これを体系的な評価をする、総合的な評価をするというところから始めるべきではないかと私は思っております。
これほどの物質的または情報において過剰な社会システム、これは人類が初めて経験するところのものであると思います。そうした過剰に包まれた中で子供の健全な成長というものはどのように確保されるのか、全く違った視点で改めて考えるべきではないか、そのような思いがあるわけであります。
伝統または文化の協調も大変大切であります。しかしながら、情報量として圧倒的に違った情報がある中で伝統や文化というものをどのように根づかせるのかということを考えるときには、この過剰をコントロールするというところから始めるべきではないか、そのように私は個人的に思っております。そういう意味では、単に根拠規定ということではなくて、総合的な教育システムの評価そしてまた改革が必要である、そのように思います。
そのほかにも、精神的自由、表現の自由、経済的自由など多くの論点がありますが、以上の八項目について簡単に申し上げさせていただきました。
残余の点については、同僚委員からまた発言があると思います。
以上であります。
中
高
高橋千鶴子#8
○高橋委員 日本共産党の高橋千鶴子です。
国民の権利及び義務に関する規定を定めているのは、具体的には、日本国憲法の第三章、十条から四十条であります。
その特徴は、第十三条の幸福追求権や十四条の法のもとの平等の原則など総則規定を設けた上で、精神的自由、経済的自由、人身の自由、さらには、国家の行為を請求し国家を形成していく国務請求権や参政権、そして第二十五条など、社会的、経済的弱者を保護して、福祉国家の理想を積極的に実現することを国家の義務とする社会権を定めていることです。
これは、明治憲法下において国民は天皇の臣民とされ、信教の自由、言論、著作、印行、集会及び結社の自由などの権利は法律の範囲内という制限がつけられるなど人権が厳しく抑圧されたことへの反省と、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言などの自由権とともに、ワイマール憲法など、二十世紀の社会権の広がりを憲法上に反映させた、現代の立憲主義の流れをくむものであります。憲法第九十七条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と述べているのもこのためであります。日本国憲法が保障する基本的人権は、諸外国の憲法と比べても豊かな内容があることは、本調査会の参考人などからも多くの指摘のあったところではなかったでしょうか。
戦後、日本国憲法が定めた基本的人権を保障するために、生活保護法、教育基本法、労働基準法など一連の法整備がされました。ところが、日米安保条約によって日本国憲法に基づく法体系とは異なる一連の法体系がつくられてきたこと、また、企業活動最優先の政治のもとで人権が軽んじられる、あるいは侵害される実態がつくられてきました。これに対し国民は、憲法に依拠して要求を挙げ、運動に取り組んできました。
まず、憲法二十五条の生存権についてでありますが、この問題で有名なのは、一九五六年の朝日訴訟です。低過ぎる生活保護費は憲法違反として国を相手に争ったものでありますが、人間の尊厳の価値を問う裁判でもあったことから人間裁判とも言われ、これを支援する運動は大きく盛り上がりました。第一審の判決は、憲法二十五条にある健康で文化的な生活水準とは、単に辛うじて生物として生存できる程度のものであってはならない、その基準は裁判で争うことができると判示しました。この訴訟を通じて生活保護費が実質的に引き上げられ、労働者の賃金にも影響を与えました。
今、一部に、憲法の生存権の規定は戦後直後の国民生活を反映したもの、これからは、自立と共生の時代という言い方で社会目的としての権利及び義務といった中に憲法二十五条の生存権を集約し、国民への社会保障その他の費用負担の義務を憲法に明記すべきとの議論があります。費用を負担して初めて権利が生ずるということになり、現在、例えば、国保税を払えないために二十五万人もが国保証をとめられ、命にかかわる問題が全国に起こっているように、生存権保障のための国の責任を放棄するものと言わなければなりません。
いわゆる環境権についてはどうでしょうか。
六〇年代から七〇年代初頭、深刻となった公害問題に対して当時の運動家や弁護士が、憲法十三条の幸福追求権、二十五条の生存権に依拠して国民には良好な環境のもとで生きる権利があると主張し、一連の裁判闘争に取り組み、勝利しました。これに国連が注目し、一九七二年六月には国連人間環境会議で、環境は人間の福祉と基本的人権享受のために必要不可欠なものと宣言されました。今日、環境権と呼ばれる権利は、日本国憲法とそれに根差した国民の運動が生み出した権利であり、世界に通用する普遍的な権利になりました。
先ほども議論がありましたように、環境権、プライバシー権など、憲法制定時には想定できなかった新しい人権を憲法に明記すべきなどの主張がありますが、今では、現行憲法上も環境権は保障されるものであることは、本調査会の参考人なども共通して述べていたとおりだと思われます。
労働者の権利をめぐっても、結婚、出産退職の強要や賃金、昇格の差別など、企業の横暴に対して多くの女性労働者が裁判で闘ってきました。そして、司法を動かし、職場を変えてきました。過労死を労働災害として認定させてきたことも、労働者の、人間らしく働く権利を求める運動によるものであります。
こうして見てくると、憲法第十二条が「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と定めているように、まさに、戦後の国民の自由と権利をめぐる歴史は、それを侵害する公権力あるいは大企業などと国民との不断の闘いの歴史であったと言えるのではないでしょうか。
今日、企業のリストラや、正社員から派遣、パート労働への置きかえが進んでいます。多くの青年が雇用の調整弁として安易に首を切られ、フリーターなど不安定な状態に追いやられています。
小泉総理は、先日の衆議院予算委員会において、企業が利益をふやしているのに家計所得は減っているという我が党の指摘に対して、企業が過剰雇用と債務を抱えており、今ようやく足かせの部分が軽くなってきたと答弁をしました。企業が身軽になり利益を上げるためには労働者や中小企業が犠牲になってもよしとする考え方には、強い憤りを覚えます。今日の憲法改定をめぐる主張は、まさにこの構造改革路線と深く結びついたものであります。
例えば、自民党の言う、ひとりよがりの人権主張ではなく、国家と国民が協力して共生するのだとして国民には自己努力を要求する一方、企業その他の経済活動の自由は明記されるべきだと言われております。今の憲法のもとでも大企業は自由勝手に振る舞っているのに、その上憲法に経済活動の自由を明記すれば、一層企業優先の社会になるのではないかと懸念されます。
環境権においても、自民党の改憲大綱原案の中では、個人が権利請求できないプログラム規定として明記するとされています。これでは、行政に環境保護の努力義務を課すだけで、国民は憲法に依拠した環境権保障の裁判を闘えなくなるとの指摘もあります。現憲法は、個人の尊厳を最大の価値とし、国民一人一人の生存権を保障するために、ルールある経済社会づくりをこそ要請しているものです。
さらに、国家の安全という公共の価値によって国民の自由と権利を制限する、国民に国防の責務を課すという主張は、国民の自由と権利よりも軍事を優先するものであり、現憲法の基本的人権の考え方とは相入れないものと考えます。
今日の日本社会は、なお解決しなければならない人権侵害の実態があります。昨年一月の立川での防衛庁宿舎へのビラ配布に対する不当逮捕、起訴、昨年十二月、葛飾区でのビラ配布への不当逮捕、起訴などは、憲法が保障する表現の自由、政治活動の自由を侵害するものであります。立川の事件は十二月に東京地裁が無罪と判決したにもかかわらず、その直後に葛飾の事件が起こされました。憲法調査会は、本来、こうした日本の人権状況がどうなっているのか、憲法に反する状況はないのか、基本的人権の保障を妨げている原因は何かなどを調査するべきであると考えます。
日本国憲法の豊かな人権規定を再確認し、立法、行政、司法など日本社会の各分野でこれを生かしていくことこそ今日求められます。憲法九十七条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、」中略「過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と、将来に向けて発展させていくことも見通しています。
日本国憲法の人権規定は、現在だけでなく、将来生起する人権についても対応し得る懐の深い構造を持ち、国民はそれをさらに生かし、豊かに発展させていくものと考えます。
以上です。
この発言だけを見る →国民の権利及び義務に関する規定を定めているのは、具体的には、日本国憲法の第三章、十条から四十条であります。
その特徴は、第十三条の幸福追求権や十四条の法のもとの平等の原則など総則規定を設けた上で、精神的自由、経済的自由、人身の自由、さらには、国家の行為を請求し国家を形成していく国務請求権や参政権、そして第二十五条など、社会的、経済的弱者を保護して、福祉国家の理想を積極的に実現することを国家の義務とする社会権を定めていることです。
これは、明治憲法下において国民は天皇の臣民とされ、信教の自由、言論、著作、印行、集会及び結社の自由などの権利は法律の範囲内という制限がつけられるなど人権が厳しく抑圧されたことへの反省と、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言などの自由権とともに、ワイマール憲法など、二十世紀の社会権の広がりを憲法上に反映させた、現代の立憲主義の流れをくむものであります。憲法第九十七条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と述べているのもこのためであります。日本国憲法が保障する基本的人権は、諸外国の憲法と比べても豊かな内容があることは、本調査会の参考人などからも多くの指摘のあったところではなかったでしょうか。
戦後、日本国憲法が定めた基本的人権を保障するために、生活保護法、教育基本法、労働基準法など一連の法整備がされました。ところが、日米安保条約によって日本国憲法に基づく法体系とは異なる一連の法体系がつくられてきたこと、また、企業活動最優先の政治のもとで人権が軽んじられる、あるいは侵害される実態がつくられてきました。これに対し国民は、憲法に依拠して要求を挙げ、運動に取り組んできました。
まず、憲法二十五条の生存権についてでありますが、この問題で有名なのは、一九五六年の朝日訴訟です。低過ぎる生活保護費は憲法違反として国を相手に争ったものでありますが、人間の尊厳の価値を問う裁判でもあったことから人間裁判とも言われ、これを支援する運動は大きく盛り上がりました。第一審の判決は、憲法二十五条にある健康で文化的な生活水準とは、単に辛うじて生物として生存できる程度のものであってはならない、その基準は裁判で争うことができると判示しました。この訴訟を通じて生活保護費が実質的に引き上げられ、労働者の賃金にも影響を与えました。
今、一部に、憲法の生存権の規定は戦後直後の国民生活を反映したもの、これからは、自立と共生の時代という言い方で社会目的としての権利及び義務といった中に憲法二十五条の生存権を集約し、国民への社会保障その他の費用負担の義務を憲法に明記すべきとの議論があります。費用を負担して初めて権利が生ずるということになり、現在、例えば、国保税を払えないために二十五万人もが国保証をとめられ、命にかかわる問題が全国に起こっているように、生存権保障のための国の責任を放棄するものと言わなければなりません。
いわゆる環境権についてはどうでしょうか。
六〇年代から七〇年代初頭、深刻となった公害問題に対して当時の運動家や弁護士が、憲法十三条の幸福追求権、二十五条の生存権に依拠して国民には良好な環境のもとで生きる権利があると主張し、一連の裁判闘争に取り組み、勝利しました。これに国連が注目し、一九七二年六月には国連人間環境会議で、環境は人間の福祉と基本的人権享受のために必要不可欠なものと宣言されました。今日、環境権と呼ばれる権利は、日本国憲法とそれに根差した国民の運動が生み出した権利であり、世界に通用する普遍的な権利になりました。
先ほども議論がありましたように、環境権、プライバシー権など、憲法制定時には想定できなかった新しい人権を憲法に明記すべきなどの主張がありますが、今では、現行憲法上も環境権は保障されるものであることは、本調査会の参考人なども共通して述べていたとおりだと思われます。
労働者の権利をめぐっても、結婚、出産退職の強要や賃金、昇格の差別など、企業の横暴に対して多くの女性労働者が裁判で闘ってきました。そして、司法を動かし、職場を変えてきました。過労死を労働災害として認定させてきたことも、労働者の、人間らしく働く権利を求める運動によるものであります。
こうして見てくると、憲法第十二条が「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と定めているように、まさに、戦後の国民の自由と権利をめぐる歴史は、それを侵害する公権力あるいは大企業などと国民との不断の闘いの歴史であったと言えるのではないでしょうか。
今日、企業のリストラや、正社員から派遣、パート労働への置きかえが進んでいます。多くの青年が雇用の調整弁として安易に首を切られ、フリーターなど不安定な状態に追いやられています。
小泉総理は、先日の衆議院予算委員会において、企業が利益をふやしているのに家計所得は減っているという我が党の指摘に対して、企業が過剰雇用と債務を抱えており、今ようやく足かせの部分が軽くなってきたと答弁をしました。企業が身軽になり利益を上げるためには労働者や中小企業が犠牲になってもよしとする考え方には、強い憤りを覚えます。今日の憲法改定をめぐる主張は、まさにこの構造改革路線と深く結びついたものであります。
例えば、自民党の言う、ひとりよがりの人権主張ではなく、国家と国民が協力して共生するのだとして国民には自己努力を要求する一方、企業その他の経済活動の自由は明記されるべきだと言われております。今の憲法のもとでも大企業は自由勝手に振る舞っているのに、その上憲法に経済活動の自由を明記すれば、一層企業優先の社会になるのではないかと懸念されます。
環境権においても、自民党の改憲大綱原案の中では、個人が権利請求できないプログラム規定として明記するとされています。これでは、行政に環境保護の努力義務を課すだけで、国民は憲法に依拠した環境権保障の裁判を闘えなくなるとの指摘もあります。現憲法は、個人の尊厳を最大の価値とし、国民一人一人の生存権を保障するために、ルールある経済社会づくりをこそ要請しているものです。
さらに、国家の安全という公共の価値によって国民の自由と権利を制限する、国民に国防の責務を課すという主張は、国民の自由と権利よりも軍事を優先するものであり、現憲法の基本的人権の考え方とは相入れないものと考えます。
今日の日本社会は、なお解決しなければならない人権侵害の実態があります。昨年一月の立川での防衛庁宿舎へのビラ配布に対する不当逮捕、起訴、昨年十二月、葛飾区でのビラ配布への不当逮捕、起訴などは、憲法が保障する表現の自由、政治活動の自由を侵害するものであります。立川の事件は十二月に東京地裁が無罪と判決したにもかかわらず、その直後に葛飾の事件が起こされました。憲法調査会は、本来、こうした日本の人権状況がどうなっているのか、憲法に反する状況はないのか、基本的人権の保障を妨げている原因は何かなどを調査するべきであると考えます。
日本国憲法の豊かな人権規定を再確認し、立法、行政、司法など日本社会の各分野でこれを生かしていくことこそ今日求められます。憲法九十七条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、」中略「過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と、将来に向けて発展させていくことも見通しています。
日本国憲法の人権規定は、現在だけでなく、将来生起する人権についても対応し得る懐の深い構造を持ち、国民はそれをさらに生かし、豊かに発展させていくものと考えます。
以上です。
中
土
土井たか子#10
○土井委員 日本国憲法は、第十一条で「基本的人権は、侵すことのできない永久の権利」というふうに定めておりまして、さらに、第十二条で「自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と言った上で、さらに第九十七条で、基本的人権は「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と繰り返しているわけです。今申し上げたのは十一条、十二条、九十七条という条文ですが、基本的人権の尊重は、もう申し上げるまでもございませんが、日本国憲法の三大原理の一つでございます。
憲法は、見てまいりますと、条文の約三分の一を人権規定に充てております。人権を最大限重視していると申し上げていいでしょう。
この基本的人権について、この憲法が保障するから初めて問題になっているのである、与えられたものであるということをおっしゃる方も中にあるんですけれども、しかし、この日本国憲法について言うならば、既に憲法以前に成立しているもの、前国家的権利というふうに申し上げていいと思うんですが、その内容を承認して、尊重して、それが不当に侵害されることのないように保障するという考え方をとっているというふうに思います。
基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果で、過去幾多の試練にたえたものであるということを九十七条は規定しておりますけれども、これは、フランス革命などの市民革命を出発点として、その後の専制支配さらには軍国主義、ファシズムなどへの抵抗の闘いを指して、我が国では、自由民権運動や大正デモクラシーや、さらには戦前の治安維持法下での闘いというのも、当然のことながら、人権を具体的に憲法に保障するまでの歴史の流れとしてしっかり受けとめて、これを知らなければならないと思うのでございます。
憲法は、人権獲得のための人類の長い間の闘いとその成果を評価して、十一条で「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」ということを宣言するとともに、その保持は現在及び将来の国民に信託されたものであって、ここから大事なんです、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」ということを十二条が規定いたしております。
このような基本的人権に対する考え方、歴史認識は、憲法前文とともに、日本国憲法のヒューマニズム、人間の英知に対する信頼を示しているものと考えなければならないと思うのです。
憲法の前文を見ますと、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と宣言しております。私は、「平和のうちに生存する権利」、これはよく平和的生存権と呼称されておりますけれども、この平和的生存権こそ最も根源的な権利であるということを力説したいと思います。
二十世紀以降の戦争において、一般の市民こそが最大の被害者でありました。戦闘要員よりも非戦闘要員の方に犠牲者が多大であります。事実に照らして、あらゆる戦争を否定して、平和を維持することが何よりも大切だという認識から憲法の第九条が規定されているのであって、したがって、日本国憲法の規定している人権のありようというのが、他国の憲法それぞれが、主権制の主張と同時に、国民に対して人権を保障するというのが憲法の本質でございますけれども、しかし、日本国憲法は、その中身に対してまず平和的生存権というのを人権としてしっかり保障するというところは、一大特徴だということを私は強く主張したいと思うのでございます。
そして、もう一つの特徴を申します。それは、憲法第十三条の個人の尊重、幸福追求権ということを重視しているという点です。
最近の改憲論議の中で、個人よりは国家、個よりも公というその認識というのが非常に強調される嫌いがございます。しかしこれは、憲法が保障しているところとはまるで違うと申し上げねばなりません。これは逆さまの論理ですね。むしろ主客転倒ということもそこで申せましょう。すべての国民が個人として尊重されること、人間としてのよさを認め合って生きていけるような社会の実現というのを十三条の条文自身は目指しているということを言わなければならないと思うんです。
そこで、最近、特にこのことがよく取りざたをされております新しい人権に対して申し上げたいと思います。
新しい人権ということに対して対応する新しい権利、環境権、プライバシー権、生命倫理に関する規定、犯罪被害者の権利、名誉権、知る権利、自己決定権、子供の権利などを憲法に盛り込むべきだという議論がございます。果たしてこれは、具体的な条文として憲法に盛り込むことがどうしても大事なんでしょうか。また、そうでなければ保障され得ないというふうに考えられるんでしょうか。
社会の進展につれて、憲法が制定された当時には思いがそこまで及ばなかった、例えば児童虐待やストーカーなんかを見ておりましても、新しい形での人権の侵害や保護に値する新しい利益について、憲法上の権利擁護の内容にすべきであるというふうに主張されている面がだんだん強いんです。社会の変遷に伴う基本的な権利、自由として保護するに値するというふうに考えられるということがその見解のようであります。
まず、新しい人権にとって憲法上明文規定がなかったことが障害になっているのかどうか検証する必要が大いにあるだろうと思うんですが、むしろ新しい人権の実現にとっては、これを実現させようとするとき、必ず私たちの経験からしてもすぐさまこのことに対して気がつくのは、官僚がこれに対して旧態依然たる認識と、しかも取り扱いの上での抵抗があるということですよ。官僚の抵抗、これは、立法をする場合にも経験することは頻々とありますし、新しい政策を具体的に実行しようというときにも、この問題がまとわりついてくるという経験を私たちは少なからず持っております。
しかし、それと同時に、やはり政治家、議員の方の態度も消極的であるということも障害をつくる大きなもとになっているわけで、例えば、大規模公共事業を推し進めて環境破壊を引き起こしてきた人が環境権を口にするというときには、余りこれは支持を得るということにはなりません。情報公開法に知る権利を盛り込むのに反対した人が憲法に知る権利を盛り込めというふうにおっしゃっていたり、個人情報の保護を言う人がいわゆる盗聴法を推進する先頭に立つということがあったりするわけでございまして、そういうことから考えると、これはやはり、具体的な事情に対して、実定法上の立法に対する努力の積み重ねというのをまず着実にやっていくことが先決問題ではないかと私は思います。
それで、権利が保障されるというのは、憲法に権利を書けばそれでできると考えるのは、これはやはり浅はかな考え方でございまして、まずは、具体的にこの法的権利を認めるという立場からすれば、実定法上のそれに対する保障ということを、立法の上で、法律を立法していく上で努力を積み重ねることこそ先決ではないか、それこそ先決だというふうに思います。
最後に一つだけ、もう時間が来たようでございますけれども。
今私たちがここで討議している中身というのは、少なくとも、最終報告書をつくる場合の中身になってまいります。私は、この憲法調査会が最終報告書を、約五年余りの間討議した結果、議長に対して提出するというこの持っている意味というのは、非常に重大だというふうに思うのです。したがって、この最終報告書に対しての編集をどのようにするかという案は既に提示をされておりますけれども、その案のままでいくのか、それとも、中身に対してどのように編集されることがより望ましいかという討議の機会を、ぜひとも当調査会において全員が参加する中で持っていただくことを求めたいということをしつこく今まで提案してまいりました。
私は、このことをこの場所を通じても提案すると同時に、最近、予算がこの最終報告書に対してつけられております。残念ながら、私どもの党は人数が少ないので、庶務小委員会に出席することが認められておりません。したがって、この最終報告書につけられている予算の内容についても、これは、公開を非常に大事にお考えになる会長でございますから、会長の方で、ひとつ私どもに対してわかるようにお取り計らいをぜひお願いしたいと思うのでございます。
その際、一つには、翻訳をして……
この発言だけを見る →憲法は、見てまいりますと、条文の約三分の一を人権規定に充てております。人権を最大限重視していると申し上げていいでしょう。
この基本的人権について、この憲法が保障するから初めて問題になっているのである、与えられたものであるということをおっしゃる方も中にあるんですけれども、しかし、この日本国憲法について言うならば、既に憲法以前に成立しているもの、前国家的権利というふうに申し上げていいと思うんですが、その内容を承認して、尊重して、それが不当に侵害されることのないように保障するという考え方をとっているというふうに思います。
基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果で、過去幾多の試練にたえたものであるということを九十七条は規定しておりますけれども、これは、フランス革命などの市民革命を出発点として、その後の専制支配さらには軍国主義、ファシズムなどへの抵抗の闘いを指して、我が国では、自由民権運動や大正デモクラシーや、さらには戦前の治安維持法下での闘いというのも、当然のことながら、人権を具体的に憲法に保障するまでの歴史の流れとしてしっかり受けとめて、これを知らなければならないと思うのでございます。
憲法は、人権獲得のための人類の長い間の闘いとその成果を評価して、十一条で「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」ということを宣言するとともに、その保持は現在及び将来の国民に信託されたものであって、ここから大事なんです、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」ということを十二条が規定いたしております。
このような基本的人権に対する考え方、歴史認識は、憲法前文とともに、日本国憲法のヒューマニズム、人間の英知に対する信頼を示しているものと考えなければならないと思うのです。
憲法の前文を見ますと、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と宣言しております。私は、「平和のうちに生存する権利」、これはよく平和的生存権と呼称されておりますけれども、この平和的生存権こそ最も根源的な権利であるということを力説したいと思います。
二十世紀以降の戦争において、一般の市民こそが最大の被害者でありました。戦闘要員よりも非戦闘要員の方に犠牲者が多大であります。事実に照らして、あらゆる戦争を否定して、平和を維持することが何よりも大切だという認識から憲法の第九条が規定されているのであって、したがって、日本国憲法の規定している人権のありようというのが、他国の憲法それぞれが、主権制の主張と同時に、国民に対して人権を保障するというのが憲法の本質でございますけれども、しかし、日本国憲法は、その中身に対してまず平和的生存権というのを人権としてしっかり保障するというところは、一大特徴だということを私は強く主張したいと思うのでございます。
そして、もう一つの特徴を申します。それは、憲法第十三条の個人の尊重、幸福追求権ということを重視しているという点です。
最近の改憲論議の中で、個人よりは国家、個よりも公というその認識というのが非常に強調される嫌いがございます。しかしこれは、憲法が保障しているところとはまるで違うと申し上げねばなりません。これは逆さまの論理ですね。むしろ主客転倒ということもそこで申せましょう。すべての国民が個人として尊重されること、人間としてのよさを認め合って生きていけるような社会の実現というのを十三条の条文自身は目指しているということを言わなければならないと思うんです。
そこで、最近、特にこのことがよく取りざたをされております新しい人権に対して申し上げたいと思います。
新しい人権ということに対して対応する新しい権利、環境権、プライバシー権、生命倫理に関する規定、犯罪被害者の権利、名誉権、知る権利、自己決定権、子供の権利などを憲法に盛り込むべきだという議論がございます。果たしてこれは、具体的な条文として憲法に盛り込むことがどうしても大事なんでしょうか。また、そうでなければ保障され得ないというふうに考えられるんでしょうか。
社会の進展につれて、憲法が制定された当時には思いがそこまで及ばなかった、例えば児童虐待やストーカーなんかを見ておりましても、新しい形での人権の侵害や保護に値する新しい利益について、憲法上の権利擁護の内容にすべきであるというふうに主張されている面がだんだん強いんです。社会の変遷に伴う基本的な権利、自由として保護するに値するというふうに考えられるということがその見解のようであります。
まず、新しい人権にとって憲法上明文規定がなかったことが障害になっているのかどうか検証する必要が大いにあるだろうと思うんですが、むしろ新しい人権の実現にとっては、これを実現させようとするとき、必ず私たちの経験からしてもすぐさまこのことに対して気がつくのは、官僚がこれに対して旧態依然たる認識と、しかも取り扱いの上での抵抗があるということですよ。官僚の抵抗、これは、立法をする場合にも経験することは頻々とありますし、新しい政策を具体的に実行しようというときにも、この問題がまとわりついてくるという経験を私たちは少なからず持っております。
しかし、それと同時に、やはり政治家、議員の方の態度も消極的であるということも障害をつくる大きなもとになっているわけで、例えば、大規模公共事業を推し進めて環境破壊を引き起こしてきた人が環境権を口にするというときには、余りこれは支持を得るということにはなりません。情報公開法に知る権利を盛り込むのに反対した人が憲法に知る権利を盛り込めというふうにおっしゃっていたり、個人情報の保護を言う人がいわゆる盗聴法を推進する先頭に立つということがあったりするわけでございまして、そういうことから考えると、これはやはり、具体的な事情に対して、実定法上の立法に対する努力の積み重ねというのをまず着実にやっていくことが先決問題ではないかと私は思います。
それで、権利が保障されるというのは、憲法に権利を書けばそれでできると考えるのは、これはやはり浅はかな考え方でございまして、まずは、具体的にこの法的権利を認めるという立場からすれば、実定法上のそれに対する保障ということを、立法の上で、法律を立法していく上で努力を積み重ねることこそ先決ではないか、それこそ先決だというふうに思います。
最後に一つだけ、もう時間が来たようでございますけれども。
今私たちがここで討議している中身というのは、少なくとも、最終報告書をつくる場合の中身になってまいります。私は、この憲法調査会が最終報告書を、約五年余りの間討議した結果、議長に対して提出するというこの持っている意味というのは、非常に重大だというふうに思うのです。したがって、この最終報告書に対しての編集をどのようにするかという案は既に提示をされておりますけれども、その案のままでいくのか、それとも、中身に対してどのように編集されることがより望ましいかという討議の機会を、ぜひとも当調査会において全員が参加する中で持っていただくことを求めたいということをしつこく今まで提案してまいりました。
私は、このことをこの場所を通じても提案すると同時に、最近、予算がこの最終報告書に対してつけられております。残念ながら、私どもの党は人数が少ないので、庶務小委員会に出席することが認められておりません。したがって、この最終報告書につけられている予算の内容についても、これは、公開を非常に大事にお考えになる会長でございますから、会長の方で、ひとつ私どもに対してわかるようにお取り計らいをぜひお願いしたいと思うのでございます。
その際、一つには、翻訳をして……
中
土
土井たか子#12
○土井委員 はい。それでは一言結論を申しますが、あと、翻訳をして、英文でもこの問題に対して最終報告書を用意してそれを配布するということが予定されているようでございます。少しその点も、どう考えていくべきかということも討議の俎上にのっけていただいて、ひとつ、お互いの検討の中でこの問題が、少しでも最終報告書ということに各議員が参加したという形を保証していただけますことを心から望んで、終わりにします。
ありがとうございました。
この発言だけを見る →ありがとうございました。
中
中
中山太郎#14
○中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。
一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。
御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。
それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。
この発言だけを見る →一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。
御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。
それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。
枝
枝野幸男#15
○枝野委員 私は、この権利と義務に関して、三点、基本的なところについてお話をしたいと思います。
まず、憲法にもっと義務を書くべきではないかという議論がよくなされておりますが、これはもう憲法そのものを基本的に理解していない議論であると私は思います。
そもそも憲法は公権力行使の限界を定めた法でありまして、憲法で制約されていない義務については法律で自由に課すことができる。逆に言えば、法律でも課すことのできない義務は何なのか、あるいは、法律でこれ以上の義務を課してはいけないということを規定するのが憲法典の意味で、義務を課す必要があるんだったら、憲法に書き込むのではなくて、立法によって義務を課せばいいだけの話であって、しょせんは、もし書いたとしても確認的規定にすぎず、法的意味は全く持たない。法的意味を全く持たないことについての議論を一生懸命やっていることは全く無意味であるということをまず申し上げておきたい。
二点目。それでも、憲法典に書けば訓示的な意味を持つではないかという議論がありますが、そういう方の多くが、実は憲法九条について、憲法九条があったから戦争に巻き込まれなかったという議論を否定している方にそういう発言が多いように思います。
私もそう思います。日本の戦後、平和が安定されてきたのは、憲法九条は一要素ではあったかもしれませんが、基本は、日本の外交、安全保障の努力、その結果として戦争に巻き込まれないできた、そういうふうに私も思っていまして、訓示規定を書いたからといってそうなるというわけではない。
例えば、人を殺しちゃいけないというのは、訓示どころか罰則までつけて義務を課していますが、それでも人を殺す人がいる。したがって、具体的にその訓示規定で実現をしたい価値をどういう手段で実現するのかということこそが政治に求められていることだと思います。
よく教育のことが問われていますけれども、教育について憲法や基本法に何を書くかということ以上に、今現に求められている価値、例えば人を殺してはいけないということを、学校教育の現場で子供たちにしっかりとそうした意識をはぐくむことができていないという教育現場の問題、つまり、教師の能力と、あるいは、人を殺してはいけないとか親を大事にするとか、そうした意識をはぐくむためのカリキュラムができていない。こうした教師の能力やカリキュラムについての具体的な解決策を持っていない人に限って、抽象的なところで議論をして目をそらそうとしていると私は受けとめております。
三つ目。戦後民主主義あるいは戦後の人権規定が個人の勝手、利己主義に走らせたというような批判をする人がいます。これこそまさに憲法を、あるいは基本的人権を全く理解しないで、ひとりよがりの発言だと思います。
そもそも憲法典が規定している基本的人権の概念、個人の尊重というのは、自分のことを尊重するという個人の尊重ではなくて、あなたを尊重するから私のことも尊重してください、お互いに個人として尊重し合いましょう、そもそも基本的人権というのはそういうものであって、利己主義とは全く百八十度違うものであります。これは、ある程度憲法を理解している者からすれば当然のことであるし、また、そうした価値、つまり、自分さえよければいいではなくて、あなたも尊重するから私も尊重してください、こういう基本的な価値こそはまさに大事にしなければならないものであって、それを、十分な理解もなしに、この人権の規定を利己主義のことだと勝手に間違った理解をしておきながら、その間違った誤解をもとにそのことを批判しているのは、まさにひとりよがり、まさに利己主義そのものでありまして、全く議論に値しない、混乱した議論であると言わざるを得ない。
こうした基本的な三つの点が混乱したまま議論が進んでいくことは非常に私は危惧するところでありまして、基本的な人権あるいは憲法典というものに対する共通の理解のもとに議論を進めていただきたいと強く訴えたいと思います。
以上です。
この発言だけを見る →まず、憲法にもっと義務を書くべきではないかという議論がよくなされておりますが、これはもう憲法そのものを基本的に理解していない議論であると私は思います。
そもそも憲法は公権力行使の限界を定めた法でありまして、憲法で制約されていない義務については法律で自由に課すことができる。逆に言えば、法律でも課すことのできない義務は何なのか、あるいは、法律でこれ以上の義務を課してはいけないということを規定するのが憲法典の意味で、義務を課す必要があるんだったら、憲法に書き込むのではなくて、立法によって義務を課せばいいだけの話であって、しょせんは、もし書いたとしても確認的規定にすぎず、法的意味は全く持たない。法的意味を全く持たないことについての議論を一生懸命やっていることは全く無意味であるということをまず申し上げておきたい。
二点目。それでも、憲法典に書けば訓示的な意味を持つではないかという議論がありますが、そういう方の多くが、実は憲法九条について、憲法九条があったから戦争に巻き込まれなかったという議論を否定している方にそういう発言が多いように思います。
私もそう思います。日本の戦後、平和が安定されてきたのは、憲法九条は一要素ではあったかもしれませんが、基本は、日本の外交、安全保障の努力、その結果として戦争に巻き込まれないできた、そういうふうに私も思っていまして、訓示規定を書いたからといってそうなるというわけではない。
例えば、人を殺しちゃいけないというのは、訓示どころか罰則までつけて義務を課していますが、それでも人を殺す人がいる。したがって、具体的にその訓示規定で実現をしたい価値をどういう手段で実現するのかということこそが政治に求められていることだと思います。
よく教育のことが問われていますけれども、教育について憲法や基本法に何を書くかということ以上に、今現に求められている価値、例えば人を殺してはいけないということを、学校教育の現場で子供たちにしっかりとそうした意識をはぐくむことができていないという教育現場の問題、つまり、教師の能力と、あるいは、人を殺してはいけないとか親を大事にするとか、そうした意識をはぐくむためのカリキュラムができていない。こうした教師の能力やカリキュラムについての具体的な解決策を持っていない人に限って、抽象的なところで議論をして目をそらそうとしていると私は受けとめております。
三つ目。戦後民主主義あるいは戦後の人権規定が個人の勝手、利己主義に走らせたというような批判をする人がいます。これこそまさに憲法を、あるいは基本的人権を全く理解しないで、ひとりよがりの発言だと思います。
そもそも憲法典が規定している基本的人権の概念、個人の尊重というのは、自分のことを尊重するという個人の尊重ではなくて、あなたを尊重するから私のことも尊重してください、お互いに個人として尊重し合いましょう、そもそも基本的人権というのはそういうものであって、利己主義とは全く百八十度違うものであります。これは、ある程度憲法を理解している者からすれば当然のことであるし、また、そうした価値、つまり、自分さえよければいいではなくて、あなたも尊重するから私も尊重してください、こういう基本的な価値こそはまさに大事にしなければならないものであって、それを、十分な理解もなしに、この人権の規定を利己主義のことだと勝手に間違った理解をしておきながら、その間違った誤解をもとにそのことを批判しているのは、まさにひとりよがり、まさに利己主義そのものでありまして、全く議論に値しない、混乱した議論であると言わざるを得ない。
こうした基本的な三つの点が混乱したまま議論が進んでいくことは非常に私は危惧するところでありまして、基本的な人権あるいは憲法典というものに対する共通の理解のもとに議論を進めていただきたいと強く訴えたいと思います。
以上です。
池
池坊保子#16
○池坊委員 公明党の池坊保子でございます。
この場でもさまざまな議論がなされました生命倫理と憲法について、私はちょっと意見を述べたいと思います。
憲法が制定されて六十年、最も変わったことの一つは、先端生命科学技術ではないかと思っております。
言うまでもなく、二十一世紀は知の世紀と言われております。島国で地下資源のない日本がこれからよって立つところは、言うまでもなく科学技術創造立国としての存在だと思います。そのときに、憲法十三条の個人の尊重だけでいいのだろうか。また、二十三条には、学問の自由は保障されるとございます。学問の自由の保障は、学問の自由な研究の保障ではないかと思うわけです。そのときに、私はやはり、十三条に人間の尊厳、生命の尊厳というものを書くべきではないかというふうに考えております。
なぜならば、それを書くということが、この国が人間の生命をどのように考えているかということでもあり、これから、ES細胞の使用、クローン胚、さまざまな再生医療が出てまいりますときの法令、指針の判断基準になるのだと私は思います。憲法というのはすべての判断基準であるのではないかと私は思っております。
ドイツでは、言うまでもなく、人間の尊厳がドイツの基本法にはございます。これが私は、ある意味で科学技術の自由な研究に歯どめをかけ、他国におくれをとっているのではないか。フランスにも、やはり人間の尊厳ということは書かれておりませんけれども、これが大きな理念となっております。アメリカは、保守派の意見も反映はしておりますけれども、何でも世界一が好きな国ですから、これは、国民の後押しがあって自由な研究がされております。
では、日本はどういうようなスタンスでいくかといいますと、私は、日本人の精神生活を支えているのは倫理観とバランス感覚だと思っております。でも、倫理観やバランス感覚というのは時代とともに変化してまいります。例えば、その時代の人の英知に再生医療等々科学技術の発展の規範を任せるべきだという意見もございます。ただ、私は、その時代の人の英知というのは時代時代によっても変わってくると思っておりますので、やはり、日本はどう考えているかという理念が必要であるのではないかと思っております。
また一方では、人間の尊厳というのを書くと自由な研究を阻むのではないかという意見もございます。医学の発展は、苦しんでいる人、病んでいる人に光を与えます。ただ、人間の尊厳と書いたならば、それは、医学、人類の貢献に即しているというものに関しては、やはりこれは、尊厳の中に入るから何も自由な研究を阻むものではないというふうに考えております。
それらのことを考えてまいりますときに、これから世界の再生医療は、思いもかけない、今私たちの想像の域をはるかに超えた領域に進んでいくと思っておりますから、このときに、きちんと日本の憲法の中にも、日本人の理念として、やはり私は、人間の尊厳、生命の尊厳というものを書くべきだというふうに考えております。
先ほど枝野さんがおっしゃったように、憲法に書いてもそれが実行されなければ何の意味もございませんが、憲法は、すべての人間がさまざまな法令や指針や行動を起こしていくときの判断基準になる重要なものであることは言うまでもないと思っております。
この発言だけを見る →この場でもさまざまな議論がなされました生命倫理と憲法について、私はちょっと意見を述べたいと思います。
憲法が制定されて六十年、最も変わったことの一つは、先端生命科学技術ではないかと思っております。
言うまでもなく、二十一世紀は知の世紀と言われております。島国で地下資源のない日本がこれからよって立つところは、言うまでもなく科学技術創造立国としての存在だと思います。そのときに、憲法十三条の個人の尊重だけでいいのだろうか。また、二十三条には、学問の自由は保障されるとございます。学問の自由の保障は、学問の自由な研究の保障ではないかと思うわけです。そのときに、私はやはり、十三条に人間の尊厳、生命の尊厳というものを書くべきではないかというふうに考えております。
なぜならば、それを書くということが、この国が人間の生命をどのように考えているかということでもあり、これから、ES細胞の使用、クローン胚、さまざまな再生医療が出てまいりますときの法令、指針の判断基準になるのだと私は思います。憲法というのはすべての判断基準であるのではないかと私は思っております。
ドイツでは、言うまでもなく、人間の尊厳がドイツの基本法にはございます。これが私は、ある意味で科学技術の自由な研究に歯どめをかけ、他国におくれをとっているのではないか。フランスにも、やはり人間の尊厳ということは書かれておりませんけれども、これが大きな理念となっております。アメリカは、保守派の意見も反映はしておりますけれども、何でも世界一が好きな国ですから、これは、国民の後押しがあって自由な研究がされております。
では、日本はどういうようなスタンスでいくかといいますと、私は、日本人の精神生活を支えているのは倫理観とバランス感覚だと思っております。でも、倫理観やバランス感覚というのは時代とともに変化してまいります。例えば、その時代の人の英知に再生医療等々科学技術の発展の規範を任せるべきだという意見もございます。ただ、私は、その時代の人の英知というのは時代時代によっても変わってくると思っておりますので、やはり、日本はどう考えているかという理念が必要であるのではないかと思っております。
また一方では、人間の尊厳というのを書くと自由な研究を阻むのではないかという意見もございます。医学の発展は、苦しんでいる人、病んでいる人に光を与えます。ただ、人間の尊厳と書いたならば、それは、医学、人類の貢献に即しているというものに関しては、やはりこれは、尊厳の中に入るから何も自由な研究を阻むものではないというふうに考えております。
それらのことを考えてまいりますときに、これから世界の再生医療は、思いもかけない、今私たちの想像の域をはるかに超えた領域に進んでいくと思っておりますから、このときに、きちんと日本の憲法の中にも、日本人の理念として、やはり私は、人間の尊厳、生命の尊厳というものを書くべきだというふうに考えております。
先ほど枝野さんがおっしゃったように、憲法に書いてもそれが実行されなければ何の意味もございませんが、憲法は、すべての人間がさまざまな法令や指針や行動を起こしていくときの判断基準になる重要なものであることは言うまでもないと思っております。
早
早川忠孝#17
○早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。
まず、国際人権法と憲法の関係について申し上げます。
死刑制度とかあるいは難民保護等の問題を考えますと、諸外国の制度をそのまま日本の国が採用できるかどうかについては、やはり国民の代表者である国会で十分議論をしなければならない。そういう意味では、国際的に成立をした国際人権法というものがあったとしても、それは一つの検討材料でしかない。当然に、憲法の秩序の中に取り込めるかどうかについては、改めて判断をしなければならないと思っております。
そこで、今なぜ憲法かということであります。
私は、これまで憲法が施行されて五十八年間、この基本的人権条項によって特に日本の社会が大きく危険な状態になったというふうには思っておりませんでした。そういう意味では、国民の権利義務に関する条項については改めて直さなければならないというふうには思っておりませんでしたが、最近、極めて日本が危機的な状況にあるということを痛感するに至っております。
それは第一に、生命の尊重ということに対して非常に国民の意識が希薄になってきたということであります。
例えば、愛知県の安城市において、仮出獄した受刑者が生後十カ月か十一カ月の幼児を殺傷したという事件が発生しました。一つは、自分を含めて人の生命に対して、全くその重さに対しての意識が希薄化しているということ。さらには、いわゆる社会からの落ちこぼれになった方々に対して、今の日本の社会がこれを受け入れない、不寛容になっていること。この二つの問題であります。こういった事象を検討いたしますと、やはり、国民の意識を変えていかなければならない、そのための憲法の議論をしていかなければならない。
もう一つは、少子化ということであります。これまた、多くの若者が結婚をしない、あるいは子供を産まないという状態になっております。
これは、一つには、現在の守られた生活状況を悪くするということに対しての恐怖感あるいは忌避感、ある意味で自己中心的、せつな主義、あるいは享楽主義的な傾向が顕著になってきているのではないか。親が子供を虐待する、こういった事象に対して何らかの警鐘を打ち鳴らす、そのための見直しを社会全体としてしていかなければならない。
さらには、この二月十六日から京都議定書が発効いたします。地球規模で環境破壊が進んでしまっている新しい時代に今入りました。何としても、世界の国が互いに、地球全体の、持続可能な地球を確立するための努力をしていかなければならない、そのためのスタートとして憲法を見直すということが極めて重要だろうと思います。
これまでは個人の権利というのが非常に尊重されました。しかしながら、新しい国、新しい憲法をつくるという作業の中で、みずから、どの範囲での権利主張が認められるかということについて、その権利相互間の相克あるいは対立をどのように調整するかというその原理を確定する必要があるというふうに思っております。これまでのように、公共の福祉論だけでは十分に対処できないような時代を迎えてきているのではないかというふうに思います。
こういったさまざまなことを考えますと、憲法というのが極めて歴史的な存在であり、この現憲法が成立した当時は、いわゆる社会の民主化ということが大前提でありました。これからは、共生できる持続可能な国を、地球をつくっていく、そういう観点での新しい憲法づくりが必要ではないかと思います。
以上であります。
この発言だけを見る →まず、国際人権法と憲法の関係について申し上げます。
死刑制度とかあるいは難民保護等の問題を考えますと、諸外国の制度をそのまま日本の国が採用できるかどうかについては、やはり国民の代表者である国会で十分議論をしなければならない。そういう意味では、国際的に成立をした国際人権法というものがあったとしても、それは一つの検討材料でしかない。当然に、憲法の秩序の中に取り込めるかどうかについては、改めて判断をしなければならないと思っております。
そこで、今なぜ憲法かということであります。
私は、これまで憲法が施行されて五十八年間、この基本的人権条項によって特に日本の社会が大きく危険な状態になったというふうには思っておりませんでした。そういう意味では、国民の権利義務に関する条項については改めて直さなければならないというふうには思っておりませんでしたが、最近、極めて日本が危機的な状況にあるということを痛感するに至っております。
それは第一に、生命の尊重ということに対して非常に国民の意識が希薄になってきたということであります。
例えば、愛知県の安城市において、仮出獄した受刑者が生後十カ月か十一カ月の幼児を殺傷したという事件が発生しました。一つは、自分を含めて人の生命に対して、全くその重さに対しての意識が希薄化しているということ。さらには、いわゆる社会からの落ちこぼれになった方々に対して、今の日本の社会がこれを受け入れない、不寛容になっていること。この二つの問題であります。こういった事象を検討いたしますと、やはり、国民の意識を変えていかなければならない、そのための憲法の議論をしていかなければならない。
もう一つは、少子化ということであります。これまた、多くの若者が結婚をしない、あるいは子供を産まないという状態になっております。
これは、一つには、現在の守られた生活状況を悪くするということに対しての恐怖感あるいは忌避感、ある意味で自己中心的、せつな主義、あるいは享楽主義的な傾向が顕著になってきているのではないか。親が子供を虐待する、こういった事象に対して何らかの警鐘を打ち鳴らす、そのための見直しを社会全体としてしていかなければならない。
さらには、この二月十六日から京都議定書が発効いたします。地球規模で環境破壊が進んでしまっている新しい時代に今入りました。何としても、世界の国が互いに、地球全体の、持続可能な地球を確立するための努力をしていかなければならない、そのためのスタートとして憲法を見直すということが極めて重要だろうと思います。
これまでは個人の権利というのが非常に尊重されました。しかしながら、新しい国、新しい憲法をつくるという作業の中で、みずから、どの範囲での権利主張が認められるかということについて、その権利相互間の相克あるいは対立をどのように調整するかというその原理を確定する必要があるというふうに思っております。これまでのように、公共の福祉論だけでは十分に対処できないような時代を迎えてきているのではないかというふうに思います。
こういったさまざまなことを考えますと、憲法というのが極めて歴史的な存在であり、この現憲法が成立した当時は、いわゆる社会の民主化ということが大前提でありました。これからは、共生できる持続可能な国を、地球をつくっていく、そういう観点での新しい憲法づくりが必要ではないかと思います。
以上であります。
保
保岡興治#18
○保岡委員 先ほどから委員の皆様が、大きな基本的なテーマとして、憲法は国家からの自由、要するに、国家権力から基本的人権を守る、それを絶対的な価値と考えるべきであるという御意見がございますが、私はやはり、別な立場からの、今、早川委員初めいろいろな皆様からお話もありましたが、国家と国民を対立的にとらえるというのはやはり歴史的な所産であって、確かに、近代憲法の歴史からすれば重要な決定的な憲法原理かもしれません。
それが依然として今日大きな意味を持っていることは否定いたしませんが、やはり私は、憲法というものは、個人の尊厳を究極の価値とする、先ほどから述べられているとおり、人間の侵すべからざる生来の権利あるいは人格の自由な発展の尊重というものを大切にするならば、人間が社会的な存在であるということの基本をとらえて、他人の権利を尊重するという趣旨で、みんなが幸せになるという意味で、その権利関係の調整のルールというもの、それを具体化する法というものの遵守、そういったことで政治的な秩序や社会的な秩序あるいは社会の平穏や平和が築かれるのであって、憲法はこの個人の尊厳を最高価値とする価値規範を体系化したものだ、そういうものがあって初めて立法やお互いの人間の関係の基本をどうとらえて律していくかということ、先ほど池坊先生からもそのような趣旨の御発言がありましたが、そういうものが新しい時代の立憲主義の大原則ということを確認することが今度の憲法改正では極めて重要なものだと私は思います。
そういうことで、この憲法が保障する基本的な権利、自由はすべての公権力を拘束するものであることは当然でございますが、これらの基本的な権利、自由の行使は、他人の基本的な権利、自由との調整を図る必要がある場合、あるいは国家の安全や社会の健全な発展を図る公共の価値がある場合に限って、法律の定めるところによってのみ制限されるという原則、これは明確にすると同時に、そういう制限する場合であっても、その権利、自由の本質的内容は尊重されなければならないということを明確にするということが大事だと思っております。
なお、もう一つ基本的なことを申し上げたいと思うのでございますが、やはり同じように、国家からの自由というだけじゃなくて、この憲法、もう既に社会的な目的として、大事な権利として、プログラム規定とよく言われますが、先ほどお述べになった十三条の幸福の追求権あるいは前文の平和に生存する権利というものを背景に、二十五条のように、いわゆる生存権という規定をこの憲法自体が置いておるということを考えるときに、私は、人間が健康でそして幸せに暮らしていくためには、やはり健康を守ることをもう少し憲法原則で国家の義務として明確にするということや、あるいは、先ほど保利委員からも指摘があったように、教育の基本理論を憲法に明示して、やはりこれも大切なプログラム規定として位置づける必要があるのではないかということ、あるいは家庭の保護にしても、単に両性の婚姻における相互の協力を規定するだけじゃなくて、もっと家族全体について協力、あるいはそれを国が保護、支えるというような規定などを置くことも非常に重要な憲法の改正のテーマではないかと思っております。
この発言だけを見る →それが依然として今日大きな意味を持っていることは否定いたしませんが、やはり私は、憲法というものは、個人の尊厳を究極の価値とする、先ほどから述べられているとおり、人間の侵すべからざる生来の権利あるいは人格の自由な発展の尊重というものを大切にするならば、人間が社会的な存在であるということの基本をとらえて、他人の権利を尊重するという趣旨で、みんなが幸せになるという意味で、その権利関係の調整のルールというもの、それを具体化する法というものの遵守、そういったことで政治的な秩序や社会的な秩序あるいは社会の平穏や平和が築かれるのであって、憲法はこの個人の尊厳を最高価値とする価値規範を体系化したものだ、そういうものがあって初めて立法やお互いの人間の関係の基本をどうとらえて律していくかということ、先ほど池坊先生からもそのような趣旨の御発言がありましたが、そういうものが新しい時代の立憲主義の大原則ということを確認することが今度の憲法改正では極めて重要なものだと私は思います。
そういうことで、この憲法が保障する基本的な権利、自由はすべての公権力を拘束するものであることは当然でございますが、これらの基本的な権利、自由の行使は、他人の基本的な権利、自由との調整を図る必要がある場合、あるいは国家の安全や社会の健全な発展を図る公共の価値がある場合に限って、法律の定めるところによってのみ制限されるという原則、これは明確にすると同時に、そういう制限する場合であっても、その権利、自由の本質的内容は尊重されなければならないということを明確にするということが大事だと思っております。
なお、もう一つ基本的なことを申し上げたいと思うのでございますが、やはり同じように、国家からの自由というだけじゃなくて、この憲法、もう既に社会的な目的として、大事な権利として、プログラム規定とよく言われますが、先ほどお述べになった十三条の幸福の追求権あるいは前文の平和に生存する権利というものを背景に、二十五条のように、いわゆる生存権という規定をこの憲法自体が置いておるということを考えるときに、私は、人間が健康でそして幸せに暮らしていくためには、やはり健康を守ることをもう少し憲法原則で国家の義務として明確にするということや、あるいは、先ほど保利委員からも指摘があったように、教育の基本理論を憲法に明示して、やはりこれも大切なプログラム規定として位置づける必要があるのではないかということ、あるいは家庭の保護にしても、単に両性の婚姻における相互の協力を規定するだけじゃなくて、もっと家族全体について協力、あるいはそれを国が保護、支えるというような規定などを置くことも非常に重要な憲法の改正のテーマではないかと思っております。
葉
葉梨康弘#19
○葉梨委員 自民党の葉梨康弘です。
国民の権利及び義務について意見を申し上げます。
私は、明治憲法下、法律の定めるところにより天皇から臣民に対して与えられていた基本的人権を、不可侵の永久の権利、すなわち普遍的なものと規定した現行憲法を高く評価いたします。ただ、我が国が二十一世紀において人権大国としての地位を占めるためには、現実に今我が国において発生し、または発生する可能性のある人権侵害の問題を極小化していかなければなりません。
もとより、この論点のほかにも、現行憲法には、二十五条が権利と公助だけを規定し、二十四条にあるような相互の協力を規定していない点、あるいは財産権について、勤労、教育との並びで財産権行使の義務が規定されていない点等、法の欠缺とも思える論点があります。しかし、ここでは、現行憲法が基本的人権の保障や人権侵害抑止の上から十分かどうか、以下、国家による人権侵害、私人による権利の乱用の二つの面から意見を申し上げます。
まず、国家による人権侵害あるいはその可能性についてです。
現行憲法は、刑事司法や私有財産への正当な補償に関する定めのほか、国民の権利としての公務員の選任、請願、損害賠償等の規定を置き、国家による人権侵害の防止やその救済のため、国民が一定の行動をとる権利を確保しています。
しかし、戦後六十年、行政は極めて複雑化しています。損害の救済や法令の制定のために請願を行えるといっても、国民には損害の存在や法令制定の必要性が極めて見えにくいものになっています。さらに、よく言われるように、電磁的情報処理技術の進歩により、汎用の個人情報データベースが出現しています。これにより、個人情報の内容や情報の管理が誤って行われた場合、重大な人権侵害を惹起いたします。しかし、誤った情報がひとり歩きし不適切な管理が行われても、当該個人には知るすべもありません。
このように考えてくると、現行憲法が個人に保障している、国家からの人権侵害を防止し救済を求める権利を適切に行使するための前提として、何らかの形で国民が行政に対してアクセスする権利を明定し、法律事項かもしれませんが、オンブズマン制度等の導入の必要性も検討していくことが必要と考えます。
次に、私人による権利の乱用についてです。
私は、警察庁少年課に在籍当時、児童の人権問題に携わってきました。その経験から、例えば児童買春の問題、児童ポルノの問題、女性のトラフィッキングの問題等、我が国が諸外国から児童や女性の人権侵害に鈍感な人権小国であると見られている事実を指摘しなければなりません。
戦後、児童や女性に対する性的搾取を容認する大人の自分勝手主義が横行し、共同社会も児童虐待や小児性愛に甘い事なかれ主義に変容する中、権利の乱用による人権侵害が日常茶飯のものとなってきました。そして、より深刻な問題は、権利の乱用をしている当人やあるいは一部の進歩的な学者は、このような人権侵害は個人の自由であり、権利の乱用には当たらないとまじめに考えているらしいことです。このような誤った考え方が横行している以上、憲法の法文上しっかりと措置しなければ、二十一世紀の我が国が、現在の人権小国どころか、人権侵害大国という存在に転落してしまうことを真剣に恐れています。
実は、人権行使の制約原理となる公共の福祉について、当初のGHQ原案は現在と異なっていました。
権利の乱用を禁止した現行十二条の公共の福祉は、GHQ原案では共同の福祉とされ、コモンセンスを持ち、私人同士が迷惑をかけない、共同体を大切にするニュアンスがより明確でした。さらに、居住、移転、職業選択の自由の制約原理である公共の福祉も、一般の福祉とされ、一般常識を持ち、社会生活の中で迷惑をかけない、一般社会を大切にするというニュアンスがありました。そして、現行憲法は、財産権の内容は公共の福祉に適合するように法律で定めるとなっていますが、これも、財産権の使用は公共の利益のためなるべしとされ、財産権の公共利益適合性がより明確でした。
しかし、イメージとしてはわかるものの、人権の制約原理を何種類もの言葉で表現するのは法制局的には明らかに稚拙です。このため、日本側で検討し、人権の制約原理を公共の福祉と安寧秩序という文言に整理し、さらに、人権の制約を一部法律に委任する案を作成しました。
しかし、安寧秩序と法律への委任はGHQの入れるところとはならず、極めてあいまいな公共の福祉という文言のみが残り、ある意味で時間切れ、見切り発車をしてしまいました。だからこそ宮沢俊義教授らも、公共の福祉を、素直な字義どおりでない、他人の人権を侵害せず、共同社会に迷惑をかけないことという意味に解釈し、定着への努力をしてきました。
しかし、現在までこのような考えは多くの国民に認識されるところとはなっておらず、自分勝手の人権侵害はますます横行しています。その意味で、憲法解釈の限界を呈しているのは、第九条よりも、むしろこの国民の権利義務の章についてかもしれません。
私は、今の解釈で限界を露呈している公共の福祉という文言を、権利の類型等に応じて、共同の福祉、公共の利益などの明確な文言に整理し、改めて利他主義、共同体の大切さを明定すべきと考えます。そして、現在特にその侵害状況が深刻な、プライバシーの権利、環境権、被害者の権利等については憲法に明定すべきということを訴えて、意見表明を終わらせていただきます。
ありがとうございました。
この発言だけを見る →国民の権利及び義務について意見を申し上げます。
私は、明治憲法下、法律の定めるところにより天皇から臣民に対して与えられていた基本的人権を、不可侵の永久の権利、すなわち普遍的なものと規定した現行憲法を高く評価いたします。ただ、我が国が二十一世紀において人権大国としての地位を占めるためには、現実に今我が国において発生し、または発生する可能性のある人権侵害の問題を極小化していかなければなりません。
もとより、この論点のほかにも、現行憲法には、二十五条が権利と公助だけを規定し、二十四条にあるような相互の協力を規定していない点、あるいは財産権について、勤労、教育との並びで財産権行使の義務が規定されていない点等、法の欠缺とも思える論点があります。しかし、ここでは、現行憲法が基本的人権の保障や人権侵害抑止の上から十分かどうか、以下、国家による人権侵害、私人による権利の乱用の二つの面から意見を申し上げます。
まず、国家による人権侵害あるいはその可能性についてです。
現行憲法は、刑事司法や私有財産への正当な補償に関する定めのほか、国民の権利としての公務員の選任、請願、損害賠償等の規定を置き、国家による人権侵害の防止やその救済のため、国民が一定の行動をとる権利を確保しています。
しかし、戦後六十年、行政は極めて複雑化しています。損害の救済や法令の制定のために請願を行えるといっても、国民には損害の存在や法令制定の必要性が極めて見えにくいものになっています。さらに、よく言われるように、電磁的情報処理技術の進歩により、汎用の個人情報データベースが出現しています。これにより、個人情報の内容や情報の管理が誤って行われた場合、重大な人権侵害を惹起いたします。しかし、誤った情報がひとり歩きし不適切な管理が行われても、当該個人には知るすべもありません。
このように考えてくると、現行憲法が個人に保障している、国家からの人権侵害を防止し救済を求める権利を適切に行使するための前提として、何らかの形で国民が行政に対してアクセスする権利を明定し、法律事項かもしれませんが、オンブズマン制度等の導入の必要性も検討していくことが必要と考えます。
次に、私人による権利の乱用についてです。
私は、警察庁少年課に在籍当時、児童の人権問題に携わってきました。その経験から、例えば児童買春の問題、児童ポルノの問題、女性のトラフィッキングの問題等、我が国が諸外国から児童や女性の人権侵害に鈍感な人権小国であると見られている事実を指摘しなければなりません。
戦後、児童や女性に対する性的搾取を容認する大人の自分勝手主義が横行し、共同社会も児童虐待や小児性愛に甘い事なかれ主義に変容する中、権利の乱用による人権侵害が日常茶飯のものとなってきました。そして、より深刻な問題は、権利の乱用をしている当人やあるいは一部の進歩的な学者は、このような人権侵害は個人の自由であり、権利の乱用には当たらないとまじめに考えているらしいことです。このような誤った考え方が横行している以上、憲法の法文上しっかりと措置しなければ、二十一世紀の我が国が、現在の人権小国どころか、人権侵害大国という存在に転落してしまうことを真剣に恐れています。
実は、人権行使の制約原理となる公共の福祉について、当初のGHQ原案は現在と異なっていました。
権利の乱用を禁止した現行十二条の公共の福祉は、GHQ原案では共同の福祉とされ、コモンセンスを持ち、私人同士が迷惑をかけない、共同体を大切にするニュアンスがより明確でした。さらに、居住、移転、職業選択の自由の制約原理である公共の福祉も、一般の福祉とされ、一般常識を持ち、社会生活の中で迷惑をかけない、一般社会を大切にするというニュアンスがありました。そして、現行憲法は、財産権の内容は公共の福祉に適合するように法律で定めるとなっていますが、これも、財産権の使用は公共の利益のためなるべしとされ、財産権の公共利益適合性がより明確でした。
しかし、イメージとしてはわかるものの、人権の制約原理を何種類もの言葉で表現するのは法制局的には明らかに稚拙です。このため、日本側で検討し、人権の制約原理を公共の福祉と安寧秩序という文言に整理し、さらに、人権の制約を一部法律に委任する案を作成しました。
しかし、安寧秩序と法律への委任はGHQの入れるところとはならず、極めてあいまいな公共の福祉という文言のみが残り、ある意味で時間切れ、見切り発車をしてしまいました。だからこそ宮沢俊義教授らも、公共の福祉を、素直な字義どおりでない、他人の人権を侵害せず、共同社会に迷惑をかけないことという意味に解釈し、定着への努力をしてきました。
しかし、現在までこのような考えは多くの国民に認識されるところとはなっておらず、自分勝手の人権侵害はますます横行しています。その意味で、憲法解釈の限界を呈しているのは、第九条よりも、むしろこの国民の権利義務の章についてかもしれません。
私は、今の解釈で限界を露呈している公共の福祉という文言を、権利の類型等に応じて、共同の福祉、公共の利益などの明確な文言に整理し、改めて利他主義、共同体の大切さを明定すべきと考えます。そして、現在特にその侵害状況が深刻な、プライバシーの権利、環境権、被害者の権利等については憲法に明定すべきということを訴えて、意見表明を終わらせていただきます。
ありがとうございました。
野
野田毅#20
○野田(毅)委員 二つの視点から申し上げたいと思うんです。
第一点は、先ほども御指摘がありましたけれども、この憲法制定の背景、いろいろな背景があると思うんですが、やはり、公権力をもってしても侵し得ない基本的人権、そういう公権力対個人という対立概念の中でかなりきちんとしたことが書かれているけれども、一方で、いわば人権対人権といいますか、公権力ではない中での調整が今非常に必要になってきているということが端的にあらわれていると思います。
そのうちの一つで、これはなかなか難しいことではあるんですが、特に報道の自由に関連して、これはいろいろな形で、どこまでいけるのかわかりませんが、表現の自由とプライバシーの権利というものをどう調整するのか、あるいは、例えば子供たちへのいろいろな性に関する報道、これは、常識的に見れば余りにもひど過ぎるじゃないかということはあるわけですよ。そういう意味で、知る権利とプライバシーというものをどうするのか。
そういった点で、少なくとも表現の自由というのは当然のこととしてあるんですけれども、一方で、やはりそれを報道する立場の者が、何らかのことをみずから、公序良俗と言うとちょっと古過ぎますけれども、そういった良心なりなんなり、そういったものの調整をしっかりとわきまえるべき配慮義務みたいなことが一方ではあってもいいのではないか。これを法律で権力的に規制するのはなかなか難しいと思いますが、そういった報道に携わる側のそういう配慮ということを、責務という形で入れてもいいのではないかというのが一点であります。
いま一つは、この憲法を日本に持ってこようとした背景の中に、日本の戦前における家族制度が余りにも封建主義に凝り固まっているという先入観が進駐軍にあったと思います。そういう意味で、徹底的に家族を個々人に分断してしまっているのではないか。
そういう意味で、昔に戻せ、家督相続に戻せと言うんじゃないんですが、少なくとも、親が子供を教育する義務だけじゃなくて、養育する義務が、それくらいは当然のこととしてあっていいのではないか。あるいは、家族間の、お互いがいたわり合い扶養し合うようなことも当然あっていいのではないか。そういった、家族制度を破壊するために余りにも個の立場が強く強調され過ぎている嫌いはないかということも私は感ずるのであります。
いま一つ申し上げれば、新しい権利で環境権ということがよく言われるんですが、なかなか環境権ということは難しいと思うんです。権利のサイドで規定するよりも、むしろ、環境に対する配慮が国民全体の責務としてもあっていいのではないか。
そして、いま一つ申し上げれば、刑事被告人のことはしっかり書いてあるんですが、犯罪被害者の立場について、あるいは、民事上においても刑事訴訟の手続の中においても何らかの形でもう少し反映できるようなことを憲法上の裏づけができないのかということも一つ指摘しておきたいと思います。
最後に、やはりこの憲法は、国家権力、公権力が守るだけではなくて、日本人一人一人がお互いの人権を尊重し合うということぐらいは最低限入れておくべき当然のことではないかということを申し上げて、私の意見陳述を終わります。
ありがとうございました。
〔会長退席、枝野会長代理着席〕
この発言だけを見る →第一点は、先ほども御指摘がありましたけれども、この憲法制定の背景、いろいろな背景があると思うんですが、やはり、公権力をもってしても侵し得ない基本的人権、そういう公権力対個人という対立概念の中でかなりきちんとしたことが書かれているけれども、一方で、いわば人権対人権といいますか、公権力ではない中での調整が今非常に必要になってきているということが端的にあらわれていると思います。
そのうちの一つで、これはなかなか難しいことではあるんですが、特に報道の自由に関連して、これはいろいろな形で、どこまでいけるのかわかりませんが、表現の自由とプライバシーの権利というものをどう調整するのか、あるいは、例えば子供たちへのいろいろな性に関する報道、これは、常識的に見れば余りにもひど過ぎるじゃないかということはあるわけですよ。そういう意味で、知る権利とプライバシーというものをどうするのか。
そういった点で、少なくとも表現の自由というのは当然のこととしてあるんですけれども、一方で、やはりそれを報道する立場の者が、何らかのことをみずから、公序良俗と言うとちょっと古過ぎますけれども、そういった良心なりなんなり、そういったものの調整をしっかりとわきまえるべき配慮義務みたいなことが一方ではあってもいいのではないか。これを法律で権力的に規制するのはなかなか難しいと思いますが、そういった報道に携わる側のそういう配慮ということを、責務という形で入れてもいいのではないかというのが一点であります。
いま一つは、この憲法を日本に持ってこようとした背景の中に、日本の戦前における家族制度が余りにも封建主義に凝り固まっているという先入観が進駐軍にあったと思います。そういう意味で、徹底的に家族を個々人に分断してしまっているのではないか。
そういう意味で、昔に戻せ、家督相続に戻せと言うんじゃないんですが、少なくとも、親が子供を教育する義務だけじゃなくて、養育する義務が、それくらいは当然のこととしてあっていいのではないか。あるいは、家族間の、お互いがいたわり合い扶養し合うようなことも当然あっていいのではないか。そういった、家族制度を破壊するために余りにも個の立場が強く強調され過ぎている嫌いはないかということも私は感ずるのであります。
いま一つ申し上げれば、新しい権利で環境権ということがよく言われるんですが、なかなか環境権ということは難しいと思うんです。権利のサイドで規定するよりも、むしろ、環境に対する配慮が国民全体の責務としてもあっていいのではないか。
そして、いま一つ申し上げれば、刑事被告人のことはしっかり書いてあるんですが、犯罪被害者の立場について、あるいは、民事上においても刑事訴訟の手続の中においても何らかの形でもう少し反映できるようなことを憲法上の裏づけができないのかということも一つ指摘しておきたいと思います。
最後に、やはりこの憲法は、国家権力、公権力が守るだけではなくて、日本人一人一人がお互いの人権を尊重し合うということぐらいは最低限入れておくべき当然のことではないかということを申し上げて、私の意見陳述を終わります。
ありがとうございました。
〔会長退席、枝野会長代理着席〕
船
船田元#21
○船田委員 私は、国民の権利及び義務に関しまして、幾つかの点でお話をしたいと思います。
まず、今までも出ておりましたけれども、公共の福祉という概念が非常にあいまいであるということは以前から指摘をされております。十二条、十三条、その他のところに出ておりますけれども、やはりこれは、個人の権利と権利が相互にぶつかり合う、そういうときに、それを調整する概念、あるいは国家の安全、社会秩序を維持する、そういう概念として私は明確にもう一度規定し直す必要があると思っております。言葉としても、公共の福祉というよりも、公共の利益とか公共の価値という言葉の方がふさわしいと思っております。
次に、権利、自由あるいは義務規定、非常に細かく現憲法は規定をしております。そのほとんどにおいてはこれはそのまま踏襲すべきであると思っておりますが、その中で一部、権利の規定の中で修正すべきものがあるのではないかということも考えております。
例えば、二十条の信教の自由であります。
戦後の日本社会においては、政教分離という原則はかなり徹底をしてきたというふうに思っております。ただ一方で、国や地方自治体が行う地鎮祭であるとか、あるいは公金による玉ぐし料の支出など、これまでの社会的儀礼や習俗的な行事、そういったものまで否定されるような状況があると、なかなか私たちの地域社会を維持していくということは難しいことになっていくと思います。もちろん、特定の宗教を援助、助長するということではいけないと思いますが、そういう目的、効果を伴わない行政的な対応ということは、社会的儀礼、習俗的行事の範囲内であるということでこれは許されるべきであるということもつけ加えるべきであると思います。
表現の自由、二十一条にありますが、これは、心の内面の自由を保障するという大事な自由であります。しかしながら、最近の出版関係あるいはさまざまな情報メディア関係において、青少年の健全育成に悪影響を与える可能性のある、確実に与えるおそれのある有害情報などが出ております。これはやはりきちんと制限すべきである。表現の自由は当然守りつつも、このような分野においては、法律によって制限、禁止できる規定もつけ加えるべきであると思っております。
それから、財産権というものが二十九条に出ておりますが、これは、公共の福祉に適合するように制限することができるとなっております。これに加えまして、最近やはり、良好な環境、あるいはこの中には景観ということも含むわけでありますが、良好な環境や景観を保護するために財産権が一部制限されるという考え方も大事だと思っております。
また、追加すべき新しい権利としては、例えば国民の知る権利があります。
国の行政、地方自治体もそうでありますが、非常に多様化し複雑化しております。その中で個人の権利を守るということはなかなか難しくなってきております。そういう状況の中で個人の権利をさらに守っていくためには、やはり、国民の情報開示請求権というものも明記すべきではないかというふうに考えております。
また、先ほど来お話が出ておりますように、犯罪被害者の権利ということもあります。現行憲法は、余りにも犯罪加害者の権利擁護、これは三十三条から四十条まで列記されておりますけれども、やや偏り過ぎていると思っております。犯罪被害者及びその家族や遺族は、現代社会において、マスコミ等のさまざまな取材あるいは世間の中でのさまざまな問題が発生をしている。このような人々に対しての個人の尊厳が重んじられ、その尊厳にふさわしい処遇が保障されなければいけない、このような犯罪被害者の権利はやはり殊さらに書き加えておくべきである、このように考えております。
以上でございます。
この発言だけを見る →まず、今までも出ておりましたけれども、公共の福祉という概念が非常にあいまいであるということは以前から指摘をされております。十二条、十三条、その他のところに出ておりますけれども、やはりこれは、個人の権利と権利が相互にぶつかり合う、そういうときに、それを調整する概念、あるいは国家の安全、社会秩序を維持する、そういう概念として私は明確にもう一度規定し直す必要があると思っております。言葉としても、公共の福祉というよりも、公共の利益とか公共の価値という言葉の方がふさわしいと思っております。
次に、権利、自由あるいは義務規定、非常に細かく現憲法は規定をしております。そのほとんどにおいてはこれはそのまま踏襲すべきであると思っておりますが、その中で一部、権利の規定の中で修正すべきものがあるのではないかということも考えております。
例えば、二十条の信教の自由であります。
戦後の日本社会においては、政教分離という原則はかなり徹底をしてきたというふうに思っております。ただ一方で、国や地方自治体が行う地鎮祭であるとか、あるいは公金による玉ぐし料の支出など、これまでの社会的儀礼や習俗的な行事、そういったものまで否定されるような状況があると、なかなか私たちの地域社会を維持していくということは難しいことになっていくと思います。もちろん、特定の宗教を援助、助長するということではいけないと思いますが、そういう目的、効果を伴わない行政的な対応ということは、社会的儀礼、習俗的行事の範囲内であるということでこれは許されるべきであるということもつけ加えるべきであると思います。
表現の自由、二十一条にありますが、これは、心の内面の自由を保障するという大事な自由であります。しかしながら、最近の出版関係あるいはさまざまな情報メディア関係において、青少年の健全育成に悪影響を与える可能性のある、確実に与えるおそれのある有害情報などが出ております。これはやはりきちんと制限すべきである。表現の自由は当然守りつつも、このような分野においては、法律によって制限、禁止できる規定もつけ加えるべきであると思っております。
それから、財産権というものが二十九条に出ておりますが、これは、公共の福祉に適合するように制限することができるとなっております。これに加えまして、最近やはり、良好な環境、あるいはこの中には景観ということも含むわけでありますが、良好な環境や景観を保護するために財産権が一部制限されるという考え方も大事だと思っております。
また、追加すべき新しい権利としては、例えば国民の知る権利があります。
国の行政、地方自治体もそうでありますが、非常に多様化し複雑化しております。その中で個人の権利を守るということはなかなか難しくなってきております。そういう状況の中で個人の権利をさらに守っていくためには、やはり、国民の情報開示請求権というものも明記すべきではないかというふうに考えております。
また、先ほど来お話が出ておりますように、犯罪被害者の権利ということもあります。現行憲法は、余りにも犯罪加害者の権利擁護、これは三十三条から四十条まで列記されておりますけれども、やや偏り過ぎていると思っております。犯罪被害者及びその家族や遺族は、現代社会において、マスコミ等のさまざまな取材あるいは世間の中でのさまざまな問題が発生をしている。このような人々に対しての個人の尊厳が重んじられ、その尊厳にふさわしい処遇が保障されなければいけない、このような犯罪被害者の権利はやはり殊さらに書き加えておくべきである、このように考えております。
以上でございます。
高
高木陽介#22
○高木(陽)委員 公明党の高木陽介でございます。
本日は、国民の権利及び義務に関する討議でございますが、私は、表現の自由とプライバシー権について絞って意見を述べたいと思います。
まず、表現の自由でございますが、言論活動によって国民が政治意思の決定に関与するという、これは民主政治の原則から大変重要な自由である。特に、表現の自由の中核を占める言論、出版の自由のうち、報道の自由というものは、国民の知る権利に奉仕している、また、国家権力から国民を守るためのものとして重要な意義を持っていると考えております。
ただ、これまでも議論がございましたように、知る権利というものを憲法上規定して書き込んでいくのかどうかという問題に関しては、二十一条を根拠として認めて、その保障は立法作業で。私もこの方の意見にくみしている者でございますが、ただ、その中にあって、マスメディアが巨大化をしている、また影響が増大化している、さらに、マスメディアの商業主義に流されがちな傾向というものも指摘されている中で、今特に問題になっている表現の自由とプライバシーの権利が衝突する場面というのが多々あると思います。
その上で、まず公権力に対する報道の自由というのは、国家権力から国民を守るためにはぜひとも必要なものである、その一方、私人または一市民対メディアの場合というのは、もう既にマスメディアの方が強者で一個人というものは弱者という形となっている中で、個人のプライバシー、その権利を守るために配慮が必要であるというのは論をまたないと思います。
ただ、この表現の自由は、精神の自由としての二十条、信教の自由、それを担保する、またはそれをあらわしていくものとして対置しているこの二十一条でございますので、そう考えると、報道への法律的な規制というものに対しましては、私は反対をしたいと思います。
では、どうしていったらいいのか。表現の自由とプライバシー権、これを調和させるために、表現の自由を守り、また同時にプライバシーを守るために、これはあくまでも、やはりメディアの側の自主規制または第三者機関のチェックというものが有効であろうかと考えております。
ただ、自主規制といいながら、結局メディアの方はやらないではないか、こういう御意見も多々ございますけれども、やはりここは、北欧などのオンブズマン制度など、こういったことを検討しながら導入していくべきではないかと考えます。
もう一つ、メディアの側は、事前規制でなく事後規制でいいじゃないか、こういう言い方をしておりますけれども、裁判によって、損害賠償請求等によりましてこれを担保しているということ、そういう意見もございますけれども、ただ、現在の裁判制度上、損害賠償請求をした場合に、個人の侵害された人権が回復されているかどうか、これはかなり論議が必要だと思いますし、そう考えますと、欧米で、特にアメリカであります懲罰的損害賠償の導入というものも重要な問題ではないかなと思います。
この懲罰的損害賠償の問題を論議しますと、メディアの方々はそれによってかなりプレッシャーがかかる、圧力がかかっているという言い方もございますけれども、逆に、真実の報道をしているのであれば、堂々とその後の裁判でも主張をすればいい問題でございますので、そういうふうに、圧力となるというふうな考え方は、逆に、真実の報道がなされていない、こういった懸念がなされるのではないか、このようにも考えます。
いずれにしても、表現の自由というものをしっかりと守る中でプライバシーとの調和というものをしっかりと図る、これをさらに議論を進めていかなければならないというのが私の意見でございます。
以上です。
この発言だけを見る →本日は、国民の権利及び義務に関する討議でございますが、私は、表現の自由とプライバシー権について絞って意見を述べたいと思います。
まず、表現の自由でございますが、言論活動によって国民が政治意思の決定に関与するという、これは民主政治の原則から大変重要な自由である。特に、表現の自由の中核を占める言論、出版の自由のうち、報道の自由というものは、国民の知る権利に奉仕している、また、国家権力から国民を守るためのものとして重要な意義を持っていると考えております。
ただ、これまでも議論がございましたように、知る権利というものを憲法上規定して書き込んでいくのかどうかという問題に関しては、二十一条を根拠として認めて、その保障は立法作業で。私もこの方の意見にくみしている者でございますが、ただ、その中にあって、マスメディアが巨大化をしている、また影響が増大化している、さらに、マスメディアの商業主義に流されがちな傾向というものも指摘されている中で、今特に問題になっている表現の自由とプライバシーの権利が衝突する場面というのが多々あると思います。
その上で、まず公権力に対する報道の自由というのは、国家権力から国民を守るためにはぜひとも必要なものである、その一方、私人または一市民対メディアの場合というのは、もう既にマスメディアの方が強者で一個人というものは弱者という形となっている中で、個人のプライバシー、その権利を守るために配慮が必要であるというのは論をまたないと思います。
ただ、この表現の自由は、精神の自由としての二十条、信教の自由、それを担保する、またはそれをあらわしていくものとして対置しているこの二十一条でございますので、そう考えると、報道への法律的な規制というものに対しましては、私は反対をしたいと思います。
では、どうしていったらいいのか。表現の自由とプライバシー権、これを調和させるために、表現の自由を守り、また同時にプライバシーを守るために、これはあくまでも、やはりメディアの側の自主規制または第三者機関のチェックというものが有効であろうかと考えております。
ただ、自主規制といいながら、結局メディアの方はやらないではないか、こういう御意見も多々ございますけれども、やはりここは、北欧などのオンブズマン制度など、こういったことを検討しながら導入していくべきではないかと考えます。
もう一つ、メディアの側は、事前規制でなく事後規制でいいじゃないか、こういう言い方をしておりますけれども、裁判によって、損害賠償請求等によりましてこれを担保しているということ、そういう意見もございますけれども、ただ、現在の裁判制度上、損害賠償請求をした場合に、個人の侵害された人権が回復されているかどうか、これはかなり論議が必要だと思いますし、そう考えますと、欧米で、特にアメリカであります懲罰的損害賠償の導入というものも重要な問題ではないかなと思います。
この懲罰的損害賠償の問題を論議しますと、メディアの方々はそれによってかなりプレッシャーがかかる、圧力がかかっているという言い方もございますけれども、逆に、真実の報道をしているのであれば、堂々とその後の裁判でも主張をすればいい問題でございますので、そういうふうに、圧力となるというふうな考え方は、逆に、真実の報道がなされていない、こういった懸念がなされるのではないか、このようにも考えます。
いずれにしても、表現の自由というものをしっかりと守る中でプライバシーとの調和というものをしっかりと図る、これをさらに議論を進めていかなければならないというのが私の意見でございます。
以上です。
永
永岡洋治#23
○永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。
私は、国民の権利及び義務の規定に関しまして、憲法とは何か、その根本理念にさかのぼって意見を申し述べたいと思います。
憲法は、国家権力の乱用から国民の基本的人権を守ることをその目的とするものであるといういわゆる近代立憲主義は、西欧の近代市民革命を通じて人々がかち取り、確立されてきたものであります。日本国憲法もこの近代立憲主義の系譜の中にあると言えます。
しかし、戦後六十年を経た現在、凶悪犯罪の多発あるいは教育現場の混乱、企業倫理の欠如、さらには一般社会道徳の混乱など、数々の社会問題が目につくようになってまいりました。いかにしてそのような社会問題を解決すればよいのか。それは、果たして人は個人の力のみで、個人単位で生きていけるのか、人と人とのかかわり合い、つまり、社会とのかかわりなくして生きていけるのかという哲学的問いに答えていくことにつながっていくのではないかと思います。
私は何を言いたいかと申しますと、家族というものこそ社会の最小単位ではないかと考えております。健全な家族のもとでこそ、個人が自立し幸福追求ができるのではないかということであります。
かつて、英国のサッチャー首相は、当時、低迷しさまざまな社会問題を抱えていた英国を救うために、家庭政策を彼女の政策の中心に据えまして大胆に実行していきました。我々は、七九年、彼女が政権を奪取したコンサーバティブ・マニフェストに、ヘルピング・ザ・ファミリーとしてその具体的な政策を見ることができるわけであります。
私はまず、家族や共同体の大切さという観点、及び、その家族や共同体が国によって保護されるべきであるとの観点を憲法に盛り込むことが必要であると考えます。さらに、権利には義務が伴うとの観点から、義務規定をふやすべきであるとも考えます。
再びサッチャー首相の政策を引きますと、八三年総選挙のコンサーバティブ・マニフェストにおいて打ち出された政策の中に、フリーダム・アンド・レスポンシビリティー・ゴー・トゥゲザーというフレーズがあります。つまり、自由と責任は相伴うという意味でありますが、この考えに基づいてさまざまな強力な政策が遂行され、いわゆる英国病とやゆされていた英国は力強く立ち直ったわけであります。
とりわけ私が強く要望することとして、投票の義務があります。選挙制度が十分に機能することが民主制の生命線であるはずであります。選挙は民主主義のぜんまいであると言われております。しかし、現在の投票率の低さに見られるように、この機能が十分に果たされているとは言いがたい状況にあります。健全な民主制の発展のために、私は、投票は選挙権の裏返しとしての国民の義務であるとの規定を憲法に明記することを主張したいと思います。実際にイタリア憲法四十八条二項などが投票の義務を定めており、諸外国との比較においても、決して特殊な規定ではないと考えます。
以上のような主張に対しては、特にリベラリズムの立場から、道徳的な規定を置くことや義務規定の増設、これは近代立憲主義の流れから外れ、人権を変質させる危険性があるとの批判が予想されるところであります。また、米国におきますリベラル—コミュニタリアニズム論争においても、家族や義務を強調するコミュニタリアンたちでさえ、それを法制化することまでは主張していないという意見もあると承知しております。
確かに、私の主張は、近代立憲主義から一歩踏み出し、国民と国家の共に働く共働を規定するものとして憲法を再構築しようとするものであります。それは、近代国家の原理を根本的に変える壮大な仕事になるかもしれません。新しい文明を構想するような遠大な試みとなるかもしれません。しかし、今こそ、国家と国民の二項対立関係を克服して、新しい時代における権利関係、人権関係を考える果敢な試みを行う時期が来たと私は確信するものであります。
憲法に家族の尊重、必要な義務規定を設けた上で、そのような憲法の指し示す指針に従い、特に、家庭こそ社会の基礎という考えに立った具体的施策を展開していくことが必要であるものと考えます。
以上で私の発言を終わらせていただきます。ありがとうございました。
この発言だけを見る →私は、国民の権利及び義務の規定に関しまして、憲法とは何か、その根本理念にさかのぼって意見を申し述べたいと思います。
憲法は、国家権力の乱用から国民の基本的人権を守ることをその目的とするものであるといういわゆる近代立憲主義は、西欧の近代市民革命を通じて人々がかち取り、確立されてきたものであります。日本国憲法もこの近代立憲主義の系譜の中にあると言えます。
しかし、戦後六十年を経た現在、凶悪犯罪の多発あるいは教育現場の混乱、企業倫理の欠如、さらには一般社会道徳の混乱など、数々の社会問題が目につくようになってまいりました。いかにしてそのような社会問題を解決すればよいのか。それは、果たして人は個人の力のみで、個人単位で生きていけるのか、人と人とのかかわり合い、つまり、社会とのかかわりなくして生きていけるのかという哲学的問いに答えていくことにつながっていくのではないかと思います。
私は何を言いたいかと申しますと、家族というものこそ社会の最小単位ではないかと考えております。健全な家族のもとでこそ、個人が自立し幸福追求ができるのではないかということであります。
かつて、英国のサッチャー首相は、当時、低迷しさまざまな社会問題を抱えていた英国を救うために、家庭政策を彼女の政策の中心に据えまして大胆に実行していきました。我々は、七九年、彼女が政権を奪取したコンサーバティブ・マニフェストに、ヘルピング・ザ・ファミリーとしてその具体的な政策を見ることができるわけであります。
私はまず、家族や共同体の大切さという観点、及び、その家族や共同体が国によって保護されるべきであるとの観点を憲法に盛り込むことが必要であると考えます。さらに、権利には義務が伴うとの観点から、義務規定をふやすべきであるとも考えます。
再びサッチャー首相の政策を引きますと、八三年総選挙のコンサーバティブ・マニフェストにおいて打ち出された政策の中に、フリーダム・アンド・レスポンシビリティー・ゴー・トゥゲザーというフレーズがあります。つまり、自由と責任は相伴うという意味でありますが、この考えに基づいてさまざまな強力な政策が遂行され、いわゆる英国病とやゆされていた英国は力強く立ち直ったわけであります。
とりわけ私が強く要望することとして、投票の義務があります。選挙制度が十分に機能することが民主制の生命線であるはずであります。選挙は民主主義のぜんまいであると言われております。しかし、現在の投票率の低さに見られるように、この機能が十分に果たされているとは言いがたい状況にあります。健全な民主制の発展のために、私は、投票は選挙権の裏返しとしての国民の義務であるとの規定を憲法に明記することを主張したいと思います。実際にイタリア憲法四十八条二項などが投票の義務を定めており、諸外国との比較においても、決して特殊な規定ではないと考えます。
以上のような主張に対しては、特にリベラリズムの立場から、道徳的な規定を置くことや義務規定の増設、これは近代立憲主義の流れから外れ、人権を変質させる危険性があるとの批判が予想されるところであります。また、米国におきますリベラル—コミュニタリアニズム論争においても、家族や義務を強調するコミュニタリアンたちでさえ、それを法制化することまでは主張していないという意見もあると承知しております。
確かに、私の主張は、近代立憲主義から一歩踏み出し、国民と国家の共に働く共働を規定するものとして憲法を再構築しようとするものであります。それは、近代国家の原理を根本的に変える壮大な仕事になるかもしれません。新しい文明を構想するような遠大な試みとなるかもしれません。しかし、今こそ、国家と国民の二項対立関係を克服して、新しい時代における権利関係、人権関係を考える果敢な試みを行う時期が来たと私は確信するものであります。
憲法に家族の尊重、必要な義務規定を設けた上で、そのような憲法の指し示す指針に従い、特に、家庭こそ社会の基礎という考えに立った具体的施策を展開していくことが必要であるものと考えます。
以上で私の発言を終わらせていただきます。ありがとうございました。
鹿
鹿野道彦#24
○鹿野委員 基本的人権というのは近代憲法におけるところのまさに根幹である、これは言うまでもありません。そこで、一つの流れとして、人権そのものはできるだけ明記した方がいいのではないか、こういうふうな流れになっておるようであります。EU憲法においてもそのとおりであります。
そこで一つは、やはり二十一世紀というものは環境憲法の性格を持つ、こういうふうなことからいたしまして、やはり環境について規定した方がいいのではないか、こういう考えであります。特に、平和と環境があって初めて生存権が成り立つ、こういうふうなことにもなるわけでありますから、国民のいわゆる環境に関する権利、そして同時に、国民も、また国そのものも、ドイツの国のように環境保全の義務を持つ、こういう流れをやはり日本の国といたしましてもつくっていくという意味からも、明確に規定した方がいいのではないか、こういう考え方であります。
もう一つは、知る権利であります。これは、国民の側からの規定というふうなことであります。いわゆる法律のレベルという規定だけではなしに、憲法上に明記をする、こういう考え方であります。特に今日、政治、行政への信頼というものをより確かなものにしていかなきゃならない、こういうことからいたしましても、まさしく、できるだけ情報公開のシステムというものを確立もしていかなきゃならないわけであります。
そして同時に、情報というものは、まさに行政のものでも政府のものでもありません、主権者である国民のものである、こういうふうな考え方に立って、できるだけ国民に情報を提供するというふうなことは、また、国民が知るというふうなことは、国民に対して選択肢を提示する、こういうふうなことになります。そして、提示されたものを国民が選択する、これがこれからの我が国の社会のあるべき姿ということからいたしましても、透明性そして公開性というふうなものを明確にしていくため、知る権利というふうなものを明記した方がよろしいのではないか、こういう考え方であります。
それからもう一点は、知的財産権であります。財産権の一般の保護とは別途に規定をしたらいいのではないかという考え方であります。
これから、ますます科学技術の分野においては競争が激しくなってまいります。科学技術の重要性というものを国民がお互いに認識し合う、科学技術立国というものを目指していくんだというふうなことを、きちっとそこに国民ともにお互いが、重ねて申し上げますけれども、認識し合うということからいたしまして、特別規定として設けていく必要があるのではないか、こういう考え方であります。
以上です。
この発言だけを見る →そこで一つは、やはり二十一世紀というものは環境憲法の性格を持つ、こういうふうなことからいたしまして、やはり環境について規定した方がいいのではないか、こういう考えであります。特に、平和と環境があって初めて生存権が成り立つ、こういうふうなことにもなるわけでありますから、国民のいわゆる環境に関する権利、そして同時に、国民も、また国そのものも、ドイツの国のように環境保全の義務を持つ、こういう流れをやはり日本の国といたしましてもつくっていくという意味からも、明確に規定した方がいいのではないか、こういう考え方であります。
もう一つは、知る権利であります。これは、国民の側からの規定というふうなことであります。いわゆる法律のレベルという規定だけではなしに、憲法上に明記をする、こういう考え方であります。特に今日、政治、行政への信頼というものをより確かなものにしていかなきゃならない、こういうことからいたしましても、まさしく、できるだけ情報公開のシステムというものを確立もしていかなきゃならないわけであります。
そして同時に、情報というものは、まさに行政のものでも政府のものでもありません、主権者である国民のものである、こういうふうな考え方に立って、できるだけ国民に情報を提供するというふうなことは、また、国民が知るというふうなことは、国民に対して選択肢を提示する、こういうふうなことになります。そして、提示されたものを国民が選択する、これがこれからの我が国の社会のあるべき姿ということからいたしましても、透明性そして公開性というふうなものを明確にしていくため、知る権利というふうなものを明記した方がよろしいのではないか、こういう考え方であります。
それからもう一点は、知的財産権であります。財産権の一般の保護とは別途に規定をしたらいいのではないかという考え方であります。
これから、ますます科学技術の分野においては競争が激しくなってまいります。科学技術の重要性というものを国民がお互いに認識し合う、科学技術立国というものを目指していくんだというふうなことを、きちっとそこに国民ともにお互いが、重ねて申し上げますけれども、認識し合うということからいたしまして、特別規定として設けていく必要があるのではないか、こういう考え方であります。
以上です。
高
高橋千鶴子#25
○高橋委員 本日の各委員の発言を興味深く聞きました。新しい人権についてそれぞれの角度から規定すべきであるという意見が多かったと思いますけれども、私は改めて、現憲法がこれを包括していること、憲法の精神を豊かに生かし発展させる努力こそが求められていると考えております。
憲法第十三条は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は国政上最大の尊重を必要とすると定めています。この幸福追求権が新しい人権をまず含んでいるというのが、憲法学者の一般的な議論であります。この幸福追求権では、限界論があるということもよく言われることは承知をしております。しかし、幸福追求権によって基礎づけられる個々の権利は、裁判上の救済を受けることができる具体的権利であると解されるようになったという指摘もあります。
例えば、夜間飛行差しとめを求めた大阪空港公害訴訟で、大阪高裁判決、一九七五年は、十三条と二十五条を根拠に、平穏、自由で、人間たるにふさわしい生活を営むことも最大限尊重されるべきものとして、住民の訴えを認めました。プライバシー権は、十三条を根拠に、私生活をみだりに公開されない権利として判例上定着しています。一九六四年、東京地裁の判決などがあります。また、知る権利は、二十一条の表現の自由を国民の側から支えるものとして広く認められるようになっており、このように、憲法は新しい人権に十分対応できるものと考えています。
また、環境権が叫ばれている一方、例えば九三年制定の環境基本法も、自民党あるいは官庁の抵抗で環境権という言葉が盛り込まれませんでした。先般の障害者の権利という問題でも、基本法に盛り込まれなかったことは記憶に新しいことかと思われます。
家族の尊重ということも言われました。しかし、そのためにも、働く皆さんが一方的な出向、単身赴任を命じられる、長時間労働などで家庭に帰ることができないような実態がある中で、労働基準法を改悪するのではなく、しっかり守り拡充することこそが求められていると思います。
これまで指摘されてきた新しい人権については、憲法が本来持っている本当の力をしっかり私たち自身が深め、それをまた、不足するというのであれば、立法、行政、司法、あらゆる努力によってしっかりと担保することが求められていると考えております。
以上です。
この発言だけを見る →憲法第十三条は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は国政上最大の尊重を必要とすると定めています。この幸福追求権が新しい人権をまず含んでいるというのが、憲法学者の一般的な議論であります。この幸福追求権では、限界論があるということもよく言われることは承知をしております。しかし、幸福追求権によって基礎づけられる個々の権利は、裁判上の救済を受けることができる具体的権利であると解されるようになったという指摘もあります。
例えば、夜間飛行差しとめを求めた大阪空港公害訴訟で、大阪高裁判決、一九七五年は、十三条と二十五条を根拠に、平穏、自由で、人間たるにふさわしい生活を営むことも最大限尊重されるべきものとして、住民の訴えを認めました。プライバシー権は、十三条を根拠に、私生活をみだりに公開されない権利として判例上定着しています。一九六四年、東京地裁の判決などがあります。また、知る権利は、二十一条の表現の自由を国民の側から支えるものとして広く認められるようになっており、このように、憲法は新しい人権に十分対応できるものと考えています。
また、環境権が叫ばれている一方、例えば九三年制定の環境基本法も、自民党あるいは官庁の抵抗で環境権という言葉が盛り込まれませんでした。先般の障害者の権利という問題でも、基本法に盛り込まれなかったことは記憶に新しいことかと思われます。
家族の尊重ということも言われました。しかし、そのためにも、働く皆さんが一方的な出向、単身赴任を命じられる、長時間労働などで家庭に帰ることができないような実態がある中で、労働基準法を改悪するのではなく、しっかり守り拡充することこそが求められていると思います。
これまで指摘されてきた新しい人権については、憲法が本来持っている本当の力をしっかり私たち自身が深め、それをまた、不足するというのであれば、立法、行政、司法、あらゆる努力によってしっかりと担保することが求められていると考えております。
以上です。
三
三原朝彦#26
○三原委員 自民党の三原です。
大きな人権の成り立ちとか、そういうたぐいのことはもう既に多くの方がおっしゃったので、私はむしろ、今我々がよく議論しています犯罪の被害者の人たちに関することについて一言だけ申し上げたいと思うんです。
それは、野田委員や船田委員も言及されましたけれども、明らかに常識的な市民が、加害者が得ると同等の権利というものを被害者が持っておるだろうか、すごくそれは疑問になるわけでございます。であるからこそ、このところ、実際に被害を受けられた法律の専門家の方あたりが中心になって、犯罪被害者はもっと法律によってプロテクトされるべきだという動きが大いに起こっていて、これは私は大賛成なのであります。
その犯罪被害者の権利に関しても、マスメディアからの保護とか、または、その人たちが物的、心的に前と同じような救済を受けられるのか。そんなことはあり得ないわけで、亡くなってしまった方をもとに戻すなんということは、これはもう当然できない。ならば、そこでなくなった穴を、では、どうやって我々がその残された人たちにより多くの権利を与えて、できる限りの現況復旧みたいなことをさせることができるのか、こういうことなのであります。つまりは、目には目をではないでしょうけれども、彼らのつらい気持ちというものを相手にぶつけるというわけにもいかないでしょう。では、そうなったときにはどうすればいいのかということなのであります。
そうなると、やはり少なくともこの犯罪被害者の人たちには、加害者という人たちが国あたりから得られるいろいろな意味での権利を、形を変えてそれと同じだけ重いものを我々は真剣に考えていく、そのことが大切なのではないかと私はしみじみと思います。
特に、犯罪を犯した加害者というのは、少なくとも反社会的行為を行ったのであるという厳然たる事実があるわけでありまして、そのことを我々が認識すれば、それと同じぐらいの重さの形のプロテクションというものを、これから先は、被害者、残された側にも与えるべきことを新しい我々の議論の中で提起すべきであると私は思っております。
この発言だけを見る →大きな人権の成り立ちとか、そういうたぐいのことはもう既に多くの方がおっしゃったので、私はむしろ、今我々がよく議論しています犯罪の被害者の人たちに関することについて一言だけ申し上げたいと思うんです。
それは、野田委員や船田委員も言及されましたけれども、明らかに常識的な市民が、加害者が得ると同等の権利というものを被害者が持っておるだろうか、すごくそれは疑問になるわけでございます。であるからこそ、このところ、実際に被害を受けられた法律の専門家の方あたりが中心になって、犯罪被害者はもっと法律によってプロテクトされるべきだという動きが大いに起こっていて、これは私は大賛成なのであります。
その犯罪被害者の権利に関しても、マスメディアからの保護とか、または、その人たちが物的、心的に前と同じような救済を受けられるのか。そんなことはあり得ないわけで、亡くなってしまった方をもとに戻すなんということは、これはもう当然できない。ならば、そこでなくなった穴を、では、どうやって我々がその残された人たちにより多くの権利を与えて、できる限りの現況復旧みたいなことをさせることができるのか、こういうことなのであります。つまりは、目には目をではないでしょうけれども、彼らのつらい気持ちというものを相手にぶつけるというわけにもいかないでしょう。では、そうなったときにはどうすればいいのかということなのであります。
そうなると、やはり少なくともこの犯罪被害者の人たちには、加害者という人たちが国あたりから得られるいろいろな意味での権利を、形を変えてそれと同じだけ重いものを我々は真剣に考えていく、そのことが大切なのではないかと私はしみじみと思います。
特に、犯罪を犯した加害者というのは、少なくとも反社会的行為を行ったのであるという厳然たる事実があるわけでありまして、そのことを我々が認識すれば、それと同じぐらいの重さの形のプロテクションというものを、これから先は、被害者、残された側にも与えるべきことを新しい我々の議論の中で提起すべきであると私は思っております。
鈴
鈴木克昌#27
○鈴木(克)委員 民主党の鈴木でございます。
きょうは、国民の権利及び義務ということでございますので、私もぜひ一言申し上げておきたいというふうに思うんです。
言うまでもありません、戦後六十年有余経過をして、憲法を制定した当時に想定されなかったいろいろな権利が発生をし、そしてまたそれが今社会の中で求められておる、認められておるというような、時代が変わってきておることは間違いないというふうに思います。新しい人権を憲法に書き込んでいくということは国民の人権の確保に有益でありまして、私は、憲法が国家権力を制限し国民の権利を守る基本法という意味からも、新しい人権というものを書き込んでいくのはその趣旨に合ったものだというふうに思っております。
一方、憲法が抽象性の高い最高規範であるということで、新しい条文を加えたり変えたりする必要はないという御意見もあるようでありますが、私は、そうではなくて、やはり新しいものを加えていかざるを得ないというふうに思っております。
具体的にどういうことかといいますと、例えば、先ほど鹿野委員もおっしゃったわけでありますが、環境権のようなものであります。日本国憲法は世界に冠たる平和憲法である、これは事実、私も認めます。しかし、平和だけではなくて、例えば世界に冠たる環境憲法であるというような、国民が誇れるような憲法にしていくということも私は必要だというふうに思っております。自然をたっとび、自然と協調して生きてきた日本人の環境主義というものの理念をやはりきちっとうたっていくべきではないかなというふうに思っております。
それからもう一つ、戦後の日本社会の各方面で、権利の裏にある義務というのが非常に希薄になってきたというふうに思っております。国家、社会、家族への責任や義務が軽視をされてきておるというふうに思います。
言うまでもありません、毎日のように、子供同士が殺し合うとか、親が子供をとか、子供が親をとかいうような状況が出ておるわけでありまして、やはりここで、個人の尊厳とか生命の尊厳とか人間の尊厳ということをもう一度きちっと憲法にうたって、そして国民共通の規範とすべきではないのかな、こんなふうに私は思っております。むしろそれは、義務ということではなくて、やはり権利という意味できちっと明記すべきではないかなというふうに私は思っております。
国民と政府が協力し合ってお互いに権利を守り合っていく、そういう国家をつくっていく、そのための基本的な契約といいますか、そういうものが憲法であるべきではないのかな、このように思っております。したがって、そういう意味で、新しい人権、そして権利というものをきちっと明記をしていく、そういう時代が今来ておるのではないのかな、このように思っております。
以上です。
〔枝野会長代理退席、会長着席〕
この発言だけを見る →きょうは、国民の権利及び義務ということでございますので、私もぜひ一言申し上げておきたいというふうに思うんです。
言うまでもありません、戦後六十年有余経過をして、憲法を制定した当時に想定されなかったいろいろな権利が発生をし、そしてまたそれが今社会の中で求められておる、認められておるというような、時代が変わってきておることは間違いないというふうに思います。新しい人権を憲法に書き込んでいくということは国民の人権の確保に有益でありまして、私は、憲法が国家権力を制限し国民の権利を守る基本法という意味からも、新しい人権というものを書き込んでいくのはその趣旨に合ったものだというふうに思っております。
一方、憲法が抽象性の高い最高規範であるということで、新しい条文を加えたり変えたりする必要はないという御意見もあるようでありますが、私は、そうではなくて、やはり新しいものを加えていかざるを得ないというふうに思っております。
具体的にどういうことかといいますと、例えば、先ほど鹿野委員もおっしゃったわけでありますが、環境権のようなものであります。日本国憲法は世界に冠たる平和憲法である、これは事実、私も認めます。しかし、平和だけではなくて、例えば世界に冠たる環境憲法であるというような、国民が誇れるような憲法にしていくということも私は必要だというふうに思っております。自然をたっとび、自然と協調して生きてきた日本人の環境主義というものの理念をやはりきちっとうたっていくべきではないかなというふうに思っております。
それからもう一つ、戦後の日本社会の各方面で、権利の裏にある義務というのが非常に希薄になってきたというふうに思っております。国家、社会、家族への責任や義務が軽視をされてきておるというふうに思います。
言うまでもありません、毎日のように、子供同士が殺し合うとか、親が子供をとか、子供が親をとかいうような状況が出ておるわけでありまして、やはりここで、個人の尊厳とか生命の尊厳とか人間の尊厳ということをもう一度きちっと憲法にうたって、そして国民共通の規範とすべきではないのかな、こんなふうに私は思っております。むしろそれは、義務ということではなくて、やはり権利という意味できちっと明記すべきではないかなというふうに私は思っております。
国民と政府が協力し合ってお互いに権利を守り合っていく、そういう国家をつくっていく、そのための基本的な契約といいますか、そういうものが憲法であるべきではないのかな、このように思っております。したがって、そういう意味で、新しい人権、そして権利というものをきちっと明記をしていく、そういう時代が今来ておるのではないのかな、このように思っております。
以上です。
〔枝野会長代理退席、会長着席〕
赤
赤松正雄#28
○赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。
私の方から、先ほど来お話が出ておるテーマですが、重ねて申し上げたいと思います。それは環境権の話でございます。
私は、一九四六年に制定された今のこの憲法というのは、すばらしいものを持った憲法である、非常に重要な役割を果たしてきた、こう思いますけれども、今、二十一世紀劈頭に当たって改めてこの憲法を見た場合に、一点、一点というかいろいろな意味で、きょうも、多少というか基本的な部分で見解がこの問題についても分かれておりますけれども、より国民的合意が得やすいと私が考えるテーマがこの環境権ではないか、こんなふうに思います。
それで、この環境権については、先ほど野田委員からの発言がありましたけれども、いわゆる新しい人権という格好で環境権を数えるというのは若干の誤解を呼ぶのではないかと思います。この調査会でもさまざまな学者の皆さんが参考意見を述べられる中で、いわゆる人権のインフレというふうなことを申された方がいらっしゃいますけれども、そういうことではなくて、むしろ、あえて誤解を恐れずに言うと、環境権は古い人権ではないのかという感じさえいたします。
つまり、忘れられている側面、かねて自然と共存してきた人間社会、とりわけ日本にはそういう側面が強いと思うんですけれども、今ここで新しく出てきたというよりも、もともとある、日本人が守ってきたそういう古い人権としての環境権といいますか、そういう側面。
それが、今、地球温暖化という大変な、地球全体が大きく直面している課題、これは人間だけではなくて、動物も含めた生きとし生けるものすべてに大きな挑戦として起こってきているこの地球温暖化という問題についてどう対応するかといったときに、先ほど来、環境権のことを憲法に入れるのはいかがかという御意見、よくわかります。
つまり、行政、立法、司法、こういう現行の法体系の中で、憲法にまで行く前の段階でいろいろやることは幾らでもあるじゃないかというふうな御意見もわかりますし、当然それはやっていかなければならないことだと思いますけれども、今、二十一世紀の冒頭で、こういう地球温暖化ということ、そして、地球全体が地球環境というものをしっかり守ろうという格好で機運が高まっている状況の中で、もし仮に一つだけ私たち日本国民が合意できる可能性がある、いろいろ意見が分かれている、なかなか大論争にこれからさまざまなテーマがなっていくと思いますけれども、一番急いで合意を得る必要があるし、また、それを得られやすいのがこの環境権の問題ではないかと思います。
例えば、一例具体例を申し上げますと、昨年は、極めて日本人にとって、私たちが住む日本国のこの環境について大きなる異変が起きた年、挑戦を受けた年、こんなふうな言い方ができるんじゃないかと思います。
それは台風の襲来というものに端を発したわけですけれども、簡単に言うと、川の異変、そして森の異変。川の異変と森の異変というのは、いろいろな意見が分かれるところですけれども、やはりここは、奥底に非常に深いものをはらんでいるというふうに私は思います。川の水位が下がってきている。かつて、奥山を大事にしてきた私たちの先達たちは、奥山を聖域として人間の手を入れるのを拒んできた。それが今どんどん破壊されている。
兵庫県と鳥取県の県境にある、大変に有名な氷ノ山のブナ林というのがあるわけですけれども、残念ながら鳥取県側はかなり破壊されてきた。兵庫の方もそんなに褒められた状況ではありませんけれども、かなりその辺の意識の違いというもので破壊の状況が違ってきているという、これは一例ですけれども、そういったことから川の水位が下がってきている。
つまり、杉やヒノキを植えている山が多い、森が多いということによって水の保有力は弱まってきているというふうなことから川に異変が起こり、森から哺乳類の大型動物が出てきているという現象も、単なる一時的な現象ではなくて、自然の大いなる警告である、こんなふうにとらえる見方が、少数でありますけれども厳然とあるといったふうなことも含めて、環境権という問題を、きちっと国民的合意を得られやすいテーマとして真剣に考えていく必要があるんじゃないか、そんなふうに思う次第でございます。
以上です。
この発言だけを見る →私の方から、先ほど来お話が出ておるテーマですが、重ねて申し上げたいと思います。それは環境権の話でございます。
私は、一九四六年に制定された今のこの憲法というのは、すばらしいものを持った憲法である、非常に重要な役割を果たしてきた、こう思いますけれども、今、二十一世紀劈頭に当たって改めてこの憲法を見た場合に、一点、一点というかいろいろな意味で、きょうも、多少というか基本的な部分で見解がこの問題についても分かれておりますけれども、より国民的合意が得やすいと私が考えるテーマがこの環境権ではないか、こんなふうに思います。
それで、この環境権については、先ほど野田委員からの発言がありましたけれども、いわゆる新しい人権という格好で環境権を数えるというのは若干の誤解を呼ぶのではないかと思います。この調査会でもさまざまな学者の皆さんが参考意見を述べられる中で、いわゆる人権のインフレというふうなことを申された方がいらっしゃいますけれども、そういうことではなくて、むしろ、あえて誤解を恐れずに言うと、環境権は古い人権ではないのかという感じさえいたします。
つまり、忘れられている側面、かねて自然と共存してきた人間社会、とりわけ日本にはそういう側面が強いと思うんですけれども、今ここで新しく出てきたというよりも、もともとある、日本人が守ってきたそういう古い人権としての環境権といいますか、そういう側面。
それが、今、地球温暖化という大変な、地球全体が大きく直面している課題、これは人間だけではなくて、動物も含めた生きとし生けるものすべてに大きな挑戦として起こってきているこの地球温暖化という問題についてどう対応するかといったときに、先ほど来、環境権のことを憲法に入れるのはいかがかという御意見、よくわかります。
つまり、行政、立法、司法、こういう現行の法体系の中で、憲法にまで行く前の段階でいろいろやることは幾らでもあるじゃないかというふうな御意見もわかりますし、当然それはやっていかなければならないことだと思いますけれども、今、二十一世紀の冒頭で、こういう地球温暖化ということ、そして、地球全体が地球環境というものをしっかり守ろうという格好で機運が高まっている状況の中で、もし仮に一つだけ私たち日本国民が合意できる可能性がある、いろいろ意見が分かれている、なかなか大論争にこれからさまざまなテーマがなっていくと思いますけれども、一番急いで合意を得る必要があるし、また、それを得られやすいのがこの環境権の問題ではないかと思います。
例えば、一例具体例を申し上げますと、昨年は、極めて日本人にとって、私たちが住む日本国のこの環境について大きなる異変が起きた年、挑戦を受けた年、こんなふうな言い方ができるんじゃないかと思います。
それは台風の襲来というものに端を発したわけですけれども、簡単に言うと、川の異変、そして森の異変。川の異変と森の異変というのは、いろいろな意見が分かれるところですけれども、やはりここは、奥底に非常に深いものをはらんでいるというふうに私は思います。川の水位が下がってきている。かつて、奥山を大事にしてきた私たちの先達たちは、奥山を聖域として人間の手を入れるのを拒んできた。それが今どんどん破壊されている。
兵庫県と鳥取県の県境にある、大変に有名な氷ノ山のブナ林というのがあるわけですけれども、残念ながら鳥取県側はかなり破壊されてきた。兵庫の方もそんなに褒められた状況ではありませんけれども、かなりその辺の意識の違いというもので破壊の状況が違ってきているという、これは一例ですけれども、そういったことから川の水位が下がってきている。
つまり、杉やヒノキを植えている山が多い、森が多いということによって水の保有力は弱まってきているというふうなことから川に異変が起こり、森から哺乳類の大型動物が出てきているという現象も、単なる一時的な現象ではなくて、自然の大いなる警告である、こんなふうにとらえる見方が、少数でありますけれども厳然とあるといったふうなことも含めて、環境権という問題を、きちっと国民的合意を得られやすいテーマとして真剣に考えていく必要があるんじゃないか、そんなふうに思う次第でございます。
以上です。
保
保岡興治#29
○保岡委員 私は、小泉総理が、靖国神社に行かれて英霊に対して哀悼の意を表されたり、二度と戦争をしない決意を日本のリーダーとして示される、これはやはり、どの国でも行っている当然のことだと思います。
この靖国神社に行くということについていろいろ議論もあるわけでございますけれども、私は、やはりその辺は、総理が行う、国家のトップが行うそういう行為について違憲だとか合憲だとか解釈が分かれるような憲法であってはならない、そういった意味で、この政教分離についてはもう少し明確な規定を置くべきだと。
例えば、国、地方自治体、その他の公共団体及びその機関は、我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、社会的儀礼あるいは習俗的行事とされる範囲を超えて、宗教的意義を持って特定の宗教を助長、援助もしくは促進、圧迫、あるいは干渉するような宗教活動をしてはならないと。また、そのような目的に基づいて宗教的活動を行う組織または団体の使用、便益、維持のために公金その他の公の財産を支出し、または利用させてはならない。八十九条の私学助成についての規定に疑義があるところを、この八十九条を廃止することとあわせて、宗教的な目的で公の財産を使用してはならないことをあわせ規定するようなきちっとした条文を憲法に入れるのは、非常に根幹的な大事な問題だ、そう思います。
それと、先ほど鹿野議員初め数人の先生からお話があった知的財産とか科学技術のことでございますが、日本がこれから活力を持って生きていくためには、やはり何といっても知的財産の保護あるいは創造、活用ということが決定的に重要だということを考えると、私は、世界一の知財立国という意味で、日本が世界にあるいは国民に強いメッセージを持ってこの知的財産の保護に関する規定の整備を憲法に置くことによって、これをめぐる施策の推進に国家を挙げて全力を尽くすという姿勢を示すということが大事だと思わざるを得ないところでございます。
それからもう一つ、先ほども述べましたが、多少敷衍させていただいて、教育の憲法上の規定でございますが、二十六条の権利や義務を決めるだけじゃなくて、私は、先ほど保利先生が言われた、前文にそれを書くのか、あるいは、別個、プログラム規定として教育の重要性や向かう必要性の基本を条文として起こすのか。
私は、やはり教育基本法、憲法というのは一体であると。なぜならば、平和主義、基本的人権主義、国民主権主義、こういった基本権を、我が国のシステムとして、そしてそのシステムを支える日本人のあり方として、いい秩序やいい状況をつくり出して幸せ、平和、平穏を確保していくということは、やはり、これはもうひとえに教育にかかっていると私は思います。
世界平和を求める、国がすぐれた国家として世界から信頼され、あるいはみずからも誇りに思えるような国家をもし日本が求めるならば、それもまた教育が決定的に重要な意味を持って、教育がしっかりしているからすべての制度が信頼される。どんなに国民主権主義を信奉しても、政府は信用できないという前提で国民がいろいろな施策を議論するというようなことは極めて不幸なことであって、私は、何に一番基本的な価値を置いてこのすばらしい国家や世界をつくっていくかといえば、それはやはり何といっても教育であると。
したがって、教育に関する前文あるいは条項を起こしてその重要性を憲法に位置づけるということは、非常に憲法改正において重要なテーマだと重ねて強調させていただきたいと思います。
この発言だけを見る →この靖国神社に行くということについていろいろ議論もあるわけでございますけれども、私は、やはりその辺は、総理が行う、国家のトップが行うそういう行為について違憲だとか合憲だとか解釈が分かれるような憲法であってはならない、そういった意味で、この政教分離についてはもう少し明確な規定を置くべきだと。
例えば、国、地方自治体、その他の公共団体及びその機関は、我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、社会的儀礼あるいは習俗的行事とされる範囲を超えて、宗教的意義を持って特定の宗教を助長、援助もしくは促進、圧迫、あるいは干渉するような宗教活動をしてはならないと。また、そのような目的に基づいて宗教的活動を行う組織または団体の使用、便益、維持のために公金その他の公の財産を支出し、または利用させてはならない。八十九条の私学助成についての規定に疑義があるところを、この八十九条を廃止することとあわせて、宗教的な目的で公の財産を使用してはならないことをあわせ規定するようなきちっとした条文を憲法に入れるのは、非常に根幹的な大事な問題だ、そう思います。
それと、先ほど鹿野議員初め数人の先生からお話があった知的財産とか科学技術のことでございますが、日本がこれから活力を持って生きていくためには、やはり何といっても知的財産の保護あるいは創造、活用ということが決定的に重要だということを考えると、私は、世界一の知財立国という意味で、日本が世界にあるいは国民に強いメッセージを持ってこの知的財産の保護に関する規定の整備を憲法に置くことによって、これをめぐる施策の推進に国家を挙げて全力を尽くすという姿勢を示すということが大事だと思わざるを得ないところでございます。
それからもう一つ、先ほども述べましたが、多少敷衍させていただいて、教育の憲法上の規定でございますが、二十六条の権利や義務を決めるだけじゃなくて、私は、先ほど保利先生が言われた、前文にそれを書くのか、あるいは、別個、プログラム規定として教育の重要性や向かう必要性の基本を条文として起こすのか。
私は、やはり教育基本法、憲法というのは一体であると。なぜならば、平和主義、基本的人権主義、国民主権主義、こういった基本権を、我が国のシステムとして、そしてそのシステムを支える日本人のあり方として、いい秩序やいい状況をつくり出して幸せ、平和、平穏を確保していくということは、やはり、これはもうひとえに教育にかかっていると私は思います。
世界平和を求める、国がすぐれた国家として世界から信頼され、あるいはみずからも誇りに思えるような国家をもし日本が求めるならば、それもまた教育が決定的に重要な意味を持って、教育がしっかりしているからすべての制度が信頼される。どんなに国民主権主義を信奉しても、政府は信用できないという前提で国民がいろいろな施策を議論するというようなことは極めて不幸なことであって、私は、何に一番基本的な価値を置いてこのすばらしい国家や世界をつくっていくかといえば、それはやはり何といっても教育であると。
したがって、教育に関する前文あるいは条項を起こしてその重要性を憲法に位置づけるということは、非常に憲法改正において重要なテーマだと重ねて強調させていただきたいと思います。